カオスばぶばぶ〜CHAOS B4〜

2013年7月18日 思いの重視と行為の軽視


・盛られた毒
私がその毒を明確に盛られたのは小学校一年生の頃だった。
初めてその授業を受けた時にその教科書を忘れたのは今でもよく覚えている。
思えば、その時からその毒とは相性が悪かった。いや、動物がその嗅覚でそれを喰らうべきで無いと判断するのに似ている。
その毒の事を人は道徳と呼ぶ。
道徳の授業は私にとってただの休み時間だった。
教師は物語と言う名の料理に道徳の毒を盛る。そしてそれを、時に真摯に時に諧謔に我々に食べるように勧めた。
色々な形の料理。気味の悪い大同小異。腐臭。
それを神の恵みか何かのように、あるいは無関心にそれを「連中」は食べていた。
私は振舞われる道徳を見て、嗅いで、触れて、その結果、それを喰らうべきではないと判断する。
まずそうな食べ物は食べたくない。極めてまっとうな人間の思考である。
私にとっての道徳は断食だった。そして断食は決して破られなかったのだ。
退屈な断食をしている中。私は連中を見る。
道徳を有難く、あるいは無関心に喰らう連中。そしてそういう中毒者こそが私を苦しめる存在になる事を、当時の私は知りもしなかったのだ。

・毒の加害者と被害者
道徳は我々に様々な毒を、極めて善良な姿でばら撒いている。
人を思いやる事。全体に奉仕する事。色恋は野蛮であるという事。いばらない事。金銭的豊かさよりも博愛を重んじる事。
人の考えを尊重する事。人の考えはそれぞれで、批判は悪であるという事。
他にも様々な毒があるが、どうだろうか?これらを見て悪寒が走ったのでは無いだろうか?
あるいは「これは毒にあらず」と怒りに体を震わせる者もいるだろうか?
だとするなら一度この文章に目を通していただきたい。これから書くのは、数多ある道徳の毒の内の一つ。その被害者と加害者の話だからだ。

・何故オヤジギャグは繰り返されるのか?
仕事とは猛毒で、しかも分かっていてもそれを体の内にやらねばならない。
付き合いたくもない人間。やりたくも無い行為。疲弊。決められた時間に起きる事の辛さ。
上司の話と言えばギャンブルか健康の話か苦労自慢ばかり。
奴隷が自身の鎖を誇るように苦労を自慢する姿は大変醜いので、今後一切しないで貰いたい。
上司という奴は非常にやっかいな人間で、彼等の話を批判など出来はしないのだ。
上司もその事を非常によく自覚していている。
そんな頭やらなんやら色々おかしい上司がよく口にするのがオヤジギャグである。
例えだったとしても決して書きたくも無いようなオヤジギャグ。そんな物を彼等は平気な顔をして何千と言うのだ。
オヤジギャグだけではない。流行りの言葉やギャグを考えも無しに何度も言う。
上司がそれを言う度に我々召使いは笑ったり、機嫌のいい振りを強要されるのだ。
しかも時には何一つ恥を有さず「ここ、笑う所」と大変ご丁寧に、まるで教科書に赤線を引っ張るが如く親切丁寧厚顔無恥に指摘して下さる。
こういう人間は大根おろしで削られればいいと思うが、今はその愚痴を言うのはやめておこう。
私が疑問に思ったのは何故頭の悪い上司は平気な顔をして(申し訳無さそうな顔で言えばまだ同情してやれるのだが)オヤジギャグを連発するのかという事である。
私の考えを言うのならば、それは思いを重視し過ぎた結果なのである。
私達は「人を思いやる気持ちが大切」だと散々言われてきた。そしてこうも言われたはずである。
「君の事を思ってやった事だから有難く思いなさい」
これは日本人ならば誰しもが一度は似たような事を言われたと思う。そして初めてその言葉を聞いた時、道徳中毒者は「人の事を思ってやった行為なら許される」と理解したし、それを言った相手もそうであると思って発言している。
思いの重視。思いの信仰。思いの利用。
道徳中毒者は中毒になる内にこの毒の利便性に気付く。
そしてこの「思いの重視」という毒を無意識に、あるいは意図的に利用するのだ。
オヤジギャグを例に考えてみよう。
オヤジギャグを発する者は皆を笑わせようと思っていると仮定する。オヤジギャグを言う時に彼は「皆を笑わせようとして言ったオヤジギャグだから笑われるのは当然」と思う。
ここで読者は「何故、オヤジギャグは笑われて当然と思うのか?」と疑問に思うだろう。
そう。そう思うのは極めて正常な思考だからだ。
だがしかし、道徳に毒されて思いを重視する者の世界は常に、自身の内なる思いを見つめている。
自分の思いを察する事が出来ない人間は思いやりのない人間で非常識だと思うし、笑わせようと思って言った事だから笑って貰って当然と思う。
周りの人間も「ああ、こいつ面白いって思って言ってるんだろうな」と思い笑うのだ。
それが例え詰まらないオヤジギャグだったとしても、相手の思いを察して笑うのが道徳的だと思うからだ。
不幸の分配による平等。それこそが最も魅力的に見える平等だ。
思いに対して過保護な中毒者や不幸の分配による平等を好む者、それらがオヤジギャグを繰り返す事を容易にする世界を維持しているのである。
本来、人を笑わせるというのはとても難しい。色々話を考えなければならないし、話し方だったり表現の仕方も工夫しなければならない。
そういう難しい事を出来る人間を素晴らしいと褒めたり絶賛したり好きになったりするのだ。
詰まらない人間がいる一方で面白い人間も確かにいる。我々が大切にするのはそんな才能や努力によって開花した人間ではないだろうか?
しかし道徳はそういう抜きん出た人間を好まない。
人は平等で誰もが素晴らしいと思っている。
本来は人を笑わすという難しい行為も、思いの重視という極めて下らない下劣な思考、不幸の分配によって実現しているのだ!
才能ある人間、努力した人間。そういう素晴らしい者だけが手に入れられる笑わせるという喜び。
そんな喜びをゴミの様な人間が、才能のない人間が、努力もしない人間が無自覚で、あるいは打算で手に入れる。これが才能ある人間や努力した人間の侮辱で無くて何だろうか!
平等な世界とは聞こえがいいが、それは貴族的な素晴らしい人間の抹殺に他ならないのである。
思いを重視する。
そのような思考は、本来素晴らしい人間が行う秀逸な行為によって得られる何かを、しゃしゃり出た厚顔無恥な素人が拙い行為を「思いがあるからそれでよい」という思いの重視と行為の軽視によって手に入れるという悲劇を誕生させる事になる。

・思いは平等なのか?
道徳中毒者は平等を重んじる。
平等こそが彼等の矜持で、平凡である事が彼等の誇りだ。
故に彼等の中で重視されている思いすらも平等な物に感じている。
もう一度例に出すが、「君の事を思ってやった事だから有難く思いなさい」という言葉を何故道徳中毒者は真に受けるのだろうか?
疑問に感じないだろうか?「本当に思っているのだろうか?」と。
そう。道徳中毒者はこれを疑問に感じないのだ。「その人は自分の事を思っている。だからその思いは大切にしなければいけないし有難いと思わなければならない」と思っている。
しかしよく考えていただきたい。思いとは必ずしも同じ度合い、平等なのだろうか?
当然違う。
全く知らない他人と恋人が「君の事を思っている」というのは明らかに同じではないだろう。
それは道徳中毒者も理解出来るのだ。だが、「君の事を思ってやった」という発言は常に同じ度合いの思いがこもっていると解釈する。
「君の事を思ってやった」という発言を何の疑問にも感じず、常に自分が都合のいい意味に捉えるのは、道徳中毒者特有の病である。
ここで一つ薬を処方しよう。
人間は他人なんてどうでもいいと考えているし、「君の事を思ってやった」という言葉はただ、それが都合のいい発言だから言っているに過ぎないのだ。
そんなの嘘だ!と思っている道徳中毒者は自分が「君の事を思ってやった」という言葉をどういう場面で使ったか思い出していただきたい。
そう。道徳中毒者は毒に詳しいので、同属をどうすればあしらえるかも熟知しているのだ。
これは先程と同じ様な内容になってしまうが、「君の事を思ってやった」という事を言う人の中には当然本当に思っている人間もいる。
だが、それは仲のいい人間を思う時であり、そういう関係でなければまず思われない。
我々は誰かの特別になりたいと思った時、相手と話をしたり気を引いたり、その人の好みを調べて喜ばせたりと色々努力したりする。特別な関係とはそういう努力の上で作られるものでは無かったか?
友人とは恋人とはそうやって作られた関係では無かったか?
そういう努力もなしに「この人は私を思ってくれている」とあらゆる人に求めるのは、あらゆる仲に対する侮辱では無かろうか?
平等とは全てを当然の様に手に入れられるという事ではない。ただひたすらに平凡で同じなのである。

・行為の重視が産む刺激的世界
思いが重視される一方、行為は軽視され続けた。
オヤジギャグ、手作り料理、求めてもいないプレゼント。
それらが拙い時、思いの重視は厚かましくしゃしゃり出る。
それをする方はさぞ満足しているだろう。何故なら思いを重視する者が見ているのは常に自分の思いだからだ。
私はそんな思いを重視する世界を大変醜く思う。
例えばオヤジギャグを思いの重視で笑う世界は、たとえその場で笑ってもらえたとしても決して他人に興味を持ってもらえない。
何故なら彼等はオヤジギャグに笑ったのではなく、思いを重視しただけだからだ。
もし「ああこいつ面白い事を言ってるつもりなんだろうな」と思っていても笑わない世界、行為を重視した世界に人が晒されれば、少しでもギャグを研鑽しようと努力するだろう。
その結果面白くなった場合、初めて人間に興味を持ってもらえるのだ。
今の思いを重視した世界ではそういう研鑽の場を奪ってしまって、その結果他人に興味を持ってもらえないのである。
思いが重視され、行為が軽視された世界とはつまり、怠惰の世界に他ならない。
それに比べ、見よ。行為が重視された世界は刺激的だ。
アニメ、漫画、ゲーム、映画、ネット、書物。
これらは行為の重視によって研鑽され続け、私達を興奮させ、楽しませてくれる物だ!
これらのメディアに平等はない。だが、貴族的な素晴らしいものは確かに存在する。
興味を持って貰う為に研鑽する。更なる高みに向かう。
ああ!行為の重視!我々はただ素晴らしい人や物を賞賛しようではないか!

おわり(*´ω`*)

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