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SEZAKI institute
「瀬崎」姓の由来は? 巷で売られている「あなたの先祖が分かる」式の本のほとんどには、「瀬崎」についての記述はありません。では、「瀬 崎」姓の先祖は如何に? ○我が家の伝説 まずは、各家に伝わる言い伝えみたいなものを見てみては如何でしょう? 因みに、わが大分の「瀬崎」は、戸籍上は「Pア」と表記するのですが、「関東から流れてきた藤原氏系の落ち武者」 と言われております。家紋は「丸に橘」で、藤原氏なのに家紋は橘というよく分からない状況にあります。 最近、大分に住む看護婦をしている従兄弟の子供から面白い情報が入りました。ある日彼女は、ある入院患者のお じいさんから、突然「あんた、何代目な?」と聞かれたそうです。彼女は答えました。「何代目ち、何のことな?」。おじい さんは彼女の胸の名札を指差しながら言ったそうです。「あんた、瀬崎っちゅうのは、大友氏の初代能直が豊後の守護 に下るとき、一緒に着いて来た家老の筆頭の家柄やで」「うちは昔から百姓やけん、何代目とか関係ないわぁ」(以上大 分弁で、読みづらかったかもしれません)。 要するに、おじいさんの言うには、瀬崎は大友氏の筆頭家老だと言う訳です。関東から来たという我が家の伝説とも 一致します。しかし、そもそも、豊後大友氏の家臣に瀬崎なる人物がいたなんて聞いたことがありません。郷土史のど こをみても、そこに瀬崎なる名前を見出すことができないのです。老患者は、一体何を根拠にあのようなことを言ったの か、一介の看護婦をからかったのか、ちょっと持ち上げてみたのか、謎だけが残りました。 ※この後、大分県立図書館で郷土資料を漁ってみましたが、やはり、大友家臣団に「瀬崎某」なる名前は見つかりませ んでした。 大正4年刊行の『大分市史』によれば、大友能直の豊後下向について以下のような記述があります。原文は、『両豊 記』とい古文書だと思われます。因みに、現在では、能直は豊後に下向しておらず、実際に豊後に下ったのは、三代頼 泰が最初だというのが、“通説”のようですから、以下の記述の信憑性にも問題はあるのですが…。 建久七年丙辰正月十一日、頼朝能直を以って豊前豊後の守護職に補し尚ほ鎮西奉行を兼務せしむ、時に能 直年僅かに十九歳なりき、同年三月大に旅を整え古庄四郎重吉百余騎を以って先駆をなし志賀八郎親郷二百 余騎にて殿し、能直の本陣は首藤、衛藤、舞、高山、甲斐、瀬、矢野、後藤、佐藤、高田等の宗徒の勇士警固 をさをさと怠りなく総勢すぐって千八百余騎を随えて鎌倉を発して豊後に下向し(以下省略) このように、能直豊後下向時に随った武士として、「瀬」なる姓がありますが、「瀬崎」ではありませんし、また、家老で はないようです。 さらに、戦後出版された『大分県郷土資料集成』によると、「瀬」は一文字の姓ではなく、前にある「甲斐」姓とつながっ て、「甲斐瀬」姓として載っています。 おそらく、原文には句読点がないので、どこで区切るのかが、読み手や書き写し手により違ってくるのでしょう。では、 どこで区切るのが正解なのでしょうか?「甲斐瀬」という名前はあまり聞きませんが、「瀬」姓ちょっと。瀬のあとに一字 欠けているとか…。 いずれにしても、ここに掲げられている姓は、資料により若干の異動があるようです。例えば、「舞」姓の後に「林」姓 を加えるものがあったり、さらには、つなげて「舞林」姓としているものがあります。 そういった意味で、「瀬」の後に「崎」が抜けてしまっている可能性もないとはいえませんが、ま、今のところなんの根拠 もありませんし、その可能性は、限りなくゼロに近いと言わざるを得ません。 ということで、当研究所では、「瀬崎=大友家老」説は、怪しいとの結論に達しました。 ○瀬崎を名乗った理由 さて、先祖自慢みたいなのは、「昔はうちも偉かった」式のものでしかなく、我が家も代々水呑百姓でございますので、 藤原系落武者というのは、ご多分に漏れず、昔はよかったと自慢したかっただけという可能性も十分あります。 とはいえ、明治になって苗字を自由に名乗れるようになったときに、昔名乗っていた苗字を持ち出してきて、「瀬崎」と 名乗ったのは間違いなさそうです。父親の故郷の近所で瀬崎を名乗るのはうちだけですから、普通に考えると、「瀬崎」 と何にも関係ないのに、何もわざわざ、こんなに画数の多い、発音しづらい「瀬崎」を名乗る理由がありません。おそら く、百姓が苗字を名乗ってはいけなくなる前(すなわち安土桃山以前)には、「瀬崎」を名乗っていたか、「瀬崎」という場 所に住んでいたか、そういったことがあったのでしょう。 しかし、一体、我が家の先祖はどこから来たのか?どうして「瀬崎」を名乗ったのか?その辺のところは不明なままで す。 因みに、江戸時代まで武士以外は苗字がなかったとよく言われますが、これは過りで、正確には、江戸時代には名乗ってはいけなかったという だけです。それ以前は、誰でも自由に苗字を名乗っていました。明治になって苗字を付けてもらった人が多いのは事実ですが、これも、長い間名乗 ることを禁じられているうちに、昔の苗字を忘れてしまったためです。 ○ものの本による瀬崎姓 では、ここで、ものの本による「瀬崎」の由来について見てみましょう。巷で売られている先祖探し系の書籍の中で、 「瀬崎」について記載があるものは、日本の姓氏研究の第一人者である太田亮氏編の『日本姓氏家系大辞典(上中下 三分冊)』が唯一です。 それによれば、以下のとおりです。(漢字は適宜簡略化しました)
これを見て、まず気がつくのは、「セザキ」との表音がないことです。しかし、ここは、「セザキ」と「セサキ」「セガサキ」 はすべて同じものと考えることにします。 次に、「武蔵、相模等にこの地名がある」とのことですが、現在までに武蔵には3つの「瀬崎」地名があるのですが、相 模には該当がないようです。ただし、「鎌倉の瀬崎に宿する」との記述から、室町時代には、鎌倉に瀬崎という地名があ ったことが考えられます。また、「武蔵、相模等」の「等」がどこなのか気になります。中世以前の古い「瀬崎」地名として は、武蔵国六浦郷の瀬ヶ崎、出雲国の瀬崎などがあるようです。(瀬崎地名参照) なお、「伊勢、志摩にこの氏あり」とされておりますが、実際に今でも鳥羽辺りには「瀬崎」さんが多く住んでいるようで す。(全国瀬崎分布については、瀬崎人口から。) このように『日本姓氏家系総覧』の記述は、なかなか興味深いものがあります。もちろん、全国の「瀬崎」を名乗る 人々が、すべて伊勢志摩の「瀬崎」さんか清和源氏足利流大崎満詮の子孫の「瀬崎」さんだけであるとは思えません が、瀬崎満詮の話は、ひとつの「物語」としては面白いと思えます。(瀬崎満詮の話については、当HP「瀬崎人名録・歴史上の人物」参照) そういった意味では、瀬崎満詮の話は、皆さんの家に伝わる伝説めいたものとあまり変わるものではなく、むしろそう いった伝説が意外にも正しいというようなこともあるのだと私は思います。 当研究所では、全国の「瀬崎伝説」を募集します。
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