いぶすき菜の花マラソン大会の公式ホームページは
こちら からご覧いただけます。
いぶすき菜の花マラソン アルバム をご覧下さい。
みんなで参加しよう
このマラソン大会の存在を知ったのは長崎へ来て2年目の冬である。
卒業を間近に控えたK君が同級生の女性二人を誘って卒業記念に参加し
てきたというのである。K君はともかく、女性二人がフルマラソンを
完走できたのが不可解だった。
1995年の春、鹿児島大学からH君が、佐賀大学からS君が、院生とし
て入ってきた。
H君の話で、いぶすきマラソンの詳細が判ってきた。毎年1月の第2
日曜日と決まっている。コースは周回で、スタートの陸上競技場まで帰
ってくる方式である。
私はH君にもっとも気になっていたことを聞いた。
「ゴールは何時間開いているの」
「8時間です」
「じゃあ、歩いても帰ってくることができるわけだ」
にわかに参加できる見通しがついた。 H君もS君も根っからのスポ
ーツマンで、体を動かす企画となるとめっぽうノリがいい。たちまち8
名ほどが参加する計画が出来上がった。
暮れに練習しすぎて、年が明けたら腰が痛くて走るどころではなくな
った。ぎっくり腰だというのである。日ごろまったくスポーツをしてい
ない者が急にするからどこかに無理があったのだろう。ともかく鹿児島
まで行ったが、見学して帰って来た。名物の砂風呂で、腰の痛みが半減
したから、血液がちゃんと流れていなかったことは確かである。
このとき宿泊したのは、喜入町の民宿で、2泊している。
要するに、8時間歩けばいいのである。それを走ろうとしたからぎっ
くり腰になった。そのうえ、口の悪いやつが「先生、登校拒否児と同じ
現象じゃないですか」とまで言う。自分に8時間歩き続けることができ
るかやはり確かめたくなった。
一人だけのマラソン大会
3月のある日。自分の時間と距離を確認したいといったらH君S君が
車で伴走してくれるということになった。当時住んでいた長与から昭和
町、本原を経て宝町から稲佐橋を渡り、飽の浦から福田へぬける。本番
と同じく、朝は9時に出発した。
福田は今はマンションが立ち並び、スーパーもできた。当時は福田遊
園地というのがあって、観覧車だのジェットコースターがあった(よう
な気がする)が、気の毒につぶれてしまった。
左に角力灘を見下ろしてひたすら北に歩く。小江原入口、手熊、式見。
このあたりが中間点で、まずまずのスピードである。
伴走車は2キロか3キロごとに路肩に止まって、私が追いつくのを待
つのであるが、これが結構しんどいという。駐車ではなく停車ではある
が、やはり交通の邪魔にならないようにと気を使う。
相川からトンネルを2つ抜けると新長崎港が見えてくる。畝刈である。
畝刈から琴海へは、歩道のないトンネルがある。トンネルを使わず上
の山道を使えば問題ないが、車が距離を測っているから同じ道を通りた
い。やむをえずトンネルへ入った。ダンプカーが行き交うから、側溝の
ふたの上を、壁面にへばりつくように歩く。ヤモリになったような気分
である。出口では二人が心配そうに覗き込んでいた。
「先生、大丈夫ですか」「大丈夫、大丈夫」
夕方になって、気温も下がってきた。時津へ向かってあと少しである。
OKホームセンターの前で、車のメーターが 42.2 になり、時刻は 3時
47分、すなわち6時間47分ということになる。すっかり安心した。
そのあと食べたうどんのおいしかったこと。五臓六腑へ染み渡る。
翌日S君が、「あのあと俺もHもぐうぐう眠りました」という。「先
生が疲れたのはわかる。俺とHは何であんなに疲れたのか?」
私にはその理由がよくわかる気がする。停車させる場所が見つけにく
い。私のことが心配。それに彼らはスポーツをやっているから、長幼の
序にはことのほか敏感なのである。先生を歩かせて、自分たちが車に乗
っている不自然さのストレス。私の気まぐれにここまで付き合ってくれ
る彼らにつくづく頭が下がる。
初めての参加
1997年 1月12日、第16回。それが私が参加した初めてのいぶすき菜の
花マラソンである。参加者は 9名。院生2年のS君、H君。4年で参加
2回目のI君。3年で私のゼミ生でF君、I君、Oさん、Mさん。よそ
のゼミ生のT君。それと私。
全員そろった 多良見町にて
前日、レンタカーで9人乗りのワゴン車を借りて、学生が交代で運転
して鹿児島へ乗り込んでいる。鹿児島市では城山に登り、桜島を見なが
ら、紫芋のアイスクリームを食べているから、ずいぶん時間的に余裕が
あったことになる。このころ、私はペーパードライバーだったから、学
生の運転振りがどんなにすごかったかには関心がなく、何の印象もない。
宿は浜見荘といって、砂蒸し温泉のすぐ隣の民宿で、スタートの会場
にも近かった。このときが初めてで、以後今日までここが定宿となる。
さて、当日の朝、体育館の2階の片隅で服装を整え、荷物を置き、ス
タートの列に並ぶ。4時間、4時間半、5時間、、、と30分ごとのプラ
カードを持った係りが間隔をあけて並ぶから、自主申告で自分の並ぶ位
置を決める。空には取材のヘリコプターが飛び交い、応援の太鼓が響き、
雰囲気が盛り上がってきたところで、号砲が鳴って、花火が上がる。列
が動き出すが、人の間隔が詰まっただけですぐ止まる。なにしろ9千人
のスタートだから、1分千人としても全部で9分かかる勘定だ。やがて
間隔が緩み、ゆっくりとみんなが走り出す。さあ、出発だ。
1月というに、道の左右の菜の花が満開。マラソンの名前の由来であ
る。5キロあたりでビリに近くなる。みんな当然走っている。こちらは
歩くことに徹しているのでいっとき遅れるが、あわてずマイペースを守
っていると、10キロあたりからいつのまにか大勢の中に戻っている。
5キロごとにバナナやふかし芋が一口大に切って盛られ、エネルゲン
という商品名の、オレンジジュースに似た飲み物が提供されている。こ
れらはマラソン実行委員会の正規の供給施設である。ほかに、各家で準
備した、お茶、コーヒー、漬物、氷砂糖、はては、おしるこ、味噌汁、
豚汁、おにぎりなど、さまざまなもてなしに巡りあう。この暖かい気持
ちがこのマラソンの常連を作り出す。
15キロの手前が池田湖の観光地。大うなぎが水槽に飼育されて、お
土産屋さんが並び、旅館もある。駐車場のトイレで休憩。所要時間は予
想よりいいから、気分的に余裕ができて、完走できないかも知れないと
いう心配がなくなり、次第に楽しくなってきた。
畑の中の直線道路。前方に三角の開聞岳。前後の人はほぼ同じスピー
ドだから、同じ人から抜かれ、抜き返し、また抜かれ、また抜き返し、
いつの間にか親しみを感じる。中学校で英語を教えているというアメリ
カの女性は、去年は10キロのほうに参加したが、今年はフルマラソンに
挑戦している、こっちのほうが面白そうだと言っていた。
20キロを過ぎ、中間点も過ぎた。肩が痛くなってきた。もともと首の
骨がずれて血管と神経を圧迫しているといわれているので、何か事ある
ごとに肩が痛くなってくる。だから、テニスとか卓球とか、肩を使うス
ポーツはできない。歩くとか、水泳ぐらいが肩にあまり負担のかからな
いスポーツということになる。さいわい、肩はそれ以上支障はなかった。
時速6キロというのが、私の基本的な速さで、それからのずれでいろ
いろ計算したり、予測したりする。30キロ地点で 13:50 だから、あと
12キロ、2時間。ゴールは15:50 で 成績は6時間50分前後と、この時
点で予測できる。スタートから5時間経ったところで、大会本部の車が
コース閉鎖を告げていく。これ以後、車道を走ってはならず、1歩行者
として歩道を進まなければならない。
足を痛めて、動けない人。屈伸運動をしている人。スプレーで筋肉を
冷やしたりして、手当を受けている人。選手収容車が、忙しく行き来す
る。収容された人たちはさぞ無念だろうと見とれていたら、係りの人が
「お宅も乗られますか」「いいえ」あわててまた歩き出す。
山川駅が35キロ地点。あと7キロ。2度目のトイレ休憩。服装を整え
る。 何度も何度も頭の中で計算してみる。いくら計算してみてもも、
6時間50分を切るという可能性が出てこない。心配もなくなったが希望
もなくなった。
温泉街に戻ってきた。砂蒸し温泉の前を通る。最後の2キロぐらい走
れるかと思ったが、今までどおり歩いているだけで精一杯である。
その最後の2キロがやたらと遠い。グラウンドのゴールが見えている
のに、そこへの入り口ははるか彼方である。やっとゴール。6時間54分。
のろのろとうどんのテントへ行く。食券を出して、うどんをもらい、
心静かに汁を一息に飲み干す。やっぱり、五臓六腑に染み渡る。一人だ
けで長崎を42キロ歩いたときと同じだ。
体育館では、うちのゼミ生ばかり4人が戻っていた。F君5時間34分
I君5時間53分 膝をいためたとテーピングだらけのOさん5時間58分。
Mさんは収容車で帰って来ていた。
階下で自分の完走証を受け取る。ゴールしたとき、背中のゼッケンに
つけられていた発信機に、ループアンテナをひと振りする。番号を読み
取って、体育館のコンピュータが完走証を発行する段取りになっている。
残りの4人も帰って来た。私より遅かったのは、この4人は昨夜もう
一度鹿児島市へ戻ってH君の友達を呼び出して飲んで、明け方戻ってき
たらしい。寝不足で二日酔いのまま出場したのだから、ちゃんと帰って
来ただけでも、立派というしかない。あきれた連中である。
もっとも、修士論文や卒業論文にずっと取り組んできたストレスの発
散という意味もあった。私は、自分のことで精一杯だったが、みんなそ
れぞれ自分の人生のある一瞬を生きているんだということを思い出させ
る出来事だった。それにしても事故がなくてよかった。
終わって、みんなで砂蒸し温泉へ行った。砂をかけられて、温かくな
ってくると、トックントックンと、心臓の拍動が、手首、足首、こめか
みなど、全身で数えることができる。至福のひととき。
翌朝 指宿の海岸にて
翌朝、もう一度砂蒸し温泉。それから鹿児島市で、とんかつの昼食。
こんなことしていてばちが当たりはせぬかと心配になってくる。
みんな歩き方がぎごちなく、鉄人28号などと笑いあっている中で、
私だけが膝の屈伸を難なくやれたのである。日ごろよく歩いていて、今
回もただ歩いただけだから、いつもと違う筋肉を使ったわけではないと
いうことなのだろう。
菅原の完走証は こちら
まあ、ご飯でも食べて行きなさい
1998年 1月11日 第17回 保健体育の管原先生が参加された。教官
は私とで2名。数学科3年が中心。うちのゼミ生5名全員とほかにT君。
車は管原先生はBMW。私のはニッサンプレーリー、7人乗りのRVで
新車である。
これを買ったのは、昨年の帰り、H君のひとことがきっかけである。
「来年は先生、車買うぞ。」
自分でもそのとき、H君が卒業した後、このいぶすき行きをどうする
か、思案していた。だから彼の一言は、私に暗示をかけた形になり、私
もここで彼から暗示をかけられたことにすれば、何とか決心できそうな
気がした。そこで大急ぎでH君の卒業する3月までに買ったのだった。
会場の周りは菜の花館が建設中で、駐車場が不自由だった。3キロ離
れた指宿港の駐車場からシャトルバスに乗り換える、パークアンドライ
ド方式になっていた。
スタートから雨が降りっぱなしで寒かった。18キロ付近、開聞岳を
真正面に見る直線コースで、雨が止んだ。フードをはずしたら、道路に
沿って立てられた、マラソンコースを示す旗が、強い風にあおられて、
激しくはたはたと鳴っているのに気がついた。
雨は2時間だけ止んでくれた。どこで雨にあい、どこは止んでいたか
は、参加者ごとに非常に異なる。同じ時間でも、場所が著しく異なるか
らである。
女子サッカーのHさんは自信があった。4時間半以内だったら、保健
体育の管原先生にお昼ご飯をご馳走してくださいねと約束を取り付けて
いた。結果は予想通り 4時間27分だったから、後日、先生と約束を果た
した。
ゼミ生のSさんを30キロ過ぎで抜いた。ちゃんと帰ってくるか心配
していたら7時間44分で帰って来た。途中雨にぬれていたら、ある家の
人が 「まあ、ご飯でも食べて行きなさい」と家に入れてくれてくれて
ご飯を食べさせてくれたという。
太っているY君は、もともと走るのは苦手である。去年の研修旅行で
久住山に上ったときも、みんなから大幅に遅れたほどだった。だから、
みんなと一緒にいぶすきへ行くとなったときから、毎日、リュックを背
負って歩いて登校するように心がけてきた。
今回もいい成績を狙わず、ただ無事に戻ってくることだけを目指して
いた。 レシーバーで好きな音楽を聴きながら、マイペースを貫き、 8
時間12分で帰って来た。
私の成績は昨年より15分わるく、7時間9分だった。
あとでわかったが、このとき理科の森下先生も参加されていて、私よ
り数分遅かった。 森下先生はテニスが好きで、日ごろから運動してい
るスポーツマンだから、これが本来の成績ではない。このときは、初め
ての参加で、完全にペース配分を誤ったそうだ。
指宿の海岸にて 1998/1/12 第17回
次の日の朝
菅原の完走証は こちら
風邪ぎみ、途中で立ちくらみ
1999年 1月10日 第18回 教官は管原先生と私。 体育科の大学院
生4名。数学科3年生が5名、4年生のHさんは昨年に続いて2回目。
工業技術3年生A君は変わり者だ。
1999/01/09 第18回
山江SAにて
昨年は鹿児島市内でもたついたので、今回は九州自動車道からまっす
ぐ指宿スカイラインへ入った。途中の錦江湾PAで休憩。
参加手続きを終えて、体育館の2階へブルーシートを敷き、着替えや
荷物置き場を確保してから、ゴールのグラウンド入り口で記念撮影。
私はこのとき風邪ぎみで、体調が極端に悪かった。前日は参加を取り
やめようと思っていた。しかし、思いのほかよく眠れたので、まあ「だ
めもと」で参加だけはすることにした。いつ、収容車のお世話になるか
も知れなかった。10キロあたりが最悪で、立ちくらみ状態。腰を下ろ
して、深呼吸をしばらく続けていた。
15キロ手前の池田湖でトイレ休憩。これは毎年欠かさない。一種の
儀式となった。精神的に安定するのである。体調不良の心配はなくなっ
た。
結果は 7時間29分で、昨年よりも20分以上悪かった。遅くなると食べ
物がなくなってしまう。供給所が、後片付けを始めていたりすると、疲
れがいっそう身にしみる。
体育館に戻ったら、A君の帰省先は鹿児島で、お母さんと妹さんが陣
中見舞いということで、大きな鍋に豚汁を作って持ってきて下さった。
立て続けに3杯いただいて満足。風邪ぎみはどこかへ行ってしまった。
翌日、知覧の特攻基地跡の平和記念館を見学した。出撃前夜の遺書が
痛々しい。
鹿児島でお昼にトンカツを食べる予定が、お目当ての店が休日。焼肉
屋さんが見つかり、全員がゆっくり昼食を終えた。
帰りは、ペーパードライバーの学生たちが交代で運転を担当した。助
手席に助言者がいるときは、初心者が慣れるのには、ちょうどいい機
会である。
体育科のOさんは、途中で走れなくなり、棄権して収容車で戻ってき
た。帰ってから、疲労骨折と診断された。疲労骨折は怪我ではなく病気
であるとみなされて、傷害保険には入っていたが、適用されなかった。
菅原の完走証は こちら
2000年 1月 9日 第19回
この年の先生の参加は多かった。管原先生、陣野先生、森下先生、そして
私。そして学生もご覧の通り。
指宿スカイライン 錦江湾PAにて
参加手続きを終えて
毎年、手続きが済むと、コースを一回り見て、翌日に備える。この年は
その途中で長崎鼻に寄った。薩摩半島の最南端である。
菅原の完走証は こちら
帰りは大雪で九州自動車道が閉鎖
2001年 1月14日 第20回
九州自動車道 山江SAにて
スタートを待ちながら
6時半朝食。7時10分旅館を出発。早々と会場に到着して、体育館
で着替えを済ませた。8時半、上の記念写真を撮る。
スタートしていつものようにビリになる。広報車が6キロ地点で国道
を横切るところまでは急いで下さいとマイクで叫んでいるが、無視して
歩き続ける。
5キロあたりは孤独だったが、10キロでみんなに追いつき、15キ
ロの手前の池田湖でいつものようにトイレに行ったときは、すっかり落
ち着いた気分になっていた。
20キロ手前で、Mさん、Fさんに追いついた。二人は前半走ったの
で、後半疲れたようだった。
35キロの山川駅で、2回目のトイレ休憩。そこで休憩している野球
部の3人にあった。彼らを置いて、先を急ぐ。後日談であるが、その3
人は、私に抜かれたことがずいぶんショックだったという。
砂蒸し温泉のところで順位を告げられたが、気持ちよくさらに何人か
抜くことができて、結果は 7143 番だった。120 人ほど抜いたことにな
る。7時間17分。
塩塚さんは、3時間18分。LA(女子30歳未満)で3位入賞だった。
Mさん、Fさんは8時間42分。無事に戻ってきてよかった。
翌日、帰り道が雪で大変であった。
鹿児島市まで来たら九州自動車道は雪のため閉鎖であった。国道3号
線を八代市に向かう。これが大渋滞。八代市に着いたのは夕方も6時に
なっていた。実は鹿児島市で少し待っていれば九州自動車道の封鎖は解
除になって、はるかに早く帰れたのであるが、それは結果論。
コンビニで弁当を買って、車中で食事。まごまごしていると夜に入っ
て高速がまた凍結、封鎖になりかねない。
その心配が現実になって、長崎は34年ぶりの大雪ということで、長
崎自動車道の背振あたりが封鎖になっていた。手前の久留米市で高速を
降りて下を走り、武雄でまた長崎自動車道に戻る。
結局大学に戻ったのは午前2時であった。
菅原の完走証は こちら
塩塚さんLAで優勝
2002年 1月13日 第21回 教官の参加が森下先生、福田先生と私の
3名。学生は数学科3年から塩塚さんら10名。卒業生の常連矢竹君で計
14名。
このときの参加者の幾人かの 卒業生 が、思い出を書いて
くれています。
指宿スカイライン 錦江湾PAにて
スタートを待ちながら
塩塚さんが 3時間08分でLA(女子30歳未満)で優勝。女子総合で2
位だった。
Mさん、Fさんは6時間50分で、昨年の結果を1時間50分縮めている。
菅原の完走証は こちら
帰りに知覧の武家屋敷と映画「ホタル」の重要な場面になった富屋食
堂を見学。
「ホタル」の富屋食堂 知覧にて
もっとも寂しい参加3名
2003年 1月12日 第22回 参加者3名 森下先生と矢竹君と私。
もっともさみしい年となった。
菅原の完走証は こちら
塩塚弘子さんは、2003年 1月26日の大阪国際女子マラソンと、期日が
接近しすぎて、いぶすき参加をあきらめた。彼女は同大会で2時間44
分38秒(21位)と健闘した。
ついに8時間を超過
2004年 1月11日 第23回
今年の参加者は8名。教育の集中講義がぶつかって、数学科3年生が
全滅したのが痛かった。
スタートを待ちながら
広橋さんに追いついた。彼女は、もう一人の参加者と話しながら早足
で歩いていた。私は少し後ろを同じ速さで歩いていた。しばらく広橋さ
んと、相前後して歩いていた。
30キロまでは昨年より10分ほど遅いだけだった。だからまだ8時間を
越えるかも知れないということは考えていなかった。
ところが30キロを過ぎたころから、いつもと違うという感じがした。
がんばれないということ以上に、体に力が入らないのである。
広橋さんとの距離が開き始め、縮めることができないことがはっきり
し始めた。8時間を超えることは、「可能性」から「現実」になった。
かねてから、8時間を越えてしまったら、潔く次の参加はしないもの
と決めていた。だから、今、これが最後の参加であると、そのことばか
り考えていた。
菅原の完走証は こちら
愛車プレーリーだけが参加
2005年 1月10日 第24回
私が引退したからというわけではないと思うが、総勢19名という大盛
況。わが愛車プレーリーだけが参加。
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