「関守石」の由来


 関守石という名称の来歴については、以下のような逸話が由来のようです。

 安土桃山時代(1568−1598年)茶道を大成した千利休(1522−1591年)が、小座敷に玄関を
つけ、大阪堺の南宗寺の笑嶺和尚を招いて茶をふるまった際、その時、玄関口に関守といっ
て壷または香炉を置いたことが伝えられています。

 禅の修行において、修行者が悟りを開いたことを師から許可されることを「一関透過の義」と
言いますが、それを踏まえ、利休が「壷が関をふさいで通れないので、どうか通れる方法を教
えてください」と和尚に問いかけたものと思われます。

 この記事は『南方録』(茶道書。七巻。南坊宗啓著。1593年頃の成立とされる。師千利休から
伝授された利休茶道の秘伝書といわれます。立花実山による増補本九巻があり、実山の著述
とする説もあります。)のなかに出てきます。

 今では、茶庭の飛石の上に小さな石に縄からげしたものを置きますが、これがこの石の名と
なった由来のようです。

 利休の頃には、単に飛石の上は小石二つ載せておいたこともあるそうです。

 すなわち、関守石のアイディアや思想は、茶道を大成させた千利休の頃に生まれたものと言
えそうです。

 
参考)『南方録』 南坊宗啓著 1593年頃成立 

玄関口ニ、関守トテ壷ヲヲクコト、小座鋪ニ玄関付ケテノ後、利休、例ノ和尚達ヘ御茶
被申シ時、壷又ハ香炉ナド関ニスヘ、一問セラレタル趣向也。一関透過ノ義ナリ。戸
ノ内ニ問語ヲ書付テ出サルル、タトエバ一壷関に当ツテアヘ敢テコロガ轉セ、和尚大
慈透脱ヲ示シタマヘナドアリシ也。客著座シテ主出ラレタル時答句アリ。
(書入)今ハ何ノ子細モシラヌ人ニ関守ヲスヘ、当惑サセ、笑語ノタヨリトスル、沙汰ノ
カギリナリ。

『南方録』とは、大阪堺の南宗寺塔頭であった集雲庵の南坊宗啓首座が、その師、千
利休に親しく接して、見たり聞いたりしたことを詳細に書き留め、それを七巻に編成し
た…ものといわれ、日本茶道成立の歴史書ともいわれます。




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