戦国最強の武将と名高い上杉謙信
2014年08月31日 15時52分
上杉謙信は戦国最強と言われ、「越後の虎」としてその名を轟かせていました。彼は当初、家督争いにはあまり興味がなかったものの病弱な兄などの関係で周囲から彼を大将にとの声が高まった為、越後を治める大名となり、その後その周辺一帯を統治する関東管領の職にもつきますが、当時は乱世ということもあり、その職も名ばかりだったともいわれています。
上杉謙信ほど義に厚かった戦国武将はいないとも言われ、「敵に塩を送る」といった言葉をつくったのは彼だとも言われています。海のない甲斐の大名武田信玄は当時、海を有する駿河の今川と相模の北条と敵対関係にあったため経済封鎖をされてしまって塩がなく、困窮していました。すると、長年敵対関係にあった上杉謙信は武田信玄に塩を送ったとされていますが、実はこれは美談というわけではなくて、商売の一環としてただ行われたことのようでもあるらしいのです。
上杉謙信はあまり内政が上手ではないといったイメージが先攻しがちですが、実はこうしたところからも商売上手だったとも言われています。 私が彼のことを好きになったエピソードが一つあります。彼はその関東管領という職もあってか、とにかく領土を拡大するために他国へ侵攻する武田信玄や北条氏康といった戦国大名を赦すことができず、戦につぐ戦で大勢の兵士を引き連れては、越後から相模まで行ったり、信濃を救うため武田と戦ったりしていました。 しかし、彼らはいくら戦ったところであくまでも侵略者を成敗するという名目があるせいか一向に領地は拡大しないし、自分たちの手柄といったものが何もない状態でした。 そんな状況に家臣や兵たちは次第に疲弊していってしまいます。
すると熱心な仏教徒でもあった彼はお坊さんにどうしたらいいのか相談します。その時お坊さんはある有名な中国のお坊さん「達磨大師」の話を彼に聞かせます。 ある中国の皇帝が私はお寺に沢山寄付した、その功績は?と大師に聞くと、大師は「知らん」とだけ答えたそうです。
要するにお坊さんは謙信に、義だけではなく自分のしたいようにしなさいということをその時彼に説いたのだとされ、その後謙信は徐々に領土を拡大していき、越後を大国へとしていったのだとされています。
上杉謙信ほど義に厚かった戦国武将はいないとも言われ、「敵に塩を送る」といった言葉をつくったのは彼だとも言われています。海のない甲斐の大名武田信玄は当時、海を有する駿河の今川と相模の北条と敵対関係にあったため経済封鎖をされてしまって塩がなく、困窮していました。すると、長年敵対関係にあった上杉謙信は武田信玄に塩を送ったとされていますが、実はこれは美談というわけではなくて、商売の一環としてただ行われたことのようでもあるらしいのです。
上杉謙信はあまり内政が上手ではないといったイメージが先攻しがちですが、実はこうしたところからも商売上手だったとも言われています。 私が彼のことを好きになったエピソードが一つあります。彼はその関東管領という職もあってか、とにかく領土を拡大するために他国へ侵攻する武田信玄や北条氏康といった戦国大名を赦すことができず、戦につぐ戦で大勢の兵士を引き連れては、越後から相模まで行ったり、信濃を救うため武田と戦ったりしていました。 しかし、彼らはいくら戦ったところであくまでも侵略者を成敗するという名目があるせいか一向に領地は拡大しないし、自分たちの手柄といったものが何もない状態でした。 そんな状況に家臣や兵たちは次第に疲弊していってしまいます。
すると熱心な仏教徒でもあった彼はお坊さんにどうしたらいいのか相談します。その時お坊さんはある有名な中国のお坊さん「達磨大師」の話を彼に聞かせます。 ある中国の皇帝が私はお寺に沢山寄付した、その功績は?と大師に聞くと、大師は「知らん」とだけ答えたそうです。
要するにお坊さんは謙信に、義だけではなく自分のしたいようにしなさいということをその時彼に説いたのだとされ、その後謙信は徐々に領土を拡大していき、越後を大国へとしていったのだとされています。