源平の戦い
一の谷合戦で敗れた平氏は、四国の屋島(香川県)に引き下がり、源氏は義経を大将にこれを追い、平氏は、瀬戸内海の海賊(水軍)を味方にしていたので、船を使って源氏を攻め源氏は平氏を海に追い払いました。海上に出た平氏は、九州に行こうとしたが、九州の武士もすでに源氏に味方して、平氏を入れてくれません。それで、平氏は長門の国(山口県)壇の浦で源氏と最後の決戦をすることになり、船上には安徳天皇、天皇の母平徳子(建礼門院)も一緒でした。水軍を持たなかった源氏も、今度は紀伊の国(和歌山県)の熊野水軍や伊予国(愛媛県)の河野水軍を味方にして、平氏と海上で戦いました。海上は、赤と白の旗を掲げた船でいっぱいでした。赤は平氏、白は源氏の旗でした。平氏の大将宗盛と弟の知盛は、潮の流れを利用して、いっきに源氏の水軍を攻め滅そうとうしました。平氏の中でも勇士としてい知られた教盛は、義経と一騎打ちの勝負をしょうとうして、船上で追いかけました。義経は軍の指図を得意としても、一騎打ちではかなわないので、船から船へと渡って逃れました。後に、このさまは義経の八艘飛びという話になりました。そのうち、潮の流れが逆になって、源氏が勢いに乗ってきました。朝からの戦いで、平氏は多く戦死し、残ったものも、もうこれまでと決心し、海に飛び込みました。安徳天皇もその中に混じっていました。母の建礼門院と大将の宗盛は源氏に救われたが宗盛は後で頼朝の命令で殺され、平家はついに滅びてしまいました。文治1年(1185年4)のことでした。
水引幕の御座船の艫の旗は赤色に平家の浮線蝶(ふせんちょう)の家紋が見えます。
蝶紋は、桓武平氏の代表家紋。平清盛の父貞盛が「天慶の乱」(941)年を討伐した功により、朝廷から鎧を拝領した。この鎧に向かい蝶(対蝶)の紋様があったので、これをとって平氏の紋にした、と伝えられる。桓武平氏の末裔と、称するものが競って蝶紋を用いた。このため戦国時代から徳川時代にかけ、武家を中心に300余家が使用するほどになった。もちろん公家の平氏も用いた。
源義経
竜胆紋(りんどうもん)は義経はじめ源氏一党の代表紋
英雄源義経が用いただけに、源氏一族の代表家紋とされ、源を名乗る武家が好んで使った。竜胆紋のプロトタイプは、三花五葉のもので、葉が竹の笹に似ている所から笹竜胆とも呼ばれる。リンドウ科の多年草で、秋深い高原に青紫の清楚な店を咲かせる。
また源氏では、綾小路、五辻、庭田、大原、慈光寺の五家、清和源氏では竹内の他に、徳川時代の大名で池田、石川、本堂の三氏がある。高倉、堀河の両家は、藤原一門である。平安時代にはとりわけ貴族の間で愛好された紋様でもある。
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