Mitsuko Cudenhove

光子・クーデンホーフ
 ある日、ふと目に留まったC新聞地方版の記事。シュミット村木真寿美氏よるクーデンホーフミツコのスライド講演の開催の記事は私を会場に駆り立てました。
 当日はなんと、大雨(さすがの素質か?)車の運転はあまり得意でもなく、しかも場所も?でした。やっとのことで、道路の標識をたどって行ったところ、行き着いた場所はよく見知っている某市民会館・・・。市外の人に通称のホール名を載せるのはやめてくれ・・・(T_T)。
 シュミット村木氏は1998年に「クーデンホーフ光子の手記」を出版され、光子の住んでいたロンスペルク城の再建運動に携わっている。この講演も再建運動の基金にも充てられ、個別に寄付も受けつけているとのこと。(でも私は講演料のみね・・)
 スライドを見ながら、シュミット村木氏の講演が始まります。本などで既に紹介されている写真もある中で氏が自ら撮った写真などもたくさんあり、興味深いものでした。光子はNHKのドラマ、スペシャル番組、マンガなど数々のメディアで紹介されていますが、氏の「手記」やら語り口からはドラマ仕立ての生涯や、今までの男性作家の厳しい、イジワルな目で書かれた書物では見られなかった生の「明るい性質」を持った光子が感じられます。そしてその光子を私たちに知ってもらいたいとのことでした。 
チラシ。
icon-red.gif (1348 バイト)運命の出会いはフィクション・・?
 凍った道で落馬したハインリッヒに駆け寄って助けた美少女が光子だった・・運命的な出会い。という通俗的な出会いについて氏はハインリッヒはウィーンで乗馬の名手であったことから、(凍った)道を馬で走れるかの判断もできるだろうし、落馬などしようはずもなく、日本の当時の時代背景から言っても、ミツコが駆け寄ったともおもわれないし、またミツコの述懐にも触れられていないことから、氏は「あろうはずもないこと」と言っておられた。しかし、ミツコはハインリッヒの来日からわずか2週間ほどで、ハインリッヒのもとへ行くのである(公使館で同棲を始める)。
 本邦初公開といわれる2人の「結婚許可書」と言われるものをスライドで見る。婚姻届ではなく、宮内省が2人の結婚を認めるとしたものであった。
 当時、外国人に娘をやるというのは名誉なことではなく、ミツコも勘当同然の身でハインリッヒの許へ行っている。
icon-red.gif (1348 バイト)青山通りの由来となった青山家は金持ちだったか・・・?
光子の父青山喜八は寺にたいそう立派な墓がある。本家に勘当され、趣味の骨董屋を営むだけでここまで立派になれるのだろうか?
否である(あろう。何かアルと考えてよい)
光子自身の回想で「父とハインリッヒの間にいろいろあった」と語っている。
光子は紅葉館(和の鹿鳴館的存在)に行儀見習に出されていた。(ドラマなどでは、この紅葉館で外国人を見なれていたため、例の落馬したハインリッヒに駆け寄る事を躊躇しなかった、とされる)しかし、父親の意図は器量の良いこの娘に良縁を求めるためだったとも言われる。良縁といっても、紅葉館の客層は華族・政治家・実業家がほとんどで、良縁と言っても「日陰の身」である。
光子は勘当の身としてハインリッヒに嫁ぎ、父親青山喜八は寺に莫大な永代供養料を払えるほどに私人として心配のない生涯を送った(これはオブラートにくるんだ言い方ですね・・・)
男性作家はここで「金で購われた妻」と指摘するのだが、私には父親ががめついだけで2人はフツーの夫婦だったのでは・・と思われる。
icon-red.gif (1348 バイト)ハインリッヒの昔の恋
ハインリッヒは外交官になる前のウィーンの学生時代、フランスの留学生マリーと恋に落ちたが、父親の反対で結婚できなかった。哀れな彼女は子供を産んだ後、ハインリッヒの幽閉されているウィーン郊外・ドナウ河畔のオッテンスハイム城の下手ピストル自殺をした。このことはハインリッヒのトラウマとなっていた。多分ミツコとの結婚もこの父が生きていたら猛反対したことであろう。
icon-red.gif (1348 バイト)ウィーン社交界の花
これも、無理な話だったとされている。それこそウィーンの宮廷に出入りするような名誉ある家柄というのは何十代も出自が確かであることが必要である。
クーデンホーフ家について、次男リヒャルトと三男ゲロルフの回想なので食い違っているのがおもしろい。(ゲロルフの記述のほうが納得できうる理由が多い)
クーデンホーフ家はローエングリーンの舞台にとなったブラバントを発祥の地とする。光子の居城とするロンスペルクはマリー・カレルギスの持参金によって1868になって購入したに過ぎない。
ワーグナーの没したヴェネツィアのベンドラミン・カレルギス宮殿に名を残すカレルギス家はクレタ島の出身でヴェネツィアに渡り、ロシアのエカテリーナ2世のコンスタンティノープル征服の際にロシアに呼ばれ、その宮廷より莫大な財産を贈られた。マリーの持参金はこの財産によるものである。彼女自身、ショパン・ワーグナー・バルザック・ドラクロアなどの文人・芸術家との交流があった。
クーデンホーフ家はボヘミアにおける古い貴族の家柄ではなく、新興の大地主といった感じである。
icon-red.gif (1348 バイト)クーデンホーフ伯爵と宮廷
クーデンホーフ家と皇室の関わりはあるのか・・・?実際、光子はフランツ・ヨーゼフには謁見したようだ。といっても宮廷ではないが。プラハの橋の落成式?に来たフランツ・ヨーゼフから言葉までかけてもらっているらしい。大叔母にあたるマリエッテ(世界が皇帝を教皇で成り立っていると考えている)がたいそう喜んでくれたと説明を受けました。詳しい日時などはちょっと不明です。
また、知っている人はいるでしょうか・・?マイヤーリンクで有名な皇太子ルドルフの遺児エリザベートの家庭教師にエリザベート・クーデンホーフ伯爵令嬢(サレジオ会の尼僧)がいたということを。家系図的にはどの位置になるか分かりませんが、この女性を「パパ(ハインリッヒ)の従姉妹」とし、ヴィンデッシュ・グレーツ夫人となったエルジィに会っていると「クーデンホーフ光子の手記」に書いている。なんか、ちょっとおおーっと思う発見であった。
icon-red.gif (1348 バイト)ゲランのミツコ
 ゲランのベストセラー香水でミツコというものがあり、
時にこの伯爵夫人ミツコがモデルであると紹介されていることもたびたびあるが、
氏曰くミツコがモデルであるかは否定も肯定できない・・と。
ゲランに聞いてみれば、分かるのだろうが、商売になることなら否定はしないのでは・・と笑いを誘う。
当時、ミツ(コ)という名は日本に多く、当時の小説でミツコという女性が登場するものがあるので、
こちらでは・・と言っておられた。
・・・・ゲランのミツコに関する新聞記事がありました。こちら→icon-red.gif (1348 バイト)
icon-red.gif (1348 バイト)クーデンホーフ家その後・・
ハインリッヒとの間に4男3女に恵まれたミツコだがハインリッヒの死後たいへん苦労して子供たちを育てあげたのだが子供たちに離反されている。上のハンス・リヒャルトは東京生まれということもあり、ミツコは下の子と区別してとくに可愛がっていた。後に長男ハンスはリリーというオーストリア・ハンガリー帝国初の女性パイロットと、リヒャルトは13歳も年上の女優イダ・ローランと結婚する。最後まで世話をしてくれたのは次女のオルガだけであった。ハンスはWW2後、ナチに協力したかどで逮捕されたりしたが、後にレーゲンスブルグのトゥルン・ウント・タクシス侯のもとに身を寄せた・・・と聞いて、なぜか私の腐女子スピリットが疼いた・・なぜだろう・・?(ニヤリ・・・・)
夫の死後、息子達の教育のためウィーンに移住しているが、WW1が始まると戦火を避け、ストッカウに戻ってきた。WW1終結後のベルサイユ条約により、ロンスペルクはチェコスロバキアとなるが、ミツコはオーストリア国籍を取得することにしてウィーンにまた戻ってきた。しかしリヒャルトはそのまま句もなく戦勝国チェコスロバキア国籍を取っている。
氏はこのベルサイユ条約について、アメリカ人の民族意識というものが「純粋な民族なんかいないのに民族国家を作ってしまった」そして、氏の言葉は重く続く。「ヨーロッパに国境線を引くのは、テキサスに線を引っ張るようなものではない」
ミツコはそのままウィーンで死去するが、遺言状で書かれたようにロンスペルクの夫の隣に埋葬されることもなく、ウィーンのクーデンホーフ家の墓で永遠の眠りについている。
オルガはミツコの死後、ロンスペルクに戻ってきたが、またWW2後にこの地は再びチェコ領となり、またもや追放されるのであった・・・・。 

 


シュミット村木氏、主催者岡村さん、C新聞記者さん

slim_line_04_m.gif (1999 バイト)


参考文献
「暗い血の旋舞」 松本清張 NHK出版社
「蝶の埋葬」 吉田 直哉 岩波書店
「クーデンホーフ光子 黒い瞳の伯爵夫人」 南川三治郎 河出書房新社
「クーデンホーフ光子の手記」 シュミット・村木
真寿美編訳 河出書房新社
「レディー・ミツコ」 大和和紀 講談社

slim_line_04_m.gif (1999 バイト)

2002.4.30:文章の誤記訂正

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