戦国武将列伝

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悲運の武将かつ戦国時代の参謀で美意識に優れた細川忠興

2014年09月18日 15時52分

好きな戦国武将は肥後細川藩初代当主、細川忠興です。 室町将軍家、足利家の血を引く細川家に生まれ、明智光秀や織田信長と言った武将に近い武将です。 細川忠興の父、細川藤孝は、室町幕府15代将軍足利義昭を擁立して義昭の参謀みたいな役割を果たしていたのですが、義昭が信長と対立すると信長の側に回って義昭を失脚させます。

やがて織田信長明智光秀の臣下になった忠興は、光秀の娘の玉(細川ガラシャ)を娶るのですが、光秀が本能寺の変で信長を殺すと、玉を幽閉し光秀に対立する羽柴秀吉の側につき、光秀滅亡の原因になります。

羽柴秀吉に就き、朝鮮出兵などにも参戦しますが、秀吉の死後の関ヶ原の合戦では東軍の徳川家康の方に付きます。 この時、大阪城にいた妻の玉と嫡男の忠隆は西軍の襲撃を受けたのですが、人質になることを拒んで共に自害し、このことが西軍の士気を落とし東軍の徳川方の圧勝のきっかけになったとも言われています。 また忠興自身も関ヶ原の戦いで軍功を上げ、家康から豊前33万石を安堵されます。

そして小倉城を改修し、小倉という城下町を作ります。 その後で、大阪冬の陣夏の陣で豊臣家が滅び、肥後55万石の加藤家が廃嫡されると、息子の忠利が加藤家の後を引き継いで肥後藩の当主になります。 細川忠興の魅力としては、何度となく妻玉(ガラシャ)を犠牲にして運命に差し出しながらも、織田信長羽柴秀吉徳川家康といった支配者から一目置かれ、必ず状況判断というか、大局を誤らない高度な政治的判断をやり続けたことです。

また文武両道に長け、茶の湯や和歌などと言った粋な遊びや文学に通暁していた、美意識の高い武将であったこと魅力の一つです。 結局、終の住処に行き着いた熊本という街が、美意識や格調が高く品位がある都市になったのは、細川忠興が京都で幼少の頃に育んだ美意識を持ち込んだからです。

武の強さと文の美しさ、それから悲運ですら美しいとする日本の美意識を体現した戦国武将だと言えます。