☆温故知新―日本古典

目 次

01聖徳 太子 02菅原 道真 03清少 納言 04方丈記 05平家物語 06徒然草 07世阿弥=観世元清 08太田 道灌
09利 休 10上杉 謙信 11豊臣 秀吉 12島井 宗室 13徳川 家康 14山上 宗二 15伊達 政宗 16柳生 宗矩
ー柳生家家訓ー
17宮本 武蔵 18中江 藤樹 19 山崎 闇斎 20伊藤 仁斎 21貝原 益軒 22大村 彦太郎 23池田 綱政 24「奥の細道」芭蕉
25浅見 絅斎 26新井 白石 27室 鳩巣 28徳川 吉宗 29石田 梅岩 30山本 常朝 31本居 宣長 32杉田 玄白
33伊能 忠敬 34塙 保己一 35上杉 鷹山 36佐藤 一斎 37重職心得箇条 38徳川 家斉 39二宮 尊徳 40大塩 平八郎
41幸 若舞 42南坊 宗啓 43山田 方谷 44緒形洪庵 45橘 曙覧 46西郷 隆盛 47吉田 松陰 48橋本 左内
49犬養 毅 50内藤 湖南


01 聖徳太子(五七四~六二二)


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 心の怒りを絶ち、おもての怒りをすて、人のたがうを怒らざれ。人みな心あり。心おのおのることあり。彼よみすれば、すなわち我非なり。我よみすれば、すなわち彼非なり。我必ずしも聖にあらず。彼かならずしも愚にあらず。共にこれただひとのみ。是非のことわり、いずれか定べき、相ともに賢遇なり。みみがねの端なきがごとし。これをもって彼の人はおもて怒るといえども、かえって我があやまちを恐れよ。我ひとり得たりといえども、衆に従って同じくおこなえ。(憲法、第十条)

 4月3日、太子によって『憲法十七条』が制定された。太子は大陸文化の移入に熱心で、仏教を盛んにして、日本文化に新しい方向を開いた。

引用:桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)

補足:(憲法、第十条)は「他人と意見が異なっても腹を立てないようにしなさい」と解釈されている。

2010.04.03


『菩提心を発しましょう』

「和を以つて貴しと為す」 第30号 2016.7.31発行

 今日、宗教色を背景にした国際テロが罪もない庶民を殺害し、それに対応して、政治色を以て、行きどころもない弱者を国外に排除する摩擦が一層激しくなっています。人間が人間にたいする寛容性を失い前世紀に逆行している感が有ります。今私たちは勇気をもって、我らは複雑なる宗教の組織を超脱し、煩(はん)瑣(さ)なる教学を放(ほう)擲(てき)して、一人ひとりが信頼し合える平等の人間性に目覚め、世界の人々が互いに手を把りあって、人類恒久和平の為に精進努力すべき時ではないでしょうか。

 仏陀は、生誕されると、直ちに周行七歩、右の指は天を指し、左の指は地を指して、「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと伝えています。おそらく、私たち誰でも生まれたとき、「オギャア、オギャア」と大声を張り上げて生まれてきました。周りに気兼ねもなく、酷(ひど)いこの世界に迷うこともなく、純粋な生命そのものを「天上天下唯我独尊」と頂けるのが仏教ではないでしょうか。この生誕の説話は、仏陀の生涯の「自覚に即した教えの内容」を、端的に生誕に託して表されたものと思います。仏陀は生まれるとすぐ立って、周行七歩を歩かれ、右の手は天を指さしたということは、天に人間を支配するような、人間を奴隷あつかいにするような神はないぞということでありましょう。左の手で地を指さされたのは、人間の下に誘惑的魔障もおらんぞ。人間こそ絶対の尊厳者であることを表現されたものと言わねばなりません。七足歩かれたのは、仏陀の教えの根本思想が、人間の一人ひとりをして、自由にして尊厳なる、「智慧と慈悲」を内包する絶対的主権者としての自覚を持たしめるものであることを思うとき、そう解釈をせざるを得ません。お釈迦さまは哲学者ではなく、苦行によって人間性の真実に目覚められた第一人者であります。其のとき「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉<皆な如来の智慧徳相を具有す」、「皆生まれながらに仏の智慧によって悟っていたのに、生まれて後、外の世界に迷うがために苦しむのだ」と、だから、汝、自らに内在する一念の邪念もない純粋な心を拠り所として外の世界に騙されるではないぞ」と、はっきり示しておられます。「汝ら*輾転(てんてん)してこの法を行ぜば、そこに私は永遠に生きているぞ」と、力強<示しておられます。今こそ一人ひとり一個の求道者として、仏子として、世界の仏教徒が手を把りあって、人類恒久和平の為に精進する時であると信じます。

                  平成二十八年七月  曹源寺住職 原田正道 合掌

*輾転(てんてん):釈迦の教え、真実を正しく体得し、自ら実践して、正しく伝える。仏法:純粋な心で事物現象を照らすこと。

*「和を以つて貴と為す」

これは、論語に由来しています。

 「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」<論語>

孔子は明確に「君子は「和」して「同」ぜず、小人は「同」じて「和」せず」と同と和を「別々のもの」として言っています。

 つまり「和を以って貴しとなす」の「和」を「同」と捉えている時点で「小人」=つまらない人物とまで言っています。

 聖徳太子が発布した十七条の憲法

 そこには、「和を以て貴しと為す」という言葉があります。

 孔子曰わく、礼の和を用(もっ)て貴(たっと)しと為すは、先王の道も斯(これ)を美と為す。小大(しょうだい)之に由れば、行われざる所あり。和を知りて和すれども礼を以て之を節せざれば、亦(また)行うべからざるなり。(学而第一・仮名論語7頁)

 孔子が言われました。

 「礼において和を貴いとするのは、私一人の考えではない。昔の聖王の道もそれを美しいことと考えた。だからといって、和だけですべての人間関係を行おうとすると、うまく行かないことがある。和の貴いことを知って、和しても礼(敬謝謙譲等の心)を以て調節しないと、うまく行かないのである。」

 和する事には礼が必要。正に「親しき仲にも礼儀あり」所詮外向けに虚飾に塗れているだけで、内向きには横柄になっているようではダメです。

 この「和を以つて貴しと為す」の精神的支柱は、日本の伝統分化として、富国強兵時代に至るまで受け継がれてきましたが、現在は、取って代わって個人主義が謳歌しています。

 聖徳太子の仏教思想

 私たち凡夫は自性清浄心として如来蔵を宿しています。しかし、それはまだ如来の胎児であり、数多の煩悩に覆われ、如来としての働きはありません。衆生が如来の蔵を開いて仏の命を輝かそうとするには、如来への絶対的信と菩薩行(仏となるための修行)を実践することが大切となります。

 菩薩行の実行により、争乱の絶えない現実社会は次第に浄化され、「和の精神」に立脚した安寧がこの世に実現され、菩薩行の成就の暁には仏国土が現出します。

 「このように太子が、常住真実なる法身如来への帰依信順こそ行善の本であり、直控の道であることを開顕せられたことは、正しく仏教を出家聖者から解放して、広く一般庶民のものとせられたものと言ってもよく、それはまた、一切衆生を平等に仏果に入れしめることを究極の理想とする仏教の宗教性を如実に開顕せられたものと言うことが出来るのである。」

 太子の仏教思想は一言で言えば「捨身思想」です。捨身思想とは即ち「他人のために死ぬ」ことです。

 これは法隆寺にある国宝の玉虫厨子にも現れています。そこには釈迦が前世で行った善行をまとめたとされる「釈迦本生譚(ジャータカ)」に出て来る2大捨身(自殺)話の*「捨身飼虎(しゃしんしこ)」と*「施身聞偈(せしんもんげ)」が描かれています。

*捨身飼虎・・・釈迦が前世である国の王子だった時、修行中に虎の親子が飢えに苦しんでいるのを見かねて、自ら虎の餌となって 命を捨てる話。

*施身聞偈・・・釈迦が前世で雪山修行をしていた時、仏教の真理である「偈(げ)」の後半を知るために悪鬼に命を捧げる話。

 私たち凡夫は自性清浄心として如来蔵を宿しています。しかし、それはまだ如来の胎児であり、数多の煩悩に覆われ、如来としての働きはありません。衆生が如来の蔵を開いて仏の命を輝かそうとするには、如来への絶対的信と菩薩行(仏となるための修行)を実践することが大切となります。

 十七条憲法はそのための手引き書であり、三経義疏はその理論的根拠なのです。

 菩薩行の実行により、争乱の絶えない現実社会は次第に浄化され、「和の精神」に立脚した安寧がこの世に実現され、菩薩行の成就の暁には仏国土が現出します。

 「このように太子が、常住真実なる法身如来への帰依信順こそ行善の本であり、直控の道であることを開顕せられたことは、正しく仏教を出家聖者から解放して、広く一般庶民のものとせられたものと言ってもよく、それはまた、一切衆生を平等に仏果に入れしめることを究極の理想とする仏教の宗教性を如実に開顕せられたものと言うことが出来るのである。」また、太子が書いた仏教の解説書である「三経義疏(さんきょうぎしょ)」の三つの経、法華経・維摩経・勝鬘経のうち、勝鬘経の中心となる考えも「捨身」です。仏教の真の教えを知るためには身・命・財の3つを捨てなければならないとされているのです。

 聖徳太子が亡くなったのは推古30年(622年)2月22日、妃の膳部夫人との心中(自殺)です。これも捨身思想から出たものです。そしてその思想は息子の山背大兄王に引き継がれて行きます。山背大兄王は蘇我入鹿が自分を殺そうとした時、「自分が軍を率いて入鹿を討てば勝つだろうが、自分はそのようなことで人民を殺したくはない。いっそこの身を入鹿にくれてやろう」と一家もろとも心中しています。

2016.08.03


02 菅原道真(八四五~九〇三)


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 送春不用動舟車 唯別残鶯與落花
 若使韶光知我意 今宵旅宿在詩家

  (春を送るに舟車を動かすを用いず ただ鶯と落花と別るるのみ もし韶光(春の光)をして我が意を知らしめば 今宵の旅宿は詩家(詩人である私の家)にあらん)

 こちふかば にほひ おこせよ 梅の花
   あるじなしとて 春をわするな

 君がすむ やどのこずゑを ゆくゆくと
    かくるるまでも かへりみしかな

 2月25日九州の大宰府で死んだ。和漢の学に通じた平安朝の代表的文学者。右大臣になったが藤原氏に憎まれて左遷された。天満宮は彼をまつる。

引用:桑原武夫『一日一語』(岩波新書)

参考:写真は岸和田市土生町:「土生神社 御祭神」

2010.02.25


03 清少納言966年ころ~1025年ころ


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▼『枕草子』(一〇〇一ころ)

 春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。

 夏はよる。月の頃はさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。

 秋は夕暮れ。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあはれなり。まいて雁(かり)などのつらねたるが、いとちひさくみゆるいとをかし。日入りはてて、風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず。

 冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにあらず、霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もろしき灰がちりになりてわろし。

 「冬はつとめて」とは、朝早くの意味であり、雪の朝など寒いときに、急いで火をおこして、炭を持って廊下を渡っていくのも、いかにも冬の早朝にふさわしい景色だと清少納言は言っている。つまり「つとめて」は、一方では自力で骨を折って精を出すことを意味し、他方では、朝早くという意味になっている。:大野 晋『日本語の年輪』(新潮文庫)P.134:23.01.12に追加

 〔三十九〕 上品なもの

  あてなるもの 薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)。

 雁の子。

 削り氷(ひ)に甘葛(あまづら)入れて、新しき鋺(かなまり)に入れたる。

 水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。

 いみじううつくしき児(ちご)の、いちごなど食ひたる。

 [現代語訳]

 上品なもの。薄紫の袙(上着と肌着の間に着る内着)の上に白い汗衫をかさねたの。

 カリの卵。

 かき氷に甘いつゆをかけて新しい金の器に入れたの。

 水晶の数珠。フジの花。ウメの花に雪が降りかかっているの。

 とてもかわいらしい子供がイチゴなどを食べているの。

 〔百五十八〕 読経は不断経

 読経は、不断経(フダンギョウ)がもっとも尊い。

 不断経というのは、ある期間、多数の僧侶が交代で日夜途切れることなく経典を読み続ける修法(ズホウ)のことをいいます。願の軽重により、七日、二十一日、三十日などがあったようです。

 想像しますと、凄まじいまでの願掛けです。

 枕草子を見る限り、冷静理知的な部分が多くみられる少納言さまですが、このような神や仏と接しあっているような社会に生きていたのです。

リンク:うまずめ


04 方丈記:鴨 長明(一一五三~一二一六)


kamono.jpg ▼『方丈記』(日本古典文学大系)(岩波書店)

 一 ゆく河の流(なが)れは絶(た)えずして、しかも、もとの水にあらず。淀(よど)みに浮(うか)ぶうたかたは、かつ消(き)えかつ結(むす)びて、久しくとゞまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
 たましきの都(みやこ)のうちに、棟(むね)を並(なら)べ、甍(いらか)を争(あらそ)へる、高(たか)き、いやしき、人の住(すま)ひは、世々を經(へ)て盡(つ<)きせぬものなれど、これをまことかと尋(ぬ)れば、昔(むか)しありし家は稀(まれ)なり。或は去年(こぞ)焼(や)けて今年作(ことしつく)れり。或は大家(おほいへ)亡(ほろ)びて小家(こいへ)となる。住(す)む人もこれに同じ。所(ところ)も変(かは)らず、人も多(おほ)かれど、いにしえ見し人は、二三十人が中に、わずかにひとりふたりなり。朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生るゝならひ、たゞ水の泡(あわ)にぞ似(た)りける。不知(しらず)、生(うま)れ死(ぬ)る人、何方(いづかた)へか来たりて、何方へか去る。また不知、假の宿り、誰(た)が為にか心を悩(なや)まし、何によりてか目を喜(よろこ)ばしむる。その、主(あるじ)と栖(すみか)と、無常(むじょう)を争(あらそ)ふさま、いはゞあさがほの露に異(こと)ならず。或は露落(お)ちて花残(のこ)れり。残(のこ)るといへども朝(あさ)日に枯(か)れぬ。或は花しぼみて露なほ消(き)えず。消(き)えずといえども夕(ゆふべ)を待(ま)つ事なし。
 P.23~24

 四 夫(それ)三界は只心ひとつなり。心若(もし)やすからずは、像目(ぞうめ)・七珍(しつちん)もよしなく、宮殿・楼閣も望(のぞ)みみなし。今さびしきすまひ、一間(ひとま)の菴(いほり)、みづからこれを愛す。 P.43

 五 抑(そもそも)、一期の月影(かげ)かたぶきて、余算、山の端(は)に近(ちか)し、たちまちに三途(さんず)の闇(やみ)に向(むか)はんとす、何(なに)のわざをかかこたんとす。仏(ほ)の教(おし)へ給ふおもむきは、事にふれて執心(しゅしん)なかれとなり。今、草菴(さうあん)を愛(あい)するともとがとす。閑寂(かんせき)に著(ぢやく)するもさはりなるべし。いかゞ要(えう)なき楽(たの)しみを述べて、あたら時をすごさむ。 P.44


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▼当時は、京の街は戦乱につぐ戦乱で焼き払われ、その上に二回もの大震災に合い、疫が流行り、悲惨な情況が続き、人々の心は荒廃しきっていました。。街は無数(4~万人)の死骸から発生する異臭で、満ちていたと記されています。さながら地獄の情況を呈していたと思われます。
 そのような中で、仁和寺の隆暁法院和尚は数限りない死人の額に“阿字”を書いて、成仏させる縁を結ばせたと。
 また、夫婦の間でも、その愛情のより深い方が、きっと先に死んでいく。そのわけは自分のからだのことは、二の次にして、まず相手のことを労しく思うので、たまたま手にに入れた食物をも自分は食べず、相手にゆづって食べさせるからである。……

 長明の父祖は代々鴨の社の神官であった。長明は、早くからこの社の禰宜になりたい希望を持っていた。しかし庇護者の二条天皇の中宮高松女院が亡くなり、つづいて父長継(ながつぐ)を失い、希望はかなえられなくなった。
 後に、和歌の道に精進して、遂に宮廷和歌所の寄人となった。しかし、宮廷での待遇地位は、長明の門地の低い理由からか、重んじられなかった。
   その後、鴨神社の禰宜に欠員があったが、またしても反対に遭い、自らの運命をたい諦観し、出家した。


 『方丈記精釈(全)尾場暢殃 加藤中道館から抜粋、参照する。

★リンク:鴨長明と方丈の庵


春秋 2016/12/28付

 鴨長明は「方丈記」に、平安京を襲った大火のありさまを生々しく描いている。1177年4月、強風すさぶ夜の記録だ。都の東南から出た火はあっという間に官庁街に及ぶ。空は真っ赤に染まり「吹き切られたる焔(ほのお)、飛ぶがごとくして一、二町を越えつつ移りゆく」。

▼炎は建物を次から次へとのみ込んでいくだけでなく、風に乗って「飛ぶ」。その恐ろしさを長明は克明に記したわけだ。火の玉が100メートルも200メートルも遠くに飛び、あちこちで新たな出火を引き起こしたのだろう。それと同じ光景を新潟県糸魚川市の大火は見せつけた。焼失面積4ヘクタール。「飛ぶ炎」の目撃証言が少なくない。

▼そういう魔物の襲来にひとたまりもない木造建築の密集ぶりも、往時とあまり変わらないのかもしれない。消防能力は平安時代とはまるでちがうはずだが、入り組んだ細い路地は消火活動を妨げて災いを広げた。同様の場所は日本中にあるという。東京では山手線の外側がドーナツ状の巨大な木造住宅密集(木密(もくみつ))地域だ。

▼そこに住むのは生身の人間だから、あれこれ対策は練られていても簡単には進まない。とはいえ放っておけば、将来どんな災厄を招くことだろう。「方丈記」はその前半が当時のさまざまな災害のルポであり、作者が無常観を深めていく背景をなす。800年余を経た現代の社会が、よもやそんな諦念を抱いてはなるまい。

2016.12.19、89歳


05平家物語』1221年以前


 一、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)>をあらはす。驕れる者久しからず、ただ春の夢の如し。猛(たけ)き人もつひに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 二、あはれ、弓矢取る身ほどくちおしかりける事はなし。武芸の家に生まれずば、なにしに、たゞ今かゝる憂き目をば見るべき。情なうも討ち奉つたるものかな。敦盛最後の事(角川文庫:平家物語下巻P.105)



 『平家』を読む。それはいつでも物の気配に聴き入ることからはじまる、身じろぎをして、おもむろに動き出すものがある。それにつれて耳に聞こえはじめるのは、胸の動悸と紛らわしいほどの、ひそかな音である。『平家』が語っている一切はとっくの昔におわっているのに、何かがはじまる予感が、胸さわぎを誘うのであろうか。それとも、何かがおわる予感から、胸がざわめきはじめるのだろうか。

 あることのはじまりは、あることのおわりであり、逆もまた然りとするなら、私が予感とともに待ち受けているのは、まさしくこの世の無常の姿、いのちを享(う)けたものすべてがたどる一栄一落の有様以外のものではない。『平家』を読む。このとき、かすかな胸さわぎが絶えないのは物怪(もつけ)の幸いである。

 『平家』冒頭の誰でも知っているくだりは、これから語り出されるものをよく聴き給えということを、ああいう喩(たと)えで語りだしたのである。天竺というおそろしく遠い国の、奥も知れない林のなかに埋もれてしまって、たしかめようもなくなった祇園精舎から、どこからとも吹く世外の風に乗り、はるばる鳴りわたってくる鐘の声。どんなものより近い自分の肉体という場にたしかめることのできる胸のざわめき。相隔たる最も甚だしいこのふたつが、時として、ひとつにかさなるのは、念仏を唱える人の両のてのひらが合わされるのと同じくらいに自然なことではないでしょうか。いま、耳の底にかすかに鳴っているものを「祇園精舎の鐘の声」と思うなら、たしかにそれは「諸行無常の響きあり」である。私の胸のなかにあって、瞬時も鼓動してやめないものも、いずれは停止する。これほどたしかなことはない。胸の鼓動が諸行無常の音となって聞こえはじめたにしても、わが耳を咎め立てることはない。いずれ、ほどなく、諸行無常という唱え声よりも、もっと耳をそばだてて聴かずにいられないものが、琵琶の響きとともに次から次にとあらわれてくるだろう。耳をせいぜい敏感な状態に保っておくこと。この用心を忘れぬことにしよう。

 だが、聞こえてくるものに聴き入れる用意をととのえていると、も一方では、見えてくるものに目をとめよという声もまた耳に入る。動くものはいうまでもない。動不動にかかわらず、色あるものの色、彩りに目をとめるべし、とその声は告げている。冒頭のくだりを念のために引き写すと、

  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰(じょうしゃひつすい)のことわりをあらわす。
  おごれる人も久しからず、只春の夜(よ)の夢のごとし、たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひと)へに風の前の塵に同じ。

 はじめに音を言い、諸行無常を言ったあとで、色を言い盛者必衰を言うのは、勿論、対句にもとづいてのことである。仏教説話によれば、釈迦がクシナガラで二本の沙羅の木のあいだに横臥して涅槃(ねはん)に入ったとき、淡黄色の沙羅の花が白変した。そこで釈迦の入滅の地を白鶴に喩て鶴林と称する。いのちの果てで白く色あせたものも、もとはそれぞれのいのちの色に燃えていたのに、と対句後半は言いたいらしい。

 白が地の色として布(し)かれたことが大事なことである。この白地は、のちの物語に、あでやかな色、きらびやかな色、猛々しい色、しっとりと落ちついた色、物さびた色、重く沈んだ闇の色が、それぞれに映え出す用意なのだと納得される。のちの物語を絵巻物のように楽しむつもりなら、霧にとざされた冬の朝のように白いだけの世界を、つとめて思いえがくに限るだろう。しかし『平家』が昔の絵師たちを誘惑し、近代、当代の画家たちに格好の画題を提供し、えがかれた絵が人を魅了するのも、あるいは白変した沙羅の花の色が、われわれの眼底に染みとおっているからなのかも知れない。自然界が人界の異変に感染して示した一瞬裡の白変は、いつしかわれわれに無常を悟らせ色となり、すべて色あるものの示す色はやがて無常の白変を蒙り、ただ追憶のなかに再生する限りにおいて、もとのいのちの色を回復する。この経緯に注目すれば、『平家』が絵巻物あるいは大小の画面よりも能舞台に、もっと多くの主題を提供し、あんなに多くの主人公たちを幽明の境に出没させるにいたったことに、何ら不思議はないように思われる。

 『平家』巻頭の「祇園精舎」は、ほどなく調子をあらためて、天下の乱れを招き「ひさしからずして、亡じにし」高位高官の例をまずは「遠く異朝」にたずね求めて中国の諸例を挙げ、次いで「近く本朝をうかがふに、承平の将門(まさかど)、天慶(てんぎょう)の純友(すみとも)、康和の義信(ぎしん)、平治の信頼(しんらい)と並び立てたあとに、「まぢかくは、六波羅の入道前太政(さきのだいじょう)大臣平朝臣(あそん)清盛公ともうしし人のありさま、伝え承るこそ心も詞も及ばね」と、話題を清盛のことに絞る。この人、桓武天皇の第五皇子を祖とし、それより九代の後胤になるという。祖父は讃岐守正盛、父は刑部卿忠盛。「かの親王の御子高見の王、無官無位にしてうせ給ひぬ。その御子高望(たかもち)の王の時、初めて平の姓をたまはつて、上総介(かずさのすけ)になり給ひしより、忽ちに王氏を出でて人臣につらなる。」高望の王の子よりのち、清盛の祖父正盛にいたるまで「六代は諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだ許されず。しかるを」と一転した物語は、これより清盛の父忠盛が昇殿を許された次第に移る。撥(ばち)の音にわかに高く、息使い切迫して、せわせわしい。
杉本秀太郎 『平家物語』(講談社)P.11~14

参考:『平家物語を読む』

2015.09.17

 

06 兼好法師(一二八三~一三五〇)


▼『徒然草』(日本古典文学大系)

つれづれ草 上

   序 段

 つれつれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるはしけれ。

平成二十年二月十日

 第三十段

 人の亡きあとばかり悲しきはなし。中陰のほど、山里などにうつろひて、便あしく狭(せば)き所にあまたあひゐて、後のわざども営みあへる、心あわたゝし。日かずのはやく過(ぐ)るほどぞ、ものも似ぬ。はての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢(かしこ)げに物ひきしたゝ、ちりぢりに行(き)あかれぬ。もとのすみかに帰りてぞ、更に悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなる事ぞ」など言へるこそ、かばかりのなかに何かはと、人の心はなほうたておぼゆれ。

 第三十五段

 手のわろき人の、はばからず文書をちらすはよし。見ぐるしとて、人に書かするはうるさし。

 第七十四段

 蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る。高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり。帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生をむさぼり、利を求めて止む時なし。身を養ひて何事をか待つ。期する処、ただ老と死とにあり。その来る事速やかにして、念々の間に止まらず、これを待つ間、何のたのしびかあらん。惑(まど)へるものはこれを恐れず。名利に溺れて先途(せんど)の近き事をかへり見ねばなり。愚かなる人は、またこれを悲しぶ。常住(じょうじゅう)ならんことを思ひて、変化(へんげ)の理(ことわり)をしらねばなり。

 第七十五段

 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まざるゝかたなく、たゞひとりあるのみこそよけれ。世にしたがへば、心、外の塵に奪はれて惑ひやすく、人に交れば、言葉よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事定まれる事なし。分別みだりに起こりて、得失止む時なし。惑ひの上に酔へり。酔の中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくのごとし。いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しずか)にし、事にあづからずして心やすくせんこそ暫く楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観念にも侍れ。

 第九十三段

 「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かな人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、危ふく他の財を貪るには、志、満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあずからずといはば、実(まこと)の理を得たりといふべし」といふに、人、いよいよ嘲る。

 第百八段

 されば道人は遠く日月を惜しむべからず、ただ今の一念むなしく過ぐることを惜しむべし

 第百九段

   高名の木のぼりといひしをのこ、人を掟(おき)てて、高き木にのぼせて梢を切らせしに、いと危(あやふ)く見えしほどはいふ事もなくて、降るゝ時に、軒長(のきたけ)ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」、と言葉をかけ侍(り)しを、「かばかりになりては、飛(び)降るとも降りなん。如何(いか)にかく言ふぞ」と申(し)侍(り)しかば、「その事に候(さうらふ)。目くるめき、枝危きほどほどは、己が恐れ侍れば申さず。あやまちは、やすき所に成(り)て、必ず仕る事に候」といふ。

 第百十七段

 友とするにわろき者、七(つ)あり。一(つ)には、高くやん事(こと)なき人。二(つ)には、若(わか)き人。三(つ)には、病ひなく身強(つよ)き人。四(つ)には、酒を好(む)人。五(つ)には、たけく勇(め)る兵(つはもの)。六(つ)には、虚言(そらごと)する人。七(つ)には欲深き人。
 よき友三(つ)あり。一(つ)には、物くるゝ友。二(つ)には医師(くす)。三(つ)には、知恵ある友。

参考:朋友

 第百二十三段

 無益(むやく)のことをなして時を移すを、愚(おろか)なる人とも、僻事(ひがこと)する人とも言ふべし。国のため、君のために、止やむことを得ずして為すべき事多し。その余りの暇(いとま)、幾(いくばく)ならず。思ふべし、人の身に止むことを得えずして営(いと)なむ所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居(ゐる)所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。饑(う)ゑず、寒からず、風雨に侵(をか)されずして、閑(しづか)に過すを楽(たのしび)とす。たゞし、人皆病あり。病に冒をかされぬれば、その愁忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢おごりとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足たらずとせん。

私見:年配者はこの四つで十分であると思う。それが難民などに求めることが出来ない人たちをなんとかしたいものである。

2010.03.16

つれづれ草 下

 第百三十七段

 若きにもよらず、強きにもよらず、思いかけぬは死期なり。

 第百四十段

 身死して財(たから)残る事は、知者(ちしゃ)のせざる処なり。よからぬ物たくはへ置(き)たるもつたなく、よき物は、心をとめけんとはかなし。

 第百八十八段

 一事を必ずなさんと思はば、他の事のやぶるゝをいたむべからず。人の嘲りをも恥ずべからず。

 第百五十五段

 死期(しご)はついでをまたず。死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、まつことなし、しかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟(ひかた)遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

 第二百二十六段

 後鳥羽院の御時、信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)、稽古の誉ありけりが、楽府の御論議(みろんぎ)の番(ばん)にめされて、七徳(しちとく)の舞をふたつ忘れたりければ五徳の冠者(くわじゃ)と異名をつきにけるを、心うき事にして、學問をすてて遁世(とんせい)したりけるを、慈鎮和尚(じちんおしょう)、一藝あるものをば、下部(しも べ)までも召しおきて、不便にさせ給(ひ)ければ、この信濃(の)入道を扶持(ふじ)し給(ひ)けり。

 この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しやぶつ)といひける盲目に教(へ)て語らせけり。さて、山門のことを、ことにゅゝしく書けり。九朗判官(くろうほうがん)の事はくはしく知(り)て書(き)のせたり。蒲冠者(かばのくわんじゃ)の事は、よく知らざりけるにや、多くのことゞもしるしもらせり。武士の事・弓馬(きゅうば)のわざは、生佛、東国の者にて、武士に問(ひ)聞(き)て書かせけり。かの生佛が生まれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。

私見:『平家物語』の作者を知ることができた。2015.09.27

 第二百四十三段

 八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」といふ。父が云はく、「仏には人のなりたるなり」と。また問ふ「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏のをしへによりてなるなり」とこたふ。またとふ、「教へ候ひける仏をば、なにがをしえ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、さきの仏のをしへへによりて成り給ふなり」と。またとふ、「その教へはじめ候ひける第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」といふ時、父、「空よりやふりけん、土よりやわきけん」といひて、笑ふ。「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と、諸人にかたりて興じき。

2000.02.10


07 世阿弥=観世元清(一三六三~一四四三)


 1、秘すれば花なり。 秘せずば花なるべからず。

▼『世阿弥芸術論集』(新潮日本古典集成)

 『風姿花伝』より

 この比の能、盛りの極めなり。ここにて、この條々を極め覚りて、堪能になれば、定めて、天下に許され、名望を得つべし。もし、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふほどなくば、いかなる上手なりとも、未だ、誠の花を極めぬ為手と知るべし。もし極めずんば、四十より能は下がるべし。それ、後の證據なるべし。さるほどに、上がるは三十四、五までの比、下がるは四十以来なり。返すゞ、この比、天下の許されを得ずば、能を極めたりと(は)思ふべからず。              

 一 この別紙の口伝、当芸において家の大事、一代一人の相伝(そうでん)なり。たとへ一子たりといふとも、無器量(ぶきりょう)の者には伝ふべからず。「家、家にあらず、次ぐをもて家とす。人、人にあらず、知るをもて人とす」といへり。これ、万徳了達(ばんとくれうだつ)の妙花を窮むるところなるべし。

*『風姿花伝』の最後に記録されている。

▼『花 鏡』より

 1:動十分心 動七分身(十分に心を動かして、身を七分に動かせ)。

 「心を十分に動かして、身を七分に動かせ」とは、習ふところの手をさし、足を動かすことは、師の教えのままに動かして、その分をよく為(し)窮めて後、さし引く手をちちと、心ほどには動かさで、心よりうちに控ふるなり。これは、必ず舞・はたらきにかぎるべからず。立ちふるまふ身づかひまでも、心よりは身を惜しみて立ちはたらけば、身は体になり、心は用(ゆ)になりて、面白き感あるべし。P.118

 2:劫(こふ)之入(る)用心之事

 この芸能を習学して、上手の名を取りて、毎年を送りて、位の上がるを、よき劫(こふと申すなり。しかれどもこの劫は、住所によりて変るべきことあり。

 名望を得ること、都にて褒美を得ずはあるべからず。さようの人も在国して、田舎にては、都の風体を忘れじとする劫ばかりにて、結句、よきことを忘れじ忘れじとするほどに、少な少なとよき風情の濃くなるところを覚えねば、悪き劫になるなり。これを住劫と、きらふなり。(中略)

 しかればよきほどの上手も、年寄れば古体になるとは、この劫なり。人の目にはみえて、きらふことを、われは昔よりこのよきところを持ちてこそ名を得たれと思ひつめて、そのもまま、人のきらふことも知らで、老の入舞(いりまひ)を為損ずること、しかしながらこの劫なり。よくよく用心すべし。

*:1、劫…もともと仏語で、計りしれない遠大な時間のことであるが、これは転じて長年月にわたる修練の成果。年功の意。
*:2、入舞(いりまい)…舞楽で退場まぎわに、また引き返して面白く舞うこと。入綾(いりあや)とよぶのと同様、ここも最後にひと花咲かせる意味に用いる。

 3:初心不可忘
 此句、三ケ条口伝在。是非初心不可忘。時々初心不可忘。老後初心不可忘。此三、能々口伝可為。
 是非の初心を忘るべからずとは、若年の」初心を忘れずして、身に持ちてあれば、老後にさまざまの徳あり。「前々の非を知るを、午々の是(ぜ)とす」といへり。「先車の覆すところ後車の戒め」と云々。初心を忘るるは、後心(ごしん)をも忘るるにてあらずや。以後はは割愛します。

   老後の初心を忘るべからずとは、命には終はりあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、また老後の風体に似合うことを習ふは、老後の初心なり。老後、初心なれ、前能(ぜんのう)を後心(ごしん)とす。五十有余よりは、「せぬならでは手だてなし」といへり。せぬならでは手だてなきほどの大事を老後せんこと、初心にてはなしや。

 さるほどに一期(いちご)初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入舞(いりまひ)にして、つひに能下がらず。しかれば能の奥を見せずして、生涯を暮すを、当流の奥義(おうぎ)、子孫家訓(ていきん)の秘伝とす。この心底(しんてい)を伝ふるを、初心重代相伝の芸案とす。初心を忘れずして、初心を重代すべし。P.159

 4:舞声為根

 (前略)また舞に、目前心後といふことあり。「目を前に見(つけ)て、心を後に置け」となり。これは以前申しつる無智風体(ふうてい)の用心なり。見所(けんじょ)より見る所の風姿は、わが離見(りけん)なり。しかあればわが眼の見るところは、我見(がけん)なり。離見の見(けん)にはあらず。離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり。その時は、わが姿を見得するなり。

▼世阿弥、佐渡に流される:世阿弥が佐渡に流されたのは永享(一四三四)五月のことで、理由はやはり分からないが、おそらく元重(世阿弥の弟で観世座の庶流であった四郎の子であるが、早くから世阿弥に認められて、その指導をうけた)に対してその後も変らない狷介(けんかい)さが、ついにこの偏執狂的な将軍(足利義教)の勘気にふれたのであろう。在島の作品としては、配流途上の風物や謫所(たくしょ)の生活・感情を謡った小謡(こうたい)集『金島書(きんとうしょ)』が残っており、ほかに金春氏信に送った自筆書簡一通も現存する。(中略)やがて赦免をうけて帰洛したという伝えもある。

参考:吉田東吾の業績としては、ほかに能楽研究がある。この方面でも「花伝書」を含む世阿弥の遺著十六部を発見、甲注本を出すなどの巨歩を残した。紀田順一郎『知の職人たち』P.38


08 太田道灌 (1432~1486年)


その一

  「七重八重 花は咲けども 山吹のみの一つだに なきぞ悲しき

参考:「花咲きて実はならずとも長きけに思ほゆるかも山吹の花」 
万葉集10・1860
*古語辞典では(け)を日としていた。

 資長(すけなが)嘗て放鷹に出て雨に遭ひ、或小屋に入り蓑を借らんと言ふに、若き女の、何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出せり。資長、我は花を求むるあらずとて言て怒て帰れり。或人之を聞き、夫は「七重八重、花は咲けども、山吹のみの一つだに、なきぞ悲しき。」と言ふ古歌の心なるべし。と言ければ資長大いに慙ぢ、夫より憤を発し、歌学(うたまなび)しければ、遂に名家とは成りてけり。

*『岩波文庫』「名将言行録」より。 2008.3.4

少し詳しく述べると、

 遠乗りにでかけたある日、突然のにわか雨にあった道灌は蓑を借りようと、たまたま側にあった農家にかけこんだ。農家に入り、声をかけると、出てきたのはまだ年端もいかぬ少女であった。貧しげな家屋ににあわず、どこか気品を感じさせる少女であったという。

 ▼「急な雨にあってしまった。後で城の者に届けさせる故、蓑を貸してもらえないだろうか?」道灌がそう言うと、少女はしばらく道灌をじっと見つめてから、すっと外へ出ていってしまった。蓑をとりにいったのであろう、そう考え、道灌がしばし待っていると、少女はまもなく戻ってきた。

 しかし、少女が手にしていたのは蓑ではなく、山吹の花一輪であった。雨のしずくに濡れた花は、りんとして美しかったが、見ると少女もずぶ濡れである。だまってそれを差し出す少女は、じっと道灌を見つめている。この少女は頭がおかしいのであろうか、花の意味がわからぬまま、道灌は蓑を貸してもらえぬことを悟り、雨の中を帰途についた。

 ▼その夜、道灌は近臣にこのことを語った。すると、近臣の一人、中村重頼が進み出て次のような話をした。「そういえば、後拾遺集の中に醍醐天皇の皇子中務卿兼明親王が詠まれたものに、七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき、という歌がございます。

 その娘は、蓑ひとつなき貧しさを恥じたのでありましょうか。しかし、なぜそのような者がこの歌を...。」そういうと、重頼も考え込んでしまった。

▼道灌は己の不明を恥じ、翌日少女の家に、使者を使わした。使者の手には蓑ひとつが携えられていた。しかしながら、使者がその家についてみると、すでに家の者はだれもなく、空き家になっていたという。   

 道灌はこの日を境にして、歌道に精進するようになったという。

その二

 短慮不成功

 父親に「短慮不成功」を平易な言葉で述べよ、と言われた大田資長すけなが(のちに江戸城を築城した:道灌)はこう和歌に託した。

 「急がずば 濡れざらましを 旅人の後より晴るる 野路の村雨

*:日本経済新聞より

平成二十四年七月十八日:追加。


09 利 休(一五二二~一五九一)


利休の絶唱

 人生七十 

 力囲希咄

 吾這宝剣 

 祖仏共殺す

 提る 我得具足の

 一太刀 今此の時ぞ

 天になげうつ

 天正十九年仲春

 廿五日   利休宗易居士 

 力囲希咄 は(ええなんじゃいの)といった意味である

 囲の中の(井)は(力)です この字はつかわれていません

 岡倉覚三 『茶の本』にも記載されています

 NHKブックスより(村井康彦著より)

参考: 一、茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて のむばかりなる事と知るべし。 


10 上杉謙信(一五三〇~一五七八)


上杉家(謙信)の家訓16ケ条「宝在心」

01、 心に物なき時は心広く、体やすらかなり。

02、 心に我慢(慢心のこと)なき時は愛敬失はず。

03、 心に欲なき時は義理を行ふ。 

04、 心に私なし時は疑ふことなし。

05、 心に驕(おご)りなき時は人を敬ふ。

06 心に誤りなき時は人を畏れず。

07 心に邪険なき時は人を育つる。

08 心に貪りなき時は人にへつらふことなし。

09 心に怒りなき時は言葉和(やわ)らかなり。 

10 心に堪忍あるときは事を調(ととの)ふ。

11 心に曇りなき時は心静かなり。

12 心に勇ある時は悔(くや)むことなし。

13 心賎しからざる時は願ひ好まず。

14 心に孝行ある時は忠節厚し

15 心に自慢なき時は人の善を知る。

16 心に迷ひなき時は人をとがめず。 

引用:松下幸之助『商売心得帖』
2010.04.19


 辞 世

 「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし

 「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒
2011.01.10


上杉謙信公の名言

 わしは国を取ることは考えず、後の勝利も考えず、目前に迫っている一戦を大事にするのみである。

 信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている。

 手にする道具は得意とする業物でよい。飛び道具を使っても、相手が死ねば死だ。鉄砲で撃っても、小太刀で斬っても、敵を討ったことには変わりはない。

 戦場の働きは武士として当然のことだ。戦場の働きばかりで知行(報酬)を多く与え、人の長(おさ)としてはならない。

 人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことは言ってはならぬ。

 上策は敵も察知す。われ下策をとり、死地に入って敵の後巻に入る。

 戦場の働きばかりで知行を多く与え、人の長としてはならない。

 一期の栄は一盃の酒 四十九年は一酔の間 生を知らず死また知らず歳月またこれ夢中の如し。

 生を必するものは死し、死を必するものは生く。

 争うべきは弓箭(ゆみや)にあり、米・塩にあらず
2016.02.21


11 豊臣秀吉(一五三七~一五九八年)


 秀吉が日ごろ、近臣たちによく語っていたという処世訓が幾つか伝えられている。

  一、朝寝すべからず
  一、人をいやしむべからず
  一、主人は無理(を云う)なるものと知れ
  一、物あらそいすべからず
  一、分別なき人を怖じよ(世間一般の常識や理性をもたない人間にはちゅういせよ)
  一、物に退屈すべからず
  一、人は気を肝要とせよ
  一、わが(ゆく)末を思え
  一、女子に心ゆるすべからず
  一、苦労を楽しみの種」とせよ
  一、公事くじをふかく怖じよ(公務・訴訟にかかわる場合は細心の注意をしろ)
  一、小さな事を分別せよ(些事だからといって投げやりにすると大やけどをするぞ)
  一、大酒飲むべからず
  一、人の噂をするべからず>

*神坂次郎『男この言葉』(新潮文庫)P.186
2009.3.13


12 島井宗室(一五三九~一六一五年)


 口がましく、言葉おゝき人は、人のきらう事候。我ためににもならぬ物ニ候。

*博多商人である。処世といえば彼ほどの処世もない。島居は死に臨んで、自分の処世術のすべてを17カ条の「遺言状」に書き残し、後継者に伝えている。上の言葉はその第一条の一節。

*朝日新聞:2009.10.24より引用。

私見:古今東西の人物は、発言について、同様なことに触れている。
2009.10.24


13 徳川家康(一五四三~一六一六年)


 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。

 急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。

 心に望み起こらば、困窮こんきゅうしたるときを思い出すべし。

 堪忍(かんにん)は無事長久の基。怒りは敵と思え。

 勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身に至る。

 己を責めても人を責めるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。

 先に行くあとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う


 「滅びるときには自らの力で滅びよ

 万一徳川家に一大事が起こったときに見るようにと遺した密書が、水戸家に保存されていた。
 徳川から明治へ、政権交代のやむなきに至ったとき、最後の将軍徳川慶喜が、家康の密書を水戸家から取り寄せてひもといた。そこには簡潔にただ一言、上述の言葉が書かれていた。

石川 洋『一燈園法話「人生逃げ場なし」』(PHP)P.84
2011/02/28


14 山上宗二(一五四四~一五九〇年)


 「一期と一度の会」(『山上宗二記』に「茶湯者覚悟」に書かれている言葉)。これが井伊直弼の「一期一会」の由来と言われている。

*堺の豪商、千利休の高弟。茶の湯の上手で物知りであったが、秀吉にさえお耳にする事申して耳鼻をそがれて惨殺された。

2009.10.24


15 伊達政宗(一五六七~一六三六年)


 伊達政宗の遺訓

一、仁に過ぐれば弱くなる
  義に過ぐれば固くなる
  礼に過ぐれば諂(へつらい)となる
  智にすぐれば嘘をつく
  信にすぐれば損をする
二、気ながく心おだやかにして、よろずに倹約を用ひ金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦もなし
三、朝夕の食事はうまからずとも褒(ほ)めて食ふべし。元来客の身になれば好き嫌ひは申されまじ。
四、今日行(いく)(を)おくり、子孫兄弟によく挨拶(あいさつ)をして、娑婆の御暇(おいとま)をするがよし
 

 仁・義・礼・智・信の五常、五倫を正宗流に解釈し、苦しいことや不自由なることがあっても「この世に客にきた」と思えばよいのだ。たとえ、朝夕の食事がまずくとも、「この世に客にきた身だ」と思って喰ってやれ、と正宗は説(い)う。

引用書:神坂次郎『男この言葉』(新潮文庫)P.192
2010.04.22


16 柳生宗矩ー柳生家家訓ー一五七一~一八四六

 

   小人は縁に出会うて縁に気づかず。

   中人は縁に出会うて縁を生かさず。

   大人は袖触れおうた縁。

(徳川家の剣術指南を担当した柳生家の家訓)

【覚書き|才能の無い人間はチャンスに気づかない。中の才能の者はチャンスに気づいているが飛びつかない。とても才能のある人間は、袖が触れるほどの些細なチャンスも逃さない。大物になる人物はチャンスに敏感であるという意味の言葉】


17 宮本武蔵(一五八四~一六四五)

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▼『五輪の書 水之巻』

 一 千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。能々吟味有るべき也。

▼独行道

 「仏神は貴し、仏神をたのまず。」

私見:自分の仕事 自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事である。ここに仕事の意義がある。

▼不明

 一 我以外皆我師


18 中江藤樹(一六〇八一六四八)

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 中江藤樹について、内村鑑三『代表的日本人』の記事により記録する。

  中江藤樹

   ――村落教師――

一 舊日本の教育

 『我々西洋人が諸君を救ひに赴く以前、日本には、如何なる学校教育が行われてゐたか。諸君日本人は、異教徒中、最も聡明な国民であるやうに思ふ、諸君は何か或る徳育と知育を受けて現在のごとき諸君となったに相違あるまい。』

 これは、我我が初めて故國を出て西洋文明人の間立ち現われたとき、彼等の我我に提出する質問であり、また往往にして彼等の語調でもある。

 それに対し、我我の答は、ほゞ次のごとくであった、━━(以下中略)

二 初期時代と立志

 一六〇八年(慶長十三年)、関ヶ原の役の後わづか八年、大阪落城の前の七年、いまだ男の主たる仕事は戦ふことであり、女の仕事は泣くことであり、文学学問は世の実際家の追ひ求むる値ひなきものと考えられてゐたときに、嘗て日本の産みし最も聖人らしき最も進歩したる思想家の一人が、近江の國、琵琶湖の西岸、比良ヶ嶽は近くにその圓頂を聳やかし、鏡のごとき湖面にその影を投ずるところに、生まれたのである。彼は近江の両親の家を離れ、四国にて、もっぱら祖父母の手によりて育てられたが、主として武芸を仕込まれた其の年頃の武士の子としては、幼き頃より、珍しき聡明さを示した。十一歳のとき、孔子の『大学』の一節は、彼の心に一つの大望を喚び醒まし、これが彼の将来の全生涯を決定するに至った。『自天子以至於庶人、壱是皆以脩身為本』の一節を読んだ。『こゝにこの経書が存する、嗚呼、天よ感謝す』と、彼はそのとき叫んだ、『聖人豈に学んで至り得ないであろうか。』彼は泣いた、そして、その印象は、生涯、彼とともにあった。『聖人たるべし』――これ何たる大望ぞ。……

 十七の時、彼は孔子の『四書』の完全な一揃を手にいれることを得た、これ当時書籍の如何に乏しかりしをしめすものである。此が以前にに倍し彼の学問欲を唆つた、彼は今や事故の所有となれる此の宝庫より凡ゆる寸暇を捧げて知識を獲得せんとするに至った。併し武士の第一の仕事は戦ふことであり、読書は僧侶隠遁者にふさはしき仕事として蔑視せられたる時代であった、若き藤樹は彼の勉学を全く一目を避けて行はざるを得なかった。……

 彼は今や二十二歳であつた。祖父は他界し、近くは父を喪つた。彼は父とは一生の僅かな期間を共にしたにすぎない。逆境は彼を一層敏感ならしめた。今や唯一の心懸りは、近江に残していある母のことであつた。

三 母 親 崇 拝

 彼の最初の試みは、母を自分の側に呼び寄せ、伊予の國にあつて藩侯に仕ふることであつた。それが不可能となり、彼は藩侯の許を去つて母の膝下に留まらんと決心した。彼は家老に宛てて手紙を認め、書中、彼が特別の理由により藩侯に致仕して母に孝養を致さざるを得ざるに至りし動機を陳べた。……母の家に赴いた。

 今や母の膝下にあり、彼に何の不足はなかつた、たゞ母を慰むるの途は全く之を缺いてゐた。……学者先生今や行商人と身を変じ、近隣の村村を巡りて酒を売り、僅かな利を得た、――凡てこれ母のためであつた。また彼は『武士の魂』なる刀を売払ひ、銀十枚を得た。此れを村民に貸し、それより生ずる僅かの利息をもつて母子の侘しき生活を支ふる他の財源となした。師は此等の賎しき労働に些かも恥辱を感じなかった。彼の天は母の笑顔の中にあつた、母の笑顔ひとつを見るために、何物も高価に過ぎるものはなかつた。

 二年間、彼はこの微賎の生活状態にあつた。……

四 近 江 聖 人

 彼は二十八歳の時、行商を止めて、村内に学塾を開いた。当時、学校を始めることほど簡単なことはなかつた。彼の家は、同時に寄宿舎となり、礼拝堂となり、講堂となつた。孔子像が正面に掲げられ、先生は弟子を従へ礼を正しく恭しく之に香を燻いた。科学と数学はその課程の中にはなかつた。支那古典、若干の歴史、詩作、手跡が当時の教授科目の全部を為してゐた。地味な目立たぬ事業は、この学芸教育事業である。その感化は極めて徐徐と感ぜられるるにすぎない、――天使に羨むまるる事業、そして虚飾を愛する此の世の人人に軽蔑せらるる事業である。

 僻陬の地に居を占め、彼の生涯はその終焉に至るまで平和な快楽が何事もなく連続した。ただ、偶然に、後輩余輩の述ぶるがごとく、彼の名が公衆の注目を惹くに至ったにすぎない。評判は彼は何物より嫌つた。心こそ彼にとりては王国であつた。彼は己が凡てを、然り凡て以上以上を己が衷に有つてゐた。我我は彼が常に居村の問題に関心を寄せてゐたこと、村役人に執成しを為したること、自分を乗せた駕籠舁きに『人の道』を教えたことなど、質朴な隣人たちに語り伝へられた斯かる二三の出来事を聞く。そして斯かる出来事は彼の人生観と完全に一致してゐた。左に掲ぐるは彼の『積善』について述べしところのである、――

 『人皆悪名ヲ悪ミテ令名ヲ好メリ。小善ヲ積ゝ、積ラザレバ令名顕レズ、小人ハ……小善ハ目ニカケズ。君子ハ日々ニ為スベキ小善ヲ一ツモ捨テズ。大善モ応ズレバ、是レヲ行フ、求メテナスニナスニ非ラズ。夫レ大善ハ名ニ近シ、小善ハ徳ニ近シ。大善ハ人争ヒテ為サントス、名ヲ好ムガ故ナリ。名ニヨリテ為ストキハ、大モ小トナル。君子ハ小善ヲ積ミテ徳ヲ為ス者ナリ。真ノ大善ハ徳ヨリ大ナルハナシ。徳ハ善ノ根源ナリ。』

 彼の教へに非常に特異なる一事があつた。彼は、弟子に於て、徳と人格を極めて尊重し、学問と学識を甚だ軽視した。左に掲ぐるは、彼が真の学者を如何なるものと考へてゐるかを示すものである、――

 『儒者の名は、徳にあつて藝にあらず。文学は藝なれば、もの覚えよく生まれ付きたる人は、誰もなりがたき事にあらず。たとひ文学に長じたる人にても、仁義の徳なきは儒者にあらず、ただ文学に長じたる凡夫なり。一文不通の人なりとも、仁義の徳明かなる人は、凡夫にあらず、文学なき儒者なり。』

 多年この教師は『黙黙たる無名の生涯』を送り、近隣の狭き社会のほかに知らるる所がなかつた、しかし「摂理」は彼を微賤より尋ねて世に有名たらしめたのである。

 ここに自分の先生としてもつべき聖人を國中に尋ねんとて、岡山より旅立ちせる一人の青年があった。(中略)

 是れすなわち熊澤蕃山、雄藩岡山の未来の財政家にして、行政家、その主宰せし國に今日も見らるる幾多の永久的改革事業の創始者であつた。藤樹にして此の人のほかに一人の弟子なかりしとするも、彼は猶ほ我が国最大の恩人の一人として記憶せられたであろう。(後略)

五 内 な る 人

 彼の外なる貧しさと単純さは、内なる豊かさと多様性とに対して全く比例を失してゐた。彼に一大王国があつた、その中にありて彼は完全な支配者であつた。彼の外なる静けさは、内なる満足の自然の結果にほかならなかつた。実際我我は彼について、もう一人の天使の如き人について言はれたやうに、『九分が精神にして一分が肉であつた』といふことができよう。(中略)

 彼の学問的経歴に、明確な二段階があつた。第一は、当時の我国人とともに保守的な朱子学によつて育てられし時代である。朱子学は、何物にもまさりて自己に対する不断の探求を強ひた。此の敏感な少年が自己内部の不完全と弱さを絶えず内省して其の敏感さを倍加せしめたことは、我我の想像し得るところである。過当なる自己検討の結果は、すべて彼の初期の生活と文書の中に明らかに看取せらるる。彼が二十歳の時に編した『大学啓蒙』は斯かる気分のもとに書かれたものである。彼の生来の謙遜は、意気沮喪の哲学に圧sられ、彼の如き多くの霊魂と同じく、彼を病的な隠遁者として了つたのでないかと思ふ。併しこゝに一つの新しき希望が、かの進歩的な支那人、王陽明の、文章を以て、彼に差延べられた。余輩は大西郷について語りし時に、すでにこの著しき哲学者に言及するところがあつた。陽明学に現われた支那文化は決して我が国民を小心翼翼たる保守的回顧的たるな人民たらしめなかつたというふ余自身の所見を余の陳べる時、余は日本歴史に於いて十分に確証せられたる事実を陳べつゝあるのであると思ふ。思慮ある孔子批評家にして今日この聖人その人が極めて進歩的な人であったことを認めざる者はない?、余は確信する。回顧的な彼の國人が自己の光をもつて彼を解釈し、彼を斯くのごときものとして世界にしめしたのである。併し王陽明は、孔子にありし進歩性を展開し、そして彼をその光をもつて理解しよう人人のなかに希望を吹き入れたのである。この人がわが藤樹をして此の聖人を新しき光に於いて見るの助を与えたのである。「近江聖人」は、今や実践的の人間であつた。(中略)

 彼が人為の「律法」(法、ノモス)と、永遠にに存在する「真理」(道、ロゴス)とを、明確に区別したことは、左の如き注目すべき言葉によつて示されてゐる、――

 道ト法トハ別ナル者ナリ。心得違ヒテ法ヲ道ト覚リタ誤、多シ。法ハ、中国聖人ト雖、代々替レリ、況ヤ吾国ニ移シ移シテ行ヒ難キコト多シ。(道永ハ永遠ヨリ存在ス)〔=道ハ三綱五常、是レナリ、天地人ニ配シ五常ニ配ス〕。未ダ徳ノ名ナク(聖人ノ教ナカリシ)時モ、此道ハ既ニ行レタリ。未ダ人生ゼザリシ時モ、太虚ニ行ハル。人絶エ天地ナキニ帰スト雖、亡ブルコトナシ。……法ハ、聖人、時所位ニ応ジテ事ノ宜シキヲ制作シ玉ヒ其代ニ在リテ道ニ配ス。時ナリ所位、替リヌレバ、聖法ト雖、用ヒ難キ者アリ、不合ヲ行フトキハ却テ道ニ害アリ。

 而して此れは、聖書が今日極端な霊感主義者によりて無謬と考えられてゐると同じだけ、所謂「経書」が無謬と考えらゐた時代に、語られたのである。斯くの如き精神をもつて書かれし注釈書は、大胆にして印象的且つ新鮮ならざるを得ない。

 併し彼の大胆不敵と不羈独立とに拘らず、彼が謙遜の徳に最上級の位置を与えたことほど、彼の道徳体系に於て注目すべきことはなかつた。彼にとりては、謙遜は諸々の徳の淵源たる第一の徳であり、其なくして人は凡てを欠くのである。(中略)

 併し彼は生命を長く享けなかつた。彼の妻は彼に先んじて逝つた。彼は慶安元年(一六四八年)の秋、四十歳にしてその生涯にふさはしき死を遂げた。彼は臨終の到りたるを知り、門弟を呼び集め、常の如く端座して、曰うた、『吾は去る、國に我が道の失はざるよう心すべしと』と、そして逝いた。(後略)。

 私の独断で大部を写しました。是非、この本をお読みください。

参考:三綱五常 意味

 儒教で、人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。▽「三綱」は君臣・父子・夫婦の間の道徳。「五常」は仁・義・礼・智ち・信の五つの道義。

*内村鑑三『代表的日本人』(岩波文庫)より
20.11.05


19 山崎 闇斎(一六一九~一六八二)>

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           一

 幼少の頃の山崎闇斎は、手に負へないいたづらッ子であったらしい。京都の下立賣で生まれて、そこで育ったのであるが、六つ七つで、竿を持つて堀河橋へ出て、通行人の脛を打つては、水中へ落して面白がる。悪戯もよほど悪性だつたのである。
 親も持て余した末に妙心寺へ遣つて坊主にさせようとしたが、親の持て余した子供を、寺でもやはり持て余した。あまりいたづらが烈しいので、逐ひ返さうとすれば、小坊主の闇斎はは怒って、「そんなことをしようなら、寺に火を附けて、焼き払うぞ」とわめく。実際にしかねないけんまくなので、強ひて出すわけにも行かぬ、僧侶も弱ってしまった。
 さうしたいたづら小僧でも、さすがに頭はよかった。その頃お師匠だんが、唐本の『中峰廣録』を持つてゐるのを見て、是非見せてくれと乞うて止まぬ。その態度があまり熱心なので、「それほど見たいなら貸しても遣らうが、ほんたうに讀むかどうか、後で問ひ糾して見るがよいか」とだめを捺すと、素直に、「承知しました」といふ。不思議に思つて出して渡したら、一月經つて返しに来た。「それでは試しに問うて見るぞ」と、その中のことを訊ねると、答は流るゝ如くであつた。「これは隅に置かれぬ」と、師匠も始めて我を折つて、進んで引き立てゝ禪學を修めさせた。それが闇斎の十五六の時のことだつた。
 闇斎は十九歳にして土佐に到つて、吸江寺にゐた。それよりして、土佐の山内家の老臣野中兼山に知られて、その庇護の下に經書を読んだ。二十五歳にして、つひに佛を去つて儒者となり、京都に帰って更に講習するところがあり、二十九歳にして嘉右衛門と称し、闇斎と号し、敬義(もりよし)と字した。爾後朱子学者としてとして立つて徒に授けることが三十有余年、後には神道をも奉じて、その方の門人も多かった。その神道を垂加神道と呼ぶ。垂加は闇斎の号である。しかし闇斎は、佛よりして儒に帰したが、儒を棄てゝ神道に移つたのではない。儒者として神道を奉じたので、その本領ははやはり儒學に在つたのである。そしてその儒學は程朱を遵守したが、闇斎の朱子學には、闇斎その人の色彩がのうこうであるところから、それを林家その他の朱子學と区別して、闇斎學とも、山崎學とも、また崎門學(きもんがく)ともいふのである。

      二

 最初に闇斎の少年の逸話を叙したが、それらの逸話に現われた闇斎の正確の烈しさは、一生涯附いて廻つてゐた。闇斎は正に烈火の如き教育家だつた。何者をも灼き盡さずんば止まぬ概があつた。
 その面に、常に怒気を帯びてゐたとかと思はれる闇斎が、果して理想的な教育者型かどうかに就いては、疑問の余地があるかも知れぬ。しかい少なくも闇斎は、活きたる教育者であった。門人が、途上に美色を見て心の動いたりする時に、一念先生のことに及べば、忽ちにして心が引き締まるといつたといふ。かやうな強い教育力を持つた先生を、またいづこに求めようか。
 佐藤直方は、闇斎門下の三傑の一人であるが、その直方にしてなほ且つ、「昔、闇斎先生に就いてゐた時には、その家へはひるごとに、内心びきびくして、獄にでも下るやうな気持だつた。辭して表へ出ると、始めてほつとして虎口を逃れたやうな心地がした」と告白してゐる。かやうな威力を有する先生が、さう求められるものはない。
 門人の楢崎正員が闇斎」に呼ばれてその前へ出た時に、「今日は、よいお天気で」と挨拶したら、忽ちどなりつけられた。「天気などはどうでもよい。何か分からぬことでも聞け」と。しかしまた門下の質問も、分かり切つた訓詁でも問はうなら、すぐにまた「字引にある」と叱られる。
 もし闇斎の人物の短所はといつたら、あまりにもゆとりのなかつたことが挙げられるかも知れない。しかしそのゆとりのないのが、一面闇斎の長所であつたのである。崎門に於ては一も學問、二にも學問、三にも學問だつた。書物なども、餘白もないまでに書入してあるのが喜ばれた。聖賢の書からなどと、綺麗なまゝで持つてゐようとしたりすると、却つて叱られた。徹頭徹尾學問本位だつたのである。かやうな教育法に依つて、闇斎の門下からは、佐藤直方が出た。浅見絅斎けいさいが出た。三宅尚斎が出た。その他の人々が出た。

      三

 以上は主として『日本道學淵源録』に據つたのであるが、なほ『貫川記聞』といふ殆ど知られてゐない寫本に、闇斎の言行の一二の記してあるのを、序に紹介して置こう。『貫川記聞』は、闇斎からは孫弟子になる若林強斎の談話を、その門人の筆録したものである。
 「山崎先生が、俗儒を抱へようよりも、事文類聚を買つて置いた方がよい。扶持をいたゞきたいとも、御加増が願ひたいともいはなくてもよい、と仰せられた。尤もなことじゃ」
 その一つにかやうにある。たゞ知識を授けることならば、何も活きた人を俟たない。眞儒には――眞の教育家には、それ以上のものがなくいてはならないのである。然も現代にも、死んでゐる書物の受賣だけをしてゐる教師がいかに多いことか。
 闇斎が他の儒者達と、会津侯保科正之に侍坐してゐた時のことである。正之が、『論語』の「父母はたゞ其の疾をこれ憂ふ」の章に兩節のあることを擧げて、「一方に片づけたいものだが、いかゞであらうか」といつたのに、闇斎は、「兩節共に一理ありますので、俄かに一方に極めるわけにはまゐりませぬ」と申し上げた。すると儒者の一人が横から口を出して、「嘉右衛門殿は御子がないから御存じあるまいが、拙者などは子供を持つてござれば、子を思ふ情はよく分かつて居ることでござる。父母は病をしようかと憂ふると説く方が適切でござろうと存ずる」ち、憚りもなくいつた。それを聴いた闇斎は、静かに答へて、「なるほど拙者は子供を持ちませぬから、その趣は存じませぬが、しかし大勢子供もあつて、殊に長男をなくなされている朱子が、片づけられぬと申されてゐるのを見ますれば、俄かに一方に極めるわけにはまゐりますまい」といつた。その儒者は一言もなくなつた。これを聴いた正之は、「尤ものこと」と仰せられて、それ以上の穿鑿は止められた。――一時の思附を卒然として口にして、すぐにまた閉口した俗儒の様子が見えるやうである。

      四

 闇斎は、天和二年九月十六日に京都に没した。歳は六十五であつた。
 闇斎もその晩年には、言行がよほど穏かになつてゐた。然も闇斎自身は笑つていつた。「己が以前のやうでないないのを、徳が進んだからだと思うたら、間違ひじゃ。まことは鎗の穂先が碎けたのじゃ」と。
 この小篇は、闇斎を語つてもとより委細を盡さぬが、それを盡さうとしたら際限がなくなるであろう。最後にその門流の人遊佐木斎の言を擧げて、結語に代へる。
 「闇斎先生の人となりや、平生他の嗜好なし。一味學に志して、未だ嘗て俗人と交らず。温厚の氣象足らずと雖も、志剛にして、制行苟くもせず。専ら斯道を明かにするを以て己が任となし、死して後止む。學んで厭はず、教へて倦まざる者に庶幾ちかき歟。其の志の如きは、則ち藩國に仕へず、王公に屈せず。後學を誘引して、此の學を将来に傅へむと欲する而巳。實に本邦の一人にして、其の程朱に功あることは、則ち世未だ其の比を觀ざる也」

森 銑三著作集 第八巻(中央公論社)より
2010.06.29


20 伊藤 仁斎(一六二七~一七〇五)

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 伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者(日本儒教の創始者)・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。

諱は、はじめ維貞、のち維禎。仮名 (通称)は、源吉、源佐、源七。屋号は、鶴屋七右衛門。仁斎は号であり、諡号は古学先生。

 <勇往向前、一日は一日より新たならんことを欲す>


『養生訓』
21 貝原 益軒(一六三〇~一七一四)

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 一 言葉を少なくすることの効用についての医学的意味:言葉をつつしみて、無用の言(ことば)をはぶき、言(ことば)をすくなくすべし。多く言語すれば、必(ず)気へりて又気のぼる。甚(だ)元気をそこなふ。言語をつつしむも、亦徳をやしなひ、身をやしなふ道なり。(岩波文庫:P.39)

 二 言葉を少くせよ:心はつねに従容としづかに、せはしからず、和平なるべし。言語はしづかにしてすくなくし、無用の事いふべからず。是尤気これもっともを養ふ良法也。(同書:P.56)

 三 飲食ともに控えめにせよ:飲食は飢渇をやめんためなれば、飢渇だにやみなば其上にむさぼらず、ほしゐままにすべからず。(同書:P.65)

 四 心たのしく残躯を養へ:老後は、わかき時より、月日の早き事、十ばいなれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、喜楽として、あだに日をくらすべからず。つねに時・日をおしむべし。こころしづかに従容として余日(よじつ)を楽み、いかりなく、欲すくなくして、残躯をやしなふべし。老後一日も楽しまずして、空しく過ごすはおしむべし。老後の一日、千金にあたるべし。人の子たる者、是を心にかけて、思わざるべけんや。(同書:P.159)

 老後は、若き時より月日の早き事十倍なれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、喜楽して、あだに日を暮らすべからず。
                    貝原益軒『養生訓』

谷沢永一『百言百話』(中公新書)P.96

関連:■躰が寒く感じた

2009.10.20


22 大村 彦太郎(一六三六~一六八九)


 商いは高利によらず、正直によき物を売れ

 戦前、三越、松坂屋、高島屋などと肩を並べたデパート業界の名門であった東京、白木屋お名が、全国浦々浦々に知れわたったのは、昭和七年(一九三二)歳末の大火によってである。

 《白木屋大火のいましめ

  外出時には必ずズロースを

  同デパートの専務語る》(朝日新聞7.12.23)

   《今度の火災で痛感した事は女店員が折角ツナを或いはトイ(樋)を伝わって降りてきても、五階、四階と降りて二、三階のところまでくると下に見物人(野次馬)が沢山雲集して上を見上げて騒いでいる。若い女の事とて(着物の)裾の乱れているのが気になって、片手でロープにすがりつきながら片手で裾をおさえたりするため、手がゆるんで墜落してしまった。(略)今後女店員にはこうした事のないよう全部強制的にズロースを用いさせる積りですが、お客様の方でも万一の場合の用意に外出する時にはこの位の事は心得て頂きたいものです。尊い犠牲者が教えてくれたこの教訓を無駄にせぬよう努力する積りです》

 この、十四人の女店員の墜落が、日本人の女性にパンティをはかせるきっかけになるのだが、白木屋百貨店の来歴は、湖国近江(滋賀県)の片ほとりからはじまる。

 寛永十三年(一六三六)長浜で生まれた大村彦太郎(初代)は、幼くして父道与と死別し、母親の実家、河崎家に引きとられた。河崎家は、飛騨の材木を京、大坂で売りさばく材木商、白木屋をひらいた。

 一説によると、彦太郎が京へ出立する時、日頃から学んでいた長浜、良疇(りょうちゅう)寺の法山和尚から、

 「くじけることなく(商売に)励むためには信仰が大事じゃ」

 と小さな観音仏を与えられ、

 「成功したら、十年後この寺を訪ねてこい」

 と励まされたという。

 京にでた彦太郎は、材木商のかたわら綿布などの行商に出精すること十年。相当な財を蓄積した彦太郎は、約束通り長浜の法山和尚を訪ねる。

 「よくやった。が、さらに十年、世に知られる商人になって訪ねてこい」

 法山の言葉にふるい立った彦太郎は、これを機会に投機性が強くて不安定な材木商をやめ、小間物、呉服の分野への進出をはかり、江戸に赴いてお江戸随一の繁華街、日本橋通二丁目に小さな店をかまえた。

 しかし、彦太郎は慎重であった。開業当初は、多額の資金を寝せねばならない呉服扱いを避け、ひたすら、

 商内(あきない)は高利をとらず

 正直に

 末は繁盛(彦太郎の道歌)

 と、正直と奉仕に徹する商法を展開した。

 彦太郎が念願の呉服に手をだし、羽二重(純白の絹布)を売りだしたのは、開業六年目のことである。白木屋、大村彦太郎の地道で堅実なこの商法は、やがて彼を銀五百二十余貫(純資産)の大商人の座に押しあげていく。

 こうして彦太郎は十年後、ふたたび長浜に法山和尚を訪ねる。

 「よくやった、あと一息じゃ彦太郎、こんど来る時は日本一の商人になってこい」

 法山の激励をうけた彦太郎は以来十年、江戸きっての商人、小間物類から呉服を扱う大呉服店にのしあがって、三たび良疇寺の法山和尚を訪ねるが、その時すでに法山は世を去っていた。彦太郎はその、人生の師ともいうべき法山の墓石にすがりつき、声を放って哭(な)いたという。

 彦太郎が大番頭に命じて家法をつくらせたのは、創業八年目の寛永十年(一六七〇)のことである。この、五項にわたる簡潔な家法は、その末尾に番頭以下使用人十四人がそれぞれ署名し、大番頭の中川治兵衛に差出した一種の誓約書ともいうべき異色の『白木屋定法』であった。

 《一、御公儀様より仰せ出され候御法度の旨相守り申すべく候事

  一、衆中(人びとの中で)誰に寄らず悪事(を働く者)は申すに及ばず非儀申さる者御座候わば、見付け次第少しも隠し立てず早速申し出べく候、(略)合点参らざる(納得いかぬ振舞のある)者御座候わば、議事(誰彼)に寄らず申し進む(出る)べき事

  一、諸事非儀(よからぬ振舞)之なき様に人々我(わがまま)を慎み正直に相勤め偽なる儀申すまじく候。殊に他所に於いて女さばくり(おんな道楽)仕り申すまじく候事

 右の趣相守り申すべく候。少しも違背仕るまじく候、仏神は(この)紙面に及び候。

  仍 如 件

  寛文十年九月晦日

       横田太兵衛

       高田又兵衛

         (以下十四名)

  中川治兵衛 殿》

 元禄二年(一六八九)大村彦太郎逝く。

 彦太郎が、法山和尚と約束して三度目に長浜を来訪した日から十年目、二代目彦太郎は、亡父にかわり良疇寺を訪れ、法山と彦太郎の冥福を祈って銀五十貫を寄進している。

 創業者彦太郎の商いに対する《商いは高利によらず、正直によき物を売れ》という堅実と倹約を家訓とした姿勢は、二代目彦太郎以降の彦太郎代々に受け継がれ、三井家の越後屋に迫るほどの大呉服店となり、当時の商人たちの理想である、京都に本店を持った、いわゆる「江戸店(たな)持ち京商人」として繁栄の一途を辿っていった。

 大村家の家法は、こののち、白木屋中興の祖といわれる四代彦太郎によって享保八年(一七二三)に改訂、増補されている。

 《一、酒は商人衆(取引先の商人を)饗応(接待)の為に候処、手前に過ぎ(自分で酩酊)候えば商人衆へ無挨拶(失礼)、他所(よそ)にて酒用い(宴席を設け)候事無用たるべく候。酒の上にて宜しからざる事も之れ有る物に候間、堅く相守り申さるべく候事。

  一、諸式(諸商品)商事の儀、地田舎集衆(地方の得意先に限らず商人衆(取引先)を大切に致すべく候、少しの買物致され候衆中を尚以て懇篤に致し遣し申すべく候。大商人衆中の分は自然大切に成候間、買物多少に限らず、客衆を随分懇意に遊ばされ何とか相調え帰り申候みぎりは、見世端(みせばた)まで成べく腰をかがめ懇に挨拶致(せば)又重て買物に被来候(こられ)。》

 お客様が買物をして帰るときは、買物の多少にかかわらず、店の表まで出て腰をかがめ、心をこめてお礼を申しあげれば、また、買物に来てくださるものである。

 ――こうして白木屋は、江戸から東京へと三百年にわたる風雪を乗り越え、明治三十六年(一九〇三)わが国最初の洋式建築百貨店として登場。デパート業界に新風を吹き込む。

 が、歳月というのは酷薄である。白木屋代々の人々が営々と築きあげてきたこの百貨店も、戦後、横井英樹の乗っ取り騒動に捲きこまれ、東急百貨店に吸収。現在の東急百貨店日本橋店からは、かつてのイ白木屋の面影は偲ぶよしもない。

 神坂次郎『男この言葉』(新潮文庫)P.170~P.175 による。
2016.10.03


春秋 2016/10/10付

 老夫婦とベテラン店員が心から別れを惜しんでいる。「またいつか、どこかでお会いしたいわね」と客の婦人。「ありがとうございます」と頭を下げる店員。先月末、千葉県で「そごう柏店」が43年の歴史に幕を閉じた。最終日まで数日という売り場で見たやりとりだ。

▼入り口近くでは開業した頃の街並みを写真展で紹介していた。今でこそ周りには大小のビルが立ち並んでいるが、昔の写真は平屋や2階建ての木造民家が目立つ。少し離れればもう農地だ。駅前再開発で誕生した巨艦店は人々の憧れであり、自慢でもあったろう。大きな百貨店があるから柏の街に住むと決めた人もいよう。

▼この店だけでなく、百貨店は長く全国各地で街の顔を務めた。しかしバブル崩壊から長いトンネルが続く。セブン&アイグループは神戸市三宮駅前などのそごうや西武を売却し関西での百貨店事業を大幅に縮小すると決めた。流通業界の雄であり華でもあった百貨店は、グループ経営の足を引っ張る存在になってしまった。

▼地元の人は愛着を持っている。店員は閉店を前にしても礼儀正しく真面目に働く。そうした人たちに支えられてきた店の数々が、それでも傾いてしまった。景気の停滞、専門店チェーンの台頭、ネット通販の普及と、私たちの「買い物」を取り巻く環境はめまぐるしく変化した。波にさらされ続ける小売業界の苦難である。


23 池田 綱政(一六三八~一七一二年)


 能楽、和歌、絵画、蹴鞠等を愛好した公家的文化大名で、現在国指定特別名所となっている後楽園(岡山市)を造影したのも綱政であった。光政は和意谷墓所(吉永町)を造営、儒式によって祖父輝政、父利隆及び自らの墓所を営ませたが、綱政は仏教に心を寄せ、元禄十一年(一六九一)に上坂外記に命じて児島郡村の永昌庵を移して曹源寺を造立し、その菩提寺とした。

 これが曹源寺の草創であり、現在小方丈に「永昌」の額が掲っているのは、永昌庵を移したためである。元禄十一年といえば、綱政が還暦をを迎えたとしであり、曹源寺の造立は、高祖父信輝の位牌をまつる護国院(京都・妙心寺内)の壊廃を嘆き、信輝の位牌を移して、その菩提を弔うとともに、自らの冥福を祈らせようとしたものであった。綱政が妙心寺の絶外和尚を招請して曹源寺開山とし、寺領二六〇石を寄進するとともに、自影を描かせて、自ら讃を書いて納めているのもこのためであった。


24 芭 蕉(一六四四~一六九四)

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▼おくのほそ道

 一 冒 頭

 月日は百代の過客にして、行(ゆき)かふ年も亦旅人也。船の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老(おい)をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。故人も多く旅に死せるあり。予もいづれのの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず海濱にすすらへ、去年(こぞ)の秋江上(かうじょう)の破屋(は)おくに蜘(くも)の古巣をはらひて、やゝ年も暮(くれ)春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引きの破れをつゞり笠の緒付(をつけ)かえて、三里に灸すゆるより松嶋の月先(まず)心にかゝりて、住(すめ)る方は人に譲り杉風(さんぷう)が別墅(べつしょ)に移るに、草の戸も住替る代ぞひなの家面八句を庵(いほり)の柱に懸置(かけおく)。


25 浅見 絅斎(一六五二~一七一二年)

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   一

 承応元年8月13日(1652年9月15日) - 正徳元年12月1日(1712年1月8日) 浅見絅齋は儒者であった。朱子学者であった。しかしたゞ朱子学者といったのでは、ぴつたりしないものがある。絅齋は、儒者は儒者でも、最も日本的な儒者、武人的な儒者だった。徳川幕府専権の時代に当って常に大義名分を鼓吹し、足一歩も京都の外へ出ず、諸侯の招に応ぜず、薙刀一柄を床の間に逆に立てかけ、「もし禁庭に御大事があらば、これを小脇に掻い挟んで、お味方に参ろう所存ぢや」といつた。佩刀の鎺(はばき:鈨・はばきとは日本刀の部材の一つで、刀身の手元の部分に嵌める金具である)に赤心報国の四字を篆鐫(てんせん:中国で秦以前に使われた書体。大篆と小篆とがあり、隷書・楷書のもとになった。印章・碑銘などに使用)したのも、またさうした精神の顕現だった。絅齋は剣道にも達していた。毎朝夙に起きて、馬を乗廻すことが数回だったともいはれている。もとよりたゞ先哲の書を講じて、能事畢れりとする学究ではなかったのである。

 絅齋の皇室尊崇の大精神は、更に凝集して『靖獻遺言』の一書となったのであるが、絅齋の志は、空言を以て義理を説くも、人を感動せしめない。事蹟を挙示して、読む者をして感奮興起するところあらしめたいというに」あった。然も徳川の盛世に、本朝の諸忠臣を顕彰することは、幕府に對して憚らざるを得ぬ。依って漢土の忠臣義士の内から、最も大義に明らかなる者八人を選び、特にその絶命の詞を挙げ、附するにその行実を以てして、天下の人士に尊王の大義を徹底せしめようとした。そしてこの書は、絅齋の生前に刊行せられて普く流布し、絅齋没後には、ますます廣く行われた。幕末多事の日に至っては、王事に奔走する志士達の競って愛読するところとなり、ついには王政復古の一大原動力ともなった。絅齋は嘗て『近思録』を講じて「為萬世開太平」の章に至って、「拙者が今日おのおの方のためにこの書を講ずるのも、また萬世のために、太平を開くのでござる」といったといふ。絅齋の自ら任ずるところは、かくの如くだった。その『靖獻遺言』を著したのも、また正に萬世のために太平を開くものだった。

   二

 然も緑を肯んぜず、聞達を求めなかった絅齋の一生は貧に徹していた。清貧の語は、たゞ文章の上に好んで人の用いるところとなっているが、絅齋ほどの清貧に甘んじていた人は、蓋し尠かったろうと思はれる。その高弟の若林強齋も、貧の一事に於ては師の絅齋に譲らなかったが、或日大津のその家から、京都の絅齋の許へ通う途中で餅を買って、土産に持参したら、絅齋は大食の人だったものだから、その餅を貪るように食べて、「そちも貧乏は貧乏じゃが、この餅が買われるくらいならまだよいわ」と笑いながらいった。

 また或時は、絅齋が寒中にも綿の入った物を身に着けていないのを見て、強齋は母から仕立てて貰った正月の晴着を作り直して、先生に差上げた。そうしたことなどもあったのだった。

 やはり或年の暮に強齋が訪ふと、絅齋はがらんとした空家のような家に、擂鉢に酒を盛ったのを傍らに置き、椀の蓋でそれを酌んで飲みながら、「正成その時、肌の守を取出し」楠木の謡をうたっている。見渡したところが、まだ正月の餅も搗けてはいない。強齋は家に帰るとすぐに餅を搗かせて、それをまた持参したなどという話も傳えられている。このことは尾張に於ける﨑門の儒者の一人だった細野要齋が書いている。

 楠木の謡というは、絅齋自ら作って、その道の人に節附けして貰ったものだった。絅齋は楠公を以てわが国に於ける忠義の士の第一人者として、その徳を慕うのあまりに、『太平記』の桜井駅訣別の一段を謡としてうたったのである。

 前の絅齋と強齋とのことは、強齋の談話をその門下山口春水の筆録した『雑話筆記』に據ったのであるが、同書にはまた絅齋のことを語って、「先生は大男で、よく肥えたる人にて候が、屋根がもるゆえ、自分(強齋)を相手にしては屋根へ上らるれば、踏まるゝ處がぬくる。或は講堂のねだが落ると、先生の木遣りで、自分がいつでも其の相手になったことにて候。それほど清貧にありたれども、先生には其れなりに安んじて、つひに富貴利達を求めらるゝ心なく、世に手出しをなさるゝと云ふことの全然なかりたることにて候」といふ一節がある。

 大兵肥満の絅齋が、自身に雨漏りの修繕をするとて、屋根へ上って、却って屋根板を踏み抜いて、修繕どころか破損を大きくしてしまふといふような悲しい滑稽をも演じたりしたのである。

   三

 『雑話筆記』には、絅齋のことを語っているのがまだある。絅齋は三人兄弟の仲で、その家はもともと善かったのであるが、絅齋が学者として一家を成した頃には、家道がいたく衰えていた。ところが絅齋の兄も弟も、一向に働きのなかった人で、絅齋は自分の生活を維持するだけでも容易でないのに、その上にも實家のことにも頭を使って、何かにつけて苦労しなければならなかった。門人達は、何れもそれを痛ましいこととしたという。「されども先生には、学問の為方のねうねつな通りに、親類一家のことにも、ずんと思召すまゝにせねばおかれぬ御気象にて、それが勢があればなれども、まことに身の孝養も足らぬ身代で、大気なまゝに、当る障るの世話を、身に引きうけてなされて、何でも来いと云う様な御気質ゆえに、一倍御苦労も多かったことにも候」などとしてある。

 ねうねつは聞き馴れぬ言葉であるが、これは今ねついというのと、恐らくは同義なのであろう。貧すれば鈍するなどというが、絅齋はいかに貧乏しようと、そのために志を挫くような薄弱な徒ではなかった。苦しい中からも、矢も鉄砲も一身に引受けようというような、めげぬ気象を発揮した。そうした点にも絅齋の剛毅な性格が窺われるのである。

 『雑話筆記』には、上についで、絅齋の継母への仕え方の」いかにも」よかったことが述べている。その継母というは、御幸町松原下ル町に住む絅齋の弟の許にいられたのであるが、晩年病気になってからは、絅齋は毎日欠かさず看病に赴いた、それも昼間自宅で講義をし、雑用を済まして、夕方から出かける。そしてその看病を夜通し勤めて、朝になってから帰る、それが酷暑にも厳寒にも変わらずに、末期まで続いた。道筋の人達は絅齋の通るのを見て、感動せずにはいられなかった。絅齋は、忠孝節義をたゞ口先で鼓吹する学者ではなかったのである。

   四

 絅齋の畢生の著述『靖獻遺言』は、貞享四年(1687年)に版行が成ったのであるが、絅齋の父はそれを見るに及ばずに、その前年に六十一歳でなくなった。貞享四年に版行が成ったのであるが、絅齋の父はそれを見るに及ばずに、その前年に六十一歳でなくなった。後に絅齋は、「自分が当世に用いられるぬのを、親御は常々気の毒がられたが、これほどの書物を仕立てるほどになったことを聞かれたならば、さぞかし悦ばれたことであろうに」と、しばしば述懐に及んだ。門人達もまた師の心中を汲んで、それを遺憾なこととしたという。強齋も、「晩年には、侯伯も其の名を称せらて、仙洞様(霊元天皇)にも先生の名を知らせられて、仰せ出されたと云うことなり。今少し御存命ならばと思うこと大分ありたることにて候」といっている。

 最初に絅齋を日本的な、武人的儒者であったとしたが、それだけではまだいい足りない。絅齋は正に一個の大丈夫だった。大丈夫にしてそして儒を兼ねたのである。

 絅齋、名は安正、通称は重次郎、近江国高島郡太田村の人である。始め医を業としたが、〉後ち儒に帰して、山崎闇齋に就いて学んだ。崎門の三傑の一人に数へられる。慶安五年年八月十三日に生まれ、正徳元年十二月朔日の没した。歳六十。京の東郊鳥邉山に葬られた。 浅見 絅斎(あさみ けいさい、承応元年8月13日(1652年9月15日) - 正徳元年12月1日(1712年1月8日)は、日本の江戸時代の儒学者・思想家。名は重次郎。諱は安正。筆名として望楠楼。


浅見 絅斎(あさみ けいさい、承応元年8月13日(1652年9月15日) - 正徳元年12月1日(1712年1月8日)は、日本の江戸時代の儒学者・思想家。名は重次郎。諱は安正。筆名として望楠楼。

近江国(現滋賀県高島市)に生まれる。はじめ医者を職業としたがやがて山崎闇斎に師事し、後世、闇斎門下の俊英3人、すなわち崎門三傑の一人に数えられる。後年に至って、闇斎の垂加神道の説に従わなかったために疎遠となったが、闇斎の死後は、神道にも興味を示すようになり、香を焚いて罪を謝し、闇斎の所説を継述するに至った。門下に、若林強斎(守中霊社)・山本復斎(守境霊社)等がいる。その尊王斥覇論は徹底しており、足、関東の地を踏まず、終生、処士として諸侯の招聘を拒み、明治維新の原動力の一つとなった。

seikenigen.png 主著『靖献遺言』は、1684年から1687年にかけて書かれた。屈 原、諸葛 亮、陶 潜、顔 真卿、文 天祥、謝 枋得、劉 因及び方 孝孺の8名の評伝の形を取っており、幕末のいわゆる志士たちに大きな影響を与えた。

森 銑三著作集 第八巻(中央公論社)より

参考書:近藤啓吾著『靖献遺言』(国書刊行会):(昭和六十三年三月八日購入している)766ページに及ぶ本である。
2017.11.25


26 新井白石(一六五七~一七二〇年)


 徳川綱吉のあと6代家宣(いえのぶ)(1662~1712)と7代家継(いえつぐ)(1709~1716)父子の時代はわずか7年ほどにすぎなかった。その間、幕政に参加して将軍を補佐したのは朱子学者の新井白石であった。 

▼『折りたく柴の記』の序を紹介します。日本の名著「新井白石」(中央公論社)による。 

 むかしの人は、言うべきことははっきり言うが、そのほか無用の口をきかず、言うべきことも、できるだけ少ないことばで意をつくした。私の父母であった人びともそうであった。

 父であられた人は、七十五になられたとき、はげしい熱病にかかり危篤におちいられた。医者江馬益庵(えまえきあん)が、来て独参湯を差し上げがいいと言う。父上はいつも人を戒めて「若い人ならともかく年いった者が、命には限りがあることも知らないで、薬のためにかえって息苦しいありさまで死ぬのはみにくい。よく注意するがよい」と言っておられたので、さてどうしたものかと言う人もあったが、呼吸困難は見ていてつらいほどなので、しょうが汁に混ぜておすすめすると、それから呼吸が楽になり、病気はなおってしまわれた。あとになって母上が、「どうなすったのですか。ご病気のあいだには、人に背を向けて寝たままで、ひとこともものをおっしゃいませんでしたね」とお尋ねしたところ、
「あれは頭がひどく痛かったのだ。わしはいままで人に苦しげな顔を見せたことがないのに、いまいつもと変わった様子を見せるのは、よろしくない。それに世のなかの人が熱にうかされて、とりとめないこと言うことが多いのを見ていると、なにも言わぬに越したことはなかろうと思って、ああしていた」と答えられた。
 これらのことで日常のことは推測できよう。

 そういうふうだったから、お尋ねしてみたいとも言い出しかねて暮らすうちに、なくなられたので、それっきりなってしまったことが多い。世間一般のことならば、それでもよかろう。父親や祖父のことがくわしくわからないのはくやしいが、いまはもう尋ねる人もない。このくやさしさから、私の子どもたちもまた、私と同じようになることもありうると悟った。
 いまは暇のある身となった。心に思い出すその折りその折りに、過ぎ去った事どもをとりとめなく書きとめておいた。よその人の見るべきものでないから、ことばのまずさも、内容の煩わしさも遠慮することはない。
 そのなかで、御先代様(六代、家宣)のことに言及したのは、まことにおそれ多いことではあるが、世間ではよく知る人がなく、おのずとお伝えしようとする人もないのは遺憾なことである。わが子・孫ののちのちまでも、これらの文章を読む者が、父親や祖父の立身の苦労、また父親が御先代様から受けた御恩のなみなみならぬものであったことを理解したならば、忠と孝の道にそむかぬことともなるだろう。
 六十の翁、散位源君美(さんにくんみ)、享保元年(一七一六)十月四日、起稿する。 

2010.06.13


27 室 鳩巣(一六五八~一七三四)


 江戸時代中期の儒学者。鳩巣は号。医師草庵の子として江戸の谷中に生まれた、15歳で加賀藩主前田綱紀に仕え、京都で木下順庵に学んだ。1711年同門の新井白石の推薦で8代将軍徳川吉宗の侍講となり享保の改革の教学政策に貢献、荻生徂徠、伊藤東涯の古学両派に対し朱子学を維持した。江戸駿河台に住んだところから<駿台雑話>を著したほか、幕府への上書<献可禄>、詩文集<鳩巣文集>などがある。

『国民百科事典』(平凡社)による。
2009.10.04


九分は足らぬ、十分はこぼるると知るべし
28 徳川吉宗(一六八四~一七五一)


 大岡越前守(かみ)については知らないひとはいないでしょう。

 では、彼の時代の徳川幕府の将軍は誰だったでしょうかと聞かれて、即答できる人は日本歴史をよく勉強されている方でしょう。

 答えは徳川幕府中興の祖といわれた八代将軍徳川吉宗です。

▼私は徳川吉宗に就いて調べてみました

 高校日本歴史教科書を読むと「…吉宗は、曽祖父にあたる家康時代の政治を理想として、幕府の権威を高め、幕府をひきしめようとして改革にのりだした。この改革を年号にちなんで享保きょうほうの改革という。

   徳川八代将軍が家康を「曽祖父」と記載されていることに疑問に思い、「徳川家」をGoogleで調べると、徳川家(尾張)・徳川家(紀伊)・徳川家(水戸):いわゆる徳川御三家の系図を読み取り、その家系図から、教科書の記載がただしことをしることができた。

▼彼は将軍になると財政の安定をめざす。はなやか元禄時代の影響でぜいたくになった武士・町人の生活をひきしめるため、きびしい倹約令をだして質素な生活を命じるとともに、法会(ほうえ)や寺社建立などの支出をおさえるようにした。大名には上げ米(あげまい)を命じた。

 旗本などが役職につくと、それに相応した俸禄を増して、子孫まで世襲することになっていたが、これをその在職中にかぎって不足分を増給することにした。これを足高あしだかの制という。こうして財政支出の増大をおさえるとともに、有用な人材を登用することが可能になった。

 新田開発を奨励した。武蔵の玉川上水や見沼大(みぬまだい)用水ぞいになどにはこの時期に開かれた新田村が多くのこっている。しかし、幕府の年貢米引上げをおこなったので、農民の不満が高まり、百姓一揆もしだいにふえてくるようになった。

 殖産興業に力をいれた吉宗は、甘藷・甘蔗・朝鮮人参などの栽培をすすめたほか、産業開発に役立つ実学を奨励するため、中国語に訳されたヨーロッパの書物(漢訳洋書)で、キリスト教に関係ないものの輸入を許可し、青木昆陽(1698~1769)らに蘭学を学ばせて、新しい知識の導入をはかった。

▼吉宗が登用した人物の一人に大岡忠相(ただすけ)がいる。彼は江戸の町奉行を20年間つとめ、のちに寺社奉行に昇進し、大名になった。裁判の基準をつくった。彼については私どもはテレビでその放映を楽しんでいる。

 吉宗は庶民の声を聞くために、評定所の前に目安箱をおいて投書させたが、ある町医者の投書により、小石川薬園(現、東京大学植物園)のなかに貧困者のための施療病院として養生所を設けた。

 以上のことからも、彼が徳川幕府の中興の祖と言われることに納得できる。

▼その吉宗の晩年、座右の銘として寝所の壁に貼りつけていたと伝えられる辞(ことば)がある。

 一、苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし。
 一、主(あるじ)と親は無理な(ことを言う)
   者と思え、下人(下級の使用人)は(考えが)足らぬ者と知るべし。
 一、掟(おきて)に怖(お)じよ、分別無き者に怖じよ、恩を忘れることなかれ。
 一、欲と色とを敵と知るべし。
 一、朝寝すべからず、話の長座すべからず。
 一、少なることを分別せよ、大(きな)事とて驚くべからず。
 一、九分は足らぬ、十分はこぼるると知るべし。
 一、分別は堪忍にあると知るべし。
(『享保世話』)より。


現代でも彼の改革は通用するものを感じました。時あたかも政権が交代した。明日の日本に期待しましょう!!

参考1:新日本の歴史(山川出版)
参考2、神坂次郎『男この言葉』(新潮文庫)
2012.12.28


29 石田梅岩(一六八五~一七四四)


 心学(石門心学)の開祖。梅岩は号。丹波の農家にに生まれた。京都の商家に奉公し、かたわら神道、朱子学、禅を学んだ。一七二九年京都で心学道話の講席をひらき、死ぬまで布教に努めた。心学は本来「心即理」とする王陽明系統の実践的修養の学であるが、梅岩の説く心学は当時急速にぼっ興してきた町人階級の、倫理的自己主張として生まれた人生哲学であった。彼は「商人の買利は士の禄に同じ」とし、封建的身分秩序は認めつつもこれを貴賎の別とせず、正直、倹約、勤勉などの徳目をあげて、心を修め普遍的な「あるべかり」たる性(事理)を知って、身を処すことを町人に教えた。その教説は門人によって普及されたが、やがて儒教道徳をそのままま肯定することで町人の武士への従順を教える知足安分の封建的教化思想となった。

『国民百科事典』(平凡社)による。

2009.9.28


30 山本常朝(一七一六頃)

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▼『葉 隠』

    聞 書 第一

 二 武士道といふは、死ぬ事と見つけたり。

 一四三 武士は假にも弱氣のこと云ふまじ、すまじと、兼々心がくべき事なり。かりそめの事にて、心の奥見ゆるものなり。

説明:『葉隠』の筆録者田代又佐衛門陣基(ツラモト)、文中に出てくる常朝(ジャウテウ)居士はすなはち『葉隠』の口述者山本神右衛門常朝(ツネトモ)である。

岩波文庫は(上・中・下3冊)
2009.07.12


31 本居宣長(一七三〇~一八〇一)

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 「……初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まず大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと讀みては、又さきによみたる書へ立かへりつつ、幾遍もよむうちには、始に聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也。さて件の書どもを、数遍よむ間には、其外のよむべき書どいものことも、學びやうの法なども、段々に自分の料簡の出来るものなれば、其末の事は、一々さとし教るに及ばず、心にまかせて、力の及ばむかぎり、古きをも後の書をも廣くも見るべく、又簡約(ツヅマヤカ)にして、さのみ廣くはわたらずしても有ぬべし。」『岩波文庫』「うひ山ふみ」鈴屋問答録。P.19より


32 杉田玄白(一七三三~一八一七)


医は生涯の業として、迚(とて)も上手名人には至らざるものと見ゆ。己れ上手と思わば、はや下手になるの兆しと知るべし

『形影夜話』


 若狭国小浜藩医。玄白は通称。江戸生まれ。

 漢学を宮瀬竜門(りゅうもん)に学び、蘭方外科を西玄哲(げんてつ)に学ぶ。

 山脇東洋の解剖観察に刺激され、オランダ通詞にオランダ流外科について質問、蘭書の入手につとめた。

 明和8年(1771年)小塚原こづかっぱら刑場で屍体の解剖を観察。

 携帯したオランダ語解剖書「ターヘル・アナトミア」の内景図が実景と符合していることに驚嘆し、同志と翻訳を決意する。

 安永3年(1774年)『解体新書』5巻として公刊し、蘭方医書の本格的翻訳の先駆となった。

以後、診療と後進の育成に尽した。多趣味で、社会批判の書などもあるsinkaitaisinsyo1.JPG


sinkaitaisinsyo1.JPG  新解体新書(朝日新聞科学部)昭和五十一年二月五日第一刷

 あとがき

 江戸末期の医学者杉田玄白らが、オランダの解剖学書「ターヘル・アトミア」を翻訳して「解体新書」と名づけて出版したのは、一七七四年でした。二百年記念の一九七四年、わたしたちは、玄白の偉業をしのんで日曜版の「みんなの健康」のページに「新・解体新書」という連載記事を始め、二年続けて、一九七五年末までにちょうど百回に達しました。

 この本は、それをまとめたもので、さし絵も、作者のご好意により、そのまま採録しました。取材にあたってお世話になった解剖学者やお医者さん、そのほかのかたがたに、心からお礼を申し上げます。連載を始めた当時の科学部長・広田哲士氏、同次長坂根巌夫氏の指導と助言を忘れることができません。

  一九七六年一月

                   朝日新聞東京本社科学部長  木村 繁

2017.11.03 記録


33 伊能忠敬(一七四五~一八一八年)


 家 訓

第一  仮にも偽をせず、孝悌忠信にして正直なるべし

第二  身の上の人ハ勿論、身下の人にても教訓意見あらば急度相用堅く守べし

第三  篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べからず

参考:1 ■佐原 伊能忠敬記念館

参考:2 ■Yagiken Web Site
 記事一覧から伊能忠敬についてお読みください。

 私は伊能忠敬については知っていましたが、あらためて上記参考資料により、後半生の生き方に感動致しました。
 参考のリンクをこころよくお許しいただいたことのにお礼を申し上げます。
2010.01.13


 江戸時代に全国を測量し日本地図を作り上げた伊能忠敬の墓は、東京・上野の源空寺にある。隣に眠るのは19歳年下の暦学の師匠、高橋至時(よしとき)だ。忠敬は遺言で、若くして病に倒れた師の横に自らを葬るよう求めた。享年73歳。超高齢化の今、生き方に学ぶところは多い。

▼酒造や米取引をなりわいとする下総国佐原村(現・千葉県香取市)の伊能家に忠敬が養子に入ったのは17歳の時。家業をもり立てる一方、村名主として飢饉(ききん)の対応に当たった。この間もひとりで天文学や数学を学び、隠居後、50歳で高橋に入門している。幕府の許可を得て、北海道の測量に着手した時は55歳になっていた。

▼最後の遠征となった九州では持病を押し、ほとんど歯のない状態のなか、古希に近い体にむち打ち現場で指揮をとっている。途中、片腕と頼む副隊長が40代で病死し、忠敬は「鳥が翼をもがれた」と嘆いた。実はこれに先立ち、家督を継いだ長男の景敬も世を去っている。家族は遠方の忠敬にあえて知らせなかったようだ。

▼まさに「一身で二生を経た」と言うにふさわしい。持ち前の向学心と根気で歴史を切り開いたのだが、逆縁や逆境に耐え抜いた姿にも敬服する。人生1世紀の時代は近そうだ。長く働くにしろ、学び直すにしろ、思いもかけぬ悲嘆や苦難が待ち受けるかもしれない。乗り越える勇気と知恵を忠敬の生涯から学んでおきたい。

春秋 2017/8/20付


余録 彼は地球の大きさを知りたかった…毎日新聞2018年1月4日 東京朝刊

 彼は地球の大きさを知りたかった。測ってみたかった。家業を息子に譲り、天文学や測量技術を学ぼうと江戸に出る。50歳の手習いだ。伊能忠敬(いのうただたか)の日本地図作りがこうして始まった

▲実測は「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれた北海道に始まり、10次にわたる。旅は苦闘続きだった。入り組んだ海岸線の踏破にてこずり、現地案内人が藩の機密漏れを恐れて地名を言わないこともあったと記録にある

▲61歳の春には、今の山口県でマラリアにかかり長く療養した。晩年になると「歯がすっかり抜け、奈良漬けも食べられない。悲しい」という手紙を娘に送っている。約4万キロを歩いて測量を終えた時、忠敬は71歳だった

▲その陰には、宿を提供したり、現地で作業を手伝ったりした人たちの存在もあった。測量日記には1万2000人の名が残る。そこで伊能忠敬研究会は2年前、彼らの子孫たちに名乗りをあげてほしいと協力者の名前を公開した

▲これまで約100人の申し出が寄せられている。先祖が歴史的な取り組みにかかわったことを初めて知った人も多い。新たな記録や品物も見つかった。忠敬の没後200年を迎え、4月には東京都内で式典を開いて子孫に感謝状を贈る

▲研究会の戸村茂昭(とむら・しげあき)さんは「協力者あっての偉業でした。そうした人たちにも光をあてたい」と話す。年齢や困難を乗り越えて奮闘する姿が、多くの人々を手助けへと動かしたのだろうか。自らの探究心や好奇心にふたをせず、挑み続けた忠敬の姿勢は今の時代も色あせていない。

毎日新聞:余録2018年1月4日


34 塙保己一(一七四六~一八一九)


 「史記」読んでいますと、中国では「左丘(さきゅう)」は失明して『国語』を作つています。日本でも七歳にして失明して学問に励んだ塙保己一(クリックしてください) がいることを思い出しました。インターネットで検索しますと、上記の記事が検索されました。早速リンクさせていただくお許しをお願いいたしますと、快諾を頂きました。ヘレン・ケラーとの関連のお話も掲載されていますから、十分にお読みくみください。

追加:「命かぎりにはげみなば、などで業のならざらんや」朝日新聞(2010.02.06)磯田道史の 「この人、その言葉」より


35 上杉鷹山(一七五一~一八二二年)


  なせばなる なさねば成らぬ何事も
      成らぬは人の なさぬなりけり


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 これは上杉鷹山公のお詠(よ)みになった歌であります。公は十七才の若さで滅亡寸前の米沢藩主としての重責を担い、藩の復興を生涯の責任と感じ、この歌のご精神をもって、鋭意事にあたって下さいました。ご在位十九年ご隠居後、ご隠殿餐霞館(さんかかん)にあって政治をご覧になること三十八年、実に一生を挙げて藩の復興のためにおつくし下さいました。その間幾多の困難にあわれましたが、誠意と勇気をもって乗り切り、ついに平和で豊かな米沢をつくって下さいました。良師の指導と、賢臣の協力があったとはいえ、神のようなご人格が人々をひきつけ、この結果もたらしたものであります。実に人間として、為政者として、古今東西に永く仰がれる方であります。

▼うわさによりますと、故ケネディがアメリカの大統領に就任したとき、日本の新聞記者たちが、祝いに行き、ぶしつけに〈日本の政治家のうち誰を一番尊敬されますか〉と聞いたところ、即座に「上杉鷹山」と答えられ新聞記者達は、意外さにおどろいたということです。余りにもうがった話のように聞こえますが、静かに考えて見ますと、やはりあり得ることだと思います。

▼それは明治二十七年内村鑑三先生の名著(英文)『日本及び日本人』のなかに「新日本の建設者 西郷隆盛」「封建領主 上杉鷹山」「農民聖人 二宮尊徳」「村落教師 中江藤樹」「仏教僧侶 日蓮上人」と、代表的日本人として紹介されました。これが欧米人の間に、大変な評判になりました。この本はわが国の主要人物をただしく評価し、日本人特有の多くの美点、特質を外国の人々に知らせようとしたもので、盲目的な忠誠心や好戦的愛国心をもつ国民として海外に誤って伝えられているのを正し、さらに進んで、世界の人々は、クリスチャンを含めて、むしろ日本人に学ばねばならぬと説こうとしたものであります。
明治四十一年に『代表的日本人』と改題改訂されています。 岩波文庫があります。お読みください。

*上杉鷹山公小伝(編集発行 御堀端史跡保存会)より引用。

2008.4.03、2011.09.05再読。


参考1:上杉鷹山
参考2:ケネディ大使「なせばなる」秋祭り楽しむ

私見:ケネディ大使が父親の故ケネディ米国大統領が日本の政治家で一番尊敬している人は上杉鷹山と言われた事実から、父親と同行しての旅であったのではないかと拝察しました。

平成二十六年九月二十八日

 


36 佐藤一斎(一七七二~一八五九)


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▼『言志四録

 「言志録

二七 真に大志有る者は、克く小事を勤め、真に遠慮有る者は、細事を忽(ゆる)にせず。

2009.11.09

四四 得意の時候は、最も當に退歩の工夫を著くすべし。一時一時も亦皆亢竜(こうりょう)有り。
脚注:(亢龍)高く昇りつめし龍。易経乾卦の上九「亢龍有悔」とあり。尊貴を極めし人も慎まねば敗滅の悔あるをいふ。2009.1.30

四八 天尊く地卑くして、乾坤定まる。君臣の分は、既に天定に属す。各その職を尽くすのみ。故に臣の君に於ける、當に畜養の恩何如を視て其の報を厚薄にせざるべきなり。
脚注:(天尊く地卑く云々)易経繋辞伝の語。2009.1.30

五三 王制に「八十、人に非ざれば煖ならず」とは、蓋して人の気を以て之を煖むるを謂ふなり。
*王制は礼記の篇の名。

一二二 本然の真己有り。?殻(くかく)の仮己有り。須く自ら認め得んことを要すべし。

一二九 需は雨天なり。待てば則ち霽る。待たざれば則ち沾濡す。
脚注:(需は雨天なり)需は易の卦の名。乾を下とし坎を上とす。この乾は天なり坎は水なり。故に雨天なりといふ。而して需は待つの義あり。2009.1.30

一三六 釈老の徒の如き、死に処するに頗る自得有り。然れども其の学畢竟死を畏るるより来る。

一四〇 経を読む時に方りては、須らく我が遭う所の人情事変を把りてち注脚と做すべし。事を処する時に臨みては、須らく倒に聖賢の言語を把りて注脚と做すべし。事理融会して、学問は日用を離れざる意思を見得するに庶からん。 

一四四 博聞強記は聡明の横なり。精神入神は聡明の竪なり。 

二一九 一物を多くすれば斯に一事を多くし、一事を多くすれば斯に一累を多くす。

言志後録

一 孔子は志学より七十に至るまで、十年毎に自ら其の進む所有るを覚え、孜々として自ら彊め、老の将に至らんとするを知らざりき。假し其れをして耄を踰え期に至らしめば、即ち其の神明不測なること、想ふに当に何如なるべきぞ。

三四 克己の工夫は一呼吸の閒に在り。
*日ごろ心かけているが守れない。大いに反省しなければ。

三七 一の字、積の字、甚だ畏るべし。善悪の幾も初一年に在りて、善悪の熟するも積の後に在り。
*二宮尊徳にも似た言葉がある。

四七 易は天を以て人を説き、書は人を以て天を説く。 孟子読書を以て尚友と為す。故に経籍を読む。即ち厳父師父兄の訓を聴くなり。

八七 仮己を去って真己を成し、客我を逐(お)うて主我を存す。是を其の身に?(とら)われず

九八 人は皆身の安否を問ふことを知れども、而も心の安否を問ふことを知らず。宜しく自ら問ふべし。能く闇室を欺かざるか否か。「能く衾影に愧ぢざるか否か。能く安穏快楽を得るか否か」と.時時是くの如くすれば、心便ち放れず。   

一〇七 人の事を做すは、目前に粗脱多く、徒らに来日の事を思量す。      

一〇八 老人は衆の觀望して矜式(きゅおしき)する所なり。其の言動は當に益々壮なるべし。尤も宜しく衆を容れ才を育するを以て志と為すべし。今の老者或は漫に年老を唱へ、或は猶ほ少年の技倆を為す者有り。皆非なり。

一六〇 「忘るること勿れ。助けて長ぜしむること勿れ。」子を教ふるも亦此の意を存すべし。厳にして慈にして。是も亦子を待つに用ひて可なり。

二四〇 余自ら視・観・察を翻転して姑(しばらく)く一生に配せんに、三十已下は、視の時候にに似たり。三十より五十に至るまでは、観の時候に似たり。五十より七十に至るまでは、察の時候に似たり。察の時候は當に知命・楽天に達すべし。而して余の齢は未だ深く理路に入る能はず。而るを況や知命・楽天に於いてをや。餘齢幾ばくも無し。自ら励勵まざる容(べ)からず。
*小島直記『逆境を愛する男たち』(新潮社)p.26 第四話 「年輪思考への疑問」:佐藤一斎のこの考えに反論するものとして読み応えががある。22.12.118書之。

二四五 毎日鶏鳴いて起き、心を澄まして黙坐すること一响(しやう)、自ら夜気の存否如何を察し、然る後蓐を出でて盥(くわん)嗽(そう)し、経書を読み、日出でて事を視る。毎夜昏刻、人定に至りて、内外の事を了し、有れば古人の語録を読み、人定後に亦心を澄まして黙坐すること一响(しやう)、自ら日行ひし所の当否如何を省みて、然る後寝に就く。余近年此れを守って以て常度と為さんと欲す。然るに此の事易きに似て難く、常常是くの如くなること能はず。

言志晩録

一 人を玩べば徳を喪う。

一三 一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂ふること勿。唯々一燈を頼め。       

四九 著者は只々自ら怡悦するを要し、初めより人に示す念有るを要せず。      

五八 顔淵・仲弓は「請ふ斯の語を事とせん」と。子張は「諸は紳に書す」子路は「終身之を誦す。」孔門に在りては、往々にして一二の要語を服膺すること是くの如き有り。親切なりと謂ふ可し。後人の標目の類と同じからず。

五九 余は年少の時、学に於て多く疑有り。中年に至るも亦然り。一疑起る毎に、見解少しく変ず。即ち学の進むを覚えぬ。近年に至るに及びては、則ち絶えて疑念無し。又学も亦進まざるを覚えぬ。乃ち始めて信ず<白沙の云はゆる疑は覚悟の機なり>と。斯の道は窮り無く、学も亦窮り無し。今老いたりと雖も、自ら励まざる可けんや。

六〇 少にして学べば、即ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、即ち老いて衰えず。老いて学べば、即ち死して朽ちず。       

*安岡正篤著『百 朝 集』P.78

 安岡正篤先生はこの句を次のように説明されている。

 若い者の怠けて勉強せぬ者を見るほど不快なものはない。ろくな者にならぬことは言うまでもないが、まあまあ餘程のろくでなしでなければ、それ相応に勉強する志くらいはあるものである。

 壮年になると、もう学ばぬ者、学ぼうともせぬ者が随分多い。生活に逐はれて忙殺されてをる間に、段々志まで失ってしまうのである。さうすると案外老衰が早く来る。所謂若朽である。肉体だけは頑健でも、精神が呆けてしまふ。反対に能く学ぶ人は老来ますます妙である。但し学も心性の学を肝腎とする。雑学ではだめである。枯詩にいふ通り、「少壮、努力せずば、老大、徒の傷悲せん」こと間違ひない。でねれば呆けたのである。これに反して老来」益々学道に精進する姿ほど尊いものはない。細井平洲も敬重した川越在の郷長老奥貫(ぬき)の歌に、「道を聞く夕に死すも可なりとの言葉にすがる老の日暮らし」。かうありたいものである。そして「老檜・晴天に参す」るようなのは実に好いのではないか。

2008.11.2

一〇三 彼れを知り己を知れば、百戦百勝す。彼れを知るは、難きに似て易く、己を知るは、易きに似て難し。

一六九 我が言語は、吾が耳自ら聴く可し。我が挙動は、吾が目自ら視る可し。視聴既に心に愧ぢざらば、則ち人も亦必ず服せん。

一七五 心は現在なるを要す。事未だ来らざるに邀(むか)ふ可からず。事已に往けるに、追ふ可からず。わずかに追ひわずかに邀(むか)ふとも、便ち是放心なり。

*孟子告子篇:学問之道無也。求其放心而已矣 とある。

二〇八 武人は多く是を胸次明快にして、文儒郤って闇弱なり。禅僧或は自得有りて、儒者に自得なし。並びに愧ず可し。

二六一 人は老境に至りて儘ゝ善く忘る。唯ゝ義のみは忘る可からず。

言志耋録

三七 学を為すには、人の之れを強ふるを俟たず。必ずや心に感興する所有って之を為し、躬に持循する所有って之れを執り、心に和楽する所有って之を為す。「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」とは、此れを謂ふなり。

*脚注:(持循)すなほに持ちつづくること。

2009.10.03

一二 学を為すの効は、気質を変化するに在り。其の功は立志に外ならず。

一五 学を為すの初は、固と当に有字の書を読むべし。学を為すこと之れ熟すれば、宜しく無字の書を読む可し。

一六 源有るの活水は浮萍も自ら潔く、源無きの濁る沼は蓴(じゅん)菜(さい)も亦汚る。

四〇 真の己を以て仮の己に克つは、天理なり。身の我をもって心の我を害するは、人欲なり。

五〇  端坐して内省し、心の工夫をなす做(な)すには、宜しく先ず自ら其の主宰を認むべきなり。省(せい)する我れか。省せらるる者は我れか。心は固と我れにして、?も亦我なるに、此の言を為す者は果たして誰か。是れを之れ自省と謂う。自省の極は、乃ち霊光の真の我れたるを見る。

一〇五 人を知るは、難くして易く、自ら知るは、易くして難し。但だ當に諸れを夢寐に徴して以て自ら知るべし。夢寐は自ら欺く能はず。

一一三 人は須らく忙裏に閒を占め、苦中に楽を存する工夫を著くべし。

二一七 世には、未だ見ざるの心友有り。日に見るの疎交有り。物の?合けいごうは、感応の厚薄に帰す。

*脚注:【?合】そむくと合ふとをいふ。

参考:加茂真淵と本居宣長は、松坂の僅かの出会いで、終生の契りを結んだ。結局は、心と心のふれ合いであり、感応のないところには心友は得難い。

2010.04.15

二二二 文章は必ずしも他に求めず、経書を反復し、其の語意を得れば、則ち文章の熟するも、亦た其の中に在り。

二七七 教えて之を化するは、化及び難きなり。化して之を教ふるは、教入り易きなり。

三二二 清忙は養を成す。過閑は養に非ず。

三三二 少者は少に狃るること勿れ。壮者は壮に任ずること勿れ。老者は老を頼むこと勿れ。

三二八 遅暮の嘆或る罔くば可なり。
*中野 忠様よりのハガキ。一九九六年六月三日


37 『重職心得箇条』


 一 重職と申すは、家國の大事を取計べき職にして、此重の字を取失ひ、軽々しきはあしく候。大事に油断ありては、其職を得ずと申す べく候。先ず挙動言語より厚重にいたし、威厳を養うべし。重職は君に代るべき大臣なれば、大臣重ふして百事挙るべく、物を鎮定する所ありて、人心をしつむべし、斯の如くにして重職の名に叶ふべし。又小事に区々たれば、大事に手抜あるもの、瑣末を省く時は、自然と大事抜目あるべからず。斯の如くにして大臣の名に叶ふべし。凡そ政事名を正すより始まる。今先ず重職大臣の名を正すを本始となすのみ。

 二 大臣の心得は、まず諸有司の了簡を尽さしめて、是を公平に裁決する所其職なるべし。もし有司の了簡より一層能き了簡有りとも、さして害なき事は、有司の議を用るにしかず。有司を引立て、気乗り能き様に駆使する事、要務にて候。又些少の過失に目つきて、人を容れ用る事ならねば、取るべき人は一人も無之様になるべし。功を以て過を補はしむる事可也。又賢才と云ふ程のものは無くても、其藩だけの相応のものは有るべし。人々に択(よ)り嫌なく、愛憎の私心を去て、用ゆうべし。自分流儀のものを取計るは、水へ水をさす類にて、塩梅を調和するに非ず。平生嫌ひな人を能く用ると云ふ事こそ手際なり、此工夫あるべし。 

 三 家々に祖先の法あり、取失うべからず。又仕来仕癖の習あり、是は時に従て変易あるべし。兎角目の付け方間違ふて、家法を古式と心得て除け置き。仕来仕癖を家法家格などと心得て守株せり。時世に連れて動かすべきを動かさざれば、大勢立たぬものなり。

 四 先格古例に二つあり、家法の例格あり、仕癖の例格あり、先ず今此事を処するに斯様斯様あるべしと自案を付、時宜を考へて然る後例格を検し、今日に引合すべし。仕癖の例格にても、其通りにし、時宜に叶はざる事は拘泥すべからず。自案と云ふもの無しに、先ず先格より入るは、当今役人の通病なり。    

 五 応機と云ふ事あり肝要也。物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也。其機の動きを察して、是に従うべし。物に拘(かかは)りたる時は、後に及んでとんと行き支(つか)へて難渋あるものなり。 

 六 公平を失ふては、善き事も行われず。凡そ物事の内に入ては、大体の中すみ見へず、姑(しばら)く引除(ひきのけ)て活眼にて惣体を視て中を取るべし。

 七 衆人の厭服する所を心掛べし、無利押付けの事あるべからず、苛察を威厳と認め、又好む所に私するは皆少量の病なり。

 八 重職たるもの、勤向繁多と云ふ口上は恥べき事なり。仮令世話敷とも世話敷と云はぬが能きなり、随分手のすき、心に有余あるに非れば、大事に心付かぬもの也。重職小事を自らし、諸役に任使する事能はざる故に、諸役自然ともたる所ありて、重職多事になる勢 あり。

 九 刑賞与奪の権は、人主のものにして、大臣是を預るべきなり、倒(さかさま)に有司に授くべからず、斯の如き大事に至ては、厳敷透間あるべからず。   

 十 政事は大小軽重の弁を失ふべからず。緩急先後の序を誤るべからず。徐緩にても失し、火急にても過つ也、着眼を高くし、惣体を見回し、両三年、四五年乃至十年の内何々と、意中に成算を立て、手順を逐て施行すべし。

 十一 胸中を豁大寛広にすべし。僅少の事を大造に心得て、狭迫なる振舞あるべからず。仮令才ありても其用を果さず。人を容るヽ気象と物を蓄(たくわえ)る器量こそ誠に大臣の体と云ふべし。

 十二 大臣たるもの胸中に定見ありて、見込たる事を貫き通すべき元より也。然れども又虚懐公平にして人言を採り、沛然と一時に転化すべき事もあり。此虚懐転化なきは我意の弊を免れがたし。能々視察あるべし。

 十三 政事に抑揚の勢を取る事あり。有司上下に釣合を持事あり。能々わきまふべし。此所手に入て信を以て貫き義を以て裁する時は、成し難き事はなかるべし。

 十四 政事と云えば、拵(こおおら)へ事繕(つくろ)ひ事をする様にのみなるなり。何事も自然の顕れたる儘(まゝ)にて参るを実政と云ふべし。役人の仕組事皆虚政也。老臣なと此風を始むべからず。大抵常事は成べき丈(だけ)は簡易にすべし。手数を省く事肝要なり。

 十五 風儀は上より起こるもの也。人を猜疑し、蔭事を発き、たとへば、誰にも表向斯様に申せ共、内心は斯様なりなどゝ、掘出す習は甚あしゝ。上に此風あらば、下必ず其習となりて、人心に癖を持つ。上下とも表裡両般の心ありて治めにくし。何分此六かしみを 去り、其事の顕れたるまゝに公平の計ひにし、其風へ挽回したきもの也。

 十六 物事を隠す風儀甚あしゝ。機事は密なるべけれども、打出して能き事までも韜み隠す時は却て、衆人に探る心を持たせる様になる もの也。

 十七 人君の初政は、年に春のある如きものなり。先人心を一新して、発揚歓欣の所を持たしむべし。刑賞に至ても明白なるべし。財幣窮迫の処より、徒に剥落厳沍(はくらくげんご)の令のみにては、始終行立ぬ事となるべし。此手心にて取扱あり度ものなり。 

*佐藤一斉 「重役心得箇条」を読む 安岡正篤 (致知出版社)より。  
2008.10.25


38 徳川家斉(一七八七~一八三七)


▼将軍家斉の人物

 徳川十五代の将軍の内でも、初代の家康や、二代の秀忠は、人物がはっきりしていて、問題がない。いかし三代の家光となると、もう面倒になる。三宅雪嶺など、家光をもって一の英雄漢とする。その反対に、三田村鳶魚はこれを低脳児だったとして、頭からこき下している。
 五代の綱吉は、犬公方などといわれて、十五代中での難物であったらしい。そこへ行くと、八代の吉宗は家康型で、人物が堅実で、しかも家康のような腹黒なところがなくて、家康ほどに器は大きくなかったにしても、好感が持たれ、敬意が表せられる。
 十一代の家斉は、寛政から文化・文政へかけてのよい時代に、五十年にわたって将軍の職に在って、大御所様としてたたえられた幸運の人である。これという悪評もこれまで耳にせず、どちらかといえば、好感を寄せていたのであるが、最近一つの文献に接して、私の家斉観は、ぐらつく結果を来たしてしまった。もちろn、その文献一つをどこまで信用して、家斉の人物性向はかくのごとしと断じたりするのは軽率で、慎重な態度を欠くことになろうが、私の見つけたその文献を、一つの資料として紹介して、なおk今後の公平な判断をまつことにしたい。私はその文献を、「想古録」と題する古い記録の中に見出したのである。「想古録」そのものについては、なお後でいうことにして、まずその条の全文を掲げる。江戸時代の末期に成った仮名混り文で、むつかしくもなんともないものであるから、原文のままに出すこととする。どうか億劫がらずに読んで貰いたい。

「楽翁公、閣老の職を辞して、水野羽州代わりて政権を握りたる後、十一代将軍の左右に出入りする者は、すべて阿諛佞曲の俗吏のみにて、将軍に向ひ直言諷諌を申上ぐるもの一人だになく、これに因りて、将軍の驕傲は日に募り、天下の政治は無為にさへあれば泰平なりとの誤解を、将軍に起さしめたり。近年凶荒打続きて、米価騰貴し都鄙の別なく、餓?がへう路に満つるの惨状を究むるも、将軍豪も之れを知らざるなり。大塩平八郎、貧民救済の主意を以って、乱を大阪に起こしたるも、将軍は百姓一揆と見做して、何の心痛せられざるんまり。只佞臣を近づけて、夜となく日となく、遊び戯れ、今歳は首尾よく御代換りが済みたれば、取分けめでたきことのみ多しと申上ぐれば、其の申立てたる御側衆は、忽ち千石の禄を増賜せられ、この凶荒物騒の世を知ろしめ召さず、我が無為の美政に寄り由りて、天下の形勢は泰平富裕の世の中となりたりと自負せられたり。将軍の混迷、此くの如くなりければ、我が智をたのみて他人が馬鹿と見え、田安老公が学術を好まるゝを毀りて、三卿といはるゝ者が、文学を学び経史を研究するとは、身分に似合はぬ不行状と謂はざるべからずと非難せられ、又た水戸に隠蜜を出して、烈公の施政をさぐり、彼れが如く綿密なる世話を焼きては、国の治まる道理なき筈なるがと危ぶまれ、天下の政事は、予の如く金銭ををしまず、物事を気に懸けず、醒みうれば美酒を飲み、酔へば珍味を食し、後宮三百の花の如き美女を相手として娯しまば、士民は政治の寛仁大度なるに感服し、上の好むところ下亦たこれに倣ひ、都鄙の人心親睦和楽して、民富み国栄え、老幼男女泰平を謡うて、余が徳を称賛するが如き、めでたき世柄となるべきに誇られけるとぞ。其の昏朦暗愚も、ここに至りては、之れを医するの道なきなりと、豊洲翁の眉をひそめて語りたり。(羽倉用九)」

 最後に付記してある羽倉用九は、すなわち簡堂である。「想古録」の著者は、簡堂先生より聴くところを、そのまま筆録して置いてくれたのであった。簡堂はそれを勘定奉行の岡本近江守より聴いたのだったことが明記せられている。近江守、名は成、花亭の号で知られているが、別に豊洲とも号している。右の文中に「豊洲翁」とあるのは、すなわち近江守なのである。「想古録」の著者は、の著者は、まだその人が突止められていないが、その人はまた信頼の置かれる士人だったところから、簡堂も、心置きなく、かような秘話を洩らしたものと思われる。「想古録」に記すところは、一夕の談話というに過ぎなかったかも知れないが、それが岡本花亭より出た話ということを考える時は、その内容には、相当の信憑性の存することを認めてよいのではないかと思われる。
 将軍家斉その人を、貴下はどう考えるかなどという質問を発しても、それに即答のできる人などは、近世を専攻する史家の内にも少ないのではないかと思われるが、右に掲ぐる記述に拠って、その家斉の人物は、岡本花亭の眼にかように映じていたという事実が知られるだけでもい、その記述には喜ぶべきものがあるといわれようかと思うのである。 引用:『史伝閑話』森 銑三(中央公論社)

補足:22.04.24付の朝日新聞「天声人語」では「第11代将軍徳川家斉いえなりは、50人を超す子だくさんで知られた。膨らむ養育費、養子や嫁に出す時の持参金、大奥がらみの散在で、もともと苦しい幕府の台所は揺らいだ。以後、幕藩体制は傾いていく(以下略)と、冒頭の文章で始まっている。
2010.04.29


39 二宮尊徳(一七八七~一八五六)


▼『二宮翁夜話』

01、かりの身を元のあるじに貸渡し 民安かれと 願ふ此の身ぞ

02、見渡せば 遠き近きは なかりけり おのれおのれが 住処にぞある

03、ちゅう~と なげき苦む こゑきけば 鼠の地獄 猫の極楽

04、おのが子を 恵む心を 法とせば 学ずととても 道に到らん

05、聲もなく 香もなく常に 天地は 書かざる経を 繰り返しつつ

05、笛をふき 太鼓をたたきて 舞へばこそ 不肖の我も 跡あしとなれ

07、古道に つもる木の葉を かきわけて 天照す神の 足跡を見ん

08、咲けばちり ちれば又たさく 年毎に 詠(なが)め盡せぬ 花のいろ

09、むかしより 人の捨てざる なき物を 拾ひ集めて 民に与へん

10、増減は 器傾く 水と見よ こちらに増せば あちらへるなり

11、喰へばへり 減れば又喰ひ いそがしや 永き保ちの あらぬ此の身ぞ

12、腹くちく 喰ふてつきひく 女子等は 仏にまさる 悟りなりけり

13、我といふ 其大元を 尋ねば 食ふと着との 二つんなりけり

14、天つ日の 恵積置 無尽 鍬で掘り出せ 鎌でかりとれ

15、諸共に 無事をぞ祈る 年毎に 種かす里の 賎(しづめ)の男を

16、無といえば 無しとや 人の思ふらん よべば 答ふる 山彦の声

17、秋来れば 山田の稲を 猪(しし)と猿 人と夜晝 争ひにけり

18、飯と汁 木綿着物は 身を助く 其餘は 我を せむるのみなり

19、世の中は 草木もともに 神にこそ 死して命の ありかをぞしれ

20、世の中は 草木もともに 生如来 死して命の ありかをぞしれ 

21、ぶんヽと 障子にあぶの 飛みれば 明るき方へ 迷ふなりけり

22、奥山は 冬気に閑(と)ぢて 雪ふれど ほころびにけり 前の川柳

23、きのふより 知らぬあしたの なつかしや 元の母ましまえばこそ

24、丹精は 誰しらねども おのずから 秋の実法の まさる数々

25、世の中は 捨足代木の丈くらべ それこれともに 長し短し 

26、米蒔けば 米の草はへ 米の花 吹つヽ 米の実る世の中

27、勝負打つ こころはうたるる 世の中よ うたぬこころの うたるるはなし

28、小積もりて大となる

29、神道は開国の道なり 儒学は治国の道なり 仏教は治心の道なり

30、豊かな暮らしをしながら満足せずに不平を言うのは、ふろに入って突っ立つたまま湯が足りないと怒るようなものだ。かがめば湯はたちまち肩に達しおのずから十分になる。

31、交際の道は碁、将棋の道にのっとるをよしとす。それ将棋の道は強きもの。駒をおとして、先の人の力に相応ずる程にしてさすなり。甚だしき違いにいたっては、腹金とか、歩三歩というまで外すなり。これ交際上、必要の理なり。おのれ富み、かつ才芸あり、学問あって、先の人貧なれば富を外すべし。無芸ならば芸を外すべし。不学ならば、学を外すべし。これ、将棋をさすの法なり。かくの如くせれば交際はできぬなり。

32、活眼を開いて天地不書の経文を読め

33、遠くをはかる者は富み 近くをはかる者は貧す それ遠きをはかる者は 百年のために杉苗を植う。まして春まきて 秋実る物においてをや。故に富有なり。近くをはかる者は 春植えて秋実る物をも 尚遠しとして植えず 唯眼前の利に迷うて まかずして取り 植えずして刈り取る事のみ眼につく。故に貧窮す。


40 大塩平八郎(一七九三~一八三七)


 二月十九日貧民救済のため大阪で挙兵した。大阪町奉行の与力。陽明学者として多くの門下をもった。乱は一日でやぶれ、やがて自殺。

 ……天災流行、ついに五穀飢饉(ごこくききん)に相成り候。これみな天より深く御誡(いまし)めの御告に候えども、一向上たる人々心もつかず、なお小人奸者の輩、大切の政を執(と)り行い、ただ下を悩まし、金米を取りたてる手段ばかり打ちかかり、実もって小前(こまえ)百姓どものなんぎを、我等ごときもの草の陰より常に察し悲しみ候……もはや堪忍なりがたく、湯武(ようぶ)の勢、孔孟の徳はなけれども、よんどころなく天下のためと存じ、血族の禍をおかし、この度有志のものと申合せ、下民を悩まし苦しめ候諸役人をまず誅伐(ちゅばつ)いたし、引続き驕(おごり)に長じおり候大阪の町人えおもを誅戮におよび申すべく候(檄文)

参考:湯武とは、殷の湯王と周の武王のことで、湯王が夏の桀王を放ち、武王が紂王を伐ちしことをのべている。

*桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)より

2010.02.19


41 幸若舞(こうわか)(一七九三)


 1、人間五十年化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。舞曲<敦盛>

*室町時代の曲舞の一種


42 南坊 宗啓

 

▼『南方録』

 利休の茶の湯を伝える書で有名。利休の高弟・南坊宗啓が書き留めたものを黒田藩の立花実山が利休百回忌となる1690年に写本したという型をとって書かれている。

 徳川幕府の元禄時代。封建制度真っ直中に、茶の湯の精神は平等で素直な人間関係が何より大切と説いている。

「滅後」の章に次のように書かれている。「賞客ト云ハ、貴賎ニヨラズ、申入レタル人ヲ上客トアシラフ也。平生ノ高下ニヨラズ」、「草庵ノ作法、天下ノ人、カクノゴトク休ノ清風ニシタガイ、貴賎一同、露地ノ本意ヲ行ワレシコト、寺院ノ清規ニマサリテ尊カリシ也」。

以上はインターネットによる。

 一 水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶を立ててゝ、仏にそなへ、人にもほどこし、吾ものむ。 

参考:露地とは茶室に附随する庭園の通称。「露地ノ本意ヲ行ワレシコト、寺院ノ清規ニマサリテ尊カリシ也」の意味が私には分かりません。


43 山田方谷(一八〇五~一八七七年)


▼山田方谷 三島中洲 叢書:日本の思想家 (明徳出版社) 

       序

 山田方谷とはどんな人物だったのか、どのような学問をして、そしてどんな仕事をしたのか。そんなことはすべて、現代では歴史の裏側に埋没したかのようである。しかしながらいま一度発掘して、その存在を問いなをしてみる意義のある人物である。

 学問について言えば、方谷が江戸の佐藤一斎の塾長をしていて、同門生の上に立っていたことの一事によっても、その識見のすぐれていたことがわかる。

 またその政治的業績について言えば、備中松山藩の財政の窮乏を救い、政治の改革をみごとに成しとげたことによって、その経世家としての手腕がわかる。

 幕末維新の際の日本の政治上の変革期において、風塵にもまれ泥にまみれて、幕政の改革に智力を傾けて老中板倉勝静を補佐したその努力がわかっていただけるであろう。

 さてしかしながら、維新を機としてにわかに歴史の表舞台に乗り出した人たちと、その裏にかくれた人々があったのは、またやむを得ないことであった。方谷はみずから幕を引いて外に出るのをきらった。このような方谷の心の軌跡を、本書では追求してみたつもりである。

 山田 琢 


   略 年 普

1805年:備中松山藩領の西方村(現在は高梁市に編入されている)に生まれる。山田安五郎(号は方谷)
1829年:藩侯より苗字帯刀を許され、中小姓格に上り、有終館の会頭となる。
1834年:正月、佐藤一斎に入門する。この頃、佐久間象山と論議する。
     一斎塾の塾長いたしいわゆる佐久間(象山)をはじめ数人の上に立つ。
1836年:一斎塾を退き帰国する。有終館の学頭となる。
1838年:家塾の牛麓舎を開く。
1846年:板倉勝静のご近習役を兼ねる。
1849年:元締を命ぜられ、吟味役を兼ねる。財政の改革に努力する。
1859年:越後長岡の河合継之助が備中の長瀬の方谷塾を訪ねて入門した。
     継之助の旅日記である『塵壷』東洋文庫(平凡社)がある。
1864年:勝静、長州征伐に出陣し、留守の兵備を全うする。
1868年:備中松山城を征討郡ニ開城する。
1873年:始めて閑谷学校で子弟教育につとめる。以後は春秋の二回来校する。
     その帰途には知本館に立ち寄り子弟教育につくす。
1877年:没す。西方村の墓地に葬る。

補足:安岡正篤氏『先哲講座』に、山田方谷が三十歳頃に書いた「理財論」にふれています。この理財論は単なる議論ではなく、板倉藩が非常に貧乏で、もうどうにも手がつけられないほど疲弊しておったのを徹底的に改革し、特に財政を豊かにし、生産をあげ、風俗を正しましたので、旅人が一たび板倉藩にはいるとすぐ分かったというくらい治績をあげました。したがって、この理財論は単なる政治家や経済学者の論と違って、その人の実力が証した名論であり、権威ある議論であります。(中略)

 天下の事件や問題を処理する者は、事件や問題の外に立って、事件の内にちぢこまらぬことが大切である――夫れ善く天下の事を制する者は、事の外に立って、事の内に屈せず――。

 これが理財論の全編を通じて方谷が言わんと欲する根本的けんしきであります。

 「上杉鷹山」「二宮尊徳」ら、私は日本人として誇るべき多くの人がいることに喜ばしさを感じます。
平成二十一年十月二十五日


44緒方 洪庵(一八一〇~一八六三)


 岡山県:足守藩士、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。

 日本一の蘭学塾だった緒方洪庵の適塾P.60

   緒方洪庵が大阪の瓦町に、はじめて医療を開業、同時に蘭学教授をはじめたのは、天保九年(一八三八)、二十九歳のとき。

   洪庵は備中足守藩(岡山県)木下氏の家来、佐伯惟因(これもと)の三男である。藩邸詰めの父に従って大阪へ出てから医師になる志を立て、中天遊(なかてんゆう)の門をたたいた。

父は医師になるのに反対したが、いちど立てた志はゆるがず、あくまで貫いた。
彼も当然、長崎に遊学したいと思ったのだが、シーボルト事件の余燼がくすぶっていて危険である、という師の天遊のすすめに従って江戸に出、坪井信道に学んだ。
 もし長崎に行っていれば、蘭学者洪庵よりも、臨床医師の面の強い洪庵が出来上がっていたと思われる。学校制度のないところでは、どういう師に出会うかで、一生が大きく左右されるものだ。


 門人がどんどんふえ、天保十四年(一八四三)には過書町(かいしょまち)に移った。それより少し前の大阪の医者人気番付では、前頭四枚目に挙げられている。三十そこそこで前頭四枚目である。順調なスタートをきった。

 しかし、洪庵が大阪を開業の地としたのはなぜであったろうか。前年(天保八年)二月には、大塩平八郎の武装反乱があって、市中は半焼けの状態、けっして開業にふさわしい土地とは思えない。いや、かえってそれなればこそ、であったのだろうか。

 彼がはじめて蘭学を学んだのは大阪で、師は中天遊であった。思い出の地ということでもないではなかったろうが、何といっても”大阪の坪井塾”をめざしたのであったと思う。彼が学んだ坪井信道の塾は、医学専門に偏ることを避け、広く蘭学全般に目を向けることを教えていた。

 大阪にも、もちろん蘭医は活躍しているが、蘭学教授にそれほど熱を入れているとはいえない状態だった。診療もやる、医学講義もやる、しかし蘭学教授に熱を入れる――それが洪庵の目ざしたものにちがいなかった。

 徹底したオランダ語教育

 それにまた、洪庵自身も、この方向をもっと進めるべきだと考えていた。安政のはじめの手紙〈このごろは、病気治療のことは、なるべく手を省き、書生教育に専念、現在に必要な西洋学者を育成する覚悟にしています〉と決意をあきらかにしているのだ。 (中略)

大阪大学医学部の母体となった適塾P.78

医師としての緒方洪庵は、すばらしい業績を挙げた。『病学通論』『扶氏(ふし)経験遺訓』『虎狼痢(ころり)治準』の三主著を、回診と塾生指導の多忙のなかで書きあげた。

『扶氏(ふし)経験遺訓』のはじめにには〈扶氏医戒之略〉を掲げ、〈医の世に生活するは、人のためのみ、おのがためにあらずということをその業の本旨とす〉〈病者に対してはただ病を視るべし、貴賎富貴を顧ることなかれ〉と訳出している。

 医学の社会的責任をはっきり主張しているところ、洪庵が本当の名医であったのをよく示していると思う。

 古手(ふるて)町に除痘館(じょとうかん)を建て、漢方医の妨害宣伝のなかで、種痘事業をすすめたのも洪庵だし。安政五年に大流行したコレラ対策には、先頭を切って奔走した。

文久二年(一八六二)、幕府の命で江戸に下り、西洋医学所の第二頭取を命じられた(初代は大槻俊斎)。この任命を本心でどう受け取っていたかは知れないが、蘭学医学教育の第一人者として、公に認められたのだ。

 しかし、洪庵の肉体と適塾の教育には、限界が同時にやって来ていた。

 オランダ語だけでは、西洋文明を把握しきれないということがわかりだしたのである。洪庵自身、すでにこのころ、〈これからは英学の時代だ〉と断言している。

 オランダ語から英語への転換にとどまるものではない。アジアに関心を寄せるヨーロッパ世界の内部では、それまでオランダ語の占めていた位置が英語に変りつつあった。

 洪庵にもそれはわかっているが彼自身はもう進めない。役割は終わったのだ。オランダ語だけでは、西洋文明を把握しきれないことを知ったのである。

 自分が進めなければ、次代の者をして新しい方向に進ませる。地味なことだが、教育者の責任として忘れられない大事なものである。

 適塾は洪庵の死後、養子に引きつがれ、やがて大阪大学医学部の母体になっていくのだが、それはもう私塾ではない。私塾とは、主宰者あってのもの。何代にもわたって引きつがれる教育組織ではないのである。

 適塾の生んだ三人の英傑は大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉がいる。福沢諭吉は後に慶応義塾創立している。P81

 以上は奈良本 辰也 高野 澄『適塾と松下村塾』(祥伝社)昭和52年7月15日初版発行 より引用。


参考:緒方洪庵誕生地 足守(あしもり:岡山市内)藩士を父としてこの地に生まれた。緒方洪庵は病弱な体のため医学を志し、医書の翻訳、種痘の普及、コレラの研究などに多くの業績を残しました。また大阪で開業していた約二〇年間の間、診療のかたわら蘭学の指導にあたり、全国から集まった六百人を越す門弟を育てています。福沢諭吉、橋本佐内、大村益次郎などもその中にいました。幕府は洪庵を将軍家奥医師として迎えましたが、しごとについた翌年の文久三年(1963年)54歳でこの世を去りました。現在では宅地と古井戸を残しているだけです。(市民のひろば 岡山 1984.6.1号)


 現在の大阪大学については:1931(昭和6)年、医学部と理学部の2学部で、わが国6番目の帝国大学として創設されました。しかし、阪大の学問的系譜は江戸時代までさかのぼります。1724(享保9)年に設立された懐徳堂は、特定の学派・学説にとらわれない自由な学風を誇りとする町人の教育機関で、独創的な学問と思想を展開しました。また、1838(天保9)年に緒方洪庵が開いた適塾は大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内など近代日本を切り開いた人物を輩出しました。阪大はこうした自由な学問的気風や先見性を精神的な柱として受け継いでいます。

参考:■適塾と懐徳堂

*私見1:昔は「医は仁術、今は算術」の言葉を思い出させらた。

*私見2:大学病院に入院した昭和30年ころは、医者はドイツ語を使っていた。西欧の医学の日本への取り入れについて、オランダ、英国、ドイツ更には米国への変遷について、門外漢の私にはその時期・理由などを知りません。想像では医学が一番進歩している国のものを逐次とりいれ日本の医学の向上の貢献を進めたのではないだろうか。

2009.10.12


適塾と懐徳堂について

 江戸幕府の学校――昌平黌はもちろん、諸藩の藩校でも幕末ぎりぎりになるまで蘭学は採用しなかった。そればかりか、水野忠邦が老中をしていた天保時代には、代表的蘭学者がきびしい弾圧を受けることさえあった (蛮社の獄)。蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、一八三九年(天保10年)5月に起きた言論弾圧事件。

 新しい学問――蘭学をするには、在野の蘭学者について勉強するしかなかったのだ。

 蘭学が危険視されたといっても、それがオランダ医学にとどまっているかぎりは安全であった。外科の分野では、漢方医学がオランダ医学に対抗できないことは誰しも認めるところだったのである。

▼適塾は江戸末期一八三八年(天保九年)から一八六二年(文久二年)まで、緒方洪庵が開いた蘭学塾。近代日本の洋学の礎となった。門下に大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉、大鳥圭介らを輩出した。

 緒方洪庵が大阪の瓦町に、はじめて医療を開業、同時に蘭学教授を始めたのは上述の一八三八年、二十九歳のとき。

▼洪庵は備中足守藩(岡山県)木下氏の家来、佐伯惟因(これもと)の三男である。藩邸詰めの父に従って大阪へ出てから病弱なため医師になる志を立て、中天遊(なかてんゆう)の門を叩いた。

 父は医師になるのを反対したが、いちど立てた志はゆるがず、あくまで貫いた。

 彼も当然、長崎に遊学したいと思ったのだが、シーボルト事件の余燼がくすぶっていて危険である、という師の天遊のすすめに従って江戸に出、坪井信道に学んだ。

 もし長崎に行っていれば、蘭学者洪庵よりも、臨床医師の面の強い洪庵ができあがっていたと思われる。

▼洪庵が大阪を開業の地としたのはなぜであったろうか。前年(天保八年)二月には、大塩平八郎の武装反乱があって、けっして開業にふさわしい土地とはおもえない。

 いや、かえってそれならばこそ、であったのだろうか。

 彼がはじめて蘭学を学んだのは大阪で、師は中天遊であった。思い出の地ということもないではなかったろうが、何といっても”大阪の坪井塾”をめざしたのであったと思う。彼が学んだ坪井信道の塾は、医業専門に偏ることを避け、広く蘭学全般に目を向けることを教えていた。

▼適塾の主宰者緒方洪庵は医者である。だから、適塾にやってくる者の多くは医者か、医者の息子であった。

 しかし、適塾で教えたのは医学よりむしろ、オランダ語そのものであった。

 大きな矛盾のように思えるだろうが、実はこれが最も肝心なところである。

 オランダ医学を専攻してみると、その背景になっているヨーロッパ文明の要素、たとえばルネッサンス産業革命といったものにまで手を伸ばさねばだめだ、満足できない、というのがよくわかってくる。

 そのためには、医学書だけではなく、どんな種類の本でも、オランダ語で自由自在に讀み書きできないわけだが、その期待に充分に応じられるだけのものが適塾にあったということなのだ。実は、これこそ私塾というものの原型であり、真の価値だ。

 大阪にも、もちろん蘭医は活躍しているが、蘭学教授にそれほど熱を入れているとはいえない状態であった。

 診療もやる、医学講義もやる、しかし蘭学教授に最も熱を入れる――それが洪庵の目ざしたものにちがいなかった。

▼適塾は洪庵の死後、養子に引きつがれやがて大阪大学医学部の母体となっていく。

 大阪には適塾の外に「懐徳堂」建てられた。一七二四年(享保九年)、大阪の町人五人の出資により創立された学校。経書、漢籍を講じ、特に中井竹山、履軒兄弟のころは黄金時代で、全国から学生が集まり、昌平黌と並んだ。富永仲基、山片蟠桃など多くの学者が育った。

参考文献:奈良本 辰也 高野 澄『適塾と松下村熟』(祥伝社)

 朝日新聞(1984年8月22日)文化欄「大阪商人の源流に文化」(加地 伸行)
 朝日新聞(1984年10月3日)「大阪の学問的土壌を見直す」「懐徳堂考」復刻で動き
 朝日新聞(1985年1月16日)文化欄「懐徳堂と明治の波」
 市民の広場(1984年6月1日号)「ふるさと散歩」

平成二十四年八月二日


「緒方洪庵の十二条訓」 

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1.人のために生活して、自分のために生活しないことが医業の本当の姿である。安楽に生活することを思わず、また名声や利益を顧みることなく、ただ自分を捨てて人を救うことのみを願うべきであろう。人の生命を保ち、疾病を回復させ、苦痛を和らげる以外の何ものでもない。

2.患者を診るときはただ患者を診るのであって、決して身分や金持、貧乏を診るのであってはならない。貧しい患者の感涙と高価な金品とは比較できないだろう。医師として深くこのことを考えるべきである。

3.治療を行うにあたっては、患者が対象であり、決して道具であってはならないし、自己流にこだわることなく、また、患者を実験台にすることなく、常に謙虚に観察し、かつ細心の注意をもって治療をおこなわねばならない。

4.医学を勉強することは当然であるが、自分の言行にも注意して、患者に信頼されるようでなければならない。時流におもね、詭弁や珍奇な説を唱えて、世間に名を売るような行いは、医師として最も恥ずかしいことである。

5.毎日、夜は昼間に診た病態について考察し、詳細に記録することを日課とすべきである。これらをまとめて一つの本を作れば、自分のみならず、病人にとっても大変有益となろう。

6.患者を大ざっぱな診察で数多く診るよりも、心をこめて、細密に診ることの方が大事である。しかし、自尊心が強く、しばしば診察することを拒むようでは最悪な医者と言わざるをえない。

7.不治の病気であっても、その病苦を和らげ、その生命を保つようにすることは医師の務めである。それを放置して、顧みないことは人道に反する。たとえ救うことができなくても、患者を慰めることを仁術という。片時たりともその生命を延ばすことに務め、決して死を言ってはならないし、言葉遣い、行動によって悟らせないように気をつかうべきである。

8.医療費はできるだけ少なくすることに注意するべきである。たとえ命を救いえても生活費に困るようでは、患者のためにならない。特に貧しい人のためには、とくにこのことを考慮しなければならない。

9.世間のすべての人から好意をもってみられるよう心がける必要がある。たとえ学術が優れ、言行も厳格であっても、衆人の信用を得なければ何にもならない。ことに医者は、人の全生命をあずかり、個人の秘密さえも聞き、また最も恥ずかしいことなどを聞かねばならないことがある。したがって、医師たるものは篤実温厚を旨として多言せず、むしろ沈黙を守るようにしなければならない。賭けごと、大酒、好色、利益に欲深いというようなことは言語道断である。

10.同業のものに対しては常に誉めるべきであり、たとえ、それができないようなときでも、外交辞令に努めるべきである。決して他の医師を批判してはならない。人の短所を言うのは聖人君子のすべきことではない。他人の過ちをあげることは小人のすることであり、一つの過ちをあげて批判することは自分自身の人格を損なうことになろう。医術にはそれぞれの医師のやり方や、自分で得られた独特の方法もあろう。みだりにこれらを批判することはよくない。とくに経験の多い医師からは教示を受けるべきである。前にかかった医師の医療について尋ねられたときは、努めてその医療の良かったところを取り上げるべきである。その治療法を続けるかどうかについては、現在症状がないときは辞退した方がよい。

11.治療について相談するときは、あまり多くの人としてはいけない。多くても三人以内の方が良い。とくにその人選が重要である。ひたすら患者の安全を第一として患者を無視して言い争うことはよくない。

12.患者が先の主治医をすてて受診を求めてきたときは、先の医師に話し、了解を受けなければ診察してはいけない。しかし、その患者の治療が誤っていることがわかれば、それを放置することも、また医道に反することである。とくに、危険な病状であれば迷ってはいけない。

※インタネットによる 
2015.04.08


45 橘 曙覧(一八一二~一八六八)


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 中野幸次『清貧の思想』(草思社)の中の一章「橘 曙覧、雨の漏る陋屋に万巻の書 歌よみて遊ぶほかない吾はただ」P.96~106 より私の好みで抜き書きした文を紹介します。

 橘 曙覧(たちばなあけみ)(1812~1867)といっても今は日本人でも知る人はほとんどいないだろうが、幕末の歌人で、明治になって正岡子規がその万葉調の歌を評価して以来有名になった。わたしはこの人の素直な生活の歌が好きで、前々から親しんできた。

▼曙覧は福井の人で、三十代半ばに決心して「祖先相伝の家業財産を挙げて弟宜に譲り、飄然として城南の足羽山(あしばやま)に退去し、専(もつぱ)ら文学に従事」したのであった。以後五十七歳で没するまで、まさに「専ら文学に従事」し、貧乏暮しも意に介せず歌を詠んで生きた。その歌が明治になって子規に、

 「曙覧の歌想は万葉より進みたる処あり、曙覧の歌調は万葉に及ばざる処あり。
 と評価されて世に知られたのである。

▼曙覧の歌で最も有名なのは「たのしみは」に始まる『独楽吟』であろう。この時代にこんなふうに自由に生活歌を作っていた新しさに驚かされるのである。

  たのしみは珍しき書(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時

  たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時

  たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしきひとを見し時

 どれもみな貧乏生活の中での生きるよろこびの一瞬を詠んだもので、現代のわれわれにもじかに通じる歌ばかりである。彼は何十首もこういう歌を作りつづけている。

▼この無名の歌人を高く評価したのは福井藩の家老中根雪江(なかね ゆきえ)で、雪江は初めは曙覧に歌を教えたのだが、後には「余は始めの程こそ先達(せんだつ)めきて物しつれ、いまはかなわぬ」といい、曙覧の歌についてこう言っている。
 「その歌風は次第に境を高めていって、世のありきたりの風を抜ん出て、何よりも上世の心ばえを主んじ、世間に起る事や意表に思うことどもを、ただそのままに詠みあげている。」
 と、曙覧の歌の新しさ、高さをほめ讃えているのである。

▼彼が死んだのは明治と改元された年の八月で、幕末の激動期に数奇(すうき)なその歌人の生を終えたのだった。彼の志はこんな歌によくあらわれていると思われる。

 歌よみて遊ぶ外なし吾はただ天(あめ)にありとも土(つち)にありとも

 幽世(かくりよ)に入るとも吾は現世(うつしよ)に在るとひとしく歌をよむのみ

参考:常世(とこよ)、かくりよ(隠世、幽世)とは、永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる。「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。日本神話や古神道や神道の重要な二律する世界観の一方であり、対峙して「現世(うつしよ)」がある。変化の無い世界であり、例えるなら因果律がないような定常的であり、ある部分では時間軸が無いともいえる様な世界。ウィキペディア転送。

感想:歌よみとして覚悟のほどにうたれる。

参考:橘 曙覧、雨の漏る陋屋に万巻の書

2012.04.22


46 西郷 隆盛(一八二八~一八七七)


▼『西郷南洲遺訓』附 手抄言志録及遺文 山 田 済 斉 編(岩波文庫)

一、 遺訓 P.3~

 一九 古より君臣共に己を足れりとする世に、治功の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下々の言を聴き入るゝもの也。己を足れりとすれば、人己の非を言へば忽ち怒るゆえ、賢人君子は之を助けぬなり。

 二一 総じて人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るゝぞ。

 二五 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を盡て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。

 三〇 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困る。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。

参考:▲上野の西郷隆盛像の除幕式。作者は高村光太郎の父高村光雲(1898):111年以前のことである。


 幕末、イギリスは倒幕派に援助を申し出たが、西郷は次のように拒絶して、日本の独立を保持した。

「これは大幸の訳、その時機に至りては御相談申すべし」と相答え候ては、また英国に使役せらるる訳に相成候のみならず、全く受太刀に落来り、議論も鈍り、この末のところ下島〔落ちめ〕に相成候儀、自然の勢に御座候故、うんと返答いたし置く処と相考え申し候につき、「日本の国体を立て貫きてまいる上に外国の人に相談いたし候つらの皮はこれなく、ここの処は十分相尽すつもりにに候間よろしく汲取りくれ候よう」相答え置き申し候 (桂右衛門への手紙)

 1877年9月24日鹿児島で敗死。明治維新の最高指導者の一人。のち征韓論を唱えて下野。反政府の保守派の頭目として西南戦争をおこした。

 桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)による。
平成二十二年五月二十七日


47 吉田松陰(一八三〇~一八五九)


 一 かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂

 二 帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな

 三 親おもふ心にまさる親心 けふの音づれ何ときくらむ

 四 身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置まし大和魂

*四は吉田松陰 辞世の句です。


48 橋本左内(一八三四~一八五九)


 緒形洪庵の適塾の生んだ三人の英傑――大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉

 安政の大獄で失われた優秀な頭脳は数多いが、越前(福井県)の橋本左内は、そのなかでも郡を抜く存在であった。

 左内は十五歳の年に『啓発禄』という文章を書いた。第一説を「稚心を去る」と題し「十二、三にもなって石を投げたり小鳥を取るのに夢中になっているようではだめだ。とても天下の大豪傑にはなれない。稚心を去るのが士道に入る第一歩である」と書いた。

 橋本家は漢方医であるが、左内のの父は蘭医学に関心を寄せ、越前蘭学の草分け的存在である。だから左内の適塾入りは、父のいこうであったのだろう。

 もちろん、左内自身が蘭学を志望したのはいうまでもない。左内にとって蘭学とは、医学であって同時に医学以上のもの、つまり「刀圭の賎技」から自分を救い出してくれるかもしれぬ可能性を持っていたのだ。

 適塾のなかでも、左内の秀才ぶりは間もなくなくあらわれ、緒方洪庵が「彼は他日わが塾名を掲げん。彼は池中の蚊竜である」と激賞したという。

 のち藩校明道館学監となった。

 幕末、幕府が欧米諸国の圧力に屈して、勅許をえないまま通商条約を結んだ。それから反幕府の機運は急激に高まった。

 またのち将軍継承問題で、一橋慶喜の擁立に尽力し、安政の大獄によって斬首された。このとき、急進的な尊王攘夷論を説き、若い藩士たちに影響をあたえていた長州藩の吉田松陰や、外様大名や有能な藩士・浪士を集めて政治改革をおこなうことをとなえていた福井藩の橋本左内らが死刑に処せられた。年わずかに二十六。

参考:写真の本に「啓発禄」について、記載されている。

私が在校中にも、「精神教育資料」海軍兵学校:が配布されていた。自習室の机に置いていた。


49 犬養毅(いぬかい つよし)(一八五五~一九三二)


 政党には、党勢拡張、政権獲得などという一種の病気がつきまとう。そのために、あるいは種々の不正手段に出でたり、あるいは敵に向かって進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならぬ。すなわち記者諸君は公平なる地位にあって同時に、各政党の正不正を裁く裁判官であると同時に、政党が正義に向かって進むことをちゅちょする場合、これを鞭撻し激励するの役目にあるものである。いかなる臆病太郎といえども「お前は強いぞ」と始終はげまされると、卑怯な真似はようしないものである。(全国護憲記者大会での演説

 5月15日首相官邸で青年将校に暗殺される。福沢諭吉の門下。新聞記者から政界に入り、終身議席にあって藩閥打倒、憲政擁護につくした。

 桑原武夫編「一日一語」(岩波新書)による。

平成二十二年四月七日


50 内藤湖南(1866~1934)


日本文化史研究―内藤湖南によって論じられた日本文化論の名著―

 東洋史家、内藤湖南(1866~1934)著(一部講演筆記)。大正13年(1924)初版が出され、昭和5年(1930)増補版が出された。

 現代日本を知るには、応仁の乱以後を知れば十分だと喝破する「応仁の乱について」などがとくに有名である。

 そのほか、「日本文化とは何ぞや」「日本文化の独立」「維新史の資料について」など秀逸な論文を収める。

 本書は日本文化論の名著であるばかりではなく、「歴史とは何か」「日本とは何か」という点まで追求した名著であると言える。

 以下は『日本文化史研究(下)』(講談社学術文庫)

 さういふ風でとにかくこれは非常に大事な時代であります。大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります、そういう大きな時代でありますので、それについて私の感じたいろいろな事をいってみたいと思います。がしかし私はたくさんの本を読んだというわけでありませぬから、わずかな材料でお話するのです、その材料も専門の側からみるとまたうさんくさい材料があるかも知れませぬが、しかしそれも構わぬと思います。事実が確かであってもなくても大体その時代においてそういう風な考え、そういう風な気分があったという事が判ればたくさんでありますから、しいて事実を穿鑿せんさくする必要もありませぬ、ただその時分の気分の判る材料でお話してみようと思います。しかし私の材料というのは要するにこれだけ(本を指示して)ですから、これを見てもいかに材料が貧弱であり、きわめて平凡なものであるかという事が分ります。P.64

 かくのごとく応仁の乱の前後は、単に足軽が跋扈ばっこして暴力を揮うというばかりでなく、思想の上においても、その他すべての智識、趣味において、一般にいままで貴族階級の占有であったものが、一般に民衆に拡がるという傾きを持って来たのであります。これが日本歴史の変り目であります。仏教の信仰においてもこの変化が著しく現われて来ました。仏教の中で、その当時においても急に発達したのが門徒宗であります。

 門徒宗は当時においては実に立派な危険思想であります(笑声起る)。一条禅閤兼良などもその点は認めているようでありまして「仏法を尊ぶべき事」と書いてある箇条の中に、「さて出家のともがらも、わが宝を広めんと思う心ざしは有べけれど、無智愚痴(ぐち)の男女をすゝめ入て、はてはては徒党をむすび邪法を行ひ、民業を妨げ濫妨(らんぼう)をいたす事は仏法の悪魔、王法の怨敵(おんてき)也、」と書いてある。一条禅閤兼良は門徒宗のようなむやみに愚民の信仰を得てそれを拡めることに反対の意見をもっておりますが、其当時においてすでにそういう現象があったということが分ります。それは兼良が直接そういう状態を見ておりましたところからそう感じたのだと思いますが、引きつづき戦国時代において門徒の一揆によってしばしば騒動が起り、加賀の富樫などこれがため亡んでしまい、家康公なども危く一向門徒の一揆に亡ぼされるところでありました。単に百姓の集まりが信仰によって熱烈に動いた結果、立派な大名をも亡ぼすようになりました。非常に危険なものであって、門徒宗が実に当時の危険思想の伝播に効力があったといっていいのであります。ただし世の中が治まると、危険思想の中にもちゃんと秩序が立って納まり返るもので、今の真宗では危険思想などといふ者がどこにあったかというような顔をしていますが(笑声起る)なかなかそんなわけのものではなく、少し薬が利き過ぎると、どこまで行くか分らぬほどの状態でありました。かくのごとく応仁の乱というものはずいぶん古来の制度習慣を維持しようとしております側――一条禅閤兼良などのような側から見ると、堪えられないほど危険な時代であったに違いありませぬ。

 それが百年にして元亀げんき天正になって、世の中が統一され整理されるというと、その間に養われたところのいろいろの思想が後来の日本統一に非常に役に立つ思想になりまして、今日のごとくもっとも統一の観念の強い国民を形造って来ているのであります。しかしこの後も騒ぎがあるたびに必ず統一思想が起るかというとそれはお受け合いができませぬ。今日の日本の労働争議についても保証しろといわれてもそれは保証しませぬ。ただ前にはそういうことがあったというだけであります。何か騒動があればそのたびごとにその結果としてなにか特別なことができるということは確かであります、ただどういうことができるかということは分らない。一条禅閤のごときも当時の乱世の後に結構な時代が来るとは予想しなかったのであります。歴史家が過去のことによりて将来の事を判断するということはよほど慎重に考えないと危険なことであります。

 とにかく応仁時代というものは、今日過ぎ去ったあとから見ると、そういう風ないろいろの重大な関係を日本全体の上に及ぼし、ことに平民実力の興起においてもっとも肝腎な時代で、平民のほうからはもっとも謳歌おうかすべき時代であるといっていいのであります。

 それと同時に日本の帝室というような日本を統一すべき原動力からいっても、たいへん価値のある時代であったということはこれを明言して妨げなかろうと思います、まあ他流試合でありますからこれくらいのところでご免を蒙っておきます。(大正十年八月史学地理学局同攻会講演)P.84~87

平成二十九年六月二十三日