稚児ノ滝

伝説讃留王霊子公悪魚退治の伝説

景行天皇の23年(西暦93年)南海土佐沖に大魚が現れ、船を飲み人肉を食い、人心の不安は極度に高まった。景行天皇は息子日本武尊に大魚退治を命じたが、尊は、年齢わずか15歳の御子霊子(西讃では武鼓王 東讃では神櫛王、その他別名もある)を推された。霊子は、年齢わずか15歳の霊子は23年8月に南海に向かわれた。大魚はすでに阿波の国鳴門に移りさらに25年3月には讃岐国槌途(槌戸とも書き、大槌、小槌付近の海)で暴挙の限りを尽くしていた。霊子は4月3日綾歌郡綾川の上に陣し、80余人(88人ともいう)の兵を軍船乗せ、5月5日、いよいよ大魚退治に出発せられた。船はたちまち大魚に呑まれ、兵は皆毒気に倒れたが、霊子は船中に隠し持った道具で、胎中で火を炊き、そのため焼かれ苦しむ大魚を斬殺し、腹中より出て屍上に乗り福江浦(県立坂出高校付近)に上陸し、大魚を埋めて塚を建てその骨で本尊を刻まれたのが現在の(魚御堂薬師如来)であるという。また大魚の腹部が地上に埋め残されていたので、この浦を腹江転じて福江と言われ尾が海まで続いたのでその尾のあたりを江尻という。更に、里人たちが霊子の成功を祝して、お供を献じたところが御供所というとある。毒気にあてられた兵は死人の如くであったが、白峰の方より雲に乗って一童子が水の入った壺を持って兵たちに飲ませると蘇生した。この水を(八十蘇水、蘇場の水、八十八の水、弥蘇場水)といい童子は霊子の問いに(われ横潮大明神なり)と答えたという。童子が飛び帰った山は白峰の児ケ嶽であったと言う。

白峰児ケ嶽については(綾北問尋鈔)に、崇徳上皇の御陵のある所で、相模坊、一童子となり八十八水を持って霊子に献じ、この山に帰ったので児ケ嶽という。

稚児ノ滝(香川県坂出市) 白峰寺81番札所(崇徳天皇御陵の下側)
まとまった雨の後しか見られない県内最大(幻の滝) 滝の落差100M
撮影日2003/06/26 AM10:00頃 撮影者HP管理者

金毘羅参拝図会より
 

 

横潮神社香川県坂出市福江町)
祭神 天照大神
社伝
(一)   景行天皇23年(西暦93年)皇子日本武尊に招を給ひて悪魚を征せし給ふ悪魚死して福江浦に漂ひ来りその霊人民を困ること二年有、仍之推古天皇(594〜628)の御宇宣下ありて人民の安全の為に御祠営め給ふ日本武尊を祭しめ給う、なお又聖武天皇(725〜749)御宇に至り伽藍を建て大魚の負福を訪はしめ給ひ、即ち寺を法勲寺という。その後故有て寺を鵜足郡井上郷(綾歌郡綾歌町の岡田地区と飯山町勲寺地区一帯に比定される)に移せしかと鎮守の御祠往古の如くなりとなむる。

(二)景行天皇23年(西暦93年)皇子日本武尊に招し悪魚を征せしめ給ふ時千有余の壮士悪魚の毒気に触れて各の如くなりける時、横潮大明神神童現れ給い八蘇場水を瓶に入れさせ給ひて、尊に授け給ふ尊これを呑み給ふ御心潔くならせ給いて且つ壮士に呑しむるに忽ち蘇生せしとなむ。
日本武尊神社(本祠は明治39年まで薬師堂にありたるを此処に合祠せられり)

(三)社僧摩尼珠院 児ケ濱にて瓶水を携え、親王に興え悪魚の毒気を除き、安庭水をおしえ給へし神なり。其時白雲に止まりし故に宮を造りて祀る比所の氏神なり。(古今讃岐名所図絵)

(四)横潮大明神と申すは昔萬場にてありし時潮満ち候故なり。

若宮神社 日本尊神社 横潮神社
崇徳天皇社と八十蘇の水(香川県坂出市西庄町)
西庄町天皇八十場にある。長覚2年(1164年)8月26日崇徳院鼓岡崩御されたとき、京都へ奉問の使者を送り、返勅を待った。残暑のこと、尊体をそこなうのを恐れて、八十蘇の水にひたし奉った。9月16日勅使が来リ白峰へ葬り奉れと命ぜられたので、9月16日御柩当地方を発し、17日高屋を経て、18日白峰で荼毘に付し、白峰御陵を築いた。旧県社崇徳天皇社は二条天皇(1143〜65)宣を下して、この社を建立したと伝えている。
金毘羅参拝図会より 現在の八十八