カオスばぶばぶ〜CHAOS B4〜

2013年7月28日 「非学者論議に負けず」とは何か?〜拙い哲学は刃を交えない〜


非学者論議に負けずという言葉をご存知だろうか?

※非学者論議に負けず
無学な者は、平気で暴論を振りまわす事で議論に負けない。
大辞泉より引用

短絡的に言えば馬鹿は論議に負けないという事である。
悲観的に言えば馬鹿を論破する事は出来ないという事である。
現実的に言えば馬鹿とは論議すべきではないという事である。
この金言はそういった大切な事を我々に教えてくれる。
今回はこの金言を掘り下げていきたいと思う。

・何故「負けず」なのか?
私は道徳という物を毒と考える。心を蝕み、人の知性さえも蝕む猛毒で、しかもその毒性を大衆は理解していない。
何を突然言い出すかと思うかも知れないが、まさにこの道徳こそが論議に「負けない」方法を大衆に植え付けさせた元凶でもある。
何故議論に「負けない」事が悪いように書かれているかと疑問に思うかも知れない。
例えばこう言ったなら分かり易いだろうか?
私は将棋で負けた事は一度もない。こう言った時、賢明な読者諸君はすぐに「どうせ将棋なんて一回も指した事がないのだろう」と思うだろう。
そう。非学者論議に「負けず」とは無学な者の「勝利」を意味しているのではない。ただひたすらに逃げ回っている事を意味する。そして、その逃げ回る行為こそが道徳的だと思われているのだ。
そして、恐ろしい事に道徳は論議に負けない方法を大衆に植え付けるのと同時に地盤も形成していたのだ!
ああ!恐ろしい道徳!我々を愚昧、愚鈍、愚暗に陥れる事ばかりを企む猛毒よ!
私はせめてお前の企みを賢明なる少数の読者に伝え、少しでもお前の妨害を企もう!

・大衆が植え付けられた論議に負けない方法。その1「人それぞれ考えがあっていい」
道徳が大衆に広めた尊敬とは、貨幣的、流動的尊敬を意味している。
何だって安易に尊敬するし、安易に尊敬しているのだから安易に尊敬されて当然だと思っている。
面接で「尊敬している人物は?」と尋ねるのは「お前は安易な尊敬を有しているのか?」という事を本当は尋ねている。
この尊敬ビッチ達の親ビッチである道徳は、形骸化された尊敬を少しでも維持する為に、互いを傷つける論議を避ける方法の植え付けと論議は悪という地盤を形成する事に成功した。
道徳は次の事を教える。「人それぞれ考えがあっていい」「互いの考えを尊敬する」「考えの押し付けは悪」「屁理屈は悪」等である。
「人それぞれ考えがあっていい」というのは事実ではある。ただし、この言葉は余りにも悪用され、蹂躙されてしまって今やすっかり汚れてしまっている。
と言うのは、「人それぞれ考えがあっていい」という言葉が正しく成立するのは、その個人の趣味、嗜好、好みによって決めればいい考えや、どっちでもいいという考えの場合等である。
例えば「醤油がいいかソースがいいか」とか「おっぱいは大きい方がいいか小さい方がいいか」という論議がそれに当てはまる。
愚かな人間はどっちでもいい考えをごちゃごちゃ論議したり、どっちでも良くない考えを「人それぞれ考えがあっていい」と線引きを行う。
「人それぞれ考えがあっていい」という言葉は明確な正解が存在する場合は当然当てはまらない。
例えば、「この町の昨日の天気は何だったか?」という場合、その正解は存在していて、昨日の天気を調べれば明確な正解が分かるだろう。
この場合、当然「人それぞれ考えがあっていい」等という言葉が飛んで来る余地はない。
「昨日の天気は調べたら晴れだった」「いや何となく言うが、昨日の天気は雨だった。人それぞれ考えがあっていいのでどっちも正解(ドヤァ…)」
という馬鹿馬鹿しい会話は当然行われない。
行われないはずである。しかし、これに似た会話は大衆の間で常に飛び交っているのだ!
何故こんな馬鹿馬鹿、更に付け加えて馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿しい会話が当然の様に成立しているかと言えば、大衆はその場のノリでとても適当な事を言うし、しかも、自分の発言の正しさなんてどうでもよく、それよりもずっと自分の考えが肯定される事を望むし、否定されない事を望むからだ。
「自分の考えを否定して欲しくない。自分の考えを肯定して欲しい」そういう望みは悪くない。ただし、それは論理的思考が伴っている場合である。当然、そんな物を大衆は持ち合わせていない。
道徳は自身が克服される事を恐れ、人を愚昧、愚鈍、愚暗にして、それを維持する為に論議をするのではなく、「人それぞれ考えがあっていい」や「互いの考えを尊敬する」という言葉を用いるように植え付けを行った。
その言葉によって戦うのではなく、線引きするのである。大衆は論議などしない。ただ線引きを行い「これ以上近寄るな」と言って戦う事をしない。
だから非学者論議に「負けず」なのである。戦わないのだから負けないのは当然である。
そうだ。最もやっかいなのは物事を論理的に考えアウトプットするという事、それを研鑽する機会やその環境を、道徳という地盤は悉く圧死させて来たという事である。
「人それぞれ考えがあっていい」「互いの考えを尊敬する」
やっかいな毒を振りまいた道徳。これだけでは弱いと考えた道徳はついに我々の鋭き刃である論理的思考、知性を「屁理屈は悪」という地盤で殺しにかかったのだ!

・大衆が植え付けられた論議に負けない方法。その2「屁理屈は悪」
大抵の人間は「人それぞれ考えがあっていい」や「互いの考えを尊敬する」という線引きによって議論をそもそも成立させないようにし、その相手もそれに応じる。
だが、知性ある者。鋭き刃と屈強な肉体を持つ百戦錬磨の戦士はその線を糸程にも感じず踏み込んでいく。
そういった戦士に襲い掛かる常套の手法。それが「屁理屈は悪」「考えの押し付けは悪」という言葉である。
この余りにありふれたと更に強調したくなるほどの常套の手法は大衆論議の場合最大の武器となる物だ。
そして道徳はこの武器を最強とする為の地盤形成を大衆が幼き時から行う。まさにこの「屁理屈は悪」「考えの押し付けは悪」というのは対大衆用に作られた厄介な武器なのだ!
一例をお話しよう。それは某テレビの占い師が芸人に○○する男は浮気し易いと言い、それに対して某芸人は当然納得いかず反論するのだが、最終的に「屁理屈を言う男は浮気をし易い」と某芸人が言われ、ついに何も言えなくなったのだ。
これは非常に悪質な大衆をあしらうやり方で、なるほど、占い師とは大衆がどうすれば黙るか心得ている詐欺師なのだと思った。
当然「屁理屈を言う男は浮気し易い」というのは占い師が某芸人を黙らせる為だけに言った欺瞞である事は間違いない。
ここで注目すべきなのは何故占い結果に納得がいかなかった某芸人は占い師の別の占い(欺瞞と言う名の。ではあるが)「屁理屈をいう男は浮気し易い」という言葉に何も言えなくなったのだろうか。
それは占い結果(欺瞞と言う名の。ではあるが)は兎も角として屁理屈を言う事は悪い事だと思ったからではないか?
我々は幼少の頃から屁理屈を悪だとしつこい位に言われてきた。親に教師に大人に言われてきた。どんなに論理的な事を言っても「屁理屈を言うな!」という言葉しか返って来ない。
それでも怯まずに反論すれば、次に帰って来るのは言葉ではなく暴力だ。道徳をやぶる者に対する制裁として、道徳は暴力を躾ににシフトする。暴力に躾をメッキする。
この時の暴力は躾と呼ばれていて、大変有難く受け取るのが道徳的だと言われているが、当然むかついたので殴っているのだ。これは間違い無いと断言しておこう!
論議に対して暴力が行われるのはよくある話だ。これは大衆が議論に負けない方法の最後の手段である。
「屁理屈が悪」が通じない相手には暴力という制裁が下される。大衆はそれ程、屁理屈の事を悪だと思っている。博愛を謳う道徳者の議論の最終手段が暴力というのは滑稽な話である。

・「考えの押し付けは悪」という愚考
「屁理屈は悪」という言葉と同じ位言われるのが「考えの押し付けは悪」である。
だが、「考えを押し付けるな」というのも所詮、押し付けなのである。
つまり、あらゆる思考とは押し付けである。そしてその押し付けの内、優秀な考えが生き残るのだ。
「考えを押し付けるな」というのは「拙い考えを押し付けるな」というのが本来である。
優秀な考えというのも押し付けから始まった。そしてその優秀な考えというのは系譜と呼ばれ、我々の中で生き続ける。
知性とは、歴史から学んだり、学んで考える事で育まれていく。
考えを押し付けられる事を嫌う非学者は何を恐れているのかと言えば、自分の拙い言葉や思考しか持ち合わせていないので、押し付けられた場合は容赦なくそれは一刀両断されるからである。
故に非学者である彼等は、道徳に植えつけられたノウハウによって戦いを避ける事に特化し、その結果が論議に負けずなのである。
非学者である彼等は知らない。優秀な考えの押し付けの素晴らしさを。その鋭き刃で思考がばっさりと切られ、拙い思考は血と共に流れ、痛みと共に新たな血と肉が優秀な思考と共に形成される喜びを。
大衆は何かしらの哲学を持つと言う。しかし大衆の哲学とは逃げ回る臆病者で、決して刃を交える事はしない。
使われなくなった刃は手入れもされず、やがてボロボロになり、身も哲学も年老いた頃にはついに戦う事も出来なくなる。
我々の哲学という刃は手入れがされているだろうか?刃を交えただろうか?
戦士の成長には鍛錬と戦いと血が不可欠なのは言うまでもないだろう。

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