長崎県長崎市高島町の「端島」。
しかし「軍艦島」というほうが知られている。
長崎港から船で30分ほど。
南北約480m、東西約160m 、最頂部の海抜47.7m、およそ6.3haの極めて小さな島の北東面が姿を現す。
元は無人の小さな岩礁であった。
石炭の埋蔵が発見された幕末の時代は佐賀藩による小規模な採炭を行っていた。
やがて採掘技術が発展してくる明治の代の1890年、三菱によって大規模に開発が進められる。
また、護岸技術の進歩は島の周辺を埋め立てることが可能となり、以後は膨張の一途。
自然の島の姿を失い人工の島となった。最盛期の昭和30年代半ばのころ、この小さな島に5000人を超える人々が生活していた。
島内には、住宅、学校、商店、病院、寺社、映画館、銭湯、理髪店などが整備され、島内ですべてのことが完結できる近代都市となり、その人工密度は世界一と言われていた。
しかし、昭和49年の閉山とともに全島民が離島。
それ以後は無人島となった。
左が端島小中学校
右が65号棟・鉱員社宅
社宅の右手前が端島病院学校の窓ガラスの一部は割れずに残っている。
子どもたちの歓声が聞こえてくるような感覚に襲われる。65号棟と病院を別の角度から。
9階建ての65号棟は島内最大の住宅棟。
昭和20年築で「報国寮」と呼ばれていた。
後に屋上に保育園が増築された。病院の端、白い建物がが隔離病棟。
島では汚水処理に難があったため、しばしば赤痢などの伝染病が発生。
罹患者がここに収容された。軍艦島を北側から望む。
まさしく海に浮かぶ要塞。北側、北西側は鉱員住宅が並ぶ。
炭坑の開発とともに、鉱員のための住宅の建設された。
初期は木造であったが、大正5年に日本で最初の高層鉄筋アパートが建造される。
以後は次々と鉄筋コンクリートの高層住宅が建てられた。背の低い建物は独身鉱員寮
手前の67号棟には集会所が、
奥の66号棟には大食堂や大浴場があった。
損壊した護岸の一部は最近になって補修されている。
左側は鉱員社宅の51号棟、48号棟。
51号棟には電気屋や酒屋が、
48号棟にはパチンコ屋や麻雀屋があった。
右側の白い建物は公民館だった39号棟、
少し間を空けて鉱員社宅の31号棟。間が空いているのは建物が崩壊したため。
頂上の建造物は貯水槽。
台風の日には島を越えて潮が降り注ぐこともあった。
そのため住宅棟は防波堤代わりに波の荒い外洋側に建てられ、炭鉱施設を守っている。
居住者のことより操業が優先されているようだ。左端の16号棟は日給社宅、
大正7年の築とのこと。
丘の上の建物は14号棟、
「中央社宅」と呼ばれていた。
崩壊部分。
上段にあったは「泉福寺」。
人の手が入らない木造建築は脆い。
手前の崩壊跡は煉瓦造の50号棟。
「昭和館」と呼ばれる映画館であった。西側遠方より軍艦島を望む。
全周を取り巻くコンクリートの護岸と乱立するアパート群や、操業時にあった炭坑の櫓。
これらによってのシルエットが戦艦「土佐」似ていることから軍艦島と呼ばれるようになったとか。
「土佐」は大正10年当時、建造が進められていた最新鋭艦。
「長門」級戦艦をひとまわり大きくした「加賀」級戦艦の二番艦。確かに右側が舳先に見える。
なお、この最新鋭艦は完成していない。
軍縮条約(ワシントン条約)によって建造途中で廃棄が決まった。
「加賀」は航空母艦に姿を変えて生き残ったものの、「土佐」は射撃訓練の的となって海中に没した。
軍艦の舳先方向。
遠方に高島と長崎の山々が見える。
頂上には廃島になって以後に造られた灯台が。
それ以前は不夜城だったため灯台の必要がなかった。
灯台下の建物は大正5年築の30号棟。
日本最古の鉄筋コンクリート住宅で、末期は下請会社の飯場となっていた。南側からの眺め。
比較的波が穏やかな南側に炭鉱施設があった。
労働者やその家族のことより生産性に配慮している構造は、軍事優先・経済優先の昭和の世相が偲ばれる。
昭和30年代後半から始まったエネルギー変換政策により、国内の石炭産業は斜陽となった。
そしてここも昭和49年1月15日にその使命を終えた。炭鉱施設の残骸の奥に30号棟と25号棟。
25号棟は職員社宅とともに旅館「清風荘」があった。海から突き出ている門型のものは石炭積出桟橋の基部。
築堤のないこの島には大型船を接岸させることができない。
そのため入島するには艀を介することに。
しかし時化の時には艀に乗り移るのが困難で事故も多発した。
また、艀を着ける桟橋は台風によってたびたび流失。
大型船が着岸できる可動式桟橋が完成したのは昭和37年になってからのこと。見晴らしのいい丘の上、瀟洒な建物が3号棟。
ここは高級職員の社宅で、各戸に内風呂があった。
左の空間には崩壊した5号棟があった。
木造一戸建てだった屋敷には鉱長が居住していた。中央の丘の淵に突き出しているのが端島神社。
拝殿はすでに崩壊しているが、本殿と鳥居の一部は残っている。神社の下は炭鉱施設の資材倉庫。
中央のひときわ大きな建物が端島小中学校。
その左の骨組みだけとなったカマボコ状の建造物は学校の体育館。
昭和45年築の体育館、使われたのはたった4年間である。島は船の航跡の向こうに。
廃島となって島を離れるとき、彼らはどんな想いで島を眺めたのだろうか。
一介の旅行者には知る由もない。
(2006年8月20日)