岡山工場勤務(第一回目)
第一回目:1950年(昭和25年)~1966年(昭和41年)11月

★自分史 少年時代 中学生時代 心に残る友 海軍兵学校入校 海軍兵学校での言葉 国鉄勤務時代
広島工業専門学校 株式会社クラレ入社試験 岡山工場勤務 研究所勤務開始 研修所勤務時代 連絡月報リレー随筆
クラレタイムス 岡山理大付属高校勤務 ***** ***** ***** *****
母の思い出 姉の思い出 兄と弟の思い出 妹を想う ***** *****
兄弟妹夫婦旅行 素朴な琴 からだを傷める ***** ***** *****


 倉敷レイヨン入社

 昭和24年10月倉敷レイヨン採用試験受験して、採用された。

 1950年(昭和25年)3月末日

 倉敷レイヨン 倉敷工場 藍風寮(学卒独身寮)に入寮

 寮には池永和夫さんがいた。また、久保田一丸さんがいた。

 二人は、海軍兵学校75期で、あれこれと教えてくださり大変たすかった。海軍兵学校生徒であったというだけで、親身になれるとは。絆の強さを感じた。

 池永さんとは、同じビニロン生産に従事した。

 新入社員教育始まる。

 新入社員前期教育ー会社のもろもろについてー

 倉敷工場で後期養成を受ける

5/2 (火)→5/13(土)3交替 12日紡糸

5/14(日)→5/28(日)仕上げ3交替15日

5/29(日)→6/4 (日)原液昼専3日、2交替4日

6/5 (月)→6/8 (木)金板

6/9 (金)→6/15(木)アセタール化及び薬液昼専2日、2交替5日

6/16(金)→6/17(土)荷造

6/18(日)→6/24(土)検定

昭和25年6月22日(木)岡山工場見学

 巽工場長挨拶 コストの問題について力説せられる

 野村副工場長 紡績に関連してビニロン糸の色々の事柄について述べられる。前田課長、多田課長の色々な説明及び質問

 倉敷→岡山に移動するまで

 初めての倉敷市に住んで感じたのは、大原家の力が浸透していて、会社の社員であるというだけで、信用される町の雰囲気であった。

 入社して、今井清和さん(広島高等工業学校→京都帝国大学)、椋本一夫さん(旧制広島高等高校→名古屋帝国大学卒、早く逝去)、谷村勝男さん(広島高等工業学校)らが親しくしてくださった。


 昭和25年8月 岡山工場転勤赴任

 八月赴任 岡山工場(岡山市海岸通)製造課に配属された。

 ビニロン・ステープル日産五トン設備の建設中であった。新規事業であったので、仕事への取組に先輩も後輩も手探りの開発的態度が必要であった。

 新入社員の私は非常に好都合な部署に配属された。しかも設備の据え付けから配管掃除、試運転から始める段階に赴任したことはその後の仕事に非常に役立った。

 赴任以来、連日遅くまで設備担当者と製造課の連中が一緒になって汗や油に汚れて仕事をした。その傍ら、まったくの新入社員の私が、試運転に備えて、製造課仕上に配属された従業員教育を担当したり、作業標準書や安全守則を作成したりした。配属された従業員の大部分が社内の他部署からの配置転換者、新規採用者であったからである。彼等とはその後の会社生活のなかで親しく付き合うことになった。

 十一月十一日ビニロン設備日産五トン完成、操業開始。

 当時の製造部の職制

 部長・野村重基(京大)、課長・前田勝信(明治専門)、主任・小川義雄(米沢高工)

 前部原液:浜田 馥(津山中学)、池永和男(金沢工専)、植田啓三(京都蚕糸専門)

 後部紡糸:田中鋼二(早大)

 後部仕上:黒崎昭二(広島工専)。

 岡山工場から研究所に転出するまで一貫して後部仕上げの担当であった。この間、実質上の責任者であった。

★職制について:製造部は部長→課長→主任→担任であった。

★当時の職員と工員:職員は本社が一括採用。採用後工場、事務所の職務に配置された。入社時は担任の職位であった。転勤は適宜行われていた。逐次、係長、主任に昇進。工員は各工場または事務所で採用して、転勤などはなかった。

★採用情報:平成28年度採用:E.C.コース

★非組合員と組合員:課長以上が非組合員であった。主任以下は組合員であった。

 昭和三十六年(十二年目):係長のとき、組合執行委員を務めた。

寮生活:倉敷の藍風寮から岡山市福島の職員寮:操風寮に移った。木造二階建、六畳の部屋が十五~六室あったか。一室に二人の相部屋であった。当時としては珍しいと思うのだが玉突き場が食堂の横に備えられていて娯楽になっていた。寮の住人は学卒(大学・専門学校卒業者)と単身赴任の職員であった。

 ここで、菱田昌則さんとの出会い。彼はクラレ専務取締役まで昇進された。

 操風寮:管理人・三井夫婦が住み込んでいた。一人娘:康子ちゃんがいた。

 小父さんは口数が少ないが、無愛想ではなかった。話しかけると温和な話し振りであった。

 小母さんは、芯は親切で、話好き(口八丁手八丁)であった。寮生のだれにも好かれていた。生活の中で親代わりに色々教えてもらった。ライスカレを食べるときは先ず味わってから味がうすければソースはかけなさい、料理をした人にたいするエチケットである。また銚子の酒の注ぎ方は注ぎ口からは決してしないように、そこは「いやし口」というのですなど。今でも実行している。マージャンも一緒に、煙草ピースなどを賞品にして、よく手合わせしたものである。結婚で寮を出て社宅に移転したとき米櫃を記念品に貰った。小父さんはこの寮で亡くなり、小母さんは定年後大阪の我孫子に転宅した。時々寮生は訪問して旧交を暖めていた。

 昭和二十五年は戦後五年目であったが、工場で働くものには加配米が支給されていた。まだまだ食糧事情には制限があった。寮の食事の「ご飯」は岡山の米で物凄く美味しかった。刺身は故郷のものに比べてまずかった。しかし食事全般何もかも美味しくいただけた。入社するまで質素なものを食べてきていたから。一カ月の食費は四千円で二千五百円くらい貯金した。背広を新調するのが目標であった。

 寮生の遊び

1、カメラ熱:寮生の間で流行した。カメラ雑誌で機種の性能を徹底的に調べて購入するもの、感覚的に機種を選択するもの様々であった。だれ一人同じ機種を買うものはいなかった。私もミノルタフレックスを購入した。休日には風景撮影のために出掛けた。

2、謡曲観世流の師匠に寮の近くの集会所に出稽古していただいた。工場医師・大塚先生、浜田美治氏らと私も数曲習った。尺八を角 正義君(福井県高岡出身・東北大学卒)が練習していた。

3、オートバイの運転に玉置 健君が熱中していた。一人で乗り回していた。先駆けである。

4、玉突き:寮長・菅沼氏(東大卒)が玉突きをするときの服装をやかましく注意していた。彼が退寮した時、私が玉突き場の管理(玉突き棒のキューの整備)。

5、レコード鑑賞:前田力氏(阪大)がドボルザーク「新世界」を電蓄のボリューム一杯にしてかけていた。矢田氏(東京工大)は静かに自分のレコードを聴いていた。

6、マージャン:賞品マージャンをしていた。煙草ピースを賞品にして、寮の小母さんも。

 楽しい寮生活。多くの友人ができた。


 担当部署は原液→紡糸→後部仕上げの最後の部署であった。

 入社して岡山工場での生産開始以来、アセタール化処理条件を細かく検討はじめた。処理条件によって繊維強度と染色性に影響するので、そのバランスを考えなければならなかった。最適と考えられる条件を決定した。約2年間、条件の諸項目を考え、試験係に指示して実験を繰返してのものであった。

 このようにして、トウの生産の場合では、処理速度を1/6に短縮することができた。その結果、処理装置の能力を6倍あげることになった。ビニロン生産量を増強するとき、大きく貢献した。

 ビニロンステープルの生産について

 建設当初のカットファイバー用の設備はバッチ式アセタール化タンクであった。すべて手作業であり、その後の処理のオイリング処理、乾燥なども手仕込みであった。また反応処理液の温度の調節は温度計をみながら蒸気バルブの開度を手で調節していた。

 昭和二十七年 連続精練機となる。ステンレス製金網連続精練機設置。画期的設備改善である。回転式熱処理機で処理されたビニロンがコンベアで直接に精練機に運ばれアセタール化、水洗、オイリングされ金網乾燥機に運ばれる連続工程になったのである。

 前者は、玉置 健さんが機械担当者として設計にあたり据え付けられた。後者は、矢吹伊勢郎さん=聞き上手の人ーI.Yabukiさんーと聴衆に話す上手な方法が担当された。

昭和二十八年(四年目)  ベンザール化

 ベンザール化はアセタール反応にホルムアルデヒドの代わりにベンズアルデヒドを使う化学処理である。ビニロンの弾力性(羊毛の繊維に似て皺になりにくいものにする)を改善するためのものである。

 昭和二十七年倉敷工場、ベンザール化ビニロン試験生産していたものを二十八年七月より岡山工場で量産開始。

 私は研究所のデーターを参考にしてビーカー実験で処理条件の検討をした。

  繊維の染色、化学反応実験には繊維重量の約五十倍の液量即ち浴比五十で行うのが常識であった。常識に反して浴比千倍で実験した。しかしそれでも盲点があった。反応初期の反応液のベンズアルデヒドの濃度が終期にかなり下がっていることに十分注意していなかった。得られたデーターを基本にして生産処理条件としての濃度、温度、時間を具体的に設定して、操業運転した。

  運転に立ち合い、状態を観察していると処理されて出てくる繊維が溶けて固まっていたのである。本当にびっくりした。約一トンの繊維を屑にしたのである。非常に責任を感じて上司に報告した。

  再検討の結果分かったのは、現場設備で処理するときは反応液のアルデヒドの濃度は一定に保持されているがビーカーでの実験は初め濃度が高く時間と共に濃度が低くなる条件で行っていたので結果的には平均的に低い濃度での実験をしていたのである。従って現場での反応条件は高い濃度に設定したことになっており決定的な誤りをしていた。

  ベンザール化ビニロンはアルカリに弱く脱ベンザール化される欠点があり、生産停止された。研究所の開発製品であったが製品の欠点の評価判断が甘かった。

「研究者の商品開発のあり方」について考えさせられた。

昭和二十九年(五年目)  

ポバールの部分重合技術確立。高強力ビニロン紡績糸。(技術者のヒットである)。研究所の浮田さんが開発された。

昭和三十年(六年目)

昭和三十年下期 倉敷レイヨン概況 資本金十五億 売上高七十六億 利益三億 従業員一〇、二八四人(『大原總一郎年譜』)

 交替担任者の引継ぎを口頭からノートに書かせて引継ぎのミスがないように指導した、

昭和三十一年(七年目) 西条工場、レイヨンステープル増設完了、六十三トンとなる。倉敷レイヨン創立三十周年


昭和三十二年(八年目)

倉敷レイヨン 資本金三十億円に増資

左前膊切断創

▼繊維に機械的に捲縮(けんしゅく:羊毛のカールを想像してください)をつけて、その繊維の切断方法の開発をしていた。スフ切断機の繊維束の供給部分の一部を改造して切断長さの変動を小さくする方法を研究していた。ビニロン繊維の束を切断する機械への繊維束の供給部分の一部を改造して切断長さの変動を小さくする方法を模索していた。

捲縮繊維はクリンプがあるために束状態の繊維が繊維方向に配列しにくい。そこで矩形のノズルを作りその内部の周囲から空気を噴き出させ、その空気流の中を束状態の繊維を通す方法を考案して実験を繰り返していた。

六月三十日午後三時ころの事故である。休憩が終わって、作業開始、切断機の安全カバーを開けて左腕をいれて空気の流の状態を調べていた。作業員の一人が一切注意も払わず、声も掛けずに動力のスイッチをいれた。瞬間に一皮だけ残して切断されたのである。痛みを感ずる事もなかった。直ぐに繊維の束で左腕の脇の下近くを止血させた。

工場の医局に行き直ちに岡山大学医学部整形外科に運ばれた。十七時半ころに手当てを受けた。その間がたまらないくらい辛かった。動脈が切れているのを止血しているために血液は腕の方に送られてくるのに行き場がないから圧力が高くなるのであろう鉛で押し付けられているように感じられた。止血の場合、ある時間経過すると鬱血を抜かなければならないのだそうだ。

津下助教授の治療が始まった。医局員に診断結果をカルテに書かせていた。ドイツ語であったが大体単語が聞き取れたのでこれは駄目だと観念した。

全身麻酔をかけられて数を数えているうちに気が失われた。目が覚めたのは二十一時ころ、病室のベッドであった。左腕がなくなっているのに直ぐ気付いた。

左前膊切断創であるため治癒に時間は掛からなかった。一週間か十日くらいで退院した。 

六月三十日~八月二十一日、岡大入院、岡山労災病院整形のリハビリ。

 当時の私の気持ちは、入社八年目、従業員の安全を指導する立場のものが重大災害負傷をするとはなにごとか。恥ずかしくて身の置き場がない思いであった。会社を辞めるべきか、勤めても片腕無くては技術者としては仕事できないだろうと悩んだ。

 そのころの安全管理は考えられないくらい甘かった。現在では切断機のカバーを開けば動力のスイッチは入らない工夫がされている。私の負傷からこの様な安全対策が取られた。安全対策はどちらかと言えば後手に回わっていた。

 野村重役の見舞いの手紙

 拝啓 日曜の朝 勤労課長の河野君からの電話で貴兄の負傷の事を知らされ驚いた次第 です。幸いにしてその后の経過は順調とのことやっといくらか気分が安まりました。

 今日は社長も東京より帰られましたので委細報告致しましたが貴兄の負傷程度の事、それから今後の対策の事について大変御心配になっておられました。

 工場でも本社でもその事については如何にして万全を期するかを真剣に検討し決して貴兄の余りにも苦い経験を無にしない様早速活動を開始して居ります。鬱陶しい梅雨空は 容易に晴れそうもあり……。

 大学病院にお見舞い戴いた会社の幹部(野村さん、中条さん)に母は

「子供は海軍にいれてお国に捧げたものです。腕の一本くらいで済みました…」と挨拶していた。まつたく知らなかった。

 河村喜一製造部長から「黒崎君のお母さんは素晴らしい人だ」と、挨拶の言葉を聞かされた。

参考:芥川龍之介の著作に、自分の子供の死を恩師に知らせる場面がある。

 その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持った手が、のつている。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるえているのに気がついた。ふるえながら、それが感情の激動を強いて抑へようとするせいか、膝の上の手巾を両手で裂かないばかりに緊く、握つているのに気 がついた。さうして、最後に皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれているやうに、繍のある縁を動かしているのにきがついた。…… 婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさつきから、全身で泣いていたのである。芥川龍之介全集『手巾』 より

▼岡山工場、倉敷の繊維研究所、岡山工場の製造部長、クラレ研修所所長と処遇していただきました。感謝の言葉は言い尽くせません。社長はじめとして上司の皆様・同僚・後輩にただ感謝の言葉しかありません。「本当にありがとうございました」。

 後日談

▼倉敷の研究所にいた私に岡山工場の河村部長から手紙をいただいた。その内容は「黒崎君、励ましてくれないか」でした。

 「岡山工場の社員がローラーに片腕巻き込まれて切断した。黒崎君から励ましの手紙を書いてやってくれないか」との内容でした。

 早速、私の体験をふまえて励ましの手紙をかきおくりました。

 彼(H君)は元気に勤め、余暇にはマラソンに挑戦していました。陰ながら声援を送り、障害に負けない人になってと、ねんがんしていました。 


昭和三十三年(九年目)

「テトロン」時代始まった。東洋レーヨン、帝国人造絹糸の両社、共同でICI社よりポリエステル系合成繊維の製造技術を導入。

昭和三十四年(十年目)  係長に昇進

 三十四年上期 ビニロンの売上高が五十七億円となり、総売上高百十億九千万円の半ばを超える。

ビニロン五十トン設備完了。

新型荷造機(自動計量、連続梱包)二号機設置。

*製品への異物混入発見装置開発。

* 実業団野球都市対抗に岡山工場が出場。夕方十七時の急行鷲羽で出発、翌日朝東京に到着。後楽園に応援に行く。初めての東京見物、宮城、東京ターワーなどバスツア-。

*全国労働衛生大会松山市で開催された。勤労課員:春日君(柔道の猛者)と参加。私は衛生管理者の免許を取得していた。

昭和三十五年(十一年目)

 倉敷工場に技術研修所開設。

昭和三十六年(十二年目)

 ビニロン、七十三トン設備。更に八十四・五トン。資本金六十億。

昭和三十七年(十三年目)  主任に昇進

 北京においてビニロンプラント輸出議定書に調印。

 品質管理の全社的な推進開始。部署でも品質管理教育に力を入れた。また、部署の労務管理が忙しくなる。

 品質管理手法導入により合理的生産管理の考え方体得。生産管理者としての力を付けた。

*ビニロントウのローラ巻き付き発見装置開発。

*ビニロントウのアセタール処理の硫酸ナトリームの濃度の管理によるアセタール化度の安定化により処理速度の向上。生産性向上。

*アセタール化処理槽の前後に処理槽を設置して、ここを通過させることによって、アセタール化に使われていた硫酸の使用量を大幅に減少することができた。

昭和三十八年(十四年目)

 中国へのプラント輸出の組織が発足。製造関係では新田、岡、池の上、天野らが担当。

昭和三十九年(十五年目)  中国に技術者派遣

 資本金百億円

*ホルムアルデヒド蒸発原単位減少

一 トウ、アセタール化処理装置での蒸発防止対策。

二 NFA アセタールシャワーボックス半減。

★主任時代(部署・仕上)の懐かしい人たち

 学卒者:浜本(三十七年入社、中途退社)、溝辺(三十八年入社、平成九年逝去)、こと子・東森(三十九年入社)、関谷(四十年入社)たち。

 思い出す部下:藤高、森本、磯谷たち。

 昇格担任者:石山、信長、諏訪、坪井、小寺の諸氏。

★私生活:昭和三十九年八月お盆、黒崎家十七名全員でクラレの保養所であった岡山県湯原寮に行く。

昭和四十年(十六年目)

 安全対策:柔軟体操開始、朝仕事始めと昼休み後、柔軟体操させた。指差し運動展開。二・五カ月に一度の割合で発生していた負傷回数を二年間無災害に導いた。

 現場技術者として大きく成長した機会であったと思う。

 中国から実習員来日

 当時の日中関係による、警察の警備体制はものものしかった。

 私も彼らに講義をした。全く質の悪いノートに漢字ばかりで書き込んでいたのが印象に残っている。

 また、会社の旭風寮での懇親会の宴会に参加したとき彼等は酒は飲まないでサイダーだけで非常に発言に注意していた。

 中国式「乾杯(カンペイ)」を知ることができた。

 中国運転派遣メンバー決定 直属の新田課長は小生を派遣のつもりにされていたが、河村部長は小生の腕の無いことを考慮されてメンバ-から外された。

 河村工場長転出、小日向氏工場長。

 思い出せば、河村工場長には、部長勤務のときから工場技術者の心構えを教えられた。その一例は、

▼生産部長河村喜一部長が、私の職場に来られて、技術の話をしているとき

 「黒崎君、熱水中でビニロン繊維に羊毛のようなカールをつけてみないか」と言われた。

 「部長!それは以前に実験しました。出来ませんでした。」

 そう答えると、

 「今の君は以前と変わらないのか?。」と。

 この言葉の重みは私の心をとらえた。

 工夫して改めて行つてみますと申し上げた。

▼熱水の温度・繊維の塊をほぐしての実験を注意深く行いました。結果は同じく、部長の期待されるものはできなかった。

 以上の経過を報告すると、部長も納得してくださった。

 思うに、部長はレイヨンの生産に従事してこられた。レイヨンステープルは、その生産工程の 「紡糸」で糸の両側面での歪が異なっているので、そのままお湯の中にいれるとカールができたのである。このことから推定された思われる。この事実は、当時京都大学の掘尾教授が報告を出されている。

▼一回りしても、進歩しないで元の位置に返る円運動の人がいるが、絶えず識見を磨いて高い位置に登っている螺旋運動している者もいる。私は、後者になりたいものだと……。

余談:部長のお考えを実験という事実で証明したことから、技術者として認めていただいたのか、その後、信頼して下さり、ご指導をいただきました。大阪本社に出張ではお供をして、帰りには新幹線でビールを飲み、岡山に着くと、部長の行きつけの飲み屋につれて行かれて飲まされた。

 終身までご高配いただきました。毎年年賀状をいただいていた。

関連:中野 忠様(1968~1969年クラレ取締役) のお手紙

 拝復 自学自得二七〇号(平成十年三月十日 辞書を読む)拝受。有難うございます  

 二七〇という数字の重みをひしひしと感じながら貴方様のご意志の固さを感じ入ります。

 河村喜一様(1961~1967年クラレ取締役) 去る八月二十五日(平成十一年)ご逝去なさいました。九十才であられました

 奥様のお話では随分と静かな大往生であられたとのことです。

 万年青年だと云ってあの強靭な体力でいっも私に接し、高齢を少しも感じさせない方でありました。何年か前、万年青年だから弱気を云わぬよう手紙を書いたら、もうあの看板はおろした。近頃は少し腰がまがっておると家族にひやかされる等、云っていましたがそれにしてもあの万年青年河村さんも逝かれてしまいました。淋しい限りです。

 ハガキ通信でご指摘の自殺者多発のこと又離婚者の多いこともあわせて本当にゆゆしきことと思っています。

 なお私はアメリカ社会の学校での銃の悲劇、それに対する対応(学校に警察官が常駐し指導しておる様子をTVで拝見しました)。これも又大変なことだと思います。

 私共夫婦、妻も四〇日程福岡に居て帰阪しました。

 余りよくないのですが彼女の腰痛はきわだって好くなりません。然し入院・リハビリの体験は何かと養生に役立っているようです。

 私はその后大分快方に向かっており何とか日常の作業はこなせそうです。私の喘息の方は近所の国立病院に転院がかなえられました。何かと便利になり通院の疲労も軽減しました。唯、医師は余りかんばしくありませんが、かわった以上何とかこなしていきたいと考えております。

 朝夕大分ひえびえとするようになりましたがねびえなどなさらぬようご留意ください

        敬具  八月十四日

 黒 崎 昭 二 様

 返信おくれもうしわけありません

昭和四十一年(十七年目) クラレ創立40周年 製造課工務転部 研究所転勤

 中国派遣者帰国

 五月:後部仕上げから製造課工務に転部。岡 新さんがビニロンフィラメントの課長転出の後任。

 転部挨拶

 昭和二十五年以来満十六年後部でビニロン建設以来働かせていただきました。ともに考え、働きご指導いただきましたことに感謝いたします。

 仕事、労務、標準化、安全など走馬燈の如く思いが浮かび消えますが転部にあたり二、三のお願いをしてご挨拶に代えさせていただきます。

 第一は安全です。五月一日で無災害記録を樹立しましたが休業災害が四年以上もないと言っても過言ではありません。これは「安全は自分で作り出すんだ」と言う心構えによるものであったと確信しています。与えられるものではありません、作り出して戴きたいと思います。

 第二はQC活動にも通じますが、プラン・ドゥ・チェック・アクションと言われますがこれらの前によく現場を見ることが先行します。見た上で考える。あらゆる角度より考えて自分の考えを持つように心掛けて下さい。そうすれば必ずや自己の進歩と同時に部署の発展が約束されます。後任の石山主任を中心に皆さんの一層の発展を期待します。

 十一月 研究所へ転勤 倉敷工場北社宅に転宅 子供は倉敷市立中洲小学校に転校

 転勤の経緯

 河村本部長

一 ポストの関係から事業部からだす。

二 人間はあらゆる角度から評価されている。

三 ファイトで仕事をする。十の中、五の成功で良い。

四 五A以上は実力主義に切り替えたから頑張るように。

五 専門学校出のコンプレックスを持つな。

 吉本部長

一 専門学校出が開発の仕事に従事することに喜んでだすことにした。

二 研究所で後継者を養成して何時でも手を引けるようにしなさい。

 菱田人事課長

一 いつまでもビニロンにおいておくなら職務を考えるようにいっている。

二 EYが短期のものなら出さないと研究の大杉氏に言っている。

三 課になれば担当してもらうことを条件にしている。

 中野 忠工場長との出会 以後、今日までご指導戴いた。

 工場長が大山澄太氏の講演会開催(山頭火、曹源寺の紹介)。

 滴水和尚の辞世の偈

 曹源一滴 七十余年

 受用不尽 蓋天蓋地

 ノートにメモしていた。

 昭和四十一年十一月 研究所へ転勤


 倉敷勤務十五年十一カ月(四十一年十一~五十七年九月)

 昭和五十七年(三十三年目) 十月一日 岡山工場に転出 岡山工場ビニロン部長 

 昭和五十八年(三十四年目) 研修所長に転出

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