The last heir of Medici,Anna Maria Louisa
メディチ家最後の相続人・アンナ・マリア・ルイーザ
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黄昏のアンナ・マリア


「私亡き後、メディチ家最後の相続人として
私が引き継いだ財産は、新トスカナ大公に譲ります。
ただし、これらの財産はフィレンツェ市民の宝でもあり、
フィレンツェ及びトスカナ大公国に利益をもたらすものでるから、
領地より持ち出してはなりません」

今日私たちがフィレンツェを訪れて、ルネサンスの息吹を伝える街全体の
この目にできる財産の全てはひとえにこの彼女の遺言によるべきものである。

このルネサンスの大いなる財産の
散逸を防いだ賢明なる遺言を残した彼女とはどんな人だったのだろうか・・?

アンナ・マリア・ルイーザ年表

1660 両親の結婚
1663 兄フェルディナント誕生
1667 ピッティ宮で誕生
1670 祖父フェルディナンド2世死去
1671 弟ジャン・ガストーネ誕生
1675 母の帰仏
1691 ノイブルグ侯ヨハン・ヴィルヘルムと結婚
デュセルドルフへ
1697 弟ジャン・ガストーネ結婚
1708 弟ジャン・ガストーネ帰郷
1713 兄フェルデナント公太子の死
1717 夫の死、トスカナへ帰国
1721 母の死
1723 父の死
1737 弟の死
トスカーナはロートリンゲン公の支配へ
1743 ピッティ宮にて死去
 

 

書物に見るアンナ・マリア・ルイーザ
「アンナ・マリアは背が高くて黒髪のどちらかといえば気の利かない娘で
男のような声で話し、大声をあげて笑った」
クリストファー・ヒッバート 「メディチ家その勃興と没落」リブロポート

「アンナ・マリアは背が高くて威厳の備わった頑固な老婦人だった」
(同)

「高慢で信心深く子の無い未亡人アンナ・マリア・ルイーザ・・・」
フィレンツェ・ルネサンス6 花の都の落日 マニエリスムの時代 NHK出版

「アンナ・マリアは誇り高くて頑固で長身の太くてよく通る男性的な声の老婦人・・」
クリストファー・ヒバート「フィレンツェ上」原書房

「アンナ・マリア・は兄弟と共に何不自由なく育ち、やがて美しい娘へと成長する。
『黒髪とバラ色の肌、ふくよかな体つき。その美しさは日ごとに増す・・・』
記録によれば彼女の美貌はメディチ家の女性の中でも際立っていたといい、
それでいて、男まさりに馬を走らせ、狩りに興じる活発な少女でもあった」
地球旅行No14ルネサンスの都フィレンツェ

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家族

フェルディナンド2世 祖父:フェルディナンド2世
幼いころに父親を亡くし、祖母クリスティーヌ・ド・ロレーヌと母マリア・マッダレーナ・ダウストリアが摂政 。しかし2人の仲は悪かったらしい・・・。
母親はあのハプスブルグの特徴(鼻・下顎)をメディチ家にもたらし、以降顕著に表われる。
科学アカデミー(アッカデミーア・デル・チメント)を創設した科学好きで、弟レオポルドとともにガリレオの弟子となるが、既に時代は反宗教改革の教会が勢力を握り、ガリレオの裁判、ウルビーノ公領継承問題で教皇庁から睨まれていた。
根っからの趣味人・文化人で政治よりも科学・芸術へのパトロネージュに力を注いだ。
ヴィットリア・デッラ・ローヴェレ 祖母:ヴィットリア・デラ・ローヴェレ
フェルディナンド2世の従妹。ウルビーノ公子の跡取り娘でメディチ家に多くの美術品の遺産をもたらした。
口やかましく尊大で、宗教に偏執的に凝り固まっておりコジモの性格形成に多大なる影響を与えた。

父:コジモ3世
母ヴィットリア公妃の宗教教育方針のもと、父とは対照的な内気で信心深い人間として育つ。大公として、度重なる飢饉などフィレンツェの社会・生活は疲弊していった。歳を取るにつれ、偏狭的な反異端と綱紀粛正の政策、ユダヤ人差別などフィレンツェは衰退の一途を辿るようになる。家庭的には18歳で結婚するが妻との不和に苦悩されることとなる。

マルグリート・ルイーズ

母:マルグリート・ルイーズ・ドルレアン
かつてカトリーヌ・ド・メディシス、マリー・ド・メディシスをフランス王家へ送り出したメディチ家はすでにかつての輝きは失い、フランス国王の従妹である彼女は、従兄ロレーヌ公シャルルとの結婚を望んでいた。そのマルグリートにとってフィレンツェはなんら魅力を感じないところであり、その思いを隠そうとせず、幾度となく騒動の種をつくった。
彼女はフランス宮廷に浸りきったわがままで虚栄心も強かったが、性質は活発で夫コジモとは対照的であった。
3人の子を為したものの、2人の不仲はルイ14世を巻き込んで、ついにマルグリートはフランスに帰ってしまったが、帰国後も金銭面でコジモを悩ませたようだ。

フエルディナンド 兄:フェルディナンド
美丈夫で快活な性質でメディチ家の人らしくパトロネージュに力を注いだ。
父よりは母の性質を色濃く受け継いでいた。
カストラートに熱を上げ、心配した父はヴィオランテ・ディ・バヴィエーラと結婚させるが、この妻を顧みず、ヴィネツィアのカルナヴァルに出かけ、とある貴族女性に梅毒を移され帰ってきた。子の無いまま死去。
ジャン・ガストーネ

弟:ジャン・ガストーネ
マルグリートの父ガストン・ドルレアンから名を取った。
姉の薦めた結婚相手のファルツ・ノイブルグの宮中伯の未亡人アンナ・マリア・フランチェスカ・ザクセン・ラウエンブルクと結婚しプラハ郊外ライヒシュタットに居を構える。この口やかましく横柄でなんの魅力の無い妻はフィレンツェに行けば、多くのメディチの女性のように殺されると信じていた。家臣ジュリアーノ・ダーミを寵愛し、1708にフィレンツェに帰国する。退廃的で自堕落な生活に浸っていった。父亡き後、大公となった彼は父の政策を斥けたが、生活は改まらなかった。望まないまま彼亡き後のトスカーナは大国の思惑にさらされるだけであった。

ヨハン・ヴィルヘルム夫妻

夫:ヨハン・ヴィルヘルム・フォン・ノイブルグ(プファルツ選帝侯)
最初の妻マリア・アンナ(フェルディナンド3世娘)を亡くし、後添いとしてアンナ・マリア・ルイーザをデュッセルドルフに迎えた。彼女は流産を繰り返し、子供のうめない体になってしまった・・。夫から梅毒を移されたとも言われるが、その後、美術品の収集をすることで孤独をうめたとも言われる。
夫の死後、アンナ・マリアはフィレンツェに戻ってきた。

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アンナ・マリア・ルイーザはトスカナ大公コジモ3世とフランス国王ルイ14世の従妹マルグリット・ルイーズ・ドルレアンの長女としてフィレンツェ・ピッティ宮殿で生まれる。両親の仲が悪く、フランス王族の権威をかさにきる母親よりも、どちらかというと父親に愛されて育ったと思われる。そのメディチ家の娘としての誇りこそがアンナ・マリア・ルイーザの生きる宿命ではなかろうか。
父コジモの影響で信心深い宗教教育を受けた。豪華なピッティ宮殿、美しいポッジョ・カイアーノ、フィレンツェの明るい光の中無邪気な少女時代を送った。
しかし、時は斜陽を迎えたメディチ家、奔放な母のために、彼女の婚期は遅れ、当時としては晩婚と言われる24歳で、しかもやもめというかつてのメディチ家の栄華からは程遠い相手であった。しかもそこで、女として流産という苦しみ、子供が得られない淋しさを夫とともに絵画収集することで慰めていた。

夫に先立たれ、寄る辺の無い彼女は生まれ故郷に戻り、ピッティ宮殿で暮らしはじめた。相次ぐ肉親の死、大国に翻弄されるトスカーナ継承問題、アンナ・マリア・ルイーザにとってなんと煩わしいことではなかったか・・・。
歳を取るにつれ、ますます彼女は信心深くなり、ミサに出かけるか、慈善事業の寄付かサン・ロレンツォ教会のメディチの工事の進捗状況を確認するしか外出すらしなかった。弟ジャン・ガストーネの死去後、トスカーナはロートリンゲン公フランツ・シュテファンが継承することが決まっていた。

メディチの紋章パッレが取り外され、ロートリンゲンの紋章に交換されるのをアンナ・マリアはピッティ宮殿から見つめていたことだろう。歴代メディチ家に関わる祭日も廃止が決まった。

そうした中で誇り高いメディチの娘は、ロートリンゲン公による支配から、かつてのメディチの栄光を永遠に残さんとしたのではなかろうか・・。

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参考文献
「メディチ家その勃興と没落」クリストファー・ヒッバート リブロポート
「フィレンツェ・ルネサンス6 花の都の落日 マニエリスムの時代」 NHK出版
「フィレンツェ上」 クリストファー・ヒバート 原書房
「地球旅行No14ルネサンスの都フィレンツェ」 講談社
「メディチ家」 森田義之 講談社現代新書
「フィレンツェ貴族からの招待状」 山下史路 文藝春秋
「世界の都市の物語13 フィレンツェ」 若桑みどり 文藝春秋

参考サイト
Your Way to Florence
MUSEUMS ON LINE

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