仏事用語集

知っているようで詳しくは判らない仏事に関する言葉を種々のホームページを参考に解説しようと思います。少しずつ増やしていくつもりです。
 なお、このコーナーは、開設者が独自に作っているもので、長福寺さんからは資料の提供を受けていません。

   施餓鬼(せがき)

施餓鬼とは「餓鬼に施す」こと、餓鬼とは仏教の世界にあるとされる「地獄(じごく)」「餓鬼(がき)」「畜生(ちくしょう)」「修羅(しゅら)」「人間(にんげん)」「天上(てんじょう)」の六道の世界の一つです。
 施餓鬼の起源は、「釈迦仏の十大弟子で多聞第一と称される阿難尊者が、静かな場所で坐禅瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れた。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であった。その餓鬼が阿難に向かって『お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう』と言った。驚いた阿難が、どうしたらその苦難を逃れられるかと餓鬼に問うた。餓鬼は『それにはわれら餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、我も苦難を脱することができ、お前の寿命も延びるだろう』と言った。しかしそのような金銭がない阿難は、釈迦仏に助けを求めた。すると釈迦仏は『観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、この『加持飲食陀羅尼」』(かじおんじきだらに)を唱えて加持すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼は充分に空腹を満たされ、無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる』と言われた。阿難が早速その通りにすると、阿難の生命は延びて救われた。」ことに由来しているとされています
 すなわち施餓鬼とは、俗にいう生前の悪行によって餓鬼の世界に落とされ常に飢えと乾きに苦しんでいる、そういう者たちにも食べ物や飲み物などの供物を施すことで供養を行う法要行事です。亡くなった祖先や家族たちの供養を行うのと同時に、餓鬼の供養も行なって徳を積むことで自分にも救いがあるとされています。(一部 Wikipediaより引用)


   諷誦(ふじ)

諷誦(ふじゅ、ふうじゅ→ふじ)は平安時代以来の風習で、亡き人への追善供養の趣意を施主が文章にして導師に捧げ法要の際に読誦していただくもの(諷誦文)でしたが、のちに導師が作るようになりました。
 以前は全国各地で読まれていたようですが、一部の地区を除き現在では千葉県の九十九里浜から南房総一帯の施餓鬼法要(新盆法要)で追善の志を導師が読み上げる形で行われています。


   盂蘭盆会(お盆)

「盂蘭盆会」(うらぼんえ)とは、仏教が誕生した古代インドのサンスクリット語、つまり梵語のウランバナを音写した言葉といわれますが、否定する学者もいます。ウランバナは、「ぶら下げること」「吊るすこと」という意味で、インドでは特別な意味はなく、また盆にあたる行事もありません。
 ところが、六世紀中頃、中国で「盂蘭盆経」がつくられていますが、不思議なことにインドには原典がありません。どうやら盆は中国で生まれた行事のようです。「盂蘭盆経」によると、釈迦の弟子の目連が、死んだ母親が飢えで苦しむ餓鬼道に落ちて逆さに吊るされているのを知って、なんとか救いたいと釈迦に願い出、そして釈迦の教えに従い、七月十五日に供養して母を救ったといいます。この故事が盆の行事の始まりになったといわれます。
 盂蘭盆会が日本に伝来したのは七世紀で、この盂蘭盆会の行事がやがて民衆にも拡がり、もともとあった魂祭の古い習俗と結びつきました。寺院でも盂蘭盆会が行なわれるようになり、真宗を除いて施餓鬼供養が営まれ、追善の供養も併せて行なわれるようになりました。
 現在の一般的なお盆の行事としては、祖先の霊が子孫の元に帰って来るとされ、盆の入りには迎え火を焚き祖先の霊をお迎えし、盆明けには送り火を焚いて送ります。時期は7月15日、月遅れの8月15日、旧暦の7月15日の何れかの前3日間(すなわち13日から15日まで、ところにより16日までの4日間)ですが、月遅れで行われているところが多いようです。


   卒塔婆(塔婆)

卒塔婆は略して「塔婆(とうば)」とも言います。追善供養のために経文や題目などを書き、お墓の後ろに立てる塔の形をした縦長の木片のことを言います。
 言葉の起源は、古代インドのサンスクリッド語の仏塔という意味の「ストゥーパ」という言葉を、漢語で音写したものです。お釈迦さまが亡くなると遺骨が分けられ、8つの部族に遺骨を安置するための仏塔(ストゥーパ)が建てられました。お椀を伏せたような形をしていたそうです。その後、中国、朝鮮半島を経て日本には平安時代末期ないし鎌倉時代初期ころに伝わったとされています。この頃にはだいぶ形も変化して、三重塔や五重塔、多宝塔の意味となり、五重塔を模して五輪塔が建てられました。
  五輪塔を木で代用したのが角塔婆で、それが簡略化され年忌法要などに用いられる板塔婆となりました。 現在では「塔婆」といえば板塔婆のことを言います。上部に左右四対の切り込みがあり、区切られた部分が五輪塔と同じく仏教の宇宙観である、あらゆる世界を構成する地、水、火、風、空の 5つの要素を下から順に表しています。卒塔婆に書かれている内容は宗派、お寺さんによっても違いがありますが、だいたい戒名、命日、経文、題目、聖句、梵字、施主名、供養年月日などが記されています。


   彼岸

彼岸(ひがん)は、春分・秋分を中日とし、前後3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)で、この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼び、最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と言います。信者は寺に参詣し説法を聴き、また墓参などをします。このような習俗はインド、中国にはみられず日本にしかありません。
 語源は、古代インドのサンスクリット語の param(パーラム)の意訳で、仏教用語としては、「波羅蜜」(Paramita パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来します。param(彼岸に)ita(到った)、「彼岸」という場所に至ることとしている。この「波羅蜜」の解釈については異説とするのが有力です。
 煩悩と迷いの世界である「此岸」(しがん)から悟りの世界「彼岸」へ到達するために、「六波羅蜜」(ろくはらみつ 布施(ふせ)布施をすること、持戒(じかい)戒律を持って生きること、忍辱(にんにく)堪え忍ぶこと、精進(しょうじん)努力すること、禅定(ぜんじょう)座禅すること、智慧(ちえ)前五つの波羅蜜の実践によって得られる智慧)の修行を行ないます。彼岸はその修行をするための期間と言われています。


   お墓関連

 

死亡から焼骨の埋蔵まで

1. 医師から死亡診断書を受け取る。(事故・自殺・突然死・原因不明の死などの場合は監察医や警察委託の医師による検案の後、死体検案書が発行されますので受け取る。)
2. 死亡届に必要事項を記入し認印を押印する。
3. 死亡届(死体検案書)と死亡診断書を市区町村に提出する。(届け出ができるのは、死亡地、死亡者の本籍地、届出人の住所地です。)
4. 火葬(または埋葬)許可証を受け取る。(埋葬は土葬の場合です。)
5. 火葬許可証を火葬場の管理者に提出する。
6. 火葬が終わったあと、省令の定める事項が記入された火葬許可証が返却される。
7. 火葬した後の骨を墳墓に埋蔵する場合も納骨堂に収蔵する場合も、前記で返却を受けた火葬許可証を当該施設の管理者に提出する。


埋蔵するお墓が準備できない場合

骨壺を自宅に安置していても、寺などに預かってもらっても法律的には何ら問題ありません。


分骨

焼骨を複数の場所に埋収蔵することを分骨といいます。火葬する時に分骨することが決まっている場合は火葬場から分骨証明書(本骨分を含め必要枚数)を交付してもらいます。
 すでに焼骨を墳墓に埋蔵または納骨堂に収蔵してある場合はそれらの管理者から分骨証明書を発行してもらいます。
 分骨を埋収蔵する時は交付を受けた分骨証明書を管理者に提出しなければなりません。


改葬(お墓の引越し)

1.移転先を決める。
2.移転先から受け入れ証明書を発行してもらう。
3.今のお墓のある市町村から「改葬許可申請書」取り寄せて、お墓の管理者に必要事項を書いてもらう。
4.受け入れ証明書、改葬許可申請書などを添えて改葬元の市町村に提出して改葬許可証をもらう。
5.改葬許可証を移転先の墓地管理者に提出し、改葬する。
 以上は、事務的手順を記したもので市町村により異なるところもあります。また、当然のことながら改葬を決める前に、家族は もちろん親戚、お寺の住職などに十分説明し理解を得ることがトラブルを少なくするために重要です。


   仏 教

 

仏教の始まり

仏教は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、あるいはガウタマ・シッダールタシャカ、または釈迦族の尊者、略して釈尊(しゃくそん))を開祖とする宗教です。キリスト教・イスラム教と並んで世界三大宗教の一つです。
 仏教の始まりである釈迦が誕生したのは今から約2500年前で、場所はインドとネパールの国境付近です。生まれてすぐ7歩あゆんで「天上天下唯我独尊」と唱えたという有名な伝説があります。 釈迦と呼ばれるのは、シャカ族の治めるシャカという小国の王子であったからです。17才で結婚、子をもうけますが29才のとき将来の国王の地位を捨て妻子を残し出家しました。
 その頃のインドはバラモン教が優勢な時代でした。当時の出家者がそうであったように釈迦も荒行の日々を過ごします。釈迦の荒行は私たちには想像の域を超えたすさまじさだったようです。しかし、35才まで6年間を費やしてもなお「悟り」に至りませんでした。釈迦は荒行を止めブッダガヤの地で座禅と瞑想に没頭しました。そしてついにシュバッタ(菩提樹)の木の下で「人間の真理」を悟るのでした。仏陀(ブッダ)とは、仏ともいい、インドのサンスクリット語で「目覚めた人」「悟った者」などの意味で悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人の事を言う。しかし、一般には、仏陀というと釈迦を指すことが多い。
 やがて釈迦は、自分が悟った最高の真実を人々に説き示すようになりました。仏教の始まりです。釈迦を慕ってたくさんの人が集まりました。クシナガルの地において80才で亡くなるまで45年に渡り各地を行脚しながら人びとに説いてまわりました。
 釈迦の説法は話し聞かせるという形でした。釈迦の直弟子達も同様に各地で説法を展開しました。時が経つにつれ「私はこう聞いている」「いや、私の場合はこうだった」と釈迦の教えに食い違いが見られるようになってきました。 それを防ぐため有志により文書化されたのがこんにち経典と呼ばれるものであり、その数3000以上とも言われています。 経文が「如是我聞(私はこのように聞いた)」で始まるのはこのためです。
 釈迦の入滅ののち約100年間は教団の統一が保たれたといわれますが、 仏教創始からこの初期教団の統一が保たれていた時期の仏教を原始仏教あるいは初期仏教といいます。そして、その初期仏教の聖典は三蔵(さんぞう)にまとめられました。 三蔵とは経蔵、律蔵、論蔵を指します。このうち経蔵は釈迦の言行をまとめたもので「阿含経典(あごんきょうてん)」といわれるものです。 律蔵は仏教教団構成員の生活規定と教団の運営規定、つまりは戒律について記したものです。そして論蔵とは教義をある程度体系的にまとめた文献群です。
 入滅後約100年を経たころに、戒律上、教義上の見解の相違から最初の仏教教団の分裂が起こりました。この分裂を根本分裂といい、結果として保守派の上座部と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)という2つの派閥が成立したとされます。 そしてその後200年ほどの間に両方の派閥で分裂が進み、インドでは十八部といわれる18の部派が成立したとされます。この分裂を枝末分裂といいます。このような様々に分裂した派閥の仏教のことを部派仏教と呼んでいます。
 部派仏教の各教団は、国に保護されて広い土地をもち多数の僧尼が僧院にこもって学問に専念するようになり、そのため仏教はしだいに現実から離れた貴族的な学問仏教の面が強くなりました。紀元前1世紀ごろから、仏教の内部に部派仏教を批判して実践的な信仰を求める在家信者を主体とした信仰運動が起こりました。それが、「限られた出家者のみが救われるのでなく、大衆の迷いや苦悩をも救われなければならない」と万人救済を説き、大乗仏教といわれる新しい仏教の成立をもたらしました。このことは、仏教と言いつつも基本的には釈迦のもともとの考え方から完全に別れて独自の道を歩き始めたということです。さらに、大乗仏教は顕教、密教という2つに分化していきます。ヒマラヤを越え中国、朝鮮、日本に広がったことから北伝仏教と呼ばれます。
 一方、旧来の部派仏教は総称して小乗仏教と言われたが、それは大乗が「大きな乗り物」の意味であるのに対して「小さい乗り物」の意味の蔑称であったので現在の仏教界では使用されないことになっています。現在では、大乗仏教以前の信仰を継承している仏教を、部派仏教の中の長老たちの最も保守的な教団に代表させて上座部仏教と言うようになっています。「悟りに至るには出家して自ら修業しなければならない」という個人救済の立場をとります。東南アジア方面に広がったことから南伝仏教と呼ばれます。

中国への伝来

インドに始まった仏教はガンダーラ(現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部に当たる。)に伝わり、中央アジアを経由して中国へと広まりました。 中国への仏教初伝は文献上では紀元前2年とするのが一般的です。
 中国に伝わった仏教は、最初は経典の中国語への翻訳という形をとりました。次の段階では、翻訳をすすめると同時に、中国の考え方を仏教の教義に取り入れるということが起こりました。中国人にとって非常に受け入れ難い考え方は出家して修行するということでした。紀元前後に中国を支配していた漢帝国が採用した国家運営の基礎に利用した考え方は儒教です。儒教というのは孔子という思想家が発明した教えで、政治は人徳によって行わなければいけない、その人徳は目上の人を敬い、親に孝行しなければいけないという道徳を唱えた考え方です。出家するということは親を捨てるということを意味しますので儒教の親孝行の考えに反するわけです。したがって、僧侶がかわりに出家してくれている大乗仏教というのは受け入れるのにとても都合がよかったわけです。しかし、その普及にあたっては、考え方の点で仏教の中に儒教の考え方を入れるような変更が必要であったと想像されます。儒教の考え方を採り入れた仏教というものが作られ、中国製の経がたくさん作られました。インド製以外の経のことを偽経(ぎきょう)といいます。さらに、この儒教の影響のほかに、いろいろな民間信仰と仏教が一緒になって中国式に変えていくということが盛んに行われました。
 中国を経由した大乗仏教というのは本来の釈迦の考え方とはかなりかけ離れたものになり、仏教という名前で一人歩きを始めてしまったといえると思います。

朝鮮半島への伝来

中国から朝鮮半島に仏教が伝わったのは、半島が高句麗、百済、新羅の三国に分裂していた時代です。高句麗では372年に、百済は384年に公式に伝えられたとされています。また、新羅も同じころに仏教が伝わっていましたが、公式には528年に高句麗より伝わったとされています。このうち、6世紀半ば百済の聖明王 (在位523~554年)が日本に仏教を伝えました。

日本への伝来

日本では仏教伝来以前から古来の神々が信仰されていました。仏教が伝えられると仏教を積極的に受け入れようとする側と受け入れに反対する側とに分かれます。仏教を受け入れようとする側の代表は中国・朝鮮から渡ってきた渡来人系の蘇我(そが)氏で、受け入れに反対する側の代表は物部(もののべ)氏でした。仏教の受容を巡る問題は豪族間の権力争いと共に激化しますが蘇我氏の勝利により一段落します。蘇我氏が勝利したことで仏教は急速に普及していきます。推古(すいこ)天皇は、「三宝興隆の詔」を発布し、聖徳太子は「十七条の憲法」を制定し、その中で仏教を儒教と並んで政治の基本精神に据えました。
 平安時代には、仏教は密教が中心となりました。密教はインドのヒンドゥー教の影響を強く受けて成立した仏教で、現実肯定を背景に今生きている段階で成仏できるという即身成仏(そくしんんじょうぶつ)の思想を大きく主張します。日本では、この現実肯定の思想は一般の人にも仏となれる性質があるという仏性論と一緒になってさらに強調され、 院政期にはすでに衆生は仏であるという本覚思想(ほんがくしそう)へと発展します。
 その当時の中国の密教には大きく2つの流れがあり、一つは宇宙の真理をつかむための実践的修行方法を中心とした精神原理を説く金剛頂経系の密教、もう一つは物質原理を説く大日経系の密教です。金剛頂経系密教はインド僧である金剛智が不空に伝え、不空によって恵果に伝えられた。大日経系密教は、善無畏の弟子玄超により恵果に伝えられた。つまり、恵果はインド本国に別々に発達してきた2つの密教体系を一つにして継承した人物であり、ゆえに恵果こそが密教における頂点でした。
 日本の密教は大きく分けて、天台宗系の台密(たいみつ)と真言宗系の東密(とうみつ)の2つに分かれます。
 天台宗を開いたのは最澄(さいちょう)です。最澄は天台を学ぶために唐に渡り、その地で天台の他に密教、禅、戒律を学びました。その後、日本に帰り比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建て、天台宗を開きました。 最澄はまた、従来の厳しい制約の多い小乗戒に対して、より制約の少ない世俗向けの大乗戒を重視し、それを授ける戒壇を比叡山に設けるよう朝廷に働きかけました。 この大乗戒による戒壇の設立が認められたのは、最澄の死後まもなくのことです。
 真言宗を開いた空海(くうかい)もまた、最澄と一緒に唐に渡り恵果に密教を学び、戻ってきてから高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を京都に東寺(とうじ)を建てました。 空海の学んだ密教は、日本の仏教界に大きなインパクトを与え貴族や僧侶らが密教を学びに来ます。先に天台宗を開いた最澄もまた、その中の一人でした。 こうして、空海の伝えた密教が、それ以後の平安時代の仏教の中心となっていきました。 また、弘法大師(こうぼうだいし)とは醍醐天皇により空海に贈られた諡号です。

 

(この項は、主に「東京大学仏教青年会」と「仏教の歴史」のサイトを参考にさせていただきました。)