美形のロレーヌ(ロートリンゲン)一族
昔、王家の姫君との恋愛沙汰に出てくる貴公子に共通の家名があった。
その名は・・・・・・・ロートリンゲン(ロレーヌ)。
悲恋あり、成就した恋も。
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| マルグリット・ド・ヴァロア | アンリ・ド・ギーズ公 |
「王妃マルゴ」の映画でも知られるマルグリット・ド・ヴァロアは恋人アンリ・ド・ギーズとの仲を引き裂かれ、新教徒のアンリ・ド・ナヴァールに嫁ぐ。その結婚式の夜、「聖バルテルミーの大虐殺」が起きた。
マルグリットはアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの娘でラテン語、イタリア語、スペイン語を解し、芸術、科学にわたる教養をもった女性である。
ギーズ公フランソワとアンヌ・デステの長子、アンリ・ド・ギーズは野心家だった。。父方からシャルルマーニュ、ルイ9世、母方からルイ12世、エステ家、ボルジア家の血をひき、叔父の枢機卿の後ろ盾をもってフランスの王位をも狙っていた(そんなこと可能なのかは不明だが)。
アンリがマルグリットと結婚したら・・・・。旧教徒の旗頭ギーズはヴァロアの姫を娶り、ますます王位に近くなることも・・・。そんな彼と娘の仲を許すなんてミスをカトリーヌ・ド・メディシスは起こさない。フランソワ1世の宮廷生活をかいくぐった抜群のバランス感覚で、カトリーヌはカトリックとプロテスタントの危うい天秤を支え、脆弱な王(子供)を叱咤し、ヴァロア家を保っていた。
母后より疑いの目を向けられているのを察知するとアンリは、カトリーヌ・ド・クレーブ(なんとクレーブ公の妹!)と結婚している。
”淫乱のマルゴ”とあだ名されるほどの愛人や近親相姦で知られるが、宗教戦争の真っ只中で母カトリーヌの手駒にならなければ、幸せなお姫様でいられたのだろうか。恋に破れた腹いせや母后へのつらあてに次々と愛人を抱えたのか、本当の性質だったのかわからないが。彼女は人生で2人の愛人を同時に持った事はないという。
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| マルグリット・ルイーズ・ドルレアン | シャルル・ド・ロレーヌ公 |
まずは、二人をつなぐマルグリットの父、ガストン・ドルレアンについての説明。
アンリ4世とマリー・ド・メディシスの次男。ルイ13世の弟だが、弟であるがゆえに王位につかんと数々の反乱を企てた。妻をなくした後で、追手から逃げ、ロレーヌ公の宮廷に匿われた時、マルグリット・ド・ロレーヌを見初めた。ロレーヌ家はギーズ家の縁戚であるがために、ルイ13世やリシュリューに反対され、2人はベルギーで秘密結婚を挙げなくてはならなかった。
この2人にマルグリット・ルイーズ、エリザベト、フランソワーズ・マドレーヌと3人の娘が生まれた。
反逆者ガストンは領地ブロアにほとんど謹慎の身であった。オルレアン公爵夫人マルグリットの兄ロレーヌ公シャルルWと甥のシャルルが彼女のもとに訪れるのに不都合はない。幼いシャルルとマルグリットは恋心を抱いた。従兄弟のシャルルにマルグリット・ルイーズが恋心を抱くほどに彼は美貌の持ち主だった。ガストン亡き後、オルレアン公爵家はパリ・リュクサンブール宮殿に居を移すこととなる。そして彼の美貌はガストンの先妻の娘・モンパンシエ大姫も魅了した。大姫は母から宮廷一の資産を受け継いだので困窮するロレーヌ家にとっても魅力的な存在だった。乙女の早合点はよくあることで、シャルルが異母姉と結婚すると思ったマルグリットは、修道院にかけこんだ(この時彼女の共をしたのがルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールだった)。すぐ連れ戻されたが自棄になったのか、以前にあったメディチ家のコジモ3世との縁談の話を薦めて欲しいと母親に申し出た。従兄弟ルイは大姫とロレーヌ家の結婚は、ロレーヌの地勢的に大姫の財力からもフランスに脅威だと感じたが、マルグリットの想いなぞは知る由も無かったから「取り消すことはできない」と念押しされるが、その時の意志は固かったようだ。しかし、シャルルへの慕情は絶ち切り難かったのか、ある日、狩に出かけ深夜になっても2人は戻ってこなかった。戻ってきた時のマルグリットの髪は乱れ、衣服ははだけたままだったので、2人の間に起こったことは誰にも想像が出来た。マルグリットは(1661年コジモ3世不在の)代理結婚を挙げた後もシャルルとの逢引は続き、何かと理由をつけフィレンツェ行きを延ばしていたが、泣く泣く、フィレンツェに嫁ぎ子供も3人生んだが、フィレンツェに馴染まず、夫を愛さず、夫婦の間に諍いが絶えなかったという。大姫とシャルルは結婚しなかった。とうとうルイ14世に願い出て子供もおいてフランスに帰国してしまった。
一方のシャルルについて歴史にでてくるのは、オスマン=トルコによる1683年第二次ウィーン包囲を解いた英雄ロートリンゲン公カール5世として登場する。彼は1678年時の皇帝レオポルド1世の妹と結婚している。
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| エレオノーレ大公女 | ロートリンゲン公カール |
ロートリンゲン(ロレーヌ)公領は、フランスとドイツ国境に存在していたため、度々フランスに占領され、カールはウィーンに亡命した両親のもとに生まれた。
ウィーンの宮廷で皇太子レオポルド(後の1世)の知己を得、遊び相手となっている。そこでレオポルドの妹エレオノーレはこのカールに夢中になり、やがて2人の仲は公然の秘密となった。しかしなにしろ、身分が違いすぎた。ハプスブルグの大公女と国無し公爵である。エレオノーレは1670年ポーランド国王ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキと結婚した。夫は精神的にも肉体的にも活力を持たない人物だった。エレオノーレは夫の弱さに気付いたが、自分の品位を保った。1673年夫が死に、ヤン3世ソビエスキがポーランド王に選出されるのを見届けて、オーストリアに嬉々として戻っていった。
レオポルド1世は2人の結婚を許したが、カールはいつもエレオノーレよりも末席に甘んじなければならなかった。皇帝はカールにチロル総督に任じ、2人はインスブルック赴いた。
カールは、1683年トルコのウィーン包囲の際、ポーランド国王ヤン・ソビエスキとともにウィーンを解放し、ウィーン市民からやっと喝采を浴びることとなった。
きゃある〜、あちこちで何やっとる。いかんがねー。