昭和次郎の食事

★昭和次郎の食事 昭和次郎の食事 お粥さん 素朴な琴

昭和次郎さんの食事


昭和次郎さんという年配の方。独りで食事を準備して食べるはめになりました。昭和一桁生まれで、「男子七歳にして厨房に入らず」の考えで、これまで生活してこられましたとのことです。

彼が生まれた家では兄弟姉妹がいた。

母親(明治生まれ)は姉妹たちには将来を考えて食事の作り方をはじめ女の務めのしつけをしていて、男兄弟には台所の仕事などはさせていなかった。かまどでのご飯焚きの落ち松葉や枯れ枝などは裏山に拾いに行かせるなどはさせられていた。

学校を卒業して結婚しても、彼は会社での仕事一筋、家庭内での一切の事・子供の教育は奥様に任せての分業生活?を続けられた。夫婦には長男・長女の二人の子供がいましたが、今は、長男は、結婚、就職して遠方に勤務している。長女も結婚して、手元から離れている。したがって、今は奥様と二人だけのひっそりとした、定年退職後の生活をしておられる。

▼最近突然、奥様が病気のため数日の検査入院をすることになられた。さあ、なかでも一番困ったことには、彼一人で食事をしなくてはならなくなったことである。これまで一度も食事の調理をしたことがない(そんな男は珍しいとおもわれるだろうが事実である)。 例えば、電子レンジ、冷蔵庫の冷凍などの使い方をはじめとして、どんな食品を冷蔵にするか、冷凍にするか、解凍の時期はなど知らないことばかり。少しも家事を手伝うことはしていなかったから炊事道具はどこに収めているかもわからないほど。そこで、外食かスーパーマーケットで弁当やおソウサイを買って食べるはめになった。弁当は電子レンジでそのまま温めることが出来るかどうかをたずねて買うなど。さぞ、聞かれた人は驚かれたのではではなかろうか。また、食べかすの処理なども始末におえない。ところが、彼は外食を好まないので自分で何とかしたいと、手探りで挑戦する。マーケットの中には意外に年配の男一人で買い物をしているのを見かける。

▼しかし、次郎さんは左手が不自由で、包丁は使えない、紐など結べない状態であるから限界がある。りんごを食べるにも、皮は剥けないのでまるかじりして、口の中で剥ぎ取るようにするなど。町内会では、年配の人たちの料理教室が何度かひらかれているが、一度も参加したことがないそうです。

▼こんな状況だから、二人で旅行できるとしても奥様ひとりでは日帰りの旅行しかしていない。奥様が数日の不在ははじめてなので、妻のありがたさをつくづく感じさせられ、感謝させられたのも妻の病気のおかげであると申されていた。本当に「家内がいてくれないと満足に料理さえ出来ない」といわざるを得ない。これから自分なりに対策を考えなければならないといわれていた。

「独りで食べる」のも、難しいが、二人で黙って食事をしていても、そこには安らぎがあります。食卓に妻が居ないのは、孤独感が迫ってきます。

▼橘曙覧(一八一二~一八六八)の歌は遠い思い出の中へ・・・・

<たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時>

<たのしみはまれに魚煮て児(こ)等(ら)皆がうましうましといひて食ふ時>

平成十八年十一月十六日


昭和次郎さんの食事―2―

つごうにより、二人だけの生活で妻がふざいになり、次郎氏はやむなく一人での食事。外食嫌いのため自分で炊事しなければならない。

上の記事と重なるかも知れないが、今回はその続編である。

まず、自分で献立を考える。調理のちからが弱いのでメニューは少なく、簡単なものばかりであるが意外に時間がかかるのを実感(知人の言うには頭がボケなくてよい)。

第二に食材を買いに出かけねばならない。スーパーまで遠く、2日分は買っておきたいから、キャリーバッグでの買い物。冷蔵庫にあるものを計算して買い物の選択しなくてはならない。あらかじめメモをして出かける。これがまた妻が買い置いたものと重複したり、長期保管しているものなどがあり、冷蔵庫保管の管理などに注意しなければならない。今まで一言の愚痴もこぼさずによくやってくれていた苦労を実感する。ともかくも運動を兼ねてとの思いで。

次は調理、冷蔵庫・レンジ・炊飯器・グリルの使いかたに少しずつ馴れてくる。知人・その他の人に教えていただきながらである、失敗も度々したけれど、調理実習と思い繰り返していると段々と工夫もし、要領を覚える。でも、メニューに限定があり、残念ながら保健のための栄養など考えることはまったく出来ない。

上げ膳・下げ膳では気につかなかったのだが、食事が終わり、後片付けをしなければならない。これもやってみて、鍋、その他の調理道具の後始末、油ものの食品を乗せた食器、茶碗・お椀の洗いなど手間と、また時間がかかるものである。

妻の不在がこれから増えてくるだろうと覚悟しなければならない。

▼以上のような状態に追い込まれて反省している。現時点で彼が後悔しているのは、定年後、妻と二人で調理に関して話し合い、男性たりとも実際におこなっておくようにしておけば良かったと。

今、次郎氏は妻に感謝をしている。禅寺では修行者の典座が食事を作っている、食事中は無言。また食事の前後に感謝の言葉を述べている。

▼これまでは、食事について述べましたが、二人での食事中の談話が少しでも、そこには暖かい雰囲気がある。一人での食事は味気ないものである。「美味しい、まずい」といっていたのはわがままであった。  

平成二十二年五月十三日


昭和次郎の食事(━3━)納 豆

両親も次郎さんも中国地方の生まれで、この歳になるまで、ほとんど納豆を食べることもなかった。

そのうえ、家内も同じく廣島県出身であったので、結婚しても食卓に納豆があがつたことはなかった。

▼最近、広島県のある市に所要で出かけたとき、年配の人たちと話した時、「私ども子供のころは、売られていなかった」、また、ある人は学校を卒業して横浜の会社に就職した時、納豆が食事に出されたとき、「その臭いで食べることができなかった」と。

納豆についてパソコンで調べました

大豆を納豆菌で細菌発酵させた発酵食品である。日本全国の食品売り場で容易に手に入れることができる。日本でも昭和時代までは、関西(京都を除く)・北九州・沖縄ではあまり一般的ではなかったが、平成に入ってからこれらの地域にも普及が始まり、現在では日本全土で多くの日本人に食べられている。

総務省統計局の全国物価統計調査の調査品目にも採用されている。茨城県・福島県を中心とした関東地方・東北地方では郷土料理としても親しまれている。製法や菌の改良などで匂いを少なくしたり、含まれる成分の内「ナットウキナーゼ」の健康増進効果がテレビなどのメディアで伝えられるようになり、2000年以降は西日本においても消費量が急増し、この40年間を見ても国内各地域での消費量の差(一番少ない近畿・中国・四国と福島・水戸など一番多い地域との差)は大きく縮まっている。

「納豆」「納豆汁」などが冬の季語である事や、「納豆時に医者要らず」という諺があったように、納豆の時期は冬である。一方、7月10日が「納豆の日」とされている。これは1981年、関西での納豆消費拡大のため、関西納豆工業協同組合がなっとうの語呂合わせで制定したものであり、1992年、全国納豆工業協同組合連合会が改めて「納豆の日」として制定した。

▼現在は岡山市でも、スーパーマケットにはいろいろな形で売られています。

彼は、納豆を初めて食べてみた。意外においしかったので、今では植物性蛋白として一日に一度は納豆のパック詰め一個をご飯にのせて食べることにしている。どうやら体調を保持するにはよいものであるようだ。

丸元俶生『悪い食事とよい食事』(新潮文庫)P.108によると、「日本人は大豆をよく食べてきた民族だが、いま世界中でこの豆に対する評価が高まっている」。(中略)「大豆食品の代表といえばまず豆腐だが、納豆、みそ、湯葉など、大豆食品の数が多く、わが国は食の環境としては非常に恵まれている」。

*その後、あまり納豆を食べていない。

平成二十七年一月二十七日 

訂正:下記の記事を日記で見つけ、納豆は食べていた。

★1997.12.25(木曜日)

☆健 康

1、昨夜から今朝にかけ2時過ぎまで眠れた。それからはウトウト。

2、朝:起床後、水を一杯。リンゴ二切れ。納豆ご飯、ヨーグルトとプルーン。

  昼:プルーンと薩摩藷。牛乳。

  夜:カレライスにヨーグルトをかけると辛味が薄らぐ。牛乳。酢大豆を少し食べた。

平成二十八年五月十六日


食パン三題

其の一

子どものころ、軽い病気すると、母親がつくってくれていた食事は大抵「お粥さん」だった。ときに、食パンを牛乳に浸して食べさせてくれた。近所に乳牛一頭を飼って、朝、生牛乳を配達している家があったので、買って来てくれたものである。その味は現在の私の感覚に残っている。病気をすれば適当に判断して普通は「正露丸」で治っていた。町内の医院で診てもらうことは殆どなかった。

其の二

食パンのアーマ―  最近、スーパーマーケツトでの食パンはアーマーはのぞき、真っ白い一斤(四角の周囲はこげた部分がある)の5~6枚切りを包装したものが大部分である。それをトースターで焼き、ジャムなどをつけて、副食に野菜サラダーとかおこのみのものを、そしてコーヒーか紅茶を飲みながらかぶりついて食べている。

あるお菓子屋さんでは、食パンの外側の茶色い部分だけを袋に詰めて売っている。たとえばサンドイッチを作るときに白い部分のみ切りとって、残った部分であろう。こんな店は少ないので、他の多くの店はその処分をどうしているのだろうか。

余談ですが、パンは小麦粉を使っているのが主流ですが、米を粉にしてのパンの材料にしている試みもなされているようです。

「パンの耳」という言葉がある。

パソコンで検索すると、食パンの焼かれて茶色く固く変質した周辺部分を「表皮」という。また、俗に「パンの耳」あるいは「ヘタ」と呼ばれる。耳まで柔らかいソフトタイプの製品も販売されている。食パンにも角型食パン(プルマンブレッド)、山型食パン(ラウンドトップ)がある。

▼私が海軍の学校にいるとき、朝食は必ずといっていいほど食パン半斤とアルミ食器八分目の味噌汁が出る。

これに大さじ一杯の白砂糖と少しのバターがついている。洋食のパンと和食の味噌汁というのは妙な組み合わせだ。バターはいいとしても、パンに砂糖をつけて食べるというのも変な感じもするが、とても美味しかったと。

たまに片側が焼かれた、いわゆる耳がついた食パンが、誰かの更に載ることがある。焼かれて固くなったところは、白い柔らかな部分より身が締まって食べ応えがある。その耳のことを生徒たちはアーマ―(軍艦の舷側に張られた砲弾防護用の厚い甲板)と称して、内心しめたと喜んだ。

そのわけは、当時は、現在の高校生3年生の年頃であったので、食欲が旺盛であったので、このアーマーは固くて腹もちが良かったから。

▼「アーマー」という言葉は知る人は多くはいないでしょう。パソコンで検索すると下記の説明があった。

アーマー あーまー 【名詞】 《下士官兵俗》

兵には「腹にたまらない」として不評だったが、脚気防止のためにパン食が行われていた。食パンの両端の耳の部分を「アーマー」(armour)と称した。中間部分に比べて「食べで」があるとして人気があった。

下士官に限らず私たち海軍の学校の生徒もおなじであった。まさにこの言葉の通りであった。

海軍では麦飯が主食にされていた。脚気防止の対策であった。

▼脚気は現在では問題にされませんが、私たちの世代が子供のころは、病院にゆくと、まず先生がこころみることは、金属の棒によって膝頭を軽く叩くことだった。膝が軽く反応すればよし、さもなければ脚気とみなされたが、これは聴診器に応対と同じ医師の挨拶のようなものだった。

▼海軍では麦飯を主食にした経緯については、吉村昭『白い航跡』(講談社文庫)をお読みください。

 現在は、米食でしかも白米を主食としていますが、朝食に小麦からできている食パンを食べていますので脚気は廃語に近いかもしれません。

参考: Bread crust is formed when the protein and sugar in flour react chemically with heat.

  パンの耳は、小麦粉に含まれるタンパク質や糖質が熱で化学反応を起こして作られます。

平成二十五年七月十日

参考:パンのメーカーは沢山ある。

 山崎製パン、フジパン、タカキベーカリー、木村屋、第一屋製パン、敷島製パンなど。各メーカには多種多様の商品がある。値段もまちまちである。いろいろものを食べ比べて自分の好みを見つけるとよい。

 木村屋の食パン、ヤマザキ 塩バターフランスパンなどが好みになっている。

 また、食パンに欠かせない物に、ジャム・一緒に挟むハム、ソーセジ、果物などもいろいろと試しながら食べるのも楽しいものになる。飲み物も選ぶことだ。

平成二十二年四月十日

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