★習えば遠し 第1章 生活の中で学ぶ 第2章 生きる 第3章 養生ー心身 第4章 読 書 第5章 書 物
第6章 ことば 言葉 その意味は 第7章 家族・親のこころ 第8章 IT技術 第9章 第2次世界戦争 第10章 もろもろ

第5章 書 物

SOME BOOKS

☆その生涯において、何度も読み返し得る一冊の本を持つ人は幸せな人である。さらに数冊持ち得る人は至福のひとである。アンリ・ド・モンテルラン(Henry de Montherlant)(一八九六〜一九七二) フランス

 
目 次
01『ランチレター』 宮本 進 先生 02「日記の効用」 03祭 書 04『荘子』福永光司
05『人生についてー・日記・―』あとがき アミエル 06『慈雲尊者 十善法語抄』・人々光々(にんにんこうこう) 07禅修行者と人倫
ー明全和尚と道元禅師ー
08河合隼雄「老いる」とはどういうことか、ほか数編
09『禅語百選』松原泰道 10「亡国の笑い」 11「管鮑の交わり」と「刎頸の交わり」 12一冊の本を焼却する
13『死化粧』無料全文公開 渡辺淳一 14『日本語の年輪』 15三顧の礼 16『男の系譜』 池波正太郎
17『知の職人たち』ー辞書の編集関連ー 18『本のおくづけ【奥付】 19ロメオとジュリュリエット 20『老人と海』
21白 鯨・白鯨の元ネタは小説より 22『門』夏目漱石 23『米百俵』小林虎三郎 24『古城物語』南条範夫
25死ぬ時は死ぬがよし・『沈 黙』・『踏 絵』 26『紅葉する老年』 27『モリー先生との火曜日』 28『ノモハンの夏』半藤一利
29『白隠禅師健康法と逸話』直木公彦 30元海軍教授の郷愁ー源ない師匠講談ー 31うらなり先生ホーム話し 32サラリーマンの処世訓 Kクラレ広報部
33『鬼が来た 棟方志功』長部日出雄 34『白い航跡』吉村昭 35『櫻守』水上 勉 36『ルーヴルの戦い』
(徳間書店)
37『アンネの日記』(文藝春秋) 38『漢字の楽しみ方』辰濃和男 39熊山蕃山、海舟・鉄舟・泥舟、土井有挌
『新編明治人物夜話』森 銑三
40『言葉の海へ』高田宏
41『おけい』早乙女貢 42『にっちもさっちも』江國 滋 43『待秋日記』吉村正一郎 44Who are you? あなたは だれ?


ランチレター


 宮本 進/裕子著作『ランチレター』を紹介します。

 この本のはじめに宮本進先生が出版された動機を書かれています。

 お弁当を作るのは、土曜日と試験中や給食のない日くらいです。いつもきれいに食べてくださり、お弁当箱を洗ってあるのには感心していました。ある時から牛乳と果物を添えることにしましたが、それを職員室の冷蔵庫へ入れて、食べるのを忘れることもあるようでした。そこで紙片をしのばせることにしました。

 初めの頃の紙片は捨てていましたが、ある時から、手元にのこしておりました。私は日付も記入してないのですが、進さんがサインをして日付・時刻を記入しておられた。

 六十二年三月頃、大体の日付順に並べてみました。時候がほとんどですが、何だか宝物のように思えました。しかし、ノートに残すようになると、少々作意が感じられるのは否めません。

 メモ紙は進さんが「社(やしろ)」で勉強していた頃のもので、数式等が透けて見える紙片の裏側を使っています。進さんの身支度中に書いたものです。
このような形になると、少し気恥ずかしく思います。
    

                              裕子

▼いつの頃か、弁当の中に紙片が添えてあり、牛乳と果物を食べること、弁当箱を忘れずに持ち帰ることや、自然の移り変わりなどが簡潔に書かれていた。返事は不要のことであったが、つれづれなるままに書いたものが、残されていた。

 『続こころの軌跡』を出版しようとしていたとき、加計学園相談役・岡山理科大学講師山本正夫先生が、弁当の中に添えられていたこの紙片に目を留めてくださり、「是非、一冊のご本にしなさい」と、お勧めくださった。そこで、とりあえず『続こころの軌跡』の中に数編を載せることにしました。

 ところが、この本を読んでくださった方々から、ランチレターを「もう少し読みたい」との有り難いお言葉をいただき、妻と相談し、出版することにした。

平成十六年三月

                


★先生から巻頭の文章を依頼されて、次のような文章を書かせていただきました。

 この本の原稿を読ませていただき、「心の深い所で一致する」ご夫妻の結びつきの深さがすべてこの言葉に述べられているとかんじました。

 思いだしたのはギリシャ哲人の言葉でした。そして読み終わるまで頭から去ることができない内容でした。

 “Love is the re‐union of the two fragments of one soul.”(ギリシャ哲人の言葉)

 「愛は一つの魂の二つに分かれたものを再び一体化する」(黒崎訳)  

 「お互い心の深い所で一致するものが見いだせるからだろ思います。」(ページ一三八)と、書かれている文章に出合った時、この言葉に通ずるものを感じ、かねてご夫妻の言動に接している私の心は共鳴いたしました。

 奥さんの短い文章に、先生の考えを述べる、といった形式で構成されていますが、日常のお二人の生活での対話が拝察されます。

 ご夫妻がそれぞれ短い文に自分の考えを凝縮させて、奥さんが「ご主人の弁当をつくらせてもらう」(随所に述べられている)感謝の念、そして四季折々の思い、考えを書かれた先生へのレターは、先生に心静かな時間を与えられ、先生も弁当の味と同時に人生の味の意義を考えて誠実に対応しておられる。

 ご夫妻の文章の裏付けになるのは「見る、聞く、読む、そして考える」といった真摯な学習態度であり、日常の人間形成の究極への向上心である。その表出そのものであるとおもいます。

 円運動は出発点から一周すると元の点に帰る。しかし、ご夫妻の知恵を求めて精進の姿勢、哲学する心が、歳をかさねるごとに円熟度を増し、求める真理を目指して螺旋階段を上っておられる様子が、よみとられます。 読まれる方々は自分の生き方の示唆を受け取られると確信しています。

▼私は以前、高校に勤めていた時、次のようなことを文章にしたことがあります。

 お弁当三話

 その一 十人の中学生のお母さんが材料はまったく同じもので弁当を作り、中学生に自分のお母さんが作ったものをあてさせるテストをした。十人中九人あたった。ご飯の上にかける海苔の様子、ウインナソーセージを切った形・焼き方、おかずとご飯の間仕切り方、塩鮭の使い方などで判断していた。

 その二 高校生の昼食は大別して、学校食堂を利用するものと、家から弁当を持参するものとの二種類である。昼食時、家庭弁当の生徒は落ち着いてそれを開き、和やかな顔でいただいている。授業中の態度・行動も物静かで、情緒が安定して、交友関係も良い。

 その三 TさんKさんの会話

 Tさん「奥さんに一度もお会いしていませんが感心しています」

 Kさん「なぜですか?」

 Tさん「お弁当がすばらしい・・・。よろしくお伝え下さい」

 子供たちも大人に負けないくらい観察していると感心させられる。お母さんの手間をかけた弁当は感情を反映して、子供の行動・性格・交友にまで良い影響を与えている。

 家庭弁当でさえも以上のような影響があると感じていましたが、奥さんのようなランチレターまではいかないとまでも、お母さんが一言でも何か書き添えてたものがあると、どれだけ生涯にわたって良い種が生徒の心に蒔かれるだろうか、と。

▼この巻頭の言葉の結びとしてかきそえます。 「お互いにおめでとう。夢のような気がします。もう一度結婚するとしても、やはり君を選ぶ、と思います。お互いに元気で長生きしたいと思います。」 (ページ九九)

 ご夫妻の精神的なつながりを如実にご想像いただけるのではないでしょうか。
 奥様の多くのレターのむすびに「ごゆっくり」と、書かれています。みなさんも 「ごゆっくり」と味読されんことを願ってやみません。

平成十六年

黒崎 昭二

平成十六年十二月十日


▼ヒルティ『眠られぬ夜ために 第一部』の「ヒルティの生涯と著作」について草間平作氏(訳者)が書いていました。

 ヒルティがどんなにこの夫人(奥さん)を愛しかつ尊敬したかは、彼の言葉からハッキリ知ることが出来る。

 「もし来世というものがあるならば、私は私のものであった一人の女性のほかには、かって地上で相識ったどんな人とも、無条件に、そして切実に再合したいとは思わない。これは彼女が私の最善の一部を形づくっていたことの証拠であって、彼女の死後、この本体はもはや完全でない。

 また夫人解放の可能性を信ずる勇気を得、婦人参政権運動に同情し、そのために尽力するようになったのも、主としてこのすぐれた夫人の生活を知ったからだと、彼自身告白している。

 宮本 進先生の奥様にたいする言葉を思い、追加いたしました。

平成十九年三月十九日


日記の効用


 私は日記を書き続けている。気力が充実しているときは日記も気持ちよくかけて、内容も明るい。反対に気分が滅入っているときとか健康に不安があるときには精神状態がそのまま反映されて暗いものになっている。ひどいときは書くのを忘れることさえある。

▼ノイローゼに罹った人たちの療法のひとつに「日記指導」が取り上げられている。「生活の発見会」が森田精神療法を理論的な基礎として採用している。内容は不安・悩みに取り付かれてこの会に入った人が先輩の会員に自分の書いた日記を提出すると早速、赤ペンで書かれたコメントが戻る仕組みになっている。この会に入って不安を解消できた人がたくさんいるようである。(日本経済新聞)

▼書くことは勿論のこと何もすることもできなくなるまでに心が弱まることさえある。自分では仕方のない不安材料だけを繰り返し思って沈んでいる。こんなときこそ自分の精神状況とか毎日の生活での出来事を書き始めれば心は徐々に安定回復に向かう。自分を奮い立たせるために日記を書いている人もたくさんいると思う。ハガキ通信、一年続きました。

昭和六十三年十月一日


祭 書


 年の瀬に関係した祭書の話しを紹介します。毎年の年末、一年中に得た書物を祭壇にそなえ、友人と詩をつくりあって祝福した人がいます。

▼中国の清時代の黄丕烈(こうひれつ)(一七六三〜一八二五)がその人です。彼は科挙試験合格者(現在の日本では国家公務員試験一種の行政職合格者に相当)であったが役人にならず書物きちがいとして一生を送りました。彼は中国の書物の古版をあつめるばかりでなく、そのあるものをもとの版式どおり復刻した人であり清朝の蔵書家として第一人者でありました。蔵書家である友人たちが集まり、書を祭り、詩作をし、古版をひもときながら年末のひとときを過ごした様子をおもうと最高の贅沢を楽しんでいたようににおもえてきます。できればこんな余裕を持ちたいものです。

▼私も十二月には一年間の日記を調べながらその年に買った本の書名、購入月日だけをリストアップしています。本との出会い、その本とのつき合いなど人間関係に似ているように感じられます。積極的に本に打ち込めば打ち込んだだけ応えてくれるようです。

昭和六十三年十月一日


福永光司『荘子』 あとがき


 荘子 福永光司(朝日新聞社)昭和31年2月10日 第一刷 昭和39年第3刷が私の手元にある。ちょうど約半世紀の昔に買ったものであろう。わずかな書き込みと傍線が引かれているところから、一度は目を通したと思える。

▼今回、2度目、この本を読むことになった。前書きから少しずつ読み始める。私が先生の本をどれほど読めるかわかりませんが、自分なりに読みいと思っています。
 この戦争の終盤に海軍の生徒であった私には、多くの先輩が学業を放棄し戦地に赴き、死と対面されたかたがたの心情に量り知れない共感を覚えるものです。
 「私は戦場の暗い石油ランプの下で、時おり、ただ『荘子』をひもときながら、私の心の弱さを、その逞しい悟達の中で励ました。明日知れぬ戦場の生活で、『荘子』は私の慰めの書であったのである。」とかかれている。私は先生にとっての『荘子』の研究が、いわゆる学窮的知識が生きる智慧まで高められたられたのでないかと感じます。 

▼『修証義』に述べられています「無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停(とど)め難し。」と述べられています。現在、難病に苦悩されている人、また家族の方々も、またこの著作で少しでも何かを見つけられるのではないでしょうか。

 このあとがきで私が特に共鳴したところは太字の赤色にしました。


 福永光司『荘子』 あとがき

 私がシナ哲学に興味をもち、この学問を専攻しようと決心したのは、『荘子』という書物のあることを識ってからであった。だから私は、この書物がなかったならば或はシナ哲学など専攻しなかったも知れない。然し私にとって『荘子』は私の学問研究の対象であると共に、それ以上のものでもあった

 私は昭和十七年の九月に大学を卒業したが、卒業と同時に兵隊に徴集され、約五ヶ年間の軍隊生活を私の青春を過ごした。そして太平洋戦争も末期の玄界灘を渡り、東シナ海を越え、大陸の戦場で絶望的な戦いを彷徨したが、生来強健な私の肉体は、“臂(うで)をその間に攘(ふ)った支離疏(しりそ)の幸運にも恵まれず、生来怯懦な私の精神は、“妻の死を前にして盆を叩いて歌った荘子”の諦観にも程遠かった。私は今思い出しても恥ずかしいほどの蒼ざめた恐怖を輸送船に載せて内地を離れたが、その時、私が嚢底(のうてい)に携(たずさ)えて海を渡った書物は、『万葉集』と、ケルケゴールの『死に至る病』と、プラトンの『バイドン』と、この『荘子』であった。私は『バイドン』に霊魂の救いと慰めを、『死に至る病』に不安と絶望の癒(い)やしを、『万葉集』に生の歓喜と安らぎを期待したのであったが、戦場の炸裂(さくれつ)する砲弾のうなりと戦慄する精神の狂躁とは、私の底浅い理解と共に、これらの叡知と叙情とを空しい活字の羅列に引き戻してしまった。私は戦場の暗い石油ランプの下で、時おり、ただ『荘子』をひもときながら、私の心の弱さを、その逞しい悟達の中で励ました。明日知れぬ戦場の生活で、『荘子』は私の慰めの書であったのである。

 終戦に一年おくれて再び内地の土を踏んだ私の生活は、荒れ果てた祖国の山河よりも、なお荒涼としていた。然し私は、もう一度学究としての道を歩こうと決意した。再び郷里を離れるという私を見送って、年老いた父が田舎の小さな駅の冬空のもとに淋しく佇(たたず)んでいた。私はその淋しい姿を去り行く汽車の窓に眺めながら、学問とは悲しいものだと思った。その父の悼ましい急死が、五年間の空白を旅先の学問の中で戸まどっている私の無気力と怠惰を嘲笑したのは、昭和二十六年五月のことであった。変わり果てた父の屍の手をとりながら、私は溢れ落ちる涙をぬぐった。私の半生で一番みじめな日であった。黄色く熟(う)れた麦の穂波の中を火葬場の骨(こつ)拾いから帰りながら、私は荘子の「笑い」の中に彼の悲しみを考えてみた。打ち挫(ひし)がれた私は南国の五月(さつき)空を仰いで微笑みを取り戻した。私にとって、『荘子』はみじめさの中で笑うことを教えてくれる書物であった

 父の死と共に始まった京都から大阪への高校勤めは、健康に恵まれた私にとっても楽(らく)なものでなかった。然し沿線に立ち並ぶ家々や打ち続く森や林を尻目にかけながら、ごうごうとひた走る急行電車の四十分は、私の心に何か爽(さわ)やかなものを感じさせた。それに若い世代の溌剌とした夢と希望が、私の喪われた青春を蘇(よみが)えらしてくれた。私は与えられた境遇の中で、自己の道を最も逞(たくま)しく進んでゆくことを考えた。荘子の高き肯定には遠く及ばぬながらも、私の心には何か勇気に似たものが感じられるようになった。私にとって『荘子』は、精神の不屈さを教えてくれる書物でもあったのである

 私のこのような『荘子』の理解が、十分に正しいという自信は、もとよよりない。然し私の理解した『荘子』を説明する以外に、如何なる方法があり得るというものであろうか。字句の解釈や論理の把握で、誤りを犯した部分は人々の教えによって、謙虚に改めてゆきたいと思っている。ただ然し私としては、私のような『荘子』の理解の仕方もあるということを、この書を読まれる方々に理解して頂ければ、それで本望なのである。そしてもし、死者というものに、生者の気持ちが通じるものならば、私は没(な)くなった父にこの拙い著作を、せめてものお詫びとして、ささげたいと思う。

 昭和三十年十月一日

洛東北白川の寓居にて、
福 永 光 司


土井寛之 訳 アミエル 『人生についてー・日記・―』あとがき


 この本の復刻版(白水社)から

   訳者あとがきの終わりの部分に私は引かれる。

▼「私にとって、アミエルの『日記』は、そして岩波文庫の、あの河野与一訳の八冊本は生涯忘れることのできない本である。昭和十五年のはじめから昭和十八年の八月まで、私は中国の山西省の奥深い山地を一兵卒とし、下士官として転戦したが、その間私が肌身離さず持って歩いたのが、この八冊の岩波版のアミエルであったからだ。

たぶん私は、慰問袋に入れて一冊一冊と送ってもらったものと思う。しかし最後には八冊になってかなりやっかいな荷物になったが、この本だけは捨て去るにしのびなかった。日々死の危険にさらされている、というほどに緊迫した生活の連続だったわけではないが、希望のない生活の連続だったという点では、あの三年半の私の心を慰めてくれたものが、この苦渋にみちたアミエルの本であったということは、いま考えてみるとおかしな気がするが、おそらく私は毒をもって毒を制したのであろう。

▼いま私の机上には、二十数年前に、私といっしょに中国の山地を走り回ってくれた、ぼろぼろになった岩波アミエルの八冊本が載っている。隊長の携帯許可印も薄れてしまった。私は青く澄みきった中国の空の下でおこなわれた戦闘の日々を思い出しながら、感慨にふけっている。」
         一九六四年十一月
                     土 井 寛 之

▼福永光司『荘子』 あとがき と同じく、先の戦争で戦った学究の人たちが戦闘にあり、なんどきでも生死にさらされながら自分の学問に打ち込んでいた諸先輩の生き様には、平和な時代に生きている私に表現のできない畏敬の念にとらわれる。

 私は本を読むときには、「まえがき」とか「あとがき」また、解説などほとんど読まずに本文だけを読んでいた。著者の意図、内容を知るためにもできるだけこれらを読んで参考にするのがよいと、現在は感じている。

参考:アミエル


★土居 寛之(どい ひろゆき、1913年12月17日 - 1990年8月6日)は、フランス文学者。

大分県杵築出身、東京生まれ、1939年東京帝国大学仏文科卒、1944年外務省嘱託、1950年埼玉大学助教授、1963年東京大学教養学部教授、1967年東洋大学教授、1970年福岡大学教授、1985年退任。 父は杵築町長を務めた土居寛申(ひろみ、1882-1965)。 サント=ブーヴ、アミエルなどを研究し、東大仏文科で立花隆にアミエルを教え、立花が「四十近くまで童貞なんてことがあるもんでしょうか」と問うと、「そりゃ、ありますよ」と答えたという。

平成十九三月二十一日 春の彼岸の日


『慈雲尊者 十善法語抄』・人々光々(にんにんこうこう)


編 者 寺田精一 『慈雲尊者 十善法語抄』

   序     森 信三

 日本仏教の素地は、一応、奈良・平安の二期に為されたとはいえ、やがて天台・真言の二教に開花したともいえようが、しかしそれが真に「日本仏教」として結実するに至ったのは、鎌倉期に入り道元・親鸞・日蓮等という巨匠の輩出によって、真にその結実を見たと云うべきであろう。同時にこのような見方は、多少とも日本仏教に関心をもつほどの人なら、ほとんど何人も異論なき処といえるであろう。

 だが、如上の一般的見解に対して、多少とも異論とも云うべき見解があるとすれば、それは梅原猛氏などが、弘法の偉大さとその独創性を力説するのと、今一つ柳宗悦氏が、一遍の信仰が親鸞から更に一歩を進めたたと云える点を力説されるが如き、いずれもそれゞ独自の創見として傾聴に値いすると云えるであろう、しかし日本仏教を真に大観する時、如上鎌倉仏教を以って、日本仏教の一応の結実と見る見解は、大観的には何人もほゞ異論なきものと言ってよく、それに対しては私自身といえども根本的には何ら異論を唱えようとするわけではない。

 だがそれにも拘らず、私としては如上の見を以って、日本仏教に対する真に十全な考えとして、何らの異論も無きかというに、必ずしも如上を以って、間然する処なきものとはし難いのである。ではその外に一たい何を言おうとするかと自らに問うことにより、私としてはその真価の未だ一般的には認識せられるに至っていない今一人の巨人を、日本仏教史上最後の巨人として提起せざるを得ないのであり、これぞ他ならぬ葛城の慈雲尊者その人に他ならない。

 では、何ゆえ如是の言を為すのであろうか、それは一言にして尊者こそは、日本仏教最後の集大成者と云うべき人だからである。なるほど、道元にしても親鸞にしても、はた又日蓮にしても、日本仏教の最盛期たる鎌倉仏教の巨匠として、そこにはそれゞ空前の絢爛たる宣教の開花が見られ、随ってこれらの人々は、それゞの宗派の開祖として立宗開教が為され、今に到るもそれゞ宗派の団結力によって、それが維持せられてある現状であろう。

 然もそれらの宗派は徳川時代に入るや、徳川期は周知のように儒教時代であって、民族の英俊は挙げて儒教に没頭し、為にあれほど盛んだった鎌倉仏教も、今や一部少数の英俊を除いては――例えば白隠ないし蓮如の如き――寥々として見るべきものなく、いたずらに各宗派の残骸の中に、同党異伐に明け暮れていたのである。然るにこのような仏教の極度の衰退期に起って、日本仏教の最後の集大成をを試みたというよりも、むしろ真の眼睛を点じたものこそ、実に慈雲尊者その人に他ならぬのである。しかも尊者がこのような歴史的偉業を果遂せられたのは、尊者が享保の生まれであって、徳川の中期に出現せられたという因縁も、その一因と云えるであろう。

 以上極めて粗略な概観によって、一応尊者のわが国仏教史上に占めるべき位相を大観したのであるが、では一歩を進めて、尊者の仏者としての特色は一たい何れにあるというべきであろうか。この点に関して私はかって言うたことがある。それは今道元、親鸞、慈雲の三大巨匠が、現代という時代にもし生きていられたとしたら、私は一たいどの人に弟子入りするであろうか――との問いである。それに対して私は、色いろと思案し尽くたあげくのはて、遂に慈雲尊者の膝下に参ずるであろうと

 ではその故如何というに、道元の道は周知のように「只管打坐、以って仏になるべし」とせられ、また親鸞は「わが身を地獄一定の身と観ずることによって仏に救わるべし」というのである。然るに私自身は凡愚の一人として、道元の高きに従いえず、さりとて、又親鸞の深さにも到り得ずして結局、「人と生まれた以上はせめて人間らしい人になれよ」と教えられた慈雲尊者の大慈悲の前に首を垂れるのである云々と

 同時に今一つわたくしは、道元の「正法眼蔵」を以って一箇絶大な水晶球――「一顆の名珠」が天高く浮んで白雲の悠々たる去来を映すものとすれば、慈雲の主著「十善法語」はかかる絶大なる水晶球が、地上三尺の高さまで下降して、人畜草木等はいうに及ばず、地上に匍匐しているみみずや蟻の姿なども映じているにも比せられようか。しかもわたくしが如是の大胆極まる比喩をあえて為し得るのは、ひとえに両書の表現に宿るいのちの格調の高さによるものである。

 慈雲尊者について言うべき事はこの他にも多々あるが、今はそれらについて言うべき場処ではあるまい。よってここには、端的にこの書について一言するに止どめたい。それというのも尊者には全十九巻に上る「全集」があるが、しかし「梵学津梁」一千巻を除き邦文の著述としては、「十善法語」が主著たることは何人も異論なきところである。では、ここに公にせられた「十善法語」抄と主著「十善法語」とは、いかんの関係にあるかというに、主著「十善法語」は実に見事な仮名交り文であって、当時はもとより尊者の没後も永く心ある人々に読まれたばかりか、明治期に入ってからも数種の活字本が出て広く行われているのである。然るにここで問題なのは、この書は上記のように実に見事な流麗な和文ではあるが、一つ困る事は、その中に、おびただしい中国の歴史的な事例や逸話等の挙げられている点であって、この点は儒教文化の全盛期たる徳川期には何らの支障でなかったばかりか、大いなる強みであったであろう。然るに明治以後、西欧文化の浸透している現代の日本人とっては、可成りな勤学篤信の士すら、それには親しみにくい憾みがあるわけである。

 然るに篤学寺田精一氏は深くこの点を憾みとし、遂に「十善法語」の原文中より、如上中国の歴史的事例の引用の箇所をことごとく削除し、純粋に尊者の教説のみに改編せられたのである。かくして寺田氏のこの努力により、慈雲尊者の精神は見事に現代への「再生」を遂げたというべく、私としては近来これほど大いなる欣快事はないといってよい。それというのも、これまで仏教書中に、所依の唯一経典としていうべきもの々無かった私であるが、今やこの一書の出現により、文字通り日夜繙きうる経典が恵まれたわけで、これをしも欣びとせずして何を以ってか真の欣びと云うべきであろう。

 そのかみ私は、慈雲尊者が道元親鸞等の祖師に比しても、その真価の毫も遜色なきことを証するものとして、「十善法語」を「正法眼蔵」及び「教行信証」と比較しても、その格調においてその間寸毫の差等の見られないことを身証すべきだといったことがある。するとそれを聞かれた山県三千雄教授は、「それどころか、慈雲は道元親鸞に比して、日本仏教を近代化した点では、一歩を進めたとともいえましょう」といわれて、私も思わず眼の鱗のとれた思いがし、流石に現代おける隠れた真の碩学の言と痛感したしだいである。教授が慈雲を以って日本仏教の近代化とせられるのは、道元・親鸞では仏が主たる関心事だったのに対して、慈雲にあっては、仏知に照らされた「人間」こそが、その中心首座におかれているが故であって、この点は「十善法語」の全巻に漲り溢れているといえよう。そしてそれは最端的には、私が秘かに「日本人の心経」と称している、「人となる道略語」によっても証せられるであろう。


編者の(後記)

▼わが国の生んだ偉大な」高僧として、道元・親鸞・日蓮の名は、世間周知の処でしょうが、徳川中期において、その隠れた光芒を放つ慈雲尊者のおん名さえご存知ない方は、多分に多いのではないかと思われます。巷間かねてより尊者揮毫のご書籍の高雅凛然たる風格について、その尊名をご存じのお方以外、ほとんど所知無きに等しいというのが、いつわざる所と存ぜられます。不肖わたしもその一人で、今」より十数年前、師森信三先生に処遇を得、そのご講筵の末席に侍りまして始めて慈雲尊者のご高名に接しましたわけで、詳しくは尊者ご陰棲の高貴寺に、同士と共にご案内たまわりました時にその端を発するわけであります。爾来今日まで慈雲尊者のご高徳について、森先生の明晰な認識とご敬仰の只ならぬものを屡々拝聴し今日に至りました次第であります。それ故、学徳兼備いたらざる隈なき尊者についてその眼を開かしめられたのは、ひとえに森信三先生の五体にひびくご高説の賜以外の何ものでもございません。よって仍っていま茲に慈雲尊者に関する森先生のご口述の一部を列記するのが、何より至便と存ずるわけであります。

○ わが国の全仏教史上、わたしの一番好きなお方は、葛城の慈雲尊者です。その理由の一つは、尊者の人間的資質が、道元、親鸞とくらべても、毫も遜色がないと思うからです。そしてその尊者の「十善法語」のもつあの高朗なリズムは、道元の「正法眼蔵」に比べても毫も遜色が感ぜられない一事によって明らかです。

〇 道元の高さにも到り得ず、親鸞の深さににも到り得ぬ身には、道元のように「仏になれ」とも言われず、また親鸞のように「地獄一定の身」ともいわれず、ただ「人間に生まれた以上は人らしき人になれと」と教えられ葛城の慈雲尊者の、まどかな大慈悲心の前に、心から頭が下がるのです。

〇 道元の「正法眼蔵」の世界を、かりに絶大なる水晶球が天空高く懸かるものとすれば、慈雲尊者の「十善法語」の世界は、そのような絶大なる水晶球が、地上二、三尺の処まで下降して、地上の万象を、ことごとく映現して止まぬ趣があるとも言えましょう。

〇 「十善法語」こそ、道徳と宗教が渾然として融和一体なるを感じます。かねてより学問本来のあり方としてわたくしが提唱する「全一学」の偉いなる一円相が、ものの見事に結晶せしめられているわけで、中江藤樹・石田梅岩・二宮尊徳と共に、全一学に生きられた偉大なる高僧なのです。それにつけても「慈雲尊者こそ日本仏教近代化の祖である」とは山県三代雄先生のお言葉ですが、さすがにと頷かざるを得ません。

▼以上、慈雲尊者について師説の一部をご披露したわけですが、このご明言によって、慈雲尊者その人についてこれ以上何を付言する必要がございましょう。今わたしは師説のすべてを領解納得するより他ございません。処がまことにお恥ずかしい事ながら、かかる明徹なご所見に接しつつ、何らの疑義をさしはさむわけでなくとも、また心の底から諒得するに至らなかった事を告白せざるを得ません。

 それがはからずも、此のたび「十善法語」抄を編纂するに至りましたのも「十善法語」のもつ澄明凛乎にして清趣尽きないリズムの格調に触れ得た感を抱きました事と、そのすべてが一顆の名珠の名句として、天空におのが心地を照らし、戒慎清浄たらしむる唯一聖典たることを信解するにいたりました。そこで森信三先生のご推輓を得まして、まことに愚昧劣器のわたくしが、不徳低下をかえりみず、その掌に当たらせて頂いたわけであります。

 例によって語録風のまとめのため、折角のご法語を切り取って前後裁断のきらい無きにしもあらずと思われますが、出来る限りの留意と配慮をはかりました事を、ご諒察の上ご寛恕頂けましたら幸せです。(以下略)

平成二十年一月十七日

追加:「天地をもって、わが心とせば、いたるところ安楽なり

磯田道史 のこの人、その言葉 慈雲(1718〜1804)

 追加の言葉は「 慈雲尊者短編法語集」にある言葉。日やは下を照らすが自分の恩恵としない。山や川は生きとしていけるものを育むが自分のものにはしない。そういう天地のようなひろい気持ちになれば、案外、人間は楽に暮せる。そう説いている。

朝日新聞2009.7.11より。


人々光々(にんにんこうこう)


 寺田一清氏(1927〜)が主宰の読書会(岸城読書会)が森信三先生の名著『修身教授禄』を会のテキストとして回を重ねて平成十五年七月、二〇〇回を迎えた。そのとき会員だけに限らず、全国各地の道縁につながる方々に呼びかけ記念の「文集」を思いたち計画をすすめ完結発行されたものです。

文集の正式な書名は「『修身教授禄』に学ぶもの・人々光々(にんにんこうこう)・岸城読書会 二〇〇回記念文集」。
巻頭にはご高名の小島直記先生の序が述べられています。

二三六名の多くの寄稿された方々のなかの一人として私もくわえさせて頂きましたのでその内容を披瀝いたします。P.70

何としても教育とは、結局人間を植えることであり、この現実の大野に、一人びとりの人間を植え込んでいく大行なのである。 (修身教授禄のなかの言葉)

 『修身教授禄』の昭和十二年の講義の中で「人を植える道」を読んだとき、これこそ教育の真髄だと思った。
 森信三先生は、学校教育後の方法について、真の人間を植えるには、有為の少年を選んで、これに正しい読書の道を教え、それによって各々の職分において、一道を開くだけの信念を与えなければならぬ。さらに有志の青年たちの読書会を設けることでしょうと提唱されています。

▼学校に限らず、企業いや国においても人を植えることは最大の課題である。教育を受ける者はもちろん勉学しなければならないが、同時に教える側にはさらなる修業が求められるものだと思います。

ふりかえりますと、私が勤めていた会社で昭和五十八年末、社員教育を目的とした研修所が再開され、中堅社員約五十名が選抜され、その担当に任命されました。第一期生の入所式にあたり、彼等の生涯の指針となることを念願して「自学自得無息」を基本理念として選びました。森先生の教えを少しでも実行しようと、月に一度の「自学自得ハガキ通信」で研修生、実践人、知人たちと交流を重ねております。

平成十七年一月十日:成人の日


★講述〈あ・す・こ・そ・は〉の教え

 あいさつ…人より先に自分から。

 すまいる…笑顔に開く天の花。

 こしぼね…立志と立腰。性根を養う極秘伝。 

 そうじ…「場」を清め(心)を清める。

 はがき…こころの交流、ご縁の持続。


★『ミニ・読書会のありかた』

 私どもの志向する読書会は、単に読書によって、新たな知識や情報を獲得するのが目的でなく、あくまでも「人間の生き方の探究と実践の学びにあるからです。」           


禅修行者と人倫ー明全和尚と道元禅師ー


 あっ! 自分の記憶していたこととちがう

    「恩愛の情をたちきる」(板橋興宗 『良寛さんと道元禅師』生きる極意)を読みはじめたときの率直の思いでした。

 「道元禅師は、師とも先輩とも仰ぐ明全和尚と、中国留学の旅に出るべく希望に胸をふくらませていた時に、一つの大きな問題が出てきた。」との文章である。

▼私は『正法眼蔵随聞記』を読むのが好きで、繰り返し読んでいる

 明全和尚が中国留学の記事を(岩波文庫)をよみとっていませんので少し長いが引用します

 「示して云わく、先師全和尚、入宋(につそ)せんとせし時、本師の明融阿闍梨(みやうゆうあじゃり)重病おこり、病床にしづみ既に死せんとす。其の時かの師云く、我既に老病起こり死去せんこと近きにあり、今度暫く入宗をとゞまりたまひて、我が老病を扶けて、冥路を弔ひて、然して死去の後其の本意をとげらるべしと。時に千師弟子法類等を集めて議評して云く、我れ幼少の時、双親の家を出て後より、此の師の養育を蒙ていま成長せり。其の養育の恩最も重し。亦出世の法門権実(ごんじつ)の教文、因果をわきまへ是非をしりて、同輩にもこえ名誉を得たること、亦仏法の道理を知りて今入宗求法の志を起こすまでも、偏に此の師の恩に非ずと云うことなし。然るに今年すでに老極(ろうごく)して、重病の床に臥(ふし)たまへり。余命存じがたし。再会(さいえ)期(ご)すべきにあらず。故にあんがちに是を留めたまふ。師の命もそむき難し。今ま身命を顧みず入宗求法するも、菩薩の大悲利生(だいひりしょう)の為なり。師の命を背いて宋土に行ん道理有りや否や。各の思はるゝ処をのべらるべしと。時に諸弟人人皆云く、今年の入宋は留まらるべし。師の老病死已に極れり。死去決定(けつじょう)せり。今年ばかり留まりて明年入宋あらば、師の命を背かず重恩をもわすれず。今ま一年半年入宋遅きとても何の妨げあらん。師弟の本意相違せず。入宋の本意も如意なるべしと。時に我れ末臘にて云く、仏法の悟り今はさてかふこそありなんと思召さるる儀ならば、御留り然あるべしと。先師の云く、然あるなり、佛法修行これほどにてありなん。始終かくのごとくならば、即ち出離得度たらんなかと存ずと。我が云く、其の儀ならば御留りたまひてしかあるべしと。時にかくのごとく各々の総評して了(をはり)て、先師の云く、おのおゝ評議、いづれもみな道理ばかりなり。我が所存は然あらず。今度留りたりとも、決定(けつぢやう)死ぬべき人ならば其に依て命を保つべきにあらず。亦われ留りて看病外護(げご)せしによりたりとも苦痛もやむべからず。亦最後に我あつかひすゝめしによりて、生死を離れらるべき道理にあらず。只一旦命に随て師の心を慰むるばかりなり。是れ即ち出離得度の為には一切無用なり。錯(あやまつ)て求法の志しをさえしめられば、罪業の因縁とも成ぬべし。然あるに入宋求法の志をとげて、一切の悟りを開きたらば、一人有漏(うろ)の迷情に背くとも、多人得度の因縁と成りぬべし。この功徳もしすぐれば、すなはちこれ師の恩をも報じつべし。設(たと)ひ渡海の間に死して本意をとげずとも、求法の志を以て死せば、生生(しゃうしやう)の願つきるべからず。玄奘三蔵のあとを思ふべし。一人の為にうしなひやすき時を空しく過ごさんこと、仏意に合(か)なふべからず。故に今度の入宋一向に思切り畢りぬと云て、終に入宋せられき。先師にとりて真実の道心と存ぜしこと、是らの道理なり。然あれば今の学人も、父母の為、或は師匠の為とて、無益の事を行じて徒(いたづ)らに時を失ひて、諸道にすぐれたる仏道をさしをきて、空く光陰を過ごすことなかれ。(以下略:お読みください)

 以上の文章から私は中国に留学したのは明全和尚のみと、読み取って記憶していたのです。

 (板橋興宗 『良寛さんと道元禅師』生きる極意)の本にきろう。

 「・・・明全和尚は堂々と心情を披瀝し、道元禅師と手に手を取り合って、波濤万里の旅に出かけることになったのである。

 その後、明融阿闍梨は淋しく息をひきとったことは言うまでもあるまい。だが運命とは不思議である。両人が宋の国に渡り、高名な寺々をまわり、やっと希代の宗匠、天童如浄禅師にめぐり合い、道元禅師が全身全霊を傾けて修行にはいるころ、一方の明全和尚はは同じ天童山の一室で病気のため淋しく息をひきとってしまう。時に四十二歳であった。雄図むなしく修行なかばで異郷の空に斃(たお)れた明全和尚の痛恨さを思うとき、一掬の涙を禁じ得ない。

▼さらに不思議なことに、道元禅師が如浄禅師のもとで心身脱落し、積年の大疑を解消し、日本に帰って一年もたたぬうちに、恩師如浄禅師は亡くなってしまう。

 もしあの時、明融阿闍梨の看病のために、旅立ちが遅れたとしたら、両人は如浄禅師に会うことが出来なかったかも知れない。如浄禅師にめぐり会えない道元禅師に、心身脱落の時節はあり得なかったにちがいない。道元禅師に心身脱落のの転機がなければ、現在の永平寺も総持寺もない。仏教界はもちろん、日本の精神文化も今とはちがったものになっていることは確かである。

 してみれば、あの時、恩愛の情を断ち切って旅に」出るか、出ないかは、日本の歴史に重大な影響を及ぼすきわどい選択であったと言える。」と板橋興宗禅師は深い思いを述べられている。P.212


参考1:この思い違いは、里見 惇著『道元禅師の話』によると、明全和尚は道元、ほか随伴者二人と宋の国に向かっている。作家は(1888−1983)。
参考2:永平道元年賦によると
1217年(17歳)8月25日、建仁寺に入り、明全に参ずる。
1223年(23歳)2月22日、明全とともに京都をを発ち、入宋の途につく。 

平成二十年一月二十一日


河合隼雄:「老いる」とは どういうことか』の数編
『日本人とアイデンティティ』


 題名はこの本に載っていた二人の対談である。

 「老い」をめぐって――多田富雄さんと この本の最後に取り上げられていた項目です。

▼勉強になった記述を対談方式で記述します。

 1、老いにコースはないP.252

   河合:普通の医学的な本を読みますと、なんとなくどんどん悪くなって死ぬということがあまりにもパター化されていまして、救いがない感じがするんです。

 多田:免疫は伝染病に対する抵抗力のような形でみとめられますが、ほんとうは自分以外のものが体にはいってきたときにそれを排除するという反応です。ちょど脳と同じように、自分と他人を区別するシステムということになります。それが老化に従って低下するので、老人の死因の大半は最終的に感染症になるわけです。

 そういうことで免疫系の老化について調べたんですが、それまでは、老化に伴ってだんだん免疫機能がおしなべて下がっていくと言われていたんです。
 ところが実際に調べてみると、ある機能は早くから下がるし、ある機能はかえって突出して高くなるというように、アンバランスに起ってくることがわかりました。だから、老いというのは全体として決められたコースをたどるんじゃなくて、ある人ではある機能がまず低くなるが、ある人ではかえってその機能が高くなるなってしまうような多様性が出てくるんです。

 したがって、生物学的に見て、老いというのは単一な現象ではなくて、老いの多様性というものがあるんじゃないかと思います。それを考慮に入れないと、老化についてまちがった結論に陥るんじゃないかという気がしていたんです。

 河合:発達の過程だったら、だいたいはきれいにいきますよね。

 多田:そうですね。発生とか発達とかはおおよそプログラムされていると考えられてす。しかし、たとえば幼児から子どもになるところで、いろいろなタイプの子どもが出てきますね。老人のほうもいろいろなタイプの老人が現れるところがおもしろいし、意味のあることだと思います。

 2、その人の個性が左右するP.256

 河合:老いが多様的というのは、もちろん個人差といってしまえばそれまでですが、その人のそれまでの生き方、その時の考え方ということが影響するんですか。

 多田:その辺はわかりませんが、多様的というのは、単に一人一人の速度のちがいがあるということではなくて、それぞれの人によって、あるいはそれぞれの個体によってちがった老いの現れ方があることだと思うんです。

 免疫学からみますと、それぞれの人がどんな病気を経過してきたかということによって免疫の反応性はだいぶちがいます。老化によって免疫系がどう変るかというのは、きわめて偶然性高いものだと思います。

 河合:このごろ、人間だけじゃなくいろいろものがプログラムされて動いているということがわかってきたわけです。
 しかし、プログラムされているというのが一般化されて、極端に言えば生まれたときからプログラムされているという感じで受け止められるわけですが、免疫のほうで言うとその感じがすごく薄れてきますね。

 多田:まさにそのとおりです。脳神経系とか心理学の面では、いろいろな事件によって個性とか自己というものが作られていくんだと思いますが、体のほうででも免疫系というのは決められたとおりではなくて、条件次第でいろいろな事件を経験することで変ってゆくのです。

 たとえば一卵性双生児は生物学的に同じだと言いますが、性格だけでなく免疫の反応性などもかなりちがっている。そういう点で体にも個性というものがあるわけです。

 3、老人医療、老人ケアについてP.261

 多田:医学的に老いとは何かというと、一般には加齢に伴う生理機能の低下と書いてあります。そいうと年をとればみんな、グラフに描けるるような変化が起こるように見えてしまうんです。医者のほうもそう思っていますし、一般にもそいう考え方を植えつけていますから、六十歳はこのくらい、七十歳はこのくらいというような決められたプロセスをたどっていくように考えられているんじゃないかと思います。だけど現実にはそうじゃない。

 河合:グラフに描けるようなものじゃなくて、ものすごく人によって多様性がある。

 多田:そういうなかで偶発的な老人の病気が出てくるから、ますます複雑になるわけでですね。

 老化の理論はちゃんとしたしたものがあるわけでありませんし、今のところ老化のとらえ方というのは非常に部分的なんです。

 多田:老人の個別性を除外してマニュアルなどにやれば、当然ぼけ老人や寝たきり老人を作りだしてしまうことになってしまいますね。

 多田:マニュアルどうりにしますと、快適な老人ホームを作ってそこで完璧な老人ケアをするということになってしまいます。アメリカでも老人天国だけの都市を作った例がありますね。

 しかし、それは天国ではなくて地獄になってしまうということがわかって、老人だけのホームではなくて若者と老人とが共同生活できるような条件をつくる。そちらのほうが、たとえ問題をかかえているにしても老人にとってベターだということに気づきはじめたとおもいますね。

感 想

 1、大学生が「はしか」に罹ったりしている。この病気に対する免疫力がないか少ないのであろう。

 2、免疫は老化に従って低下するので、老人の死因の大半は最終的に感染症になるわけです。風邪などから肺炎になるとかが多いように感じます。私が診ていただいている先生の一人は、診察が終わり、部屋を出ようとすると、「風邪を引かないようにしなさい」と声をかけられる。この対談でなるほどと感じさせられました。

 3、生物学的に見て、老いというのは単一な現象ではなくて、老いの多様性というものが説明されている。

 4、老化現象は個性的であるから、一人一人が自分の体調にあわせて生活習慣、食生活など調節することだと思います。

 5、私どもは医師から検査していただいて、いろいろな身体の状態の指標の数値と年齢と或いは、年齢とのカーブを示されて、良かったと、悪いなどと思ったりしている。参考数値としては利用すべきであるが、その対策などをよく教えていただくか自分でも勉強しなければならない。

 6、私は最近、ある大学の先生のことをインターネットで知ることができたのですが、腹から笑えるような生活は免疫力を高めるようになるとうけとりました。しかし、大多数の人はどうすれば免疫力を高めることが(原状保持、低下防止)することが出来るかわからないでいるようです。


▼多田 富雄(ただ とみお、1934年3月31日 - )は日本の茨城県結城市出身の免疫学者。

 千葉大学医学部卒業後、千葉大学、東京大学教授、東京理科大学生命科学研究所所長を歴任。
 2001年に滞在先の金沢にて脳梗塞となり声を失う。右半身不随となる。
 2006年にはリハビリ制度打ち切り反対運動の先駆者としても話題となった。
*地方大学から東大医学部教授に就任された第一号の教授であると聞いている。


▼河合隼雄氏死去 

   臨床心理学の第一人者で京都大名誉教授、元文化庁長官の河合隼雄(かわい・はやお)氏が2007年7月19日午後2時27分、脳梗塞(こうそく)のため奈良県天理市の天理よろづ相談所病院で死去した。(79歳)
 兄は元日本モンキーセンター所長を務めたニホンザル研究で知られる霊長類学者の河合雅雄京都大名誉教授。

平成二十年二月二十五日


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1――話がちがうP.22〜23

 現代における「老い」の問題は実に深刻である。それがどんなに大変なことか、ひとつのたとえ話をしてみよう。

 町内の運動会に参加。五百メートル競走に出て、必死になって走り抜き、やっとゴールインというところで、役員が走れ出てきて、「すみません八百メートルのまちがいでした。もう三百メートル走ってください」などと言うとどうなるだろう。

 最初から八百メートルと言われておれば、もちろんそのペースで走っている。五百のつもりで走ってきたのに、それじゃ話がちがうじゃないか、誰があと三百メートルも走れるものか、ということになるだろう。

 現代の老人問題にはこのようなところがある。人生五十年と教えられ、そろそろお迎えでも来るかと思っていたのに、あと三十年あるというのだ。そんなことは考えてもみなかったことだ。

 昔も長寿の人がいたが、それは特別で、それなりの生き方もあった。ところが今は全体的に一挙に人生競争のゴールが、ぐっ遠のいてしまった。

 こう考えると、現代の「老い」の道は、人類が今まで経験していなかったことであることがわかる。みちは未知に通じる。老いの道は老いの未知でもある。

 このような未知の問題について考えてみようと思う。大上段にふりかぶっての論議ではなく、思いつくままに気楽に書かしていただくので、読者の方々はそれをヒントにして、自分なりの考えを発展させていただきた。


2――逆転思考P.24〜25

「老い」かなかなかむずかしい問題で、一筋縄のことで解答が出てくるものではない。思い切った発想の転換という点で、次に示す昔話は示唆するところが大きい。

 昔々、ある殿様が老人は働かず、無駄だから山に捨てるように、というお触れを出した。ある男が自分の父親の老人を捨てるにしのびず、そっとかくまっておいた。 殿様はあるとき、灰で作った縄が欲しいと言いだした。皆がわれもわれもと灰で縄をなおうとするが、どうしても作れない。

 例の男が父親に相談すると、わらで固く固く縄をない、それを燃やすといいと教えてくれた。なるほど、やってみると灰の縄ができたので殿様に献上した。

 殿様は喜んで誰の考案かと言う。実はかくまっていた老人の知恵で、と白状すると、殿様は、老人は知恵があるので、以後捨てずに大切にするようにとお触れを出した。

 この話でおもしろいところは、縄を作ってから灰にするという逆転思考である。そこで、われわれもこの逆転思考を老人に当てはめてみよう。「老人は何もしないから駄目」と言うが、「老人は何もしないから素晴らしい」と言えないだろうか。

 青年や中年があれもするこれもすると走りまわっているのは、それによって、生きることに内在する不安をごまかすためではなかろうか。 何もせずに「そこにいる」という老人の姿が、働きまわる人々の姿を照射して、不思議な影を見せてくれるのである。                  


3――「うち」に帰るP.26〜27

 老人ホームで仕事をしておられる方に話をうかがうと、いろいろ考えさせられることが多いが、そのなかで印象的なことをひとつ。

 いわゆる老人ボケのために、施設を出て急に「家に帰る」という人がある。知らぬ間に出て行ってしまう人もある。

 そのなかで、とくに女性は、「うちに帰る」という「うち」は自分の実家をさしていることが多いという。結婚歴五十年の人でも、その前の二十年間住んでいんた家が「うち」として浮かんでくるのである。

 老人の記憶は近くに起こったことより昔に起こったことのほうがよく覚えている、という一般論だけでこれを説明するのは、少し単純のようである。いうのは、壮年期の人でも夢のなかで「自分のうち」という感じで出てくるのは、自分の生まれ育った家であり、そのときに結婚して住んでいる家でないことが多いのである。

 「うち」は「家」とちがって、なんとも言えぬなつかしい響きがある。

 こんなところから少し飛躍して考えると、心のなかにしっかりとした「うち」を持っているいる人は、一人でどこに住んでいても、「うちへ帰る」などと言ってうろうろしなくてもいいのかな、などと思えてくる。

 「うちへ帰る」をもうひとひねりして「土へかえる」などとすると、「土へかえる」覚悟のできている人は強いだろうな、とも思う。

 若い間は覚悟ができていると言いながら、年をとるとうろむろする方もおられるが。


4――「創(はじ)める」ことP.28〜29

 NHKの新春対談とやらで、日野原重明、中村 元(はじめ)両先生とお話しあいをさせていただいた。学ぶところが多かったが、日野原先生の言葉で心に残ったことを紹介させていただく。

 日野原先生は聖路加看護大学学長で、死の臨床ということに早くから注目し、老いやしについて豊富な臨床体験から、意味深い発言を多くしておられる方です。

 日野原先生の強調されことに、「老いてはじめる」というのがあった。年おいても、何かはじめることが、老いを意義深く生きるうえで、非常に効果的である、tこのことである。趣味でも、ちょっとした仕事でも何でも。                          

 先生の書かれたものを拝見すると、「創める」と、創造の創の字を用いておられるので、その意味の深さがわかる。

 私のスイス留学中の師だったマイヤー先生が、七十歳過ぎてファゴットの練習をしておられるのを見て感心すると、「この年になっても何か進歩するということがあるのは、ありがたいことだ」と言われた。  

 年老いて何か進歩する、というのは味わい深いことばだと思った。「もうこの年になって……」など言わず、勇気をもつてはじめることだ。

 考えてみると、「死」も新しい次の世界のはじまりなのかも知れないのだから、老いたからといって「終わり」のことばり考えず、「はじめ」の練習もある程度しておいたほうが「死」も迎えやすい気もするのだが。


5――脳の体操P.30〜31

 NHKの新春対談でお聞きした中村元先生のお言葉からひとつ引用させていただくことにした。

 中村元先生は周知のようにインド哲学、仏教学の大家で、文字どおり古今東西の万巻の書を読んでこられた方である。ブッダについても、原典をたずねて研究を重ね、できるかぎりその言葉を忠実に伝えらようとされる。その学究的態度には、いつも感心していた。

 ところで対談中、「日本の学者は文献研究だけ丶丶やっているから駄目なんです」とサラリと言われたので驚いてしまった。私はなんとなく、中村先生が「文献研究は大切です」と強調されると思っていたのである。

 中村先生は文献ばかり読んで、あちこち比較していると一見「学問的」な研究ができるが、それだけでは駄目で「自分で考えないと駄目」と言われる。生きてゆくために自分で考えることが哲学することで、人のことを紹介ばかりしていても哲学にならない。

 中村先生の思考の柔軟さ、元気さは、このような態度から来ているのであろう。老いても「自分で考える」ことが大切である。身体だけではなく脳も「体操」が必要なのである。

 実をいうと私は本を読まない人間なので、中村先生の言葉でうれしくなっていたが、「文献研究rb>だけ丶丶」では駄目と言われたので、別に「本を読まないほうがいいい」とは言われなかったことに気がついた。せいぜい少数の本を「自分で読む」くらいで満足しておこう。河合隼雄『「老いる」とはどういうことか』(講談社α文庫)より。

▼私は、大学病院に入院したしたとき、「考える医師」と出会いました。先生はできるかぎりの診断のための検査をしてもその原因が判明されませんでした。その時、この考える医師は考えて、あのてこのての検査をはじめられて、その結果を丁寧に分かり易く説明して下さいました。「この先生は立派な先生になられると」感じました。

平成二十五年三月十五日


48――雑巾がけで目覚めるP.120

 最近、近くの禅寺での日曜日坐禅会に参加する人が増えているとのことです。

 その理由が何かは、長い期間、参加者している人たちによっても、色々とあるようです。

▼最近、河合隼雄『「老いる」とはどういうことか』(講談社α文庫)P.120をよんでいるとそのヒントになるのではないかとかんじました。

 高齢の女性で、だんだんと宗教に関心をもつようになられた方があった。それまでは宗教のことなど考えず、経済的に恵まれた人だったので、家事などあまりする必要がなく、社会的にいろいろと活躍してこられた人であった。

 他人から見ればうらやましいということになろうが、年をとってくると、自分の今までしてきたこともあまり意味がないようにも思われてくる。そこで、宗教的な集まりなどに参加されるようになった。

 偉い宗教家の講演会があると、聴きに行くのだが、もう一つピンとこない。確かにありがたい話だし、その宗教家が立派な人であることもわかるのだが、もうひとつ自分のものとして感じられてこないのである。

 そんなとき、次のような夢を見られた。

「高名なお坊さんの話があるというので出かけてゆくと、もう説教は終わっていてがっかりする。ところが、その坊さんが『あなたには特別大切なことを教えましょう』と言われ、大喜びすると、一枚の雑巾を渡され、アレッと思って目が覚めた」

 この方はこの夢について考えられ、自分にとっては「ありがたい話」を聴きに行くよりも、家で雑巾がけをしていることのほうが「宗教的」であると判断された。

 以後、雑巾をもっての一ふき一ふきに心をこめていると言われた。

▼私は夢というものの素晴らしさ、それを読み取って行動に移されたこの人の素晴らしさに、ひたすら感心したのである。

 これを読んで戴いた方々、ご自分の問題としてお考えしていただければよいのではないかでしょうか。

平成二十三年九月二十五日。


72――『論語』の読み方P.170〜171

 「七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」という孔子の言葉は、老いをひとつの完成とみるものとして素晴らしい。

 ところで、桑原武夫著『論語』(ちくま文庫)は、論語に関する多くの新解釈を提示しておもしろい本であるが前記の言葉に対しては次のような感想が述べられている。

 「人間の成長には学問修養が大いに作用するが、同時に人間が生物であることもまたむしできないであろう」というわけで「天命を知る」というのも、五十歳の衰えから、どうもこうしかならないだろうという面もあるだろうし、七十歳の境地も「節度を失うような思想ないし行動が生理的にもうできなくなったということにもなろう」と考えられるというのである。

 もちろん、これは孔子の言葉の価値を認めたうえで、あえて言えばこんなことも考えられると述べられている。

 私はこれを読んで、孔子の素晴らしいところは、むしろそのような生理的条件にのっかってものを言っているところではないかとおもったのである。

 「学問修養」がたいせつだから、年老いてもやたらに頑張るというのではなく、修養の大事、体も大事という態度だからこそ、すでに紹介したような言葉が出てきたのだと思う。また、単に生理的に衰弱しただけだったら、こんな言葉はのこせないだろう。

 孔子の言葉を、精神も身体も含めた全体的存在からの発言としてみると納得できるのである。専門家からは勝手なことを言うと叱られるかも知れないが。

参考:桑原武夫『論語を読んで』

 二人の先生がわかりやすく書かれています。

2013.02.26  です。


82――辞世の句P.190〜191


 木枯や跡で芽をふけ川柳(かわやなぎ)

 これは川柳の始祖ともいうべき、柄井(からい)川柳の辞世の句として伝えられているものである。川の柳と川柳とをかけ、死んでもまた後で芽ぶくようにと、再生の願いをこめたとも言えるし、自分で死んだ後も「川柳」は再生しつづけることを願ったとも言える辞世である。

 実際、柄井川柳の死後も、「川柳」は生き続け、現在も多くの川柳愛好者がいるのは周知のとおりである。

 柄井川柳の亡くなったのは、数え年の七十三歳。当時としては、かなりの年寄りだが、再生をこめての辞世は、みずみずしい感じさえある。

 中西進『辞世のことば』(中公新書)は、多くの辞世と、その解説を載せ、味わい深い書物である。実は冒頭の辞世もそこから引用させていただいたものである。

 私は俳句にも短歌にも、あまり関心のない不粋(ぶすい)な人間だが、辞世ともなると、死について、老いについても考えさせられ、関心を呼び起こされる。それで柄(がら)にもなく、川柳などをここに引用してみたくなった次第である。

 前掲書に示されている多くの辞世のなかで、すきなものをもう一首あげる。

 わが家の犬はいずこにゆきぬらん 今宵も思いいでて眠れる  島木赤彦

 死はきわめて非日常のことであり、きわめて日常のことであり、犬のイメージが素晴らしい。

参考1:柄井川柳:1718年〜1790年10月30日。日本の江戸時代中期の前句付の点者。初代川柳。本名は正道。幼名は勇之助。通称は八右衛門。前句付け点者として人気を得て、川柳の名が前句付けの名称となった。
参考2:まえくづけ【前句付】:雑俳の中心的な様式。出題された前句に付句(つけく)をするもの。連歌時代から付合(つけあい)練習として行われてきた,5・7・5の17音に7・7の14音の短句を付けたり,14音に17音の長句を付けたりする二句一章の付合単位が,元禄(1688‐1704)ごろから,俳諧から離れて,機智的な人事人情を求める民衆文芸として独立。さらに笠付や川柳風狂句を生み出した。〈あつい事也あつい事也/たまらずにそなたも蚊やを出た衆か〉〈世の中は大方うそとおもはるゝ/節季の貧は見えぬ元日〉(《すがたなそ》)。

  2013.01.16


86――「十牛図」が示す悟りP.198〜199

 禅に「十牛図」(牧牛図とも言われる)というものがあるのをご存じだろうか。禅の悟りに達する課程が、十枚の図(時に四枚、六枚のものもある)で表現されている。

 中国の廓庵禅師によって描かれた「十牛図」が有名であるので、それをごく簡単に紹介しよう。

 第一図は「尋牛」と題され、一人の童が失われた牛を探している図である。

 それに「見跡」、「見牛」、「得牛」、「牧牛」と続くが題を見られてわかるとおり、童が牛を見いだして捕えて牧する課程である。

 第六図は「騎牛帰家」と牛に乗って家に帰るところである。

 第七図で話は急転し、「亡牛存人」となり、牛が消えうせ、人が残る。

 第八図は「人牛ぐ忘」とさらに徹底し、人も牛も消えうせ、ひとつの円が描かれる。

 第九図は「返本還源」で、川の流れと対岸に咲く花が描かれている。

 そして、最後の第十図は「入テン垂手(にってんすいしゅ)」と題され、これは街にはいって手をさしのべるという意味らしいが、ここで忽然と老人が現れ、老人と童が対しているところが描かれている。

 いったいそれがなぜ「悟り」なのかと言われそうだし、私も実はむずかしにことはわからないのだが、最後のところで、老人と童子が共存しているところに関心がわくのである。

 いったい二人は何を話しているのか。誰の心のなかにも住んでいる老人と童子の対話が、何かを生み出してくれると感じられるのである。


104――「自伝」を作るP.236

 年老いた親とつきあってゆかねばならならない人に、次のようなことをよくおすすめしている。

 それは一週間に一度とか、親に合う日を決め、そのときに思い出話しを聞かせてもらって、それを素材としながら、親が「自伝」を作られるのを手伝うのである。

▼はじめから堅苦しく「自伝」などと言わず、ともかく記憶に残っていることで、印象的なことを聞かせてもらうのである。

▼文章にしてみると、記憶ちがいが明らかになったり、もっと詳しいことが思い出されたり。その都度、修正を加えてゆく。こんなときに、ワープロを使用できる人は、ほんとうに便利だが、それほどワープロにこだわる必用もない。

▼そのうちに全体の構成を考えてみたり、すこしぜいたくにするなら写真を入れることを考えたり。完成したら何部かコピーを作って「おじいちゃんの米寿のときに、皆に配りましょう」などということにする。

▼このようにすると、酒好きの人がその日だけは酒をやめて張りきっていたり、「ぼけ」ているのではなどと周囲の人が思いかけていたのに、記憶がしっかりしていることがわかったり、といろいろなよい副作用がでてくるものである。

 これはなかなかおもしろいので、読者の方々のぜひにとおすすめしたいことである。
河合隼雄「老いる」とはどういうことか(講談社α文庫)より。

 私はこの方法は、親子の会話がすすみ、河合先生の言われる効果も素晴らしものだと想う。「自伝」を作るにも様々な方法があるものですネ。

参考1:『生きる―前田達治自伝―』が本棚にある。亡くなった母の兄である。岡山県御津郡横井村(現在:岡山市北区津高)の生まれでありながら、父の住んでいた広島県忠海町(現在:広島県竹原市忠海町)に結婚してきたいきさつを知ることができました私にとっては貴重な本

参考2: 自分史の指導を行いました。お読みいただければその趣旨をご理解いただけるものだと思います。

平成二十五年三月四日


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河合隼雄 (1928〜2007)『日本人とアイデンティティ』(創元社)(昭和59年8月10日第1刷発行)59年8月購入  

 自分が欲しているものを知っており、信念、性格、目的をもっている、非常にはっきりした、きりっとした人間は成功し、生み出し、創造する。

*参考:〈好きなこと〉は人間を生き生きとさせる力をもっている。(好きなこと)の無い人にはどうするのか。そのときは、それが出てくるまで待つのである。一年、時には二年待つ、何であれ(好きなこと)が出てくると、私は冬の後で草花の芽を見つけたような気持ちになるのである。

夕食のあとで散歩。星が輝いている空。雄大な銀河。ああ! それなのに私の心は重い。終わりの近づくにつれて、その日その日にかじりついている老人たちのあわただしい生き方というものが、私にはよくわかる。

   白隠とノイローゼP.304

 先日、天竜寺の平田老師と対談したときに、白隠禅師について興味深い話をお聞きした。白隠禅師と言えば五百年に一人の名僧として、名高いお方であるが、若い時にひどいノイローゼになって苦しんだというのである。私は浅学にして、そのような事実を知らなかったが、白隠禅師が後年になって、その当時のことを記述しているのを読むと、なるほど、れっきとしたノイローゼである。

 白隠禅師はこのノイローゼお自力によって克服し、その間に禅師の禅的体験も深まってゆくのだが、ここで取り上げたいのは、白隠禅師ほどの偉い方がどうして、ノイローゼになったのか、ということである。「ノイローゼ患者」などというと、どこか精神に弱いところがあるとか、何か悩みごとに負けてしまった人とか、ともかく、「普通以下」の人というように考える人が多いのではなかろうか。

 しかし、「悩みごとに負ける」などといっても、それがどのような悩みなのかが問題なのmではなかろうか。白隠禅師は十一歳のときにふろにはいっていて、ふろを炊く火の音に地獄の責めのすさまじさを感じ、おそれおののいたことだから、よほど感受性が鋭かったのであろう。感受性が鋭いと、人一倍悩みも深いはずである。それは単なる地獄のおそれだけではなく、地獄におちねばならぬ人間存在一般のことにまで拡大され、自分の悩みというよりは、人間の悩みを悩むという方が適切とさえ思われてくる。深く悩む人は、浅さく悩む人に比して、それとの戦いも激しく、従って、そこにノイローゼの症状も生じやすいであろう。このように考えると、ノイローゼの症状があるとからすぐに、その人を弱いとか普通以下とか判断することが、まちがいであることがわかるであろう。

 このような目で偉大な人の伝記などをみると、その人の人生における重大な転機において、精神的な障害に悩み、それを克服している事実が多いことに気づくのである。このために、このような状態を「創造の病」などと表現する人もあるくらいで、それが偉大な創造へのステップになっているとさえ考えられるのである。

 もっとも、ここに述べたことから、すべてノイローゼになる人は偉大であると速断されては困るのである。問題はそれをいかに克服するかにあるかことは、いうまでもない。

関連:『白隠禅師健康法と逸話』直木公彦


▼『働きざかりの心理学』(新潮文庫)(平成七年五月一日発行)1995年5月購入 文車

 いかに老いるか

 日本人の平均寿命も随分と長くなった。われわれが子どもだった頃は、六十歳などというとまったくの「おじいさん」と思ったものだ。七十歳は現在では、「古来稀なり」とは言えなくなってしまった。七十歳を超えて生きる人の方が多くなったのである。余程のことでもないかぎり、人間は誰しも長寿を願うのだから、このことは大変喜ばしいことだが、喜んでばかりもいられないというのが、実状ではないだろうか。というのは、寿命の延びた老人たちがいかにいきるか、とう問題が生じてきたからである。

 私は、二十年ほど以前に、はじめてアメリカに行ったとき、非常に印象に残ったことのひとつに、公園にたむろしている老人たちの姿があった。昼の公園には、多くの老人たちが坐りこんでいて、何もせずにじっとしているのである。つまり、彼らは社会からも家族からも「無用の人」とされ、ただ時間をつぶすために公園にいるのである。その当時、日本はまだ物資の不足に悩んでいた。しかし、日本の老人たちの方がアメリカの老人たちより幸福なのではないかと感じたことを、今でもよく覚えている。

 ところで、日本もその後急激な発展を遂げ、「先進国」の仲間入りをしたわけだが、それに伴って老人の生き方の問題も大きくなってきたわけである。文明が進むと、どうして老人が不幸になるのか。それは、文明の「進歩」という考えが、老人を嫌うからである。文化にあめり変化がないとき、老人は知者として尊敬される。しかし、そこに急激な「進歩」が生じるとき、むしろ進歩から取り残されたものとして、見捨てられてしまうのである。

 近代科学は、その急激な進歩によって人間の寿命を延ばすことに貢献しつつ、一方では、それを支える進歩の思想によって、老人たちを見捨てようとしている。この両刃の剣によって、多くの老人が悲劇の中に追いやられているのである。

 老人が、ただ年老いているというだけで尊敬される時代は過ぎてしまった。そこで、老人たちも「進歩」遅れてはならないと思う。老人たちは、そこで「いつまでも若く」ありたいと思いはじめた。若者に負けない力をもっていてこそ老人は尊敬を受けるのだから、老人も若さを保つ努力をしなければならない、というわけである。しかし、そんなことは可能であろうか。

 最近、私はスイスの精神療法家ユングについて『ユングの生涯』という伝記を書いた、そのとき非常に心を打たれたのは、彼の主著と呼ぶべき多くの著作が、七十歳以後に書かれていることを知ったことである。彼は八十六歳で死亡するが、死の一週間前も、なお机に向かって書きものをしたという。彼がこのような力を年老いても保つことのできた秘密はどこにあるのだろうか。

 ユングは「人生の後半」の意味の重要性をよく強調する。人生を太陽の運行の軌跡にたとえるなら、人間は中年においてその頂点に達し、以後は「下ることによって人生を全うする」ことを考えねばならない。人生の前半においては、上昇が中心の主題であり、社会的地位や家庭などを築くことが大切であるが、人生の後半においては、「いかにして死を迎えるか」に思いを致すことが重要である、というのである。生きることは、もちろん大切であるが、中年以降において、人間はいかに死への準備を完成してゆくかが大きな主題となるのである。

 これを聞く人によっては、奇異な感じを受けるかもしれない。七十歳を超えてから、壮者も顔負けの多くの仕事をなしとげた人が、いかに死ぬかということを強調するのはなんだか矛盾するように感じられないだろうか。しかし、実のところ、この点に老いることの逆説が存在しているように思えるのである。

 われわれは「老い」を避けることができたとしても、「死」を避けることはできない。従って、いかに死を受け入れるかは、いかに老いるかの中心問題であり、ここに不思議な逆説が存在していると思われる。

 癌の宣告を受け、手術不能といわれててから、医者の予期に反して長く生き続ける人があることは、最近よく知られるようになった。このような点を研究したあるアメリカの心理学者は、興味深い結果を見出した。つまり、癌の宣告を受けて、まったく気落ちした人は早死にする。それと同時に、何とかこれに負けずに頑張り抜こうと努力する人も早死にすることがわかったのである。

 それでは、長命するひとはどんな人であろうか。このような人は、癌に勝とうともせず、負けることもなく、それはそれで受け入れて、ともかくも残された人生を、あるがままに生きようとした人たちであった。これはもちろん、言うは易く、行なうは難いことである。しかし、勝負を超えた生き方が存在し、そこに建設的な意味があることを見出したことは素晴らしいことだ。

 人間は必ず死ぬのであってみれば、人間はすべて遅い癌になっているようなものなのである。若者の戦う姿勢を老いてそのまま持ち続けることも、弱気になってしまうのもよくない。しかし、そのいずれでもない「死の受け入れ」こそが、われわれの老年をより生き生きとしたものとするのではないだろうか。ここに老いの逆説が存在しているように思う。

 このように考えると、中年のときから死に思いを致すべきだと主張したユングが、死の直前まで、仕事をやり抜いた秘密もわかる気がするのである。いかにして若さを保つかに努力するのではなく、いかにして死を受け入れいれるかに力をそそぐことが、老いてゆくためにはたいせつである、その仕事は個人個人が中年から始めていくべきでことある。これにつては近代科学は答えを与えてくれない。P.205〜208

2010.06.08


松原泰道『禅語百選』
曹源一滴水 泰道


 岡山には曹源寺がありますからねと、気持ちよく、この本の表の表紙のうらに書いて下さった記念すべき本です。

▼ この本は1985年に買った文庫本です。著者が岡山県倉敷市に講演にこられたましたとき、署名していただきました。

 「禅書や禅語がむずかしくて、またわかりにくいのは、実は当時の民衆にわかるように、日常語や俗語で話されたり書かれたりしたからです。しかも俗語などは辞典に載っていないし、死語となったものが多いので、現代人の手に負えなくなったのです。このことは、英語などについても同じことが言えると思います。」と記述されています。

▼岡山市の曹源寺での日曜日坐禅会で原田老師に「禅語の生まれ」について伺いましたところ、同じ趣旨のことを言われました。
 私たちの使っている日本語についても、時代が少し古くなりますとその意味を知ることができません。「古語辞典」をめくらなくてはならないのと同じだと思えます。
参考:禅語の生まれ

▼「無事是貴人」慈雲尊者の墨蹟が曹源寺の小方丈に掲げられていました。

  無事については、事故に巻き込まれたとき、無事でした、或いは「無事救出されました」。また「お元気ですか?」と挨拶されますと「おかげさまで家族一同無事にくらしていま、ご安心ください」などと、私どもは普段使っています。

▼『禅語百選』開きますと、取り上げられていました。禅語としての「無事」は、臨済の言によると「求心(ぐしん)歇(や)む処、即ち無事」です。

 人間を人間たらしめる純粋な人間性が埋みこめられているのです。だから、外部に求める必要がない、と理屈でなく実感できる状態が「無事」であり、その人が「無事の人」です。外に求めず、自分の中にわけ入って、もう一人の自分に出会う努力をせよと、禅は教えるのです。 

 禅では、この「もう一人の自分」「宗教的無意識」を、自性(じしょう)とも、本来の人とも申します。この本来の人にめぐりあえてこそ貴人です。貴人とは「貴(とうと)ぶべき人」で、「貴族」ではありません。貴ぶべき人とは「ほとけ」です。

 臨済は「ほとけ(仏)という既成概念にとらわれるのを嫌い、多くの場合「人」と言っています。本来、仏は人を離れては存在しないの衆生を貴ぶのが禅のこころです。このように見てくると、「無事是貴人」は「無位真人」に通ずるものがあります。

 臨済は、また言います「無事これ貴人なり。Qだ造作すること莫れ」と。
 つまり、いろいろと手を加えるな、そのままの本来のすがたであれ、ということです。 

▼以上の説明を読んでいますと白隠禅師「坐禅和讃」にものべられていると感じました。

 衆生本来仏なり     水と氷のごとくにて 

 水を離れて氷なく    衆生の外に仏なし

 衆生近きを知らずして  遠く求むるはかなさよ 
 (以下略)

 曹源寺での日曜日坐禅会の坐禅をはじめる前にに参加者一同が唱和しています。臨済禅師の「無事」でありたいものです。

平成二十年二月二十七日

参考:禅語「無事貴人」


*追加:本文を掲載した日のある新聞の「ひと」欄に紹介されていた。

 65歳からの著書が130冊、なお書き続ける禅僧

松原 泰道 さん(100)

 モットーは「生涯現役、臨終定年」。(中略)一世紀見てきた日本。今、必要なのは? 
 「謙虚さでしょうね。現代人はおそれを知らない。最近は、おてんとうさまより内部告発がこわいからのですから」と結ばれていた。

平成二十年二月二十八日  


10

亡国の笑い


 西周の宣(せん)王をついだのが幽(ゆ)王である。幽王は申(しん)侯(白夷の後裔)の女(むすめ)を正妃にしていた。これが申后である。申后は宜臼(ぎきゅう)を生んだ。宜臼は太子にたてられていた。

 即位して三年、幽王はあるとき、後宮で見られない少女を発見した。もの悲しげなその顔には、はっとするような妖(あや)しい美しさがたたえられていた。聞けば褒(ほう)ー陝西省ーの領主がある罪をおかし、そのつぐないとして、最近、王の後宮にたてまつった女奴隷で褒の出身にちなんで褒娰(ほうじ)とよばれているという。幽王は、ひと目でこの少女に魅せられた。それからというもの、幽王の寵愛はただ褒娰のみにあつまった。そして、やがて褒娰が伯服(はくふく)という子を生むと、正妃の申后とその子の太子宜臼を廃して、褒娰を正妃に、伯服を太子にたててしまった。(中略)

 幽王は、褒娰への愛にうつつをねかしてくらしたが、ただ一つ、満ち足りないものがあった。それは、褒娰が決して笑わないことだった。金銀・宝石をふんだんにあたえても、いかに美々しく装わせても、音曲の粋をこらして機嫌をとりむすんでも、褒娰は依然としてにこりともしない。。なんとかして褒娰の笑顔がみたいものだ―。 

 その日も、幽王は思いあぐねていた。そして無意識のうちに熢燧(のろし)をあげた。それは、都へ敵が来襲したことを遠方の諸侯に知らせるためのものだった。諸侯は、それぞれ軍隊をひきいて、すわとばかりに都にあつまってきた。しかし敵影はまったくない。楼台の上から幽王と褒娰が見おろしているだけだった。諸侯はぽかんとしてあいた口がふさがらなかった。と、そのさまがおかしいといって、褒娰がけれけらと笑い出した。その笑顔は、また一段と美しかった。幽王はすっかり有頂天になった。それから幽王は、褒娰を笑わせるためにしばしば熢燧をあげた。だが諸侯はこれを信じなくなり、兵の急行するものが減った。

 そのころ、前の妃の父である申侯は、娘や孫が不当に冷遇されたことから、幽王に対して怨みをいだき、犬戎(けんじゅう)や西戎(せいじゅう)とともに、突如として都を襲った。幽王は懸命に熢燧をあげさせたが、諸侯は動かず、一兵もかけつけるものはなかった。幽王は驪山(り ざんー陝西省のふもとで捕らえられ殺された。褒娰は西方の蛮地につれさられ、周室の財宝はことごとくうばわれた。申侯はは諸侯をまとめて、廃太子の宜臼をを即位させた。これが平王である。こうして平王が即位はしたものの、もはや周室の権威は地におちて、西方の蛮地の侵略をささえることができなかった。そのため平王は、都を東方の洛邑(らくゆう)にうつさざるをえなかったのである。東遷は西紀前七七〇年におこなわれた。

 以上は『新十八史略:天の巻』(河出書房新社)P.70〜による。

 私は「狼小年」のイソップ物語を思い出していました。『イソップ寓話集』がどのようにして作成されたかは知りませんが、以上のような歴史的事実などを参考にしてできあがっているのではないかと想像しました。

平成二十年八月十六日


11

「管鮑の交わり」
「刎頸の交わり」


管鮑の交わり

 題目は有名な話である。史記 列伝編の「管晏列伝第二」の記述から引いた。(筑摩書房)

 中国春秋時代

▼管仲夷吾(かんちゅういご)は潁水(えいすい)のほとりの人。若いころ、鮑叔牙(ほうしゅくが)と交友し、鮑叔は彼の賢いことを知っていた。管仲は貧困のあまり、よく鮑叔を欺いたが、鮑叔はいつまでも見棄てず、彼のすることに、とやかく言わなかった。やがて鮑叔は斉(せい)公子小白に仕え、管仲は公子糾(きゅう)に仕えたが小白が父の後を嗣いで桓(かん)公となるや、競争者の公子糾は敗死し、管仲ははとらわれた。しかし鮑叔は、あくまで管仲を推挙したので、管仲は登用され、斉の国政を担任した。このため斉の桓公は覇者となることができたのである。諸侯を九合し、天下を一匡(いつきょう)したのは、実に管仲のはかりごとによったのである。

 管仲は言った、「かつて私が困窮していたところ、鮑叔とともに商売をしたが、利益を分けるとき、私は分け前を多く取ったのに、鮑叔は私を貪欲とは思わなかった。私の貧乏を知っていたからである。かつて私は鮑叔のために事業を企てたが、失敗していよいよ困窮したのに、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。時に利・不利のあることを知っていたからである。かつて私は三たびとも君から逐(お)われたが、鮑叔は私を無能とは思わなかった。私が時の利にあわなかったのをしっていたからである。かつて私は三たび戦い、三たびとも敗れて逃げ出したのに、鮑叔は私を卑怯とは思わなかった。私に老母のあるのをしっていたからである。公子糾の敗れたとき、同僚の召忽(しょうこつ)は戦死し、私は幽閉されて辱しめを受けたが、鮑叔は私を恥知らずとは思わなかった。私が小節を恥じず、功名を天下に顕わせないのを恥としたのを知っていたからである。私を生んでくれたのは父母だが、私を知ってくれるのは鮑叔である」と。

▼管仲を推挙したのち、鮑叔は、みずから管仲の下風に立つて敬意をはらった。鮑叔の子孫は代々斉の俸禄を愛け、封邑を領有すること十余代、常に名大夫(めいたいふ)として世に聞こえた。されば天下の人は、管仲の賢をほめるより、むしろ鮑叔の人を知る明をほめたたえた。(略)『史記U』P.7

『新十八史略 天の巻』(河出書房新社)P.92には

 斉の宰相となった管仲は、鮑叔牙(ほうしゅくが)の眼に狂いはなく、大手腕を発揮した。なんらの門閥の背景を持たず、実力によってのし上がったかれは、古いものにとらわれる必要がなかった。

▼――倉稟(そうりん)(米倉)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱(名誉と恥辱)を知る。『管子』

 この言葉こそ、管仲が現実主義の政治家であることを如実に物語っている。経済がすべての根本だと考えていたかれは、斉の地理的条件から、製塩業と農具製造業とを国家の統制のもとにおいた。こうしてかれは着々と、裏づけのある富国強兵策をとったのである。その政策はは『管子』七十六篇に伝えられている。

 (七言古詩 杜甫「貧交行」)の詩がある。 

 手を翻せば雲と作り(てをひるがえせばくもとなり) 手を覆せば雨(てをくつがえせばあめ)

 紛紛たる輕薄(ふんぷんたるけいはく) 何ぞ數うるを須いん (なんぞかぞうるをもちいん)

 君見ずや管鮑 貧時の交わり きみみずやかんぽう ひんじのまじわり

 此の道今人棄てて 土の如し 此の道今人(こんじん)棄てて土の如し

参考:伊藤 肇『人間的魅力の研究』(日本経済新聞社)P.215〜216にも引用説明されています。

平成二十二年十月二十五日


刎頸の交わり

 筑摩書房『史記U』列伝篇  廉頗藺相如列伝第二十一P.118〜 に詳しく述べられている。

 『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫)P.96〜P.99にも取り上げられている。
 まずそれについて述べる。

▼むかし、趙(ちょう)の藺相如(りんそうじょ)と云ひし者は、下賎(げせん)の人なりしかども、賢なるによりて趙王にめしつかはれて天下の事をおこなひき。趙王の使ひとして、趙璧(ちょうへき)と云(いふ)玉を秦の国へつかはせしめたまふ。かの璧を十五城にかへんと秦王の云し故に、相如に持たせてつかはすこと、国に人なきに似たり。余臣(よしん)のはじなり。後代のそしりなるべし。みちにて此の相如を殺して璧を奪ひ取らんと議しけるを、ときの人ひそかに相如にかたりて、此のたびの使を辞して命を保つべしと云ひければ、相如云く、某(それ)がし敢えて辞すべからず。相如王の使として璧を持て秦にむかふに、佞臣の為に殺されたると後代に聞こへんは、我ためによろこびなり。我が身は死すとも賢の名は残るべしと云て、終(つひ)にむかひぬ。余臣も此の言(こと)ばを聴て、我れら此の人をうちうることあることあるべからずとて、とゞまりぬ。

▼相如ついに秦王に見(まみ)へて璧を秦王にあたふるに、秦王十五城をあたふまじき気色(けしき)見へたり。時に相如、はかりごとを以て秦王にかたりて云く、その璧にきずあり、我是れを示さんと云ひて、璧をこひ取りて後に相如が云く、王の気色を見るに十五城を惜める気色あり、然あらば我が頭(こう)べを銅柱にあてゝうちわりてんと云て、瞋(いか)れる眼を以て王をみて銅柱のもとによる気色、まことに王をも犯しつべかりし。時に秦王の云く、汝ぢ璧をわることなかれ、十五城を与ふべし、あひはからんほど汝ぢ璧を持べしと云しかば、相如ひそかに人をして璧を本国にかへしぬ。

▼後に亦潬池(めんち)と云ふ処にて趙王と秦王とあそびしに、趙王は琴琶の上手なり。秦王命じて弾ぜしむ。趙王相如にも云ひ合せずして即ち琴琶を弾じき。時に相如、趙王の秦王の命に随へることを瞋て、我行て秦王に簫(せう)を吹かしめんと云て、秦王につげて云く、王は簫の上手なり、趙王聞んことをねがふ、王吹たまふべしと云しかば、秦王是を辞す。相如が云く、王若し辞せば王をうつべしと云ふ。時に秦の将軍、剣を以て近づきよる。相如これをにらむに両目ほころびさけてげり。将軍恐て剣をぬかずして帰りしかば、秦王ついに簫を吹くと云へり。

亦後に相如大臣となりて天下の事を行ひし時に、かたはらの大臣、我にまかさぬ事をそねみて相如をうたんと擬する時に、相如は処々ににげかくれ、わざと参内の時も参会せず、おぢおそれたる気色なり。時に相如が家人いはく、かの大臣をうたんこと易きことなり、なんが故にかおぢかくれさせたまふと云ふ。相如が云く、我れ彼をおそるゝにあらず、我が眼を以て秦の将軍をも退け、秦の璧をも奪ひき。彼の大臣うつべきこと云ふににも足らず。然あれどもいくさ起しつはものを集むることは敵国を防ぐためなり。今ま左右の大臣として国を守るもの、若し二人なかをたがひていくさを起して一人死せば一方欠くべし。然あらば隣国喜びていくさを起すべし。かるがゆへに二人ともに全ふして国を守らんと思ふ故に、彼といくさを起さず云ふ。かの大臣、此のことばを聞てはぢて還(かへり)て来り拝して、二人共に和して国をおさめしなり。相如身をわすれて道(だう)を存ずることかくの如し。今ま仏道を存ずることも彼の相如が心の如くなるべし。寧(む)しろ道ありて死すとも道無ふしていくることなかれと云云。

私見1:「徳は弧ならず、必ず隣あり」の言葉どうりである。

  2:道元の時代(1200年ころ)、中国の歴史が読まれていることがよくわかる。

『新十八史略 天の巻』(河出書房新社)P.241によると

▼廉頗はさきに趙が秦とともに斉に侵攻したさい、昔陽を落とす大功を立てて上卿に任じられていたが、左右の大臣の時の話はやがて廉頗の耳にも届いた。はじめて相如の心を知った廉頗は、藺相如がめきめき出世し上卿に昇り、しかも自分の上席に着くことになったのである。かれは、

 「わしは軍勢をひきいて戦場を駆逐し、大功を立てて上卿となった。しかるに藺相如は口先ひとつでわしのうえにすわる身分にのしあがった。しかもあいつは素性も知れぬいやしい男。あんな男の下風に立つことなど、このわしにはとてもできん」と不満を洩らし、人前もはばからずに、

 「相如に会ったら、かならず恥をかかせてやる」

といいはなった。これを耳にした相如は、以来、ひたすら廉頗と顔を合わせることを避け、病と称して朝廷にもでなくなった。また出先で廉頗と行きあったりしようものなら、はるかにその影を望んだだけで倉皇として脇道に逃げ込むという始末。あまりの腑甲斐なさに、部下から愛想づかしをされたこともあった。すると相如はその部下にたずねた。

 「おまえは廉頗将軍と秦王と、いずれをより怖れるか」

 「もちろん秦王でございます」

 「その秦王をすら宮中で叱咤し、あの秦の臣下たちを辱しめたわたしだ。いかに鈍才とはいえ、廉将軍を怖れるようなわたしではない。ただ、あの強国秦がわが国に手をだしかねているのは、ひとえにわれわれふたりがいるからこそである。しかるに、そのわれわれが争えば、いずれか一方の死は免れがたい。廉将軍を避けるのは、国の危急を思えばこそだ。

 此の話は、やがて廉頗の耳にも届いた。はじ、めて相如の心を知った廉頗は、当時の作法にのっとって裸の茨の笞を背負い、相如の邸を訪ねた。そして、相如のまえに平伏した。

 「わたしはまことにくだらぬ男である。あなたの心かほどまでに寛大であることを知らなかった」

 以来、ふたりは”刎頸の交わり”(友のためにおのれの頸を刎ねられるとも悔いのないほどの仲)を結んだのである。

▼この話のような「刎頚の交わり」のできる人が一人でもある人は心強い人でしょう。歴史で人物について教えられて、少しでも人間的向上したいものだと思います。

平成二十年八月二十四日、平成二十三年二月五日再読・追加。平成二十三年六月二十八に再々読。


12

一冊の本を焼却する


 私の一冊の本のカバーにつぎの歌をペン書きした本。ページをめくると書き込みもしている茶色に日焼けしている三木 清・著『人生論ノート』(創元社) 昭和廿一年十月一日 十九版発行の本があります。

 Home, Sweet Home

 'Mid pleasures and palaces though we may roam,
 Be it ever so humble, There's no place like home.
 A charm from the skies seems to hallow us there,
 Which seek thro' the world, is ne'er met with elsewhere.
 Home! home! sweet sweet home;
 There's no place like home,
 There's no place like home!

  By J.H.Payne

▼J.H.Payneをインターネットで検索すると、イギリスの歌ですが、H.R.Bishop (1786-1855)作曲の「Home, Sweet Home」という歌があります。(映画「火垂るの墓」のラストに流れていました。) 原詞は、アメリカ人、J.H.Payne (1791-1852) によるものとありました。

 この記事には第二節も記載されていました。

 An exile from home splendor, dazzles in vain;
 Oh! give me my lowly thatched cottage again;
 The birds singing gaily, that came at my call:
 Give me them with the Peace of mind, dearer than all.
 Home, home. sweet, sweet, home!
 There's no place like home,
 There's no place like home.

 日本語に翻訳されていましたので参考までに。

楽しみながら、素晴らしい家々を訪れ、旅して歩くこともあろう。しかし、たとえ粗末な家でも、我が家ほどの場所は他にない。空の美しさが我が家では心を清めてくれる。世界中で捜し求めたもの、それはけっしてどこか他の場所で出会えるものではないのだ。我が家、我が家よ、温かい我が家よ、我が家ほどの場所はない。我が家ほどの場所はない!

我が家から離れ、華やかなものに目が眩んでしまった。虚しいだけだった。ああ、もう一度みすぼらしいわらぶきの田舎家を私にお与えください。鳥は楽しげに歌い、私が呼べば来てくれた。それらを私にお与えください。何物にもまさる貴い心の安らぎと共に! 我が家、我が家よ、温かい我が家よ! 我が家ほどの場所はない。ああ、我が家ほどの場所はない。

▼本棚にある読みたい本を探していますと、昭和四十九年十二月の新潮文庫の同じ本がありました。

 私は二冊の本もあり、古い本を処分すべきか、保存すべきか考えましたが古いもの(愛着を断つのは難しいものです)を処分しようときめました。

 読書家の先輩が古本屋に本を売ったとき、リヤカーで運ばれているのをみていると一抹の淋しさを話してくださったことをおもいだしました。

 ただの一冊の本を処分するにも愛着未練をもつようではどうしようもないな……。

▼本を沢山持たれている方は、本の処置をどうされているのだろうか?などおもっていますと、ふとおもいだしたのが「針供養」「筆供養」の行事でした。長い間、使ってきた愛用の品物に感謝の気持をこめて行われている伝統ある風習でしょう。私はこの行事にあやかり「本供養」しようと。

 我が家の庭に穴を掘り、その中でこの本を焼却することにしました。燃え上がる焔、煙をあげて灰となりました……。これでよかった、空を見上げました。

平成二十二年三月二十九日


13

渡辺淳一「死化粧」 無料全文公開


22.05.05 朝日新聞の広告欄に表題の説明があり、外科医のは、瀕死の母親の肉体にメスを入れる―。

 その日一日、私は休みなく働いた。夕方一休みした時に昨日の午後に買った煙草がまだ残っているのを知って今更のようにそう思ったのだ。(中略)

 二頁も読まないうちに電話のベルが鳴った。「もしもし」という語尾の重い訛りで、それが兄の声だと直ぐ分かった。「今夜弘子姉さんの処で皆が集まるのを知っているだろう」私は勿論忘れていない。「七時からと言ったけれどもう皆集まっているから少し早めに来ないか」というので、私は「直ぐ行く」と答えた。
 母が私の勤めている大学病院の脳外科に入院してから既に一か月になっていた。

―続きはWEBで

私見:本は紙で書かれていたのは昔のことであるのか。電子技術の進歩で私たちはWeb検索で多くの事をしることが出来ます。小説がWebで無料全文公開され、それを読むことができることを知ることができました。今後、こんなことが何かの意図(書店の宣伝など)で行われることがふえるのではないかと

 以前、ある会社から「貴方のホームページを電子本にしませんか?」のメールが飛び込んだことありましたのを思い出しました。

平成二十二年五月五日


14

『日本語の年輪』


大野 晋<著>(おおの すすむ)(1912〜2008年)

 紀田順一郎『知の知識人たち』(新潮社)の辞書の年輪 新村出と『広辞苑』を読んでいると広辞苑の編集が再開されたとき、当時新進の大野晋が中心となって再検討を行い、記述の見直しを行ったとの記述に出会った。

▼新潮社文庫の『日本語の年輪』が手元にあり、子供の頃、教えられた言葉、そして大人になりつくる言葉などさまざま日本語の年輪を丁寧に説明されている、とても私達には参考になる。

 例えば、今日は「うつくしい花」「美しい着物」のように「うつくしい」は、広く美を表わす言葉として使われている。

 「うつくし」の万葉の時代には

 「あめつちのいづれの神に祈らばうつくし母にまた言問はん」

 このように「うつくしい」は、「万葉集」では、このように夫婦の間や、父母、妻子、また恋人に対する非常に親密な感情の表現である。

 平安時代の女流文学では、「うつくしい」は小さい者への愛情の表現に変わってく。

 室町時代には、今日のような「美しい」の意味になっている。

 私達が今日使っている言葉の表わす意味の移り変わりが多く記載されている。

 「くやしい」とは現在、「口惜しい」と書いたりする。あたかも、残念さのために口をきくのも惜しいという気持を表現しているかのようである。しかし、「くやしい」と「くちおし」とは、平安・鎌倉時代には、何百年もの間はっきり使い分けられていた。

 「くちおし」とは、口が惜しいのではなく、ものが朽ちるのが惜しい「朽ち惜し」が、その語源と思われる。
 「くやしい」とは、しなければよかったと後悔されることである。「くちおし」は予期した像のこわれるのをなげき、「くやし」は過去のの自分の行動をなげく。そこに大きな差がある。
 室町時代には「くやしい」と「くち惜しい」とが次第に混同し始めるいようになって来た。それで、今では、言葉は「くやしい」が残り、文字の上では「口惜しい」という字が残って、それを「くやしい」とよませるようになった。

▼私はこの本をよみ大野 晋さんが、「なぜ、こんなに日本語について万葉の時代から今日にいたるまでの年輪に詳しいのだろうか?」と思っていた。

▼たまたま、『私の文章修業』(週刊朝日編ー朝日選書)に大野 晋さんは「私は古典語の辞書を作る仕事を引き受け、奈良・平安時代の文学語、約二万語に付き合ったことがある。(中略)万葉集の全部の注釈、日本書紀の全部の訓読をなし終えて、源氏物語、枕草子などを中心とする平安時代の文学語に向い合い、一語一語扱う作業に、合計約二十年をついやした」の記述を読み、長年の国語学者でなければ著されない本であると納得できました。

平成二十三年一月十六日


15

三顧の礼


 民主党の第二次組閣にあたり、「たちあがれ日本 共同代表」の与謝野氏を 内閣府特命担当大臣経済財政政策少子化対策男女共同参画)社会保障・税一体改革担当閣僚に「三顧の礼」をもって迎えたとのことである。

 少し中国の歴史を貝塚茂樹著『中国の歴史 上』(岩波新書)で調べることにしました。「三国の分立」の項目の中に「三顧の礼」が述べられていました。引用します。

▼一九〇年後漢の献帝が董卓に強制されて西の長安にうつされてからのち、漢帝国の威権は衰え、ほとんど無政府の状態におちいった。はげしい戦争が交えられた。もっとも有力なのは士族のなかの名家袁紹で、ほぼ河北、山西両省を領した。これに次ぐのが曹操で、山東省から河南省に進出し、献帝が長安から脱出して帰ると、いち早く本拠の許(河南省許昌県)に迎え、漢の帝室をもりたて、漢朝につくすという勤王の美名のもとに、天子を人形のようにあやつって、急に威権は強大となった。袁紹を官渡の一戦に破って河北を手中にいれた勢いに乗じて中原に侵入し、河北の北辺によっていた烏桓(うがん)(また烏丸ともいう)を服属させ、東北に独立していた公孫度(こうそんど)もその部下になった。

▼華北の大部分を制圧した曹操は南下して揚子江の中流の武漢の要衝をふくむ荊州に向かった。この地方の政権をにぎっていた湖北襄陽(じょうよう)の劉表が病死してあとをついだ子の曹丕は曹操に降伏してしまった。劉表のもとには漢の王室の遠い分家である劉備が身を寄せていた。かれは黄巾の賊を討つためにたちあがった士族の一人であったが、四方に流浪して志をえず、一時は曹操にぞくしていた。曹操が勤王を叫びながら、漢王朝にとってかわる野心をいだいているのを見破って、これを除こうとはかって失敗し、劉表のもとに亡命していたのである。劉備はかくれた諸葛孔明の計をいれて、揚子江下流の南京に割拠していた孫権(そんけん)と同盟して曹操にあたった。

 いじょの歴史的経過をへて、劉備が諸葛孔明を迎えたときのはなしである。

三顧の礼

 劉備は後漢の名儒盧植(ろしょく)について経学(けいがく)を修め、曹操にくらべると正統の学門の素養を受けている。しかし、ひと筋に学門を勉強するには社会的関心が強すぎた。豪侠と交を結んで青年時代をおくったが、おのずから人徳があって衆の信望をえた。曹操も「天下の英雄は君と僕だけだ」というほど彼を認めていた。三十六歳の劉備は七歳年少の諸葛亮の隠れ家を三度訪問し、かれに参謀として出馬することを承諾させた。三顧の礼によって諸葛亮を招いた美談はたいへん有名となった。このとき諸葛亮が献じた天下三分の計が余りにも、その後の三国分立の情勢と一致しているので、後世でつけ加えた談義ではないかと疑う学者もある。天下三分の計なるものは当時他の政客も思いついているから、文辞のすえにはある程度後世の修飾がまじっていても、大体は、諸葛亮字(あざな)は孔明の原案と見てよい。

▼曹操は劉表の水軍をあわせて十六、七万、八十万の大軍と号して、江陵(こうりょう)かた江にそって東下し赤壁(せきへき)にいたった。孫権のつかわした名将周瑜(しゆうゆ)はわずか三万の水軍をもってこれに対した。周は風向きをはかって、火舟を放ち、曹の軍船を焼いたので、曹操は大敗北をきっして命からがら北に軍をかえした(208年)。赤壁の戦いは中国の歴史の運命をかえる大決戦の一つであった。もし曹操がこの戦闘に勝利をおさめていたならば、魏の統一帝国がその後誕生し、曹操の優れた政治的手腕によって、かなり強固な安定した国家をつくりあげたにちがいない。幸か不幸かみじめな敗戦をくらったため、孔明が予言したように、曹操、劉備、孫権の三国が分立する形成が確定した。

▼『三国志事典』(岩波ジュニア新書)によると、諸葛亮は、奇謀の軍師とか軍略の天才というイメージをもたれているが、じつさいのかれの軍事的才能はどうであったか。正史の著者陳寿は、その政治的才能は管仲・粛何に匹敵すると最大限の賛辞をおくりながら、「連年、軍を動員しながら目的を達成することができなかったのは、臨機応変の戦略戦術に長じていなかったからではないか」との疑問を呈している。 

平成二十三年二月六日


16 池波正太郎 (1923〜1990)

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『男の系譜[全]』(立風書房)

目次

T 戦国篇 織田信長 渡辺堪兵衛 豊臣秀吉 真田幸村 加藤清正 徳川家康 番外・戦国の女たち

U 江戸篇 荒木叉右衛門 幡随院長兵衛 徳川綱吉 浅野内匠頭 大石内蔵助 徳川吉宗

V 幕末維新篇 井伊直弼 徳川家茂 松平容保 西郷隆盛 編者あとがき

 以上の内容のものです。

 織田信長の項目をみると

 父、信秀の位牌に、
 灰をつかんで投げつけた……

 桶狭間の戦いに敦盛の舞いを舞いながら出て行ったという、あのとき、信長はまだ二十五、六ですね。もちろん今の二十五、六とは違うけれども。あれは何といったか…そう……。

   人間五十年

   化転のうちをくらぶれば

   夢まぼろしのごとくなり

   一度生を得て

   滅せぬもののあるべきか

 この人間五十年うんぬんに信長の信念というか、生き方というか、それが端的に出ているという、まあその通りといっていいでしょうね。信長のやることは、いつも、思いきっていて、人を驚かせる。信長の奇行なるものを数えていったらきりがないくらい……。P.10


 清正というと、
 ひげの豪傑というイメージが強いが……

 たしかに加藤清正は、ひげを生やしていた。しかし、中年になってからだよね。これは、朝鮮戦争の前ごろからじゃないかな。そのひげと、有名な虎退治の逸話から、清正すなわち豪傑という概念がすっかり出来上がったしまっている。といっても、戦前までの話だ。

 加藤清正は、永禄五年(一五六二)年六月二十四日に、尾張の国、愛知郡の中村というところに生まれた。現代(いま)の名古屋市・中村。秀吉も、この同じ中村の生まれなんですよ。この時代は百年も戦争が続いていたんだから家系だ、なんだtこいっても、それがどこまで本当かよくわからない。調べようもないし。秀吉も名もない士民の子に生まれて、ついに天下人になったということに定説ではなっているけれども、高貴な血を引いていたという説もある。

 大した立派な女性だったらしい。
 清正のおっ母さんという人は……

 たかだか村の鍛冶屋の娘……というと、現代(いま)の人は「なんだ……」と思うかも知れないけれども、これがそうでない。しがない仕事どころか大した職業だった。当時は、ちゃんと苗字もあるしね。相当な格式を持っていた。清兵衛の祖父(じい)さんは小島式部という武士であった、ともいわれています。ウデのある職人というものは、むかしは珍重されたばかりでなく、社会的に尊敬されたもんだ。

 むかしの書物(ほん)には、とにかくいろいろと書きのべてあって、清正の叔母さんが秀吉夫人の姉さんだという説のほかに、

 「いや、従姉妹どうしだった」という人もあれば、「いやいや、清正の母と秀吉の母が従姉妹なのだ」と記しいるのもあるし、また「そうではない、秀吉の母の妹が清正の実母に他ならぬ」と書いてある本もあるんだよ。

 まあ、こまかいことはどうでもいいんだけれども、とにかく清正のおっ母さん、大変な偉い人だった、情の厚い……。清正の母、伊都という人については、こんなエピソードが伝わっている。清正が、まだ伊都の腹ン中にあったときの話だというんだが、ある日、近くの家から火事が出た。

 その家に、めくらの老婆がいて、ちょうど風呂に入っていた。「火事だ!」という村人の叫び声を聞いて伊都は、自分が妊娠中の躰だというのも忘れて外へ飛び出し、「ばばさま、ばばさま……」

 と、めくらの老婆を助けるため、猛火の中へ飛びこんで行った。そうして、見事、老婆を救い出した……というんだよ。

 こういう話は、しばしば後から作られることがある。単なる英雄美化のための説話、といってしまえばそれまでだ。けれども、清正のおっ母さんという女性が、こういう性格の持ち主だったということは事実だろう、これは。そう思いますよ。ほかにも例証を挙げればいっぱいあるんだ。

 だから、とにかく、そういう立派な母親に育てられた清正だということですよ。大政所という立派な、偉いおっ母さんに育てられた秀吉と、そういう点で似ているんだね、清正は。

 清正が子どものころは、村中で知らぬ者はないという、大変な腕白者だった。年上の少年と相撲をとっても一度も負けたことがなかったというんだから。そのころの腕白仲間、つまりおさななじみが、後にみんな加藤家の重臣になっている。飯田覚兵衛とか、森本儀大夫とか……。

 村の子どもの一人、後の家老の飯田覚兵衛がいっていますよ、清正のおっ母さんのことをね、自分の本当のおっ母さんみたいだと……。

 「自分は殿(清正)の御生母から、我が子同様に可愛がられた。自分の実の母は早くから世を去っていたため、まるで自分の本当の母のような気がして、ずいぶんと甘えたり、物ねだりをしたものである。御生母は虎(清正)の友だちは、虎の財宝(たから)でござる、と、かように申され、自分のみばかりでなく、幼少のころの殿のまわりに集まる子どもたちを、惜しみなくいつくしんでくれたのだ」……これは覚兵衛が後年、語り残したことばです。

 自分の息子も、その友だちも、少しもへだてなく可愛がることの出来た、そいう心の温かい、本当に情のある人だった、清正の母親は。ちかごろのいわゆる教育ママなんかとは違いますよ、全然。

 天正九年、清正二十歳の初陣
 以後、秀吉に従って……

 十五歳になると、前髪を落として元服の式を挙げ、正式に名前が与えられて、一人前の男になる。現代(いま)でいうところの成人式だね。いまは、やっと二十歳(はたち)になっただけれども。このとき以来、加藤虎之助は加藤清正になる。このこりろ秀吉は、近江長浜の城主だ。肉親の情はことのほか厚い秀吉だから、正確にはどうかわからないけれども、とにかく身内といっていい清正、さっそく取り立ててやったに違いない。これから先は、秀吉に仕えつつ次第に清正、名を挙げて行くことになる。

 最初に戦功を立てたのは、天正九(一五八一)年の鳥取城攻めのときだったといわれている。清正、二十歳。どいう男になっていたかといえば、大変堂々たる偉丈夫であったらしいね。非常に背の高い人で、優に六尺は越えていたという。現代でも相当なものだがそのころとしては大変な大男といっていい。

 翌年、秀吉が高松城を攻める当たって、その前に冠山を攻めた、このときにも加藤清正、武功があったらしい。一番乗りで攻めこみ、虎之助清正さながら鬼神のごとく、十文字槍を振って働いた……と、これは『清正公』という書物に書いていることだけれどもね。

 そのあとも、いろいろあって、そのたびに結構、清正、働いた。しかし、なんといっても勇名をとどろかせたのは例の賤ヶ嶽の七本槍だろう。本能寺の変(天正十年・一五八二)のすぐあと、山崎の合戦で主君信長の仇、明智光秀を打ち滅ぼした秀吉は、文字通り旭日昇天の勢いだったわけだ。これが、まわりの連中、われこそは……と内心思っていた柴田勝家なんかにしてみれば面白くない。この勝家を中心にして出来た反秀吉勢力を、秀吉がすっかり討ち果たして天下統一を実現して行くんだけれども、賤ヶ嶽の戦いは秀吉と勝家が覇権を賭けて闘ったものだ。

shitihonyari.png  このときの戦いで、秀吉側近の若武者たちが、それぞれ槍を振るって目覚ましい働きをしたわけで、これが世にいう七本槍。加藤虎之助清正。平野長泰。脇坂甚内安治。加藤孫六嘉明(よしあきら)。福島市松正則。粕谷助右門武則。それから片岡助作且元(かつもと)、この七人。清正は真先かけて飛び出し、一番槍と名乗って、敵の武将拝郷五左衛門隊の鉄砲頭・戸波隼人という者を討ちとったというんだな。

 この賤ヶ嶽の働きで、七本槍の連中は一様に三千石もらうことになった。ところが、どういうわけか福島正則だけは別挌の五千石。これぬは血気盛んな当時の清正、怒ったそうだよ。

「市松もご一家なれば、われらもお爪の端。こたびの槍、われら少しも市松におとり申さぬに、なにゆえ、われらの方が二千石少ないのでござる。気に入らねば、このお墨付、お返し申す!」

 と怒鳴ったという話が伝わっている。ともかくも清正、これを機に主計頭(かずえのかみ)に任ぜられて、以後は部隊長としての働きになるわけだ。

 天正十四年(一五八六)年、関白の位について天下人になりつつあった秀吉は、翌十五年、九州平定に出かける。このとき清正は秀吉に従って九州入りした。そして次の年の天正十六年(一五八八)年には肥後の国、隈本(くまもと)城に入り二十五万石。これは、もう、大変なスピード出世です。福島正則さえあっという間に追い越してしまう。まだ、ようやく二十六か七だ、清正。

 この隈本城というのは、後世の熊本城とは違いますよ。古城と呼ばれているとこで、現在の熊本城から五、六百メートル離れたところだ。二十六、七の若さで九州の大名に取り立てられたのは、このころもう秀吉に外征の心づもりがあったからじゃないかな。多分ね。朝鮮を攻め、さらに明(みん)国まで攻め入る、その先鋒に清正を予定していたのだろうと思う。秀吉も、清正なら安心だからね。

 清正、朝鮮に武勇を轟かす。
 しかし、秀吉の怒りを買って……

 秀吉は、朝鮮へ兵を出す前に、天下統一の総仕上げとして小田原の北条氏を攻めた、天正十八(一五九〇)年に。この小田原攻めに際しては清正は「九州の地を守れ」と命ぜられて、熊本の城にいたから、従軍していない。わざと出陣させなかったわけだ、秀吉は、それは朝鮮征伐のために、力を蓄えさせておいたのだ。九州が本陣になるからね。その大事な九州は清正にまかせておきた、また清正でなければならない……と秀吉は考えていたのだろう。

 秀吉は、小田原の陣中から、みずから筆をとってしたためたものを含めて六通もの手紙を熊本の加藤清正に送っていますよ。いろいろとこまかく戦況や滞陣の様子など知らせて。この手紙を読むと、清正にかけていた秀吉の信頼がどれほど大きかったか、それがよくわかる。

 朝鮮出兵は、知っての通り、二度あった。前役での清正の働きでは二人の王子をとりこにしたのが有名だね。清正の軍は、まったく無人の境を行くようなめざましさで、不敗だった。強いばかりではない。清正の軍は、軍紀が厳正なことでも知られている。こういう厳正な人物だったということですよ、清正。釜山上陸以来、どこへ攻め上っても民を犯すということがなかった。まったく、清正軍が占領した土地では、どこでも民はふだんと少しも変わらず安らかに生業に従っていたというだから。

 朝鮮の役が始まって四年目、慶長元(一五九六)年に、清正は秀吉の勘気をこうむって急ぎ帰還せよという命令を受けた。これは、結局、現場で生命けで戦っている清正と、本国の遠く離れてたところにいる秀吉とをつなぐパイプ役がよくない、そのためです。

 両者の意志の疎通をはかる中継ぎ役であるはずの石田三成(1560〜1600年)、これが小西行長(戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。 1555〜1600)なんかと組んで清正のことをいろいろと悪(あ)しざまに秀吉に報告したんだな。

 このあたりの理由については、いろいろいわれているけれども、元来、加藤清正と言う人が、真向正直な、妥協することをよしとしない人間で、石田三成のような策謀家タイプと正反対だ。全然肌が合わない、お互いに。

 最近は、新説や新解釈が流行(はや)って、石田三成を大変立派な人物だともいいますがね、そうは思わないな、ぼくは……はっきりいって。なにか、こう小賢しい感じでね。智謀の士というよりも、むしろ陰険な能吏型の人間ですよ。人に取り入ることが上手(うま)くて、現代の政治行政でいえば、まあ官房長官みたいな、そいう役どころがぴったりだった。だから、秀吉という大器量の人の下にいれば、それなりの優れた働きはするんだけれど。

 三成の中傷で呼び戻されて蟄居を命ぜられた清正、その心中は察するに余りがある……。こんなに殿(秀吉)のために一所懸命に最前線で働いて来たのに……物心ついて以来ずっと秀吉のためにつくして来たのに……と、ずいぶんしただろうと思う、清正は。それまで自分の心の張りになっていたものが不意にプッンと切れた。がっかりしたろうねえ、そりゃ。

 「地震加藤」の一幕があって、
 徳川家康のとりなしがあって……

 清正は、内心欝々としながら伏見の邸に謹慎していた。ちょうどそのとき京洛の大地震があったわけだ。誤解から怒りを買い、秀吉に目通りさえ許されずにいた清正だけれど、このとき我を忘れて駆けつけた、伏見の城に。指月(しづき)の城というんだが。

 余震もまだやまない深夜の庭で、提灯の明かりで清正を見た秀吉は、思わず涙を流したといいますよ。幼い時分から手塩にかけた清正なんだから、もともと。その清正が、数年にわたる異国の滞陣で、やえ黒ずんだ上に、自分に謹慎を命ぜられて、その心労が重なって……。本来はとても温かい人ですからね、秀吉という人は。

 この地震騒ぎのときのエピソードが、例の有名な「地震加藤」という芝居になった。このあと、家康が秀吉にとりなしてくれてね、前田利家と一緒に。それで清正、許された。これが加藤清正と徳川家康の直接的なかかわりの最初かな。家康は先の先まで読める大変な人だからね。清正の価値をよく承知していたろう。こういう人物を自分の味方につけておかなくては、将来何かあったときにえらいことになる。そういう配慮が家康のどこかにあったかも知れない……。

 それから間もなく、秀吉は大阪城で明の講和使と引見したが、その講和の条件というものがひどいものだったから、すっかり怒ってしまった、秀吉が。小西行長や石田三成が、耳ざわりのいい話ばかり、適当に秀吉に伝えていたわけですよ、それまで。ここで激怒した秀吉は、使節を送り返し、二度目の朝鮮役が起こる。二度目は前の役と違って日本軍、旗色が悪かった。明の大軍に押され気味でね。それでも、清正軍の蔚山(うるさん)の籠城戦は語り草になっているくらい立派なものだった。水も食糧もなく、紙を食べ、壁土を煮て食いながらついに頑張りぬいたのでしたのですから。

 慶長三(一五九八)年八月に入って秀吉が死ぬと、その遺言で外征はとりやめになった。秀吉が死ぬときの話ですがね、いわゆる五大老(徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景)に後事を託しているでしょう。家康を始めとする。こういうところが、人間の哀しさというか、むずかしいところなんだ。

 加藤清正ほど秀吉にとって信頼できる人はいないわけだよ。親族であるし、婚姻関係もある。そういう主従なんだから。徳川家康ほど親子代々の家臣団ではないけれども、秀吉にも清正をはじめとする大家臣団みたいなものがあったわけですよ、一応。ところが、せっかく天下を取って死ぬときに、秀吉、そういう本当にたのみになる人に後事を託さないんだねぇ。遠ざけたというのではないんだけれども、清正なんか、ね。

 結局は家康なんかに託しているわけですよ。つまりそれは、家康がそれだけの実力を持っているから、秀吉としてみれば自分の次は家康だと思うから、頼まざる得なかったんだろう。

 現在でもよくある、こういう話は、ぼくの知り合いにもあるしね。見当違いのところに自分の後事を託しちゃう……自分が一番よく知っている、自分の小さいころからの旧友に託さないで……。そうすると、とんでもないことになったちゃって、あとに残された身内の人なんかが大変な苦労をしなければならない。そいうところ、なかなかむずかしい話だね。秀吉ほどの英雄でも見当違いをしちゃうのだから。やっぱり死ぬ前のころから、多少ボケていたかも知れない。

 秀吉没後の清正は、
 もはや単なる武将ではない……

 関ケ原の役で天下が東西に別れたとき、清正は東軍についた、知っての通り。西軍の張本人の石田三成と不和の間柄だったということもあるが、それ以上に、

「西軍は、豊臣家の軍ではない。あれは治部少(三成)の私的な軍である」

 という信念を持っていたんだね、清正は。だから徳川家康の東軍に味方をして、九州一円の鎮圧に当ったわけだ。家康も、このことを大いに感謝し、

「よくぞ仕えてのけてくれた」

 と、戦後に肥後全土と豊後の一部を合わせて五十四万石を清正に与えている。

 また石田三成のことになるけれども、この関ケ原の戦い一つを見ても、その人物が大したものでないことがわかる。兵数からいえば三成方が十二万八千、家康方が七万五千。断然西軍のほうが優勢なわけだ。ところがまけつゃう。実戦の経歴が、全然ないわけではないけれども、まあ、ないに等しい。

 大軍をひきいて戦をする器じゃないんだね。根本的なことは、三成の西軍が数こそ多いけれども、まったくの烏合の衆だったということ。それだけ人望がないんですよ、石田三成に。この人のために力を尽くして戦おうという気にだれもならない。ほうびに釣られて味方しただけの軍勢だということが三成にわかっていないんだ。

 三成は秀吉の好調時代に秀吉のそばにくっついていて、つねに権力の座にいたいたけれども、順境しか経験がない。清正みたいに異国の地で生命がけで敵と戦い抜いた、壁土まで食いながら頑張ってのけた、そいう体験をしていないでしょう。こういう、逆境に沈んで苦しみ抜いたことのない人間は、だいたい駄目なんだ。人を見る目も出来ていないしね。

 関ケ原は、家康が三成を挑発して計画的に誘い込んだ戦いです。みすみす、それに乗っちゃう、三成は。それでも西軍が勝つチャンスがなかったかというと、決してそうじゃないんだ。あったんだよ、絶好の機会が。家康がすぐ目と鼻の先に到着した、その晩、夜襲をかけて一気に家康を討ちとる可能性ががないこともなかった。それを献策した人があったのに、三成は実戦の経験がないから、むざむざこの好機を逃してしまう。

 陰険な性格で人望がなく、実戦も知らず、人心を洞察する力も欠けていた、こいう三成が家康に勝てないのは、まあ、当然のことだった。これに比べて、加藤清正は人間の大きさが違っていたなあ。朝鮮の役から以降、清正は別人のごとく大人物に変貌している。秀吉亡きあとは、天下が家康にならなければ治まらないということを、明確に洞察していた、清正は。

 戦争というものがどんなものか、清正は身をもって味わっている。永久に戦争のない天下であらねばならないと、清正は秀吉の没後ひたすらその一事を考えているんですよ。それには、家康が天下を治めるしかない……と清正は見きわめていたんだ、ぼくはそう思う。

 家康に口実をあたえてはならない。
 豊臣家を守る道はただ一つ、と……

 秀吉には秀頼という遺児がある。あるけれども、まだ子どもですからね。その秀頼が成人して自分の力で豊臣家を切ってまわすようになるまでは、どんなことがあっても戦争なしで済ませなくてはならない。それが清正の心だったとぼくは考えている。

 そのためには、清正は自分が家康に忠義を尽くしていなければならないわけだ。ところが清正の本当の心がわからない大阪城の豊臣の家来や、ことに淀君なんか、清正がすっかり徳川方に鞍替えしたとしか思わない。清正の家康への忠義の尽しぶりが非の打ちどころのないものだけに、一層誤解されてしまううだね。

 清正の江戸屋敷は、現代(いま)の国会議事堂の北東面、皇居の堀端に向かい合わせに尾崎記念館のあたり一帯にあった。後に井伊家の藩邸になり、幕末には大老井伊直弼がこの屋敷を出て出仕をする途中を勤王浪士に襲撃されるわけだ。大層豪華をきわめた立派な屋敷で、外塀の丸瓦にすべて金の定紋をはめこんだから、きらきら光って大評判だったといいますいよ。

 ぜいたくな屋敷を建てたものだけれども、これだって清正が、暗に、

「これほどの費用を屋敷にかけておりましては、もはや戦をするゆとりもありませぬ」

 と、徳川家康に表明していることですからね。そのくらい清正は気をつかった。

 外様(とざま)の大名には、毎年のように江戸城や名古屋城の工事を命じて金を使わせる、これが家康の方針なのだけれど、ほとんど十年もの間、加藤清正は文句一ついわずに、この難題に耐え忍んでいる。はるばる九州から出て来ては城つくりや城なおしを引き受けるのだから、実に大変なことですよ。

 それもこれも、関東(徳川家康)の気持ち怒らせまい、事を起こすまいと思えばこそなんだ、豊臣家のために。それを大阪方では

 清正と高台院の二人には、ひたすら

 それだけに、自分が死んだ後も徳川の天下がつぶれぬように、しっかり土台を固めておかなければ……と家康は決心しているわけだ。その家康にとって唯一の心配の種は豊臣家ですから、結局。できることならば、なんとかこれを戦争に引きずりこんで、徹底的に叩きつぶしていまおう、そう考えている。

 清正はそれを知っている。だから、家康にしかける口実を一つたりとも与えまいと苦心をしているわけですよ。

 豪勇の武将から深慮の大政治家へ。
 その清正に比べて、ちかごろの……

 まったくお粗末になっちゃた、このごろの政治家は。

 すべたがそうではないが、大半は政治家と呼ぶにも値しない、とぼくは思うね。少しは歴史を研究して清正や家康の人物を勉強するといいんだよ。この両者の虚々実々の駆け引き、そこに政治家の一つのありかたを見ることが出来るんじゃないか。

 党利党略とか、党内の派閥争いとか、それだけでしょう、現代(いま)は。これは、どの党を見ても全部同じだよ。だから、日本の政治の全体がすっかりおかしなものになっちゃっている。内政も駄目。外交も駄目。ビジョンもなにもあつたものではないし。亡びる前の大阪方と同じだね、いってみれば。

 加藤清正の立場としては、あくまでも関東(家康)に乗ずるすきを与えてはならぬ、このことに尽きぬ。徳川家康が狙っている開戦の場合を、絶対に与えてはならない……そのためには、いさぎよく頭を下げるべきときは下げねばならない、と、こう考えているわけですよ。もし、再び豊臣家が天下をつかんだとしても、それは一時的なものに過ぎず、決して永続きはできまい……清正はそう見ていた。天下を統治して行くためには、そのころの豊臣家の政治機構が単純すぎて駄目なんだから。

 まず、譜代の家臣団というものがないでしょう。豊臣恩顧の大名といっても、それは全部、亡き秀吉が一代のうちに”わが家来”にしたものですからね。関ケ原の戦いを見てもわかる通り、中心の秀吉亡きあとは協力も結束も、もろいものだ……。

 そこへ持って来て、秀頼の生母の淀の方の問題がある。そりゃ血筋はいいし、愛らしい、いかにも女らしい女だっただろうと思う、むすめのころは。しかし、秀吉によって破天荒な甘やかしを与えられた。わざわざ彼女のために、淀へ城を築いてやったくらいだから。それで淀君とか、淀の方とか呼ばれるのだけれどもね。

 女が、驕慢の頂点へのぼりつめてしまうと、もう決して、わが身のことをかえりみなかなる。物事が正しく見えなくなっちゃうんだな。大局を見るなどということはまったくできない。これは、まあ、女性の特質なのだけれども……。

 冷静な政治的判断からすれば、当時、徳川家康の力がどれほどのものか、それに比べ、豊臣家がどういう現状であるのか、これは明々白々なんだ。それが淀君にはわからない。そのくせ自意識だけは、異常とも思えるくらいに高いだろう。天下は一時、家康に預けてあるにすぎない、家康などは亡き殿下(秀吉)の家来でしかない……そういう観念からどうしてもぬけきれないわけですよ。

 加藤清正に対しても、そうですね。むかし、あんなに殿下のご恩をこうむりながら、関東へ尾を振り、家康の機嫌をとり結んでいる。あのありさまはどうじゃ……と腹を立てることしか知らない。関東と大阪方の実力の懸隔を知り尽して、なんとか豊臣家の安泰のために両家の間に戦が起こらぬように、と心をくだいている清正の胸のうちへは、どうしても考えが及ばない。文字通り生命を賭けて豊臣家の安泰をはかろうとした実力者は、加藤清正ただ一人といってもよかったのだけれども、まあ、所詮は女ですからね……。

 清正の豊臣家への忠誠心は
 むしろ家康のほうが知っていた……

 文句のつけようがない徳川家への忠義の尽しぶりだけれども、しかし、清正の本当の心がどこにあるか、一番よく知っていたのは家康だろう、大阪方ではなくて。

 慶長十五(一六一〇)年の早春、加藤清正は肥後熊本の居城を発し、名古屋へ到着した。名古屋城の築城工事のためだ。このとき、清正は武装の兵列をひきいて、自分も甲冑に身をかため、まず大阪へ着くと直ちに大阪城の秀頼の機嫌をうかがい、伏見の加藤屋敷で三日をすごし、それから大軍をひきつれて名古屋入りをした、というんだな。

 これは「おだやかならざること……」と徳川方で思った。当然。それで家康は、本多正信を使者に立てて清正のところへ寄こした。本多佐渡守正信、家康の腹心ですよ。この正信が清正に三ヵ条の質問をしたんだ。まず第一に、秀頼の機嫌うかがいを堂々とやってのけ、それから後にこちらへ出向いて来るとは、大阪方を関東より重く見ているのではないか……次に、天下太平の世であるのに物々しい軍勢をひきつれての道中は、いささか不穏ではないか……第三には、清正どのがむかしの戦陣折のまま、ひげをつけておる、それは時節柄、異風殺伐な感じがするゆえ剃り落としてしかるべきではあるまいか……。

 大名のひげにまで文句をつけるとは、まったくばかばかしいような話だけれども、そいう家康の無茶ともいえる注文が通るかどうか、試してみたんでしょうね、これは。このとき清正の返答、実に見事なものだ。

「これは、また、腑に落ちぬことを申される。豊臣家が、この清正にとって、いかに大恩のある家か、これは家康公もとくとご存じのはずでござるまいか。なるほど、それがしは徳川家には恩義がござる。なれど新恩のために旧恩を捨てると申すのは、まことの武士のなすべきことではないと存ずる」

 正論ですよ、堂々たる。本多正信も、こう明確にいわれては返すことばもなかった。次に、清正はこういった。

「ご承知のごとく、それがしの領国は、肥後の国にて、はるばると遠うござる。もし万一、途中にて異変が起こった場合、軍兵を領国から呼び寄せたりしていては、急場の役には立ち申さぬ。したがって、十分のご奉公もできぬ、と、思いつきましたので……」

 その、ご奉公とは、どなへのご奉公でごjざるかと、正信が鋭く問いつめた。清正は言下に

「無論のこと、天下を治むる徳川家へのご奉公でござる」といい切った。これでもう、これ以上問いつめょうもないわけだ。ひげの件に関しては、清正、こういっている。

「なるほど、まさに、このようなものを剃り落としてしまえば、さっぱりといたすことでござろう。なれど、若いころからたくわえた、このひげ。むかし戦陣に在ったころ、このひげ面に頬当をつけ、兜の緒をきりりと締めたるとき、身の内が引きしまるほどのこころよさを、いまもって忘れがたく……。

 このように天下太平の世とはなっても、若きむかしを忘れがたい清正の胸中、とくとお汲みとりねがいたい」

 しようがないから、本多正信、駿府(静岡)の城にいる徳川家康のところへ帰って、その通り清正のことばを伝えたわけだ。すると家康、むしろ機嫌よく

「清正の申すことよ」と、笑ったという話ですよ。しかし、清正の本心、家康ほどの人だからちゃんとわかっている。口調にそぐわない緊張が、:そのとき家康の面上に漂っていたに違いない、と思いますね。

 史上随一の土木と建築の名人、
 それは、加藤清正である……

 清正みずから率先して引き受けたという名古屋城の天守閣の工事。これは本丸の西北の方に建てられたもので、その偉容がどんなものであったかは、再建された現代のコンクリート造りの名古屋城天守閣を見てもある程度はわかる。形だけでもね。

 天守は五重で、土台は地中深々と松の丸太を敷きつめた。その上へ二十数メートルも石垣を積み上げて天守台とした。もう実に大変な工事なんだけれど、早いんだ。清正の工事というものは、驚くほど早い。清正はじめ十九の大名たちが延べ二十万人を越える人夫を使っての築城だったというけれども、清正の工事が群を抜いて早かった。早いばかりではなくて、その工事のしかたが清正独特のもので、これは秀吉の流儀にならったんだろう。思い切り金を投じて、派手に、にぎやかにやるんだよ。

 天守の石垣に使う大石が船で運ばれて来るだろう。その大石を赤の毛氈で包み、大綱に鮮やかな緑色の布を巻き付けたものでからげ、その石の上に清正自身が乗る。大烏帽子(えぼうし)をかぶって、片鎌の槍を突き立てて。まわりには着飾った小姓たちをはべらせてね。それで清正みずから「それ、唄え」と大音声で木やりの音頭をとる。この清正を乗せた大石を先頭にして、いくつもの石材を何千人の人夫が引き運ぶわけだ。

「肥後さまの石引き」といえば、すっかり名物になっていて、沿道には酒、さかな、餅などを売る商人がつめかけ、店をひろげ、人夫と見物人を相手に目の色を変えたというんだから。いい機嫌になった見物人や商人たちまでが、ほろ酔いで何千何百、これも飛び入りで一緒に石材を引く……だから運搬の能率がかえって上がったわけですよ。人心の機微を実によく心得ているんだ、清正。まあ、こういうところが「秀吉ゆずりの仕様」というのだろう。

 しかも、ね、加藤清正自身が、麻の小袖に短袴をはき、工事場へ出て来て、人夫たちと一緒になって汗まみれで、石材を動かしたり大声で指揮をしたりする。これは福島正則なんかもそうだったといいますがね。

 けれども、こいうお祭り騒ぎの中にも清正がこまかく神経をつかい、これは、人夫も家来も、働くことが愉快でたまらない。気分よく一所懸命に働く。結局は清正の築城工事が一番能率よく、むだがないということになるわけですよ。

 まあ、そのころの加藤清正は、日本一の土木と建築の名人だったといえるだろう。その清正が心魂をかたむけて造りあげたのが熊本城だ。素晴らしいものですよ、これは。

 熊本城。
 実戦のための城としてこれ以上の城は他にない……

 熊本城の実戦用としての素晴らしさは二百何十年も後になって、ちゃんと証明されている。例の西郷隆盛の薩摩士族の反乱軍、さすが勇猛なこの軍勢も、どうしても熊本城を攻め落とすことができなかったんだから。西郷隆盛が、苦笑をして、自分の片腕とも言うべき武将、桐野利秋にいったそうだよ

「わいどんらは、加藤清正と戦をして勝てぬようなものじゃ」

 この城は慶長年間に造られたものだけれども、築城工事が始まったのは慶長六年だ、いや三年からだ、あるいは慶長四年だ、と各説がある。熊本平野の北の端に、北から南へ細長くのびている丘陵があって、その南端を茶臼山という。清正は、そこに本城を築いた。この城を中心にし町づくりが行われ、それが現代の熊本市になったわけですよ。

 茶臼山へ築城する前の清正は、そこから西へ五百メートルばかり離れたところにある隈本城を居城にしていた。朝鮮出兵のころは。いま、その辺りは古城と呼ばれていて、いまも当時の濠の跡がありますね。

 熊本城は、三つの川に取り巻かれている。坪井川、白川、井芹川、この三流を巧みに濠に利用した。谷と崖を利用した幾層もの石垣が、南にひらけた平野に対し、とくに厳重な構えを見せていて、これはまあ当然なことだけれども、石垣と濠と、幾重にも備え固めた櫓や城門が、深く深く本丸と天守閣をつつみ切っている……それを見るたびに、そこに加藤清正の意志が何か語りくるような、そういう気持ちがしますね。

 城の周囲は二里余におよぶ、といわれています。当時の城郭は、現在の熊本市街の一部を含みこんでいたわけだから、その偉容は大したものだったでしょう、もっともっと。築城に当っては、水が重要になる。熊本城の築城と同時に周囲の土木工事も整然と行われた。深さ二十メートルにもおよぶ井戸が掘られた。この井戸は、いまでも場内に残っていますが、これ一つ見ても素晴らしさがわかりますよ。当時、場内にはこういう井戸が百二十もあったという……。

 熊本城は、その石垣の築き方が独特なんだ。日本の数多い城の中でも異色のもので、裾がゆるやかに外に出て、その上に半弧形に積み上げてゆく様式。ちょっと見ると、よじのぼれそうだけれども、途中までのぼると、石垣の上のほうが頭上にくつがえって来て、空も見えない……さっき話をした西南戦争のときにも西郷軍の兵が「なんじゃ、こげんな石垣」と走り上ろうとしたけれども、どうやっても駄目ですごすごと下りたという話だ。朝鮮の城壁にこの「はねだし」という様式が多いというから、何年間も朝鮮に滞陣していた清正は、そこで学んだのかも知れないな。当時の書物には、清正のことを「石垣つきの名人である」と書いてありますよ。

 いまだに崩れることを知らない「石垣」堤防というものが肥後の各河川にある。清正が築いたものだ、これも、何百年たってもビクともしない。この堤防の築造によって船が往来できるようになり、農村の灌漑にも大変役に立った。内政に力を尽くし、領国を豊かに住みやすいようにする、そういうことにかけても立派な人物だった。加藤清正は。また、そうでなければ、到底これだけの築城工事はできませんよ。大変な金がかかるんだから。それも休むひまなしに家康に命ぜられた工事をやりながら……ですからね。

 いくら度々工事を命じても、いささかもこだわることなく「お受けつかまつる……」。そこへ惜しみなく財を投じながら、しかもその間に熊本には、大阪城をしのぐとさえいわれるほどの古今無双の城を築いてしまう。家康も「底が知れぬわえ」と、さすがに舌を巻いたそうだ、これには。加藤清正が、領国経営にいかに見事な手腕を持っていたか、これを見てもわかりますよ。現代(いま)、清正のような人がいて都知事になったら、さぞかし東京も住みよいところになるだろうと思う

 清正の、そういう政治家としての立派さはほとんど知られていないんだんな。あまりにも豪傑のイメージが強いものだか。しかし、大政治家だったんですよ、加藤清正は……。

 慶長十六年三月二十八日。
 清正の望み、ついに叶うか、と……

  関ケ原以後、徳川家康の天下が確定して行ったわけだけれども、その間、清正の唯一の”望み”といえば、関東(家康)と大阪(豊臣)との戦争を起こさぬことだった。前にもいったように、事が防げるものならどんなことでもしよう、どんなことにも耐え忍ぼう……そう考え続けていたわけですよ、清正は。

 そうしないと、必ず、」つぶされてしまう、豊臣家が。家康のほうでは、とにかくことを起こしたくてしかたがないんだから。とうとう最後には理由にならない理由をこじつけて強引に戦争に持ちこむ、その話は、真田幸村のところでしましたね。大阪冬の陣、夏の陣の話を。

 清正にしてみれば、そういう事態を何よりも恐れていた。洞察力のある人ですから。秀吉の朝鮮征伐にしてもね、その強引さは、清正自身は始めから心得ていたに違いない、とぼくは思う。承知の上で己れが為すべきことを為した……そういう人ですよ、清正は。

 それでとにかく、今度は、家康に開戦の口実を与えないために心魂をかたむけた。裏切り者呼ばわりされながら。豊臣家存続のためには、それ以外に道はないと知っているから、二条城で家康と秀頼を会見させたのは、そのためですよ。この会見を実現するまでの加藤清正の苦労というものは、それは大変なものだった。

 前に一度、家康が秀頼に”あいさつ”に出て来てもらいたいといったとき、大阪方はこれを断っちゃっている。家康が将軍の座を伜の秀忠に譲り渡して、その将軍宣下の式をするために京都へ行ったとき……。このときは、まだ秀頼が小さくて、淀の方が、

「徳川が強(た)って秀頼どのに上洛させようと申すなら、母子(おやこ:淀君・秀頼)ともに大阪において自害したほうが、よほどましじゃ」

 と、いきり立って断った。それで家康が腹を立てて、あわや……という寸前まで行った。まあ、そこで家康がこらえたからね。戦争にはならなかったわけだ。

 しかし、それから五年たって、今度は家康の力が前とは比べられないほど強大になっている。家康自身、老人になって気が短くなっているし。もう一度断られたら、

「大阪は、われに謀反を起こそうとしている」

 という理由で豊臣方を戦争に引きずりこむことができる。で、ちょうど後陽成天皇の譲位の儀式かなにかで家康が上京するのを機会に、また、秀頼に「京へあいさつに来るよう」に申し入れをした。これを断れば、今度こそ開戦ですよ。

 だから、清正が必死の努力をした。万が一にも、秀頼の会見が実現しなかったらどうなるか、家康の意図がどこにあるか、よくわかっているからね。清正には。もちろん大阪城内では、淀君が強くて、秀頼公のほうから家康のところへ出向くなんてとんでもない……と相変わらず愚かなことをいっている。

 だから、清正が必死の努力をした。万が一にも、秀頼の会見が実現しなかったらどうなるか、家康の意図がどこにあるか、よくわかっているからね。清正には。もちろん大阪城内では、淀君が強くて、秀頼公のほうから家康のところへ出向くなんてとんでもない……と相変わらず愚かなことをいっている。

 そういう事情の中での苦心ですから、清正は大変だった。福島正則、浅野幸長なんかと力を合わせて、百方手を尽くして、ようやく家康と秀頼の顔合わせを実現したんですよ。それが慶長十六年の春、三月二十八日。

 清正と浅野幸長につきそわれて、秀頼は二条城へ出向いた。そこで家康に合ったわけだけれども、非常に堂々として立派な態度だったというね、秀頼は。

 背は六尺二寸もあっても何といってもまだ十九歳の若さ。一方の家康は七十の老人。圧倒される思いがしただろう、家康のほうは。

 しかし、家康と秀頼の会見が一応無事に終わったから、これで関東と大阪の危機はなんとか避けることができた。

 この日が、清正にとって最良の日だったかも知れない。ついに多年の”望みが叶った”と思ったろう……。

 ”二条城の会見”からわずか三月(みつき)……
 六月二十四日、加藤清正死す

 二条城での会見を無事に終わらせるために、清正は実に周到な配慮をしていますよ。秀頼は四方あきの駕籠のちうなものに乗り、この両わきに加藤清正と浅野幸長の二人がふとい青竹の杖をつき、徒歩でつきそって行った。清正と幸長の躯が、秀頼の袖にふれるばかりだったといいますから。文字通り、二人とも”身をもって”秀頼を守ろうとしたんだな。

 さらに清正は、あらかじめ数百の将兵を小者の恰好をさせて京都と伏見の町々にひそませてあったという。城内に入ってしまうと自分はぴたりと秀頼のそばについて離れない。こういう宴席では丸腰にならなくてはならないから、ふところに短刀を秘めていた。

 それだけの苦心をして、ついに無事、会見を終わらせることができた。うれしかったでしょう、清正。そのまま帰りに秀頼を自分の伏見の屋敷に招き、改めて祝宴をあげている。前もって伏見まで回送しておいた秀頼の御座船の上でね。これも、やはり、清正一流の心くばりですよ。わざわざ川に浮かべた船の上で宴を催すというのは。

「秀頼が大阪城へ帰る途中に、折しも伏見の肥後屋敷前を通りかかったので、しばらく足を休めていただき、酒食を供した……」という”かたち”を整えたわけで、白昼の川面でだれの目にも明らかな、あけっぴろげの宴でしょう。家康の神経を刺激しないように、という配慮ですよ。

 ところで、ここから先が実に奇々怪々なんだ。加藤清正が発病する、会見の日から一週間か十日で、単なる気疲れか、風邪か、と思っていると、どうもそうでない。五月になると清正は、是非にも急いで熊本へ帰る……と、大阪城の豊臣秀頼にいとまごいに行き、その晩すぐに大阪から船で帰国の途についた。ところが、この船上で血を吐いた、清正が。

 五月二十七日に、ようやく熊本城へ帰ったときには、もう重体だったらしね。それから約一ヵ月、六月二十三日から危篤状態になって、翌日、二十四日の丑の刻(午前二時)に息を引き取った。五十歳だ、ちょうど。

 殉死者が二人出ましたよ。清正には禁じられていたんだけれども、その一人は、金官(きんかん)という朝鮮人で、あの朝鮮征伐のときに清正に拾われて熊本へ来ていた。清正とう人が、どれほど家来たちを可愛がり、家来たちがどんなに主人の清正を慕っていたか、わかる。

 清正が亡くなった同じ月に、清正より一週間ばかり早くに、堀尾吉晴が死んでいる。豊臣家恩顧の大名ですよ。この人も。紀州の九度山に押しこめられていた、あの真田真幸が死んだのも、二年前のこの月だ。翌々年の慶長十八年になると池田輝政。それから今度は、清正とともに秀頼を守り続けてきた浅野幸長だ。まだやっと三十八歳だよ、幸長。さらに翌年には、加賀の大守前田利長が死ぬ。あの前田利家の子どもの。

 たった三年ほどの間に、豊臣家と最も深い関係にあった大名たちがほとんど死んでしまうのですから、だれが考えても、これは……ということになる。毒殺だ、とう説が、もうその時からあった。もちろん、そうだとはいいきれませんがね。

 一方、徳川家康は、七十を越えて壮健そのものだ。そこで、いよいよ、

「もう、よかろう……」

 と、腰を上げることになる。慶長十九年、大阪冬の陣。攻めてみたらなかなか大阪城が落ちないものだから、一時和睦して、濠をどんどん埋めてしまい、すぐさま夏の陣に持ちこむ。ここらあたりは、実に強引ですよ、家康。老人の執念だな。

 もしも、清正が、大阪夏の陣まで生きていたらどういうことになったろうか……それを考えながら、ぼくは『火の国の城』とう小説を書いたわけですよ。

  大阪戦争が終わると、さすがの家康も、心身のおとろえを感じたようだ。

  「それにしても……」

   と、駿府の城へ帰って来た家康は、老臣・本多正信へ、

  「大阪の戦に、もし主計頭加藤清正が生きて在ったなら……と、それを思うて、わしは、陣中にいて、つくづくと胸をなでおろしたものじゃ」

  「いかさま……」

  「なれど……」

  「は?」

  「清正は、まこと毒をのまされたのであろうか……」 yamato.sengokuningen1.png

  「さて……」

  「わしは清正を殺せとは申さなんだ」

  「それがしも、うえけたわりませぬ」

   さぐるような家康の視線を受け、本多正信は苦笑をもらした。

  「もはや、すぎ去ったことでござります」

  「そうであったのう……」

   どちらにせよ、加藤清正の死によって、豊臣家の栄光は、家康の目の黒いうちに消滅したのであった。

   大阪戦争が終わった翌年の四月十七日に、徳川家康は七十五歳の生涯を終えた。

                                   (『火の国の城』より)            

★加藤清正の記事:平成二十九年十二月二十六日

★大和勇三著作『戦国武将・人間関係学』(PHP文庫)「石田三成と加藤清正」を書いている。


 西郷隆盛 本来、詩人であり教育者である男が
 歴史の舞台に登場せざるを得なかった……

 西郷隆盛はどういう人間か……一言でいうならば詩人ですよ。軍人でもなければ政治家でもないんだ。あるいは教育者といってもいい。西郷隆盛の本質は教育者であり詩人なんだ。

 そういう多情多感な、理想主義的な男が時代の奔流に包み込まれて歴史の舞台に登場せざるを得なかったということですよ。

 西郷隆盛は前名を吉之助という。文政十年(一八二七)年十二月七日、薩摩七十七万石、島津家の城下、鹿児島で生まれた。西郷が生まれた鹿児島の鍛冶屋町というのは、下級藩士の家が集まっているところです。父の吉兵衛は勘定方小頭だった。同じ加治屋町で大久保利通も生まれている。

 吉之助は長男で、下に弟や妹がいっぱいいた。全部で七人きょうだいでね。

「夜具などつくれぬほど貧しいくらしだもので、一枚の夜具をきょうだいどもが引っ張り合うて寝たものじゃ」

 と、後年に西郷が語っていますよ。

saigo.douzou.jpg  西郷隆盛というと、だれでも上野公園に建っている銅像を思いうかべるでしょう。現代の若い人たちはそれも知らないかな。六尺に近い巨体で、素晴らしい顔をしている。それは子どものころからだった。無口で純重な感じの少年で、まわりの子どもたちからは、

「木のぼりもできないやつ」

 と、陰口をいわれていた。だけど、まともに吉之助に向かい合って、あの黒ぐろとした大きな眼で見つめられると、だれも圧倒されて口がきけなくなったそうだよ。

 当時の西郷は、四書の素読も習字も算盤もだめ。何をやっても上達が遅いいわけだ。得意なのは腕力にものをいわせる相撲だけだった。仲間の少年と争って右腕を傷つけられてね、腕のすじを切られちゃったものだから、それで剣道をあきらめなければならなかったというエピソードが残っている。

 西郷吉之助の勉学が目ざましく進み始めたのは、この右腕の負傷が動機だったというから、少年時代の出来事というものが人間の一生にいかに大きな影響をもたらすものか、つくづく思い知らされるね。

 十六歳のころからは、島津家の菩提寺である福昌寺へ通って、無参和尚について禅を学んでいる。西郷隆盛が、後年、征韓問題をきっかけに陸軍大将の軍服を脱ぎ、明治政府と訣別して故郷の鹿児島へ去ったとき、子どものころから西郷をよく知っている大久保利通が、

「西郷な思いきりが早すぎて困る、困る」

 と、ちょうどそばにいた伊藤博文に嘆いたという話があるよ。

 西郷隆盛の伝記的なことは、いろんな本があるんだから、それを見ればいいだろう。ぼくも一冊『西郷隆盛』という題で書いている。

 派閥争いにくれた新政府に
 西郷は大きな不満を抱いた。

 西郷に大きな影響を与えたのは、島津藩主の島津斉彬なんだ。幕末の最も有力な幕府改革論者の一人ですよ。この殿様は、西郷が、

「自分にとっては斉彬公は神のごときものであるけれどもあまりにも殿が異臭紛々たるには困ります」

 と、顔をしかめたほどのハイカラ―好きなんだ。若いころから外国事情に通じていて、幕府の厳しい監視の目を盗んでは蘭学者たちとも深い交際をしていた。

 雲行丸という日本最初の蒸気船を運行させたのも斉彬だし、その他に精錬所をつくり、反射炉を設け、電信機も取り寄せて研究している。みずから写真機をあやつって撮影したりね。とにかく熱心にあらゆる外国文化の吸収につとめた人物」ですよ。そういうことができたのも薩摩という国の地理的条件のおかげなんだ。古くから密貿易をやっていて、外国との交際を一番身近に感じていた薩摩藩だからね。

 島津斉彬の政治構想は、一橋慶喜を中心に有力大名や有能な幕臣、さらには天下有識の人物を広く登用して、強力な新政府をつくりあげ、いずれは海外諸国との官貿易もおこない、世界の強国に肩を並べて行かなければならぬ……というものだった。

 こいう殿様の薫陶をうけている西郷隆盛だからね、幕府はもう腰抜けの状態で、このまま日本の将来を幕府の手にゆだねておくわけにはいかない、と。そういう信念を持っているわけです。その確固たる信念のもとに、自分が隠密になって、本当は自分はいやだと思うようなこともやっているんだよ。つまりさまざまな謀略活動をね。だけど、本質的にそういうことが好きじゃないんです、あの人は。

 それでも西郷は、信念というか、西郷なりの新時代に対する構想があって、あくまでもそのために東奔西走したわけだ。新しい強力な行政府をつくり出すためには、ひとまず徳川幕府を倒さなければならない、そのために謀略が必要ならあえて辞せずということですよ。結局、それが成功して明治維新になったよね。そのときに西郷自身はどう考えていたか。

 あれだけのことをして、つまり表沙汰にはとてもできないようなことをいろいろやって、多くの犠牲の上につくり出した新政府である。だから絶対に失敗は許されない。これからはもう、行政に携わる人間がみんな緊張して、全力を尽くして日本のために働かなければならない。そう考えていたわけだ。物凄い責任感があったということですよ。

 ところが現実にできた新政府は、これは一体何だ、たちまち派閥争い、利権争いの場になっちゃたんだ。長州藩、薩摩藩、何藩、何藩がつくった新政府だから、そのポストはおれがもらう、いや、その椅子はこっちへ寄こせ、そのためにはあいつが邪魔だから何とか追い出してしまえとかね、もうそればかりなんだ。

 新政府ができあがった途端にこれだから西郷はがっかりしちゃったわけですよ。理想のために血まで流して生み出した新政府だのに、みんな威張りくさつて、いい気になって大邸宅を構え、賄賂を取り、そんなことでどうするんだというのが西郷の怒りなんだよ。

 成り上がりのような思想を
 西郷は持たなかった。それだけに絶望の度も……

 明治維新政府というものが誕生したとき、西郷はまあ、やはり高給をもらう立場になったわけですよ。だけど、それを自分のものにしていない。子弟の教育とかそういうことに全部注ぎ込んじゃって、自分自身は浜町の昔の大名屋敷の跡の長屋に住んでいて実に質素な暮らしをしているんですよ。

 その西郷が見るとだね、みんなこうヒゲなんか生やして、ふんぞり返っているでしょう。ついこの間までは素浪人だったり足軽の伜みたいだったのが、急に偉そうにしてさ、軍人になったり政治家になったりしているわけだ。妾を囲ったり、利権を漁ったり、やることが見ていられないわけだよ、西郷にしてみれば、苦々しくてたまらない。

 二十年、三十年たってそうなったじゃないんだ。ついこの間のことなんだ、明治新政府が生まれたのは。できたと思ったら四、五年もたたないうちに、そうなっちゃった。だからどうしたって西郷が離れて行くことになる。

 われわれが徳川に代わって天下を取った暁には、ひたすら身をつつしみ、一所懸命日本のために尽すんだと、それで国民全部をしあわせにするんだというのが西郷の新政府の理想でしょう。それでなかったら、なにも幕府を倒す必要なんかなかったんだ。

 にもかかわらず、新政府になってみたら、せっかく血を流して多くの死者を出して倒した幕府の時代よりも、もっとひどくなつちゃった。成り上がり者がみんな威張り出してね。西郷の考えている新しい時代とはまったく違う。それで西郷は次第に絶望して行くんですね。

 山縣有朋なんてねえ、元をただせば長州藩の足軽よりさらに下、これより下はないという軽輩だったものが、もう出世欲の権化になっちゃって、文字通り「位人臣を極め」たわけだろう。大元帥になって、物凄い屋敷を構えてさ。目白の、いまの椿山荘。あれは山縣有朋の屋敷だったんだからね。(西郷は山縣を助けたとの記述もある)。

 人斬り半次郎といわれた中村半次郎。これも陸軍少将に出世して、ヒゲを生やして、名前も桐野利秋。湯島の切通の向かい側に、何とかいう大きな殿様の屋敷があったんだと。今はマンションが建ってるけど。あそこを自分の住まいにしてね、威張りくさって暮らしていたわけだ。

 だけど、人間の中身はちっとも変っていない。西郷から見れば。あんな薩摩の水のみ百姓の伜で、食うものも食えないでいたやつがね、いくらヒゲ生やして偉そうにしていたって、全部わかっているわけだよ。知っているんだから、昔から。

 人間というの、自分ではその時は気づかない、後になってようやくわかるんだけれども、自然にその時代の流れというものにね、押し流されて行っちゃうものなんだ。だから世の中こわいよ。

 昔、よく、畸人といわれる人がいるでしょう。たとえば、池大雅とか。金がいくらでも入って来るようになると、わざわざ金から離れる人がいるんだ。これは金というものがね、こわいんですよ。金を持つことによって自分が変わるのがこわい。

 だから、いくら金を積まれて絵を描いてくれと頼まれても、わざと断っちゃう。それで一生貧乏。そういう変人畸人というのがいるでしょう。それは、やはり、金がほしくないというんじゃなくて、金を持つことによって自分はどうなっちゃうか、それを恐れるわけだ。つまり、それだけ人間の弱さを知っているというわけですよ。己を知るというかね。明治維新政府の役人や政治家は、むろん全部じゃないんけど、成り上がりばかりだからね、それが全然わからないんだ。西郷隆盛がそういうものに絶望したのは無理もないことなんだ。

 征韓論の対立で
 西郷は新政府と袂を分かつ……

 西郷の本質は詩人であり、教育者であるから、つまり、無私の人なんだ。こういう人間は幕末の何がどうなるのかわからないような動乱の中にあっては、多くの人びとの指導者として一番大きな役割を果たす。しかし、一度新政府という官僚組織ができあがってしまうとね、もう西郷のような存在は無用になってくるわけだよ。邪魔なんだよ、むしろ。

 西郷隆盛が下野する直接の動機となった征韓論でもね、西郷は自分で向うへ行って死ぬつもりで、自分が死んでしまえば、つまり自分が朝鮮で殺されてしまえば、それを理由に出兵できると、そいう狙いで朝鮮へ使者に行きたがったのだと、まあ、こういうふうに一応いわれています。しかし、本当のところはどうなんだかねえ。

 西郷自身は、そんな戦争をしかけるつもりで朝鮮へ行くと主張したわけじゃない、とぼくは思うんだ。向うへ行って談判をして、説得する自信があったからなんだ。

 当時、朝鮮はどうなっていたかというと、それまで幕府とはちゃんとつきあってきたわけだ。その幕府を倒した、素性の知れない浪人どものつくったような新政府とはね、自分たちはつきあう必要はないというわけだよ。それで何回も新政府から通告しても全然応じない。日本から行く使者は非常な侮辱を加えられたんだ。いろいろと嫌がらせをさらたりね。

 それで、もう放っておけない、もっと強腰で本格的な外交交渉をしなければいけないということになって、それなら、

「よろし。他人じゃいかぬ。わしが使節となって朝鮮へ乗り込んで見よう」

 と、西郷がいい出したわけだ。

 旧幕時代から続いている旧対馬藩の出張所のようなものが朝鮮の釜山にあって、これを倭館と呼んでいた。そこに日本の外交官や居留民がいたわけですよ。ところが、朝鮮政府が、倭館の日本人に対して衣食用品を一切売ってはならぬとか、無茶なことをいい出していたからね。そのうちに居留民たちの生命の危険まで感じられるようになってきた。

 それでついに西郷が乗り出そうというわけだ。そうすると新政府の閣僚たちは、武力を背景にした強硬な談判を行う以外にない、まず軍隊を先に釜山へ送り込んで、それから交渉を開始すべきであるというんだ。このとき西郷は、そいうやりかたは朝鮮をいたずらに刺激するだけだからいけないと、はっきりいっていますよ。

「そりゃちょいと早すぎもそ。にわかに出兵となれば戦争さわぎになりますよ。いままでの折衝のこともあろうし、ここは、先ず全権を派遣して正式に韓国政府へのぞみ、正理公道を説き、大院君にも面接して、切に反省を求むべきじゃ。

 この全権にしても兵をひきいて行くべからず。大使たるものは、よろしく烏帽子直垂の礼装に身をかため、礼をつくし、道を正すこといを第一義として彼地へおもむくべきでごわしょう」

 そういう礼を尽くしたやりかたで朝鮮へ交渉に行きましょうというのが西郷の主張だったんだ。だけど、新政府は、西郷隆盛が出て行ったら必ず戦争を誘発するつもりだと。

 もし、そうなったら大変だ、戦争になったら日本はまだ内政も固まっていないし、いたずらに諸外国列強の食いものにされてしまう。だから、絶対に戦争になるようなことだけは避けなければならないというのが、大久保利通や木戸孝允(たかよし:桂小五郎)なんかの考えかたなんだ。そのために必死になって西郷全権派遣を阻止したわけです。

 で、結局、岩倉具視の暗躍が成功して征韓論はつぶされ、西郷隆盛は、もうこういう新政府とは一緒にはとても働けないということで、薩摩へ帰ったと、まあ、こういうわけだ。だけど、そのときは朝鮮と戦争にならずすんだが、じきに戦争になってるじゃないか、台湾と。まったく馬鹿な話ですよ。ビジョンも何もないわけだよ、新政府には。

 政治家の感覚としては
 大久保利通の方が西郷より上。

 大久保利通には、大久保なりの構想というものがあった。薩摩も長州もない、新しい政府をつくるんだということでは、大久保も西郷も同じなんですよ。ただ、西郷のことをね、薩摩の士族たちが「先生、先生」といって神のごとくにあがめたてまっている。みんながみんな軍人なんだからね、ほとんどが。西郷隆盛の動き一つで、新政府の軍隊というものが、どうにでもなってしまう恐れがあるわけです。だから大久保としては、やりにくいことおびただしい。

 大久保はアメリカからヨーロッパを回って、列強の科学文明の素晴らしさを目のあたりに見て来ている。そして日本へ帰って来て一番感じたのは、とにかく内政をととのえなければならぬということなんだ。

 まだ新政府ができたばかりで、内政が乱れている、官吏だの軍人だのをきちんと掌握して、内政を固めてでなければ、戦争どころじゃないというのが大久保の信念なんだ。

 自分が正しいと信ずる政治構想を実現するためなら、どんなことでもするのが大久保利通ですよ。政治家としては、それはもう大久保のほうが西郷よりも上です。西郷自身、大久保のほうが上だということを知っている。だから、あとのことは大久保にまかせておけばいいと、自分は故郷へ帰ったわけですよ。

 だけど、西郷隆盛は神様も同然だからね、薩摩へ帰ったら。まわりの子分たちが悲憤慷慨して、西郷を押し立てて、新政府をやっつけようとする。それが困るわけだよ、西郷も。なんとか薩摩軍人たちをなだめて、暴走させないようにと、西郷は一所懸命に頑張った。

 だから旧佐賀藩の士族たちが、ちょうど故郷へ帰って来た江藤新平をかつぎあげて、佐賀の乱(1874年:明治7年2月)を起こしたとき、鹿児島の西郷のところへも一緒に事をあげましょうと誘いがかかって来たけど、西郷は言下にはねつけていますよ。そんなことをしてはいけないって。

 佐賀の乱は、あっという間に鎮圧された。江藤新平が四国まで逃げて捕えられると、大久保はみずから佐賀へ駆けつけ、そこで臨時裁判所を開いて、たちまち江藤を死刑にしてしまうんだ。中央政府の力を何としても強固なものとして確立しなければならない。

 それがためには地方士族の反乱など片っ端から打ち砕いてくれようと、大久保は大久保なりに闘志を燃え上がらせていたわけです。

 熊本の神風連の挙兵(1876年:明治9年10月)。九州・秋月の乱(1876年:明治9年に福岡県秋月:現・福岡県朝倉市秋月)。長州・萩の乱(1876年:明治9年に山口県萩で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。 1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。こういうものを大久保は徹底的にやっつけている。そのたびに各地から西郷へ誘いがかかるんだけれども、西郷は動かない。相手にしないんだよ。大久保のやっていることが正しいと認めているからなんだ。

 大久保利通の強圧手段というのは、安政時代の井伊大老の大弾圧に比べれば、規模は小さい。だけど、その激しさは安政の大獄よりもっと凄かった。命がけで新政府の安定を目指していたからね、大久保は。政治家としての大久保の生活は西郷と並んで清廉そのものなんだ。

 とても今をときめく政府最高権力者とは思えないほど粗末な家に住んでいて、死んだとき家にはわずか三百円の金しか残っていなかったそうです。

 大久保利通のやりかたは、それが正しいと思ったらもう、他のことは全然気にしないんだ。旧藩士意識というようなものはまったくないから、すべて新しい中央政府の立場から割り切って考える。

 藩籍奉還とか廃藩置県とかを推進して、かつての主君島津久光が激怒しんたって平気だし、きのうまでの仲間である士族たちが没落したって一向気にしない。そこが大久保の大久保らしいところであり、西郷隆盛と違う点でしょうね。

 西郷を敬慕する私学校党の生徒達の蜂起に
 西郷は従わざるを得なかった……

 西郷の場合は、不平不満の士族たちを、大久保のように切り捨てられない。むしろ、彼らの不満というものを全部、自分が一身に引き受けてしまう。結局そのために西郷は死ぬことなる。

 もし、西郷隆盛が生きていて、明治維新前夜の秘密をしゃべったら、今の歴史なんか一変しちゃうようなことがあったに違いないと思いますね、ぼくは。

 西南戦争というのは、大久保が謀略によって挑発したものだという説がある。ある程度真実と思っていいでしょうね。薩摩だけは西郷王国として独立国みたいになっている。それは困るわけだ、新政府としては。何とか手を打ちたいんだけれども、大久保にしてみれば自分の故郷であり、西郷への遠慮もあるから。

 それで、いつかは機会をとらえて薩摩の西王国を中央政府の前に屈服させようと狙っていたわけだ。そのために大山綱良を東京へ呼びつけて詰問したり、鹿児島へ大量の密偵を送り込んだりしている。それが西郷に心酔している私学校党に見つかって、捕えられた密偵の一人が西郷暗殺計画を自白したからたまらない。そういう騒ぎの中で、私学校党が、鹿児島にある政府の火薬庫を襲撃するという事件が起きた。

 もう、こうなったら公然たる反乱ということになる。大久保にいわせれば、またとない薩摩打倒の口実ができたわけですよ。このとき西郷自身は大隅半島の小根島というとこころにいて、狩猟を楽しんでいたんだが、火薬庫襲撃の第一報が届いた瞬間、

「しまった!!」

 と叫び、やがて嘆息をもらして、

「ただ,天でごわすよ」

 と、つぶやいたのは有名な話だ。

 大久保利通を中心とする新政府が、とうとう西郷を死に追いつめたといっても間違いではない。だけど、政府が追いつめたというよりも、西郷みずからが追い込まれて行ったというほうがもっと正確でしょうね。そこが政治家でもなければ軍人でもない、西郷の西郷らしいところなんだ。情に負けてしまったわけですよ、自分のかつての部下たちの。じゃあ、みんなのために死んでやろう、と。そうすればまた、そのことによって中央政府のやりかたというものが正しい方向へ改められて行くだろう、というわけだ。

 詩人ですからね。あまりにも感情が豊かだから。それに禅の影響も受けているでしょう。若いときから。それで思い切りが早過ぎるということになるんだよ、どうしても。

 井伊大老の大弾圧のときもそうなんだ。島津斉彬の在世中から西郷とともに幕府改革を叫んで来た人びとが徹底的に弾圧されたでしょう。西郷もこのとき、幕府方の追及を逃れて、僧・月照と一緒にようやく鹿児島まで落ちのびた。だけど、藩の重役たちは、幕府を恐れて、ただちに月照を立ちのかせよという。西郷はそんなことはできない。それで、たちまち月照とともに死のうと決意してしまうわけだよ。そういう人なんだよ。大久保のような粘りがないんだね。

 昔の政治家は教養があった。
 それにひかえ今の政治家は……

 西郷隆盛はね、大変な女好きですよ。京都の島原の遊郭へはしょちゅう通ってたよ。若いころは、金があるからね、勤王がたは。それで、どこかの料理屋の仲居といい仲になってね。その西郷の恋人というのは、西郷に負けないくらいの大女でさ。凄いおでぶちゃんなんだ。

 これ、芝居でよくやりましたよ。先々代の松本幸四郎が西郷をやるとするとね、今の延若のお父さん、石川五右衛門をやるような大きな女のほうになるんだよ。

 島流しになったときも、島の娘の愛加那(あいかな)と一緒になって、子どもも二人いた。後に鹿児島へ連れて来ましたよね。とにかう西郷は女が好きですよ。それで新政府が新島原という遊郭を今の新富町のところへ設けたわけだ。ところが、あんまり新政府の連中が遊び過ぎて、風紀が乱れるというので、廃止しちゃうんだ。そのとき西郷は物凄く起こったという話が残っていますよ。西郷の女好きというのは、女のほうが放っておかないわけだよ。西郷を。あの大きな黒ぐろとした眼で見つめられたらねえ、だれだって逆らえないよ。

 明治維新であれだけ大立物として活躍した西郷だけれども、本質は政治とは無縁の詩人でしょう。そういう不思議な人がいるんだよね、ときどき。軍人でありながら本質的に違うというような、たとえば乃木希典がそうですよね。

 これもやはり詩人ですよ、西郷と同じだよ。軍人じゃないんだ。本当は。乃木希典の詩、漢詩ですがね、これは日本詩人全集を出したら真っ先に入れなきゃいけないほど立派なものですよ。素晴らしいんだよ。だけど詩人としては絶対に認めないね、日本の文壇は、乃木希典を

 山縣有朋なんかでもね、政治家あるいは軍人としての山縣は、ぼくはあまり好きじゃないけど、詩人として漢詩は大したものですよ。これはもう物凄く感情が激しい人なんだ。だから詩はいいんだよ。

 岸信介にしてもね、獄中にあったときに短歌を詠んでいるわけですよ。うまくはない。それでも短歌になっているものね。とにかく岸信介という政治家ではなくて、もう一人別の岸さんの顔をみるような気がするぐらい。昔の人はみんな、何かそういうところがあったよ、どこかにね。

 そいう点では、現代の政治家は実に無教養でお粗末なのが多いね、全部とはいわないけれども。泥臭いでしょう、みんな。明治維新当時の政治家は田舎臭い成り上がり者ばかりではあったが、なるべくあかぬけよう、あかぬけようと努力したことは事実なんだ。

 明治天皇でもそうでしょう。この天皇は大変な豪傑だったというんだけど、天皇としての責任を物凄く強く感じているんですよ。明治維新のときはまだ子どもだったとはいえ、自分を中心に押し立てて薩長を中心とした勤王がたが新しい政権を樹立したわけでしょう。

 そのことがつねに心にあるから、大変な責任を感じている、日本の国に対して。だからあれだけ立派な天皇になったわけだ。

   年々(としどし)に思いやれども山水の
   汲みて遊ばん夏なかりけり

 そういう御製があるんですよ。毎年毎年、山へ行って清水を汲んで遊びたいと思いながらも、そういう夏はない、と。国務にそれだけ打ち込んでいるわけですよ。これはねえ、一般のわれわれと違って嘘をついたり自分を飾ったりしないんだよ、天皇は。本心をいっているんだよ。

 小学校のとき、読本に載っていた、その明治天皇の歌をね、ぼくは今でも覚えているんだ。子ども心にも、

(ああ、天皇って偉いなあ……)

 と、思ったからだろうね。何から何まで国のため、国民のため、それしか考えないのは天皇だけでしょう。「・・・・・・汲みて遊ばん夏なかりけり」って、衒いでも嘘でもハッタリでもないんだから。今の天皇の歌もそうですよね。優れた名歌とかなんとかいうんじゃないけど、やっぱり俗人じゃ詠めない歌ばかりですよ。「明治天皇御製」が出ているだろう。どこかの文庫で。たまには、ああいうものを読むといいんだよ。いまの政治家は・・・・・・。

2018.01.07


17
知の職人たちー辞書の編集関連ー

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 紀田順一郎『知の職人たち』(新潮社)には、吉田東伍と『大日本地名辞書』、石井研堂と『明治事物起原』、斎藤秀三郎と『斎藤和英大辞典』、日置昌一と『話の大事典』、巌谷小波・栄治と『大語園』、新村出と『広辞苑』について述べられている。

 一般的に一番多くの人に用いられて辞書は広辞苑ではないでしょか。私は『大日本地名辞書』で故郷の記事を図書館で調べたことがあり、『斎藤和英大辞典』が手許にあります、他の四つはまだ見たことがありません。
 私の手持ちの新村出『広辞苑』の奥付は次のものでした。
 昭和三十年五月二十五日 第一版第一刷発行 広辞苑
 昭和三十九年八月一日  第一版第十三刷発行 定価二三〇〇円のものしか買っていなくて表紙はテープで補修理して未だに愛用しています。最新版は第六版 2009年1月20日 定価15,450円(税込み)である。

 新村出は明治九年(一八七六)山口市に生まれた。幕臣であった関口家の二男であるが、父が山形県知事から山口県知事に転任した後に生まれたというので、「山」を二つ重ねて「出」と命名された。同じ幕臣新村家の養子となり、高校時代には電気工学を志望していたが、数学や理科より国文や漢文の成績がよかった。明治二十九年(一八九六)東京帝大文科大学博言学科に入学、金田一京介らとともに上田万年(かずとし)の教えを受け、三年後に首席で卒業した。この年からはじまった銀時計を、明治天皇から授与され、感激したという。大学院では国語科を専攻した。

 東大助教授を経て京大助教授に転じ、ドイツ、イギリス、フランスに留学して言語学を研究、明治四十二年(一九〇九)帰朝して教授に進み、学位を得た。ぞの功績は、実証的方法を通じてわが国の国語学の基礎を築いたこキリシタン文献に関する書誌的研究を行ったこと、語源・語誌 の研究を行ったことなどである。

 このような経歴を持ち、東西にわたる博識を有する学者として、夙に高度の学問的辞書の必要性を感じていたことは当然だった。彼の国語辞書に関する理想は「日本辞書の現実と理想」(一九三四)という、講演をもとにした文章に述べられている。それは要約すれば次のようになるだろう。

 ――新村出は現実と理想について具体的に述べたあと。「辞書は一部の人の役に立つ丈(だけ)のものではなく、最多数の色々の目的を持つ人に役立つものであって、痒(かゆ)い所に手が届く様にありたいのである。非常に深い専門家は別として、他の専門家のものも一通り調べようとするとき、大辞書から一通りは分らないことのない様にしたいものである」と結んでいる。

 懇意の岡書院の社長、岡茂雄から辞書の編纂を依頼された。しかしにベもなく断ったのである。

 ほとんどの辞書は編者自ら執筆するものではないから、版元としては要するに適当な実務担当者を推薦してもらえばよいということになる。溝江八男太(やおた)は新村出の教え子で、辞書編纂の最適任者というほどでなかっただろう。もしかしたら溝江が断ることをアテにしていたのかも知れない。しかし溝江は「私の意見を容れてくださるなら、及ばずながらお手伝いしましよう」と返事をしてきた。ともかく、辞典はこのような経緯でスタートした。

 編纂が開始されると、当初の予定枚数を遥かに越えることが明らかになってきた。岡としてはいまさらやめるとも言い出しかねて、企画じたいを博文館に譲ってしまったのである。

 博文館は新村出という名前すら知らない出版社だったから、両者の間に意志の疎通を欠く面もあったと言われている。前後四年あまりで完成ということになったのである。昭和十年(一九三五)二月のことであった。なお、書名は晋の葛洪(かつこう)の『字苑』からヒントを得て『辭苑』とした。 

 博文館は新村出という名前すら知らないほどだから、ひそかに売れ行きを案じてていたが、蓋を開けてみると大好評で、増刷も間に合わないほどであった。刊行一年目に八十版、五年間には二百六十版を重ねるという盛況に、版元は大いに喜んだ。

  無限に続く修正

 岡茂雄の回想によれば『辭苑』改訂のプランは初版発行後一カ月もたたないうちに開始されようとしている。これは一般向けの辞書としては異例であるが、察するに予想外の多数の読者を獲得したため、誤りの指摘なども多かったのであろう。辞書とはそういうものだが、岡としては、ただ新村の名に傷をつけたくない一心だったと思われる。
 ところが新村は書肆の処遇に何かと癪にさわるものがあったらしく、手を引きたいという意向を示した。岡は「これまでは博文館相手の仕事と、とれもしましたけれど、辞書が出来上がってたくさんの読者の手に渡った今では、読者と編著者という関係になります」と説得、新村も考えを改めて、改訂作業にはいることにした。

 『広辞苑』誕生の第一幕の主役は岡茂雄であったが、第二幕のそれは新村出の二男の猛(フランス文学者、一九〇五―)である。彼自身が著した『「広辞苑」物語 辞典の背景』(一九六九)に詳しい。それによると、増補改訂版の刊行目標は昭和十五という慌しさで、すでに作業は開始されていた。やがて戦局の進行が予断を許さないものとなり、そのうちに用紙統制がはじまり、組版が焼失してしまうという不運に陥った。校正の清刷(きよずり)は残ったので、それをもとに作業を続けたが、ついに編集は中絶の憂き目を見ることになってしまったのである。
 博文館から岩波書店に継承された。

 『広辞苑』第一版は昭和三十年(一九九五)五月に刊行された。ちなみに岩波書店は版次の表現を「第一版」「第二版」というように統一している。第一版のマイナー・チェンジは「第一版第二刷」である。改版するなど、大きな変化があると、その時点で「第二版」ということになる。
 『辭苑』から数えれば、戦争をはさんで二十年ぶりの改訂版である。

<一冊の辞書>を問う

 書物というものは、ひとたび著者の手を離れてしまうと、一人歩きをしてしまう。『広辞苑』第一版は、編集者サイドから見れば検討を要する部分が多いものだったにせよ、一般には最も頼りがいのある辞書の一つと受けとめられ、愛用者が増加していった。その例証の、ほとんど最初のものと思われるのは、刊行後数年を出ずして現われた戸塚文子の賛辞であった。
 その少し後、宮尾登美子は「事情あって」家財道具をすべて売り払い、土佐から上京してきたが、蔵書のいっさいを手離しても、『広辞苑』だけは手離さなかったという。
 「上京後のどん底生活のなかで、本を買う金さえなかった私が、どれだけこの『広辞苑』によって助けられ、慰められたことだろうか。読みはじめるとおもしろくなってやめられず、そのうち、この本から得た知識が自分の頭のなかで散逸してしまう惜しさに気がついてノートをとりはじめたが、これがこんにちの私の小説ことばの原型となってしまったのである」(朝日新聞「私の一冊」一九八三年一月七日)
参考:宮尾登美子『蔵』

 尚この本には色々書かれていますが、省略します。
 多くの先人の辞書の辞書作りの情熱とその編集の継続を思い、その受けている恩恵に感謝を込め、この本の紹介を終わります。


▼三国一郎『鋏と糊』(自由出版社)に「辞典編集者たち」の章に「広辞苑」の記載があるのをみつけた。その要点をのべます。

 新村博士の「広辞苑」の前身にあたる「辞苑」の版元は博文館で、私の持っているいる二十五版の奥付けを見ると、初版が出たのは昭和十年二月五日になっています。この古い「辞苑」は、終戦の年に中尉で戦病死した弟のものであった。

 戦後新装の「広辞苑」初版が出たときはいち早く購入して、座右ので本当に「字引く書なり」として愛用しましたし、初版から十四年に第二版が出たときも、発売日の五月十六に、てにいれてました。

 それだけに「朝日ジャーナル」の十月十九(昭和四十三年)号の誌上で、広辞苑第二版に「誤りが数百カ所あること、書店が著者の意向を無視して出版を強行したこと」を著者側の代表者新村猛が新聞に語っている、と知った時はかなりショックをうけました。

 「広辞苑」第二版のミスについて最初に岩波書店に訂正が申し入れられたのは、発売直後の六月のことで、香川県小豆郡土庄町の教育委員会が、「オリーブの葉は対生なのにさし絵が互生になっている。開花の時期や名称などの記述にも問題点がある」と申し入れたとのとのこと。

 つづいて大阪大学微生物研究所の藤野恒三郎教授が「腸炎ビブリオ」の項の最後にある「アジア・コレラの代表的なもの」との一文につき「この説明ではアジア・コレラの病原体(コレラ菌)はビブリオ属には違いないが、あくまで異種だ。つまりアジア・コレラの病原体と腸炎ビブリオは兄弟だ」と指摘した、とあります。

 新村猛、「岩波書店広辞苑編集部」はこたえている。(内容省略)

 私も一度「ひつじ草」の開花時刻と未(ひつじ)の時刻との関連について岩波書店に約一カ月にわたる観測結果を添えて手紙を書いたことがあり、返信をいただいた経験がある。

 「広辞苑」は国語辞典であるととともに二十万項目を網羅した”ミニ百科事典”でもあり、とても一人や二人の編者でつくれないところに、このような素因があるのではないでしょうか。ミスを完全になくすことは海水の中の大腸菌を絶滅するのと同じように至難なこと、といったら編集スタッフや版元に大変失礼にあたるでしょうが、恩恵に浴することの余りにも多い私たちとしては、いたずらに目くじらを立てすぎるのもどうかと思われます。しかし、版元としてはもまさか「当辞典のミスは許容量の基準をはるかに下まわっていますから、安心して御使用になれます」と広告するわけにはいきますまい。むずかしい問題ではありませんか。

平成二十三年三月十一日


18

本のおくづけ【奥付】


 書物の終わりにある。著者名・発行者(所名)・発行年月日・定価などを印刷した箇所。(岩波 国語辞典 第三版による)。

 『広辞苑』第一版には掲載されていない。不思議に思う。

 最近、初めて、私に関係した本を自費出版することにした。

 その時、大変お世話して下さった方が(何度も自費出版されている)、私の原稿に奥付がないことを指摘されまして「うつかり」にきづかされました。

 私は、十年も以前に、自分が読んで参考になったある本を友人に紹介した。

 いま、その本を思い出して、奥付を見ると、「一九七〇年二月一六日第一刷発行 一九九〇年四月一三日第三〇刷発行」とある。

 以上の経験がありましたが、その後、本を購入する場合は、ただ好みの著者・書名のみであった。 二〇年間も発行されていることは、多くの人が読まれたものであることになり、この本を友達に推薦すると、読まれて、礼状を頂いた記憶がよみがえりました。

 今回、早速に、【奥付】として、「書名・発行年月日・編集者(自分の姓名・住所・電話番号)・印刷書・製本 ○○印刷株式会社」 を追加した。

 以上のいきさつから、本を買う目安の一つとして、第一刷発行から第○刷発行の多いものを必ず参考に見ることを購入の基準の一つにしたい。

 さらに今回の体験で、製本会社で様々な本を見せてもらって、本の紙の色は白色と思い込んでいましたが、淡いベージュ色のものがあることに気づかさせられた。会社の人のお話で、白色は反射光線のためによくない場合があるとのことでした。

 思い込みが意外な効果を及ぼしていることを思い知らされた。

 読書家は、たとえば翻訳書であれば、その翻訳者名により判断されるのではないかと推察します。翻訳本より原書の方が読みやすく理解しやすいものさえあります。

 ささやかな、体験を述べましたが、読書の秋のご参考までに。

平成二十四年十月五日


19

ロメオとジュリュリエット


 平成24年5月28日、NHKニュースによると

 スウェーデン王立バレエ団で活躍する木田真理子さん(大阪府出身:30歳)が1年間で最も活躍したダンサーに贈られる世界的に権威ある賞、「ブノワ賞」を日本人で初めて受賞しました。

 日本のバレエダンサーは国際的なコンクールなどで相次いで高い評価を受けていて、日本バレエ協会は「日本のバレエの成長を示すものだ」としています。

 「ロメオとジュリュリエット」の演技が紹介されていましたので要約されたものを讀みました。


 イギリスのシェクスピアの作の戯曲(1595)

 ヴュロナの町の二名家、モンタギュー家とカブレット家とは代々敵同士の間であったが、モンタギュー家の子ロメオはカブレット家の仮面舞踏会へまぎれこみ、それとは知らずにカブレット家の世継ぎ娘ジュリュリエットと恋に陥る。のちになって、互いの立場を知るが、ロメオはもう激しい愛情のとりこになっていた。その夜立ち去りかねて邸内に忍びこんだロメオは、はからずもちょうど露台に現れたジュリュリエットが、「おおロメオ、あなたはどうしてロメオなのです。私のために父上も名まえもお捨て下さい」と、ひとり言を言うのを聞き、改めて愛の誓いを立て、あくる日結婚の時日を知らせる約束をして別れるのだった。ロメオはかねてから信頼している修道僧ローレンスを訪ねて結婚の相談を打ち明けた。かねてから両家の争いを心配していたローレンスは、これによって両家の和解の道が開けるかもしれないと考え、自分の手で、二人の結婚式をひそかにあげてやった。その夜ふたたびジュリュリエットの露台の下に忍びこむことを約束したロメオは、町で思わぬ事件に出会ってしまった。ジュリュリエットの従兄で血気盛んなアイボルトが、かっての舞踏会にロメオが忍びこんで来たことを根にもって、争いをいどんできたのである。ロメオは冷静にそれを制止したが、見かねたマーキューシオは、飛び出してティボルトと争い、倒された、ついにロメオもがまんできず、その場でティボルトを殺してしまった。さわぎは大きくなり、ロメオは、ヴェロナを追放されることになった。

▼ローレンスのもとに逃げ込んでいたロメオは、追放されるなら死んだほうがましだと嘆くが、ローレンスの、近いうちに取りなしてやるということばに励まされて、最後の日をジュリュリエットのもとですごし、夜明けに旅立つことをきめる。その夜は恋のかなった喜びと別れの悲しみのために時はあまりにも早くすぎ、夜明けのひばりの歌を、ジュリュリエットは、夜鳴くウグイスだと信じたいほどだった。ようやく東の空が白むころ、二人は人目をさけて別れを告げるが、窓の下に降りた夫ロメオの姿がジュリュリエットにはまるで墓の中にいる人のように見え、思はず不吉な予感に胸を騒がせるのであった。ロメオと別れて幾日もしないうちに、ジュリュリエットは父から若くて裕福なパリス伯爵との結婚を迫られた。いろいろないいのがれをしようとしたが役に立たず、ジュリュリエットはローレンスに助けを求めた。

▼ローレンスはジュリュリエットに薬を与え、式の前夜にこれを飲めば仮死の状態になり、墓場に運ばれるであろうから、その間にロメオに使いを出して眠りのさめるまえに迎えに来させようと約束した。ジュリュリエットは勇気を出して薬を飲みほした。あくる日の結婚式は葬式となった。

▼しかし、この計略を知らせに出かけたローレンスの使いが着く前に、ロメオはジュリュリエットが死んだことを知ってしまった。ロメオは、いまはこれまでと意を決し、毒薬を持って駆けつけ、事情を知らないパリスを殺し墓場へ死んだように葬むられているジュリュリエットに口づけして、自分もその場で毒を飲んでしまった。

そのあとでジュリュリエットは眠りからさめ、倒れているロメオを見た。そして短剣でみずからののどを刺して、ロメオの上に倒れていくのだった。いっさいの出来事をローレンスから明かされたモンタギュー家とカブレット家の人びとは、はじめていままでのおろかな争いを悟り、和解の手を握り合うのでした。

▼五幕二四場よりなるシェクスピア初期の恋愛劇で、彼の悲劇としては最初のものである。イタリアの伝奇小説から取材したともいわれるが、みずみずしい抒情にあふれたこの作品は、シェクスピア独自の浪漫悲劇であり、恋愛至上の純粋な情熱は、古くから多くの青年男女の心に訴えてきた。

 「ロメオとジュリュリエット」の実演技を見たいものです。 

平成二十六年六月七日


20

老人と海


 The Old Man and the Sea (一九五二年)アメリカのヘミングウェイ作の小説

 サンティアゴはメキシコ湾流でひとり小舟に乗って漁をする老人だった。顔のしわも手の傷あとも、すべてが長い年月を経ていたが、彼の目の色は海と同じで生き生きとしている。漁師たちは彼をからかうか、あるいは無関心を装った。しかし老人は、自分は漁師であると思っていた。

▼彼は貧しい。もう八四日のあいだ何も獲物がない。以前にはいっしょに舟に乗ってくれる少年がいたが、いまでは他の舟に乗っている。
 しかし老人と少年は相変わらずいちばんの友だちである。きょうはもう八五日め。

▼九月には漁はむずかしいが、しかし大ものの季節だ。朝日の上らぬうちに老人は沖へ漕ぎ出した。海は恩恵を与えてくれると彼はいつも考えていた。きょうこそは、と思って糸をたらす。毎日が新しい日なのだ。老人はいつのまにかひとりごとをいっていた。わしの大きな魚がどこかにいるにちがいない。

▼昼ごろ糸を静かに引く手ごたえを感じた。信じられぬほどの重さだ。しかし、巨大な魚は姿を見せぬまま深くもぐり小舟は魚にひかれて沖へ沖へと出ていく。あいつをどうすることもできないが、あいつもわしをどうしようもない。だれもいないところであいつを見たいものだ。と老人は考えた。やがて彼はその魚に話しかける。わしはほんとうにお前が好きだ。尊敬しているのだ。だが日暮れまでにわしはお前を殺してしまうぞ。しかし魚は弱らなかった。夜となる。

▼二日め。糸をもつ手がしびれて血がにじむ。

 少年がいてくれればなあと思う。老人はなまの鮪(まぐろ)やトビウオを食べて元気をつけた。舟の前方に魚が背を出した。濃い紫色で、脇腹(わきばら)にはしまがあった。長いとがったくちばしの大カジキだった。こんなでかいとは思わなかった。堂々とりっぱなやつだがわしは殺さねばならない。この魚はわしの友だちだ。しかし殺さねばならない。こいつは何人分あるだろう。しかし、やつの恐れなき態度と偉大な威厳からすれば、だれひとりやつを食う資格はないのだ。こんなことはわしにはわからない。ともかく海の上で真の兄弟である魚を殺すことは幸福なのだ。夜は夢を見た。少年のころアフリカの海岸で見たライオン。いつもの夢だった。

▼三度めの日が上る。

 老人は目まいのするほど疲れていた。しかし魚も弱って輪を描き出した。ついに老人の力で魚を引き寄せ、力をふりしぼってモリをつき刺した。魚は銀色の腹を出して敗れた。やつが見たい、触る(さわ)りたいと老人は思った。丸のままで、一、五〇〇ポンド以上ありそうだ。彼は魚を舟のわきにつないで帰路についた。こうして魚とならんでいるとどちらが勝ったのかわからないような気もする。魚の肉をねらってサメがおいかけて来た。老人はモリを使いナイフを使ってサメと戦った。オールでサメの頭をなぐりつけた。しかし魚は食い荒らされた。魚がやられるのは自分がやれているみたいだった。いためつけられた魚を見る気はしなかった。わしはうちで寝ているのだったらよいのに。いや、人間は破滅することはあっても敗北することはないのだ。だが、やはり魚はかわいそうだと思った。お前は名誉のためにやつを殺したのだ。それにお前は漁師なんだからと彼は自分にいった。お前がやつを愛しているのならやつを殺すことは罪じゃないんだ。だいぶ食われたにちがいない。わしを赦(ゆる)してくれないか。あんな遠出をしなければよかったんだ。お前のためにもわしのためにもと老人は魚にいった。マストをはずして帆をまいて小屋にもどった。

▼翌日、波にゆれている魚の骨としっぽを見た旅行者は、説明もきかずに早合点してあれはサメだと思った。老人はなつかしいライオンの夢をみながら眠り続けていた。

 単純で詩のように美しいこの小説が何を暗示し、象徴しているか一言では尽くせない。人生を生き抜いた老人が素朴(そぼく)な運命に従わねばならないという現実、永遠の戦いのなかに真理を追い求めねばならない人間の宿命、これらをヘミングウエイは淡々と描いているのだろう。


参考:この本の原書の冒頭文

 He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty-four days now without taking a fish. In the first forty days a boy had been with him. But after forty days without a fish the boy’s parents had told him that the old man was now definitely and finally salao, which is the worst form of unlucky, and the boy had gone at their orders in another boat which caught three good fish the first week. It made the boy sad to see the old man come in each day with his skiff empty and he always went down to help him carry either the coiled lines or the gaff and harpoon and the sail that was furled around the mast. The sail was patched with flour sacks and, furled, it looked like the flag of permanent defeat.  The old man was thin and gaunt with deep wrinkles in the back of his neck. The brown blotches of the benevolent skin cancer the sun brings from its reflection on the tropic sea were on his cheeks. The blotches ran well down the sides of his face and his hands had the deep-creased scars from handling heavy fish on the cords. But none of these were fresh. They were as old as erosions in a fish desert.  Everything about him was old except his eyes and they were the same colour as the sea and were cheerful and undefeated.

補足:ヘミングウェイ著作:『誰がために鐘が鳴る』『武器よさらば』があります。後日、紹介します。

平成二十六年七月二十九日


ヘミングウェイの孫、「老人と海」の漁村を訪問

米国の文豪ヘミングウェイの代表作「老人と海」の舞台となったキューバの漁村コヒマルを8日、ヘミングウェイの孫2人が訪れた。

ヘミングウェイがノーベル文学賞を受賞して60周年になるのを記念した行事で、地元の漁師らの歓迎を受けた。

 コヒマルは首都ハバナから東に7キロ。ハバナに住んだヘミングウェイが釣りに訪れた場所で、「老人と海」の主人公のモデルになった漁師も住んだ。カナダ在住の孫たちは、祖父と同じように米フロリダ州から白いヨットでコヒマルに到着。祖父が1961年に米国で自殺した後で漁師たちが船のスクリューなどを持ち寄って作った胸像に花束を捧げた。

 孫の一人でキューバ訪問5回目のパトリックさんは「こんな歓迎をされ、祖父も喜ぶと思う。僕もキューバに移り住みたい」と話した。今回は米国の海洋学者たちを帯同し、祖父がキューバに残した海の日誌などを読むことも目的という。

 元漁師ベニグノ・エルナンデスさん(86)は「彼は漁師たちにとても優しい人だった」とヘミングウェイとの思い出を語った。(コヒマル=平山亜理)

 2014.11.18追加。


春秋 2018/4/5付

 今から30年ほど前。沖縄の与那国島でサバニと呼ばれる小舟を操り、巨大なカジキを一本釣りする82歳の漁師がいた。1年に及ぶ不漁に苦しみ、ついに大物を仕留める。その一部始終を記録したのが、ジャン・ユンカーマン監督の映画「老人と海」だ。名作の誉れ高い。                         

▼伝説の漁師の名は糸数繁さん。寡黙な人だ。が、待望の釣果があった晩。仲間の爪弾く三線(さんしん)にあわせ照れくさそうに踊った。カメラは至福の表情を捉える。映画の完成は1990年春。その夏、糸数さんはカジキと格闘の末、帰らぬ人になった。どれほど巨大だったのか。精根尽きて、台湾を望む黒潮の海に引き込まれた。

▼先週、天皇、皇后両陛下は与那国を訪問し糸数さんが所属した漁協の施設を視察。クレーンにつるされた170キロのカジキを見上げ、陛下は「ヘミングウェイが(小説『老人と海』で)書いていますね」と話された。両陛下は、メキシコ湾から遠く離れた、もう一つの老人とカジキの死闘の物語をお聞きになっただろうか。

▼終戦後、本土から切断された沖縄は、深刻なモノ不足に。与那国は台湾との密貿易拠点として栄えた。闇屋が集結し、ピーク時の人口は1万数千人に達した。同県の説明によると両陛下は、島の裏面史にも関心を示されたという。来年、平成最後の「歌会始」などで、心を寄せる離島の思い出をお詠みになるかもしれない。

補足:老人と海 アーネスト・ヘミングウェイの不朽の名作「老人と海」をヒントに、沖縄の与那国島で撮影された1990年製作のドキュメンタリー映画『老人と海』。サバニ(小舟)に乗ってカジキ漁をする老漁師の姿を追い、与那国島の独特な文化や、ゆったりと流れる時間をカメラに収めた本作が、ディレクターズ・カット版として再公開される。アメリカ人にとって特別な作家であるヘミングウェイの「老人と海」の世界観を、映像として映し出すべくメガホンを託されたのは、米国生まれのドキュメンタリー監督、ジャン・ユンカーマン氏。7月31日の公開を前にジャン・ユンカーマン監督にお話を伺いました。


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白 鯨
白鯨の元ネタは小説より壮絶だった

白 鯨
 私の名はイシュメル。何年か前、金はないし、陸の生活もいやになって、船に乗って海に出ようと思った。私は前から鯨の巨大な姿に魅せられていたので、ぜひとも捕鯨船に乗り組んでたろうと思った。商船の水夫として幾度も海の匂いをかいできた私が、どうして今度は捕鯨船に乗り込もうと思いついたのか。そのわけは運命の神が答えてくれることだろう。あおの恐ろしい、いまわしい出来事に私を会わせたのも、みな運命の神の仕業なのだか。

▼私は、古ぼけた旅行のカバンに入用品をつめこむと、なじみ深いニューヨークの町をあとにニュー・ベッドフォードへ着いた。ナンダケット通いの小舟が出帆してしまったあとで、二日あとでないとそこへ行けないと知って私はがっかりした。宿屋を捜に町へ出た私は鯨屋という宿を見っけた。だがそこの亭主は部屋がいっぱいなので相部屋にしてくれと私にいった。私と相部屋になった男というのが人食人種の王子クィークェグという男で、最初おっかなびっくりでこの男といっしょにいた私は、次の日には、いっしょに捕鯨船に乗って生死をともにしようという仲になってしまった。乗りこむ船を見つけに行ってくれと彼に頼まれ、私は港へ出かけていった。港には三年の航海に出る予定の船が三隻とまっていた。私はその三隻をよく調べたのも、ピークォド号に乗り組むことにした。契約書に署名して、ピークォド号からおりて来たとき、みすぼらしい男によびとめられた。その男は「ピークォド号に乗ると不幸なことになる」と予言した。そのうえその男は出帆の日にも現れて、「行くな」と私たちにいった。しかし、鯨に会えるという喜びで胸がいっぱいの私たちには、そんなものがなにになろう。私たちは彼が気違いだと思っただけだ。

▼クリスマスの晩、船は出航した。私とクィークェグの姿も、もちろん船上にあった。それにしてもこの船は奇妙な船だ。私たちは出帆以来、一度も船長エイバブの姿を見たことがなかった。船の者の話によると、彼は体が悪くて船長室にこもっているとのことだ。私は一度姿を見たいものだとおもっていた。エイバブは熱帯に近づくとはじめて甲板その姿を現わした。老人で片足がなく、鯨の骨を義足にしていた。いつでも陰気な顔をして、何かを追い求める目をしており、狂気じみたところがあった。一等運転手のスターバックは沈着な人間で、船長の狂気一生懸命静めているようであった。なぜエイバブがこんな狂気じみた風なのか私達には不思議であった。ある日、船長は乗組員全員を甲板に集めて、白鯨のことを話したときにその疑問がとけた。彼が片足を失ったのは巨大な白鯨のためで、その鯨は、額にしわがあって、あごが曲り、頭が白く、背中には幾本となくもりが打ちこまれており、そのうえ悪知恵にたけていて、いっまでに何回もボートをひっくり返し、幾多の人命を奪ってきたのだ。エイバブもこの白鯨にもりを打ち込みに行ったとき、ボートをひっくり返され、片足をかみとられたのだ。それ以来エイバブは白鯨を生涯の敵としてねらってきた。彼には鯨の油をとるという捕鯨船の目的などどうでもよくて、白鯨を殺すことこそがたいせつなのであった。エイバブからこの話をきかされた乗組員たちは、彼の気違いじみた情熱に酔わされて、白鯨と戦うことを誓ってしまった。ただスターバックだけがいんうつな顔をしていた。白鯨を追って、船は進んでいく。途中で何隻かの船にあって、白鯨のことをきくが、どの船もその行方を知らない。船が赤道漁場のはずれに来たとき、ピークォド号はレイチェル号に出会った。エイバブは「白鯨を見たか」とまたもや聞いた。レイチェル号の船長は、自らピークォド号に乗り移ってきた。彼は「船のボートのうちの一隻が白鯨を追っているうちに行方不明になってしまった。ピークォド号が白鯨を追うのを少しの間止めて、レイチェル号と平行して進んで、ボートを見つける手伝いをしてくれ。お礼はするからぜひ頼むといった。普通の捕鯨船では、一隻の行方不明のボートを捜すために鯨取り作業を中止するなんてことは考えられないことなのでピークォド号の乗組員たちは驚いてしまう。しかし、そのボートには船長の一二歳になる息子が乗っていたということがわかって、乗組員たちは、エイバブがきっと協力するに違いないと思って彼のほうを見つめていた。だが、白鯨がすぐそこにいるという事実に夢中になったエイバブには一瞬の時間も惜しかった。彼は追いすがるレイチェル号の船長から顔をそむけると船室へおりてしまった。

▼一等運転手スターバックは、白鯨を追うことがどんなに危険なことであり、それによって自分たちの命が失われることを知っていた。彼はエイバブに「なんのために白鯨を追うのです。私といっしょに行きましょう。この死の海からのがれてあのなつかしい故郷へかえりましょう」といって船を帰すことをすすめる。エイバブはその言葉に耳をかしつつも、「自分でもわからない何者かが、わしを白鯨のほうに向かせるのだ。わしの本来の自然の心では、やろうとも思いもかけぬ行為へ、がむしゃらに立ち向かはせていくのだ」とスターバックにいう。スターバックはエイバブの言葉に何もいうこともできず、だまって彼の所から去るより仕方がなかった。

▼やがて彼らは白鯨を見つけだし、白鯨対ピークォド号の戦いがはじまった。最初の日、エイバブの乗ったボートは白鯨にひっくりかえされ、エイバブは海に投げ出され危く死にそうになったが、すぐそばにいた船に救助される。第二日めには三隻のボートに囲まれ、もりを打ちこまれた白鯨はびくともせず、かえって彼らに逆襲してきてボートをひっくりかえし、エイバブの脚を粉々にし、一人の死者まで出させた。スターバックはエイバブに今度こそ思いとどまってくれるように嘆願する。「あの無残な白鯨にみんなが海の底へ投げこまなければならないのですか。おお、これ以上彼を追うのは神をないがしろにするわざです」。しかしエイバブはスターバックのこの言葉にも動かれはしなかった。しかしこの言葉はたしかに真実であったのだ。次の日、白鯨はボートをたたきつぶしただけでなく、本船めがけて殺到し、体を船にぶっつけて船を粉々にした。一隻残ったボート上のエイバブは、もりを白鯨にうちこんだが、もり綱が自分の首に巻きついて鯨もろとも海中深く沈んでしまい、生きのこったのはこの私ただ一人であった。

著者:メルヴィル(アメリカ)一八一九年〜一八九一 ニューヨークで生まれた。青年時代は海にあこがれ、捕鯨船に乗り組んだりしている。 

 2014.12.02


「白鯨」の元ネタは小説より壮絶だった

 ありえない生還劇

 「事実は小説よりも奇なり」といいますが、絶体絶命の危機から生還した実話も、すぐには信じられないようなエピソードばかりです。ナショナル ジオグラフィックが集めたそんな実話の中から、特に「ありえない生還劇」をご紹介します。

 南太平洋で捕鯨船が巨大クジラに激突された。乗組員たちは手こぎボートに分乗し、3カ月近く漂流する。食糧が底をつき、空腹と狂気に苦しめられた彼らが生き延びるためにとった行動は…。小説『白鯨』の元になった実話は、さらに壮絶だった。

外洋でのつらい仕事

 19世紀、捕鯨は生活に不可欠だった。鯨油はランプの燃料やろうそくの原料になり、鯨蝋(げいろう)はさまざまな薬に使われた。捕鯨は手堅く報酬を得られると同時に、きわめて過酷な仕事だった。

 米国の捕鯨産業の拠点は東海岸のナンタケット島にあったが、最も豊かな漁場は南太平洋。男たちは大西洋を南下し、南米最南端のホーン岬を回る1万2000キロの困難な旅を経て、やっと仕事に取りかかるわけである。捕鯨船エセックス号がナンタケット島を出発したとき、これから2年半は家族に会えないことを男たちは承知していた。

クジラの逆襲

 運命の日は、出航から1年3カ月後、1820年11月20日に訪れた。

 エセックス号がマッコウクジラの群れを発見し、1頭ずつ狙い撃ちしていたとき、考えられないことが起こった。巨大な1頭が、群れを離れて船に突進してきたのである。

 クジラは船に激突し、乗組員たちは甲板に投げ出された。船長は乗組員に指示を出そうとしたが、船は制御不能に陥っていた。クジラは向きを変え、再びこちらに突進してきた。巨大な背中がまたしても船体に激突し、船は大きく揺れた。20人の乗組員はわずかな食糧をできるだけかき集めて、3艘(そう)の手こぎ舟に次々に乗り込んだ。10分もしないうちにエセックス号は転覆した。

 28歳のジョージ・ポラード・ジュニア船長は現在位置を南米大陸の西、3700キロと推定し、64日間の旅を乗り切れるだろうと考えた。逆算して食糧を配給すると、1人1日当たりパン数十グラム、小さな固いビスケット1つ、水およそ0.3リットルになった。健康な大人に最低限必要な食物摂取量のおよそ3分の1、最低限必要な水分量の半分だ。

 11月30日までの10日間で770キロ進み、食糧はまだあった。男たちは空腹で疲れていたが、意気は高く、ポラードは、みんなこの旅を乗り切れそうだと楽観的に考えた。

食料は仲間の…死の漂流

 しかし、クリスマスを過ぎると、食糧配給が半分に減り、船に乗った男たちは極度の飢えと脱水に見舞われた。体内のナトリウム過剰によって恐ろしい症状が出た。下痢を起こし、皮膚にはじくじくした腫れもの、手足にはむくみが生じた。失神する者、奇行に走る者もいた。気力のある者は暴れた。そして互いに食糧を盗み合った。

 1821年1月10日、乗組員のマシュー・ジョイが最初の死者となった。間を置かずに数人が後に続いた。最初の6人の死者は、衣服に包まれて船縁から海に葬られた。

 1月28日の夜、3艘の舟はばらばらに別れた。うち1艘のその後はわかっていない。

 陸地にたどりつくまで、まだ相当な日数がかかるとわかっていた。残り少ない食糧は、まもなく底をつくはずだった。次の死者が出たとき、ポラード船長は遺体を舟に置いておくよう命じた。その仲間の遺体は、男たちの次の食事になるのだ。

生死をかけた、恐ろしいくじ引き

 さらに3人が死に、食べられた。そして2月1日、再び食糧が底をついた。今や想像を絶する危機に直面していた。

 ポラードの舟では全部で4人が生存していた。ポラードのほかに、ブラジレイ・レイ、チャールズ・ラムズデル、そして船長のいとこ、オーウェン・コフィンである。深い絶望の中で、男たちは結論を下した。誰か一人が犠牲にならなければ、全員が長く苦しい死を余儀なくされる。

 生きるチャンスはくじ引きに託された。

 4分の1の確率で、黒い印のあるくじを引く可能性は全員にあった。そしてそれを袋から引っ張り出したのは、オーウェン・コフィンだった。

 だがこれで終わりではなかった。他の3人がまたくじ引きを始めた。誰がコフィンを殺すかを決めるためだ。この恐ろしい仕事に当たったのはコフィンの友人、チャールズ・ラムズデルだった。

 ラムズデルはコフィンを撃った。少年の遺体はポラード、レイ、ラムズデルに食べられた。それからまもなくレイも死んだ。舟の上での残りの苦しみの日々を、ポラードとラムズデルは骨をかじって生き延びた。

発見、人骨の山にうずくまる生存者

 1821年2月23日、ナンタケットの捕鯨船ドーフィン号の乗組員が獲物を探して水平線を眺め渡しているときに、その小さな舟を発見した。船長は船を横づけにするよう命じた。乗組員が見おろすと、舟には骨と皮だけになった2人の生存者がいた。

 エセックス号が沈没してから95日が過ぎていた。2人はかじられた人骨の山の中にうずくまり、ドーフィン号の船体が横づけになっていることにも気づかないほどもうろうとしていた。

 もう1艘の舟は英国の商業帆船インディアン号に救助された。生存者は3人で、こちらも生き延びるために食人という手段をとっていた。

 オーウェン・チェイス1等航海士はこの悲劇を、『捕鯨船エセックス号の驚くべき悲惨な難破の物語』という文章にまとめている。

 チェイスの息子も捕鯨船の乗組員で、父親の本を海で出会った若者に貸した。この若い船乗りがハーマン・メルビルだった。彼がエセックス号の実話に触発されて書いた小説が、名作『白鯨』である。

引用:(日経ナショナル ジオグラフィック社)『本当にあった 奇跡のサバイバル60』を基に再構成]2014/9/21 6:30

参考:ルソン島で人肉を食う敗走日本軍: nozawa22

 2014.12.06


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夏目漱石 『門』


 文豪が投げかけた 世紀の「公案」小説

 一生かかっても解けないような「公案」(禅の設問)を夏目漱石は『門』の中で、私たちに投げかけている。

 誰にも言えない不安に苛(さいな)まされる主人公野中宗助は、救いを鎌倉の禅寺に求めた。そこで与えられた「公案」は「父母未生(みしょう)以前本来の面目は何か」というもんだった。

 宗助は、自分とは畢竟(ひつきょう)何者かを問われていると受けとめ、いささかの答案を口にするが、老師からもっとギロリとしたものを持ってこいと一蹴され、すごすごと禅寺を去る。

▲漱石は書く。「門を開けて貰(もら)いに来た。けれども門番は……敲(たた)いても遂に顔さえ出してくれなかった。……要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」

▲漱石はロンドンに留学してイギリスの文化、文明に圧倒された。それ以来、日本人とは何か、誇るべきものがあるとすればそれは何か、そればかり考えつめていたのだ。

▲推測するに、「武士道」ではないのか。『門』は明治43年に朝日新聞上に連載されたものだが、その10年前に新渡戸稲造が国内外で大評判となる『Bushido:The Soul of Japan』を英文で発表して、日本精神のよって立つところを武士道としたのだ。ギロリとは武士道だ。死ぬことを見つけたりという武士道である。鎌倉武士に密着した禅宗の老師らしい禅問答ではないか。

▲漱石は、日清と日露戦争で勝利した急速に夜郎自大となっていく日本人が大嫌いで、『門』の中の満州帰りの友人、安井こそ坂の上の凶雲(きょううん)だった。

 それにしても漱石は、あの公案の答えを残していない。

 答えは次なる世代に託されたのだ。よって『門』は「百年の公案」となった。

 さあ私たちは何と答えるのか。答えねばなるまい。

引用:2009年3月29日 日曜日朝日新聞ー読書ー 大切な本 早 坂 暁(作家):昨年末、部屋を掃除していて新聞の切り抜きを見つけましたので紹介します。


参考1:やろう-じだい【夜郎自大】夜郎自大 意味

 自分の力量を知らずに、いばっている者のたとえ。▽「夜郎」は中国漢の時代の西南の地にあった未開部族の国の名。「自大」は自らいばり、尊大な態度をとること。

 夜郎自大 出典:『史記しき』西南夷伝(せいなんいでん)

 夜郎自大 句例:◎夜郎自大になる

 夜郎自大 用例:自ら足れりとし、自らよしとするのは、夜郎自大というて、最も固陋ころう、最も鄙吝ひりんな態度なのじゃ。<海音寺潮五郎・南国回天記>

参考2:

「父母未生以前の面目」<インターネット>

 禅には「父母未生以前の本来の面目とは何か?」と言う有名な公案がある。「父母未生以前(両親が生まれる以前)の本来の面目」とは不思議な表現である。

 この公案はもともと六祖慧能が明上坐に「不思善不思悪のとき、那箇か是明上坐本来の面目」と言ったことに由来する。これは六祖慧能の語録「六祖檀経」に出ている。後世、「本来の面目」という言葉に父母未生以前という言葉を加え、本来の面目の永遠性を強調したものと思われる。この公案はもともと六祖慧能が明上坐に「不思善不思悪のとき、那箇か是明上坐本来の面目」と言ったことに由来する。これは六祖慧能の語録「六祖檀経」に出ている。後世、「本来の面目」という言葉に父母未生以前という言葉を加え、本来の面目の永遠性を強調したものと思われる。

 「六祖檀経」では六祖慧能が明上坐に「不思善不思悪のとき、那箇か是明上坐本来の面目」と言っただけで「本来の面目」という言葉が見えるだけである。「本来の面目」という言葉に父母未生以前という言葉が付け加えられたのはいつ頃からだろうか?

 黄檗希運の語録「伝心法要」では六祖慧能が明上坐に「不思善不思悪のとき、正に与麼の時に当たって我に明上坐が父母未生時の本来の面目を還し来たれ」と言ったことになっている。このように黄檗希運の「伝心法要」では本来「6祖檀経」では無かった父母未生時という言葉が付いている。

 父母未生以前という言葉を加え、本来の面目の永遠性を強調したのは黄檗希運の時代から始まった可能性がある。黄檗希運(?〜860)は唐代中期から後期の人である。本来の面目の永遠性を強調したのは唐代後期くらいから始まったと考えてよいだろう。

と、載っていました。

平成二十七年一月五日


一年の計は麦を植うるにあり
十年の計は樹を植うるにあり
百年の計は人を植うるにあり

小林虎三郎『米百俵』
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 よく招かれて旅に出る。たいていは講演で、それもトンボ帰りか、せいぜい一泊である。二年ほど前の八月二十四日には長岡市に出かけたが、いろいろ考えさせられることが多かった。

 長岡行きは「小林虎三郎没後百年記念講演」というのであった。小林虎三郎といっても、新潟県以外の人には、あまりなじみがないかも知れない。しかし、戦時中の山本有三氏の作品『米百俵』といえば、なん人かの人は、ハハァと思いあたることがあるかも知れない。この戯曲は、井上正夫の好演と相まって、名作といわれたが、作品のテーマが<航空機もさることながら人>という風に解釈され、それが反戦的とされて、出版社の新潮社は絶版を命ぜられた。小林虎三郎は、この作品のモデルである。

 昭和十四年の晩春、現長岡市長の小林孝平氏と、長岡中学の同級生であったドイツ文学者の星野慎一郎氏は、ヘルター・ヤーン夫人とともに山本氏の『真実一路』の独訳の許可を得るため山本邸を訪れた。いくたびか訪れているうち、話題は北越戊辰戦争、薩長諸藩の新政府軍と激闘した軍事総督河合継之助のことや、長岡藩の落城そして敗戦などに移って行った。そのうち、星野氏が、ふと明治政府の夜明けを予見し、参戦に反対して恭順を説き、領内の平和を主張した小林虎三郎のことにふれると、山本氏は驚くばかりの関心を示した。

 当時、日中戦争は泥沼の様相を呈していた。それが拡大して太平洋戦争になるのだが、山本氏はその間にあって虎三郎に関する資料を集め、『米百俵』が出来上がったのは昭和十八年六月のことだった。初版、実に五万部という」数字であった。

 長岡へやってきて驚いたことは、この名作が、長岡市役所の手によって、昭和五十年八月再刊され、しかもそれが三万部も出ている事実である。自治体が、このような作品を出版をするということも珍しいが、それが市民の間に売れているということが、私には驚異であった。

 講演は平日(火)の午前十時からだったが、会場の長岡市立劇場(公民館でこういう名称も珍しい)には千二百人位もつめかけていたのは、第二の驚きであった。

 長岡市は戊辰戦争(一八六八年)で三度戦火にあい、それから七十余年後の昭和二十年八月一日には、今度は米機によって再び全市が焦土と化した。それから三十年、いまや光と水と緑をめざすニュータウン建設にいそしんでいる。それらの中に一貫して、流れているのは"米百俵"の伝統である。小林虎三郎の精神は、今も長岡市民の心の中に脈々と息づいているかのように私には思われた。

▼小林虎三郎は文政十一年(一八二八年)に生まれた。父は小林又兵衛といい、新潟の町奉行をつとめた。佐久間象山が新潟に来た折り、二人は意気投合したらしく「自分の息子が大きくなったら、ぜひあなたのところに入門させます。面倒をみていただきたい」「よろしい。おひきうけしましょう」という話し合いが出来ていたものと思われる。

 虎三郎はその三男である。小さいとき、ホウソウを患い、左の目はつぶれた。あばたにめっかちという、かなりものすごい容貌だったが、学問はよく出来た。十七、八歳のころには藩の助教にあげられた。かぞえ二十三歳のとき、殿様のお声がかりで江戸に遊学、かねての約束通り、佐久間象山の門に入った。そこで漢籍のほかにオランダ語、物理、経世の学を学んだ。

 象山の門下には、全国の俊才が集まっていたが、虎三郎はズバぬけていたらしい。長州の吉田松陰と並んで象山門下の"二虎"といわれた。松陰は通称寅次郎といい、寅と虎で字はちがうが、両方ともトラとよむところから、そういわれていた。しかし象山は、「虎三郎の学識、寅次郎の胆略というものは、当今得がたい材である。ただし、事を天下になすは吉田子なるべく、わが子の教育を頼むべきは小林である」といっていた。

 松陰の方はどちらかといえば、虎三郎に兄事していた気味があった。象山に送った手紙の中に「虎三郎は顔にアバタがあって、私とよく似ている。年も同じ、名前もまた偶然同じである。ふたりは実に似ているが、ちがっている点もないではない。それは虎三郎の才学はすぐれているが、自分の才能は粗雑である」といっている。松陰の謙遜の辞と取れない事もないではないが、ある程度は真実であったろう。

 安政元年、アメリカが幕府に開港を迫る。象山は横浜開港説をとなえ、虎三郎を使って、その藩主でありかつ老中でもある牧野侯にも説かせた。虎三郎、大いに説得にかけまわる。これが逆に家老阿部伊勢守の怒りにふれ、「学生の分際で天下の大事を論ずるとは何事か」ということになり、国許へかえされる。やがて虎二郎は病気になり、家にとじこもる。晩年は自ら病翁(ヘイオウ)と号し、読書のかたわら、蘭学の翻訳をしたり、「興学私義(こうがくしぎ)」を書いたりして暮す。

 長岡藩はそのころ河合継之助がいた。司馬遼太郎の『峠』の主人公である。彼は『志、経済ニ鋭二シテ、口、事項ヲ絶タズ、スコブル事ヲ喜ビ、区画ヲナス者ニ類ス』といわれていた。つまり切れすぎる男であった。陽明学派で、何より実行を大切にする。やがて、長岡藩をひきずり戊辰戦争の主導的役割をはたすのだが、この二人は親戚でもある。しかし、意見は主戦対和平とまっ正面から対立している。

 文久三年の十一月、虎三郎の家から火が出て、丸やけになった。河合継之助が火事見舞いに行く。小林も大いに喜び、二人は久しぶりに歓談するのだが、やがて虎三郎は改まって「貴公の友情はかたじけない。何かお返ししたいがごらんの通り何もない。ただ一つ出来ることは、日ごろのオレの意見だ」と熱烈に河合のやり口を非難した。さすがの河合も閉口したが、あとで「さすが小林だ」とほめていたところを見ると、立場はちがってもお互いに相許していたのかも知れない。

 やがて戊辰戦争となる。長岡市は焼野ケ原になった。その間、虎三郎は和平派といっても反論が決定すれば、それにしたがって藩主の側をはなれず、落城後は母をともなって会津から仙台へとおちのび、藩主は悔悟謝罪の文を総督府にたてまつて帰順を願い出るのだが、この謝罪文は、小林が書いたといわれている。

 明治元年十二月、長岡藩の牧野家は、おとりつぶしのところ厄をまぬがれたが、藩主は退き、七万四千石は約三分の一の二万四千石に減らされた。虎三郎は、事変処理の役をおおせつかり文武総督となった。『米百俵』はこのときの話である。

 長岡藩の表(おもて)高は七万四千石だが、実収十万石といわれた。それが二万四千石というのだから、実収の四分の一に切りさげられたことになる。そのため藩士の窮乏は、はなはだしいものがあった。親戚の三根藩から、そこへお見舞いとして米百俵が届けられた。これを聞いた藩士たちは蘇生のの面持ちである。大勢おしかけてくる。そこで小林が藩士たちを説得する。

「みんな百俵百俵といっているが、百俵ばかりの米になんだってそんなにガツガツするのだ。考えて見るがいい。当藩のものは、軒別にすると千百軒あまりもある。あたま数にすると八千五百人にのぼる。一軒のもらい分はわずか二升そこそこ、ひとりあたりにしたら四合か五合だ。そればっかりの米では一日か二日で食いつぶしてしまう、それより、これをもとにして、学校を建てることだ。そして人物を養成するのだ。まどろっこしいようであるが、これが一番たしかな道だ。いや戦後の長岡をたて直す唯一の道だ、みんな辛いだろうが、こうせねば新しい日本は生まれてこない。あすの長岡を考えろ。あすの日本をかんがえろ」

 こうして虎三郎が、あらゆる反対を押し切って明治三年、建てられたのが国漢学校である。やがてこれが長岡中学、長岡病院の母体となって行く。

 このあたり、どうやら、昨今の円高による電力会社の円高差益還元問題に似ていないだろうか。電力会社にきくと、一世帯あたり小口で二百五十円の還元にしかならない。しかもその手数料が同じ位かかる。それよりはこのまとまった金で電線を地中にうめるなどということができなかったものか━━現代における政治の貧困というべきであろう。

▼虎三郎の蒔いた種は次第に見事な実を結んで行く。小藩のしかも三度も兵火にかかった長岡から続々と英才が育って、輩出した人材はケンランたるものである。

 解剖学の祖小金井良精(作家星新一氏の祖父)、東大総長小野塚喜平次、山本五十六元帥、博文館を起こした大橋新太郎、詩人堀口大学、駐米大使として戦前もっともアメリカからの人気のあった斎藤博、司法・内務・厚生各大臣をつとめた小原直、明治洋画壇の雄小山正太郎、日石社長橋本圭三郎という具合である。

 しかし、それは何も戦前だけにとどまらない。虎三郎の『米百俵』の精神は今日においてもひきつがれ、今や、小林(孝平)市長を中心にニュータウンづくりが進められている。

 長岡市の人口は十七万人。昭和四十八年五月にニュータウンの構想を発表し、五十一年十一月には地域振興整備公団(総裁吉国一郎氏)が公団事業のニュータウン第一号として長岡市の構想を採用した。

 いまマスター・プランも大体できあがっているが、それによると、長岡市の西部の丘陵地帯にとりあえず人口四━五万の都市をつくる。それは住宅と住宅と商業業務センターの三つを組み合わせた新しい性格の都市である。やがて上越新幹線が通れば、東京━長岡間は一時間の距離となる。とすれば、日本海方面に人口三十万の中核都市が生まれることも遠い将来ではあるまい。しかも、それが近代的な構想の下にである。まことに

   一年の計は麦を植うるにあり
   十年の計は樹を植うるにあり
   百年の計は人を植うるにあり

 ということが、しみじみと思いかえされる。

※扇谷正造『現代ビジネス金言集』(PHP研究所)P.14〜20 1979年1月31日 第一刷発行 より

※写真は昭和58年8月31年:「米百俵小林虎三郎頒布会」 会長 小林 孝平 より購入したもの。

※「管子」に下記の言葉がある。ご参考まで。

 一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し。

 一樹一穫なる者は穀なり、一樹十穫なる者は木なり、一樹百穫なる者は人なり。

平成二十七年十一月三十日


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『古城物語』


 南条範夫『古城物語』(集英社文庫)

 南条範夫氏と私は、長年、同じ大学に勤務し、教員室で時たま軽口をたたき合うような間柄なので、かれが昭和三十一年に短編「灯台鬼」で直木賞を受賞する前後から、しばしば、著書の贈呈を受けていた。南条氏は、現在なお、残酷物語の代表作家としてレッテルを貼られている。そういえば、私がとくに関心した「命を売る武士」・「武将衰残」にせよ、「復讐鬼」・「抛銀商人」・「暁の群像」(長編)にせよ、みな、残酷歴史小説の部類に属すると、いえなくもない。しかし、「僕のことを、みんなが残酷物語の本家のようにいうが、僕ぐらい優しい人間はないと思うんだが」と、南条氏は慨嘆する。まさに、その通りだが、そのやさしかれが、残酷物を書く意図は、戦時中の大陸での体験を動機として、平和時にはその片鱗さえ見せない日本人が、駐屯地にいるだけでも、なぜ平気で驚くほど残忍な行為をするのか、その根源を歴史的に探索してみようとするにあったらしい。そして、かれは、日本人の残酷さを人間疎外的な社会制度から来るもと指摘し、武家封建時代と物質万能の現代と共通点があることを暗示する。というと、欧米人には残忍性がないようにも聞こえるが、そうではない。何千人の一向一揆を焼き殺すような織田信長の大量殺戮の残虐性は、むしろ異教徒や東洋人種を大規模に殺害した西欧人の影響ではなかったかと、私は考えた。それに比べれば、日本人の残酷さなど、戦国時代の釜煎(い)りにしても、牛裂(うしぎ)きにしても、個人的な極めて小規模なものにすぎない。そのためか、南条氏の一連の残酷物語に、案外ユーモラスな明るさと、残酷行為を恣にした人物も、いつかは復讐される、といった救いがあって、娯しまれる。この「古城物語」(昭和三十六年)に収められた九つの短編小説にも、そうした南条文学の特徴が遺憾なく発揮されているのである。

 この本は九つの城についてかかれている。

 最初にとりあげられているものが「安土城の鬼門櫓」である。

「安土城の鬼門櫓(こもんやぐら)」、築城のための普請と作事が完了すれば、その機能がもつ秘密が外敵に洩れることを嫌った城主によって、その姓名といのちを断たれた多数の工匠のなかで、あらゆる術策をめぐらせて生き残った中村大隅掾(おおすみのじょう)正清の生涯を叙述したもの。正清は、初め、松永久秀に仕えて、大和の多聞・信貴両城の構築に従うが、完成すると同時に、巧みに場外に脱出し、多門(おかど)平太郎と改名して信長に仕え、安土築城に参加する。しかし、この大城郭が完成する暁に殺害されることを予測し、つぎつぎと新たな建物の増築を信長に進言し、安土城の東北端、湖に臨む笛吹(ふえふき)ケ鼻(はな)に、多聞城に造った多聞櫓に似せて、鬼門櫓(きもん)を立てる。しかし、兵太郎は、信長に謀られて、その櫓にこもる祟(たた)りを一身に受ける鬼門男にされてしまう。窮地に陥った兵太郎は、明智光秀をそそのかし、信長を本能寺で殺させ、炎上する安土城を脱出し、旧姓中村正清に戻り、秀吉の大坂城や淀城改築に従うが、必ず鬼門櫓を設ける。が、徳川氏によって天下が統一され、大名の居城にも秘密の設備を必要としなくなると、七十余歳の老体で大坂城の再建に参加した正清は、鬼門男となることを希望し、人々を驚かせる。

「大坂城の天守閣」、「春日城の多聞堂」、「名古屋城のお土居下(どいした)」については割愛。

「熊本城の空井戸(からいど)」は、加藤清正の築いた肥後の熊本城の抜け穴用の空井戸と横手五郎の大力石(だいりきせき)に関する伝説を調べた結果、作者が作り上げた歴史的推理小説だが、「武藤氏雑記」、「吉祥寺旧記」などの古記録によって、横手五郎の実在性を明かにし、それが、肥後国上益郡木山(かみましき きやま)城主木山弾正惟久(だんじょうこれひさ)の遺孤であったとする。まず、三十人力といわれる木山弾正と加藤清正が、天草の戦いで一騎討ちした結果、清正は、謀略をもって、弾正を討ち果たす。そのことを聞き伝えた横手五郎は、親の仇を討つため、熊本城に潜入する。清正は、横手吾郎の仇討の意図を知ったが、かえって五郎を優遇し、鬼姫と綽名(あなだ)された第三女阿藤(あふじ)の婿と定める。鬼姫を妻とし、清正の二子を次々と暗殺すれば、清正に代わって熊本城主となれると考えた五郎は、不覚にも、この陰謀を清正にさとられ、抜け穴用の空井戸に入っているところを、頭上から大石を落とされる。二十人力といわれた横手五郎は、次々と落下するする大石を頭上に持ち支えるが、ついに砂責めにあって、落命する。清正は、空井戸いっぱいの砂中から掘り出された五郎の遺体をさらす。事情を知った鬼姫は狂死する。

「姫路城の腹切丸(はらきりまる)」、「彦根城の廊下橋」、「鹿児島城の蘇鉄(そてつ)」について割愛する。

参考:桑田忠親氏の本書の解説による。
南条範夫氏は1908年〜2004年
平成二十八年一月十二日


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死ぬ時は死ぬがよし
『沈 黙』・『踏 絵』

死ぬ時は死ぬがよし

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 入院患者のお見舞いいっいたとき、病院長が病室に入ってこられて、「私も、あなたも認知症で、程度のちがいだけですよ!」と言われて、何をいいわれているのかと考えささせられた。

▼遠藤周作著『生き上手 死に上手』(文春文庫)のP.36 に「死ぬ時は死ぬがよし」をよむと、

 ボケ対策になにをやっておられますか、と紙面を借りておたずねしたところ、読者のかたたちからたくさんのお手紙を頂いた。ありがとうございました。

 お手紙を拝見していると、それぞれの方が運動や習い事など頭脳、体力が老化しないように御苦心されているのが手にとるようにわかる。

 その方法が種々なのは、これぞという決め手がないせいだろう。知り合いの医者にきくと、

「ボケられる方は頭を使う大学の先生でもボケられます。なぜか我々にも本当の原因がわからないのです」

 とつめたい返事であった。

 いかに努力してもボケる時は人間、ボケるというならば、これをどう受けとめるかを考える方が賢い。

 私の好きな良寛の言葉がある。

「死ぬ時は死ぬがよし」

 そのような大きなものにすべてを委せる気持になりたいと思って三十年――正直いうとこのようなゆったりとした心にはなかなかなれない。

 しかしそれは私にとって目標である。何故目標かというと、そこには天の理、自然の動きに無意味に逆らわず、まるで年おいた樹木が寿命を受け入れるように受け入れる姿勢があるからだ。

 おそらく、私もいつか、最後の最後までジタバタして、最後の一日ぐらいで「死ぬ時は死ぬがよし」とう気持ちなるだろう。

 ボケだって同じかもしれない。

「ボケる時はボケるがよし」

 できればその境地になりたい。

 ただひとつ、ボケたために家族や友人に迷惑をかけたくない。だから、家族、友人に迷惑をかけない準備をしておくほうがいい、それが今の私の考えだ。

▼私も以前、人は必ず死ぬ、そのときボケていれば死を考えないから、それに対する感覚(?)は少ないだろと単純に考えたことがある。

 しかし、遠藤さんの言うように「家族、友人に迷惑をかけない準備をしておくほうがいい」ことは、どんなことであろうか、また果たして可能でしょうか。

 ボケ(認知症といわれている)ている人の家族への迷惑の程度はさまざまで、大変であることだけは多くの家族の方々から聞いたりみせられている。

平成二十三年五月十三日  


追加:越後の良寛さんは与板の山田杜皐(やまだとこう)という俳人と親友でありました。良寛さんの住む五合庵から与板まで行くには時間がかかりましたが、与板へ行けば杜皐さんの家に泊まり、話に花を咲かせるのが常でした。杜皐さんは造り酒屋でもあったので、良寛さんは大好きな酒を心ゆくまで飲ませてもらいました。

 良寛さんが71才の時、三条市を中心に大地震が起こりました。良寛さんの住んでいる地域は被害が少なく、与板の方は被害が甚大であったそうで、良寛さんは杜皐さんへ見舞の手紙を送っています。

 "災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 " かしこ

と、見舞の一文の中に書かれていました。

 その意味は、「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい。死ぬ時が来たら静かに死を受け入れなさい、これが災難にあわない秘訣です」ということです。聞きようによっては随分と冷たい言葉です。しかし、これほど相手のことを思っての見舞いの言葉があるでしょうか。「大変でしょうが、頑張ってください」とは誰でも言えます。「頑張って」の一言も書いていないのに、受けとった杜皐さんはきっと、「この災難の中で生き抜いていこう」と思われたに違いありません。

平成二十八年四月十九日


『沈 黙』

 ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊(あなつ)り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというものである。その教父は日本にいること二十数年、地区長という最高の住職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。

 稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも上方(かみがた)地方に潜伏しながら宣教を続けてきた教父の手紙には、いつも不屈の信念が溢れていた。その人がいかなる事情にせよ教会を裏切るなどとは信じられないことである。教会やイエズス会の中でも、この報告は異教徒のオランダ人や日本人の作ったものか、誤報であろうと考える者が多かった。

日本における布教が困難な状態にあることは宣教師たちの書簡でローマ教会にももちろんわかっていた。一五八七年以来、日本の太守、秀吉が従来の政策を変えて基督(キリスト)教を迫害しはじめると、まず長崎の西坂で二十六人の司祭と信徒たちが焚刑(ふんけい)に処せられ、各地であまたの切支丹が家を追われ、拷問を受け、虐殺されはじめた。徳川将軍もまたこの政策を踏襲して一六一四年、すべての基督教聖職者を海外に追放することにした。

 宣教師たちの報告によると、この年の十月六日と七日の両日、日本人をふくむ七十数人の司祭たちは九州、木鉢(きばち)に集められ、澳門(まかお)とマニラにむかう五隻のジャンクに押しこめられて追放の途につくことになった。それは雨の日で、海は灰色に荒れ、入江から岬のむこうをぬれながら船は水平線に消えていったが、この厳重な追放令にかかわらず実は三十七名の司祭が、信徒を捨て去るに忍びずひそかに日本にかくれ残っていた。そしてフェレイラもこれら潜伏司祭の一人だったのである。彼は、次々と逮捕され処刑されていく司祭や信徒の模様を上司に書き送りつづけた。今日、一六三二年の三月二十二日に彼が巡察師アンドレ・バルメイロ神父にあてて長崎から発送した手紙が残っているが、それは当時の模様をあますことなく伝えている。

「前の手紙で私は貴師に当時の基督教会の状態をお知らせした。引きつづき、その後に起ったことをお伝えする。すべては新しい迫害、圧迫、辛苦に尽きるのである。一六二九年以来信仰のために捕えられている五人の修道者、すなわち、バルトロメ・グチエレス、フランシスコ・デ・へスス、ビセンテ・デ・サン・アントニヨの三人のアウグスチノ会士、われらの会の石田アントニヨ修道士、フランシスコ会のガブリエル・デ・サンタ・マグレナ神父の話から始めよう。長崎奉行の竹中采女(うねめ)は彼らを棄教させ、もってわれらの聖なる教えとそのしもべを嘲笑し、信徒の勇気を挫こうとした。だが采女は、やがて言葉では神父たちの決心を変えさせることができないことを知った。そこで別の手段を用いる決心をしたのである。それは他でもなく、雲仙地獄の熱湯で彼等を拷問にかけることであった。

 彼は、五人の司祭たちを雲仙に連れて行き、彼らが信仰を否定するまで熱湯で拷問すること、ただし決して殺さぬように命じた。この五人のほかに、アントニヨ・ダ・シルヴァの妻ベアトリチェ・ダ・コスタとその娘マリアも拷問にかけられることになったが、それはこの女たちが長い間棄教を迫れたにもかかわらずそれに応じなかったためである。

 十二月三日、全員は長崎をたち、一レグワしか離れていない日見(ひみ)の港につくと、腕と手を縛られ、足枷(あしかせ)をはめられ、それから船に乗せられた。一人一人、船の舷側に固く縛りつりつけられたのである。

 夕方、彼らは小浜(おばま)の港に着いたが、そこは雲仙の麓になる。翌日、山に登った。山では七人がそれぞれ一つの小屋に入れられた、昼も夜も彼らは足枷と手錠をかけられ、護衛に取りかこまれていた。采女の配下の数は多かったが、代官も警吏を送って警戒は厳重である。山に通じる道は、すべて監視人が配置され、役人の許可証なしに人々の通行を許さなかった。

 翌日、拷問は以下のようにして始まった。七人は一人ずつ、その場にいるすべての人から離れて、煮えかえる池の岸に連れていかれ、沸き立つ湯の高い飛沫(ひまつ)を見せられ、怖ろしい苦痛を自分の体で味わう前にキリストの教えを棄てるように説き勧められた。寒さのため、池は怖ろしい勢いで沸き立ち、神の御助けがなけば、見ただけで気を失うほどのものであった。しかし全員、神の恵みに強められたため、大きな勇気を得て、自分たちを拷問にかけよ、自分たちは信奉する教えを絶対に捨てぬと答えた。役人たちはこの毅然たる答えを聞くと、囚人に服を脱がせ、両手と両足を縄でくくりつけ、半カナーラくらい入る柄杓(ひしゃく)で熱湯をすくい、各人の上にふりかけた。それも一気にするのでなく、柄杓の底にいくつか穴を開け、苦痛が長がびくようにしておいたのである。

 キリストの英雄たちは、身動き一つせずこの怖ろしい苦痛に耐えた。まだ年の若いマリアだけは、あまりの苦痛のため大地に仆れた。役人は、それを見て"転んだ、転んだ"と叫んだ。そして少女を小屋に運び、翌日長崎に帰した。マリアはそれを拒絶し、自分は転んだのではない、母やその他の人々と共に拷問してほしいと言い張ったが、聞きいれられなかった。

 残りの六人は山に留まり、三十三日間過ごした。その間にアントニヨ神父、フランシスコの両神父とベアトリチェは、各々六回熱湯で拷問をうけた。ビセンテ神父は四回、パルトロメ神父、ガブリエル神父は二度であったが、その際、誰ひとり呻き聲もたてなかった。

 他の人より長時間拷問にかけられたのは、アントニヨ神父とフランシスコとベアトリチェである。特にベアトリチェ・ダ・コスタの場合は、彼女は女性の身ながらあらゆる拷問においても、いろいろ勧告されても、男にもまさる勇気を示したため、熱湯の苦しみの他に別の拷問も行われたし、長時間小さな石の上に立たされ、罵りと辱めのことばを浴びせかけられもした。しかし役人が凶暴になればなるほど、彼女はひるまなかった。

 他の人々は体が弱く、病気であったために、余りひどく苦しめられなかった。奉行はもともと殺すのではなく、棄教させることを望んでいたからである。またこの理由から、彼らの傷の手当てをするためにわざわざ一人の医師が山に来ていたのである。

 遂に采女はいかにしても自分が勝てないことを悟った。かえって部下から、神父たちの勇気と力を見れば、これを改心させるよりも雲仙のあらゆる泉と池はつきてしまうだろうという報告を受けとったので、神父たちを長崎に連れもどすことに決心した。一月五日、采女はべアリチェ・ダ・コスタを或るいかがわしい家に収容し、五人の司祭を町の牢屋に入れた。彼らは今もその牢にいる。これが、われわれの聖なる教えが大衆に鑽仰(さんぎょう)されるようになり、信徒が勇気づけられ、暴君がさきに計画し期待したことと反対に打ち負かされるに至った戦いの赫赫(かくかく)たる結末である」

 このような手紙を書いたフェレイラ教父が、たとえ、いかなる拷問をうけたにせよ神とその教会とを棄てて異教徒に屈服したとはローマ教会では思えなかったのである。

▼一六三五年に、ローマでルビノ神父を中心として四人の司祭たちが集まった。この人たちはフェレイラの棄教という教会の不名誉を雪辱するために、どんなことがあっても迫害下の日本にたどりつき、潜伏布教を行う計画をたてた司祭たちであった。

 この一見、無謀な企ては最初は教会当局の賛意を得なかった。彼等のの熱意や布教精神はわかっても、これ以上、危険きわまる異教徒の国に司祭たちを送りこむことは上司としてただちに許すべきことではない。しかし聖フランシスコ・ザビエル以来、東洋でもっとも良き種のまかれた日本で、統率者を失い、次第に挫けだしている信徒たちを見棄てることも一方ではできない。のみならず当時ヨーロッパ人の眼から見れば世界の果てともいうべき一小国でフェレイラが転宗させられたという事実は、たんなる一個人の挫折ではなく、ヨーロッパ全体の信仰と思想の屈辱的な敗北のように彼等に思われた。こうした意見が勝ちをしめて、幾多の曲折を経たのちルビノ神父と四人の司祭の渡航は許可された。

▼このほかポルトガルでも、この一団とは別の理由から三人の若い司祭が同じような日本潜伏を企てていた。彼等はカムポリードの古い修道院で、かつて神学生の教育にあたったフェレイラ師の学生だった人たちである。フランシス・ガルぺとホアンテ・サンタ・マルタそしてセバスチァン・ロドリゴの三人には、自分たちの恩師だったフェレイラが華々しい殉教をとげたのならば兎も角、異教徒の前に犬のように屈従したとはどうしても信じられなかった。そしてこの若い彼等の気持ちはとりもなおさずポルトガル聖職者の共通した感情でもあった。三人は日本に渡り、事の真相をこの眼でつきとめようと考えたのである。ここでも上司は伊太利(いたりあ)におけると同様、最初は首を縦にふらなかったがやがてその情熱にまけ、遂に日本への危険な布教を認めることにした。これは一六三六年のことである。

 さて、三人の若い司祭たちはただちに長途の旅行の準備にとりかかった。当時ポルトガル宣教師が東洋に行くためには、まずリスボンからインドにむかうインド艦隊に同乗するのが普通である。当時インド艦隊の出発はリスボンをにぎわせる最大の行事の一つだった。今までは文字通り地の果てと思われた東洋の、しかも最端にある日本(ヤポン)が、今、三人にはあざやかな形をおびて浮かびあがった。地図をひもとく時、アフリカのむこうにポルトガル領の本インドがあり、その先々に数々の島とアジアの国々が散らばっている。そして日本はまるで幼虫のような形をして、その東端に小さく描かれている。そこまでたどりつくには、まずインドのゴアにたどりつき、その後更に長期の歳月をわたり多くの海をわたっていかねばならぬのである。なぜなら聖フランシスコ・ザ・ザビエル以来、ゴアは、東洋布教の足がかりとも言うべき町だったからである。二つの聖ポウロ神学院は東洋の各地から留学してきた神学生と共に、布教を志すヨーロッパ司祭が各国の事情を知り、それぞれの国に向う便船を半年も一年も待つ場所でもあった。

 三人はまた手をつくして彼等が知りえる限りの日本の状況について調べた。幸いこの点についてはルイス・フロイス以来、数多くのポルトガル宣教師たちが日本から情報を送ってきていた。それによると新しい将軍イエミツは、彼の祖父や父以上に苛酷な弾圧政策を布(し)いているということだった。特に長崎では一六二九年以来、タケナカ・ウネメとよぶ奉行が暴虐非道、人間にあるまじき拷問を信徒たちに加え、熱湯のたぎる温泉に囚人たちを漬けて、棄教と転宗を迫り、その犠牲者の数は日に六、七十人をくだらぬ時もあるという話だった。この報告はフェレイラ師自身も本国にもたらしているから確実に違いない。いずれにしろ、自分たちが長い辛苦の旅をつづけた後にたどりつく運命は旅以上に苛酷なものであることを彼等は始めから覚悟しなければならなかった。

 セバスチァン・ロドリゴは鉱山で有名なタスコ町で生まれ、十七歳で修道院に入った。ホアンテ・サンタ・マルタとフランシス・ガルペとはリスボン生まれで、ロドリゴとカムポリードの修道院で教育を受けた仲間である。小神学校から日常生活はもちろん毎日机をならべた彼等は、自分たちに神学を教えていたフェレイラ教父のことをありありと憶(おぼ)えている。

 日本のどこかに今、あのフェレイラ師が生きている。碧(あお)い澄んだ眼とやわらかな光をたたえたフェレイラ師の顔が日本人たちの拷問でどう変わったかとロドリゴたちは考えた。しかし屈辱に歪(ゆが)んだ表情をその顔の上に重ねることは、彼にはどうしてもできない。フェレイラ師が神を棄て、あの優しさを棄てたとは信じられない。ロドリゴとその仲間とは、日本にどうしてもたどりつきその存在と運命とを確かめたかった。

 一六三八年三月二十五日、三人を乗せたインド艦隊は、べレム要塞の祝砲をうけながらタヨ河口から出発した。彼等はジョアン・ダセコ司教のの祝福を受けた後、司令官の乗る「サンタ・イサベル号」に乗船した。黄色い河口がおわり艦船(ナホ)が青い真昼の海に出た時、彼等は甲板に凭(もた)れて金色に光る岬や山をいつまでも眺めた。農家の赤い壁や教会。その教会の塔からは艦船を送る鐘が風に送られてこの甲板まで聞こえてくるのである。

 当時、東インドにむかうためにはアフリカの南を大きく迂回せねばならない。だが、この艦船は出発三日目にしてアフリカ西岸で大きな嵐にぶっかった。

 四月二日、ポルト・サン島に、それから間もなくマディラに、六日にはカナリヤ諸島に到着した後は、たえ間ない雨と無風状態に襲われた。それから潮流のため、北緯三度の線から五度まで押しもどされてギネア海岸に突きあたった。

 無風の時、暑さは耐えられるものではなかった。その上、各船には多くの病気が生じ、「サンタ・イサベル号」の乗組員までも、甲板や床で呻く病人が百人をこえはじめた。ロドリゴたちは、船員と共に病人の看護に走りまわり、彼等の瀉血(しゃけつ)を手伝った。

 七月二十五日、聖ヤコブの祝いにやっと喜望峰(きぼうほう)を廻った。喜望峰をまわった日に、再度の烈しい風が襲ってきた。船の主帆がくだかれて烈しい音をたてて甲板にぶつかった。同じ危険にさらされた前部の帆を、病人たちもロドリゴたちもかりだされて、漸くにして救った時、船は暗礁に乗りあげたのである。もし、他の艦がただちに救いにこなければ、「サンタ・イサベル号」はそのまま沈んだかもしれない。

 風のあとはふたたび風が凪(な)いだ。マストの帆は力なく垂れ、ただ真黒な影だけが甲板に死んだように倒れている病人たちの顔や体の上に落ちている。海面は暑くるしく光るだけで波のうねりさえない毎日である。航海が長びくにつれて食糧と水も不足になってきた。こうしてようやく目的のゴアに着いたのは十月九日のことだった。

 このゴアで彼等は本国にいるよりもっと詳しく日本の情勢を聞くことができた。それによると、三人の出発した前の年の十月から、日本では三万五千人の切支丹たちが一揆(いつき)を起こし、島原を中心にして幕府軍と悪戦苦闘した結果、老若男女、一人残らず虐殺されたとのことである。そしてこの戦争の結果、この地方はほとんど人影をみぬほど荒廃した上、残存の基督教徒が虱つぶしに追及されているそうである。のみならずロドリゴ神父たちに最も与えたニュースは、この戦争の結果、日本は彼等の国であるポルトガルと全く通商、交易を断絶し、すべてのポルトガル船の渡航を禁止したとのことであった。

 日本にむかう母国の便船が全くないことを知った三人の司祭は、絶望的な気持で澳門までたどりついた。この町は、極東におけるポルトガルの突端の根拠地であると同時に、支那と日本との貿易基地であった。万一の僥倖をまちのぞみながら、ここまで来た彼等は、到着早々、ここでも巡察師ヴァリニャーノ神父からきびしい注意をうけねばならなかった。日本における布教はもはや絶望的であり、これ以上、危険な方法で宣教師を送ることを澳門の布教会では考えていないと神父は言うのである。

 この神父は、もう十年前から日本及び支那に向う宣教師を養成するために布教学院を澳門に建設していた。のみならず日本における基督教迫害以来、日本イエズス会管区の管理はすべて彼によってなされていた。

 ヴァリニャーノ師は三人が日本上陸後探そうとしているフェイラについても次のように説明した。一六三三年来、潜伏宣教師たちからの通信も全く途絶えてしまった。フェイラが捕えられたということ、長崎で穴吊りの拷問を受けたことは長崎から澳門に戻ったオランダ船員から聞いてはいるが、その後の消息は不明であり、それを調査することもできぬ、なぜなら問題のオランダ船はフェイラが穴吊りに会ったその日に出帆したからである。当地でわかっているのは新しい宗門奉行に任命された井上筑後守がフェイラを訊問したということだけである。いずれにしろ、こうした状況にある日本に渡ることは澳門の布教会としては、とても賛成できぬ。これがヴァリニャーノ師の卒直な意見であった。

 今日、我々はポルトガルの「海外領土史研究所」に所蔵された文書の中にこのセバスチァン・ロドリゴの書簡が幾つか、読むことができるが、その最初のものは以上書いたように、彼と二人の同僚がヴァリニャーノ師から日本の情勢を聞いた所から始まっている。

遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)「まえがき」より。 
平成二十八年一月二十四日


河合隼雄さんは、『沈黙』を読まれて下記の記述をのこしている。

 『沈黙』は昭和四十一年に発表され、すぐに読んだ。私はその当時、深い感銘を味わったことを覚えている。私は何よりも、私自身が異国の心理学をどう受けとめるかに苦しんでいるときに、異国の神をどう受けとめるようかと苦悩している遠藤氏の姿を感じとって、深い共感を覚えたのであった。『沈黙』のなかでは、この問題は、西洋のキリスト教司祭ロドリゴが、日本という土を踏むことによって、日本の土――それは神とも言えるものだろうーーをどのように心のなかに受けとめるかという問題として提出されている。しかし、その根本には、もちろん、日本人が異国の神キリストを信じるということに伴う問題が存在している。そこで、私は他国の文化をそのまま移入することは不可能に近いと述べ、「一つの文化がいかに強力なものであれ、他国の踏むや否や、もう変容をとげ始めるのである。」(『ユング心理学入門』二九五頁)と書いた後に、次のような『沈黙』に関するコメントをいれた。ここが削除した部分なのであるが、それを当時書いた原稿のままで示すことにしよう。                   

 この小説は、幕府の迫害によって絶えかかっているキリスト教を何とか守りぬき、「信徒達を勇気づけ、その信仰の火種をたやさぬためにも、日本に敢然と渡ってきたセバスチャン・ロドリゴという司祭について語っている。ロドリゴは予想される多くの困難や危難にもかかわらず、フランシスコ・ザビエルが言った「東洋のうちで最も基督教に適した国」である日本へ渡ってくる。そして、其の後、日本の役人に捕えられた後は、最後にとうとう踏絵を踏むことになる。しかし、これは迫害に耐えかねて転向したのではない。彼は「踏むがいい」というキリストの声にしたがって銅板を踏んだのである。この信仰厚い司祭が踏み絵を踏むに到るまでの課程を、この小説家は生き生きと的確に表現しているので、興味ある方は小説を読んで頂くとして、筆者がここに問題にしたいのは、ここに司祭に対して「踏むがいい」と語りかけてきたのは誰であったということである。私はここでやはり、土のおそろしさということを感じずに居れない。司祭が本国にとどまるかぎり彼の信仰はそのままであったことろう。しかし、彼が日本の?モギ村の土を踏み、日本の塩魚を食べる過程で、それらは抗しがたい力をロドリゴ司祭の心の奥にまで及ぼしていったのである。日本の土はキリストまで変えてしまつたのか、それは解らない。しかし、ロドリゴ司祭の耳に聞こえて来るキリストの声は変わったのである。この際、「踏むがいい」と言ったのは仏様である人はあるまいし、またサタンの声であるとも言い難い。それはしかし、天井から彼に語りかけるキリストではなく、彼の足下から語る、日本の土の中から掘り出された銅にきざみこまれたキリストなのである。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」と、銅版のあの人は司祭にむかって言ったと作者は述べている。     

 今までは私の原稿をほめてくれていた牧さんは、この部分をカットするように主張した。それは内容的にどうこう言うのでなく、「遠藤周作さんという人はウルサイ人だから、文句つけられたら、ひとたまりもないぜ」と言うのである。これを聞いて私も一ぺんにおそろしきなってしまった。あんな偉い人に文句言ってこられたらたまらないでしょうし、本の売れゆきにも影響するだろうからと早々に削除することにしてしまった。

河合隼雄『日本人とアイデンティティ』P.245〜より


 彼等(フランシス・ガルぺとホアンテ・サンタ・マルタそしてセバスチァン・ロドリゴ)が日本に到着した場所は長崎から十六レグワの郷里にトモギという漁村なのです。戸数は二百戸にも足りぬ村ですが、かつては全村民のほとんどが洗礼を受けたこともあるのでした。到着の翌日、暗いうちに、野良着に着かえさせられ部落の背後にある山に登りました。信徒たちは我々をより安全な場所である炭小屋にかくそうというのです。

「長崎 トモギ」をインターネットで検索すると遠藤周作の「沈黙」について述べられています。

 島原の乱(寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。)は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。

 島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている[5]。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行った。

 天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。

『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。

 ちなみに、上述のように宗教弾圧以外の側面が存在することから、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。
平成二十八年二月三日追加。


ふめ。ふめ、ふみなさい。それでいいのだ

踏 絵

 ただ時に不意に旅心にさそわれて庵の戸をしめ、飄然と旅に出て、今日、庵に戻ったばかりである。昨日まで歩いてきたのは遠く肥前の国々であった。

 大村城をふりだしに、西彼杵(にしそのぎ)を横断して三重、黒崎の海村をまわり、長崎に出て、千々石湾の茂木を訪れ、更に足をのばして島原城より西有馬の原城に出、野母崎の岬より天草の島々を眺め、小浜に至ったのである。

 肥後の国々は今ちょうど新緑。人影なく木の芽のもえる山道をただ、一人とぼとぼ歩いて漸く峠をのぼると、眼下に青い海原の哀しく拡がるを見る。

 私がこの国に興味をもったのは言うまでもなく、日本の各地で奈良大和と京都を除いて興味ある場所はここよりないからである。すなわち、ここはキリシタンの血が流され、信徒を処刑する火刑台の遺跡と刑場の廃墟が至る所にころがっているのに、それを囲む自然の風景はあまりに美しく陽光が明るい場所である。狐狸庵の書架に多少のきりしたんに関する文献をそろえている。そこに書かれたこの地の信仰の歴史も頭に一応はたたきこんでいる筈である。しかしそれを読み、私の念頭からいつも払うことのできない疑問は、新緑もえる肥後の国を歩きながら、ますます強くなっていく。

 たとえば、現在、長崎西坂処刑場に記念碑の立っている、二十六人の殉教者は二十六聖人の名のもとに広くヨーロッパにまで知られ海外にもさまざまに記述され絵画にさえなっている。しかしこの二十六人聖人の殉教した西坂公園からその付近天理教会に至る地域だけでも六百六十人のキリシタン信徒がハリツケ、斬首、穴づり、水責め、火刑、寸断その他の刑で殉教している。日本で殉教した者の総数は詳しくないが、現在判明しているだけでも三千七百九十二人の多きにのぼっている。少なくともその大部分は私が歩いたこの風光明媚な大村から長崎を経て島原に向かう小さな半島の一角で行われたのである。だから、静まりかえった山道をただ一人、杖をひきながら汗をぬぐうたびに、ふと、この道をその昔ロバの背にゆられながら海べりの村から村へ布教に歩いたイスパニアの神父たちの姿を思いうかべた。また、きりしたん弾圧以後、警吏役人の巡視をみるや、村から村へその連絡がとび、あわてて、聖物やおらしょの書きものをかくした農民や漁村の人々の姿を心に甦らしたものである。

▼私がこの旅でとくに感動した時は四個所あった。一つは浦上四番崩れで名高い浦上町に雨ふる日に一本木山の上にたって見おろした時である。片岡弥吉氏や浦川神父の労作で我々は今日、浦上における明治初年の殉教史を知ることができる。実はこれを小説にしたいと思い、ここを訪れただけに一木一草にいたるまで、眼に焼きつけようと雨の中を傘をさして直立していた。

 K村の古きりしたんをたずねた時も感動した。言うまでもなく古きりしたんは鎖国時代に司祭や伝道師のいないために変型した日本的キリスト教で別名、クロ教ともよばれているが、私はここの残った黒崎村を訪れ、魚くさい農家の片隅で老爺の口から親しく昔の話をきいた、

 「おらしょ」とか「こんちるさん」とか「天地はじまりのこと」などという言葉を今、耳にしえた私はきりしたん時代の信徒にそのまま会ったような気がした。

 また島原の町はずれで今井刑場の跡も見た。今はただ草生い茂る畠の中に刑場跡という小さな立札があるきり。しかし野苺の這う叢(くさむら)をよく観察すると、その昔、外人司祭や日本人信徒を火刑にした火刑台の敷石がころがっているのを発見した。

 原城跡は、今はただキャべツと麦畠に変わり、城跡の片側は絶壁となって天草の海に面している。しかし城跡の石垣はところどころに残っている。林銑吉氏の「島原半嶋史」三巻中、第二巻を愛読し、また島原藩の儒者、川北重熹の「原城紀事」松平輝綱の「嶋原天草日記」山田右衛門の「天草土賊城中話」立花飛騨守「嶋原戦之覚書」を狐狸庵の書架よりたずさえし私は、本丸、二の丸をうろつきまわり、ひょっとすると何やらその頃の遺物でも埋もれてはおらぬか落ちてはおらぬかと眼をキョロキョロさせて調べておったところ、土中に壺のかけらあり。また銃の一片とおぼしき錆びた鉄片あり。石垣の石と共に大事に布に包み、キャべツをつむ農婦にそれとなくたずぬれば、今でも時々、人骨が出ますという話である。さもありなん。十二万四千の大軍に殺戮された百姓浪人の数はその数一万八千人の屍体がこの田畠を埋め、その屍体は城をとりこわすとき、ことごとくまとめて火を放ったが、屍臭に集まった蠅は連日、数知れず、そのため付近は土の色も見えなかったと古書に書いてあるほどである。

さて、さきほども書いたようにこうした殉教の跡を歩いて、平生から私の念願を払うことのできない疑問はますます深くなっていく、その疑問は色々あるが私がもしも、当時のキリシタンの一人でこういう迫害に出あったら、どういう態度をとっただろうかという疑問である

 私はぐうたろうで、甚だ弱虫であるから役人たちが拷問の用意をしただけで、おそらくチヂみあがったであろう。踏絵を踏めと言えばどういう表情をしたであろうか。

 井上筑後守が寛永十七年に口述筆録し、北条安房守が編した「契利斯督記」は今日、比屋根博士の切支丹文庫第二輯に収められているため、狐狸庵主人も一読したことがあるが、その中で未だに忘れざる言葉がある。それは踏絵を踏ませた時の信徒の表情についての描写である。曰く。

 「うば、並に女などは、デウスの踏絵をふませ候へば、上気さし、かぶり物を取捨て、息合あらく、汗をかき、又は女により人の見ざるよう踏絵をいだき候事も有之由」

 私などおそらく第一番目に息合あらく、汗をかき、人の見ざるよう踏絵をいだく信徒の一人であったにちがいない。

 殉教した人々は私の眼からみると意志も強く信念ある強者である。雲仙の地獄谷で松倉重正の奨めで、長崎奉行、竹中重次が行った拷問は白煙たなびく温泉の熱湯中に彼等をひたしたり、背中をたちわって柄杓で湯を注いだという。杖を引いてその地獄谷を訪れた時、カルヴァリヨという神父がこの拷問の後、踏絵を強いられても「それを踏むよりは、この足を切った方がましである」

 と焼けただれた足を指さしたというイェズス会年報記録の一部を思い出し、これはとても出来ぬ。この農民や女をかかる強者にさせた信仰とは何かと考えこまざるをえなかった。

 彼等の中には私と同じようなぐうたらにして弱虫がもちろいただろう。そして彼等はそのぐうたらというより、肉体の弱さのために自分の思想を裏切らざるをえなかったにちがいない。その時、彼はやはり、神を棄てたことになるでしょうか.

 大村から長崎、長崎から島原と歩きまわりつつ、私は強者、殉教者の血のあとに接するたびに益々、憂欝になり、肉体よわき者はかかる脅迫、迫害にいかに生きうるかと考えこまざるをえなかった。ぐうたら男はいかにしてその思想に殉じるか。私は峠をこえ、海にそうた村を通りすぎるたびにこの問題がますます胸にふかくのしかかり、重い気持のまま、足を引きずって旅を続けたのである。

 この問題をとり扱った小説は狐狸庵書架にただ二冊しかない。一冊はル・フオール(独逸閨秀作家)の「断頭下、最後の女」であり、今一つはそれを劇化したべルナノスの「カルメル会修道女との対話」(スイス版)である。主人公は肉体の弱者、ぐうたら臆病者であり、暴力にはまことに弱い修道女であるが、この修道女が仏蘭西革命の殺戮に会っていかに生きたかという主題を取りあげている。しかし、それらの作品、必ずしも、心にわだかまる私の問題を解決してくれたわけではない。私はただ、ぐうたらに旅を続け、ぐうたらに問題を未解決にしたまま、ふたたび狐狸庵に戻ってきたわけである。

 久しぶりに庵に戻れば、旅だつ前、まだ花のひらいていた桃は既に散り、桜もそのほとんどが葉桜と変わっている。

 私は長崎の古本屋で求めた幾冊かの書物を陽にほし、膝をかかえたまま草慮の林を眺めた。また島原の城跡より掘り出した石垣の石や壺のかけらに日付と採取地とをしるした紙をはりつけた。島原より掘り出した石は赤く、銃の一片とおぼしき鉄片は赤く錆び、焼けこげた痕が歴然とある。それらの石や鉄片は、私のようなぐうたらでない人間が信仰のために殉じんた遺品である。

 だが、私はまた、今一つの遺品を長崎でみることができた。それは有名な大浦天主堂の真向かいにある十六番館である。ここにはグラバー邸の遺品やオランダ皿など、面白くないものばかり陳列しているのだが、ただ一つ私をして長い長い間、凝視せしめたものが一つだけあった。それは銅板を木の枠にはめこんだ踏絵である。踏絵には基督の摩滅した顔がある。木にはあきらかに人間の足指らしい痕も残っている。

 これを踏まされた無数の信徒の中には殉教必ずしも心強き者ばかりではなく、ぐうたらにして弱虫もまた存在したにちがいない。役人たちに拷問をかけられるや、たちまちにしてガタガタ震え怯え「息合あらく、汗をかき」踏絵をふんだ信徒たちもいたにちがいない。その信徒だって踏絵をふむ時は心苦しく、心痛く、足苦しく、足痛く、おずおずとその絵に足をかけたにちがいないのです。彼等の足指の痕が十六番館に保存されてある踏絵の上に残っている。私はその足指をまるで自分のそれの如く思って長い長い間、見つめてきた。しかし踏絵の摩滅した基督の表情はいかに貧しかったか。天草、島原の風景と同じようにそれはまた哀しい。かれは

 「ふめ。ふめ、ふみなさい。それでいいのだ」と。

▼遠藤周作『現代の快人物』(角川文庫:昭和四十七年十月三十日 初版発行)P.147〜153より。

参考:久留米の川島 勇様が下記のものをUpされています。
1、「田中天主堂/長崎県平戸市田平町」:2015.12.24
2、「津崎天主堂/熊本県天草市」:2015.12.25
3、「大浦天主堂/長崎市南山手町」:2015.12.27
4、「浦上天主堂/長崎市本尾町」:2015.12.30
5、「平戸ザビエル記念教会聖堂/長崎県平戸市」:2016.01.05

総括:☆☆=風にさそわれ西東=☆☆

平成二十八年二月七日

(下記の写真は川島 勇様よりいただいたものです)写真をクリックしますと少し大きい画面になります。Please click on each photo, so you can look at a little wider photo.


遠藤周作の書斎

沈黙の碑

踏絵を踏んだ人の痛み


26

『紅葉する老年』


 旅人木喰から家出人トルストイまで

 「最近の長寿研究が証明する長生きの条件は、勤勉さ、真面目さ、努力しつづけること、目標をもっていることである。目的、目標を達成するために絶えず勤勉に働きつづけることであり、自分を縛る目標を設定せず、楽天的でのんびり、ゆったり時をすごす者は、長生きしそうだが、勤勉な努力家よりも短命である。」(本文より)

 帝政ロシア時代の日々、遊んで暮らす貴族や地主たちは、ストレスがないのに長生きしなかったという。命を萎縮させたまま、時だけが過ぎていったのだ。

 「貧弱な精神生活を送っている者は早死する」と、82歳で家出して旅先で死んだレフ・トルストイは言った。

 トルストイは教会から破門され、政府からも教会からも異端者・逮捕できないテロリストとして、死ぬまで監視されていた。「いつ死んでもいい」と言いながら、最後まで「自分の仕事」から引退しなかった。

 今ではあまり読まれないトルストイだが、死刑廃止、反戦、テロリズム、貧富の格差、医療と介護など、没後105年の今の日本で考えるべき多くのことを語っているのに驚く。

 「政治への関心は他者の命への関心である」(トルストイ)

 宮沢賢治も田中正造も有島武郎も、それこそ必死にトルストイを読んだのだ。

 武力否定の立場を貫いた

 ロシアの大平原を異民族が来襲したらどうするのか、武器なしで待ち受けていて命は守れるのか。この問いにたいしては、無抵抗と危険な現実とのあいだで、トルストイは心の中で「判断停止」を保ったようだ。理想と現実にすさまじい乖離があることはわかっている。それでも、妥協をせず理想を掲げることにどれだけ人生を傾けるか。

 暴力の絶対否定は、目標の提示として意味があった。そこに一点の妥協を混ぜたら、その点が細菌になって、原則を虫喰いだらけにしてしまうだろう。

 トルストイの「力に対する力による抵抗の否定」は、後世に残した原石である。原石だから、それを大事にして、時代ごとに磨き続けること。

 日帰りの山歩き。下山を急ぐ午後3時半過ぎ、山道が異様な美しさに包まれる時間帯がある。入り日直前の陽光が黄金色に輝き、一帯を包む。これが紅葉の時期なら、奇跡のようなトワイライト・タイムだ。

 人生にも紅葉期がある。死が近づいて生がせっぱつまった老年に、若い頃には思いもよらない境地が花ひらく。醜・弱・衰は自然だろう。ただ、陽気さが必要だ。

 だれもが紅葉期に恵まれるわけではない。命の得体の知れない力、個性の強さ、命と命の想像を絶するちがいこそは、万人の人生への宇宙からの贈物であると著者はいう。

「紅葉する老年」:本書には、そのためのヒントと励ましがつまっている。

文献:みすず書房 武藤洋二著


ミニ解説

 本文約250ページの6割に当たる150ページ余りを充てて克明に記述される「トルストイ82歳」は本書の圧巻だ。トルストイの紅葉期のいささかの譲歩も見せない激しい燃え方に圧倒された直後に、「あとがき」で「生死の運命に心をわずらわせ、命をすり減らすのは愚かであり、この一番卑俗な変種が、死を恐れて単なる長寿を人生の最高目的にする生き方である」と著者に駄目押しされてしまうと、もうこれはおとなしく頷くしかない。ではどのようすれば一般人は「紅葉人」を目指すことができるのか。著者が 与えてくれた手がかりを次のように汲み取ったがどうだろうか。

@万事自分でやり、自分で考えるという命と脳のトルストイ的使い方で人生の後半を進んで行くと、命も脳も干からびることはないので、老年が砂漠にならない。

A老いたゴヤやレンブラントやファーブルのようにいつまでも陽気さを失わない。

 苦悩するがゆえに我あり <インターネット>

トルストイは、二歳のときに母親を、九歳のときに父親をなくしているが、貴族の父親から、生涯の生活に困らないほどの財産を相続していた。

 ドストエフスキーは「熱い心」の持ち主、トルストイは「冷たい心」の持ち主と分類し、その「冷たい心」ゆえに生み出される苦悩と戦い抜いたのがトルストイの生涯であった。「人間は、何のために生きているのか」生涯にわたって問い続け、悩み抜いた。

 彼は、『懺悔』(五十歳の時に書かれた、衝撃的な自己告白の書)の中で、「恐怖と嫌悪と心痛をおぼえずには、この時代を回想することができない。私は戦争で多くの人を殺した。殺さんがために人に決闘をも挑んだ。賭博で大負けに負けたこともある。百姓たちの労苦の結晶を空しく食い、彼らを罰した。姦淫した、人を欺いた。詐欺、窃盗、あらゆる種類の姦淫、泥酔。暴行、殺人……ほとんど私の行わない罪悪はなかったようである」と述べています。

彼の生涯に何か教訓があるとしたら、それは、「人間は生き続けるかぎり苦悩から逃れることはできない」こと、そして、「より深く苦悩することによってしか苦悩には対抗することができない」ということを教えているように思われる。

彼は「私は理性にもとづく知識の道に、生の否定以外の何物をも見出し得ず、また信仰の中からは、理性の否定以外の何物をも見出し得ないことを知った」と、言っています。

 深刻な矛盾に苦しむトルストイは、82歳で世俗を一切断ち切って家出。4日目、いなかの駅で肺炎で死亡しました。

 理性を超えた真の宗教を知り得なかったことが、真摯な魂を悲劇に追いやったのでしょうか。


「トルストイ-名言-抜粋」 <インターネット>

◆誰もが世界を変えたいと思うが、誰も自分自身を変えようとは思わない。

◆もし苦しみがなかったら、人間は自分の限界を知らなかったろうし、自分というものを知らなかったろう。

◆あらゆる戦士の中で最も強いのがこれらの2つである ? 時間と忍耐力。

◆逆境が人格を作る。

◆急いで結婚する必要はない。結婚は果物と違って、いくら遅くても季節はずれになることはない。

◆この世における使命をまっとうせんがために、我々の仕事を明日に繰り延べることなく、あらゆる瞬間において、自己の全力を傾注して生きなければならない。

◆学問のある人とは、本を読んで多くのことを知っている人である。教養のある人とは、その時代に最も広がっている知識やマナーをすっかり心得ている人である。そして有徳の人とは、自分の人生の意義を理解している人である。

◆幸福は、己れ自ら作るものであって、それ以外の幸福はない。

◆自分をその人より優れているとも、偉大であるとも思わないこと。また、その人を自分より優れているとも、偉大であるとも思わないこと。そうした時、人と生きるのがたやすくなる。

◆愛には三種類ある。美しい愛、献身的な愛、活動的な愛。

◆きわめてつまらない小さなことが性格の形成を助ける。

◆一番難しく、しかも最も大切なことは、人生を愛することです。苦しい時でさえも愛することです。人生はすべてだからです。

◆一旦やろうと思い立ったことは気乗りがしないとか気晴らしがしたいなどという口実で延期するな。直ちに、たとい見せかけなりとも、とりかかるべし。いい知恵は浮かぶものなり。

◆死への準備をするということは、良い人生を送るということである。良い人生ほど、死への恐怖は少なく、安らかな死を迎える。崇高なる行いをやり抜いた人には、もはや死は無いのである。

◆思いやりはあらゆる矛盾を解決して、人生を美しくし、ややこしいものを明瞭に、困難なことを容易にする。

◆謙虚な人は誰からも好かれる。それなのにどうして謙虚な人になろうとしないのだろうか。

◆自ら精神的に成長し、人々の成長にも協力せよ。それが人生を生きることである。

◆わたしたちは踏みなれた生活の軌道から放りだされると、もうだめだ、と思います。が、実際はそこに、ようやく新しいものが始まるのです。生命のある間は幸福があります。

◆強い人々は、いつも気取らない。

◆人間の真価は分数のようなものだ。分母は自己の評価、分子は他人による評価である。分母が大きくなるほど、結局、真価は小さくなる。

◆人生の意義を探し求めようとしない者がいるならば、その人間は生きながら死んでいるのだ。

◆過去も未来も存在せず、あるのは現在と言う瞬間だけだ。

◆人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。

◆自分の信念に忠実に生きる少数の人々の生涯は、あらゆる書物よりもはるかに役に立つ。

◆信仰は人生の力である。
平成二十八年二月二十二日


27

モリー先生との火曜日

mori-1.JPG
 生と死の架け橋を渡るその道すがらの話をしようと考えた。

 死を人生最後のプロジェクト、生活の中心に据えよう。誰だっていずれ死ぬんだから、自分はかなりお役に立てるんじゃないか?研究対象になれる。人間教科書にゆっくり辛抱強く死んでいく私を研究してほしい。私にどんなことが起こるかよく見てくれ。私に学べ。

 モリー先生はALS(筋萎縮側索硬化症)にかかった。有めい人では、たとえば宇宙物理学の逸材スティヴン・ホーキングがそうだ。
 毎週火曜日に先生を見舞ったかっての教え子で当時スポーツのジャナーリストである作者ミッチ。題名は、アルボム(Mitch Albom)との対話集である。1998年9月25日 発行


自学自得 225号拝受 有難うございます

 はや師走を迎えました。一年間の自学自得のご教授本当に有難うございました。私も酸素とのつき合いも大分馴れ、この分では無事平成十年をのり切れそうで嬉しく思っています。

 曹源寺の菩提樹、大山澄太先生に連れられ参拝した時、拝見したことを思い出しました。

 去る十一月二十九日ラジオで午前四時〜五時「こころの時代」で「モリー先生との火曜日」のお話しには感動いたしました。NHKに電話をしたらNHK出版ということで早速本屋に出むき「モリー先生の最終講義」(飛鳥新社)と共に求めてきました。

 死の床でたんたんと語る先生の教科書なき生命の講義には全くど肝を抜かれる思いであります。座右の書として、みっちり勉強しようと考えております。どうも年末ご多忙ご自愛の程を   

 1998年12月3日

合掌

※このお便りで私はこの本を買って読みました。本当に良い本を紹介されたものです。

 十八年経過して、いただいていたハガキを書き写しました。 

2016.09.20追加


追加:折々のことば:1048 鷲田清一2018年3月13日05時00分

 Giving is living (モリー・シュワルツ)

       ◇

 致死の難病を患う老教授を見舞った人がみな、慰めるつもりがつい自分の悩み事を相談し「こっちが慰められた」と涙ぐむ。病床で教えを受けたかつての学生が、なぜ彼らの気持ちを受け取るだけにしないのかと訊(き)くと教授はこう答えた。「取る(テイク)」のは自分が死にかけている感じ、逆に「与える(ギブ)」のは生きている感じがする、と。M・アルボムの『愛蔵版 モリー先生との火曜日』(別宮貞徳訳)から。

*私はこの記事を読み、探してみたが見当たらなかった。下記の文書に出会った。

P.129 「この国では、ほしいものと必要なものがまるっきりごっちゃになっている。食料品は必要なもの、チョコレートサンデーはほしいもの。自分を欺いてはいけない。最新型のスポツカーは必要ではない。

 はっき言って、そういうものから満足は得られない。ほんとうに満足を与えてくれるものは何だと思う?」

   何ですか?

 「自分が人にあげられるものを提供すること」

 ボ―イスカウトみたいですね。

 「別にかねのことを言っているわけじゃない。時間だよ。あるいは心づかい。話をすること。そんなにむずかしいことじゃないだろう。この近所に老人センターがあってね。毎日お年寄りがたくさん来ている。男でも女でも若い人で何か技術を持っていれば、そこへ行って教えればいい。たとえばコンピュターのことを知っていれば、それをお年寄りに教える。大歓迎されるよ。みなさんとても感謝するだろうし。こんなふうに、持っているものを提供することで、まずは尊敬も得られるというわけだ。


28
ノモハンの夏 半藤一利

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  あとがき

 横光利一の遺作に『微笑』という短編がある。なかに、不利な戦況を逆転するために、殺人光線を完成させようとしている二十一歳の天才的な数学者がでてくる。「ぱっと音立てて朝開く花の割れ咲くような」笑顔をみせるこの青年は、殺人兵器が完成に近づいたとき戦争が終わり、発狂死していまう。戦争という狂気の時代を積極的に生きた横光の、戦後のつらくはかない想いが、この幼児のような「微笑」をただよわせてながら殺人兵器をつくろうとしている青年を造型させたのであろう。

 戦後少したって元陸軍大佐の辻政信氏とはじめて面談したとき、この『微笑』の青年が二重写しとなって頭に浮かんだ。眼光炯々、荒法師をおもわせる相貌と本文中に書いたが、笑うとその笑顔は驚くほど無邪気な、なんの疑いをも抱きたくなくなるようなそれとなった。

 横光の小説のけがれのない微笑をもつ青年は発狂死した。まともな日常のおのれに帰れば、殺人兵器を完成させようとしていたことは神経的に耐えられない。精神を平衡に保とうにも保たれない。ふつうの人間とは、おそらくそういうものであろう。戦後の辻参謀は狂いもしなければ死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活が終わると、『潜行三千里』ほかのベストセラーをつぎつぎとものし、立候補して国家の選良となっていた。議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」が、背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見る想いを抱いたものであった。

 大袈裟なことをいうと「ノモハン事件」をいつの日にかまとめてみようと思ったのは、その日のことである。この凄惨な戦闘をとおして、日本人離れした「悪」が思うように支配した事実をきちんと書き残しておかねばならないと。

 それからもう何十年もたった。この間、多くの書を読みつぎながらぼつぼつ調べてきた。そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深く幅のある、ケタはずれに大きい「絶対悪」が二十世紀前半を動かしていることに、いやでも気づかせられた。かれらにあっては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばならないのである。

 それほど見事な「悪」をかれらは歴史に刻印している。おぞけをふるほかのないような日本陸軍の作戦参謀たちも、かれらからみると赤子のように可愛い連中ということになろうか。およそ何のために戦ったのかわからないノモハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人びとが死に、あっさりと収束した。そのことを書かなければ、いまさら筆をとることの意味はない。ただしそれがうまくいくいったかどうか。

 それにしても、日本陸軍の事件への対応は愚劣かつ無責任というほかはない。手前本位でいい調子になっている組織がいかに壊滅していくかの、よき教本がる。とはいえ、歴史を記述するものの心得として、原稿用紙を一字一字埋めながら、東京と新京の秀才作戦参謀を罵倒し嘲笑し、そこに生まれる隔離感でおのれをよしとすることのないように気をつけたつもりである。しかしときに怒りが鉛筆のさきにこもるのを如何ともしがたかった。それほどにこの戦闘が作戦指導上で無謀、独善そして泥縄的でありすぎたからである。勇戦力闘した死んだ人びとが浮かばれないと思えてならなかった。

 原稿執筆中には花田朋子さん、本にするにさいしては松下理香さんに大そうな世話になった。また参考にした文献の著者と出版社にも。彼女たちともども、お礼を申しあげる。勝手ながら、小松原日記をのぞき、大陸令をはじめ、引用の日記、手記など漢字は常用漢字、新カナ遣いとし、読みやすいように句読点をほどこしたものもある。

   一九九八年三月

                          半藤一利

 ノモハンの夏*目次

第一章 参謀本部作戦課
 ”戦略戦術の総本山”参謀本部はすでに対ソ作戦方針を示達していた。
 「侵されても侵さない。不拡大を堅守せよ」

第二章 関東軍作戦課
 関東軍の作戦参謀たちは反撥した。
 「侵さず侵されざるを基調として、強い決意を固めて万事に対処する」

第三章 五月
 モロトフ外相はスターリンに指示された抗議文書を東郷大使に手渡した。
 「これ以上の侵略行為は許さない」

第四章 六月
 関東軍の作戦参謀辻政信少佐はいった。
 「傍若無人なソ蒙軍の行動に痛撃を与えるべし。不言実行は伝統である。

第五章 七月
 参謀本部は、関東軍の国境侵犯の爆撃計画を採用しないと厳命した。
 「隠忍すべく且隠忍し得るものと考える。

第六章 八月
 歩兵連隊長須見新一郎大佐はいった。
 「部隊は現在の陣地で最後を遂げる考えで、軍旗の処置も決めています」


 この章P.300〜301に

 1939年(昭和14年)8月23日、クレムリン周辺はお祭り騒ぎとなった。広場にはナチスの鉤十字旗がいっぱい、槌と鎌をあしらったソ連国旗とならんでひるがえった。鉤十字旗は反ナチ映画を製作していた映画撮影所から、急ぎあわてて調達されたものである。軍楽隊がくり返しナチス党歌と「インタ―ナショナル」を演奏した。

 その夜、独ソ不可侵条約が正式に調印された。その要点は、(一)たがいに武力行為にはでない、(二)第三国と戦争となった場合にはその第三国を支持しない、(三)共同の利益について常に通告協議する、(四)直接でも間接でも敵と第三国には加担しない、ということである。同時に、重大な秘密協定が結ばれている。バルト諸国の領土にかんする独ソ勢力圏の境界線と、ポーランド分割の独ソの境界線とをきめたものである。

mori-1.JPG  スターリンは坐したまま大きな獲物を掌中にすることができた。

 夜も遅く、クレムリンの一室で小さなパーティがひらかれた。いま新たに成立した”友人”同士はなんども握手しつつ、惜しげもなく注がれるシャンパンをのみ、「間抜けな」英国を愚弄しながら祝杯をあげた。スターリンはなんどかの乾杯の音頭をとったときに、最大の陽気をふりまいていった。「私はドイツ国民がいかに深く総統閣下の恩恵に浴しているか、よく知っている。総統を愛しているか、よく知っている。卓越せる総統閣下のご健康を祝して、乾杯!」

 モロトフは、リッペントロップとシューレンブルグの健康のために乾杯し、さらにスターリンのために杯をあげた。 

「独ソ両国関係の転換をもたらした偉大なる首相に、乾杯!」

 こうして、重なる乾杯の音頭をふれ合うグラスの響きのなかに、長年の敵対関係のどす黒い霧は消えて、いつの間にかうまれた親近感が、かがやかしい光をともなってあらわれてきたようである。スターリンのヒトラーにたいする祝福の乾杯は、言葉だけのものではなかった。ヒトラーのなかに、同時代に生きる自分と同質同等の人間を見出し、それに敬意をはらったものであった。

 スターリンは、葡萄酒をちびりちびりとのみながら、夜がふうけるまでリッペントロップと語り合った。そして、真顔で、しっかりとした言葉でこの夜の宴をしめくくった。

 「ソビエト政府は、この条約をきわめて真剣に考えている。私はソビエト連邦が、この条約の同盟国を決して裏切らないということを、名誉にかけて保証する」

 同じ日、英仏の軍事使節団は下級のソ連の将官に見送られてモスクワを発った。ソ連全権のヴォロシーロフは鴨猟にいっていて、残念ながら見送れなかったと釈明している。


参考1:ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(ロシア語: Вячеслав Михайлович Молотов、ラテン文字表記の例:Vyacheslav Mikhailovich Molotov、ヴィチスラーフ・ミハーイラヴィチュ・モーラタフ、1890年3月9日(ユリウス暦2月25日) - 1986年11月8日)は、ソビエト連邦の政治家、革命家。同国首相、外務人民委員、外相(1946年以後)(英語版)を歴任し、第二次世界大戦前後の時代を通じてヨシフ・スターリンの片腕としてソ連外交を主導した。

参考2:ウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(ドイツ語: Ulrich Friedrich Wilhelm Joachim von Ribbentrop、1893年4月30日 - 1946年10月16日)は、ドイツの実業家、政治家。コンスタンティン・フォン・ノイラートの後任として、ヒトラー内閣の外務大臣を1938年から1945年にかけて務めた。最終階級は親衛隊名誉大将。ニュルンベルク裁判により絞首刑に処せられた。武装親衛隊に志願、大戦を生き延びた親衛隊大尉ルドルフ・フォン・リッベントロップは長男。

参考3:アドルフ・フリードリヒ・フォン・デア・シューレンブルク=ベーツェンドルフ(Adolph Friedrich von der Schulenburg-Beetzendorf, 1685年12月8日 - 1741年4月10日)は、プロイセン王国の貴族、軍人。爵位は帝国伯。最終階級は中将。

参考4:クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフ(ロシア語: Климент Ефремович Ворошилов、ラテン文字転写の例:Kliment Yefremovich Voroshilov、クリミェーント・イフリェーマヴィチュ・ヴァラシーラフ、1881年1月23日(グレゴリオ暦2月4日) - 1969年12月2日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家、ソ連邦元帥、ソ連国防大臣、国家元首に当たる最高会議幹部会議長を歴任した。ソ連邦英雄(2度)。

参考5:昭和14(1939)年の夏、ソ連が関東軍の実力を試そうとして挑発的越境行為を張鼓峰事件に続いて繰り返した。張鼓峰事件が日本の朝鮮軍に対する威力偵察だったように、ノモンハン事件は関東軍に対する威力偵察だった。その後に満州へ侵略するための試行でもあった。

ソ連にそそのかされ、ソ連軍の援護を受けた外蒙(外モンゴル)軍が、5月11日満蒙国境ホロンバイル草原を流れるハルハ河を渡って満州国領土に侵入した。この地も満州東部と同じく国境線の不明確な地域だった。日本はソ連に何度も国境の画定を提案していたが、ソ連は応じなかった。国境線が不明確なのを紛争の口実にする、ソ連のお得意の手口である。

張鼓峰事件の専守防衛が結局悲惨な結果を招いたという反省から日本は国境外への一時的行動を是認して戦われた。

ここで日本は一個師団を失ったが、ソ連が世界に誇る機械化部隊に壊滅的被害を与えた。当時、日本軍は一方的に惨敗したといわれたが、実際には被害数は圧倒的にソ連のほうが多かった。最近のソ連側を含めた研究によれば、ノモンハン事件での日本側損害が死傷者に行方不明者を合わせて1万7000余名であるのに対し、ソ連側は死傷のみで約2万だった。日本軍の火力・機械力の不足を考えれば戦闘自体は必ずしも日本軍の敗北だったとはいえないわけだ。

ところが、日本にとって一個師団を失ったショックは大きく、戦況を見極める目を曇らせ、日本はソ連に大敗したと思い込んでしまった。これにより対ソ開戦論は後退した。

一方、ソ連軍もそれ以上の損害を受け、停戦を望んだ。

9月15日にノモンハン事件の停戦協定が成立。そのたった2日後、ソ連はポーランドへの侵攻を開始した(第二次世界大戦)。

参考:春秋 2018/3/10付

 1939年8月21日夜、ドイツ国営放送は通常の音楽番組を中断し、ソ連との不可侵条約成立という驚愕(きょうがく)のニュースを流し始めた。ポーランドを挟んでにらみ合っていたヒトラーとスターリンが、誰も予想しなかった融和に転じたのだ。動揺したのは欧州だけではない。

▼当時の中外商業新報(小紙の前身)は「ベルリン発至急報」とともに、この出来事への反響で紙面を埋め尽くしている。「急転の重大情勢に閣僚悉(ことごと)く発言」「火花散る外交戦」……。そのころ日本はノモンハンでソ連と戦っている最中だった。仲間と頼んでいたドイツが、敵のソ連と握手した衝撃はいかばかりだったろう。

▼トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩氏が会談へ――。79年前と世界は大きく変わったが、この展開は近現代史のそんな激動を思い起こさせてあまりある。対話は大いに結構だ。戦争の危機が遠のき、拉致問題解決にも弾みがつけばいい。しかし異形の2人の接近が日本に、東アジアに何をもたらすのか凝視せねばなるまい。

▼独ソ不可侵条約を目の当たりにして、ときの平沼騏一郎首相は「欧州の天地は複雑怪奇」なる言葉を残して退陣した。こんどの米朝の複雑怪奇も相当なものだろうから、日本外交のまさしく正念場である。かの不可侵条約には、じつはポーランド分割を決めた秘密議定書が付属していた。歴史は多くのことを教えてくれる。


第七章 万骨枯る
 死屍累々の旧戦場をまわりながら、生き残った兵たちはだれもが思った。
 「ああ、みんな死んでしまったなあ」

参考:自らに勝つものは強い

2019.01.08 


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『白隠禅師健康法と逸話』直木公彦著 日本教文社

白隠
「内観の四句(内観法)」  p.74〜p.78

 人間がひとたびこの世に生をうけてから、各自の経歴にしたがって十年、ないし数十年も現実社会に生活をつづけてきておりますあいだには、かならず愛情のもつれ、誤解、意見や立場の相異による争い、人間や社会に対する矛盾、怒り、恨み、悩みが、多かれ少なかれ知ると知らずにかかわらず内在するものであります。また、職業や友人、知人、父母、妻子に対する不平や不満もあり、野心、功名心、恋愛、結婚、親子、夫婦などにまつわる問題や、病気についてのさまざまの心配、煩悶、焦り等々、その他多くの思想がいっぱい胸の奥深くつめられているのであります。またこれらの精神的乱れと悩みのエネルギーが肉体へも大なり小なり病的変化を与えているものなのです。

 一般に病人とは身体とともに心のなかでも暗闇で病んでいるものです。

 各人が心しずかにおのれをはなれて、おのれの胸のなかの思想と感情の姿とを冷静にながめますときは、はたして、うつくしい明るい姿であり、自由自在のとらわれない心の姿でありましょうか。暗く病める心の姿ではなく、光り輝く健康な身心の状態にありましょうか。それは各自が一番おわかりのことと存じます。

 一切の過去にとらわれず、それを捨てきって、未来にも思いわずらわされず、なおりたいともおもわず、なおしたいともおもわず、現在の心を無にし空にし、うまれたての心、赤子の心、そのままの心、自然の心にせよというのが、『夜船閑話』のなかの「一切の小智才覚をすてなければならない」というのであろうと存じます。

 一切の思いを捨てきってしまい、心中をからっぽにして、無のなかのよき一念の姿になるのが最高の目的でありましょう。たえず発生し、生長しつづける心の働きをまったく中止させようとするのはむつかしいことであり、一般の人にはできるものでもありますまい。

 そして、白隠禅師の心をととのえて統一する第一次の思想である「内観の四句」を深く観じかんがえてゆきますときに、各人各様になにものかにふれ、なにものかを把握するものであり、その境地をあじわうために一種の導句であり、導き手であり、目的地はほかにあるのです。この四句は月をさす指先であるようにもおもえます。この内観の四句の意味の感じたところをのべてみましょう。

 これは雑念を払いきった身心の沃土に植える観念の種子としては、天下一品のものでありましょう。

 一、我とは何ぞ、真の自己とはこれ何ものぞ、わが本来の面目(自分の本当の相(すがた))とは何ぞ、いかなる鼻や顔形(かおかたち)、姿なのか。我此の気海丹田腰脚足心まさにこれわが本来の面目。面目なんの、鼻孔かある。

 二、わが真の棲家はいずこぞ、わがほんとうの棲むべき故郷の消息やいかん、我此の気海丹田腰脚足心まさにこれわが本分の家郷。家郷何の消息かある。

 三、唯心の浄土とは何ぞ、目に見える荘厳なるものであろうか。浄土なんの荘厳かある。我此の気 海丹田腰脚足心まさにこれわが唯心の浄土。浄土何の荘厳かある。

 四、己身の弥陀とは何ぞ、なんの法を説くのか。我此の気海丹田腰脚足心まさにこれわが己身の弥陀。弥陀何の法をか説く。

 この四句をくりかえしていると何とも言えぬ気持のよい世界へつれられてゆき、その無の世界、純粋精神の世界、生命の根源の世界で各人がなにを発見し、なににふれるか、をまかしてあるものでありましょう。

 すなわち、内観の四句は、自己にもとからそなわっている生命の偉大な本性の尊さを自覚する境地へ導きつれてゆくための言葉であり、まさに、気海丹田こそ、人間の本当の印である(顔形)心の棲むべき場所であり、生気(いき)のしどころである。丹田こそ、肉体の主たる目に見えぬ永遠の生命の棲むべき、ふる里である。人間のほんとうの家郷こそ、唯心の浄土であり、人間のほんとうの相こそ、己身の弥陀である。それを知り自覚するには、まず心を落ちつかすべき所へ落ちつかせなければならぬ。心を丹田におさめて落ちつけよ、肚に心を落ちつかせ。心をば肚におさめて、落ちつけば、この身はこのまま浄土にして、この身そのまま仏なるを悟るであろう。浄土といい、仏というも、おのれのそとにあるものではなく、「心の落ちつき」と「魂の平安」のなかから発見され現成されるものであり、なにものにもうごかされぬ心にあり、無碍自在のなにものにも、とらわれぬ心にあり、永遠の命にあるのである。それには心を気海丹田にやしなうのがいちばん近道である。心をやしなえ、肉体をうごかす心をやしなえ、肚をやしなえ、肚を錬りつくれ、肚を錬り、気海丹田に心気を落ちつかせて、自己本分の家郷こそ唯心の浄土であり、己身の弥陀こそ、自分のほんとうのすがたであるのを体感せよという意味でありましょうか。とにかく、実習してごらんなさい。実行すれば必ず効果があります。「実行無くして実効なし。実行のみよく実効を産む」です。

 床の上にゆったりと身体をよこたえて、心しずかに内観の四句を感じ味ってこれに精神を集中してゆきますと、雑念がしだいにきえてゆきます。きえたかとおもうとまた別の考えが湧きだしてまいりますが。湧きおこる雑念をもむりに押えつけようとはせず、雑念は雑念で、そのままにしておいてもっぱら内観の四句を観じておりますと、いつしか雑念は消えて、内観の句を観ずる自分だけになり、無我にして、この一念に自分が統一されてまいります。そして、この一念の境地とでも申しますか、四句を観ずる自分さえもわすれ、ただ、あるのは、一念に念ずる心、天地に溶けこんでひろがってゆく自分、天地も自分も区別のなくなって、ともにとけて澄みきって、拡がりみちわたっている神秘的な境地に没入するのであります。その境地は「聖」とでもいいましょうか。明るい世界とでも申しましょうか。宗教的または精神的肉体的体験の世界であり、理論的説明の領域には存在しない別性質の境地ではないかと存じます。

 このような境地をあじわいつつ精神統一を繰りかえしてゆきますと、しだいに心が落ちついて、なにごとにも自信が湧きだし、強い信念が湧き、他物に左右されなくなり、心に平和がよみがえってまいります。「自信、安心、落ちつき」が生理的によい影響をあたえるのは、万人がみとめるところであります。かかる境地に没入します方法は、ただ真剣に、かつ、誠をもって一心になりさえすればよいのです。なん時間も一心につづけることは困難でありますが。わずかに三十分間ぐらいは、だれもができることであろうと存じます。

 もし、内観の四句がむずかしくて心でとなえづらかったならば、「本来の面目、本分の家郷、唯心の浄土、己身の弥陀」の句だけを「唯心の浄土、己身の弥陀、……」と心で繰りかえしつづけてゆきますと、たいへん効果があるものです。

 「己身の浄土、唯心の弥陀」と繰りかえしてもよいのであります。とにかく、弥陀と浄土という言葉を繰りかえして、心にとなえて精神を集中し統一してゆきますと、そのひとにより、またとなえる回数により、大なり小なりある種の力と落ちつきと悦びとをあたえてくれることは間違いありません。また唱えるよりは、それを体感し、その宇宙感、永遠感とに自己の身心を一致させ、永遠の生命と自己との一体の生命感を味いつつ行ずるのもよいでしょう。そしてもう一歩ここをとび越したならば永遠の生命と、それとともに生き、明るくともに生かされている自己を発見し、この自覚にもとづいて力強く生きて自由自在に活動できるようになるでしょう。

「軟酥鴨卵(なんそおうらん)の法」p.108〜p.112

 むかしから名徳達人の修行には、一人として勤行をおろそかにしたものはいないけれども、そのなかでも玄紗や慈明(夜ねむ気をさますために錐を手ににぎり膝にたてておいて、ねむ気におそわれ手がゆるむと膝につき刺さる錐の痛みで目をさましてまた勉学にはげみ、後日偉人となる)などの幾多の艱難辛苦を経たあとに名人達士の境地に至りついたということは、とりわけ、とうといことであります。

 油断したり、なまけていては、はては見事なる似せものの修行者になってしまいますぞ。いかなる人も不足ない身にわざわざ似せものとなろうとおもう人はないとおもいますけれども、よき法友の手引きを受けたまわず、道心深からずすこしばかり会得したところなどを、頼みにして口をきき、人にもとうとばれるようでは、見事なる似せものでありますぞ。行いをつつしみ、正念をまもり、内心の静謐をえて、安心立命すれば、どうして山野のはてに、うえ死にするなどというような不幸などがありましょうか。

 黄金は莚(むしろ)につつんでも黄金でありますから、まことの仏祖の子孫に対しては、神仏は合掌して尊びあおぎ、竜天も頭をふせて、うやうやしくつかえ、お守りするものでありますぞ。人みなこの宝物をもち、黄金をもっているのですぞ……等々と、夕方より真夜中までながながと話されたのを。そばに聞いておりました人々はあまりのとうとい話に感涙にむせび、心魂に徹して、おのれが身をふり返り、恥しさに冷汗がながれてまいりました。その後、病などにくるしめられる折に、この物語を思いだしますと、たちまち慚愧の思いがおこり、病苦も軽くなってゆくようなので、その物語の大体のあら筋を書きつけてお送りいたします。病棟の人々の病中の一助にもなれば幸いであります。

 以上は愚僧の師匠の信州飯山の正受老人が平生もちいている精神的療法で、はなはだ味ぶかい病身攻撃の良薬であり、信仰の世界の如何なるものかを体得する入門話であります。

 しかし、またここに、別の妙法がございます。これは、もっとも虚弱な人に効き目があります。精神的過労をすくい、心気をふるい起こすことに絶大な妙力をもっております。心気の昇せあがるのをひき下げて心を落ちつかせ、腰や足を温め、胃腸の作用をととのえて、調和をえさせ、眼をあきらかにして、真の智慧をふやし、一切の邪知煩悩をのぞくのに、たいへん効果の多いものであります。これを名づけて「軟酥鴨卵(なんそおうらん)の法」といいます。

 軟酥の丸薬の専門的作り方はつぎのようであります。

 「天地万物すべての姿を正念をとおして、ありのままに見て、現象すなわち実体なりとの悟りいも一両分。われとか、かれとかに執着するわれもなく、因縁によって目に見えるこの世界は、かりの姿であってほんとうの姿ではないという『無門関』に生えている梨の実を一両分。この身このまま仏なりという、本来相国の木の実を三両分。無欲の粉を二両分。動静一致して、みだれぬ心身調和郷に咲くサフランの花の種子を三両分。あらゆる妄念を吐きすてる妄念取屋の店に売っている塵取りの木を一斤分。これに風流の味の素であるヘチマの皮を一分五厘ほどちょっとつけ加えます。右の七種類の精神的材料を忍辱の水に一夜漬けびたし、人に見せずに陰乾しにして、粉にすりつぶし、いつものように大智大慧通りの無上の悟店で売りだした般若波羅蜜の蜜を混ぜて煉りあわせ、まるめてあたらしく生まれたての鴨の卵ぐらいの大いさのまるいやおらかい丸薬として頭上にのせるのであります」

 しかし、素人や初心のものは、軟酥の丸薬の材料とか目方とかを計りかんがえてはいけません。ただ色も香もうつくしい軟かい鴨の卵ぐらいの大いさの秘効ある丸薬が頭上にのせられてあるとおもえばよろしいのであります。病人がこの薬をもちいようとするときは、厚い座ぶとんをしき、背骨をまっすぐにたてて、目を軽くとじ、正しく坐り、身心を左右前後にゆっくりゆすって身の安定をたもち、すべからく、つぎのようにいうのであります。

 「おおよそ生をたもつの要は、気をやしなうにしかず、気尽くるときは身死す。民おとろうときは、国ほろぶがごとし」と。この言葉を三回繰りかえしおわってからしずかにつぎの観法をおこない、心の思いをととのえながら、一心にゆったりとして修するのであります。

 さきの「軟酥」の鴨の卵ぐらいのまるいありがたい丸薬が、自然に空中にあらわれて、頭の上にのせられます。その香味は妙々にして、しだいに体温でとけて、ながれはじめ、頭の骨やこめかみの隅隅までうるおし、ひたし、浸々としてくだり、両肩、両肘、両乳、胸、肢の下、肺、心臓、肝臓、胃、腸、背骨をうるおし、タラリタラリとながれ、腰骨をひたして、ゆっくりと下へ流れ去るのであります。このとき、胸のなかのつもれる思いや苦痛は心にしたがって降下するのは、水の下へ流れくだるようで、チョロチョロと音をたてて、ながれるようにおもわれます。このようにして、全身をひたし、うるおして流れくだり、両脚をあたため、足の裏まできてとまり、そこに、たまるのであります。おこなうものはふたたびこの観想をおこない、繰りかえすのであります。

 この「軟酥鴨卵の丸薬」が溶けて浸々として、身体をうるおし、流れくだる余流が積りたたえて、下半身を温め蒸すのは、ちょうど世の中の良医がいろいろの妙薬をあつめて、これをせんじ温かい湯をつくり、タライに満たしたたえて、わが身の臍から下を漬けひたし温められるようであります。この観法をおこなうときは、「唯心所現の原理」にもとづき、鼻口は稀有の妙香をかぎ、身体は妙なる、やおらかい手でなでさすられ、身心ともにととのい、たちまち、いままでつもっていた苦しみや煩悶を消しとかし、胃腸を調和させ、皮膚は光沢をおび、気力は大いに増加してまいります。

 もし、つねにこの観法をおこなって工夫し、熟達し成功すれば、いかなる病でもなおり、どのような事業や学問にも、かならず成功するものであります。これはまことに養生の秘訣にして、長寿をたもち、前途を達見できる妙術であります。これは、はじめ金仙氏におこり、なかごろ天台宗の智者大師にいたって、疲労はなはだしい重病をなおし、かつ、その兄の陳奏のまさに死なんとした重病をもすくっている霊的療法であります。この方法はいまの世人はほとんど知りませんが、私は人生のなかばにして、重病にたおれ、医薬鍼灸より見はなされた折に、「内観の秘法」といっしょに白幽仙人からおしえられたものであります。その効果のはやいおそいは、おこなう人の真剣味によるものであります。おこたらず、おこなえば、長命をうることができます。

 白隠が老いさらばえて、大いにくだらぬことを説くということなかれ。諸君は今後、おそらく、この「軟酥の法」の真なるを悟り、手をうって悦び、大笑することがかならずあるでありましょう。

 「なにがゆえぞ、乱にのぞまざれば貞臣の操を見ず、敗にのぞまざれば義士の志を知らず」

「悟りと療病法」 p.138〜P.146

 もういちど、簡単ながら白隠禅師の療病法をさぐってみましょう。禅師のしめした療病法は「内観の秘法」と「軟酥の法」とを最大としますが、こればかりではありません。『夜船閑話』と『遠羅天釜』にのべてあるもののうちから。おもなるものを抜きだし、ならべて眺めてみましょう。その察によって、なにか共通な法則とでもいうべきものを発見することができるようにも思われます。

 禅師がしめした療病法は確然と分類することはむずかしいが、大体、(一)一般的なこと、(二)坐禅観法、静観法、(三)心気を下部にくだすこと(呼吸法をもふくめる)、(四)心の持ち方、の四種になるようです。

@ 一般的なこと

 一、天地宇宙万物の秩序をたもつ真一の大道は、わかれて陰陽(プラスーマイナス)の両極となり、陰陽がまじわり和して、 一切の事象を生じ、始めなく、終りもなき先天の元気が陰陽の両極の中心に黙々と運行してこそ、自然の秩序がたもたれる。 すなわち、喜怒哀楽いまだ色にあらわれざる中心によって万物は秩序をたもっている。

 二、生をやしなうは一国をまもるがごとし、君臣相和し、身心相和すがごとし、身と心の調和が大切である。

 三、平常の言語を省略して精気を永くやしなうがよい。視力をやしなわんとするものはつねに瞑目して眼をやしない、耳をやしなわ とするものは耳をふさぎ、雑音をきかず、心気をやしなわんとするものは無駄口をはかず沈黙している。

 四、人間の五漏という無益な漏失をやめよ。外面的感覚の作用にとらわれるなかれ。

 五、人間の五感の工夫、小智才覚を捨てきって、深くねむり熟睡せよ。

 六、おおよそ、求道の人にとっては、病中ほどよい修行の機会はない。世事の雑用をはなれて、専心養生修行ができる。

 七、五感で感じられぬ天地陰陽の正道にしたがっているかぎり、病などにはならぬ。

 八、身体の難病が全治しても、ここで満足して修行を中止してはいけない。「一生精進し、天地宇宙の真理の道を行じなければ ならない。

 九、蛇にせよ、水神にせよ、男子たるもの一旦、心に思いたちて、とり掛かったことを仕とげずやあるべき、仕はてずやおくべきと覚悟して、いかなる困難にうち当たろうとも、断行する意気をもて。

 十、おのれの本性たる無位の真人、仏、神、久遠実成の古仏をおがみ。とうとび、したがえ。

A 坐禅観法、静観法

 一、内観の秘法。

 二、軟酥の法。

 三、観法は無観をもって正しいものとする。多観のものは邪観である。

 四、繋縁(けえん)の観=心気を丹田に収めまもるを第一とす。

 五、諦真(たいしん)の観=あらゆる事物の実相の円観(完全性)のみを観ぜよ。

 六、すべての思慮を投げはなち、自己の心奥を静観せよ、心の発生地やいかん、生命の根元はいかんと。

 七、肉体の奥、心の奥、生命の奥に入って点検し、おのれの本性を悟れ。

 八、真言宗の修験者にて、「大日如来不二」の観によって、病苦消滅し、金剛不(ふ)壊(え)の生命を自覚したものあり。

 九、煩悩とはなんぞ、煩悩のいまだ形をあらわさぬ以前のものはなにかと、心の奥へ申しこめ、煩悩以前のものは無相無念の明るい本地本相本心なることを知れ。煩悩は妄念によって生じたその本心の変形した姿である。妄念は誰がつくったか、各自が自分でつくったものではないか。本来の本心で妄念を覚れ。

B 心気を下部に下すこと

 一、人はつねに心気を身体の下部にみたさせるべきである。心気が下部に落ちつき、一身の元気が全身にみちるときは諸病のおきる一分の隙もない。

 二、凡庸の者はもっぱら、心気を頭にのぼらせている。

 三、名人達士の息は足の踵(かかと)でし、凡人は喉(のど)で呼吸をする。

 四、およそ、生をやしなうの道は、身体の上部を清涼にし、下部は温暖をたもつように気をつけねばならない。

 五、神気を丹田に凝らせ、生気を丹田にみたし落つけ、心を澄まし、心を静めよ。

 六、真一の気は、つねに臍(へそ)下丹田におさめていなければならない。

 七、臍の上に小豆(あずき)をのせてあると想像し、観念し、心気を丹田におさめる。

C 心の持ち方

 一、心の煩悶疲労するときは、身体の各器官は本来の活動を制限されて、邪魔され、心火はのぼせあがり、一身の元気はおとろえる。

 二、わずか三合ばかりの病に、八石五斗の、もの思いをなすべからず。

 三、いたく、もの思えばますますのぼせあがり。内臓はいたみかじけ、はては生命の很もまた、たもちがたいようになる。

*かじけ:萎縮する

 四、病に害されるのではなく、自分のつくった妄念に食いころされる人もいる。

 五、師匠も弟子も、おのれの心をわすれて、外部的名声富貴をもとめるのは、見るのもにがにがしいかぎりである。

 六、心炎意火を去り、小智才覚、一切の理想、欲望、野心執着を放下し、無念無想無心になれ。

 七、落ちついた平安な心境は、そのままの心である。無我の心である。小我を捨てきって、神仏にまかせ、そのままの心になるがよい。

 八、坐禅するときは心を左の掌の上におけ。

 九、心を掌のなかにみたして行動せよ。

 十、心を足の裹におさめて、よく万病をなおす。

 十一、無欲恬(てん)淡(たん)にして、身心をからっぽにすれば、玄妙の気、真気、天地の生気が外部よりからっぽの身心に入りきたる。この生気をまもれば病魔の入る隙間がない。

 十二、心をやわらげ元気を全身にみたすようにみちびく方法は、離れた密室に入り、床をのべてあおむけによこたわり、しずかに目をつむり、心気を丹田におさめ、鼻孔の上にやわらかい羽の毛がついていると想像し。この羽毛がうごかぬようにしずかに息をすること三百回におよぶ。これによって人は長寿をたもつことができる。

 十三、まさに空腹をおぼえて食し、疲れるまえに休む。散歩逍遥して、腹をすかせるようにつとめ、腹のすこしすいたときにしずかな小部屋に入り、端坐して、無念無想になり、呼吸する息をかぞえる。一よりはじめて千にいたれば、この身この心は寂然として、忽然として、天地に溶けて澄みきり、みち張り、拡がりわたるのをおぼえる。

 十四、世に、正念工夫ほどたいせつな、とうとぶべきものはない。

 十五、病中に、すべてをすてて、一心に、正念工夫をつとめて、おのれの本心を悟った人もある。

 十六、気分はどのようにわるくとも、病気はいかようになろうとも。それはそらごとと自然にうち任かせ、自分は正念をつづけるよう工夫する。

 十七、病みつかれた老女、やせさらぼえた老夫でさえも、正念工夫を間断なくつづければ無病堅固の得力の人となることができるものである。

 十八、正念をまもり、内心の平和と静(せい)謐(ひつ)をえて、安心立命して、天命を覚り働け。

 十九、心こそ、地獄と、極楽の作り手である。心の奥の心宝の光をかくす心上の雲を吹きはらえ。

 二十、なにももとめなくてもよい。おのれの心さえ平和に養いたもち、正しくととのえ、そだてあげればあとは自然によくなる。その方法はいままで多く説いてきている。

 以上列記しました禅師の療病法をながめて点検しますと、主として心を対象とし、心を主にしているものであります。

 心をいかにして落ちつけ、心の波立ちをしずめて、平安なる生れつづける明るい本地本心をいかに自悟自得するかの方法をのべていることがわかります。

 心こそたいせつなものであり、正念工夫不断相続して、おのれの本性を悟れば、おのれの本心の 力により、病苦はのぞかれるものであり、心を正し、心の静謐をまもることが療病の上にたいせつなことを、心をこめて詳細に説いております。

 肉体と心と生命力との関係、心−霊−肉の関係はどのようでしょうか。禅師はわざとはっきり文字ではしめしてくれてはいないようにおもわれます。われわれは、五感の眼では肉体のカーテンのむこうにある霊の世界を、かすかにながめられるばかりであります。

 文字や言葉であらわしえない霊肉の消息は、『夜船閑話』や『遠羅天釜』の心読と実行による体読により、ひとりでにひびいてわかってくるものであります。観念と心、霊と肉との根本関係を覚ることこそ療養にとって必要なことではないでしょうか。そして、心の持ち方、気の使い方、ものの考え方、受けとり方、見方によって、生命の力を旺盛にし、肉体によい影響をおよぼす方法を体得することもできるのであります。禅師のあたえんとしたものは、この力であります。無言のうちに知らず識らずあたえられる力こそ禅師の予期したものでありましょう。

 「衆生本来仏なり」と、人間の本性を説いた禅師は、本来仏なる人間がなにゆえになやみ、わずらい、くるしみ、病むのであるかという質問に対して、かくも、心というものについて親切に説いているのをみますならば、「心」こそすべての原因者であり、多観、邪観、妄念によって病みくるしみ、正念、無念、清浄観によって、仏本来の相があらわれるものであるから、人間の芯となる心を正しくやしなうがよいということがわかります。心こそたいせつに守りそだてなければならぬものであります。

 本心をたいせつに養いまもり、そだてるまえに、各自がおのれの心の内容を点検し、調査して、いかなる心のありさまであるかをながめてみられるとよいと存じます。自分はなにをおもりているのかといちど反省してみる必要があります。

 曇りなきそのままの心で、自分の本体の本質が仏なること、神なること、永遠の生命なることを悟るがよい、その悟りと発見によって、偉大なる力が発現されるであろうと禅師は説いております。

 自分が生きているのではなくて、天地に充満している霊的生命に生かされていることを自覚することです。いやいや天地とともに生きている自己を発見することです。この大いなる力、仏の手、神の生命そのものが自己の本体なることを発見し、信心を得て安らぎと悦びとを感じ、感謝して力強く生活するようになることです。

 悟りと信仰によって病がなおった例は、むかしからたくさんあります。かような人はいずれも病がなおったばかりでなく、自分の本来のほんとうの相(すがた)、法身仏なることをも悟って、真の信仰を得て心身の自由自在性を獲得して仏と一体となり、仏の側に立って働いています。悟りの結果、悟りの副産物として、病身が全治して健全心で信仰を得て正しく働かされたと見るのが正しいでしょう。

 悟りへの第一は「自己本具の本性を徹見せよ」ともいい、「直指人心見性成仏」とも、「見性成仏」とももうします。おのれの心を直視することによって、おのれの本体が肉体ではなく、偉大なる生命力であり。天地に充満する大生命と相一致していることをはっきりと体感し悟れば、成仏して仏力を発揮することができるのであります。そのためには、身心をゆったりと落ちつけ、おのれを空しくして、心を静かに澄まし、無念無想、おのれの本体の実相が清浄なること、明るい世界に居ることを自覚すればよいのです。

 この「見性」すなわち、悟りの心境に入るための乗り物として坐禅観法はすぐれたものであります。「内観の秘法」も「軟酥の法」も一種の禅の観法です。とくに、病人または虚弱者のおこないやすくて効果の多い禅的観法です。悟りの境地に入ってからは、正念工夫をたえずつづけてゆくということが大切であります。一方にはこの正念の工夫により、他方には、褝的観法により、真の自己の本性の相に悟入することは、人間としてこの世に生をうけたもののなさねばならぬ最大の仕事であるといわれます。

 悟りへの心境へ入る乗り物はほかにもまだ種々あります。しかし、まず御自分でこれらの乗り物にのってみることです。そして実修し熟達することです。自修・自悟・自得以上にありません。

 そうなれば、心の自由自在をえて、安心と悦びと感謝と勇気と、生きる力の湧き出ずるのにびっくりすることでしょう。そして真の信仰を得られ真実の人間のほんとうの生き方を発見されてこの世を極楽浄土に化すための尊い力が湧き出すことでしょう。神仏の力と神仏の導きと救いの力をも実際に体感されて、力強く活動されることでしょう。

参考1:河合隼雄

参考2:白隠の健康法

2017.10.27、追加。 


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元海軍教授の郷愁ー源ない師匠講談ー

源内
「元海軍教授の郷愁ー源ない師匠講談十三席ー    発行所:海上自衛新聞社  昭和46年11月30日 印刷 著者:平 賀 春 二」より

海軍兵学校生徒の入学試験

 帝国海軍はは海軍兵学校・海軍機関学校及び海軍経理学校などの生徒の入学試験を、原則として毎年秋のさ中に、戦前の一道三府四十三県、それに樺太・台湾・朝鮮・満州でいっせいに行い、翌年四月に入学させておりました。私は昭和十二年十月下旬、宮城県の試験官を仰せ付けられ、江田島からはるばる仙台にまかり越しましてございます。

 試験官の一行は、兵学校から少佐一名大尉一名教授一名それに下士官一名、機関学校から機関大尉一名、経理学校から主計少佐一名下士官一名の計九名、各校それぞれ、試験の前日に指定の旅館に到着することになっておりました。なにしろ帝国海軍華やかなりし頃のことでございましたし、それに海軍は元来大の見え坊なので、泊まるところは出張先きの超一流旅館と決まっておりました。

源内 *機関学校から機関大尉一名、経理学校から主計少佐一名というよに機関・経理と冠がついている。兵学校は階級だけであることに注目。

 私ども途中東京で一拍し、上野を午前九時すぎにたって、目指す仙台に着きましたのはその日の午後二時ごろ、陸軍第二師団司令部の副官に迎えられて旅館「針半」(現在見当たらない)の客となりました。軍隊のことでございますので、地方に出ましても一行の内の武官の最先任者が指揮し、また責任もとりますまするが、文官教官は私ひとりでございましたので、希少価値がものをいったのか、それとも武官の「母校の先生」といった気持ちからか、とにかく私に一番よい部屋が割り当てられましてございます。

 案内されて部屋に入って驚きました。二間の床の間に鉄斎の大作がかかっております。美術館や展覧会場ならいざ知らず、ここで富岡鉄斎大画伯のお目にかかろうとはーー。お女中の語るところによりますると、「海軍さんがお見えになる」というので、その前日、おかみさんが蔵の中から自分で出して、自分でかけたそうにございます。それにまた、手摺りに寄って見おろす庭や池のたたずまいは、さすが伊達家六十二万石、城下町きっての旅籠(はたご)の庭園、イヤハヤたいしたものと、しばし感嘆いたしましてございます。

 私の部屋が一番広うございましたので、一行九名の初顔合わせに、翌日から始まる試験の打ち合わせを兼て、その夜は私の部屋で会食、お酒も付いていとも楽しく、しかもたちまち気持ちの通じ合う、快哉この上もない小宴でございました。

 うたげもはねて夜もふけ、ひとりぼつねんと紫檀のテーブルに寄りかかり、かれこれもの思いにふけっておりますると、お女中が抹茶を立てて運びます。茶にくつろいで、またぼんやりしておりますると、風呂の案内。この風呂番が大の海軍びいきで

  「オレは文官だ、英語の先生だ」

と言ってみても

  「でも海兵の生徒さん方をお教えなんでしょう?」

とか言うて、イヤ大変なサービスでございました。

 さて、入学試験は第一日目。午前は、数学二時間で午後は物理と化学それぞれ一時間であったでございましょう。ともあれ、答案が出そろいますると教官は手分けして、さっそく答案調べに取り組みまする。模範解答に照らしてあらかた採点し、成績がほぼ二割未満の者を振るい落とし、掲示してある受験番号の内、該当する番号だけ消して、翌日からの受験を拒否しておいて、宿に引き揚げましたのは午後の六時すぎ、みちのくの秋は格別早う暮れまする。その上寒くて、広島の十一月は末の気候でございます。

(中略)

 さても試験は第二日目。午前は幾何一時間と英語二時間、午後は歴史一時間、前日同様ふるい落として、晩は五時を過ぎて帰館。

(中略)

 さて、その翌日は試験も三日目。この日までには受験生の大体三分の二が落ちて、八十人くらいに減っております。午前中は国語漢文。これで落ちる者はおりそうにございませんので採点省略、午後はさっそく三校別々に口頭試問にかかります。これはもっぱら武官教官の仕事で、今つらつら思いまするに、武官は例外なく熱心に諮問に取り組んでおりました。受験生が三分の一に減るまでには、己が試問すべき範囲の受験生の姓名はほとんど皆覚え、上半身裸体のキャビネ判や、出身学校からの詳しい内申書、本人提出のこれまた詳細な調査書や、学術試験場の内外で出会ったり、試験中に何度となく机の間を巡視した、その折り折りに感じたことなど、いろいろな資料に基づいて、受験生一人一人につき、試問すべき要点を箇条書きにして用意しておりましたので、試問の始めから相当に突っ込んだ質問を連発しておりました。

 こいつは学術試験の成績さえ上位ならば、是非とも採用したいと思われる受験生については、比較的短時間で片を付け、正体のつかみにくい者や家庭の事情の複雑そうな者などについては、時間をかけて試問していたようでございます。

 「平均僅か数分間の口頭試問で、人物がわかるものか」と、批判なさるお方もおられましようが、何回か試問に立ち会ったことのある私は、「武官には自信があったと、お答えいたします。武官が入学試験のために遠くまで出張するのも、実はこの試問のためと言っても過言ではございますまい。それほど武官は熱心で、出張前から調査を進めておりました。それに比ぶれば、今日の文部省系の学校の面接などは全く形式的で、文字どおり「面接」にすぎないようでございます。

 ちょつと余談にわたりまするが、ある年、地方へ試験に出張するわれわれに対して兵学校長が

 「ーーこれを要するに、一見いかにも軍人にふさわしい少年よりも、『ああよく伸びているナー、定めしむつまじい家庭の子弟であろう』というようなのを採って来い」という趣旨の訓示をなされたのを、唯今はしなくも思い起こすのでございます。

 私こと、青少年の教育にたずさわりますることここに五十年あまり。今にして私はこの校長のご趣旨に全幅賛成でありま、また、校長の識見に頭のさがる思いがするのでございます。ーーここらあたりが、また帝国海軍一家の「家風」でございませんでしたやらーー

 さて、口頭試問の済んだ者から次ぎ次ぎと、軍服の寸法や帽子や靴の寸法までも取ります。市内の専門家を呼んで、日当を払って寸法を取らせるのでございます。ここいらが、またいかにも海軍式で、翌年四月、新入生徒に着せる礼装も平素の軍服も、決してレディーメードではなかったのでございます。

 なおついでに申し添えておきまするが、地方の試験場で篩にかかって残った受験生の答案は、その日のうちに書留郵便でそれぞれの学校、即ち兵学校、機関学校または経理学校に発送せられ、各学校では、後日専門の文官教官が改めて正式に採点いたしました。それ故、地方で最後まで残ったことが、同時に学術試験にパスしたことにはならなかったのであります。なおまた、身体検査は学術試験に先立って、全国の試験場で軍医官によって厳密に行われておりました。

 このようにして、学術試験の成績と、身体検査官の「最適」「適」「やや適」「不適」の判定のその上に、憲兵隊の厳重な家庭調査ーー両親・兄弟・姉妹・親戚縁者友人に及ぶ調査などの資料を揃えて、慎重の上にも慎重を期して選考したのでございますから、将来生徒には屑のいなかったのも、またむべなりとご推察願いたいのでございます。(いわんやそれら生徒の先生においてをや!!)

 さて、試験第三日目の夕方には、いろいろ後始末もあって、一行九名が旅館に引き揚げましたのは午後七時をかなり回ったころでございました。さっそく夕食が運ばれまする。

*海軍兵学校入学試験を行う教官の記述である。受験した私は(76期で江田島に入校した)、学術試験の最終日で武官による口頭試問は受けなかった。

参考:海軍兵学校入校から戦後教育〜就職の履歴

*平賀春二さんは、英語の教官でした。私は、直接教えられませんでした。当時、井上成美校長の理念による「英英辞典」をつかつていました。そして、「ユーボート(独)」についての教科書をよまされていましたのを思い出しました。

2017.06.12 


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うらなり先生ホーム話し 宿命の糸

渡辺
うらなり先生ホーム話し 渡辺一夫著 発行所:光文社  昭和37年4月10日  より 

宿命の糸

 昔、フランスの数理哲学者のアンリ・ポワンカレ Henri Poincar? (1854〜1912)の『科学の価値』という本で読んだことですが、多少理屈をこねますと、偶然と必然とは、楯の両面のようなものらしいのです。たとえば、ぼくが、ある日、学校の研究室へ行く途中、階段を三段のぼったところで、おりてくるA君に出会ったとします。A君もぼくも、「偶然出会った」と申すでしょう。しかし、その日のA君とぼくとの行動を客観的に眺めてみますと、少しも偶然ではなくなります。ぼくは〇時〇分に家を出、〇時〇分に学校に着き、〇分後には、階段の三段目に足をかけていたのですし、A君は〇時〇分に家を出、〇時〇分には、階段の四段目(下から数えて)へ足をおろしていたのですす。A君とぼくとの行動をおのおの一つの直線とすれば、この二つの直線が、階段の三段目あたりで交差することは、この二つの直線が引かれ始めたときから(つまり、二人がおのおの家を出る時から)必然だったことになります。

戦争中友人から次のような話を聞きました。この友人は、西荻窪の「省線」の駅で降りて、自転車で家へ帰るのを常としていましたが、ある日のこと、駅を出たとたんに空襲になったのでした。友人は、同じように自転車で家路に向う顔見知りの近所の人と、どうしようかと相談しましたが、二人とも家のことが心配になり、しかも、その時は、たった一機の来襲でしたので、二人とも、自転車で全力疾走をして帰途につきました。ところが、畑道を走って、二人の家までもう一息というとこまで来た時には、敵機が後方からぐんぐんと追いついてきました。ぼくの友人は、恐怖に駆られて自転車を止めて、道ばたにうずくまりましたが、相棒は、必死の勢いで力走して行きました。しばらくたつと、どかんどかんと爆弾の炸裂する音が聞こえました。友人は、やれやれと、ふたたび自転車に乗り帰宅したのですが、まもなく、次のようなことがわかりましおた。必死の力走をした相手は、家にたどりつき、庭の退避壕へ駆け込んだ瞬間に、爆弾が壕に命中し、一家全員とともに消え失せたのでした。まさに必死の力走だったわけです。 「まつたくね、あの人は爆弾の落ちるとこへ、自分で行っちまったのさ。傍で見ていたぼくとしては、爆弾投下と、あの人の全力疾走との間に、見えない糸が張られていたようだったね」と、友人は付け加えました。

この場合も、偶然と必然とがせなかあわせになっているように思います。犠牲者が退避壕に飛込んだときに、爆弾が命中したことは偶然とも思われますが、敵機が基地を飛び立った時から引かれた一直線と、爆死した西荻窪の駅から自転車で必死の力走を始めた時から(いや、それ以前の時期、その人が、この呪われた地球上へ生まれた時から、と言ってもよいかもしれませんが)、その時から引かれたもう一つの直線とが、爆死という点でぴたりと交差したことは、その原因結果を精密に調べれば調べるほど、必然にほかならなくなりましょう。

このような論法で申せば、この世のなかには、偶然というようなものはなに一つなく、すべてが必然だとうことにもなります。幸か不幸か、われわれ人間の認識力・判断力には限界あるために、複雑な原因結果によって成りたっている現象を、精密に分析できるはずはないのです。ぼくは、研究室の階段の三段目に足をかけるのが何時何分であるかというようなことを、平生計算してはいませんし、A君が、何時何分に家を出て、何時何分に階段をおりはじめるかということを考える能力はまったくありません。A君にしても同様でしよう。爆死した人にしても、爆弾を投下したアメリカ兵にしても、何時何分に、先に記したようなことが起こるというような測定は、できるはずがありますまい。射撃の名手にねらわれて死んだ人はは、必然的に死んだと、われわれは申しましょうが、流れ弾に当たって死んだ人は、偶然、弾に当たったということになります。しかし、流れ弾は、銃口を飛び出す時から、A地点をB時C分に通過することになっていましたし、不幸な犠牲者は、B時C分にA地点に体を位置させるような行動していたのですから、必然と申すこともできます。

要するに、われわれが精密にあらゆる原因結果を分析識別できないからこそ、偶然だとか、幸運・不運だとか、「目に見えない糸」だとか、「宿命」だとかいう考えをいだくのかもしれません。

必然的に生まれてきた人間は、必然的な事故に見舞われぬ限り、必然的に老衰して必然的に死にます。しかし、こうした明瞭な原因結果を、どうしてもきわめつくすことができないでいるのが、われわれ人間の救いにもなっているようです。「この自分が死ぬなんて考えられない」という感慨も生まれ、生きるための必死の営みに、われを忘れるのが、」われわれ凡俗の行為となります。「死と太陽とは直視できない」と、ラ・ローシュフゥコ― La Rochefoucauld(1613〜1680)という昔の人は申しましたが、わずか六時間でも、自分の死について考え通せる人はいないらしいことは、われわれ凡俗の救いともなりましょう。ぼくなどは、三十分も、自分の死について考えられません。むしろ、途中で、ほかのことを考えたり、疲れたりするのが、生きているぼくの常態でしょう。一番確実な死という必然ですら、われわれ凡俗は、親身になって考えられないことが、われわれのはかない幸福の基盤となっているからです。

 なにも「死」だけに限りません。昔から言われているとおり、「明日のことはわからない」ものですし、「一寸先は暗闇」なはずです。「未来の世界へ後退(あとじさ)りしつつはいってゆく」と言ったポール・ヴァレリー Paul Valery(1871〜1945)の言葉は、われわれにもよくわかります。もつともヴァレリーは、「だから、過去の経験を十二分に生かしてほしい」と申しているのでしょうが、健忘症なわれわれは、かならずしも、過去の経験を生かそうとはいたしませんから、あんぐりと大きな黒い口を開いた未来世界へ向かって、われわれは、過去と同じようなことを繰り返しながら、後退るしつつ没入するもののようであう。その間、必然だけであり、偶然と思う場合は、それは、われわれが、複雑な原因結果を分析識別できないからにほかならないと申せます。

 昔も今も、明日あるいは未来に対する不安は「死」に対する不安よりも先に、人間を悩ませています。松川事件の被告が全部無罪になったにもかかわらず、真犯人の追及はまったく不可能になってしまったような悪知恵の黒い霧におおわれた現代、一発で何万人もの人が消えさるような爆弾をかかえた国々が、おのおの平和・自由・正義の旗印の下で、歯をむき出し合っている現代に、少しでも物を考える若い人びtこが、たまらなくなって、無軌道な行為に出るのも、年とった人びとが、なにか超自然なものにすがりつきたくなるのも、当然かもしれません。

 昔も今も、将来に対する不安から、いろいろな占筮(うらない:せんぜい)を信ずる人びとがおりますし、われわれが、必然を分析し尽くせない悩みがありますためか、昔から多くの占筮師やさまざまな占筮が生まれました。ルネサンス時代に、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)Michel de nostredame (Nostradamus(1503〜1566)という星占いがおり、フランス革命まで見通していたということですが、世人には分析できない必然を分析するだけの知力をそなえていたのでしょう。この人は、こうした力を身につけたために、あの酷薄な時代にも、気味の悪い人物と見なされたためか、思想的な迫害を受けずにみんなの畏敬を受け通しました。こうした生き方は、人間世界の盲点をのぞかせてくれます。同じ時代のフランソワ・ラブ?ー Fran?ois Rabelais (1494?〜1553?)という人は、その「パンタグリュエル物語第三之書」Le Tiers Livere de Pantagruel(1546)第二十五章で、古代から伝わる約三十種類の奇異な占筮を解説しています (Pyromantie→Neeromantie 。ただし、ラブレーは、その戯作「パンタグリュエル占筮」の中で、「本年は、盲人の目はごくわずかしか見えないし、聾者(つんぼ)の耳はよく聞こえないし、唖者(おし)はほとんど口をきくまいし、金持ちは貧乏人よりも具合がよろしかろうし、健康な人は病人とくらべれば調子がよろしかろう」などと、必然そのもののことを記しています。この程度の占筮だけでは、無事に生きとおせません。ですから、ラブレーは異端者として迫害されました。しかし、このラブレーの話は別の機会に……。

 まったく明日のことはわかりません。この世にまだ生きのびようと思ったら、わかる限りの必然を突きとめて、しかるべき手を打つ以外にしかたがないでしょうし、あるいは、信じられる占筮の指示に従って安心立命の道を開く以外に道を開く以外に手はないのかもしれません。老書生のぼくは、占筮師になる能力もなく、必然を分析もできず、さりとて占筮師の門をたたく気持ちもありません。死の床で、「やれやれ! これでおしまいだ!」とつぶやけば、大成功だと思って、残る日々を送ることにしています。

参考:占筮(うらない)―パンタグリュエル占筮(パンタグリュエルせんぜいまたは- うらない、 Pantagrueline prognostication)は、ルネサンス期フランスの文人フランソワ・ラブレーによって書かれた戯作的な(つまりはパロディとしての)占いの書である(「占筮」を「うらない」と読むのは渡辺一夫訳による)。最初の刊行は1533年頃のことであり、『パンタグリュエル物語』(「第二之書」)同様、アルコフリバス・ナジエ名義であった。P.99〜106

参考:終戦へのみちのり〜私の体験〜

平成二十九(二〇一七)年六月十二日。


水洗便所の便秘

 もう四、五年前からのことですが、暑くなりますと、わが家(東京都文京区)では、「きょうは水道がでるかしら?」ということが大問題になります。

 各地で洪水が起こるような大雨が降りますと、きまったように、水道はポトリとも出なくなります。水が多くて困る人と水がなくて困る人というふうに、苦しみを公平に分けるように、おかみがしておられるのかもしれませんが、困ることは事実なので、何度もお役所へ嘆願いたしましたが、まったくむだでした。雑誌や新聞に頼まれて雑文をつづる場合にも、東都知事閣下のお目に止まるようにと、豊水水ききんの実情を訴えましたが、オリンピック計画でおいそがしい東都知事は、「我慢しなさい!」とすらおっしゃつてくださいませんでした。やむをえませんから、朝早く、浴槽や盥や桶やばけつ……などに、大急ぎで水を組み入れます。そして、ひどい時には、朝の八時ごろから十二時ぐらいまでの間、便秘になった水洗便所に流す水、炊事をしたり、汗を流したりするための水、洗濯や、飲用に必要な水は全部、朝ためて置いた水でまかなうことにしています。そして、一日中、家で一番「海抜の低いところ」にある水道の蛇口を全開にして、ありとあらゆる容器を当てがい、思い出したように、「ぽとり、とん、ぽとり、とん……」と、したたり落ちる岩清水ならぬ水道清水のしずくをためて、補給を行うより意外にいたし方がありません。

 この東京のある地区の水道が便秘や喘息になり、水洗便所も便秘になっている原因は、はっきりしているらしいのですが、どうにもならぬのだそうですから、日本人らしく、あきらめましょう。万国オリンピックを開催する前に、なんとかしていただいたほうがよいことの一つに、この水道や下水の問題もあるのだがと、大豪雨の災害の報知に胸を痛めつつ、わが家の水道の便秘や喘息にも胸を痛めている一人として、しみじみ思うのですが、事態は、機械のようにがらがら回り出していますし、「とぼしきに耐えよ」と天皇さまもおっしゃったのですし、忍苦力行するのが、わが国の美徳なのですから、いまさら、なにも申さず我慢するのが日本人らしいのでしょう。めいめいが打つ手を考えるよりほかにしかたありません。雨が漏ったら板を乗せ、板が飛んだら石を乗せるというやり方で、雨露をしのぐのが日本精神というものであす。月賦のテレビのアンテナを高くかかげ、民のかまどはにぎわいにけりということにし、いさぎよくピカドンを待つのが日本人というものです。その日その日、なんとかやって自分の手でやってゆくのが日本人の美点で、やれ社会主義だ、やれ自由主義だ、やれ政治だ、やれ文化だと言って騒いでいる紅毛夷的(こうもういてき)などには真似のできぬことかもしれません。

 紅毛饒舌・東夷西戎南蛮北荻の真似事ばかりしているくせに、岩清水のようにしかしたたらない水道は、やれ便秘しているの、やれ喘息だのといってぼやくのは、けしからぬ非国民だと言わねばなりません。

 おかみの方針は、水洗便所を作ることだそうで、奨励しているそうですが、水道4がこの有様なら、在来の蠅や蚊の巣窟である汲み出し便所と同じことになりますから、水洗便所など作らぬほうが、とくだとほざきたくなる向きもあるかもしれませんが、そこは、何事も堪忍で、上意下達、はあ、さようで、と言って、けっして不平面などしないほうが無難です。

 不平面をするよりも、「蝉しぐれ蛇口の余喘(あえぎ)も消(け)ぬべきや」とか、「脂汗流すや蛇口の岩清水」とか「水洗便所が、がぶ飲みする盥水」とかと、風流に生きるほうが、精神衛生もよいわけですし、第一、日本人らしくていさぎよいでしょう。

 われわれの日本文化に、多くのすぐれた点があることは、事新しく、論ずる必要はありますまい。わざわざ「リバイバル・ブーム」とか、外国語で表現される風潮にも、諸外国における「日本ブーム」という表現にも、日本文化の優秀性が再認識され、再々認識されているとのことです。もっとも「リバイバル・ブーム」とやらで、「あなさやけ!」や「撃ちてしやまん!」や「神州不滅」なども、「ニュー・ルック」の衣装をつけて、よみがえってくるかもしれませんが、それはそれで、覚悟するか、あきらめるかするよりほかにいたし方ありますまい。なにしろ「ルーキー」とかいうやつには、たいへん甘くかつ弱いのが、われわれの常ですから……。

 日本文化の優秀さを、もちろん日本の識者(たとえば岡倉天心)たちは、昔からちゃんと心得ていましたが、二回にわたる黒船(一回目はペルリ提督、二回目はマッカーサー元帥の指揮による)の来訪によって開国させられたとたんに、文明開化におぼれたわれわれ日本人は、日本文化の美質を、外国人に指摘されてはじめて「なるほど」と思うようになった面が多々ありました。たとえばラフカディオ・ハーン(小泉八雲)からブルーノ―・タウトにいたるまで、日本文化の美質を、われわれに教えてくれた紅毛碧眼人たちはたくさんおりますが、最近でも、例の「日本ブーム」よやらで、ますますその数を増してゆくのではないかと思います。恥ずかしいことですが、また同時に、じつにありがたいことでもあります。

 ぼくが数年前に偶然東京で知り合いになったドミニコ派の博学な?ロン神父 Pere Lelong から、その近著『日本の精神性』Spiritualite du Japon ( R.Julliaed. 1961)の寄贈を受けましたが、日本文化および日本人の生活の根本の一面をみごとにとらえている好著でした。ルロン神父は、日本人の美徳の一つとして、「清貧」ということばをあげ、この字の由来と意味とを語源的にもていねいに説明し、そのなかにひそむ人間の知恵を指摘して、危機にさらされた西洋文明・機械文明を救う道の在所(ありか)を指示していましたし、その所論は、一つ一つもっともでした。

 水道があり、水洗便所もあるぼくらの生活は、およそ、「清貧」からは遠いのかもしれませんが、岩清水的な水道や水洗便所の便秘や喘息のために脂汗にまみれながら、あきらめて、一句ひねり出そうとしているぼくは、「ニュー・ルック」の「清貧」を持っていることになるのかもしれません。きょうにも、喘息にかかった蛇口の音を聞きながら、ルロン神父のご本のことを、ふと思い出したのでした。

 「清貧」などという立派な言葉は、もしかしたら、何不自由もない(したがって、衣食住はもより、水道も水洗便所も喘息知らず便秘知らず)豊かな生活をしている方がたが、不如意に苦しみながらも、気の遣りどころをたずね求めて「泰然として腰を抜かして」いる連中を慰めながら、物質的には困っていても精神的には豊かだとか、生きているうちは不幸でも死ねば極楽へ行けるとか言って、しゃぶらせてくださる飴ではないのかしらと、ひがむ不逞な人びとがいないと、かぎりません。もちろん、こんなことをいう人びとは、「アカ」にきまっていますが、「アカ」は「清貧」で解消せず、むしろ「濁富」で消滅する以上、「清貧」は自分に要求できても、他人に求めることは、できないもののようである。

 傾きかけたバラックの窓辺には、朝顔の花が清く咲き、雑誌の口絵の富士山(あるいは天皇陛下のお写真)が壁を飾り、便所とどぶとの妖気を運ぶ熱気に風鈴が涼しげに鳴っている部屋で借金の相談をする風景も、「清貧」の部類にはいるかもしれませんし、雨もりを気にしながら月賦のテレビで西部劇を見る人びとや、同じく月賦の電気冷蔵庫に冷やっこを一丁と沢庵一本とを入れて、「文化」を楽しんでいる人びとも、新しい「清貧」の例となるかもしれませんから、もう一度日本人の生活を調査ほしなどと言ったら、ルロン神父は、ぼくをメフィストフェシス(一般にMephistopheles、他にMephistophilus, Mephistophilis, Mephostopheles, Mephisto, Mephastophilis)は、16世紀ドイツのファウスト伝説やそれに材を取った文学作品に登場する悪魔)扱いするかもしれません。しんかし、「清貧」に甘んずる人びとは、物質的なものであれ、精神的なものであれ、なにかすばらしい「豊かさ」にあこがれていることは事実でしょう。第一、西洋人でありながら、西洋文明や機械文明の危機を感じられたルロン神父にしても「清貧」を通して、平和で豊かな人間生活を推賞しておられるのですから。ぼくは、水道の蛇口から、洪水になるほど豊かでは困りますが、せめて水洗便所が便秘でなくなる程度に水が出てくれればと、それのみにあこがれています。しかし、それもだめならば、例によって、あきらめという伝家の宝刀を抜いて、日本人の本然の姿に還り、「喘息の蛇口を吸うや梅雨明けて」などと、「新しい清貧」を楽しむことにいたします。

 異人さんでも、愛する日本のために日本の悪口を言ってくれた人びともおります。これもありがたいことです。だいたいわれわれは、自分の顔についている墨には気がつかぬものですから、教えてもらったほうが、教えられずにいて笑われるよりも、はるかにありがたいことです。明治九年から三十八年まで日本の医学界、教育界のために尽瘁し、われわれに冬、霜焼けやひびの治療に用いる「ベルツ水」を教えてくれたドイツ人エルヴィン・ベルツ Erwin B?lz 博士も、そのひとりでしょう。博士の遺著『ベルツ日記』から、若干の文章を引用してみましょう。

 明治九年十二月一日。不思議の国民ではあるーーこれらの日本人は!(中略。東京大火描写)これらの罹災者は、(中略)いつもの如く、喫煙に耽ってゐる。(中略)彼らの面上には悲嘆の痕跡もない。余は多くの者が、彼らには何の不運も起こらなかったかの如く冗談を言ひ哄笑するのを見聞したのである。(中略。焼跡の描写)――何もないーー何もないのだ。

 その故は、日本の家は非燃焼物より出来ている訳でもなく、又非燃焼物を所有している訳でもないからだ。かてて加へて、その簡素さは甚しいもので、人々の物慾なきことにより欧羅巴(ヨーロッパ)より文化輸入が全く不成功に終わりはしないかと危ぶまれる程である。

 この文章はとくに、われわれ日本人の悪口とは思われませんが、後のくだりは、ちょっと、気にかかります。ベルツ博士は、われわれが「物欲なきこと」を咎めておられるようです。(なお新訳では、「無欲淡泊な点」としてありますが、大差はありません。)ベルツ博士は、「清貧」でありすぎることを、どうも咎めているようです。

 明治二十二年二月九日は、十一日の前準備の為に、筆舌に尽くし難き興奮の裡になる。いたるところ、奉祝門・照明の準備・行列。しかし滑稽なるかな、誰一人として憲法の内容を知らないとは!

 同年三月十九日。出版の自由が憲法に於(お)いて可及的広汎に約束されて以来、政府は翌月直ちに首都の五指を超ゆる新聞紙に発行停止を命ずることを余儀なくさせられたのである。蓋し右五社は、森(有礼)文相の暗殺を壮なりとしたからである。事実一つの詩歌に於いて、西野(森文相暗殺犯人)が第二に覗った犠牲芳川氏が、いまだ生存しているのを遺憾とする意味が記されたからである! 上野にある西野の墓へは、夥しい参詣者が続くのである。就中、学生・俳優・芸者など多数。悪い時世だ。まだ日本の文化は議会制度の時期に達しないことを、明らかに物語ってゐる。国民は、自分で法律を制定することになったこの時、暗殺者を称賛するのである。

 これらの文章は、「清貧」とは直接関係ないかもしれませんが、現在でも通用しかねない忠言を含んでいるかもしれません。しかし、「清貧」に徹すれば、火災も憲法も高官暗殺も、あってなきに等しいことになるのかもしれません。

 明治三十四年十一月二十日。余の見る所に拠れば日本人は、屡々西欧学術の発生と本態とに関し、誤れる見解を懐き居るのである。日本人は、学問を目して一つの機械と做(みな)し、ねんがら年中、其れから其れへと夥しい仕事をさせ、また無制限に何処へでも運搬し、そこにて働かし得るものと考えて居るのである。是れは、間違いである。西欧の学界は機械に非ず、一つの有機体にして、他のすべての有機体と等しく其の繁殖には一定の気候、一定の雰囲気を要するのである。(中略)西欧の学問的雰囲気も亦、(中略)無数の傑出せる学者が幾千万努力の結果である。これは、荊棘の道にして高節の士の多量の汗、そして又地に灌がれたる血潮、燃えつつある火刑の薪の山に依り道標(みちしるべ)されて居る。(浜辺正彦訳による)

 この言葉も、まさしく忠言を含んでおり、現在の日本の学問のあり方にもふれていますが、「清貧」を覚悟すれば、こうした忠言も、馬耳東風と聞き流せるよいうものでしよう。

 西洋人は、「物欲」を持つことをすすめてくれたり、「清貧こそ尊い」と言ったりくれていまが、戦前戦中には、個人主義、自由主義を初めとして、ジャズや西洋料理にいたるまですべて、大和民族を滅ぼすための適性謀略と言われました。ベルツ博士もルロン神父も、やはりわれわれを謀略におとしいれているのかもしれません。もっとも、近ごろは、日本もアメリカ化されてしまいましたから、こんな謀略は、てんで通用しなくなっていると申せますが……。しかし、あすも暑そうです。わが家の水道は、相変わらず、喘息と便秘とにかかわっていることでしよう。あすはあすのこと。どれ、汲み置きの水でもかぶるといたしましようか! 「ぽとぽとと、この都に岩清水」

(付記) ベルツの日記の引用は、戦前、岩波版渡辺正彦氏の訳によりましたが、最近、岩波文庫版として菅沼竜太郎氏の新訳が出ています。浜辺氏の訳から、検閲によって削除された部分も、全部忠実に訳出されています。P.60〜69

平成二十九(二〇一七)年六月十七日。


佐藤一夫プロフィール:東京出身。暁星中学校でフランス語を始め、少年時代は巌谷小波や夏目漱石、芥川龍之介、十返舎一九、式亭三馬、『三国志』『西遊記』などを愛読し、詩や和歌も読む文学少年だった。第一高等学校文科丙類を経て、1925年東京帝国大学文学部仏文学科卒。辰野隆に師事し、鈴木信太郎、山田珠樹、豊島與志雄らの薫陶を受ける。

卒業後の1925年、旧制東京高校にフランス語の語学教員として勤務、1931年から1933年、文部省研究員としてフランスへ留学。1940年東京帝国大学文学部講師、1942年助教授。戦争が激化する中、ラブレーなどの翻訳を行った。1948年東京大学教授、1956年、明治大学兼任教授。1962年東京大学を定年退官し、立教大学文学部教授に就任。教え子で同学一般教育部専任講師としての職を得ていた渡辺一民とともに、文学部フランス文学科の創設に尽力した。1966年から1971年まで明治学院大学文学部教授。この間1967年、パリ大学附属東洋語学校客員教授も務めた。1956年に「フランソワ・ラブレー研究序説」で東大文学博士。1966年日本学士院会員に選出。

旧友で光文社社長神吉晴夫の勧めでカッパブックスシリーズの一冊として刊行された、エッセイ『うらなり抄』は1955年(昭和30年)のベストセラーとなった。

ミクロコスモス(人間を意味する小宇宙)のアナグラムである六隅 許六(むすみ ころく)という変名で、中野重治や福永武彦、師の辰野隆らの著書装丁を行っている。また戦争中、世界情勢を分析して軍部への批判を含む日記を記していて、死後出版された。憲兵や特高警察からの摘発を恐れ、日記は全文が仏語で書かれていた。(ドナルド・キーン、角地幸男訳「作家の日記を読む」日本人の戦争・文春文庫)

2017.06.14 


32
サラリーマンの処世訓 Kクラレ広報部

渡辺
サラリーマンの処世訓 上司と部下、出世から金銭まで Kクラレ広報部

   はじめに

 クラレが設立されたのは大正十五年。当時もっとも新しい化学繊維であり、いまなお健在のレーヨンの工業化からスタート」てから昭和六十一年で六十周年を迎えました。人間でいえば還暦にあたる今年、赤いチャンチャンコを着るかわりに六十周年事業の一環として、広報部では創業当時の昭和初期のサラリーマンの処世訓が、現代のサラリーマンにどの程度受け継がれているかを調査し、「サラリーマン心得今昔考」としてとりまとめ、マスコミにレポートしました。

 一方、当時のサラリーマンがどのみょうな生活をしていたのか、宮仕えの哀歓はどんなものであったのかを想い起こしてみたいと考え、国会図書館、大宅文庫、法政大学大原社研等々から文献をあさって、これをもとに毎日新聞大阪本社の住田英彬氏に「今は昔、六十年前のサラリーマン」と題する小冊子をとりまとめていただきました。

 これらの二つの資料は新聞、雑誌等のマスコミにさまざまにとり上げられた結果、各方面から資料送付の要望が相次ぎました。資料の在庫も少なくその処置にいささか困惑していました矢先、いわゆる企画本の出版で名を馳せておられる学生社から出版のお勧めをいただいたのが、本書が世に出ることになったきっかけです。

 本書の第一部は、現代サラリーマンの仕事観から趣味にいたるまでの、前記の当社が実施した調査でデータを中心にすえて、毎日新聞大阪本社の住田英彬氏に執筆いただいたものです。氏の古今東西にわたる該博な歴史知識とベテラン記者らしい練達の筆さばきによって、ともすれば無機的で面白みの欠ける調査解説がひとつの現代サラリーマン論としてよみがぇつた感があります。

 第二部は同じく前記の岩田氏にとりまとめていただいた六十年前のサラリーマン像に関する小冊子をそのまま収録したものです。価値観の多様化がひとつの特質とされる現代社会において、最大の社会集団であるサラリーマンがいかに身を処すべきかを考えるヒントになれば幸いです。

 本書のとりまとめを熱心にお勧めいただくとともに構成、内容等に関して多くのご教示をいただいた学生社の大橋取締役、そして本書のベースtこなった調査の企画、実査、集計分析にご協力いただいた協和広告(株)、(株)サン・クリエイティブ・パブリシティの関係者の方々に紙面をお借りして改めて御礼を申し上げます。

 なお、本書中のイラストレーションは当社前広報部長で現管理部門担当付の大藤亨氏の労作であることを付記します。

   昭和六十二年一月

株式会社クラレ 広報部

感想:こんな本が広報部から出版されていたのだ。私が在職していたとき、社内報について大藤亨氏とお話ししたことがありました。

★私の社内報

1:基督教独立学園を訪ねて

2:越川春樹先生を訪ねて

2017年(平成二十九年)六月十九日


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 長谷部日出雄著『鬼が来た 棟方志功』<下>(文春文庫)(1984年9月25日 第1刷)

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鬼が来た 

 昭和十七年ころの志功が、師宗悦と保田與重郎のほかに影響を受けていたのは、大原總一郎だった。總一郎の父孫三郎は、かつて日本民芸館の設立に十万円の寄付をした民芸運動の大パトロンである。倉敷の大原家と、志功の結びつきは、四年まえの昭和十三年五月、孫三郎のコレクションによる浦上玉堂展が、大原美術館で開かれたとき、河井寛次郎に連れて行って貰ったことから始まっていた。

 わがくにで最初の西欧絵画の美術館である大原美術館にには、当時すでにエル・グレコの「受胎告知」をはじめ、モネ、ゴーギャン、セガンティニ、ロートレック、マチス、マルケ……などの作品があつめられていたのだから、初めて訪れたときの志功が、昔ながらの典雅な家並みが掘割の水に影を漂わせている周囲の景観と、館内に収められている西欧絵画の銘品群に、どれほど興奮し、熱狂したかは、想像するに余りある。おそらくそれは、声も嗄(か)れんばかりの感嘆の叫び声と、手の舞と足の踏むところを知らぬ欣喜雀喜の連続であっただろうが、浦上玉堂の収集家であり、大雅や木米の文人画を好んでいた大原孫三郎が、このとき初めて会った志功の絵を、いっぺんで認めたかは、これははっきりとは記憶していない。柳宗悦が高く買っている志功を、孫三郎は無論、粗略に扱わなかっただろう。大原美術館の創立者であり、日本民芸館設立のスポンサーであった孫三郎に、志功は「画伯」と呼ばれて、たいへん感激していたそうである。

 大原總一郎はこのころ、二年まえから外遊中だった。志功が初めて總一郎と顔を合わせたのは、昭和十三年の十二月、かれの帰国を祝って、倉敷市の酒津にある大原家の別艇で開かれた園遊会の席上であった。招かれてこの園遊会に出た志功は、嘆声の連発を通りこして寡黙がちになっていた。落ち葉が散り敷き、さまざまな樹木の間から、しきりに鳥の啼き声が聞こえて、深い山中をおもわせる三千坪の屋敷に、門番小屋、和風の画室、母屋、洋風の山小屋のような建物……などが点在している広大な屋敷は、大原孫三郎が後援していた画家児島虎次郎のために建てられたものだった。屋根の煙突から冬空に薄い煙を立昇らせ、なかに薪が焚かれていた暖炉と、部厚いがっしりした木製のテーブルと椅子を備えたコテージは、画の製作中に人が訪ねて来たとき、応接に使うためだのものであったという。そのように至れり尽くせりの設備をしたほかに、孫三郎は児島を三たび欧州に送った。児島は画業に精進するかたはら、孫三郎に任されて、西欧絵画の収集も行った。大原美術館は、児島の死後、それを記念して建設されたものである。一人の資産家が一人の画家を後援するということは、これほどまでにするもんか……そうおもって志功は呆然と息をのむ心持になっていたのだった。この園遊会にも、志功は河井寛次郎と一緒に行っていた。そこへ大原孫三郎が、三十になったかならぬかの青年を連れて来て、志功にいった。「うちの總一郎が、棟方画伯の絵を、まえから大好きでね。きょうは画伯が来られるのを、楽しみにして待っていたんですよ」

 はあっ……とお辞儀をしながら、志功はすこし不審におもった。大原總一郎はこの数年間、欧州にいた筈である。一体どこで、かれのどの作品を見たのだろう、二年まえのベルリン・オリンピックビック芸術競技に出した『ラジオ体操』と『ウオーミングアップ』でも見たのだろうか。

「あのう……」志功は、いかにも東大出の秀才らしい俊敏な表情をしている年下の青年に恐る恐る訊ねた。「わしの絵を、どちらでご覧になったのでしょう?」

「ロンドンですよ」

「ロンドン?……で、どの作品をご覧になったんです」

總一郎の説明によると、かれがとくに感銘を受けたというのは、『華厳譜』のなかの風神の図であった。とすれば自信のある作品のhいとつだが、それをどうしてロンドンで……と訝っている志功に、

「ぼくがその版画を見たのはね。……」

 と、總一郎は微笑を浮かべて、そこに至るまでの経緯を話し始めた。かれが昭和十一年の春に、欧米各国への旅に出たのは、紡績業視察のためであったのだが、音楽と絵画が大好きであったので、視察旅行の合間に、音楽会と美術館めぐりを欠かさず、その案内役になってくれたのが、ロンドンに一人住まいをしていたヘンリー・バーゲンという老アメリカ人だった。無名ではあったけれども、彼は眼のきく美術コレクターで、日本の陶器にも愛着を持っていた。あるとき二人で、ロンドンのリトル・ギャラリーへ行くと、濱田庄司の陶器とともに棟方志功の版画が何枚か展示されていて、そのなかからヘンリー・バーゲンが手にとり、買い求めた一枚が、『華厳譜』のなかの風神の図だったのである。

 大原總一郎がバーゲンについた語った後年の感想に「今は世界の寵児になった棟方の版画を最初に買った外国人は恐らく彼だっただろう」と書いている。總一郎自身も、ロンドンで見た志功の版画に感銘を受け、日本に帰ったら、是非いちど棟方におもうぞんぶん腕を振るわせてみたい、とおもっていたので、きょうの顔合わせを楽しみにしていたのだった。まず、手始めに、うちの襖絵を描いてくれまいか……という彼の言葉に、「やります、やります!」眥を決した志功は、躍り上がるようにして叫んだ。

 志功は園遊会が行われた酒津別邸のなかに住んでいる大原美術館長武内潔真(きよみ)のもとに寝泊まりし、故児島虎次郎の画室で、大原邸の襖絵や屏風を描くことになった。

 画材の準備や、墨磨り、水の用意など制作に手伝いには、武内夫妻が当たった。最初には志功が描いたのは、六曲屏風 の山水であった。志功が描き始めたとき、その無計算、無鉄砲ともおもえる制作方法に、もともと倉敷紡績の技師で工場長を勤めたこともある武内潔真は(……ちと無茶じゃないか)と心のなかでおもった。志功は床にひろげた六曲屏風のまわりを、絶えず動き回って、こちら側から描いたかとおもうと、飛んで行ってこんどは向こう側から筆を下した。なにを描いているのか、さっぱり訳が判らない。線描のなかに墨色を塗るときは、塗るというより、片口の水に溶いた墨を、筆でかたっぱしから紙のうえに撒いているような感じで、武内は、だんだん腹が立って来たくらいであった。ところが、それに色彩が施されていくと、見る見るうちに画面は鮮やかな風景の姿を現し始めた。武内の腹立ちは感嘆に変った。筆を洗う水を替えに往復していた武内夫人も、戻って来るまでの短い間に画面が一変して行く有様に、眼を見張っていた。志功署名をして制作を終えたとき、その目ざましい速度と気魄と才能に、武内はすっかり感服していた。

 期待を上回る出来映えに喜んだ總一郎は、大原邸内の襖絵を、すべて志功に描かせることにしたので、以来、志功は毎年のように倉敷へ出かけ、酒津別邸内の画室で、逸品の聞こえ高い『五智御菩薩図』をはじめとして『群鯉図』『華厳壁図』『連山々図』『群童図』『風神雷神図』『両妃図』……と力作を描き続けた。

 これらの肉筆画について、美術評論家の矢代幸雄氏は、戦後、倉敷の大原邸を訪れて見たときの感想を、次のように書いている。 「初め示されたのは六曲一双の屏風に、放胆な筆で、白雲の飛ぶ青空の前に連亘(れんこう)する山々と、林立する杉の木立と、その間に点々として見える村落の家並みや神社の鳥居などを画面いっぱいに描いた、旺盛な風景画であった。大きな筆を縦横に走らせ、墨をたっぷりつけた作画であるが、また緑や青の色彩を濃く使った西洋画風のしっかりした描写である。何となく、一脈、鉄斎にも通じる痛快な近代的描写であった」

 矢代はそれまで、志功を確かに異彩であると認めてはいたけれども、版画から時折うけるどぎつい感じには、いささか閉口することもあったのだが、肉筆画の奇想天外な面白さには心を奪われたので、興奮して「もっと見たい、もっと見たい」と總一郎に懇望した。なかでも奇抜とおもわれたのは、沢山の鯉を描いた襖絵だった。

「あるいはほんとうの水に浮く鯉のごとく、あるいは大きな鯉幟が強風に吹かれるところのごとく、あるいはまた鯉の頭があまり丸くなって、大鯰に化けかけたようなのもいる。生気充満、ユーモア横溢、何とも言いようのない愉快な作であった」…「暗い廊下の突き当りに、大きな赤不動を描いたのは、殊に傑作のように思われた。いずれにしても、私としてはこの種の棟方志功の作りを初めて見たわけで、大いに認識を新たにし、また彼の不羈奔放なる想像力の奔馳や、筆の動きの自然さに、すこぶる感嘆した」

 志功が倉敷の大原家において、肉筆画の傑作を続続と量産したのは、大東亜戦争の直前から真最中にかけてのことだった。これは總一郎の知遇を得たおかげであり、そこから徐徐に経済的な余裕も齎されて来ていたものとおもわれるが、志功が總一郎から受けた精神的影響も、それに劣らず大きかったとみてよい。そのひとつは西洋のクラシック音楽、とくにベ―トーヴェンの音楽を体の芯に植えつけられたことである。

 志功が倉敷の大原家において、肉筆画の傑作を続続と量産したのは、大東亜戦争の直前から真最中にかけてのことだった。これは總一郎の知遇を得たおかげであり、そこから徐徐に経済的な余裕も齎されて来ていたものとおもわれるが、志功が總一郎から受けた精神的影響も、それに劣らず大きかったとみてよい。そのひとつは西洋のクラシック音楽、とくにベ―トーヴェンの音楽を体の芯に植えつけられたことである。

 大阪の倉敷紡績で指揮をとる總一郎の、いつもの住まいは、倉敷の本邸ではなく、神戸の住吉の反高林(たんたかばやし)にあり、音楽好きのかれは、そこに社員を招いて、自分が蒐集した名盤によるレコード・コンサートの当日には、みんな何とかして招待の指名から逃れようと、戦戦兢兢たる有様だった。そんなときに、社員ではないけれども、志功は敢然と出席して、荘重森厳に延延と続く名曲を、残らず真正面から受け止め、瞑目して棒を振る指揮者のような陶酔と興奮の表情を示し、總一郎の解説と音楽談話にも深く耳を傾けたうえで、いまの音楽と解説に対する自分の感想と意見を、縷縷切切と申し述べるのである。

 別に無理をしていた訳ではなかあったのだろう。かれにとって画家はゴッホ、音楽家ではベ―トーヴェンで、そのベ―トーヴェンに対する関心は、初めて東京に出てきて、帝展落選が続いていたころからあったものだった。後年の回想では、「特にわたしにとって、音楽はベ―トーヴェンという位、ベ―トーヴェンが好きです。まだ蓄音機を持っていない頃から、そのレコードを全部そろえて持っていた程です」と語っている。こうした志功の回想は、必ずしも言葉通りに受取ることはできないが、蓄音機を持つまえから、大原總一郎家のレコード・コンサートにおいて、ベ―トーヴェンの交響曲の殆ど全部を聴いたのは、多分まちがいあるまい。

 なかでも好きになったのは、第九交響曲のなかの「歓喜」のメロディで、以来かれはしばしばそのメロディを口ずさみながら、版画を彫るようになる。宗教と芸能、祈りと歌と踊りが不可分のものであった古代の人人とおなじように、気に入った詩歌や経文を、口と心のなかで繰返し唱えながら、祈りを彫刻刀の尖端に籠めて、踊るように板を彫り進むのが、棟方志功の制作方法の基本であったようにおもわれるから、その心中の音楽のレパートリーに、ベ―トーヴェンが加わったことは、作品の世界に、測り知れないほどの広がりを齎したのではないかと考えられるのである。

 志功が大原總一郎に与えられたもうひとつのものは、芸術家としての世界的な視野、いいかえれば、近代の芸術家としての自覚であった。父孫三郎のあとを継いで、三十二歳で倉敷紡績の社長に就任した總一郎には、なにもかも打明けて話せる相手が少なかったのだろう。その分だけ、芸術上の知己である志功には、遠慮を取払っていたのか、ときに辛辣すぎるくらい手きびしい評言を発することがあった。のちに志功がスランプ気味に陥ったときには、「こんな詰まらないものをつくるくらいなら、絵描きをやめてしまえ」といったこともある。それは結局、ヘンリー・バーゲンに「大美術館にある作品だけがよいものとは限らない。中小の都市の美術館を見逃してはいけない」と教えてられてから、外遊中に、有名無名を問わずヨーロッパ中のありとあらゆる美術館を見て来た總一郎が、それらのなかで最上の作品、最良の画家たちと、志功を同列において論ずるところから生まれて来た評言だった。

 志功も油絵を描き始めたころから、ゴッホを意識してはいた。ただし初めのうちは、ゴッホと油絵画家を同義語のように考え、つまり、われは「ゴッホになる」というのは「洋画家になる」というのと同程度の意味で、実際にゴッホに迫るほどの画家になろうと決心していたわけではなかった。けれども、その後ゴッホの『アルビイユの道』もコレクションに加えられた当時のわが国では唯一の西欧絵画の美術館である大原美術館から、さほど遠くない酒津の深山をおもわせる三千坪の敷地のなかの画室で制作に励み、神戸に行ってはクラシック音楽に耳を傾け、あるいはヨロッパ―の美術を目の前において論じているような總一郎の芸術論を聞く生活のなかで、ほかの恵まれた洋画家のようにパリ遊学の経験を持つことができなかった志功にも、そのころから、自分は世界の画家たちのなかの一人である、という意識の萌芽が生じはじめて来ていたようにおもわれる。ちょうど總一郎と知合ったあたりから、志功の作品に、近代的な造型的感覚が顕著になっているのが、その証拠で、このころの志功の制作は多分、大原總一郎の存在を、たえず意識の一隅に置いて行われていたはずである。

 總一郎のほうでは、志功をどのように見ていたかといえば、これは戦後のものになるけれども、谷川徹三氏によって、「棟方と棟方芸術について書かれた最高の文章である」と評された、あの有名な棟方志功論がある。――棟方の中には二人の棟方がいる。彼はその門衛と二人住いだ。……という部分は、まえに紹介したが、そのあとには、こうも書いている。

 「展覧会場に現れた棟方自身はいつも何事か大声で喚くが、作品はまたいくらか別の言葉を語っている。作品の中にいるのが主人公で、会場に現れたのはその従者であることが、われわれには直ちに知ることができる」…「棟方の中に住む棟方、それは彼の板業の歴史を通じて直接間接に窺い知るほかはないものだが、それが将来さらに生み出すであろう物は、決して今日までの作品から帰納されるわくの中にとどまるものではなかろう。彼にとっても、われわれにとっても、また棟方芸術そのものにとっても、未知なる驚きは、また彼の奥深くに限りなく残されているに違いない。ある人は棟方はその人間の方が、その作品よりも面白いという。この批評ほど彼にとって迷惑、かつ不名誉な批評があるだろうか」……

 大原總一郎の観察によれば、棟方の中には二人の棟方がおり、一人は作品の中にいる主人公であって、もう一人はその門衛であり、従者であるという。それをいいかえると、志功のなかには、ドン・キホーテとサンチャ・バンサが同居していたのであったのかも知れなかった。つまり見果てぬ夢を追うロマンティストと、卑俗な現実に徹するリアリストが、一人の人間のなかに呉越同舟のかたちでいて、たがいに反対の方向へ楫(かじ)を引き合いながら、激しい時代の波間に、微妙な均衡を保させていたようにもおもわれるのである。

参考:概要 騎士道物語(当時のヨーロッパで流行していた)を読み過ぎて妄想に陥った郷士(下級貴族)の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(「ドン」は郷士より上位の貴族の名に付く。「デ・ラ・マンチャ」はかれの出身地のラ・マンチャ地方を指す。つまり「ラ・マンチャの騎士・キホーテ卿」と言った意味合い)と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。 1605年に出版された前編と、1615年に出版された後編がある(後述するアベリャネーダによる贋作は、ここでは区別のため続編と表記する)。 旧態依然としたスペインなどへの批判精神に富んだ作品で、風車に突進する有名なシーンは、スペインを象徴する騎士姿のドン・キホーテがオランダを象徴する風車に負けるという、オランダ独立の将来を暗示するメタファーであったとする説もある。(スペインの歴史、オランダの歴史を参照)実在の騎士道小説や牧人小説などが作中に多く登場し、書物の良し悪しについて登場人物がさかんに議論する場面もあり、17世紀のヨーロッパ文学についての文学史上の資料的価値も高い。 主人公の自意識や人間的な成長などの「個」の視点を盛り込むなど、それまでの物語とは大きく異なる技法や視点が導入されていることから、最初の近代小説ともいわれる。年老いてからも夢や希望、正義を胸に遍歴の旅を続ける姿が多くの人の感動をよんでいる。 また、聖書の次に世界的に出版されており、正真正銘のベストセラー小説・ロングセラー小説でもある。2002年5月8日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得した。


ビニロン工業化を版画で後押しーー 棟方志功 大原父子との絆

初の国産合成繊維ビニロンの工業化を4点の版画が後押しした。 「美尼羅牟頌板画柵」(びにんろん しょうはんがさく)と名付けられたその作品は世界的な版画家・棟方志功の作品。 その背景には、クラレ創業者の大原孫三郎・二代目社長總一郎親子と志功氏の、長年にわたる親交と友情があった。

大原孫三郎・總一郎と「世界のMUNAKATA」の出会い

 青森県青森市の出身で、世界的に有名な版画家である棟方志功と、大原家との本格的な交流は、1938年、大原總一郎が欧米視察から帰国した際、倉敷市で行われた園遊会から始まる。当時大原孫三郎57歳、棟方志功34歳、總一郎28歳であった。孫三郎はこの時、息子の總一郎が棟方志功作品のファンであることを伝え、紹介された總一郎は大原邸の自身の部屋の襖絵を依頼する。棟方志功はこの時のことを後に、「こちらは名もない、版画の世界に入って、何年もたたない絵描きです。そんな人間にそういう大業をやってくれという魂の太さに、非常に恐縮しました」と述懐している。

 出会いをきっかけに、大原家は棟方志功に、物心両面における支援を行っていく。大原父子の知遇を得て、棟方志功は次々に自分の作品に生かしていった。6歳違うものの、互いに惹かれ合うものを感じ、「まるで兄弟のよう」と言われるほどに親しくなった。やがて「世界のMUNAKATA」と呼ばれる版画家となる棟方志功の、飛躍への源はこの時期にある。

「美尼羅牟頌板画柵」がともした導きの灯

 大原家との出会いから、棟方志功は毎年のように倉敷を訪れ、「御群鯉図」「五智菩薩図」「風神雷神図」などの作品を次々と描き、大原家に納めた。ある時、大原總一郎が改まった様子で棟方志功に言った。

 「今私は、ビニロン事業に運命をかけている。日本経済自立のためにも、ビニロン生産を軌道に乗せなければならない。その導きの灯がほしい。ビニロンにかける気持ちを、版画に表現してもらえないでしょうか」

 1950年のことである。總一郎は、43年に死去した孫三郎の跡を継ぎ、倉敷レイヨンの社長になっていた。当社が推進するビニロンの工業化は最終段階に入り、工場建設計画を進めていたものの、国内は不況の真っ只中にあり、資金調達に苦労していた。總一郎は、苦難の道を切り拓く勇気を、棟方志功の版画に求めたのである。

 棟方志功は制作に没頭した。汗のにじむ顔を、板木にくっつくほど近づけて丸刀を振るい、16枚の板木を使った1m四方の作品4枚で構成する板画を彫り上げた。大作品「美尼羅牟頌板画柵」(ベートーベン作曲「運命」をモチーフにしており、別名を「運命板画柵」とする)は、新事業へと挑む總一郎の背中を後押しした。


        御群鯉図                風神雷神図                 美尼羅牟頌板画柵

★「大原總一郎年譜」昭和55年7月27日発行 株式会社クラレ 大阪市北区梅田1-12-391 の中に挿入されていたパンフレットを書き写す。平成29年(2017)7月17日。

2017.07.10〜14


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『白い航跡』(講談社文庫)(1994年5月15日 第1刷)

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『白い航跡』

 明治期の日本海軍が、当時陸海軍(や日本全国)で蔓延していた原因不明の病「脚気」の原因が白米食だ...という仮説を大規模な試験航海で実証したという話につきあたった。

 その顛末を小説化したのが吉村昭の『白い航跡』。

 脚気は、明治期の陸軍・海軍の存亡に関わるくらい深刻な病だった。

『白い航跡』は、その脚気を海軍医高木兼寛が兵食改善によって撲滅していく過程を中心に描いた歴史小説・伝記と医学ノンフィクションを合体したような小説。

 この小説の見せ場は、イギリス医学を学んだ兼寛が、海軍に蔓延する脚気の原因を白米食にあると確信し、脚気撲滅のために試行錯誤と実地試験を重ねていくプロセス。大規模臨床実験の計画・実施・検証と新しい食事療法の開発・導入と言えるような一大プロジェクト。

 そこに最新のドイツ医学に基づく細菌説を信奉する陸軍医学部門と東京大学医学部を中心とする医学界との軋轢が加わり、当時の脚気をめぐる医学の世界の様子がリアルに伝わってくる。

 それに、ドイツの細菌学者コッホの下で学んだ陸軍軍医森林太郎(森鴎外)の脚気栄養説に対する徹底的な批判と脚気細菌説への固執という頑迷さは、作家とは別の医学者としての顔を知ることになる。陸軍内部での麦飯導入により脚気がほぼ消滅したという現実があっても、依然として白米食至上主義を採り続け、その結果、日清・日露戦争で脚気による膨大な死者を出すことに繋がった。

 小説は兼寛の生涯をほぼ時系列的に追っているが、冒頭の戊辰戦争の話から、脚気論争へと繋がるストーリーの伏線が張り巡らされている。

  西洋医学の師

 兼寛は能力・人格とも優れた師に恵まれていた。

   蘭方・方法医学の師である石神良策は、海軍医となるよう東京へ兼寛を呼び寄せ、妻になる富との縁談の世話をやき、公私両面で兼寛を導いた医師。

 鹿児島で兼寛にイギリス医学を教えた英国人医師ウイリスの生涯は、時代の流れに翻弄されたような人生だった。

 東京の海軍病院に招聘された英国人医師アンダーソンもウイリスと同じように紳士的で優れた教師だった。

 一方、脚気論争で兼寛を徹底して批判する医学界と陸軍の人物は多数いたが、なかでも陸軍医学部門の上層部にいる石黒忠悳と森林太郎(作家の森鴎外)はその急先鋒だった。

 医学の世界では、その主張も成果も認められず、叙勲も兼寛ではなく後輩の海軍医に与えられるなど、四面楚歌状態の兼寛の心の支えとなったのは、「麦飯食」の話を熱心に聴きその功績に感心する明治天皇。

英国留学時の成績

 英国留学で兼寛が納めた成績の優秀さは、当時の日本人のなかでも驚異的だったのでは。

 セント・トーマス病院付属医学校と病院で、医学理論と実技を学び、医学校の試験でもイギリス人の学生を抑えて上位や首席になり、外科・産科・内科学の医師資格取得し、医学校では数々の賞を受賞して、最優秀の医学生となる。さらに外科のフェローシップ免状(学位)を授与されたことで、医学校の教授資格も得る。

脚気論争

脚気の研究

 脚気の原因は、すでに漢方医の脚気専門の第一人者である遠田澄庵が、インド:日本で脚気が多いのは「脚気ハ其原米ニ在リ」と主張していた。

 兼寛の脚気研究は、軍の統計や艦船の航海記録をもとに脚気の発生状況を調査分析し、食事が原因ではないかと推定。

 イギリスで学んだ実用栄養学を元に食事内容を分析した結果、脚気にかかる軍人の食事は蛋白質が極めて少なく、含水炭素がはるかに多い。

 ここから、白米食が脚気の原因だという仮説を立て、「洋食兵食」による脚気改善効果の航海実験を計画。

 試験航海には、海軍予算が年間300万円だった時代に、その1/60(1.67%)に当る5万円が費やされている。

 天皇・大蔵大臣など政府高官を説得し巨額の試験費用を費やしたこの試験航海で、脚気患者が続出すれば深刻な問題になるのは必至。兼寛は試験航海中、大変な精神的重圧のために、「筑波」で脚気患者や死者が続出する悪夢に悩まされ、食欲減退し気鬱になり抑うつ的な状態になり、周囲の人々も心配する。それだけに「ビョウシャ 1ニンモナシ アンシンアレ」という電報電報を見たときの喜びと安堵がどれだけ大きかったか想像できる。

 試験航海と並行して改善兵食の試験的導入による検証、洋食兵食の実現可能性の検討、白米麦混合食への全面切り替えを勧めていく。

 兼寛は当初、洋食導入を主張していたが、洋食には多額の費用がかかること、英国海軍が航海中はパンではなくビスケットを支給していたことを知る。

 麦飯でさえ抵抗があるのに、パンやビスケットなら水兵たちが受け入れることは難しいと判断し、白米と麦の混合食にすることに方針転換。

「パン食が理想ではあるが、経費の増額と兵の食習慣の二点で実現は不可能と考えたのである。...どのような改定をしても、水兵がそれを口にしなければなんの意味もないことをはっきりと感じたのである。」

医学界・陸軍による批判

 陸軍・医学界はドイツのべルツが主張する細菌説を信奉して、脚気白米食原因説(洋食・麦飯食による脚気対策)には、学問の理論的裏づけがないとして、理論的な批判・実験を行い、陸軍の白米食至上主義(1日に白米食支給が6合)を改めようとはしなかった。

 東京大学生理学教室教授大澤による論文「麦飯ノ説」:米と麦の蛋白質と人体への吸収量を比較し、米の方が優れているため、麦飯食は意味がない。鴎外も比較研究で白米食が洋食に優れているという試験結果を発表する。

陸軍と海軍の脚気対策の違い

 海軍と陸軍では、中枢の医学部門と現場の部隊との関係の違いがよくわかる。

 海軍の場合は、軍の上層部も現場の部隊・艦船も一体となって、医療部門の仮説・検証・食事改善に対して取り組んでいた。

 最終的に、洋食ではなく、白米麦混合食を兵食と定め、全ての艦船・部隊が平時・戦時においても、上層部の兵食に関する指示を厳守し、脚気が再び蔓延することを防いだ。

 一方、陸軍では、医学部門の上層部では細菌説に基づいて、現場の衛生状態の改善を指示していたが、脚気患者が一向に減らず。

 中枢の医療部門の脚気細菌説・白米食至上主義に反して、脚気に悩むを現場の部隊は独自の判断で麦飯、白米と麦の混合食に替えて言った。 例えば、大阪陸軍病院長一等軍医正堀内利国は、麦飯を食べている監獄の囚人に脚気患者が極めて少ないことから、大阪鎮台の部隊でも一年間麦飯を支給したところ、脚気患者が激減した。行軍時に白米と白米麦混合食を食べさせて、健康状態を比較する実験をする部隊もあった。

 各地方部隊の陸軍医たちが独自に白米麦飯混合食を導入していったが、上層部はこの措置を快く思わず、麦飯を導入した陸軍医が批判・解雇される事態にもなる。しかし、結局は、陸軍のほとんどの部隊が独自の判断で麦飯混合食を導入し、平時には脚気患者がほぼ消滅する。

 白米食が脚気の原因であるというのは、結果を見ると明らかであるのに、脚気消滅は「兵舎の衛生状態が改善された結果」だとして、依然として陸軍医学部門の上層部はや、東京大学を中心とする医学界は細菌説に固執し続けた。

 彼らにとって、学理的に説明のできない脚気栄養説は、単なる思いつきと偶然の産物にすぎなかった。さらに、彼らの学んできた基礎医学と学理探求を特徴とするドイツ医学が最も優れていると自負しているため、実証・臨床重視のイギリス医学を学んだ兼寛を見下していたことも大きく影響していた。

 日清戦争、日露戦争での陸軍と海軍の兵食の対応も対照的。

 海軍では、戦時中は臨時に白米の支給を増やしたが、1日1人100匁を超えないことを厳守し、脚気患者はわずか(日露戦争では100名余り)

 陸軍では、陸軍の兵食規定に従って、麦飯ではなく、戦地に1日6合の白米を支給し、脚気患者と死亡者が続出。日清戦争では戦死者453名に対して、脚気による死者4064名、日露戦争にはさらに酷く、傷病者352,700名のうち脚気患者が211,600名。傷病者による死者37,200名のうち、脚気による死者27,800名。

ビタミンの発見

 クリスティアーン・エイクマン:1896年に、滞在先のインドネシアで米ヌカの中に脚気に効く有効成分があると考えた。 鈴木梅太郎:物質としてビタミンを初めて抽出、発見。1910年、米の糠からオリザニン(ビタミン)を抽出し論文(日本語)を発表。農芸化学者である鈴木梅太郎は脚気予防に効果があると発表しても、細菌説をとる医学界はこの世界的な発見を無視した。カジミール・フンク:1911年に米ヌカの有効成分を抽出することに成功。1912年にビタミン(ビタミンB1・チアミン)を発見。

脚気ビタミンB欠乏説の実験

 大正8年に欧米各国からビタミンBが脚気に有効であると伝えられ、それを聴いた大森憲太慶応大学教授がビタミンBが脚気に有効であることを証明。軽症の脚気患者6名と

 健康人6名にビタミンBの欠けた食事のみを摂らせたところ、軽症者は重症になり、健康者は脚気にかかる。次に被験者にビタミンBを与えたところ12人全員が完治。白米食ではなく、玄米、分つき米を推奨。

 欧米からも裏付けとなる報告が相次いだことから、細菌説に固執していた医学界もビタミンBが脚気に有効であるということを認めた。

 兼寛の世界的評価

 兼寛はコロンビア大学を始め、英米の大学で栄養バランスを改善した食事が脚気を予防することを講演し、学位を次々と授与され、ランセットにもその講演が掲載されるなど、海外の評価の高さは国内とは正反対。

 小説の最後に、南極大陸のグレアムランド西岸のルルー湾北東部に、"Takaki Promontory"と命名された岬の話が出てくる。

 この岬は、英国の南極地名委員会によって、昭和34年に高木兼寛に因んで命名されたという。その説明に「日本帝国海軍の軍医総監、1882年、食事改善により脚気予防に初めて成功した人」。

 周辺には、「エイクマン岬」「フンク氷河」「ホプキンス氷河」「マッカラム峰」と著名なビタミン学者に因んだ岬がある。 日本ではビタミン学者と言えば、鈴木梅太郎など数名が知られているが、南極大陸の岬として名づけられたのは、高木兼寛のみ。日本では評価されていなくとも、「ビタミン研究の開拓者」として、海外でどれだけ高く評価されているのかよくわかるエピソード。

 森鴎外は「脚気細菌説」の誤りを認めることは、終生しなかったらしい。

   日露戦争後に発表された『妄想』(1911(明治44)年3月・4月)に、この脚気論争に関連する記述がある。

「食物改良の議論もあつた。米を食ふことを廃(や)めて、沢山牛肉を食はせたいと云ふのであつた。その時自分は「米も魚もひどく消化の好いものだから、日本人の食物は昔の儘が好からう、尤も牧畜を盛んにして、牛肉も食べるやうにするのは勝手だ」と云つた。」

 「自然科学を修(をさ)めて帰つた当座、食物の議論が出たので、当時の権威者たる Voit(フオイト) の標準で駁撃(はくげき)した時も、或る先輩が「そんならフォイトを信仰してゐるか」と云ふと、自分はそれに答へて、「必ずしもさうでは無い、姑(しばら)くフォイトの塁(るゐ)に拠(よ)つて敵に当るのだ」と云つて、ひどく先輩に冷かされた。自分は一時の権威者としてフォイトに脱帽したに過ぎないのである。」

※Voitは著名な栄養学者。?外が師事した Pettenkoferの弟子の一人。

兼寛の研究

臨床試験において、評価に値する最良の方法が「ランダム化二重盲検試験」

理想的には戦艦「筑波」の船員をランダムに2群に分け、片方には従来の食事、他方には高蛋白低炭水化物の食事を与える。船員を診察する医師にはどちらの食事を摂ったか知らせない。

現代では、比較治療の優劣がついている場合、ランダム化試験は倫理的に不可。

兼寛はすでに新しい食事と従来の食事を10人に与えて、従来の食事が脚気の原因であると確信しているので、白米食を使うことは不要であるし、心情的にも船員を脚気の危険にさらすことはできない。

今回の実験のコントロール(対照群)となるのは、脚気が大量発生した「龍驤」。

試験艦「筑波」は、食事以外の試験条件を出来る限り「龍驤」と同一にするために、「龍驤」と同じ航路と期間で試験する必要があった。 航海期間は1年近くと非常に長くなってしまうが、実際、「龍驤」での脚気発生は帰路後半で多くなっているので、同じ航路を辿る必要があった。

東京帝国大学医学部−陸軍医療部門:基礎研究に優れ、コッホが破傷風菌・結核菌・コレラ菌を発見するなど世界の医学界が注目するドイツ医学を採用。ドイツ医学は、実験 研究を重視した「病気を観る学問」

日本海軍:イギリス海軍の軍制を導入していたため、イギリス医学を採用。イギリス医学は、実験による医学的裏づけがなくても実際のエビデンスを重視した「病人を診る学問」

兼寛の「脚気白米食原因説」に対する批判・反論

<緒方正規博士の論文>

脚気患者からある細菌を分離し、これを動物に接種したところ脚気様症状がみられた=脚気は細菌が原因と結論 緒方論文の問題点:脚気患者全員からこの菌を特異的に分離し、この菌がどのように心臓、および神経病理を発生せしめたかについてまで示す必要がある。

※北里柴三郎が、明治43年にこの細菌説を否定した。

<鴎外の批判と実験>

「もしも正確な実験をするのなら1つの集団を2分して、一方に白米を与え、一方に洋食あるいは麦飯食を与え、しかも同一の地に居住させ生活条件も同じにさせる。このようにしても、米食のみが脚気に罹り他方が罹らなかったならば、米食が脚気を誘発するものと考えられるであろう」 ?外の批判どおり、兼寛の学説は、エビデンスに基づいているが、実験的検証が弱点。

(鴎外の実験)

-陸軍第1師団の若い兵6名(すべて健常者)を対象

-白米のみ、麦飯。パンと肉、の3種類に分けてそれらを8日間ずつ食べさせる。

-ドイツ最新の方法に基づき検査。(各食事のカロリー、蛋白質、脂肪も計算している)

-結論:白米が最も優れ、パンと肉は最も劣る。

(?外の実験・結論の問題点)

-被験者が6人と少数。検査結果上有意差があっても、結論を導くのには不十分。

-試験が不十分:現代治験の「第T相試験」(薬剤の安全性を試験するために健常者に薬剤を投与)に相当する試験のみ実施。発症している患者に試験薬(食)を投与して、その有効性を評価する第U相・第V相試験は実施せずに、脚気病食の効果がないと結論づけている。

-試験期間が8日間と短すぎる。(短期間では、脚気の発生には影響しない)

兼寛の研究に対する評価

当時、病原微生物を同定することが医学の主流。

兼寛の脚気病栄養学説は、生活習慣病の病因論を考える上でのエポックメイキングな出来事であり、まさにパラダイムシフトともとれる。


参考情報

 海軍カレー

 有名な「海軍カレー」も、この脚気対策のために誕生した。

 明治期のイギリス海軍は、シチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよいインド起源の香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。

 脚気予防のため洋食を導入しようとした高木兼寛は洋食・パン食を導入しようとしたが、農家出身の水兵たちには馴染めなかったために、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけてカレーライスが誕生した。

 脚気という言葉は知っていたけれど、その原因が白米を食べることあるのだと知ったのは、もう10年以上も前に読んだ『食う寝る坐る永平寺修行記』 (新潮文庫)というノンフィクション。

 永平寺で修行する雲水の食事は、誠に質素なもので、おかずの品数や量が少なく、空腹を満たすためにはおかわりが許されている白米のご飯を大量に食べるしかない。 それは脚気にかかるリスクがあるとわかっていても、空腹に耐えられずに白米のご飯ばかりたくさん食べるので、脚気で入院する雲水が続出。 この本のおかげで、粗食で白米ばかり食べていたら、脚気になるんだというのが、記憶にしっかり残ってしまった。

 <インタネットによる> nihonzibutushi.jpg

参考:チェンバレン 著 高梨健吉訳『日本事物誌 2』(東洋文庫)「脚気Kakke」の項目に「故軍医総監高木博士が、船の乗組員のために肉食とパン食を採用して以来は、日本海軍の健康が飛躍的に改善された。」と記載されている。P.6〜9

Link:パンと麦飯と脚気

2017.07.17(海の日)。


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『櫻守』(新潮社)(1969年5月05日 第1刷)

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『櫻守』水上勉(みずかみつとむ)著

 水上勉の小説『櫻守』のモデル、笹部新太郎が晩年を過ごした神戸市東灘区岡本にあった笹部邸は現在、南隣地を含めて神戸市の都市公園(・・街区公園)になっている。

 この小説は、昭和43年8月〜12月、毎日新聞に代表的現代作家20人の競作の企画で「現代日本の作家」の一環として発表された。

 物語は、主人公の庭師北弥吉の幼い日、山桜が満開である在所の京都府北桑田郡鶴ヶ岡村の背山を木樵の祖父と登って行くところから始まる。

 弥吉はそこで初めて山桜の名を覚えた。

「祖父は小舎の前に木端をあつめて火を焚いた。母とむきあって、話しこんでいた。話の様子は、父のことらしい。弥吉はのけものにされた思いがして雑木山へ入り、岩なしをとった。

-略- 口のはたが、実の色で染まるほどたべて、弥吉は小舎に走り戻った。すると、祖父と母は小舎のまわりにいず、火が消えていた。弥吉は急に淋しくなって、尾根づたいに桜山の方へ歩いた。と、不意に足もとから、母と祖父の笑う声がした。満開の桜の下だった。遠目だからはっきりしないが、かわいた地べたに、白い太股をみせた母が、のけぞるように寝ていて、わきに祖父がいた。家では、いつもいらいらしている母が、楽しそうにはしゃいでいる。弥吉はいかにも秘密めいた感じが、そこにあるような気がした。呼ぶのに気がひけて、しばらくだまってみていてから逆もどりした。見てはならないものをみたような、一瞬、はずかしい気持ちが襲った。弥吉は眼を閉じて歩いた。と、立止った所に、一本の桜があった。小菊の花でもみるような、薄紅の花びらを何枚もかさねた大輪で、一匹の蜂が花の中へ頭をつっこんでいた。峰は蛹型の尻を小きざみに振った。蜜をすっているのだと思った。」

 その日、満開の山桜の樹の下で久しぶりでついてきた母と祖父の情事の余韻を見る。この情景は弥吉の心に深く焼き付けられる。

 まもなく祖父は死に、母は宮大工の父に離縁される。その後、弥吉は新しい母になじめず、実母を思って暮らす。

 14才のとき、京都の植木屋「小野甚」に奉公する。そこで生涯の友であり、先輩である、石に詳しい庭師橘喜七に出会う。

 その喜七の紹介で、大阪中之島の資産家の次男で東大を出て、生涯無位無冠で桜一筋に情熱を傾ける桜研究家竹部庸太郎の雇い人となった。弥吉は竹部が持っている武田尾の桜演習林や向日町の桜苗圃などで特に接木や接穂作りなど山桜の種の保全と育成、普及の研究の下働きをすることになった。

 そんなある日、竹部と弥吉は武田尾の演習林からの帰り道、どうしても通らなければならない福知山線のトンネルの中で臨時列車に遭遇する。列車の煤を洗うため立ち寄った武田尾温泉の「まるき」で弥吉は仲居の園と出会う。その奇遇で弥吉と園は、周囲のすすめもあって結婚する。

 ふたりは桜が満開の演習林の番小屋で初夜を迎える。滝よこの里桜の楊貴妃は番小屋の屋根にとどくぐらい枝が垂れていた。

「弥吉が腕をはなして、畳へ眼をやると、乱れ髪がながれて、楊貴妃の花弁が一つ、小貝をつけたように着いていた。弥吉はうっとりとそれを眺めた。」

 そしてふたりは武田尾の番小屋で新婚生活を始める。

 時局は逼迫し、武田尾の桜山も向日町の苗圃も例外ではなかった。武田尾は松の供出を迫られ、向日町の苗圃は地目が畑地であったことや不在地主に認定されたことから食糧増産のため買い上げられる羽目に陥った。

 そんななかでも、竹部は名木ありと聞けば訪ね、その接穂をもらい受け、日本の伝統的桜を残そうと私財を投じて、何百本もの名木の接木や実生を育ている。

「損も得もない。先生は自分の財産をつこうて日本の櫻を育ててはんのや」

 と弥吉は竹部を尊敬している。

 弥吉は菊桜など接木について竹部からかなりの手ほどきを受けた。失われたといわれる「太白」という品種をイギリスの桜研究家が日本への里帰りを支援するとの話に、竹部は密かに「太白」を接木して持っていた。

 弥吉と園は日常生活を考えて、竹部の許しを得て武田尾から向日町の苗圃にある小舎へ移り住む。「ここは数千本の山桜の苗木の園である。」造幣局、橿原神宮参道、琵琶湖近江舞子、根尾、みなこの苗圃で育て、竹部が植えたものだった。

 秋のある日、根尾の薄墨桜の桜守、宮崎由之助の甥が出征前の寸暇をやり繰りして叔父の死を竹部に伝えに来た。

 この向日町の苗圃で弥吉は竹部から桜栽培のこつを熱心に教えられた。

 竹部は桜に明け暮れていた。竹部の父親が変わっていたらしい。

「大学にゆくのはいいが、月給取りにはなってくれるな。月給を取らずとも、一生どうにか暮らせるだけの物は残しておく。そのかわり、お前は、どんなことでも、白と信ずれば白と云い切る男になれ。お前の母親は二つの時に死んでいる。母の顔を知らないお前に、こんなことをいうのもわしの慈愛だと思え」と教え、当時としては高価なカメラも買い与えたと云う。また、大学の和田垣謙三教授は、「-略- 生涯をかけろ。日本一の桜研究家になれ」と励ました。

 竹部は学者のように机上でものを考えるのでなく、研究家であると同時に実践家でもあった。彼の持論は、古代より日本の伝統の櫻は朱のさした淡緑の葉とともに咲く山桜(里桜も含む)だ、近頃、流行っている染井吉野は違う、と主張する。また、学者は視野が狭く、造園業者は金でしか考えないし、役所、役人は長期的視野に立っていない。植樹はするが、日常管理など後の地道な保全育成に何の見識もない、と断じ、桜の衰退を嘆いた。

 園は、なぜ竹部は桜気ちがいのようになったのだろう、と訊く。弥吉は密かに桜の木の下の祖父と母を思いだし、早く母を亡くした竹部にも、一生忘れられない、同じ風景があるのではないかと思った。そして心の中で竹部も弥吉も桜のために生まれてきた人間だと思う。

 昭和20年3月、弥吉に徴用が来た。行き先は舞鶴軍需部だった。その少し前、園に妊娠の兆しがあった。舞鶴では本土決戦に備えたタコ穴掘りの日々だった。

 3月中頃、鶴ヶ岡から召集令状到達の知らせが電報で届いた。弥吉は伏見の輜重輓馬隊に入隊することになった。弥吉は妊娠のはっきりした園と新婚生活を送った武田尾の演習林に行く。そして園と楊貴妃の花のイメージが重なる。弥吉は園を狂おしく抱き、遅咲きの八重が散る下で、母が白い足を陽なたに投げ出してはしゃいでいた情景を思い出していた。園の顔と母の顔が重なった。

 その夜、ふたりそろって、岡本の竹部に別れを告げに行った。

 軍隊は苦しかったが、8月15日弥吉は終戦の詔勅を聞いた。

 実家に帰ると、父から実母が再婚した岐阜のつれ合いに死なれ、雲ヶ畑に戻って百姓をしていると聞く。しかし、弥吉は母に会わずに京都の喜七を訪ね、園も含めて、喜七の所に世話になる。弥吉と喜七は小野甚で培った人脈を辿って、野菜売りをして戦後を乗り切る。

 園は長男槇男を産んだ。昭和23年4月、弥吉と喜七は小野甚に復帰し、待望の庭造りを大喜びで始める。

 初仕事は料亭「八海」の新しい庭造りだった。しかし、設計家は、東京から来た大学出の若い造園家だった。彼の設計意図は花木のにぎやかさと石組みの豪華さだけを強調した外人好みの庭造りだ。特に桜の植え方では、里桜の普賢象を築山の常緑樹のうしろに隠し植えよ、と若い設計者は言う。弥吉の思いとは違う。

「桜はうしろに常盤樹をめぐらせて屏風にしなければ映えない。これは常識だった。空に向って咲くのでは空の色に吸われるのである。」竹部はいつも言っていた。

 世の中は表面的な美がもてはやされる中、桜をかわいがる人もいた。京都広沢の池の宇多野は京の桜の母親であり、と竹部は日本の桜の父親といえた。

 昭和29年38才の弥吉は京都・鷹峰に家屋敷を買った。昭和36年、弥吉45才、園42才、槇男16才になっていた。喜七は50才半ばをこえ足を痛め、息子の喜太郎が跡を継ぎ、弥吉がその親方だった。

 昭和36年4月、弥吉は新聞紙上で名神高速道路建設により、桜を守るための砦としての向日町苗圃が数百本の桜とともに消えゆくことを知った。弥吉は竹部に会いたくなった。

「岡本の駅で阪急を降り、弥吉は、なつかしい川沿いの道を歩いた。」

「鉄扉をあけて弥吉は「京の植木職の北ですねや」といった。」「竹部は柔和な老爺の貌をほほえまして、そこにのっそりと立っていた。」そして竹部は向日町の桜苗圃の件ではごね得と言われ、心を痛めている経緯を話し、20年以上土作りをしてきた桜苗圃のなくなることを憂えた。

 そのときすでに竹部は庄川の御母衣ダム建設に伴う樹齢400年以上のエドヒガン2本の移植を引き受けていた。電源開発公社芹崎哲之助の熱心な依頼に寄った。「-略-、 四百年も生きた老木、しかも桜の移植など聞いたことがない。  -略-」「竹部は今日七十五歳である。桜一途に生きてきて、すべての財産を投じて、桜の品種改良と日本古来の山桜の育生に身をけずる思いできた。その今までの努力はわかるけれども、老境に入って、前代未聞の老桜の移植をひきうけている。 -略- もし不成功に終わったら、竹部は今日までの桜にそそいだ人生を棒に振りはしないか。-略- 弥吉はそう思った。」「松や桜は移植に弱い」

 しかし、竹部は辛苦の末、この老桜2本の移植に成功した。

「湖水は両側の山影をうかべ、ちりめん皺をたてて鏡のように凪いでいた。二本の桜は、新しい枝を張って芽ぶいた若葉のあいまからうす桃色の美しい花をのぞかせて、春風にゆれていた。」

 弥吉の息子、槇男は高校を終え、音楽家になりたい夢を抱きながら、弥吉の後を継いだ。

 昭和38年5月、鶴ヶ岡の弥吉の父が死んだ。

「若い頃は宮大工としてよく働いた父だが、いまの義母と一しょになってから、働かなくなり、戦後は、まったくののらくらで、義母と長男が田を作り、生活を支えてきた。弥吉の母を追いだしたあたりから、父の性格に暗い墨が入ったようである。生涯、父は弥吉に母を捨てた理由をいわず、仏頂面を押しとおして、死んだのであった。」弥吉も実母を訪ねていく勇気はなかった。

 気持ちは複雑だった。弥吉は実母を恨んでいなかった。「実母の姿は憧れの中で生々としている」「弥吉の思い出の中では、母は美しくて、それでいて、どことなく、背姿が淋しかった。」

 昭和39年10月12日、弥吉は死んだ。死ぬ前に「お前らにいうとく。わしが死んだら、海津の清水の墓に埋めてくれ。寺に頼んでくれ。あすこの桜は立派な八重やった。-略- 」と桜の木の下で眠ることを頼んで死んだ。享年48歳、膵臓癌だった。

「-略- わたしは、まあ、好きやから、今日まで桜、桜というて生きてきましたけど、北さんが、なぜこんなに桜がすきやったか……そのわけを聞かずじまいに終わりました」と謎を投げかける竹部であった。

 そして参列者みんなで見上げる桜は?

「墓地の大桜が、朱の山を背に黒々と浮きあがる気がした。」

 主人公について

1)主人公の共通性

 水上文学の主人公は、共通のところが多い。『雁の寺』では主人公の小僧、慈念は「頭が大きく、躯が小さく、片輪のようにいびつに見え」「ひっこんだ女、白眼をむいたあの眼つき。誰にも好かれないような風貌」「ひどい奥眼」「奥眼をきらりと光らせて」「軍艦あたま」などと表現されている。『越前竹人形』では主人公氏家喜助は「片輪のような小男だ」「ひっこんだ眼、とび出た頭、大きな耳。浅黒い肌。子供のように小さいが太い指。躯全体がかもし出す雰囲気は異様である」「ひっこんだ眼が鋭く光っているのも」と。『五番町夕霧楼』では主人公櫟田正順は、イガ栗頭でやはり後頭部が飛び出し、ひどいどもりのため、無口でつきあいにくい、とされている。

 また『櫻守』では主人公北弥吉は「背丈は五尺そこそこのチビで、顔は小造りで鼻が低く、陰気な感じだ。その顔に反比例して、生椎茸みたいな、大きな耳を持つ弥吉」「背丈が足りないというだけの理由で丙種になり、つまり国民兵役に編入された」とまた現れた。

 水上文学は主な主人公の共通する表情や姿形から何を言おうとしているのだろうか。なぜ、そうでなければならないのだろうか。それは簡単に答えが出ない。それゆえに作者は繰り返しその答えを追求した結果が、彼の作品群の中で一貫して、屈曲した反抗者、ひねくれ者を歩き続けさせ、生き続けさせている気がする。その意味で水上勉と彼が作りだした『雁の寺』の慈念を始め多くの登場人物たちがどこか私たちの様子を密かに窺っているかもしれない。故郷、若狭青葉山の樹海の暗黒や幽気と、山が美しく海に没する夕景にイメージされる、美しさと恐ろしさを兼ね備えた若狭の得体の知れない風土。その貧困の風土を生きるために、あるいは『霧と影』の主人公のようにそこから逃亡するために、殺戮や情欲や官能や厳しい自然、そしてときには主人公と同じ重みで「風景」が絡み合い、渦巻き、その正体を暴き出そうと水上文学は人間の宿命や業に迫る。風景とはランドスケープの世界では「我々を取り巻くすべてのもの」と定義している。人間、大地、宇宙、景観、自然、環境、多様な動植物、文化、慣習、風習、伝統、態度などすべてが含まれ、織りなされて構成されていると考えているが、水上文学は一つの風景論とも言えよう。そしてさらに風土論に近づきつつあるという気がする。

 景観は10年、風景は100年、風土は1000年を経て、そこに住む人々とその子孫の生活や宿った怨念や思いと自然が混沌として混じり合うことによって培われる。

2)薄幸の女

 水上文学の作品群には、うちに芯の強さを秘めているが、自分の運命を受け入れてしまう人間の業の深さを背負った薄幸の女が登場する。『越前竹人形』の玉枝、『雁の寺』の里子、『湖北の女』の浅子、『おしん』のおしん、『越後つついし親不知』のおしん、『五番町夕霧楼』の夕子、『はなれ瞽女おりん』のおりん、そして、『櫻守』の弥吉の母、田所ちい等。  

 作者は実生活でも年上の女との同棲や二度の結婚など、憧れの女? を求めて遍歴する。それは作品の中で、女性というより、どちらかというと母に対するような美しい憧れに似た思いが反映されていると思う。

3)母への思慕

 母に対する美しい憧れに似た思いを裏付けるものとして、水上文学の根底に母への限りない思慕が隠されているように思う。水上勉はまだ母に甘えたい幼さが残っている10才のとき、人減らしのように京都の寺に小僧に出され、淋しい思いをした。それ故に作者の心底には、消すことのできない母への憧れと深い思慕があるように思える。『雁の寺』の慈念には作者を重ね、『越前竹人形』の氏家喜助は三歳の時、死に別れたとしてつらい母への思慕を絶っている。『櫻守』では祖父とのただならぬ関係を問われたのか、理由ははっきり語られることなく、読者へは暗示にとどめ、離縁されて在所に帰った母への限りない思慕が随所に出てくる。

4)作者の視点→北弥吉の視点 

 『櫻守』新潮文庫の解説で福田宏年氏は、「しかし、(水上勉は)『櫻守』という小説を書くに当って、桜学者(野元は竹部あるいはモデルの笹部氏が学者でないことを自ら強調し、学者を公然と非難していることから、敢えて“桜研究家”と呼びたい)の竹部庸太郎を敢えて主人公とせずに、竹部に教えられながら、竹部の感化を受けて桜の保護育成に目覚めて行った一人の庭師を主人公に選んだところに、水上勉の水上勉たる所以がある。つまり、竹部の桜に寄せる情熱には敬意を払いながらも、然るべき学識を以て、学問的、組織的に桜の育成につとめる竹部は、水上勉の感性には究極のところで馴染まないものがあったのだろう。竹部の学問的ともいうべき情熱を、一介の庭師の姿を借りて、土着的、感性的なものに移し替えたところに、水上勉の本領があると言うことである。」といっている。そういう見方も成り立つと思うが、一般的小説の書き方からいっても低い視点から書く方が視野も広がり、かつ深みが出て、読み手は受け入れやすい。

 水上勉はなぜ弥吉の視点で書いたか? 前述した1)主人公の共通性、2)薄幸の女、3)母へ思慕のうち、特に1)の理由から水上勉は決して笹部新太郎を主人公にしなかったであろうことは明白であろう。

4. 作品のテーマ

 作者の郷土に近い丹波の山奥の風土に根源を置きながら、大阪の資産家の次男、桜にすべての私財と情熱をささげ、日本古来の山桜種の保存と育成に人生をかけた実在の人物笹部新太郎をモデルに、その業績を同じく桜に情熱を注ぐ一介の庭師北弥吉の眼を通して描いた。そして究極のテーマは桜に表象される失なわれゆく日本の美に対する限りない哀惜であろうが、私にはまた失われゆく日本の風土への警鐘のように思えてならない。また水上文学が常に探求してやまない「人間の業とは何か?」がテーマではないだろうか。

5. 作品のサブモチーフ

 『櫻守』は一見、桜研究家笹部氏をモデルに彼の稀有の業績だけを書いているように見えるかもしれないが、この小文の2.『櫻守』の梗概<あらすじ>の冒頭の引用文に水上文学が求め続けるテーマがこの小説のサブテーマとして何気なく示されており、「人間の業」とは何かを問い続けている。『櫻守』では、ラストを含めて全編の7箇所でこのサブテーマを私たちに投げかける。私は弥吉と園の「初夜」及びその関連記述もサブテーマの問いかけであると思っている。

 <インタネットによる>

2017.07.20


36
『ルーヴルの戦い』(徳間書店)(昭和年四十八年二月十五日発行)

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 ルーヴルの戦い
   ――フランス美術はいかにしてナチスの手から守られたかーー

 この本の表題は、この本の内容を見事に表している。以下に訳者のあとがきを紹介する。

 昨年の四月、ニューヨークのマジソン・アベニューにある小さな画廊ラ・ボエティで<退廃美術展>が開かれた。もちろん、この<退廃>は、一九三七年ミュンヘンで開かれたナチの同名の美術展にちなんで名づけたもので、ラ・ボエティには<退廃美術展>の当時のカタログのファクシミリ版まで展示された。このナチの<退廃美術展>が、その後ヨーロッパ全土から貴重な文化財を略奪し、文化の恐るべき破壊者に変貌するナチス・ドイツの皮切りとなったことは、本書の指摘するとおりだが、「表現の自由」を尊重することがいかに大きく文化を破壊した人類を苦しめることになるか、本書からとくと読み取って頂きたい。

 ラ・ボエティで展示された作品は、もちろん一九三七年のそれではない。<退廃>美術品はその当時、ナチの手で約四〇〇〇点も焼かれ、めぼしい傑作はほとんど失われた。その中には、今世紀初頭ドイツでおこった前衛運動として知られる表現派の秀作がいちばん多く、ゴッホ、ピカソ、シャガールなどの名作も含まれていた。ナチが掲げる<退廃美術展>は、ユダヤ人の手になるものをはじめとして、反戦的なもの、社会主義的主題のもの、醜い人間像、表現主義的なもの、アフリカ芸術、抽象画など、つまり今世紀ヨーロッパでおこったあらゆる革新運動を含んでいた。にもかかわらず、ラ・ボエティには、キルヒナ―の≪ゲルダT≫や、ノルデの≪アフリカ人のいる静物≫などの傑作が展示された。では、どうしてそれらが残ったかというと、ナチはリンツの総統美術館の資金として一九三七年ルッツェルンで国際オークションを開き、これらの<退廃>美術を売ったからで、第三帝国がかなりの資金稼ぎをした半面、救われた傑作もかなりあったわけである。

 ナチの<退廃美術展>は、彼らのいわゆる<宣伝工作>(プロパガンダ)には役立ったかもしれないが、それを宣伝としてではなく純粋に芸術として見る人びとっも多く、その意味では逆効果になったのではないかと考える人もいよう。とすれば、ヒトラ―はいたずらに彼らの作品を宣伝してやっただけのことで、おかしいではないかという疑問がおこるかもしれない。

 それに対しては、次のように考えられる。若い頃、美術学校の入学試験に何度も落第したヒトラ―は、自分を受け入れてくれぬ美術業界一般を<堕落>と極めつけることによって、はじめて一矢を報いると考えたのだ、と。

 それはともかく、ヒトラーの芸術観は、著者マティラ。サイモン女史が指摘するように、センチメンタルで病的なものだった。彼が規範とするものはすべてギリシャ的なものンいあったが、当時の軍需相アルベルト・シューベルの『ナチス狂気の内幕』によると、ヒトラーはある日、一枚の美しい女性水着選手の写真を見て、陶酔的な瞑想に耽ったという。「なんというすばらしい肉体が今日でもあるのだ。二〇世紀になってはじめて青年は、スポーツによってふたたびヘレニズムの理想に近づいている」

 ヒトラーはそういったそうだが、彼の肉体賛美はポルノ的と無関係ではない。本書にもあるように、彼の美術品を収蔵したアルト・アウスゼの塩坑からは、ブーシェの描いたみだらな彩画や十八世紀のポルノ本が大量に出てきたのである。

 戦時中、米政府の秘密機関OSSの依頼で、ヒトラーの精神分析にあたったW・Cランガー博士は、極秘扱いを解かれた自己の膨大な資料をもとに、最近 “Mind of Adolf Hitler” (『ヒトラーの精神状態』)を著したが、博士によるとヒトラーは、かなり重症な二重性格の持主だった。非常にソフトで感傷的、飼っていたカナリヤが死んだといっては泣き、優柔不断な面が多かったが、それが一転すると今度は親友を含めた数百人の虐殺を平然と命令する。ヒトラーの中には、つねにこの二重の性格が生きていて、強さはこの弱い性格の裏返しの表現だった。しかし特異な点は、彼の場合、普通のジキル=ハイド型と違って、この二つの性格を自分の意志で使い分けたことだ。同居人を自由に、<涙>の場合と<残酷>な場合とに使い分けることは容易ならぬことだが、ヒトラーにはそれができた。こういうところに精神的な異常さが認められる。

 しかし、私には、どうやらヒトラーの本質は女性的な性格ではなかったかと思われる。体質的にも弱々しく、若い頃に芸術家を志して失敗したことや、祖父がユダヤ人でなかったかという苦悩などでつねに悩まされていたからこそ、逆にそれが優性民族を唱える人種偏見になったり、反ユダヤ主義となって現れるたのであって、強さの誇示はやはり弱さの隠蔽でしかなかったようだ。

 博士はまた、ヒトラーがマゾヒストで、女性に不自然なポーズをとらせてスケッチしたり、エロ小説お愛読した、というが、この点は彼の美術に対する態度と符合する。女性に対しては侮蔑しか感じず、不潔で醜い存在と見た彼は、ユダヤ人もセックスの醜き、不健全さの象徴だった。そしてマゾヒストであったからこそ、逆に<化身>であるユダヤ人が、苦しみ、さいなまされることに<代償的な喜び>を見出したのだ。彼がオットー・ディスクスの<醜さを描いた>絵を<退廃美術>と極めつけのも、そこに自分自身の弱さを指摘されたからに他ならない。

 なお、ヒトラー研究家のE・ハンフレシュタンゲルによると、ヒトラーはウィーンの浮浪者時代、ポルノ絵を売って生活を立てていたそうで、売った相手は彼が大嫌いなはずのユダヤ人だった。そしてそれらの絵は、考えられないようなラーゲや、細密画みたいにリアルに描いた局部だったという。そうした絵が残っていないのでなんとも確証はないが、それもハンフレシュタンゲルによると、ヒトラーがかなり有名になった頃、莫大な資金を使ってコレクターから買い戻し、一枚残らず焼き払ったからだという。ヒトラーが表現主義を嫌い、女性を近づけず、ユダヤ人を迫害したのも、すべて彼の否定であったと考えると、彼の図式がうまく説明できるようだ。

 こうして彼は、自分をうけいれなかった美術界全体に復讐すべく、史上かつてない組織的計画的な略奪作戦を企てるわけだが、本書で生彩のある部分は、むしろ発見と返還にあたる関係者の努力ンお描写だろう。そして、確かに大量の文化財が戦火で失われたに違いないが、かなりの数の名作が依然として行方不明で、どこかの個人の屋根裏にでも隠されているかも知れぬと考えられることは、いたく興味をひくところだ

 さて、筆者のマティラ・サイモン女史は、もと国際版画交換協会の欧州部長であり、ヨーロッパでの美術展開催にコンサルタントをつとめ、フランスに友人と共同で画廊を経営したこともある米人。著書も多く、“Shorewood Art Reference Guide” のほか、多数のフランス文献を英語に翻訳して紹介している。本書の執筆に際して、彼女は多数のアメリカ人、ドイツ人、フランス人の関係者とインタビューをし、綿密な調査を重ねた。<保護救済委員会>のなみなみならぬ熱意もさることながら、ルーヴルの館員たちや MFA&A のメンバーたちの想像を絶する労苦を再現して記録にとどめようとした彼女の楊威ならぬ努力も、大いに賞賛すべきものがあろう。

 なお本書の翻訳には、畏友梛川善一氏に負うところが大きい。心から感謝を申し上げたい。また、絶えず激励叱咤された徳間書店編集部の後押しがなかったら、はたして本書が世に出たかどうかと、今にして思うのである。慎んでお礼を申し上げたい。

  一九七三年一月

   関 口 英 男
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★この本の表紙カバー絵。拡大した写真を見る。それは、ハーケンクロイツに取り込まれようとした、ルーヴル美術館所有の数々の美術品。例えば、「ミロのヴィーナス」であり、「モナ・リザ」などなどである。

 ハーケンクロイツ(鉤十字)といえば、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツのシンボルマークであった。第二次大戦中におけるユダヤ人の大量虐殺で有名だ。

2017.07.27

37
『アンネの日記』(文藝春秋)(1970年12年15日新訳・141版)

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 アンネの日記 格子なき牢獄から

 アンネフランクのこと

 アンネ・フランクとその家族は、もとドイツに住んでいたが、ナチスによる「ユダヤ人迫害」に倒れたアンネ・フランクは、1929年に、ドイツのかなり裕福なユダヤ人一家に生まれた。その後ナチスの手を逃れてオランダ移住し、そこでしばらく平和な生活を営んでいた。アンネの父親は商売を手広くやり、アンネと姉のマルゴットは学校に通っていた。

ところが、第二次大戦の勃発によりオランダはドイツに占領され、ここでもユダヤ人なるがために、ふたたび逃げ出さねばならなかった。しかし行くところもなかったので、アムステルダムに居残り、プリンセン堀という運河に面した事務所用の古い建物の一角に隠れた、その時アンネは十三だった。戦争の終結を祈りながら2年にも渡って窮屈な生活を耐え忍んだが、彼女たちが待ち望んでいた「解放の時」はやって来なかった。それよりも一歩早くナチスの秘密警察が現われ、アンネ一家はアウシュビッツ収容所に送られた最後のユダヤ人として、ポーランドへ連行されたのである。

anne10.1.JPG  ドイツの秘密警察は、アンネ一家を隠れ家から連れ去る際、一家が持っていた金目のものをすべて奪い尽くした。残ったのは、アンネの日記帳ただひとつ。そしてそれを再び目にしたのは、アンネの父オットー・フランクだけだった。

〈踊り場の右手のドアが、わたしたちの隠れ家へ通ずる入口です。この灰色の質素なドアの内側に、こんなにたくさんの部屋が隠されていようとは、だれだって想像しないでしょう。ドアの前に段がひとつあって、それを上がると、もう隠れ家のなかです。〉

anne201.JPG  アンネは13歳の誕生祝いにもらった日記帳に、「キティ」という名をつけた。日記は、このキティという架空の友達にあてた書簡形式で綴られている。ここには隠れ家での不安な毎日や共に暮らす人々のこと、将来への夢などが素直に吐露されている。

 1942年、アンネ一家はアムスデルダムの中心部にある、プリンセン運河沿いの隠れ家に移り住んだ。彼女たちの隠れ家は、運河に面したオランダ家屋の裏側にあった。ここはもともとオットーが経営していた会社の社屋の「別館」で、表と同じ四階建ての大きな建物だった。隠れ家と言っても市街地にあり、しかもこれほど大きい建物が2年間もナチスの目を逃れることができたのは、運河に面したオランダ家屋が持つ、特殊な構造のおかげだった。

 オランダが国をあげて世界規模の海外貿易を展開していた16〜17世紀、アムステルダムの商人たちは、貨物の上げ下ろしを簡便化するために、運河沿いに家や倉庫を建てた。だが遠距離輸送のほとんどを海路に頼っていた当時、運河沿いの土地は価格が高騰していたため、人々は運河側に必要最小限の間口だけを設けた細長い家を作った。とは言え、細長い家々が運河沿いにひしめきあっていたのでは室内に全く日が射さなくなってしまうため、彼らは建物を半分に分け、「表の家」と「裏の家」を階段でつなぐ方式を採用したのである。

 ドイツの秘密警察は、こうしたオランダ家屋の構造について、なにも知らなかった。オットーはそこに目をつけて、三階の踊り場から「裏の家」へ通じる入口を蝶番つきの本棚で偽装し、「裏の家」の3・4階部分を一家の隠れ家としたのである。

〈ドアを入ると、すぐ向かい側に、勾配の急な階段があります。階段の左手の狭い通路を入ると、フランク家の寝室兼居間、その隣の小さな部屋がフランク家の二令嬢の寝室兼勉強部屋になります。ドアを入ってすぐ右手に、洗濯場と便所のある窓のない部屋があります。わたしたち二人の部屋には、この部屋へ通じるドアがあります。また階段をのぼってドアを開けると、運河に面したこんな古い家に、こんな大きな明るい部屋があるのかと驚くほどの部屋に出ます。この部屋は実験室に使われていたおかげで、ガス・ストーブがついており、洗濯場もあります。〉

 アンネ一家を支援したのは、オットーの会社で働くスタッフたちだった。ミープをはじめとする支援者たちは、アンネ一家のために、少ない配給券を分け合って食料を集めた。その献身的な働きにより、アンネ一家は飢えることこそなかったが、窓という窓をすべて分厚いレースのカーテンで覆い、あらゆる物音に怯えて暮らすストレスは、想像を絶するものだっただろう。「裏の家」の1・2階部分で社員が働いているため、日中はトイレにも行けず、咳ひとつにも音を殺すように気を使わなければならなかったのである。

 それでも、社員が帰宅する夜間や土曜の午後、日曜日だけは、アンネ一家は社屋のなかを自由に歩き回ることができた。本棚で偽装した秘密のドアから抜け出て、2階の事務室などでつかのまの休息を取っていたのである。だが、結局はそれが命取りになった。社員の一人が、「休日空けの会社に残っている人の気配」に気づき、ユダヤ人が社屋のどこかにひそんでいると疑いを持つようになって、ドイツの秘密警察に密告したのである。

 二年という月日は、決して短いものではない。細心の注意を払っているつもりでも、アンネ一家を含め8人もの人々が密室で始終鼻をつき合わせていては、そのあまりのストレスに、注意力が散漫になってしまうのも無理はなかった。

〈わたしの最大の希望がジャーナリストになり、それから有名な作家になることだということは、あなたもずっと前から知っていますね。この野心が実現するかどうかは、もちろんまだわかりませんが、すでに心のなかで、題材を考えています。ともかく、戦争がすんだら「隠れ家」と題する本をあらわしたいと思っています。成功するかどうかわかりませんが、日記が非常な助けとなるでしょう。〉

   アンネは唯一のストレス発散の場である日記帳に、共に暮らす人々や自分を取り巻く状況について、なんでも率直に書きつけた。恋の芽生えからその行方までも、正直に思った通りを書き、精神的な自立を果たしていく。格子なき牢獄のなか、恐怖に怯える生活をしながらも、アンネは決して未来への希望を捨てなかった。大人たちが起こす戦争と人種差別に激しい怒りを表す一方で、それでも人間の根本は「善」なのだと信じる気持ちを忘れなかった。この精神的なたくましさが、最後の最後まで、アンネを力強く支えていったのだろう。

〈ああ、キティ、今日は素晴らしいお天気です。外出できたら、どんなに嬉しいでしょう!〉

 だが、思春期らしい背伸びをした言葉をどれだけ並べてみても、アンネはふとした瞬間瞬間に、どこにでもいるただの子供の顔をのぞかせる。それがたまらなくいじらしい。

 人と話したい、自由になりたい、友達がほしい、一人になりたい――アンネは声にできない魂の叫びを、ひたすらペンに込めた。だが彼女の日記は、1944年の8月1日付けで唐突に終わってしまう。ついに、恐れていた日がやってきたのだ。アンネ一家は日記が終わった3日後の8月4日、ドイツの秘密警察の手によって強制収容所へ送られた。そしてアンネは収容所でチフスにかかり、15歳の短い生涯を閉じるのである。

 アンネが書き残した日記は、現在50を超える言語に翻訳され、全世界でのべ2000万部以上も出版されている。こうした、どの書店や図書館にも必ず置いてあるような名著は、名著であるがゆえになんとなく読んだつもりになり、実際には手に取らないまま終わってしまうことがある。私にとっては、『アンネの日記』がそうだった。だが『アンネの日記』は、テロ事件が相次ぐいまだからこそ読みたいし、読んでもらいたい1冊だと思う。

 アンネ一家の隠れ家は、現在もアンネ・フランク財団によって保存され、世界中から多くの人々が訪れている。戦争と人種差別に対する最も真摯な「起訴状」である彼女の日記と隠れ家は、私たちの魂に、平和への願いをしっかりと刻みなおしてくれることだろう。

 Web Site による。

★私は、この本を1971.03.14買っていた。アンネはほぼ同世代である。

2017.07.28


 アンネ・フランクを裏切ったのはだれ? 元FBI職員ら調査チームが真相究明へ

 最新のデータ分析を駆使し、彼女がナチスに拘束されるまでを再現します。2017年10月04日 17時21分 JST | 更新 1時間前

 M田理央(Rio Hamada) ハフポスト日本版ニュースエディター。

「アンネの日記」を書いた少女アンネ・フランク 

ナチス・ドイツに占領されたオランダのアムステルダムで隠れ家にいたアンネ・フランクは、なぜ見つかってしまったのか--。米連邦捜査局(FBI)の元捜査員が率いるチームがこのほど、歴史の経緯について調査に乗り出した。

公式サイトによると、チームを率いるのは、FBIでコロンビアの麻薬犯罪組織を追っていたビンス・パンコーク氏。犯罪学の専門家20人が、最新のデータ分析を駆使し、真相の解明を目指す。

当時10代だったドイツ人少女のアンネは、父オットー・フランクの職場があったアムステルダム市内の建物の隠し部屋に住んでいた。他のユダヤ人家族と一緒に2年以上隠れ住み、そこでの出来事を日記に書き続けた。

1944年8月、ドイツの秘密国家警察ゲシュタポに見つかり、ナチス強制収容所に送還。そこでの生活に耐え抜くことができず、わずか15歳で命を落とした。生き残った父オットーが1947年、アンネの日記を出版した。

オランダ警察は戦後、父オットーの依頼を受けて、彼らを裏切った人物を特定する捜査をしたが、結論は出なかった。

CNNによると、アムステルダムにある博物館「アンネ・フランクの家」が2016年12月、アンネは裏切られたのではなく、偶然見つかってしまった可能性を示唆する研究結果を公表。

これに対してパンコーク氏は、第2次大戦後にアメリカに返送され、ここ最近機密解除された文書から、新たな情報を発見したと訴えている。

ガーディアンによると、調査チームはアンネ一家が拘束された日を再現。FBIの行動科学班にいたメンバーら知見を生かし、目撃者の証言やインタビュー内容を役者を使って再現する。これまで裏切りを指摘された「容疑者」30人全員について、再調査するという。

アンネの日記や、当時の記録からの情報を集め、専用ソフトウェアでデータをスキャンして容疑者を絞り込む。

この調査は、フランク一家の逮捕から75年となる2019年8月4日までに、真相を究明を目指す。

2017.10.08 追加。


Anne Frank:The Diary of a Young Girl 発行所 英宝社

  Sunday, 14 June, 1942

 On Friday, June 12th、I woke up at six o'clock and no wonder; it as birthday. But of course I had to control my curiosity until a quarter to seven. Then I could bear it no longer, and went to the dining room, where I received a warm welcome from Moortje(cat).

 Soon after seven I went to Mummy and Daddy and then to the sitting room to undo my presents. The first to greet me was you, possibly the nicest of all. Then on the table there was a bunch of roses, a plant, and some peonies, and more arrived during the day.

  I got masses of things from Mummy and Daddy, and was thoroughly spoiled by various friends. Among other things I was given Camera Obscura, a party game, lots of sweets, chocolates, a puzzle, a broch, Tales and Legends of the Netherlands by Joseph Cohen, Daisy’s Mountain Holiday (terrific book), and some money. Now I can buy The Myths of Greece and Rome−grand!

 Then Lies called for me and we went to school. During recess I treated everyone to sweet biscuits, and then we had to go back to our lessons.

 Now I must stop. Bye-bye, we’re going to great pals!

 Wednesday, 24 June, 1942

Dear Kitty,

 It is boiling hot, we are all positively melting, and in this heat. I have to walk everywhere. Now I can fully appreciate how nice a tram is ; but that is a forbidden luxury for Jews―shank’s mare is good enough for us. I had to visit the dentist in the Jan Luykenstraat in the lunch hour yesterday. It is a long way from our school in the Stadstimmertuinen ; I nearly fell asleep in school that afternoon. Luckily, the dentist’s assistant was very kind and gave me a drink−she’s a good sort.

                 Yours, Anne

 Sunday morning, 5 July, 1942

Dear Kitty,

  When we walked across our little square together a few days ago, Daddy began to talk us going to hide. I asked him why on earth he was beginning to talk of that already. “Yes, Anne,” he said, “You know that we have been taking food, clothes, furniture to other people for more than a year now. We don’t want our belongings to be seized by Germans, but we certainly don’t want to fall into their clutches ourselves. So we shall disappear of our own accord and not wait until they come and fetch us.”

 “But, Daddy, when would it be ?” He spoke so seriously that I grew very anxious.

 “Don’t you worry about it, we shall arrange everything. Make the most of your carefree young life while you can.” That was all. Oh, many the fulfillment of those somber words remain far distant yet!

                  Yours, Anne

*お父さんが隠れ家や移る話をした。その話に驚く。

Thursday, 9 July, 1942

Dear Kitty,

 So we walked in the pouring rain, Daddy, Mummy, and I, each with a school satchel and shopping bag filled to the brim with all kinds of things thrown together anyhow.

 We got sympathetic looks from people on their way to work. You could see by their faces how sorry they ware they couldn’t offer us a lift ; the gaudy yellow star spoke for itself.

 Only when we are on the road did Mummy and Daddy begin to tell me bits and pieces about the plan. For months as many of our goods and chattels and necessities of life as possible had been sent away ad they were sufficiently ready for us to have gone into hiding of our own accord on July 16. The plan had had to speeded up ten days because of the call-up, so our quarters would not be so well organized, but we had to make the best of it. The hiding place itself would be in the building where Daddy has his office. It will be hard for outsiders to understand, but I shall explain that latter on. Daddy didn’t many people working for him : Mr. Kraler, Koohuis, Miep, and Elli Vossen, a twenty-three-year-old typist who all knew of our arrival.

 Mr. Vossen, Elli’s father, and two boys worked in the warehouse ; they had not been told.

                                  Yours, Anne

*新住居

2018.08.14 追加。


38
『漢字の楽しみ方』(岩波書店)辰濃和男(1998年3月16日 第1刷発行)

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――その強さ、おもしろさ

 雑という字は、実のところ、あまり歓迎されません。

 特定観光地の混雑、税支払い手続きの煩雑さ、片づけても片づけてもふくらんでゆく人生の雑事、乱雑の極なるわが机の上、手紙を書くときのわが粗雑な字、加えて、机の前での果てしない雑念の数々、更に加えて、雑駁そのもののわが思考、みな、たちどころに消えてもらいたいことばかりです。

 政治家はジャーナリズムに叩かれると、よく「あれはたんなる雑音だよ。雑音、雑音」といって強がるヘキがありますし、さらに非難が続けば一転、「悪口雑言をhおざくな」と声を荒げることになります。

 気の毒にも、悪役の名をかぶせられることが多いのですが、にもかかわらず、雑のつく言葉には捨てがたいものがあります。

 雑木林

 雑貨屋

 雑記帳

 みな、なつかしい味があります。

 雑木林には、橡(とち)、朴の木、小楢(こなら)、櫟(くぬぎ)、四手(しで)などの落葉樹があるし、椎や樫などの照葉樹も混じってまことに多彩です。

 山国の紅葉がはなやぐのは、色の複雑さ、多様さにあります。雑木の色の多様さは生態系の豊かさを示すもので、そのゆたかさこそが縄文文化を支えていたのでしょう。

 雑貨屋さんもいいですね。ほの暗い店に、ブリキのバケツ、鼠捕りの小さな檻、シャベル、洗濯バサミ、麻縄、竹ボウキ、蚊取り線香なんかが雑然と並んでいる小さな店が昔は必ず近所にありました。いまでも、小さな町を歩いていて、そういう雑貨屋さんが目に入ると、買うつもりもないのに店に入りこんでなかをうろつくヘキが私にはあります。雑然とした店内にいるとなぜか落ち着くのは、手ごろな値段のものばかりだからでしょう。

 雑記帳もいい。雑記帳のたのしさは、勝手さまざまなことを書き散らす気楽さにあります。こころに雑記帳があるということは、こころに「書きとめる」ゆとりがある証拠でしょう。ゆとりのない時は、雑記帳は空白になってしまう。

 ジャーナリストにとって 大切なのは、雑談と雑踏です、なんてえらそうにいいますが、私が勝手にそう信じているだけの話で、同業のみなさんに押しつけるつもりはありません。ありませんが、世間を知るのに大切なのは雑談で、時代の肌で知るのに大切なのは雑踏だというのは、いわば私の経験則なのです。

 実際、なんということのないバカバナシから記事を書くきっかけをつかめたことが何度もありました。いや、直接、記事とはかかわりなくとも、生きのいい雑談にはそれこそ、掘ったばかりのジャガイモやニンジンの新鮮さがあります。

 雑踏についていえば、自分を記者として育ててくれたのは、サツ回りの時の新宿の雑踏であり、社会部遊軍時代の有楽町界隈の雑踏であり、ニューヨーク特派員時代の五番街の雑踏だったと思っています。タイムススクェアの、地下鉄の湯気が噴き出ているあたりの深夜の雑踏もよかった。安売りの店、ハンバーガーの店、目の前でオレンジをしぼってジュースを作ってくれる店、小銭をたかる革ジャンパーの少年、といったタイムス前の猥雑極まる風景はいま思い返しても、こころがざわざわとしてきます。

 デジタルの時計がはやりだしたころから、都市は次第に猥雑さを失い、人びとは雑談の時間を失い、それぞれがそれぞれのコンピューターと向き合う時間がふえてきたように思います。パソコンによる新しい形の雑談というものもあるのでしょうが、私にはよくわからない。

 新聞社には「雑感」とか「雑ぽう報」とかいう言葉があります。

 大事件がある。事件の本筋を書く本記とは別に、雑感を書く記者が現場に行きます。たいていは遊軍記者です。遊軍というのは、まあ、社会部のなかンおなんでも屋と思ってください。その遊軍記者が事件の現場でみたことをなまなましく書く。抜いて抜かれたも大事ですが、雑感のよしあしが新聞の勝負をきめるなんていわれたものですが、今はどうでしょう。

 雑報も大事にされました。どこどこでどれだけの火事があったとか、交通事故や雪崩で死者がでたとか、そいう記事は、新聞社では雑報と呼ばれてきました。雑報こそが新聞の命だ、燃えさかる火事の現場へ飛んで行ってまあまあの記事が書ければ一人前だぞ、たどとカケダシ時代に教えられ、一応は張り切って雑報を書き続けたものです。

 新聞記者になって初めて書いた雑報のことですか。

 恥ずかしながら「空き巣でオーバー一着と冬服一着が盗まれた」という一段記事でした。その次が「パチンコ玉四百二個を盗んだ男が逮捕された」という話で、いずれも四十数年前のごく小さな埼玉版の記事です。

 チンケといえばなんともチンケな記事ですが、新米記者に向かって「それでな、パチンコ玉の数は四〇二個」なんて数えてくれた浦和警察署の刑事課長さんの顔がなつかしい。カケダシのころに書いた雑報記事の一つ一つがいまだにこころに書きとめられているのは、それだけ思い入れがあったからでしょう。

 新聞でコラムを毎日書きはじめたころ、手元に届く投書の数に驚きました。

 はじめのうち酷評に傷tういていささかくさっているとき、生態学者の宮脇昭さんに会いました。投書の話をすると宮脇さんは「それはいいことでないじゃないですか」というのです。

参考:宮脇 昭は、日本の生態学者、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長、横浜国立大学名誉教授。 岡山県川上郡成羽町出身。広島文理科大学生物学科卒業。元国際生態学会会長。児童文学者の宮脇紀雄は兄。

 芝生には、さまざまな雑草がまじっている。まじっているのがむしろ健全な姿なのです。それをいやがって、虫眼鏡とピンセットで雑草を抜き取り、純粋な芝だけにしたらどうなるか。ひとたび虫害」が発生すれば、芝はたちまちやられてしまう、と宮脇さんはいいます。

 芝生の生態系は、雑草を含んではじめて安定している。雑草を抜き去ることはむしろ生態系を壊す。それと同じで、この世の中、異なる意見があるからこそ安定しているのではないですか。そんな宮脇流の慰めにおおいに慰められたことを覚えています。

 ちなみに、雑草という言葉を嫌う人がいますが、私はどちらかというと、この言葉にこもるたくましさにひかれます。

 雑という字には「まじわる」の意味があります。

 まじりあっているものは強い。強いだけではなくて、うまい。あれこれの雑炊や沖縄のチャンプル料理は、まじりあっているもののうまさです。

 まじんりあうことのよさを知っているからでしょう。ある有名なアメリカの研究所は、食堂のテーブルにメモ用紙入りの箱を置いています。異分野の研究者が昼食を取りながら雑談をする。人の話を聞いて、ふとひらめくものがあればメモ用紙を取出して走り書きをする。そのためにメモ用紙の箱があるんだという話を聞いたことがあります。「雑」の大切さを知ったメモ用紙です。

 サッカー愛好家の中条一雄さんは「サッカーのチームは雑多な個性がまじっているほうがいい」といっています。「粒ぞろい」はだめで「粒違い」がいい、というのです。

 チームにはお国振りがあります。

 イタリアはオペラの舞台に似て、とびっきりのスターがいる。アルゼンチンのチームはタンゴです。なぜか。タンゴには女をだますなにものかがある。アルゼンチンのサッカーは相手をだます高度の技術を持っている、というのです。

 お国振りはお国振りとして、一つ一つのチームを見ると、実に雑多な個性の選手がいりまじっていて、個性、体格、得意技の違うことが強みになっている。あまりに管理が行き届くと、選手が型にはまってだめになる、というのが中条さんの持論です。

 サッカーに限らず、優等生ばかりの集団、粒ぞろいの組織というのは、どうもうすきみ悪い。昨今は雑多なものよりも、型にはまったものをそろえることがよしとされる時代ですが、雑のおもしろさを忘れた世の中はあじけないと思えませんか。

 雑という字は私たちに真剣勝負を挑んでいるようにも思えます。雑誌も雑録も雑話も雑報も、いろいろなものがまじっているからこそおもしろい。

 おもしろいけれども、一歩間違えると、乱雑、粗雑、雑駁な仕事になってしまう。

 雑の強さ、おもしろさをいかに味方につけるか、そこが勝負どころでしょうか。P.1〜7

2018.01.04


――土の上にすわるふたりとは

 字にも「刷り込み」といものがあるようです。新聞記者になって、最初の赴任地が浦和支局でした。そこで、当時の内閣官房長官の選挙違反事件にぶっかりました。

 留置場で市会議員の自殺者が出るほどの事件で、かけだし記者としては、やや興奮ぎみで連日「連座制」という言葉を書きなぐった記憶があります。以後「座」あるいは「坐」にであうと、途端にいまわしい事態を思い出す、という一種の条件反射がうまれました。坐という文字に罪はないけれど、連座制がさまざまな記憶をよみがえらせるのです。

 ですから、今回の「坐」は、ここに登場する他の字に比べると、悪役性がそれほど強くないということを最初にいっておきます。

 坐という文字が好きになったのは、松原泰道老師の講話を聞いたときからです。あれはもう十五年以上も前のことでしょうか。

 「坐という字は土の上にふたりの人がすわっている状態です。このふたりは、自分と、その自分を見つめるもう一人の自分というようにもかんがえられます」

 そうか、そいう解釈もあったのかと思い、以後、私の脳裏には、連座の坐よりも坐禅の坐のほうが、大きな顔をして居座ることになりました。

   春灯にひとりの奈落ありて坐す

 野澤節子の句です。奈落というのは、この場合、地獄でしょうか。ひとりの地獄とは、いかなる地獄であるかのか。春灯のもとに静かに坐しながら、心のなかに修羅場をかかえたひとりの女人像が浮かび上がります。坐することではたして、地獄は遠のくのかどうかはわからない。が、とにかく坐っているうちにこころが少しはやわらいでくるかもしれない。そんなとりすがりたい思いがこの句から伝わってきます。

 ざぜんでは、山田無文師の次の言葉が私は好きです。

 「(坐禅とは)どっかり大地に坐りこんで、天地と我と一枚になる修行である」

 天地と一枚になる、というところがいい。坐って静かに考える。こころを澄ます。いつか、何も考えない赤子ような無心の境地に入る。土と共にあって土に化す。宇宙と一体になる。私にはまだまだ実感がありませんが、この言葉は刺激的です。

 坐禅の現場を見学させていただきたい、と岡山市・曹源寺の原田正道老師にお願いしました。訪ねたのは一九九五年の夏の盛りでした。

 昼飯どきでした。曹源寺には外国から来た雲水が多い、と聞いていたのですが、まずはその数に圧倒されました。飯台を囲むのは、大半が頭を丸めた作務衣姿の外国人です。女性も、頭を青々と剃っています。

 メキシコ人の青年がいる。アメリカから来た若い女性もいる。フランス人、イギリス人、デンマーク人、インド人、オーストラリア人、と多彩です。外国人の数は二十五人でした。昼食の献立てがトマトソースのスパゲッティというのがおもしろい。ほかに焼きなすと漬物がついて和洋折衷の精進料理でした。原田老師がいいました。

 「生きるか死ぬか、ぎりぎりのところでここに来ているいる人が多いのです。みんな何かを発見しなくて来ています。真剣です」

 坐ることについて老師に尋ねました。
 「まず体を坐らせる。次に呼吸を坐らせる、そしてこころを坐らせる。はじめから心を調えようと思っても難しい。調えるというのは調和です。体がよき調和をもち、呼吸がよき調和をもち、呼吸がよき調和をもち、こころがよき調和をもつ。そして、体、呼吸、こころの調和は本来はひとつなのです」

 そうか、坐るとは調和なのか。上半身の力を抜いて、むりのない姿勢になると呼吸がのびのびしてくる。硬さがなくなる。下腹部に気持がおさまって来る。すると、こころの硬さもなくなる。老師の話を聞きながら、そういうものかと合点はしますが、坐禅は聞くことではない。することです。外国の人たちにまじって何日か坐りました。

 昼と夜の二回です。蚊の襲来と猛暑のなかで坐り続けました。顔から汗がしたたり落ち、借りた作務衣が汗にぬれて肌にへばりつきます。

 蚊と猛暑に悩みながら原田老師の言葉をかみしめます。「苦しみが深い場合や執着がある場合は、それを切り離す。要点は切ることです。切る勇気をもつことです」

 切る勇気を持ちたいと思っても、蚊は次々にあちこちに襲いかかり、猛暑は断ち切れそうもなく、雑念の海に溺れそうになる。

 それでもなんとか深い呼吸を繰り返しているうちにイラツキの波がおさまってくる。目の前に静かな湖面が現れる。水は澄んでいて、湖底の砂が見える。虫の声が遠くなり、顔や背を伝う汗がそれほど苦ではなくなります。外国人の雲水たちは黙々と坐り、さらに坐り、時どきは眠って」いると見受けられる人もいましたが、とにかく、若い人たちの厳しい修行を続けている姿を見て、たくさんの気をもらった気がしました。

 禅堂の先導者は、三十三歳のアメリカ人マーク・アルビンさんです。

 修行歴は七年半、四年前に出家し道祐になりました。通称は「ユウさん」です。私は、はるかに年上だけども、そんなことをいってはいられない。修行歴七年半に敬意を表して、ユウさんに教えを乞いました。

 夜遅く、ユウさんは「何千時間もやっていますが、まだへたくそです」といいながら、日本語で懇切に教えてくれました。

 「大切なことは、やっぱり、力抜くことですね。ゆったりと肩の力を抜く。呼吸は少しずつ長く吐くことが大切になります。目は閉じない。見るのではなくて、目をおく。墨絵見るみたいに、軽く、やさしく……」

 「大切なのは、自分がいい、自分が悪い、あれをあんまり考えないでください。みんなに荷物があります。心に肩に胸に腹に荷物がある。ああ、きょうは呼吸ができない、食べ過ぎだ、自分が悪い、と思ってばかりいると、坐禅にネガティブ・エモーションは入ってきます。逆に自分のこといつも正しいと思ってる人は荷物なくて楽だけど、意味のない坐禅をやってますから眠ってしまいます」

 「大切なのは深い願いがないといけないということです。坐禅するのは自分のためではない。衆生無辺誓願度(しゆじょうむへんせいがんど)といいますね。衆生を救う、人々の悩みを救うという気持が大切です。人のためという深い願いがないと、我見が強くなります。自我が邪魔すると苦しいですね」

 ユウさんの口からでる「衆生無辺誓願度」という言葉がひどく新鮮に響きました。

 翌日、もう二十四年も日本で修行しているアメリカ人女性のチーさんと話をしました。

 「私は若いころ、自分の人生のあれこれを自我のせいにしていることに気づいて、苦しみました。禅の本に答えを見つけ、日本で修行を始めました。坐っていると、自分が執着しているもの、とらわれているものに出会い、自分が裸になってゆくのを感じました。禅のおかげで、人生が百八十度変わりました」

   光あふるるまん中に坐る

 山頭火と親交のあった大山澄太の句です。曹源寺の坐禅では、衆生無辺誓願度の心境とはほど遠かったのですが、つまらないことにいつも心を波立てている己の後ろ姿がちょっぴり見えてきたのは収穫でした。

 もし、人間が生きるうえで大切な動詞を十あげよといわれれば、私は「歩く」「驚く」と共に「坐る」をあげます。

 とりわけ、山道を歩いていて、ふと腰を下ろし、土の上に坐るのが好きです。自分のからだが大地にじかにつながっているのだという感じがしてくる。

 「坐」はそんな思いを深めて」くれる字です。P.37〜43

 (1)山田無文ほか『坐禅のすすめ』禅文化研究所

2010.08.07


――「人間の愛すべき本質」

 愚図愚論愚挙愚劣愚意愚者の愚痴。そうです。今回は「愚」です。

 己の愚かしさを証明する体験は、自慢じゃないが(といいながら自慢しているわけですが)少なからずあります。妻とふたりでスイスの首都ベルンのホテルに泊まったときのことです。

 「静かな部屋を」と注文したのに、案内された部屋に入ると、騒音が聞こえてくる。ブルルルというくぐもった音がひっきりなしに聞こえてきます。「うるさいなあ」と案内係の青年にいうと「すぐなんとかします」と約束して消えました。が、一向にブルルルが消えない。ホテルのどこかで室内工事でもしているのか。

 フロントに電話をしました。 「騒音を早くなんとかしてください」。しばらくしてマネージャーが現れました。

 この髭のおじさんは私の不機嫌な視線をはねつけて部屋の中央に立ち、あちこちをねめまわしてから、おもむろに私のスーツケースに近づきました。

 「ここです。音の正体は」

 えっ、といってスーツケースを開けると、なんということか、髭剃り器がオンになっていて、勢いよく鳴り続けているではありませんか。スーツケースを部屋に置いたとたん、なにかのはずみで、髭剃り器のスイッチがオンになってしまったらしい。

 妻は、困惑しながらも笑いだし、私はひたすら恐縮し、犯人を当てた髭のマネジャーを手をさしのべ、握手をすると得意満面で引き上げました。以後、おっちょこちょいの東洋人にあきれながらも親しみをかんじたのか、滞在中は、私たちの顔をみれば笑いかけ、ずいぶん面倒をみてくれました。

 昔の話です。アメリカの旅で、ワシントンD・Cに寄りました。

 ホテルで寝るときに、持参の小型目覚まし時計を枕元に置きました。朝八時にブザーが鳴るようにセットしておいたのですね。

 時差の関係でしょう。こんこんと眠り続け、目覚めると朝の八時です。夢現のまま、また眠ってしまいました。次に目覚めたのは午前九時ごろです。大変だ、寝坊したと飛び起き、タクシーを頼んで朝日新聞のアメリカ総局へ行きました。

 「あ、まだこちらに?」

 総局の人たちがけげんな顔をしている。壁の時計がなぜか四時半を指している。午前四時半ということはありえない。午前四時半あのか? その途端にすべてがわかりました。寝るときに時計をさかさまに

 飛行場にかけつけました。置いて寝てしまったのだ、と。あるいは、寝ぼけまなこで時計を手にして、ブザーを止めてまた枕元に置く。そのとき逆さまに置いてしまったのかもしれない。試みに、二時半の時計をさかさまにしてみてください。八時に見えるでしょう。まだ午前八時だと思った時の時刻は、午後二時半だったのです。

 飛行場にかけつけました。

 それにしても、午後まで寝かせてくれたあのホテルはなんとおおらかなホテルなのか、などと感心しながらゲート内に入ろうとすると、「辰濃さーん」と呼ぶ声がする。総局特派員の一人が私のカメラをかかげて「忘れ物ですよっッ」と叫んでいる。総局を飛び出したとき、置き忘れてしまったのでした。感謝と別れの微笑もこわばったまま飛び立ちました(ここで説明を加えますと、私はかなり前から腕時計というものをしておりません。旅行のときだけ目覚まし時計を持参するのです)。

 わが愚行の数々を弁護し、あわせて「愚」に字を弁護するために、イギリスの随筆家チャールズ・ラムを持ち出すことにしましょう。「われ愚人を愛す」というラムの言葉を、私は福原林太郎さんの『イギリスのヒウマ―』という作品で知りました。

 ラムはせっせと愚人の例をあげます。

 たとえば、風来坊の詩人の話です。この人はラムの家を訪ねての帰りに、門の前の小川に落ちて気を失います。助け上げると、詩人は茫然としていますが、しきりに濡れた靴のことを気にしていい続けるのです。「日の当たるところに出しておくとひびが割れるから、けげへ乾かしてくれよ」

 福原さんは、書いています。「ラムは徹頭徹尾、愚かさというものにこそ人間の愛すべき本質があり、剃刀のように切れる人は、警戒すべきであるという信念に終始しています」

 剃刀のように切れる人、は私も敬遠したい。ふつうに話をしていてもピシピシ叱られているようで落ち着かないものです。お互いの愚かさを笑いあえるような人でないと、息がつまります。

 勝新太郎が元気だったころの話です。酔っぱらって家に帰って、玉緒」さんとおおげんかになる。玉緒が勝新の横面を殴る。恐ろしい女房の形相を見て、勝新がいう。「オイ、いい顔だ! その顔、忘れるな」。玉緒が思わず「はい」と返事をしちゃうところがおもしろい。舞台に使える顔、だと思ったのか、それとも勝新得意の「かわし」の技なのか。愚かしく、愛すべきからみあいです。劇作家の宇野信夫さんが書いていた話です。

 先々代の菊五郎は、夫婦げんかのときにだめだしをだした。「胸ぐらはこうとって、足の形はこうで」。おかみさんが「私は芝居をしているんじゃない。真剣なんです」といっても「頼むからいう通りのしてくれ。でないとさまにならねぇ」ときかなかった。

 役者馬鹿という言葉が生きていた時代です。

 沖縄市に住む嘉手刈林昌(か で りんしょう)さんに会ったとき、こんな話を聞いたことがあります。嘉手刈さんは、島うたの名人です。

 ある日、前歯が痛いので歯医者へ行ったら、医者が間違えて痛い歯の隣の、痛くないほうの歯を抜いてしまった。

 「もう面倒くさいから全部とれといって、前歯四本かな、抜いてしまって、翌日がレコードの吹き込みでね、血だらけのまま口に脱脂綿入れておいてたらよ、制作者が『あんたそんなしてできるかあ』というから『歯が歌すんかあ。歌ちゅんのは歯で歌うんじゃない、こころで歌うんだ』いうてね。どいうわけかことのきの録音がものすごく良くてね。それからはいつも、今度は歯あとって歌うかなあと思ってよ」

 酔っては米兵米兵とけんかをして半殺しのめにあう、といった愚行の多い人と聞いていましたが、「今度は歯あとって歌うかなあ」と笑う林昌さんを見て、ああ、ここにこそ愛すべき天才がいると思いました。

 禅の世界では愚は悟りを求めるこころにつながります。松原泰道老師は、若いころ、修行に出かけるときに盤竜老師から書画をいただいた。それには「其の智や及ぶべし、愚や及ぶ可からず」とあったそうです。「利口にはなれてもバカになるのは骨が折れる。その尊いバカになってこい」という餞(はなむけ)の言葉でした。

 学校では利口になることの数々は教えてくれても、愚になることは教えてくれない。いや、愚になるための教育なんていうものはないでしょう。教育とか研究とか読書とか、そういうもので、ほんものの愚の境地にいたることはできない。

 才気煥発、目から鼻へ抜ける賢さ、世渡りの才、小利口な振る舞い、こずるさ、あざとさ、知ったかぶり、そういったものを一つ一つ見つめるこころの営みがあるかどうか。

 愚の修行とは、己のこころにこびりついた「さかしごころ」という垢を次第に洗い落としてゆく作業です。

 硬いこころでは、「さかしらごころ」の垢は洗い流せない。やわらかな、やわらかな気持になって初めて、愚へいたる門は開かれます。

 愚は愚でも、「愚直」となるとちょっと趣が異なります。比嘉春潮さんは私の尊敬する沖縄出身の歴史学者です。昔の話ですが、お会いしたとき「ひとことでいえば沖縄のこころとは何でしょう」と尋ねたことがあります。

 「愚直、ということだと思います」

 「愚直、といいますと」

 「よくいったら、思い込んだらあかなか変えない。悪くいったら変えることができない。ということでしょうか。ハハハハ」

 人の面倒を見るのは好きだが、世渡りがへたで、ずいぶん損をしてきたと思う。「まあ、それでよかったと思います」。比嘉さんはそういっていました。

 古びた家に住み、悠々と仕事を続け、こざかしさと縁のない暮らしを続けた人です。八十七歳の『新稿・沖縄の歴史』を完成させ、九十四歳で亡くなるまで愚直な生き方を貫いた人でした。

 愚直こそ沖縄のこころだといい続けた人に豊平良顕さんがいます。沖縄タイムスの会長だった豊平さんは、戦後の琉球文化復興の立役者でした。沖縄の誇る独自の文化、独自の自然を打ち壊すものに対して、これ渾身の闘いを挑んだ人でした。最後の床で、後輩の上間正諭さん(沖縄タイムス社長)に次の言葉を手帳に書きとめてくれと頼みました。

 「ジャーナリズムのの道をふみあやまるな。ジャーナリズムの道を守り続けるためには愚直であれ」

 おろかしいほどまでに直であれ、という教えです。愚直であれというと、なにかコトコチの硬さを想像されるかもしれませんが、逆です。愚直であるということは、権力におもねらず、営利に流されず、己の栄達に汲々とせず、保身に溺れず、ひたすらジャーナリズムの本道を歩めという教えです。相当にやわらかなこころでないと、本道を歩むのは難しい。

 人は弱く、己の栄達、己の保身を考えがちです。これはむしろ「硬いこころ」といっていいでしょう。岐路に立ったとき、栄達とか保身とか営利とか、さまざまな誘惑があるにせよ、それをしかと受け止め、さかしらごころを捨てて深く考え、悩みながらも結局は最善の道を見いだす。それはやわらかなこころをもつことで初めてできることです。P.50〜57

(1)『福原麟太郎随想全集(4)』福武書店

(2)松原泰道『禅語百選』祥伝社

  2017.12.29


――目を、口を閉じてみれば…

 新聞記者になった初めて赴任したのが浦和支局だったということは前にも書きました。当時、かけだし記者としては支局のそばがいいと殊勝にも考えて、近くに下宿していました。下宿、なつかし言葉です。

 生まれて初めて手にした写真機(これもなつかしい言葉です)が珍しくて、フラッシュの道具一式やフィルムを入れた革のバッグを肩に下げて自転車で飛び回り、ヘタクソな季節の写真を撮ってはボツにされていました。そう、当時は自転車に重い写真機のバッグ、というのが支局記者の典型的な姿でした。

 サイネリアなどという園芸品種の名前を覚え、歳時記風に記事を書いて、それが珍しく地方版に載ったのがうれしくて、切り抜き帳に貼ったりしたものでした。

 ある日、せめてこれくらいはそろえておかないと、と思って買ったのが新潮社編の『俳句歳時記』(文庫版)でした。

   目をとぢて秋の夜汽車のすれちがふ

 いきなり中村汀女の句が飛び込んできました。狭い下宿の畳に寝ころがり、繰り返し口ずさみ、「閉じる」という言葉について思いをめぐらせた記憶があります。

 まだ蒸気機関車が大いばりで走っていたころの話で、あのころは長く尾をひく汽笛の音がかすかに中山道の下宿にも聞こえてきました。目を閉じていると、夜汽車の窓のつらなりが数珠になって見えてくる。目を閉じることで、かえって鮮明に見えてくる。

 目を閉じる瞬間、私たちはこころのフィルムに風景を焼き付ける作業をしています。この場合の焼き付けには、思い入れによる取捨選択が加わります。

 再び、目を閉じて夜汽車の音を聞くとき、よけいなものは一切捨てられていて、数珠の連なりの風景だけが秋の風に乗ってやってくる。こころでみる、とはそういうことなんでしょう。目の前で見る夜汽車も好きでしたが、下宿の六畳で、音だけを聞く夜汽車のほうがもっと夜汽車らしいということの発見です。

 目を閉じることの効用でしょうか。現場で取材する。状況を目に入れる。耳で聞く。すべての状況を全部、こころに焼きつけるわけにはいきません。取捨選択をします。いかなる取捨選択をするか、それがいってみれば取捨選択の勝負」どころです。

 一瞬、目を閉じる。こころに焼きつける。そいう営みを自然にするようになったのは、「秋の夜汽車」の句のお陰です。

   障子閉めて落葉しづかに終わる日ぞ

 これも汀女の句です。

 やわらかに聞こえていた落ち葉の音がはたと止む。障子を閉めて、ほの暗い部屋に坐っても、一枚の白い紙から外の気配が内へやわらかく伝わってきます。閉じられてはいるが、光はさしこんできます。閉じられているからこそ、夕日を浴びて散る落ち葉の姿がこころに残る。落ち葉の土に触れる音がまた、かすかに聞こえてくるような気がする。そんなひとときでしょうか。目を閉じることでこころが開かれるのです。

 らんだ庵の縁側に坐っていると、山はだを伝わる風の音が次第に大きくなって、やがて消えていって、また新たな風が渡ってきて、という風の息を感ずることがあります。この場合も目を閉じているほうが、より深く風の息を感じることができるようです。

   とぢし眼のうらにも山のねむりけり

 木下夕爾(ゆうじ)の句です。目を閉じる。枯れ葉色の風景が鮮明にこころに映る。木々はみな葉を落とし、ひなたぼっこしながら眠っています。櫟(くぬぎ)の枝にかrたまった葉がはたはたと揺れている。目を開いても、見えるものは見えます。が、目を閉じているからこそ、より深く、その風景がこころにしみてくるということがある。眠っている山に抱かれて目を閉じたままで長い時間を過ごしたい。山とともに眠っていたい。そんな思いをかきたててくれる句です。

 閉山、閉鎖、閉蟄、閉門、閉居、閉拒、閉口、閉塞感、幽閉と、閉は悪役をつとめることが多いのですが、私のいいたいのは「閉」軽んずべからず、ということです。

 「閉」があるからこそ「開」がある。天の岩戸は閉じられたからこそ、開かれたのです。この世の中、「閉塞感」があるからこそ「解放感」があるのです。

 新聞の仕事をしていて、どうもおかしいなと思っていたことのひとつは「閉」を軽んずる気風のことです。

 新聞には「前ぶれ重視」ということばがある。たとえば大きな国際会議やオリンピックや国際スポーツ大会があるとします。何日も前から記者が現地へ行って、取材をします。「この会議の意味は」「オリンピックで活躍する選手は」「日本の成績いかん?」などについて、連日、記事がでます。それはそれでいいのですが、ものごとが終わると、潮がひいたように記者が消えます。一応、「総まとめ」の記事は出ますが、始まるときのような熱気がない。終った後は始まる前ほどには紙面を割かない。

 本当は逆でしょう。新聞は「開かれる明日」の予測よりも「閉じられた昨日」の解説にもっと力を入れたほうがいいと思うのですが、なかなかそうはならない。閉会式以後のことよりも開会式以前が重んじられるのは、前ぶれ重視主義があるからですが、いつまでも前ぶれ重視によりかかっくていいのか、という疑問があります。

 予測記事も大切ですが、本当に大切なのは「どんな会議だったか」についての詳細な分析です。オリンピックでも、本当に知りたいのは舞台裏の人間ドラマです。ものごとは、閉じた後にこそ本当の姿が浮かび上がるのに、と思います。

 口を閉じることの効用、ということもあります。

 都市の騒音のなかで生きていると、沈黙の世界がなつかしくなります。元日の、あの妙にひっそりとした都市の空間になつかしさを覚える人が多いはずです。狭い道路を歩いていると、車の音が凶器に感じられることがあります。人間のやわらかな体が騒音の硬い刃で突き刺されている、といういやな気分になることがあります。テレビの冗舌がうっとしくなることもあります。とりわけスポーツ放送の絶叫がすさまじい。「今から三十秒後、静かな時間を贈ります」といったあと、せりふも音楽もない沈黙のCMがアメリカにあったそうですが、昨今はわざとうるさいのを売り物にしているCMがある。

 「沈黙の日」というものをつくり、その日だけはだれもが車やその他の人工の音をだすことをやめたらどうでしょう。騒音を閉じることによって、やわらかさのある環境を復活させるのです。

 テレビやラジオも休む。講演もシンポジュムも一切ない。劇場も休む。乗り物も自転車と救急車だけです。人びとは、この日だけは口を閉じ、ひたすら沈黙の世界に生き、木の声、鳥の声、虫の声に耳を傾ける。

 そいう日が一年に一度でもあったら、世の中、少しは変わるのではないか。人びとは思慮深い暮らしというものを少しは考えるのではないか。そ思うことがあります。 picard.jpg

 「愛のなかには言葉よりも多くの沈黙がある」といったのはマックス」・ピカートです。彼はさらにこう書いています。

 「恋する男が恋人に語りかけるとき、恋人はその言葉によりも沈黙に聴き入っているのだ。『黙って!』と彼女は囁いているようだ。『黙って! あなたの言葉が聞こえるように』」

 閉じれば花、なのです。言葉が閉ざされたとき、恋人はあなたの沈黙の言葉をこころで聞くのです。P.102〜107

関連:沈黙の世界

  2018.01.03


――「本当に醜いのか」

 お前さんは「老」という字にきちんと向き合っているかと問われると自信がない。静かな気持ちで老と向き合うのはなかなか難しいし、この難しさは終生変わるものではないでしょう。

 五十代のころは結構、年寄ぶるくせがありましたが、六十代に入ると、己の老いを思い知らされることがやたらにあって、コンナハズデハナカッタゾとあせる気持ちが出てきます。あせってももはやどうしようもないことなのに、おろかなことです。

 仕事部屋を出る。何かを取りに行くために居間に入る。その途端、ア、ケサハ歯ヲ磨イタダロウカと思い、その瞬間に何を取りに来たかのかを忘れてしまう。もう一度、仕事部屋に戻ってやり直す。ア、ハガキヲ取リニ行コウトシタンダと思い出す。居間に赤鉛筆を取りに行って、ハサミを持ってくる。モチを包んだ透明な袋を破ろうとして破れずに格闘する。食事のとき、ぼろぼろと汚らしくこぼす。涙目になり、電車のなかでしきりに涙を拭き、正面の席の少女にみつめられている。会合に出るために電車に乗り、乗ってから会合場所の案内書を家に忘れたことに気づく。カメラにフィルムを入れぬまま撮り続けることがある。

 もともと忘れっぽさに自信がありますが、昨今はその度合いがちょっと激しすぎる。加えて涙目や指の不器用化やらが出てきていささか不安になる。老いとうまくつきあってゆくのは厄介なことです。

 老いと字は、この本で取り上げてきたたくさんの字と同様、あまりいい意味で使われていません。

 老獪、老猾(ろうかつ:老獪(ろうかい)と同じ)、老朽、老醜、老廃、老衰、老弱、老残、と並べただけで、なにか一気に十歳も年を取った感じになります。

 老人という言葉が否定的に使われるのと、「老いは醜いもの」という見方とは無縁でないでしょう。

 老いは本当に醜いのか。

 中国でいう「老師」は尊敬語です。「老酒」は古いほどいいし、日本でも昔の「家老」や「老中」は重要な役でした。「古老」「長老」のいうことは重視され、水戸の「老公」は劇中で悪人をふれさす力があります。「老舗」には重みがあり、「老大家」とう言い方にも尊敬の念がこもっています。「老」の存在、「老」の発言が世の中に必要とされていたのです。

 が、昨今はそうはいかない。

 朝日新聞にコラムに出ていた話です。各地の「老人クラブ」の加入率が下がっていて、とくに六十歳代の加入率が低い。老人という呼び方への抵抗感が強いからだというので、クラブ名から老人をはずし、「ゆめクラブ」「高年者クラブ」「シニアクラブ」などに変えるところがふえているそうです。

 名前を変えたって年寄りのシワが減るわけでないし、私なんかはむしろ、ゆめだ、シニアだなんて呼ばれると、イイ加減ニシテクレヨという気持になります。老人が「老」とう言葉を避けるからいっそう、「老」が軽んじられる、「老」がうといましく思われる、ということがあるはずです。老人は老人でいいじゃないか。

 先日、NHK衛星放送『週刊ブックレビュー』収録の仕事があって、北海道の旭川市へ行きました。収録の前、作家、村松友視さんが記念講演をしました。

 「これからは老人が減ってゆくと思います。高齢者はふえてゆくでしょうが」  村松さんはそういう。村松説によれば、高齢者というのは、たとえていえばあのフルムーンの広告に出てくる俳優のようなしゃれた老紳士のことで、老人というのは笠智衆みたいな人をさす。

「これまでこなしてきた時間がすべて姿形たたずまいに結晶しているような人」だそうです。

 高齢者はますますふえてゆくが、残念ながら老人は減ってゆくだろう。だれでも老人になれるかということはなくて、老人というのは年を取ったあげくに到達できる一つの境地なのではないか。

 私よりはるかに若い村松さんの話を聞きながら、そうだ、その通りだぞ、くやしくたってほものの老人になれない人だっているんだ、と自分に言い聞かせていました。

 藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』がよく読まれているのは、老いた身の一つの境地を描いているからではないでしょうか。

 この小説は、武家社会の重鎮だったある男の「隠居後のいきいきした暮らし」を描くという設定です。この設定が平成の老人たちのこころをほどよくくすぐるのでしょう。

 まだ五十代で隠居した清左衛門は最初は落ち込む。「夜ふけて離れに一人でいると、清左衛門は突然に腸をつかまれるようなさびしさに襲われることが、二度、三度とあった。そういうときは自分が、暗い野中にただ一本で立っている木であるかのように思い做されたのである」

 しかし清左衛門の実力を頼って、いろいろな人がいろいろなことを頼みにきて、隠居老人の日々は結構、活気づき、充実したものになる。

 最後は、こう締めくくります。

 「衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ(略)と清左衛門は思っていた」

 死が訪れるまでは、おのれを生かしめたすべてのものに感謝をささげる。その静かな境地こそが老いの表情にある種のかがやきを与えるのでしょう。

関連:『三屋清左衛門残日録』

  老いといふものの静けさ夕月夜

 随筆家渋沢秀雄さん(渋亭)の、八十過ぎの句です。ここには一つの境地があります。

 渋沢さんは、実業家、栄一の子で東京の住宅地「田園調布」を造った人です。新しい町を造る夢を追って欧米十一ヵ国を回ったあげく、駅からひるがる放射状の道を造り、住み心地のいい緑のゆたかな町をいう思想で設計した、と聞いています。

 一九八二年ごろ、さしたる用事もなくぶらりと渋沢邸を訪ねたことがあります。庭のハナズオウの花の色がいまだに目に焼きついています。

 「いつも不思議に思うんですが、考古学者が発掘したものの年代を推定しますね。あれはどうやって可能なんですか」

 そんな質問を受けました。九十歳近いお年でしたが、好奇心はまだまだ衰えていないようでした。この句をくちずさむたびに、老いと静かに向き合っていた生前の渋沢さんの姿が目に浮かびます。

   しみじみと老てふことや老の春

 富安風生の七十の句です。

 数えで八十歳のときの句が

   生きることやうやく楽し老の春

 幸い八十まで生きたとしてもこういう境地になれるかどうか。たぶん俗世間の哀楽の谷間をさまよっていることでしょうが、そうであっても、この句はたびたび思い出すことでしょう。

 先日、沖縄を旅してきました。沖縄に行くたびに、いい顔の年寄りにみとれることが多い。那覇の国際通りわきにある市場をのぞくと、これぞ老人、という顔が並んでいます。ひとりひとり、こころに刻みつけたくなる生気にあふれた顔です。

 沖縄の知人がいうのです。大家族のなかでは、おじいさん、おばあさんの座はきちんと守られているし、会式の宴席でも、年がはるかに上の人が肩書よりも重んじられるんだ、と。人びとの尊敬の念があって初めて、年寄りの顔が輝いてみえるということもあるでしょう。

 瀬底島で、九十歳近い、独り暮らしのおばあさんに合いました。

 あまり福々しくて、やすらかなお顔なので、写真を撮らせてもらえませんかというと、いやだとか、困るとか、そういう余計なことはいわず、自然体でふっと廊下にでてきて坐る。「ボタンはめたほうがいいよ」とヘルパーさんにいわれ、笑いながらブラウスのボタンを一つ一つゆっくりとはめる。風の流れに身をまかせて、という感じで、まさに、村松友視さんがいう「これまでこなしてきた時間が姿形たたずまいに結晶しているような人」の顔でした。

 フランスの詩人クローデルは、八十歳のときの日記にこう書いています。

 「昨日! とある者は嘆息する。明日は! と他の者は嘆息する。しかし、老境に達した者でなければ、今日は! という言葉の輝かしい、絶対的な、否定しえない、かけがえのない意味を理解することはできない」

 老境に達したものを鼓舞する言葉です。

 あのバートランド・ラッセルが核兵器反対のデモで坐りこみをし、禁固の刑を言い渡されたのは、八十九歳のときでした。アメリカが生んだ「土の画家」、グランマ・モーゼスは七十すぎて絵の勉強をはじめ、八十、九十と描き続け、百一歳で、みずみずしい最後の作品を描いたのです。

 昨日にとらわれない。

 明日にもとらわれない。

 今日、充ち足りた日を送る。

 ラッセルもモーゼスおばあさんも、そのような思いで生きてきたのでしょう。

 それはいうほどに易しいことではありません。老いはさまざまな形で生き難いことの数々を知らせてくれるでしょう。老いてくれば、昨日の過剰にしがみつき、明日の少なさを嘆く日々が多くなるかもしれません。が、それでもなお、できるだけ肩の力を抜き、背筋を伸ばし、充ち足りた瞬間瞬間を大切にして生きていきたい。それが老いてゆくものの感慨でしょう。

 石垣りんさんに「大根」という詩があります。

  山本栄作さんというお人は

  伊豆の山里に生まれ育ち

  農業をなりわいとした。

  細い端麗な面差しと

  すわっていてもあっすぐに伸ばした背筋の

  くずれることはなかった。

  よく働き

  静かに言葉少なに話した。

  健康な九人の子に恵まれた。

  年をとって恋女房に先だたれたあと

  自身病気勝ちになっても

  起きられれば

  家のまわりの仕事に気を配っていた。

  ある日

  畑の土をせっせと掘り返し

  大石をどけながら

  長男の嫁にいったそうだ。

  こうしておくと

  いまに柔らかぁい大根ができる、と。

  去年の夏

  栄作さんが八十四歳で死んだ。

  いまごろ

  土ふところの中では

  白い大根がみずみずしく育っているか。

こむいう老いの境地もあります。

参考1:フランスの劇作家・詩人ポール・クローデル(1868-1955)が駐日大使として着任したのは、大正10(1921)年11月のことであった。クローデルは、外交官試験に首席で合格し、後には駐米大使まで務めた有能な外交官であったが、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)の弟子として有名な姉カミーユ(1864-1943)の影響で、幼い頃から日本への憧れをもっていた。外交官になることは、日本へ行くための近道と考えたという。昭和2(1927)年4月に駐米大使に転出するまで、休暇帰国を挟んで約4年半滞日し、政財界の要人や文化人らと交遊した。その間、関東大震災を経験、日仏会館の開設に尽力し、代表作となる戯曲『繻子の靴』を書き上げている。カトリック詩人として知られるクローデルであるが、日本人の感性を深く理解し、俳句や都都逸風の短詩作品や日本文化を主題とした随筆集(邦題は『朝日(=日本)の中の黒い鳥(=くろうどり=クローデル)』)を残している。 こむいう老いの境地もあります。

参考1:石垣 りん(いしがき りん、1920年(大正9年)2月21日 - 2004年(平成16年)12月26日)は、詩人。代表作に「表札」。東京都生まれ。4歳の時に生母と死別、以後18歳までに3人の義母を持つ。また3人の妹、2人の弟を持つが、死別や離別を経験する。小学校を卒業した14歳の時に日本興業銀行に事務員として就職。以来定年まで勤務し、戦前、戦中、戦後と家族の生活を支えた。そのかたわら詩を次々と発表。職場の機関誌にも作品を発表したため、銀行員詩人と呼ばれた。『断層』『歴程』同人。第19回H氏賞、第12回田村俊子賞、第4回地球賞受賞。教科書に多数の作品が収録されているほか、合唱曲の作詞でも知られる。

平成二十九年十二月二十八日


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熊山蕃山、海舟・鉄舟・泥舟、土井有挌 『新編明治人物夜話』森 銑三

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熊沢蕃山(一六一九〜一六九一)

 陽明学者の熊澤蕃山(岡山の池田光政に仕えた)は、近江聖人として名高い中江藤樹に学んだ。

 自分の先生はこの人だ、ときめた蕃山は藤樹の塾(藤樹書院)に行って入門を願う。
 しかし、藤樹は蕃山の願いをなかなか許さなかった。
 あきらめない蕃山は、長いあいだ軒下にすわりこんで待つたので、とうとう入門が許されたというエピソードがある。

 藤樹がなかなか許さなかったのは、学びたいという蕃山の気持ちがほんものであるかどうか、わからなかっただと言われている。ほんものだ、とわかったあとは自分の持っている学問のすべてを、惜しみなく伝授するというのが、私塾の原型であった。 

参考:1:奈良本辰也 高野 澄『適塾と松下村塾』(祥伝社)P.49

2009.10.08


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 心友問う、先生は先師中江氏の言を用いずして自らの是を立て給えるは高慢なり、と申すものあり。

〔答えて〕いわく。余が先師に受けて違(たが)わざるものは実義〔不義をにくみ、悪を恥ずること〕なり。学術言行の未熟なると、時処位に応ずるとは、日を重ねて熟し、時に当りて変通すべし。大道の実義においては、先師と余と一毛違うこと能わず。余の後の人も同じ。……先師存在の時変せざるものは志ばかりにて、学術は日々月々に進んで一所に固滞せざりき。その至善を期するの志を継ぎて、日々に新たにするの徳業を受けたる人あらば、真の門人なるべし。 〔集義和書一三〕

 江戸前期の儒者。中江藤樹に陽明学を学び、岡山・古河藩に仕えたが幕府ににくまれた。幕末の志士に思想的影響を与えている。

*桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)より

2010.07.04


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 熊沢蕃山遺事

「想古録」の筆録者は、当代に不満を持ち、将来にも希望を抱くことを得ない状態でいたものだから、従って過去の人傑に思いを馳せ、過去の人物に就いて、交遊の諸氏から聴くことを、好んで「想古録」に記している。その人々の内の一人に、熊沢蕃山がある。ここでは「想古録」に見えている蕃山の逸事の幾つかを、紹介することにしようと思う。

 蕃山が、岡山侯池田光政に仕え、家老職までに抜擢せられて、その名が天下に轟いていた時のことである。所用で江戸へ下ることとなった。

 僅かの供廻りで旅を続けて、人目につかないようなことはしなかったのであるが、そのことがたまたま尾張侯の耳に入った。侯はかねがね蕃山のすぐれた人物であることを知っていられたものだから、その宮(みや)駅を通過する時を計り、成瀬隼人正に旨を含めて、密かに行動を探らせた。それで事に馴れた一人の士が赴いて、探索に当たった上、蕃山が同駅を立ち去ってから、帰って観察するところを復命した。その士はいった。

 熊沢の行動には、これとて変わったこともござりませんでした。けれども、召連れた供廻りの者達のふるまいが、いかにも物静かで、軽はずみなところなどはございません。熊沢の人間の品格の高さが、さような点にも現れているのでございました。

 宿で一同が寝静まりましたら、その後で一人の侍が、皆の寝ている一間一間を廻って、ともっている行燈の燈心を、一筋ずつに減らして行きました。二筋では勿体ないというのでしょうか、それとも、二筋では早く尽きてしまうので、跡が不用心だというのでしょうか。何れにもせよ、行届いたことと存じました。

 侯はこれを聴いて、そのすこしばかり異なるところが、熊沢の大いに異なるところであろうと、感ぜられたそうである。――

 「想古録」には、その尾張侯が、初代の義直として書いてあるのであるが、時代は合わぬのではないにせよ、なおいかがかと思われる。依って右には、ただ尾張侯とだけにして置いた。 

 蕃山が岡山で重用せられて、その名の高く挙がっていたのに対しては、それを妬(ねた)む者達が、岡山の家中にもあった。それは致し方のないことだった。 払われているのであるが、

 一日、蕃山が自邸で、経書の講義をしていたところへ、鉄砲組の頭を勤める横田十郎兵衛という者が、案内も請わずに、つかつかと這入って来て、大声をだして、講釈の邪魔をした。その時蕃山は、話すのをやめて、横田の放言するに任せ、一言も口を開こうとしなかった。

 横田は図に乗って、がなり散らした。拙者には以前、癇癪という持病がござって、どんな薬を飲んで見ても、利き目がござらなんだ。ところが今度、オケッコウという、奇妙な鳥が渡って来たので、その鳥の卵を飲んで見たら、不思議に持病が全快いたした。昔もろこしでは、聖人が出ると、麒麟だとか、鳳凰だとかが現れたと申すが、わが国にも、近頃こんな学者が出たものだから、それでオケッコウが渡って来たものと見え申す。――そんなことを、やたらにしゃべり散らして出て行った。

 聴講の人達は、どうなることかと、手に汗を握って、蕃山の様子を窺っていたのだったが、蕃山は神色自若として動ずるところがない。そして横田が去ってしまうと、再び講釈を続けて、予定していた量を終えた。その度量の洪大で、細事にかかわろうとせぬこと、常人の及びもつかぬことだった。――

 蕃山を敬慕する人々が、他国にも多かったのと逆に、池田の家中には、蕃山その人に敵意を持つ連中も少なくはなかったことが、この一話から考えられて来る。

 蕃山は尾張の生まれである。十六歳の時に、板倉周防守重宗の推挙で、池田光政(岡山藩主初代)に近習として仕え、十九歳で番頭役となり、二十七歳で家老に進んだ。異常の抜擢だったのである。初め蕃山が重宗に謁した時、重宗は一見して、蕃山が並々の少年でないことを知り、後には必ず大材となるべきものとして、なお学業に励んで、怠ることのないようにと警めた。そしてわが家は石高が少なくて、そなたの技倆を十分に伸ばせることが出来ぬ。どこかの大国の主に勧めて、立身の途を開かせ申そうと、岡山侯光政に勧めたのだった。それで蕃山は、終身重宗を徳とした由である。

「想古録」に、かような記事もある。蕃山に好意を寄せていた諸侯の内に重宗のあったことは、既に知られていたのであるが、その人の推薦で、蕃山が光政に仕えたということは初聞に属する。しかし重宗が蕃山を重んじながら、晩年のその人を、十分に庇護することの出来なかったというは、残念なことどもだったといわざるを得ぬ。

morisidenkanpo1.JPG  蕃山は仕えを辞して、采地の蕃山(しげやま)に退隠して自ら蕃山陰士と称した。その邸宅を取巻いた土塀が、今も二方だけ残っている。蕃山はその隠居に閉居すること三年だったが、ついで侯に御子息の一人を迎えて、わが家の養子として、三千石の禄を差し上げることにしたいと願い出た。侯はそれを許した上、新しく七千石を加増して、一万石の家格にし、永く池田家の一門の内となされた。

 蕃山は、もと四人の男子があったのであるが、嫡子は年の行かぬ内に没した。残る三人は、それぞれ他国に出して、池田家に仕えしめなかった。これは津田左源太の嫉妬を慮(おもんばかり)、子孫に後患を貽(のこ)さざらしめようための処置であった。蕃山の深遠望慮は、その家を保たしめる上にも、図るところがあったのである。

 蕃山は思想家であり、政治家であり、兼ねて実務家でもあり、殊に卓越せる土木家であった。その蕃山の土木に就いての一事が、また「想古録」に記されている。

 蕃山は、岡山領内に、水防のための土堤を築くことをしたのであるが、長い堤の東の方で掘った土を西に運ばせ、西の方で掘った土は、東へ運ばせることをした。わざわざ余計な手数をかけたように見られるが、それはそうして土方人足を歩かせることに依って、堤を踏み固めさせて、それを一層堅固ならしめたのであった。

 更に蕃山は、工事の終わった土堤のところどころに、深い四角な穴を掘って、その土を他へ移し、他所から運んだ土を埋めて、地底から築き固めて、地上に至らしめた。これは土柱と称する方法の由で、そうして築かれた堤は、その後も崩壊破損することなしに、今日に至っている。――かような話を塩谷宕陰(しおのや とういん)がしている。

 この条を書いて、私は往年井上通泰先生に、蕃山と津田左源太永忠との人物の相違に就いて、伺ったことのあったことを思い出した。その時、先生はいわれた。津田の方は、目先の効果のすぐに顕れるような仕事をしている。蕃山先生の方は、遠い将来のことを考慮に置いて、恒久性のある仕事をしていられる。二人の人物の相違は、そうした点に現れている。先生はそう申された。

 津田は津田で、池田家における一人材として、敬意が払われているのであるが、津田を以て蕃山に対抗するに足る人物とまでには、見るべきでないであろう。

 以上に記するところは、明治二十六年からその翌二十七年へかけての「想古録」に見えているもので、従来の蕃山伝などには、使用せられていることを知らない。

 なお写しを作ることをせずにしまったが、二十七年九月六日の新聞に出ている「想古録」に、蕃山の肖像を見て、その状貌の婦人のようなのを意外としたことが見えている。蕃山その人の外貌のことは、他書にも記されているが、その肖像は今伝えられず、たまたま蕃山の像と称するものは、全く信頼せられない。しかし「想古録」の筆録せられた幕末に近い頃に、蕃山の肖像が存していたとすると、なおその捜索を断念するのは、早いのでないかと思われる。しかしその肖像は、いずこの何人の所蔵するところだったのか、そこまでは明記していないのが遺憾とせられる。

*森 銑三『史伝閑歩』(中央公論社)P.29〜34

2012.12.20


海舟・鉄舟・泥舟

 俗に三すくみという。智略の縦横をもって任ずる勝海舟も、山岡鉄舟の勇猛心というか、その内に蔵する力には、まいらざるを得なかったらしい。
▼勝家の台所へは、旧幕臣の不平党が絶えずやってきて、出された酒を飲んで管を捲く。おれたちをだしにして、自分だけが高官になって、大きな顔をしていやがる。なんでもかまわぬから、飲み倒してやれ、というのが、彼等のやけぱっちな気持だった。海舟はその者たちの飲んで放言するのにまかせていたらしいが、時に騒ぎ立てて、手に負えそうもない時は、書生を鉄舟のもとへやって、来てもらいたい、と頼む。よし、とばかり鉄舟が来て、台所へ顔を出して、皆さん、お揃いですか、という。今まで騒いでいた者たちは、ただその何でもない一言に萎縮して、手持ち無沙汰になってしまい、おい、帰ろうと、促し合って、ごそごそ出て行くのだったという。自分で顔を出して、かれこれいったりしないで、わざわざ鉄舟に来て貰う。海舟は、そういう手段を知っていたのである。やはり海舟は智者だったといえるかもしれない。

▼鉄舟は、明治以後は剣豪をもって知られ、その剣は向こうところがなかった。しかし鉄舟の剣も、はじめは天賦の膂力を恃んで、技は二の次に置いた傾きがあり、ただ敵を倒せばよいのではないかというのが、その考えだった。泥舟は力量よりも、技を重んじて、その技をどこまでも精錬せしめようとした。それで二人の議論する時は、根本的に一致しないものがあったのであるが、後に鉄舟が一刀流の奥義を悟った時、己の考え方の誤っていたことに気がついて、泥舟のもとに到って、これまでは誤解して居りました、と素直にいって、頭を下げた。その態度がどこまでも坦率だった。その時、泥舟はにっこり笑って、それはおめでたい、しかし大分御手間が取れましたな、といったそうである。剣の鉄舟も、槍の泥舟に対しては、一目置かざるをえなかったのである。


参考:鉄舟と泥舟の関係:高橋 泥舟(たかはし でいしゅう、天保6年2月17日(1835年3月15日) - 明治36年(1903年)2月13日)は、日本の武士・幕臣。

 江戸において、旗本・山岡正業の次男として生まれる。幼名を謙三郎。後に精一郎。通称:精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号である。母方を継いで高橋包承の養子となる。 生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄・山岡静山に就いて槍を修行、海内無双、神業に達したとの評を得るまでになる。

 生家の男子がみな他家へ出た後で静山が27歳で早世、山岡家に残る英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。


 鉄舟は終生剣をもって立っていたのであるが、明治以後の泥舟は、天下一品を以って称せられた槍をも忘れるが如く、

 狸にはあらぬわが身は土の舟こぎ出さぬのがかちかちの山

とよんで、官途に就こうともせず世を忘れ、世からも忘れられて、その一生を終えた。社会人として生きた鉄舟は、泥舟のその生き方に、敬意を払わずにはいられなかったらしい。

 泥舟には泥舟としての、そうした高風があったのであるが、その泥舟は、また海舟の機略を認め、それをおよび難いものとしたというから面白い。

海舟は鉄舟を畏れ、鉄舟は泥舟を畏れた」とは『徳川の三舟』の著者佐倉達山氏のいうところで、それをもって三すくみの形だったとするのであるが、佐倉氏は海舟と鉄舟とについて、さらに一話を伝えている。

 明治何年であったか、朝廷から海舟と鉄舟とに、維新当時に国事に尽くしたことどもを書いて出せとの御沙汰があったのに、海舟は気安く書いて差し出した。それは相当に詳密なものであったらしい。その後で海舟は鉄舟に逢ったので、「あなたも差出しなさったか」と問うたら、鉄舟は無造作に、「自分で自分のことを書立てたりしては、自画自讃になってしまいます。そういうものは、拙者は出しません」といって、洒然としていた。その一言は、海舟にはよほどこたえたらしく、「おれは山岡にやられた。どてっ腹に洞穴を開けられた」と人に語ったそうである。

 佐倉氏はなお、鉄舟と次郎長との一話をも伝えている。

 明治初年のことであったが、たまたま訪うた次郎長に、鉄舟は一振りの短刀を与えて、「これは名刀なのだが、お前にやろう。けれども一大事だと思った時でなくては、抜くのではないぞ。それだけを心掛けるようにせい」と戒めた。

 次郎長は、ありがたくいただいて、帰途に就いたが、箱根の山中で、雲助から酒手をゆすられた。次郎長は、黙ったまま応じない。雲助は次郎長を、ただの男と見くびって、「酒手を惜しむなら、駕籠から出てうせろ。おれたちを何だと思っていやァがる」と悪口雑言する。

 次郎長も思わずかっとなって、刀の柄に手を掛けたが、その時、頭に閃いたのは、山岡先生の一言だった。かような奴等を斬って棄てたところで、それは刀を汚すものだ、と気が付いて、「よしよし酒手は、いいなりにくれてやろう。駕籠を急がせろ」と命じた。

 すでに三島へ着いたら、そこにはもう知らせを受けた子分たちが、何十人も迎えに出ていた。駕籠から出る次郎長に、お帰りなさいませ、と頭を下げる。 

 その様を見て、雲助はびっくりした。さては清水の次郎長親分だったのかと気がついて、にわかに身を縮めて、いうところを知らなかった。次郎長は、その様子を流し目に見て、懐から金を出して、「これが酒手だ、取って置け」という。雲助は尻込みして、手を出すことを得せず、後に、願って次郎長の子分に加えて貰ったという。鉄舟の一言を肝に銘じて、一時の怒りに軽挙妄動しなかった次郎長は、さすがに好漢というべきであった。

 この話は私は『徳川の三舟』に拠って始めて知ったのであるが、これを読んで、以前何かで読んでいた一事を思い出した。ある時、次郎長は、鉄舟に向って、「先生からいただく手紙は、文句がむつかしくて、読んでもよくわかりませんや。これからは手紙を下さる時は、どうか仮名で願います」といった。そうかと鉄舟は承知した。それで以後次郎長に与える手紙は、全部を仮名で書いたというのであった。その後の展覧会だったか、鉄舟の次郎長にあてた仮名の短簡を見たことがあるが、それが実に要領のいい口語文で、気持のいいものだったことを覚えている。清水方面に、その仮名文の手紙を所蔵する人があるならば、それは天下の珍品として、どうか大切にして貰いたいものと思う。

▼『徳川の三舟』には、なお鉄舟と耶蘇教の宣教師との奇話が出ている。これも他書でも見たことがある話であるが、序にここに載せることとしよう。

 一日、宣教師の一人が鉄舟を訪うて、キリスト教のありがたさを説いた。鉄舟は黙って聴いているばかりで、一語も発しない。宣教師はなおも得意になって弁じ立てたが、鉄舟はついに何ともいわぬ。宣教師もついに張り合い抜けがして、話を打ち切って、意見を問うたら、鉄舟はいきなり、あははは、と大笑いをした。ただそれだけで、また口を閉じて、何もいおうとしない。宣教師もついに手持ち無沙汰な状態で、立去らねばならなかった。

 それだけでは、すっかり愚弄せられたことになるので、腹の虫が承知しない。それで今度は、同僚の数輩をも語らって、改めて鉄舟を訪うて、こもごも道を説くことが、この前以上だった。
 そうしたら鉄舟が、形を正して問うた。「あなた方は、耶蘇がこの世で最もえらい者と思っていなさるらしいが、耶蘇よりもえらい者があったら、どうなさる。その者を信仰なさるか」

 宣教師等はいった。「さような人のあるわけがありません。あなたは、それがあるとおっしゃるのですか」

 鉄舟はいった。「あります。耶蘇以上にえらいものがござる。それはこの山岡鉄舟でござる」

 鉄舟の声は、雷の落つるがごとくであった。宣教師等は、度肝を抜かれて、さらにいうところを知らず、ほうほうのていで出て去った。

 『徳川の三舟』の著者佐倉氏は鉄舟の門下であった。だから同書の内でも、鉄舟の逸話を語っている条々に、もっとも精彩がある。

 この書は昭和十年の刊行であるが私刊本だったらしく、世に流布するものは多くはないらしい。よって、かような書物の出来ていることを、海舟の研究を志す人々にも知って置いて貰いたいたくて、この一文を草して見た。
 やや海舟を抑えて、鉄舟を上げるような内容になったが、序に、少し前に明治の古い新聞に見えていた一事を記して、結びとしよう。

 どこかの理髪床に、海舟と鉄舟との額を掲げている店があったそうで、その紹介がしてあったのであるが、鉄舟の方は、道歌風の歌を一首書いているだけで、格別のことがない。海舟の方は、暁の空に烏が二、三羽飛んでゆくところを略筆で画いて、その上に、「朝寝すべからず」としてあったそうである。もしこれが床屋の亭主が請うて書いて貰ったものとすると、絵と文句とがいかにも適切で、応病与薬の妙を極めているし、その床屋へ行く客たちにも、「朝寝すべからず」の教訓は、そのままうなずかれるものがあったであろう。床屋には床屋向きのものを揮毫して与える。海舟は頭の自由自在にはたらく人だったことを感じる。 

2010.05.02、2017.10.08修正した。


土井有格(一八一七〜一八八〇)

 大正六年に津市で版にした『ごう牙先生三十七回忌辰追薦録』という、和装の小冊子がある。その量はいうに足りないが、それに附載せられている茅原清の「先師ごう牙先生逸話」が大変いいもので、土井ごう牙その人が、紙上に躍り出ている感じがする。今その中の若干条を紹介して見よう。
 ある者が、妻を娶ったが、器量が悪いからといって、離別しようとしていた。
 ごう牙はそれを本人から聞いたが、何ともいわなかった。立って行って勝手から、小盃を二つ手にして来て、それをその者の前に並べて置いた。見るとその二つの内の一つは、素焼の粗末な盃で、今一つの方は、どこ焼なのか、美しい色をした物だった。その二つの盃に、ごう牙は二つの酒徳利から酒をついで、「飲んで御覧」といった。その者は、いわれた通りにした。二つとも飲んでしまった時に、ごう牙がいった。「どうだい、味は」
 その者は、粗末な盃の方を指して、「こちらの酒は、いい酒でございました」といい、今度は美しい盃を手にして、「こちらの酒は、よくございませんでした」とあからさまにいった。
 それを聞いたごう牙は、笑っていった。「そうだろう。それなら見かけのよしあしなどは、どうでもよいことがわかったかい。見た目がよくても、酒そのものが悪くてはおしまいだ。見た目は悪い盃でも、中の酒がよければ、それでよいではないか、人は見目よりは心だよ。――わかったか」
 その者は、両手をついて、その通りでございました、といって謝した。そして妻を去ることは思い止まって、醜い妻と一生むつまじく暮らしたとのことである。
 ごう牙は、人を喩すのにも、かようなうまい喩し方をすることの出来る人だった。
 ごう牙は、世間からは、ただ粗放な磊落な人物として見られていた。それも事実だったに違いないが、実はそれは、ごう牙の一面というに過ぎなかった。
 ある時門人の一人が、「先生、何々の事実は、何の本に出ているのですか」と問うた。ごう牙は、「それは何の本だよ」と何でもなく答えたが、「それじゃ貴公に一つ、拙者の腕前を示そうか」といって、持合せた手拭で目隠しをした。そして座右の本箱から、手さぐりで、一冊の書を取り出し、それをまた目隠ししたままで、ぱらぱらと繰っていって、この辺だろう、といって差出した。見ると、門人の求める記事は、ちゃんとそこに載っていた。
 ごう牙は、平素用の済んだ書物をしまう時には、その順序を揃えて、本箱に収めた。だから入用の時には、暗闇でもその書を取出すことが出来た。「学者の書物というものは、軍隊と同じことだ。いざという時に、自由に出されなくては、役にたたぬ。公等もそれが出来るようにして置き給え」といった。

▼ごう牙は、書生が退屈せぬようにと、折々は『聊斎志異』の講釈をして聴かせた。そんな時には、机のうえにある筆や墨や、その他を取上げて、「よいか、これがその男で、これを家族としよう」などと、人物に擬した物を動かして、目に見えるように噛み砕いて話した。書生たちは、その話に耳を傾けた。
 ごう牙は、何の講義をするのにも、「筆記などしてははならぬ」と申し置くのだった。「書生は、紙に書きつけるのではなくて、心に記すのが肝心だ。筆記によったりしては、機に臨み、変に応じて、その智慧を繰出すことが出来ぬ」といった。

▼ごう牙はいった。「史書を読むのには、読んでよくわかるところを、繰返し読むがよい。そうする内に、わからないところが、自然にわかるようになる」――森曰く、原文に史書とあるから、そのままにして置いたが、これは何も史書には限らない。経書子集でも同じことであり、漢籍のみならず、国書にしても、同様のことがいえるだろう。
 ごう牙は、黙読を否なりとした。「黙読をしていると、人の話しているのが耳に入って来たりして、精神が乱される。鬼を拉ぐような声を出して読むがいい」といった。――森曰く、これも、国書、漢籍の区別なく、文章のよいものなどは、殊に音読をする。そうしてその暗誦の出来るまでにもなっていたら、文を書く上にも、大いに益になるものがあろう。このことは私は、内田遠湖先生から教えられている。
 ごう牙は多読主義者だった。「たくさん読まなくッちゃ駄目だよ」といった。それで「唐本なら日に三寸、仮名交じりの本だったら、五寸よめ」といった。――森曰く、今の学校では、一年かかっても、右の三寸といい五寸という量の何分の一くらいしか進まないだろう。それくらいの本を読んだところで、何の足し前になるものではない。

▼ごう牙の学識を知る者が、「先生はなぜ書物を著して、後生に伝えようとなさらぬのですか」と問うたら、答えていった。「拙者のいおうと思うところは、孔子や孟子が、とうに述べている。わざわざ拙者のいわねばならぬことはない」

▼ごう牙の文章を、拝見願いたい、という者のあったときに、ごう牙はいった。「拙者は韓退之を学ぶ者だ。拙者の文章が見たかったら。『韓文』を読めばよい」

▼ごう牙は、自分の文章を人に見せびらかそうなどとはしなかったのであるが、門人たちの文章は、念を入れて修正し、その上にその門人を呼んで、机の前に坐らせて、その説明をして聴かせた。

▼ごう牙は常にいった。「天下にすたり者などはありはせぬ」と。それで父兄の持てあましている若者があると聞くと、自分の方から申出て、その者を引取って教えて、どうにか世渡りの出来るところまで仕込んだ。それでそうして世に出た者が、数十人にも及んだことだった。

▼ごう牙はいった。「学問するのjは、楽しいことの筈だ。それを苦しいというのは、字句に金しばりせられているからだろう」

 以上に記するところは、全体の十分の一程度に過ぎないことを断って置こう。かような調子で書いた、うぶな人物資料を知りたいことを、常々願っているのであるが、なかなかよいものにぶっからない。それだけに私は茅原氏の記述を珍重したく思うのである。 、 

引用:『史伝閑歩』森 銑三(中央公論社)P.70〜74による。

参考:文化14年(1817)生〜明治13年(1880)歿  

 幕末・維新期の儒学者・書家。伊勢津藩儒医土井篤敬の次男として生れる。名は有恪、字は士恭、通称は幾之輔、ごう牙と号し、別号は松径。兄の没後12歳で家禄190石をつぐ。藩儒川村竹坡・斎藤拙堂に学び、藩校有造館助教・講官となり、弘化2年「資治通鑑」校訂(有造館版資治通鑑)をおこなう。明治2年、督学となる。経学は清朝考証学を好み、歴史地理にも通じる。

 一方、詩文・書画等、文人・趣味人として、また勝れた教育家として知られ、多くの著述を残している。ごう牙は竹が大好きで、家のまわりにいろいろな種類の竹を植えた。障子に映った竹を手本にして、墨でたくさんの竹の絵を描いている。紀州高野山、僧大鵬の描いた墨竹巻物の研究にも熱心で、研究書も書き残している。

平成二十二年四月二十六日


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森銑三著小出昌洋編「新編明治人物夜話」を読む

「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「西鶴諸国ばなし」「本朝二十不孝」「日本永代蔵」「世間胸算用」「万の文反古」「西鶴置土産」などなどの作品は井原西鶴が書いたことになっているが、この説に異を唱えた人がいる。森銑三である。森によると、西鶴が自ら書いたのは「好色一代男」だけであるという。

別に「日本永代蔵」や「世間胸算用」が西鶴以外の人が書いたとしてもこれらの作品の質が下がるわけではない。誰が書こうと「日本永代蔵」「世間胸算用」は非常に優れた古典である。

森は90年近い生涯(1895年に生まれて1985年に没している)を読書だけに費やしたといわれている読書家の巨人である。森は、戦争後西鶴の研究を始め、それこそ一字一句を確かめて新説を打ち出したのである。西鶴に関する本にはたびたび森の名が登場する。とにかく森は博覧強記な教養人であった。

森が書いた「明治人物夜話」はタイトルの通り、著名な明治の人物について書かれた随筆集というような本である。

これらの人物は大きく分けて2種類の人たちに分けられる。1つは本の世界で知り合った人たちであり、もう1つは直接に森が出会った人たちである。主だった人たちをあげてみると、明治天皇・勝海舟・西郷隆盛・高橋是清・栗本鋤雲・幸田露伴・依田学海・成島柳北・森鴎外・尾崎紅葉・斉藤緑雨・正岡子規・三遊亭円朝・狩野亨吉・永井荷風などである。

 どの人物についての記述も含蓄があって、わくわくするようなおもしろさである。教養をベースとした文章というのはやはり奥深い。言葉が生き生きとして魂がこもっているのである。

 すべて興味深いものばかりであるが、特に印象に残ったものをあげてみると、まず明治天皇と西郷隆盛のことである。

 明治維新になって、西郷隆盛は明治天皇の教育係になった。明治天皇はまだ10代で若いというより幼なかった。ある日、天皇が馬場で馬術の訓練をしていると馬から落ちてしまった。天皇は思わず、<痛い>といった。西郷はその声をきいて、なぐさめるのでなく、<痛いなどという言葉を、どのような場合も男が申してはなりませぬ>といった。これ以来、明治天皇は生涯どんなに痛くても一度も<痛い>といわなかったそうである。いやはや、やはり西郷とはとてつもなくすごい男である。

 夏目漱石のこともおもしろい。文部省が文芸を普及させるために文芸賞を創設した。この話を伝え聞いた漱石は新聞で、国が文芸に口を出すとは何事かと反論したそうである。実際に、森鴎外・幸田露伴・徳富蘇峰などが選者となって、文芸賞の候補作を決めた。その中に漱石の「門」もはいっていた。最終的に文芸賞を決めることになったが、結局決められなかった。このことを漱石は喜んだ。そして、国が主導する文芸賞もなくなった。この話には漱石の芸術観が出ている。

 漱石の学生時代の同級生の狩野亨吉のこともすばらしい。森が直接狩野に会ったときのことを書いている。狩野は第一高等学校長、京都帝大総長にまでなった人であるが、晩年は護国寺裏の八畳間と三畳間しかない借家に妹と二人きりで住んでいた。狩野は生涯独身であった。その家には本はなく、昔読んだ本のカードだけがあった。ある本の話になるとカードを取り出して、それは読んだといった。清貧そのものである。森は狩野のことを敬愛の念をこめて書いている。私は狩野の偉大さを感じた。偉大なる教育者とは狩野みたいな人をいうのではないだろうか。

 どれもこれも興味深い随筆ばかりである。私は「明治人物夜話」を読みながら、古きよき時代を旅した気分になった。以上、<インターネットによる>

平成二十九年十月十ニ日追加。


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高田宏『言葉の海へ』

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 高田宏「言葉の海へ」は日本最初の本格的国語辞典「言海」の著者大槻文彦の評伝である。一

 人の学者が日本近代化の象徴である国語辞典を単身の努力で作り上げていく過程を、明治維新と云う歴史的大変動と関連付けながら丁寧に浮かび上がらせていた。その点で、明治維新史のちょっと変わったヴァリエーションとしても楽しむことができる。

 大槻文彦は杉田玄白・前野良沢の弟子として日本の蘭学を担った大槻玄沢の孫であり、父親はやはり蘭学者として名をはせた大槻盤渓、兄は大槻如電である。この系譜から読み取れるように、大槻家は徳川末期から幕末にかけて日本の蘭学研究の第一線にあった学者の家系である。その家系のなかから日本最初の国語辞典を完成する文彦が現れた。

 大槻文彦はこの辞典づくりを、文部省奉職時に上司の西村茂樹から命ぜられた。時に明治8年のこと。日本は明治維新を経ていよいよ近代国家として歩み始めていたが、諸外国との間では不平等条約を結ばされ、一人前の国家とは到底言えぬ状態だった。いろいろな面でまだ日本は近代国家としての体裁を整えていなかった。教育システムはようやく動き始めていたが、教育の根幹たる国語教育にいたっては、国語辞典もない有様だった。これでは西洋諸国から野蛮と思われても仕方がない。こんな問題意識から、当時日本の教育を整える立場にあった西村茂樹が大槻文彦に国語辞典の作成を命じたのであった。

 大槻文彦はほとんど一人でこの辞書の作成に従事し、17年の歳月をかけてやっと脱稿する。出版したのは明治24年のことだ。その出版を祝ってささやかな祝賀会が芝紅葉館で催された。出席した人の顔ぶれを見ると、なかなか興味深い。伊藤博文のように当時日本政治の中枢を担っていた人物が駆けつけて、条約改正に向けての日本近代化の努力の一環として国語辞典の完成を祝ったのはともかくとして、出席者の多くは、文彦の故郷である仙台藩関係者のほかは、明六社の出身者など旧幕派と云われる人々だった。

 明治維新史はとかく、薩長はじめ討幕派の西南諸藩の視点から書かれることが多く、旧幕関係者は無視されがちなのだが、実際は日本の近代化に果たした彼らの役割にもバカにならないものがある。大槻文彦はそうした旧幕派を代表する知性として、この大業に取り組んだわけである。

 そんなわけで、この本を読むと、大槻文彦を中心にした人々の交友関係が、討幕運動とはまた別の次元で、日本の歴史の水脈を形成していると感ぜられるのだ。

 大槻文彦は1847年に生まれているから、明治維新の最中には20歳前後の若者だった。だから討幕の志士といわれた人々や、勝海舟や成島柳北といった幕府側のエリートたちとは一回り世代が違う。しかし父親を通じて、そうした上の世代ともつながっているから、彼の周りには自づから、幕末維新史を彩った人間たちの集団像が漂っている。

 大槻文彦は幕府の開成所で基礎教育を受けた。この時の学校の仲間付き合いから、旧幕派と云われる人々との人脈を形成していったと思われる。また横浜の外国人に丁稚奉公して英語を学んだりした。こうした経験を通じて洋学へ目を開いていったわけだ。後に国語辞典を作るに当たり、文彦は日本語と西洋語を比較研究しながら文法学の基礎やら辞典編集の方法論を確立するのだが、そのさいに英語をはじめとした西洋語の理解があったことが、彼の研究を一段と深めることにつながった。

 大槻文彦にとって生涯で最も忘れられない経験は、討幕から維新政府の樹立に至る歴史の動きに自らも身を以て参加したことだろう。

 慶応3年10月、文彦は大童信大夫とともに京都の仙台藩邸に赴いた。その直前徳川慶喜が大政奉還し、朝廷が各藩に参集命令を出していた。だが各藩は政治情勢がどうなっているのか詳しいことがわからない、そこで徳川につくか朝廷につくかで、日和見をしている。仙台藩も同様だった。そこで藩主を上京させる代わりに代理をやり、形勢を見極めようとする。

 だが時間は誰の思惑よりも早く過ぎていく。薩摩が主導権をとって実質的なクーデターを起こし、16歳の明治天皇に「王政復古の大号令」を読み上げさせる。ここに幕府は廃絶され、薩長に刃向うものは朝敵扱いされる。鳥羽伏見の戦いは、佐幕派と薩長との間の象徴的な戦争となった。

 この鳥羽伏見の戦いを、大槻文彦は傍観者としてみている。仙台藩はこの闘いに兵を送ることはなかったからだ。しかし、その後の歴史の流れの中で、仙台藩は東北の反薩長勢力の中心となって、朝廷軍との熾烈な戦いをせざるを得なくなる。その責任を問われて、但木土佐ら、仙台藩の重臣にしてかつての開国論者たちが多数処刑された。大槻文彦の父盤渓も、徳川方の肩をもったことをとがめられて禁固刑に処せられる。

 こうした体験は、大槻文彦という人間に、権力におもねない不屈の姿勢を付与させたと思われる。維新後成島柳北ら旧幕臣たちは、反権力の立場からさまざまな運動に立ち上がったが、文彦もそう派手ではないにしても、新政府の権力主義的政治に対しては厳しく批判するようになる。

 明治9年2月、成島柳北は讒謗率違反を問われ、出来たばかりの京橋監獄にぶち込まれた。その際柳北は、文彦に自分にかわって朝野新聞の論説を書いてくれと頼んだ。文彦は言海の執筆に忙しい日々を送っていたが、ほかならぬ柳北の頼みだからと、一か月間だけ執筆を請け負った。彼の論説は、柳北のような憂国の人材でさえ迫害する薩長藩閥政府への批判となって迸った。

 「嗚呼明治九年は如何なる歳ぞや、妖気将に陰々として我全国を覆はんとするの勢有り」

 彼は薩長の連中が牛耳る新政府の牙城をコテンパンに批判する。彼ら「特別の閥権を振りかざす者」らは「今の普通小学校の学科だも之を知らざる」に、かかる無能の者を閥権で抱え込んで、新政がなるものかという。

 こんな具合でこの本は、大槻文彦の生涯と抱負を描きながら、従前とは異なる視点から明治維新という時代を追いかけている。そこのところが新鮮に感ぜられる。


プロフィル:高田 宏(たかだ ひろし、1932年8月24日 - 2015年11月24日)は日本の編集者・作家、随筆家。 

 京都市出身で石川県加賀市育ち。石川県立大聖寺高等学校、京都大学文学部仏文学科卒業。 光文社、アジア経済研究所で雑誌編集を経て、1964年から11年間エッソ石油(現・JXTGエネルギー)広報部でPR誌『エナジー』を編集。大学時代の友人の小松左京や、梅棹忠夫などの京大人文研のメンバーに多く執筆を依頼し、PR誌を越えた雑誌として評価された。

 1975年に退社し、文筆専業に専念となる。代表作に『島焼け』などの歴史小説をはじめ、樹木・森・島・旅・雪などの自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書百冊ある。 その他には日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また元将棋ペンクラブ会長である。

2017年10月31日


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早乙女貢著『おけい』

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 1869年、アメリカに渡った日本移民団の少女の物語。

 (あらすじ)「アメリカに今も眠る、会津出身の日本初の農業移民おけいの物語」

 明治元年、雪深い会津に暮らす15歳の町娘おけいのもとに、江戸の武家に嫁いだ松乃(まつの)が、初産の後、夫の討死も禍して体調を崩し寝込んでしまったとの便りが届く。松乃を慕うおけいは、すぐに江戸へと向かう。おけいは、途中知り合ったオランダ人商人ヘンリーに、松乃と松乃の乳飲み子を馬車で会津に向かわせることを頼み、自分は歩いて会津に戻る。

 松乃たちより5日ほど遅れて会津に戻ったおけいは、ヘンリーが松乃に結婚を申し込んだことを耳にする。大好きな松乃が異人と再婚をすることを快く思わないおけいだったが、松乃の幸せを奪う権利は誰にもないと自分に言い聞かせる。それと同時に、松乃に裏切られたと感じ、その想いを初恋の人金吾(きんご)へと募らせるようになる。しかし、金吾の心が自分には向いていないことを知る。やがて、金吾や美しい武家娘たちが会津戦争の渦中に身を投じ、次々に戦火の中で命を落としていく。

 生き残ったおけいは東京へ逃げるが、薩摩長州を中心とした西軍政府に捕まる。そのとき助けてくれたのは、ヘンリーと弟のエドだった。そして、おけいはエドの屋敷で松乃と再会する。松乃は生き残った会津人達と一緒に新天地を求めてアメリカに渡る計画を話し、おけいもこの計画に加わらないかと誘う。こうして、おけいを含む会津人一行はカリフォルニア州コロマに渡る。言葉も分からぬ異国の地で農場を築き、ワカマツ・コロニーと名付け、茶や竹の栽培を試みる。しかし、乾燥の激しい土地での農場はうまくゆかず、コロニーは崩壊し、移民団は散り散りになってしまうのだった。

 明治維新の激動の中を生きたひとりの少女の運命を描く長篇歴史小説。

★プロフィル:早乙女貢(さおとめ・みつぐ)大正一五・一・一〜中国ハルピン生。本名鐘ヶ江秀吉。戦後山本周五郎に師事、『僑人の檻』で直木賞。曽祖父が会津藩士で、戊辰の役で戦ったことから、歴史への思いがこもっている。

2017年11月11日



42

にっちもさっちも

朝日新聞に連載されたものを文庫本に


  二つの教え

 敗戦の年、私は小学校五年生、十一歳の子供だった。疎開先の親類の家のぼろラジオで、玉音放送というより雑音放送というほうが正確な、例の放送を耳にして、それでその場では何が何だかわからなかったのだけれども、周囲のおとなちの話を総合して、どうやら戦争に負けたらしいこと、これまでの苦労がぜんぶムダになったこと、これから敗戦国としての苦労が待ち受けていることといった程度の認識が徐々に生じてきた。

 きのうまでは、みたみわれで、銃後の少国民で、撃ちてし止まんで、鬼畜米英で、それがその日を境に、どうもそうではなかったらしいということも、だれに教わるというわけでもなく、何となくのみ込めてきた。

 妙な見方かもしれないが、敗戦の日付が八月十五日という夏休みの最中であったことは、小学校に限っていえば、生徒にとっても教師にとっても不幸中の騒いであったような気がする。新学期開始までの半月間という空白は、教室にとってまたとないクッションの役割を果たしていた。これがもし、平常授業のまっただ中であったら、相手が小学生だけに、教師たちも即座の弁に窮していたのではないかと思う。

 敗戦の効果とショックを新学期までになしくずしに受けとめる結果になって、そのために先生に嘘を教わったというような思考はほとんど働かなかった。十一歳の、それが限界であると同時に、おとなにはない順応性だった。あの時に、軍国主義教育の正体を悟り、教師不信におちいった、というようなことを口にする人もいるけれども、中学生以上ならともかく、十や十一のやわな頭脳で、ほんとにその時にそう思ったのだろうか、と私には疑わしい。

 きのうまでの「黒」を、きょうから「白」だと教えられて、その余りの転倒に不審の念を抱くことはあっても、それを教え込む教師個人に対して不信を抱くことは、この年ごろの子供にはない。猫の目のように変わる戦後の教育にあっても、そのことは立証されている。世の中がどう変ろうが、教師は常に絶対の存在なのである。”聖職”というものは、つまり、そこいらのことを指すわけで、教師はたしかに”労働者”かもしれないが、労働者であってなおかつ聖職に就く崇高な職業人というふうに考えて、どこが悪いのかと思う。

 疎開先のその小学校に、私はほんの数カ月通っただけだった。学童疎開くずれの再疎開という形で、敗戦直前にその小学校に転入、その年の初冬にまた別の土地に移り住んだのだから、記憶も印象もすこぶる希薄である。

 なじみのない教室で、言いつけに従って、せっせと教科書を墨で塗りつぶしながら、さすがに、その作業には抵抗を感じたことを覚えている。子供ごころに、ひどくばかばかしいことをさせられているというようなことを感じて、それがたぶん、みんなの態度に現れたのだろう。受け持ちのY先生という中年の男性訓導が、教室中に響き渡るような声を出していわれた。「墨で塗りつぶしても教科書は教科書である、教科書を粗末に扱ってはいけない」

 Y先生は角ばった顔に黒ぶちの眼鏡をかけ、ぎょろりとした目をむいて、生徒をびしびし叱ることでつねづねこわい先生として通っていたが、教科書は教科書であるといって大声をだされた時のY先生の顔は、声の激しさとは裏腹に、それまで見たことがないような悲しげな表情をたたえており、生徒たちはひそひそ声で、Y先生は泣いているぞ、と肘をつつき合った。

 Y先生の言葉に、その時その場で、感銘を受けたわけではない。ふだんいかめしいY先生の意外な一面に接して、おや、と思ったことはたしかだったが、教科書うんぬんの言葉も、先生の悲しげな顔も、休み時間になったらたちまち右から左に忘れて、それきっきり長いあいだ思いだしたこともない。その、忘れたはずの一情景が何かのおりにありありと甦えるというところに、教育というもののさりげない力がある。さりげない力があるからこそ、ある意味では非常におそろしくもある。

 三、四年前の話である。そのころ公立の小学校に通っていた上の娘が、きょう学校でこんなことを教わった、といって担任のP先生の言葉をそのまま口にした。P先生はすこぶる教育熱心な女性教師で、熱心すぎてしばしば強烈な脱線授業をする癖(へき)があり、そのおどろくべき語録についてはかねがね承知していたが、この日は社会科の授業中に、突然教科書をふりかざして、こう教えたという。

「みんながいま使っている教科書は、ひどい教科書なのよ。だからもっといい教科書を先生たちが作ろうと思っても政府がつくらせないのね。どうしてかというと、もしいい教科書を作って、子どもたちがかしこいおとなになったら、悪いことばかりしている政治家たちは、自分に投票してくれなくなるから困るわけで、だから、わざとみんながバカになるようなこんな教科書ばかり作っているのよ」

 たしかに現行の検定教科書については問題点が少なくないし、ひどい内容のものが目につくことも事実だけれども、だからといって、現在ただいま子供たちが机上にひろげている教科書を教師の口から全面否定するのは、いくらなんでもあんまりだ、と思う。その一言で、子どもたちが向こう十年余りもお世話になる教科書をバカにして、ひいては本というものを軽んじるようにならないとも限らない。

 教科書は教科書だ、とおやじは教わり、教科書は最低だ、と子供は教わった。二つの教えのあいだに三十年の歳月が横たわっている。三十年がかりの、それが、戦後教育の輝かしい成果なのか? 

参考:新約聖書入門

▼江国滋『にっちもさっちも』(朝日文庫:昭和五十九年八月二十日 第一刷発行)P.50〜53より。


  生きざま

 生き方といえばいいところを「生き様ざま」、死に方ですむところを「死にざま」と、わざわざどぎついいい方をするのが最近の流行で、流行なら遅れつちゃならぬとばかりに、若い人たちの口からしきりにその語法がとびだす。ことばというものも一つのファッションだと思えば、べつにどういうこともないわけだが、しかし、使いたくないことばであるなあと思う。自分で使いたくないばかりではなく、江国滋氏の生きざまは、などと人に書かれるのもごめんこうむる。

 生きざま、死にざまとくれば、どうしたつて「さらす」と続けてこそ平仄が合うものであって、人さまの生き方についてかるがるしくそんな表現を用いるのは、思えば無礼な話である。もっとも、口にするほうでは、侮蔑どころか、最高の賛辞のつもりで、喋ったり書いたりする場合がほとんどのようだ。そこに悪意はない。悪意はなくても、日本語としては、お行儀の悪いことばである。お行儀の悪いことばというものは、なるべく使わないほうがいい。

「おれなんか、ノサカ(野坂昭如)の生きざまに共感するんだょな」

「ミシマ(三島由紀夫氏)の死にざまは、だな……」 若い人たちが、いかにもきいたふうな顔で「生きざま」「死にざま」を連発するのは、耳さわりというだけでなく、傲慢でさえある。とくに「死にざま」という物言いは、老境解説の名僧が口にするのならともかく、若者がみだりに使うことばではない。ことばにも越権ということがあるのである。

*『にっちもさっちも』P.132〜133


  手遅れ

 辰野隆(ゆたか)先生といっても、若い人たちにはピンとこないかもしれないが、わが国のフランス文学育ての親で、東大名誉教授で、芸術院会員で、文化功労者で、辰野山脈とかいわれるぐらいの門下から優秀な人材が輩出した。君たちもご存知の大江健三郎さんなどは、辰野先生のお弟子さんの渡辺一夫先生のそのまたお弟子さんで、つまりは孫弟子である。

 その辰野先生が、晩年、しきりにこんなことを口にしておられた。

「わたしはね、もう一度生まれかわりたいと近ごろつくづく思うんです。それでどうするのかというと、もう一度小学校から勉強をやりなおしたい。そして今度こそ、悔いのない勉強をしたいのです」

 念のためにいえば、辰野先生は一中一校帝大という天下の秀才コースをたどり、おまけに東京帝国大学の法科と文化の両方を卒業されている。ほかの人ならともかく、その言葉をを聞いて、先生もどこまで欲張りなんだろう、先生ほどの碩学がそんなことをいうんだったら、おれたち凡遇はどうしたらいいんだ、それにだいいち、勉強のやりなおしだなんてまっぴらだ、と思ったことをおぼえている。

 あれから三十年近くたって、私もいい年をしたおやじになって、それで、ほんとに勉強したいなあと思うようになった。すればよかろうといわれても、いまさらそうは問屋がおろさないのであって、やっぱり小学校から徹底的にやりなおしたいと切実に思う。

 小・中・高・大の新入生の姿がちらほらする桜の季節を迎えるたびに、辰野先生の言葉を思いだしながら、しみじみ手遅れを噛みしめるのである。

*『にっちもさっちも』P.145〜146


  父母在不遠遊

 若者たちの前に『論語』を持ちだすなぞ、ナンセンスのきわみであって、もとより本気で訓辞を垂れているわけではない。九分通りはいやらがせに、ただちょっとそんなことを口走ってみるだけの話なのだけれども、残りの一分に、実をいうと愛着がある。父母在(いま)セバ遠ク遊バズという言葉には、えもいわれぬ含蓄がある。その含蓄を、あまりにも省みなすぎるところが歯がゆくてならない。

*『にっちもさっちも』P.150


  いちばん美しいことば

  言霊の幸(さちお)う国だもの、美しいことばは数かぎりなくある。いや、あった。あの美しいことばのかずかずを、現代人はいったいどこに棄ててしまったのか、と思う。たとえば、と指おり数えてみたところではじまらない。棄て去ったことばを改めて拾い集めることはできても、集めて生命をふきこむことは不可能である。血のかよわないことばは、単なるアクセサリーにすぎない。アクセサリーといえば聞こえがいいが、はっきりいうなら死骸である。

 昨今流行の「先どり」だの「権利」だのというなにやらあさましいことばの背後には、美しいことばの累々たる屍が横たわっている。それらを集めて、言霊の過去帳を作ったら、百ページや二百ページの小冊子がたちどころにできるにちがいない、それを「広辞苑」に対する「狭辞苑」と名づけて刊行したら売れないか、うれないな。

 ことばというものは生きもので、だから生きたりしんだりするのはもとより当然である。よそゆきの美辞麗句や、口先だけで心のこもらないことばなどは、むしろ葬り去るほうがよろしい。ほろぶべくしてほろぶことばはそれでいいとして、日常生活をささえるごくあたりまえのことばが急速に姿を消してゆくのが、私には身を切られるようにつらい。

 日本語のなかで、いちばん美しいことばは何か、それはもう各人の主観に属することだから、正解はありえない。ただ、私には私の答えがある。いちばん美しい日本語は、女性、とくに妻と呼ばれる人の口から発せられる「はい」という二字だ、と私はかねがね考えている。簡にして明、すがすがしくて美しいこのことばを、近ごろとんと耳にしなくなった。世の奥さまがたの語彙から「はい」ということばはなくなって、かわりに登場したのが「だって」である。美しいことばの極致を「はい」とすれば、醜いことばのどん底に「だって」がある。あれだけ美というもに執着する女性がどうして醜いことばを乱発したがるのか不思議でならない。

 お断りしておくが、これは一から十まで亭主のいいなりになれとうことではない。一から十まで「だって」というな、というだけの話である。反論は反論として、まず、なにはともあれ「はい」と答える習慣を身につけてごらんなさい、奥さまがたのお顔が五分方美しくなることはうけあい。みなさん美人になりたくないのかなあ。

*『にっちもさっちも』P.158〜159


  一陽来復

 文筆という夜行性の職業習慣がすっかり身について、それで、もう長いこと元日のすがすがしい朝の空気を吸ったことがない。ましてや、初日の出を拝むなどぞという健全にして健康な行為は、発想にすら浮かんでこない。

 初日の出は知らなくても、しかし、初太陽は知っている。たとえば日は中天に高くとも、初太陽は初太陽であって、元日のうららかな陽光の味はまた格別である。いくつになっても、心に躍動するものを覚える。一陽来復、と思わずつぶやきたくなる。

 ことしこそは、という年頭の決意と希望に「一陽来復」という言葉はいかにもふさわしい。年賀状にしたためてもおかしくないし、書初めに用いるのも悪くない。だから、この言葉を、私は年頭縁起の言葉だとばかり思っていたのだが、あるとき字引を引いていて、たまたまその説明が目についた。一陽来復というのは、もともとは陰暦十一月または冬至の称であって「陰きわまって陽が来たり復する意」と辞書には出ている。陰きわまるのが十月で、十一月にはじめて一陽を生じるのだそうである。転じて「やっとよい方に向うこと」とある。この説明はうまい。「やっと」という一語に千鈞の重みがある。

 新しい年を迎えて、さあ、これからはやっとうまくいきそうだ、と自分自身にいいきかせることによって軽い興奮を覚えるのは、その予感が決して当らないことを、実は無意識のうちに承知しているためかもしれない。ことしこそは、と去年も思い、おととしも思い、さきおととしも思った。この元日にも思うだろうし、来年も、再来年も、そう思うにちがいない。

 一陽来復ーーやっとよい方に向うこと。この言葉が私は好きである。私の好きな、その同じ言葉を、田中某なる無所属代議士も目白台の高いへいの内側でこの正月にはつぶやくのかと思うといまいましい。

*『にっちもさっちも』P.182〜183


  法の日

 法というものは、守るためにあるのか、破るためにあるのか、それがだんだんわからなくなってきた。いろいろ考えてみたが、つらつら世間を打ち眺むるに、どうやら人には二種類あるようである。法という言葉を聞いて、反射的に遵守を心掛けようとするタイプと、反射的に法網をくぐることを考えるタイプである。

 法治国家である以上、その前提には前者のタイプの集合体があるはずなのにもかかわらず、後者のタイプが年々ふえているようなきがしてならない。実際に法網をくぐるかどうかは別として、法に対する忠誠心が、いちじるしく希薄になっていることは否定できない事実だろう。

 どうしてそうなったのかという原因を究明してゆくと大論文になってしまうが、さまざまな原因の一つに、法律そのものが人心を堕落させていることがあって、これはユユしい問題なのである。

 俗にいう"ザル法"の存在と、その不徹底な適用が、人の心を知らず識らずのうちに荒廃させ、人びとの法に対する不感症を助長している。多くのザル法の中でも、とりわけひどいのが政治資金規正法と売春防止法と道路交通法であって、日本の三大ザル法といってよさそうである。

 いまは日本中に運転免許証を持っている人が何千万人いるか知らないが、道交法を正確に遵守している運転者はただの一人もいないはずである。そうして、その違反車に乗せてもらうわれわれ非運転者も結局は同罪であって、これを要するに、道交法に関する限り一億総違反者といっても過言ではない。こういうことは、おそろしことなのに、だれもそのおそろしさを口にしないところが、さらにおそろしい。

 十月一日は「法の日」で、あとの一週間を「法の日週間」というんだそうだ。そんなことよりさきに、ザル法群を何とかしてもらいたいと切望する。

▼『にっちもさっちも』P.194〜195より。


春秋 2016/2/17付

 運転手は人工知能(AI)だ――。グーグルが開発を進めている自動運転車について、米運輸当局は先週こんな法解釈を示した。実用化までに乗り越えなくてはならないハードルはまだまだ多いらしいけれど、画期的な変化がいよいよ現実味を帯びてきたといえそうだ。

▼運転免許制度はどうなるのか。事故が起きた際の責任は誰が負うのか。そもそも、故意とか過失といった考え方が通用しなくなるのではないか。保険はどうなるのか。ヒトではなくAIを運転手とみなすなら、これまで自動車をめぐって整えられてきた様々な仕組みを抜本的に見直す必要が出てくるのは、目に見えている。

▼道路交通法の先駆けともいうべき自動車取締令が施行されたのは大正8年2月。97年前のことだ。その第1条は自動車を次のように定義した。「原動機を用い軌条によらずして運転する車両」。今となっては自動運転車こそ自動車の呼び名はふさわしい、などと思ったりする。言葉もまた見直しを迫られるのかもしれない。

▼技術革新にともなって法制度や言葉が変わるのは当たり前だ。大切なのは、不幸を減らし幸福を増やすよう、技術の活用と制御、さらなる革新を促す知恵だろう。15人の犠牲者を出した軽井沢のスキーツアーバス事故から、1カ月あまり。自動ブレーキの装着を前倒しで義務化していれば。そんな悔しい気分が、消えない。


  日記果つ

 読んで字のごとし。こと多かりし一年間のあれこれを克明にとどめた日記帳が、いままさに終わるころだという感慨を「日記果つ」の一語に封じ込めたところに、俳句の季語のおもしろさがある。この種のおもしろさは、わからない人にはわかrたないのであって、それがどうした、といわれればそれまでの話である。

   押し花にひそめしことや日記果つ  多恵女

   余白のみ多く日記の果てにけり   南山寺 

 そうか、それがどうした――。だいたい俳句などというものは、十七音で構成される繊細微妙な小世界であるだけに、どんあ名句も、それがどうした、といわれたらたち、まち返答に窮してしまう。

   いざ行かん雪見にころぶところまで 芭蕉

 それがどうした。

   河豚汁の我いきて居る寝覚めかな  蕪村

 それがどうした。

 ミもフタもないとはこのことである。

「日記果つ」と並んで「日記買う」というのも、同じ歳末の季語とされている。過ぎ去りゆく一年に目を向ける前者に対して、後者は未知の一年をこれから迎え入れるという期待とよろこびが主眼となっている。

 攪乱の日記の一つ買ひにけり      喜舟

 それがどうした。吟味されたどんな素晴らしい俳句でも、それがどうしたといわれればそれまでである。俳句ばかりではではない。たかだが一枚半や二枚の短文――早い話がこのコラムの文章なとというものも、それがどうした、といわれtかrぁ、いや、べつにどうもしません、と答えるしかない。すなわち無用の閑文字につき合って下さる読者の忍耐をありがたい、とつくづく思う。

▼『にっちもさっちも』P.198〜200より。


★プロフィル:江國 滋は、東京出身の演芸評論家、エッセイスト、俳人。俳号は滋酔郎。

平成二十八年二月十七日

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43

吉村正一郎『待秋日記』(朝日新聞社)


 七月

  七月三十日(土)

 唐招提寺長老に風致審議会の委員会諸氏と共に蓮飯の昼食会に招かれ、楽しみにしていたが、からだの調子がわるいので出席を断る。

 午後内田君マッサージに来てくれる。

 四時過ぎ女子大扇田教授、唐招提寺の帰途来訪。台所、風呂場のやり替ええについて教示を受けたいので一度来てほしいと頼んでいたのだ。寺から茉莉花の枝をもらって来て二本 くれる。さっそく鹿沼土に挿木する。

  七月三十一日(日)

 ガラクタ会に、岩坂君車で迎えに来てくれる。行くつもりだったが、やはりやめることにする。よく熟れた小粒のトマトを貰う。食欲はほとんでないが、こんなのなら食べられそう。夕方、五つ六つ口にしたが旨かった。

 午後、照子、ぼくの病気についてはじめて真実を打ち明ける。

 昨年八月十七日天理よろず相談所病院に入院、一週間の精密検査、点滴注入の後、二十三日、幽門狭窄の手術を受け、胃の三分の二切除したが、それは胃癌であった。幽門部のガンが出来、それも胃壁の外側にまで及んでいた。病状は初期の段階を過ぎ、末期ではないがその中間の二期敵なところまで進んでいた。肝臓に転移は見られなかったが、リンパ腺の二た筋目まで拡がっていたので、四節目で切除した(この辺りのことはぼくにはよく解らず)。

 しかし病気の進行は予想よりも早かった。腹膜に転移していると思う。このままで行くと、今度はガンは一箇所ではなく、星のようにばら撒かれているから手術は出来ない。手の施し洋はない。痛みがひどくなれば医者としては痛み止めの麻薬を注射して痛みを和らげることしか出来ない。云々。

 以上のことを照子は、七月二十五日月曜に天理病院に行った際、ぼくと岩坂君とが帰ったあとで、柏原貞夫博士(副院長、腹部外科部長)から大略を聞かされたのである(話の内容は、さらに八月一日月曜、照子、真美、天理病院に行き柏原氏から補足的に聞いた部分も入っている)。

 ぼくは照子の話を聞いて、かくべつ驚かなかった。ショックというほどのものは受けなかった。平然としていたと言うと嘘のように聞こえようが、嘘ではない。何故平気でいられるのか。どういうことなのか。ぼく自身分からない。ガンは不治の病とされている。お前は実はガンンあのだと言われて、そうか、そうだったのか、とまるで自分のことでないような気で居られるというのはどういうことなのだろう。極度に暢気なのか、鈍感なのか。無神経なのか。高僧のように生死を超えた心境にいるのだろうか。昨年手術の当時、奈良の岡谷(実)病院長のレントゲン写真を見ての説明では、幽門部に潰瘍が出来たり癒ったり、そんなことが繰り返されて、その痕がケロイドになり幽門がつまったのだということであったが、ぼくは岡谷先生はそうは言うけれど、ほんとうは癌ではないのかと疑っていた。癌であって少しもふしぎでない。大いに有り得ることだ。照子の告白を聞いてかくべつショックを感じなかったのも、そうした心の準備がなにがしかあったためかも知らなかった。

 照子は、明朝真美を連れ、大阪鶴橋の指圧療法の人の所に行き、翌二日の受診の予約をし、帰りに天理に行き、柏原先生からさらによく聞いて来るという。ばくは照子の言う通りにすると約束した。

 中略

 九月

  九月三十日(金) 曇 のち天気やや回復

 今日は朝から腹の痛み持続してやまず、不快。便通後少し楽になるが、しばらくすると痛み出す。七月二十五日に天理で柏原先生の診察を受け、家内は転移再発を知らされたが、それから二ヵ月を経た今日、当時の病状と比較してやはり悪くなっているように思う。あのころは痛みはあったが、今ほど持続的ではなく、下痢の頻度も今ほどではなかった。病気の進行は緩慢だとは思うが、進行していないのではない。


米とサケ

 一つの民族が二つの国家に分裂している状態はいかにも不自然であり、不安定に見えて仕方がない。わたくしたち日本人の多くは、このような状態を民族の大きな不幸と考えている。東西両ドイツ、朝鮮の北と南、北ベトナムと南ベトナムについて、いつもそう考えているのである。  一つの民族が二つの国家に分裂してたがいに敵視していては平和は来ない。たしかにそうであるが、だからこそ、二つの国家に分裂しているのはよくない、何とかして分裂状態が一つにまとまらなければ本来のすがたにならないというのが、わたくしたちの大多数の意見であり気持である。

 分裂状態の<不自然><不合理>にわたくしたちは不安を感じる。ましてやその分裂が民族本来の意志によるものでなく、外部の力によって余儀なくされたとあってはなおさらである。外部の力を排除して、民族自決の原理によって一つに統合されなければならぬと思うのである。

 NHKが最近放映した東西両ドイツのテレビ・ルポルタージュで、ドイツ人に対する鈴木アナウンサーの質問の中心はいつも「東西両ドイツの分裂をドイツ人はどう思うか」であった。同じ趣旨の質問は東西両ドイツの若者たち、西独のブラント首相にもなされた。鈴木さんは「それはドイツ民族の最大の不幸だ。何とかして一日も早く一つのドイツ国家をつくりたい」という答えを期待していたようであったが、多くの答えはかならずしもこの期待に副うものではなかった。

*ウィリー ブラントWilly Brandt(1913.12.18 - 1992.10.8)ドイツの政治家。元・西ドイツ首相。リューベック生まれ。本名Herbert Ernst Karl Frahm。売り子をしていた母親の私生児として生まれた。1930年社会民主党に参加し、’31年社会主義労働党に移る。’33年ノルウェーに亡命しオスロ大学で歴史学を学ぶ。’38年ノルウェー国籍を取得。’44年社会民主党に復党し、’45年帰国、’47年ドイツ国籍に復帰。’49年連邦議会議員となり、’57〜66年まで西ベルリン市長、’64年党首、’69年首相を歴任。’74年ギョーム事件で引責辞任。’79年社会主義インターナショナル議長となる。’71年ノーベル平和賞を受賞。主著に「Der Wille zum Frieden」(’71年)等がある。

「東西ドイツは将来一つに統合されることになるかもしれない。しかしそれはわれわれにとって当面の問題ではない」

「二つの国家に分裂したのは、それはそうならざるを得ない理由があったからで、これはそのままでよい」

「東ドイツは西ドイツに比べてひどく貧乏だといわれていたが、いまや、そうではなくなった。卵でも肉でも生産がうんと上がった。社会主義でなければこんなことは出来はしない」

 西ドイツの若者の一人はいった。

「ドイツ民族が二つの国家をつくっていても、一向に構わないじゃないか。国家というものはもともと人間が生活するための組織にすぎない。ドイツが一つの国家になれば大国になる。大国なぞは出来ない方がいいのじゃないか」

 要するに、この問題についてドイツ人の考えは政治家にも一般大衆にも共通したものを含んでいて、それはわたくしたち日本人とはよほど違ったものだということである。鈴木アナウンサーはやはり日本人の一人として、わたくしたちが共有している同じ固定観念と情緒の上に立って、ドイツ人たちにいかにも日本人らしい質問を繰返したのである。

「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり……」と」いわれた日本列島が一つの国家に統合されて千数百年を経ている。単一民族国家としての歴史過程の中で、わたくしたちは一民族即一国家という国家観念を固定させてしまったのである。アメリカのような多民族一国家の経験もなければ、中近東のような一民族多国家の経験もない。わたくしたちは一民族一国家の生活体験しかないのである。

 長い歴史の経緯の中で、日本人のものの考え方が成長し変化し定着し固定化したのは自然の成行きではあったが、それはそれとして、世界の他の民族にはおのずからまた別個の考え方や感情があることを知らねばなるまい。わたくしたちの<不自然><不合理>は彼らの不自然、不合理でははさそうだし、わたくしたちの<不安>や<不幸>はかならずしも彼らの不安や不幸ではないはずである。国際交流も国際親善も先ず自他の相違の認識から出発しなければならぬであろう。

 白河樂翁(松平定信)の「花月草紙」に次のような話がある。

――さる人の話に、アイヌ人に米の飯を与えたところ、大そうよろこんで食ったのはよいが、そこら辺りに米粒をやたらとこぼした。「オイ、米は人間の命をつなぐものだ。なぜそんなに粗末にするのか」と小言をいうと、「わしらは米で命をつないでいるのではない。サケという米を食うて生きているのだよ」という。「それなら、サケを米として命をつないでいるのなら、それを尊ぶのが当たり前だろう。お前がいまその足に穿いているのはサケの皮じゃないか」。アイヌ人はちょっと首をかしげて答えた。「あんたが足に着けていなさるそのワラジとやらは、米の生える草じゃないのかね」

(『朝日新聞』 一九七三年三月十日)P.207


スポーツの意味

 あす八日は立秋、甲子園の高校野球がはじまる。ジリジリと煮えつまった暑さを吹き抜ける風もいくぶんさわやかで、秋の予告が感じられる。高校野球の清純な面白さはプロ野球では味わえない。やはり独特のものである。

 毎年このころになると、思い出すことが一つある。むかし新聞記者時代に短評欄に「スオーツは暇つぶし」と書いたところ、審判員たちが「このクソ暑いのに暇つぶしとは何を言うか」とカンカンになった。私はもとより審判員諸君の労を多としているので、彼らが暇つぶしをしているなどと言ったのではなかった。それを自分たちが侮辱されたと早合点したのはやはり暑さのせいであったかも知れない。

「スポーツ」という英語の本来の意味は「パスタイム」、すなわち「暇つぶし」ということだ。余暇を楽しむ、気晴らし、娯楽、レクリエーションなのである。

 わが国にはむかしから武芸の伝統があり、これはサムライ精神の技能的表現と言ってよいが、これとまったく異質の「スポーツ」が明治になって西洋から輸入されたとき、これを日本流に武士道の延長線上で受け入れたのは自然であった。遊びや暇つぶしは日本ではよいこととは考えていなかった。

 旧制高校時代に陸上競技をやっていた私の友人は応援団に「死んでも勝て」と言われ、「だれが命がけでやるか。おれは道楽で走っているのだ」とやり返した。彼はスポーツの本当の意味を心得ていたのである。

 緊張の持続という点でスポーツは戦争に似ていても、本質は遊びだから戦争とはまるで違う、戦争なら食うか食われるか。とことんまでやらなくちゃ収まりがつかないが、スポーツにはドロンゲームもあればドクターストップもある。しかし白旗を掲げて降参なんてことはない。

 理解よりも誤解を得意とする人のために念のために書き添えると、スポーツは遊び、暇つぶしだと言っても、いい加減な気持ちでやればいいと言っているのではない。精魂を傾けて全力を投入して雑念から解放され、没我の境地に入ることが出来るなら、これこそ真の遊びでありスポーツの理想だと言いたいのである。

(『大和タイムス』一九七五年八月七日)P.214


先生とサムライの国

 肩のこらないお話を一席

 プレジダンといえばフランスでは大統領のことだが、何もエリゼ宮の住人だけとは限らない。首相(正式の名称は閣僚会議議長)もプレジダンなら、市議会議長もプレジダンである。商工会議所頭取もプレジダンであることはいうまでもない。その他まだまだいくらでもあり、およそ“長”と名のつくものなら、だれでもプレジダンだと心得ていて間違いなかろう。

 「お国ではそこらじゅうにプレジダンがうようよしていますね」と日本に長く住んでいるあるフランス人を冷やかしたら、

 「魚釣り会の会長さんだってプレジダンですよ」と笑った。  「ところで」と彼は皮肉な微笑をつづけながら、「そういえば、日本ではだれでもセンセイですね。国会議員もセンセイなら市会議員もセンセイ、あなただってセンセイの一人なんでしょう」と一矢を報いられた。

 これで勝負は引き分けになった。

 なるほど、わが国では本職の先生以外に“師”と呼ばれる先生が大勢いる。本職の中にデモ・シ先生というものもあるらしいが、それはさておき、お寺さんの何々師はよいとして、理髪師、美容師、マッサージ師、浪曲師、奇術師、勝負師、労務者を集めて仕事先に送り込むのが手配師、すべてなにがしか技能をもっていれば、だれでも“師”――先生の仲間入りが出来るわけだ。

 そこでふと思い浮かんだのは、多いのは先生ばかりでない。サムライも大勢いる。博士、学士からはじまって、弁護士、会計士、司法書士、棋氏、調理師、運転士、機関士、航空士、――知的職業人の中からサムライを数え上げれば、力士などは知的職業ともいえないが、まだまだいくらでもいるだろう。

 腰に大小をさしたサムライはいまでは時代劇映画の中にしかいないと思ったら大違いんで、刀こそささないが、背広姿のサムライがそこらあたりにうようよしているのが日本なのである。

 センセイ日本! サムライ日本! なぜこんなにセンセイとサムライが多いのか。その理由を読者が考えてごらんになるのも一興だろう。

(『大和タイムス』一九七五年九月七日)P.215


変装老人

 ある老人がこんな話をした。

――近鉄では車両の両端の座席を、年寄やからだの不自由な人のための優先席にしている。さて坐ろうとすると、座席はいつも詰まっていて坐れない。

 その特別席を独占しているのは若者たちで、両足を八の字に開き、一人で一・五人分くらいのスペースを占領している。

 ものはためしとその前に立ってみるがだれ一人席を譲ろうとする者はない。わたしは老人ながらも脚が丈夫だから、立っていても別に困らない。近ごろの若者はわたしなどよりもみな体力が衰えているのですな。

 老人は非難とも皮肉ともつかぬことを言って微笑を浮かべた。

 「しかし」と私は言った。

 「それはほんとうに若い連中だったのですか」

 「その通りです」

 「近ごろは髪を染めたりカツラを被ったりするのが流行っているようだから、老人が若者に変装しているのじゃありませんか」

 「なるほど、それは気が付かなかった。そうかも知れませんね」

 「みんな居眠りをしていたでしょう。昼寝をしているのが老人の証拠ですよ」

 「なるほど、なるほど、それじゃ、あの若者たちは見かけは若者でも実は老人なんですな。老人の変装ですか。そうとは気が付かなかった」

 「だって、窓ガラスに老人・身体不自由者の優先席というステッカーが貼ってあるでしょう。ほんとうの若者なら、みんな高校ぐらいは出ているはずだから、あの字が読めないはずはありません。あれを読めばあんな場所に坐るはずはありません。でも近ごろは学力がだいぶ低下したという話だけど」

 「いや、これは驚きました。先生は推理小説を研究なさっていると聞きましたが、さすがは大した推理力ですね」

 私は褒められて少し得意になり、言うつもりもなかったことに、つい口をすべらした。

 「近鉄が老人やからだの不自由な人のためにいくら気を遣ってくれても、それ以外の人々が無関心なら、せっかくの配慮も無になることです。福祉社会は社会全員の協力なしには成り立たぬということですね」

(『大和タイムス』一九七五年十二月二十二日)P.217

★プロフィル:吉村 正一郎は、日本のフランス文学者、文芸評論家、翻訳家。 滋賀県甲賀郡水口町に、のち広島市長の吉村平造の長男として生まれる。弟に映画監督の吉村公三郎がいる。1925年京都帝国大学文学部仏文科入学、1928年同卒業、朝日新聞社に入社、京都支局長、パリ特派員、論説委員を歴任し「天声人語」を書く。

平成三十年一月八日



44

Who are you? あなたは だれ?


 『ソフィーの世界』(NHK出版)が話題をよんでいる。書店では非常に目につきやすいところに積まれている。

「あなたは だれ?」の問いから書き始められている。この問いに、ふと立ち止ったあなたは、もうこのファンタジーの主人公ですと説明されていた。

あらすじ

 十四歳の少女、ソフィー・アムンゼン。ノルウェーにある小さな街の、森の近くの家に住んでいる。父親はタンカーの船長でほとんど家におらず、いつもは母親とふたりきりで生活している。

参考:ソフィー・アムンゼンの住所は、張り付けている写真:ペーパーバックに下記の記述あり。カバノキ(シラカバ)の葉が緑になっている。北国で、季節は新緑であることがわかる。 

 Sophie Amundsen was on her way home from school. She had walked the first part of the way with Joanna. They had been discussing robots. Joanna thought the human brain was like an advanced computer. Sophie was not certain she agreed. Surely a person was more than a piece of hardware?

 When they got to the supermarket they went their separate ways. Sophie lived on the outskirts of a sprawling suburbs and had almost twice as far to school as Joanna. Tere was no other houses beyond her garden. This was where the woods began.

She turned the corner into Clover Close. At the end of the road there was a sharp bend, known as Captain’s Bend. People seldom went tht way except weekend.

It was early May. In some of the gardens the fruit trees were encircled with dense clusters of daffodils.The birches were already in pale green leaf.

 五月のある日、ソフィーは差出人のない封筒に入った自分宛の手紙を、郵便受けの中に見つける。切手も貼ってない。開けると、そこには、

「きみは誰?」

と一言だけ書いてあった。翌日また同じような封筒が。

「世界はどうして出来たの?」

 その中にはまた、そんな問いが書いてあった。

 そのまた翌日、ソフィーは郵便受けに分厚い封筒を発見する。開けてみると、それは「哲学者」からのものであった。彼女は、引き込まれるように、その哲学者からの手紙を読む。そこには「哲学とは何か」、「人間には何故哲学が必要か」が書かれていた。

 その後、ソフィーは数日に一度、郵便受けの中に分厚い封筒を見つけるようになる。その封筒の中には、西洋における文明の起源から今日までの哲学者とその主張が、その時々の背景とともに説明された手紙が入っていた。ソフィーは不思議に思いながらも、その内容に興味を持つようになる。

 見知らぬ人物から哲学の通信教育を受けていることを、ソフィーは母親にも親友のユールンにも隠していた。母親はソフィーに差出人の書かれていない手紙が頻繁に届くので、誰か男の子がラブレターをよこしているのだと思い込む。

 ソフィーは自分に手紙を送る人物が誰であるのか、知りたくて仕方がない。彼女はある日、哲学者をお茶に招待する手紙を書いて郵便受けの横に置いておく。数日後、彼女は返事を受け取る。そこには、

「まだ我々は会う時期ではない。」

と書かれていた。差出人はアルベルト・ノックスとなっていた。奇妙な名前であるが、それがこの哲学者の名前らしい。

 ソフィーは一晩中起きていて、誰が手紙をソフィーの家の郵便受けに入れるのか突き止めようとする。そして、夜中にバスク帽をかぶった中年の男を見つける。

 哲学者からの手紙の他に、不思議な絵葉書がソフィーの家に届き始める。宛先は「ソフィー・アムンゼン方、ヒルデ・ミュラー・クナーク殿」となっている。差出人はレバノンの国連平和維持軍に働くノルウェー人の陸軍少佐アルバート・クナーク、ヒルデの父親であるという。しかし、ソフィーは、ヒルデにもその父親にも、会ったことがない。どうして、ヒルデの父が、自分宛に絵葉書を送り続けるのかを考えると、ソフィーは混乱するばかり。そのうちに、その絵葉書は、ありとあらゆるところに登場しはじめる。あるときは通学路の電柱に貼り付けられていたり、あるときはソフィーの家の台所の窓ガラスに貼り付いていたり。一体、誰がどのようにして絵葉書を届けているのであろうか。

 「哲学者」アルベルトは自分の正体をソフィーに見られたことに気付き、手紙を届ける方法を変える。自らが届けるのではなく、「メッセンジャー」に届けさせるという。果たして、そのメッセンジャーはラブラドール犬のヘルメスであった。ヘルメスはソフィーの家の庭にあるソフィーの秘密の隠れ場所、木の洞穴の中に、手紙を届けにやってくる。

 ある日ソフィーはヘルメスの後をつける。しばらく森の中を行くと、湖の畔に出た。向こう岸には小さな家が建っていて、その煙突からは煙が上がっている。

 ソフィーはつないであったボートに乗って、向こう岸に渡り、その家の中に入る。果たしてそこが、アルベルトとヘルメスの住処であった。そこには古い鏡と、二枚の絵が掛かっていた。一枚は「ビルクリュー」と名付けられたある家と庭の絵、もう一枚は「バークレー」という哲学者の肖像であった。

 ソフィーは誰かが帰ってきた気配に驚き、急いで立ち去る。そのとき、「ソフィーへ」と書いた封筒を思わず持ち帰る。乗ってきたボートは岸から離れてしまっていたので、ソフィーはずぶ濡れになりながらボートに泳ぎ着き、対岸に上がる。

 アルベルトはあるとき、ヴィデオカセットをソフィーに送りつける。ソフィーがそのヴィデオを見ると、舞台はアテネであった。アルベルトが写っており、彼はヴィデオの中からソフィーに話しかける。アルベルトはヴィデオの中から、アテネの三大哲学者、ソクラテス、プラトン、アリストテレスについての話をする。

 ソフィーが帰りの遅い母親に代わり夕食の準備をしていると、電話が鳴る。受話器を取る。アルベルトであった。彼は明朝四時に町の教会まで来るようにソフィーに告げる。ソフィーは母親に、ユールンの家に泊まりに行くと言って家を出る。そして、実際は真夜中過ぎにユールンの家を抜け出し、教会に向かう。教会には僧服を纏ったアルベルトが居た。そこで彼は、中世について、その間の哲学の不毛時代について説明する。そのようにして、アルベルトは場所と演出を色々変えつつ、ソフィーに会い、西洋哲学の歴史についての講義を進めていく。

 ヒルデ・ミュラー・クナークは目を覚ます。もうあと数日で彼女の十五歳の誕生日がやってくる。彼女のもとに小包が配達される。それはレバノンの国連平和維持軍で働く父親、アルバート・クナークからのバースデープレゼントであった。その荷物を開けると、中には分厚いファイルが入っていた。それは一冊の本と言ってもよかった。そしてそのタイトルには「ソフィーの世界」と記されていた。ヒルデはその本を読み始める・・・


▼九五年実践人夏季研修大会(静岡県三島:富士社会教育センター)に参加八月二〇日、藤本幸邦住職の講演「はきものをそろえる」を聴講。
 お話の中で、「自分とはなんですか」「自己とはなんですか」「日本人の自己とはなんですか」と参加者に問いかけられた。読んだあれこれの本を思いうかべようとしたがまともな答はでてこない。一体、これまで何をしていたのか。

▼八月末、日曜坐禅の坐禅が終わり、原田老師にこの問題を質問した。

 「禅宗ではどんなに考えるのですか」と。

説明できます。しかしそれは私のものであって、貴方のものではありません。貴方が自ずから考えることです。おこたえしないほうがよいでしょう

▼香厳が禅師に教えをお願いしたとき、大潙は答えた、「われなんじがためにいわんことを辞せず。おそらくはのちに、なんじわれをうらみん」。

 のちに香厳は悟った。

▼坐禅参加者の一人は生涯の問題ですよねと呟いていた。

補足:老師のお言葉は鉄槌でした。あらためて、心に銘ずるために、大潙禅師と香厳智閑禅師とのやりとりを岩波文庫より書き写しました。
 『正法眼蔵』の「渓声山色」に、
 香厳智閑(きやうげんしかん)禅師、かって大潙大円(だいゐだいゑん)禅師の会(え)に学道せしとき、大潙いはく、
 「なんじ聡明博解(はくげ)なり。章疏(しょうしょ)のなかより記持(きぢ)せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取(どうしゅ)しきたるべし」。
 香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得(ふて)なり。ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍(しょじゃく)を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて、年来のあつむる書をやきていはく、「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生(ししょう)に仏法を会(うい)せんことをのぞむまじ、ただ行粥飯僧(あんじゅくはんぞう)とならん」といひて、行粥飯して年月をふるなり。行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益(あんいき)するなり。このくにの焙饌役送(ばいせんやくそう)のごときなり。
 かくのごとくして大?のまうす「智閑は心神昏昧(しんしんこんまい)して道不得(どうふて)なり、和尚わがためにいふべし」。
 大潙のいはく「われ、なんじがためにいはんことを辞せず。おそらくはのちになんじわれをうらみん」。
 かくて年月をふるに、大証国師蹤跡をたづねて武当山にいりて、国師の庵のあとにくさをむすびて、為庵(いあん)す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併浄(ひんじん)するちなみに、かはらほとばしりて竹にあたりて、ひびきをなすをきくに、豁然(くわつねん)として大悟(だいご)す。沐浴し、潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、「大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事(じ)あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり」。つひに偈をつくりていはく、(省略)
 この偈を大潙に呈す。
 大潙いはく、「此子徹也<この子、徹せり>」。


小林裕子『眠りの悩みが消える本』P.187〜189

北欧のバースデー

 二〇〇〇年に公開された二本の北欧の映画作品。これらには、朝目覚めるのが楽しくなるような、ある共通のシーンが存在する。

 一本は、『ソフィーの世界』というノルウェーの作品。これは原作が全世界で一五〇〇万部以上、日本でも二〇〇万部を超えるベストセラーとなったので知っている人も多いはずだ。原作者のヨ―スタイン・ゴルデルは、ノルウェーの高校元哲学教師。この『ソフィーの世界』は、とっつきにくいと思われがちな哲学について、子供向けにわかりやすく説いた、いわば哲学指南書といえる一差冊である。

 ある日、ソフィーという一四歳の少女のもとに「あなたはだれ?」とだけ書かれた謎の手紙が届く。そして、それをきっかけにソフィーは「自分とは何か」の答えを見つけるために、ソクラテスやレヲナルド・ダ・ヴィンチなどの哲学者が生きた時代、さまざまな歴史的事件が起こった場面などへ、時空を超えた旅をすることになるのだ。

 二本目は『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』というスウェーデン映画。この作品の原作者は、『長く下のピッピ』で有名なスウェーデンの童話作家アストリッド・リンドグレーン。彼女が一九五八年から書き始めた『ロッタちゃん』シリーズは、スウェーデンの子どもたちに読みつがれている定番の作品で、この映画のヒットにより、日本でも邦訳された絵本の人気が高まった。

 ロッタちゃんは、両親にも兄姉にも近所の人々にも、赤ちゃん扱いされるのが気に入らなくて、いつもしかっ面をしている五歳の女の子だ。その少々生意気な彼女の日常生活や、彼女が遭遇するちょっとした事件を描いた物語がこの作品である。

 これら二本の映画に共通して登場する場面とは、主人公の誕生日を祝うシーンだ。

 誕生の朝、ソフィーが、ロッタちゃんが、寝ているところに、家族が年の数だけロウソクを点したケーキとプレゼントを持って、「今日は何の日? 特別な日」という独特のバースデーソングを歌いながらやってくる。誕生日を迎えたヒロインは、朝のベッドの中で、お姫様になったような気分で、プレゼントの包みを開けたり、ケーキを食べたりできるというわけだ。

 北欧では、誕生日の朝に、寝起きをおそって祝う習慣があるという。こんな嬉しい目覚め方なら、夜型タイプの人が少々早めの時間に起こされたとしても、大歓迎のはずだ。

 日本でもこれを真似て、年に一度こんな嬉しい朝の目覚め方をするというのもいいかもしれない。興奮して、前の晩はかえって寝つかれないかもしれないが。

早石 修=監修 小林裕子『眠りの悩みが消える本』日経ビジネス文庫(日本経済新聞社)