ハン板「剣道の起源は韓国にあり!?PART36」より
575 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2005/12/30(金) 02:50:09 ID:boxp9W9m
「嫌韓流 実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル」だが、(そのスレにも書いたが)
「花郎=戦士」説を半ば認めているような記述があってちょっと痛い。
−−−−−−−−−−−ここから引用−−−−−−−−−
同様に「日本の侍は百済時代のサウラビが原型である」という説もまさにトンデモ説
であり、時代背景を考えればこれがまったくのデタラメであることは明らかだ。百済
滅亡後に日本に亡命してきた「サウラビ」が侍の原形になったという主張だが、当時
三国時代を席巻した武士階級に相当するのは、新羅の花朗徒(ファランド)である。
新羅の文武に通じた青年貴族集団であり、後の新羅の三国統一の原動力となった
組織であったといわれる。武士とは意味合いが若干異なるが、当時最も武士に近い
存在といえばこの花朗徒しかないのである。では百済のサウラビは?と聞かれるだ
ろう。そもそもサウラビなど存在していないのであるといえば驚くだろうか?
−−−−−−−−−−−ここまで−−−−−−−−−−−−
このあとサウラビは「韓国人と日本人」(1983)に初出の思いつき、となるのだが、
この板では言うまでもないだろうが、花朗徒は戦士ではない。
../../www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/3249/hwarang.html
http://www.geocities.jp/bxninjin2004/explain2_j_faq/explain2_j_faq.html
「花郎=戦士」妄想はいろんな著作物、また一般に反韓と見られる呉善花氏も書いて
いたりして始末が悪い。
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<剣道の起源は韓国!?part36>より
659 名前:606[sage] 投稿日:2006/01/03(火) 03:13:59 ID:unNMXWCm
>>608
そういえば、dronpa氏から返事来ました?
こっちは一応返事を貰いましたが、ちょっと自分の知識の無さを痛感。
議論には及ばず、一応意見という形で伝えてきました。
以下引用です。
■花朗徒について1
>>me262氏
ご指摘有難うございました。
本文を読んで頂ければ分かるかと思いますが
武士階級に「相当するもの」は花朗徒であると書いているだけで
花朗徒と武士が同一延長線上にあるものとは考えておりません。
先述の通り、この項目では花朗徒と武士のつながりを示すのが意図ではなく
あくまでサウラビ説の否定です。
花朗徒がどのような位置づけであったのか否かを取り上げた本では有りません。
花朗徒の性格付けの判断が分かれる中で、あくまでこの本の著者として
当時の新羅で武士階級に相当するものが花朗徒であると書かせて頂きました。
もちろん『新羅花朗の研究』などを知らないわけではありませんが、
古代において国家とはイコールで軍事力であり
必ず戦士的性格を持つ集団が存在していたと思います。
その中で、三国統一を達成した新羅において「集団の統率」などエリート・指導層を
表す存在の言葉が他にないというのはどう考えても不自然であり
一番意味合いが近い存在としてあったのが花朗徒ではないかと個人的に考えています。
660 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/01/03(火) 03:14:47 ID:unNMXWCm
■花朗徒について2
三国史記等の記述を読む限り、独立した純粋な戦闘集団としてではなく、
その前段階の存在として様々な教養を学ばせる集団であり、或いは
当時の最先端学問である弥勒信仰などを持ったエリート集団ではなかったか?
と推察します。
弥勒信仰が半島に伝播したと思われる時期と、新羅が仏教を正式に受け入れた時期、
そして花朗徒が活躍したと言われる時期がかなり近いところで重なっていることから
花朗徒が最先端学問である弥勒信仰を取り入れていたと思われ、それは中国との何らかの
強い結びつきを示すものではなかったかとも思われます。
一部言われているような花朗徒=単なる男色芸能と考えるのは、どうしても無理がある
ように思えてならないのです。
しかし、花朗徒として伝わるそれぞれの性格的側面が上記の通りかけ離れている
部分も多々あり、ひょっとすると、花朗徒と一括りにされている集団が実際には
当時幾つにも分かれていた性格を持った集団の総称として現在伝わっている
のではないかとも思われます。
その上で、当時の半島(新羅)において我々が武士と指す呼称に一番近い存在が
花朗徒ではなかったか?と思うのです。
他に言葉がないためそういわざるを得ないのですが。
しかし、そもそも半島と日本における戦士(日本では武士)の定義や歴史、存在価値
が全く異なるため両者を同一延長線上に捉えるのは明らかな間違いであると思います。
それぞれ別個の独立した存在として考えるべきであると思います。
先に名前の出ていた呉善花女史の著作などを読んでいるのは確かであり
決してそれだけを参考にしたわけではありませんが、
現段階で私がイメージとして捉えている花朗徒の姿は上記の通りです。
なお、同様の内容をメールでも送られていたようですが
こちらへの回答をもって代えさせて頂きます。
661 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/01/03(火) 03:15:32 ID:unNMXWCm
私の反論です。
■dronpa氏へ、回答ありがとう御座います
回答ありがとうございます。
真に知識が足りず申し訳無いのですが、花郎徒が戦闘集団の前段階である
様々な教養を学ばせる集団であったとするに推察できる記述、論拠は三国
遺事、三国史記に記載されているのでしょうか?日本でも武士の成立にお
いては様々な議論があると思いますが、戦闘集団の前段階としてそれを定
義することが可能だとは個人的には思えません。それは一般的な定義とさ
れるのでしょうか。
また、弥勒信仰と中国に対する何らかの結びつきが、花郎徒の側面の何を
補強するかもよく解りません。彼等が単なる男色芸能の徒であったという
のは私も思いませんが、男色芸能で無いから武士に近い存在であったとい
う論もまたよく解らない部分があります。
dronpa氏が指摘されるように、花郎徒は一つの定義として括るには不自然
過ぎるほどの多面的な性格を持っており、決して戦士集団などでは有りま
せんし、そうだとするには余りにも資料が欠けています。当時の武士に一
番近い集団であったのが花郎徒であると、私にはどうも思えません。仮に
言葉が無いとしても、戦士集団に何か特別な名称が付く歴史上の必然が存
在するのでしょうか。
少し、問題点があると思われる文章を引用します。
>当時三国時代を席巻した武士階級に相当するのは、新羅の花朗徒(ファラ
>ンド)である。新羅の文武に通じた青年貴族集団であり、後の新羅の三国
>統一の原動力となった組織であったといわれる。武士とは意味合いが若干
>異なるが、当時最も武士に近い存在といえばこの花朗徒しかないのである。
以下に続きます。
663 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/01/03(火) 03:22:52 ID:unNMXWCm
■↑の続きです。
当時の三国時代を席巻した集団とする論拠がよくわかりませんし、前述のよ
うに武士階級に相当するとも思えません。
三国統一の原動力になったという記述も、当時の花郎徒の中で、軍事に関連
した割合を考慮しても、花郎という集団が原動力になったとする論拠に欠け
るのではないでしょうか。また、花郎徒は戦士集団ではありませんから、武
士という戦士集団に近い存在だと推測するにもやはり不自然に思えます。
該当部分の解釈の仕方によって意見が異なると思いますが、dronpa氏が意図
するような、日本の武士と半島の戦士集団の定義、歴史、存在価値が全く異
なる故、同一線上に捉えるのは間違いであるとする主張が、読者に伝わらな
い可能性もあります。少なくとも私には伝わりにくい部分がありました。
私個人の考え方と、dronpa氏の考え方の違いである上、私自身が花郎に対し
専門的な知識を持たず、単なる文章上の解釈に留まっているわけですから、
私が本書に対して訂正を求めるというのは奢りだったかもしれません。
以上です。わざわざメールにまで目を通して頂きありがとう御座いました。
664 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/01/03(火) 03:24:01 ID:unNMXWCm
私の書き込みに対するdronpa氏のレスです。
■花朗徒と弥勒信仰1
恐らくMe262氏は花朗徒について色々と研究をなされている方かと思われます。
その中での見解と違う部分が出ることは残念かと思います。
私が花朗徒に関して、自分なりの見解を持つに至った一番のポイントは「弥勒信仰」でし
た。
仏教は古代において宗教というよりも学問で有りました。
特に花朗徒が持っていた弥勒信仰は当時としては最先端の学問であったと思われます。
と申しますのは、そもそも仏教には救世主的教えというのは
存在しておらず、この弥勒信仰とは個人的見解ですが、その後中国に伝播した
キリスト教ネストリウス派(景教)の影響を強く受けたものではないかと思っておりま
す。
弥勒信仰は成仏経、下生経、上生経の成立によります。半島への伝播は上生教の成立後
と思われますので、恐らく6世紀前半かそれ以降となります。新羅で仏教が公認されたの
は
6世紀前半であり、花朗が登場したと言われているのは6世紀中ごろからと言われていま
す。
当時として最先端の学問を学ぶには中国との深い結びつきが必要であり、
当時の世界の中心であった中国から弥勒信仰をいち早く取り入れることが出来るような
集団が単に男色芸能の類であったと考えるのはどうしても無理が有ると思うのです。
少なくとも、新羅の非常に高い位置に存在するのものでなければ、こうした最先端学問を
いち早く取り入れることは無理ではなかったかと思うのです。
そこから花朗徒が新羅の高位の貴族による何らかの集団であると考えられます。
665 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/01/03(火) 03:24:45 ID:unNMXWCm
上の続き。
■花朗徒と弥勒信仰2
ただここから先は文献の記述が少な過ぎるため、どのように考えるかは
研究者による結果を待ちながら、自分なりの解釈を進めざるを得ません。
新羅が三国を統一したのは事実であり、その中核を担った者の呼称で伝わるものが
花朗徒しかないというのが現状ではないでしょうか?
不勉強で申し訳ないのですが、私が知りうる限り、現在花朗徒以外にそれらの役割を
果たした者を表す言葉がないように思います。
現時点で分かっていることを総合して、上記の通り花朗徒に関して考察しております。
ただ何度も書いておりますが、花朗徒の延長線上に武士が有るという主張とは全く違う
ものであり、別個の存在として花朗徒が何であったのかを考察しております。
もちろん、この考察は氏の指摘の通り考え方の違いでもあり、氏には別の考察が
あるかとは思います。残念ながら私は花朗徒の研究者ではありませんので
ここまでしかお話は出来ませんが、今後氏の研究などが進まれもっと違った
花朗徒の姿或いは、仮説として私が出した花朗徒と一括りにされている集団は
実際には幾つも分かれていた集団ではなかったのか?などが証明できれば、
次に本を書く機会があれば是非付け加えていきたいと思います。
今後のMe262氏の研究が進まれることを期待します。
694 名前: マンセー名無しさん 2006/01/03(火) 22:23:13 ID:SGIAne4w
昔この板に花郎スレをたてたり、
「花郎は武士団だったのか?」という下手な文章を書いたりしていた者です。
言いたいことはいろいろあるけど、ひどい遅筆でなかなかまとまらないから
適当に書いていきます。
doronpa氏とのやり取りを読みました。
まず気になるんですが、doronpa氏は、
どういうつもりで花郎ではなく花朗という字を使っているんだろうか?
彼の本を直接確認したわけではないから、
たまたま打ち間違えたのかと最初は思っていたんだけど
繰り返しているところを見るとそうではないみたいです。
間違いを連呼しながら説明しているのを見ると、正直萎えるんですが。
私も、花郎を「文武に通じた青年貴族集団」
「新羅の三国統一の原動力となった組織」「最も武士に近い存在」
とするのは見当違いだと思っています。
ではいったい何なのかと言えば、一種の教育機関だと考えています。
それが、三国史記新羅本紀真興王37年の条に
「徒衆雲集、或相磨以道義、或相悦以歌楽、遊娯山水、無遠不至。
因此知其人邪正、択其善者、薦之於朝。」
とあるのを素直に解釈すればそういうことになります。
もちろん何分古代のことなので、いろんな機能が未分化だけど、
一義的には教育機能を持った社交クラブです。
花郎になった人物の記述を調べると、なった時にはみんな10代です。
いつまで花郎でい続けたかははっきりしません。
少なくとも引退できたのは確かなんだけど。
多分、若い間だけ花郎をやって引退したんだろうと思います。
695 名前: マンセー名無しさん 2006/01/03(火) 22:42:03 ID:SGIAne4w
花郎になった人物の身分は、
新羅は骨品制という厳密な身分制をしいていたんだけど、その中でかなり上位です。
逆に、上流貴族の子弟がみんな花郎になったかというと、そうではなかったようです。
史料を見ても花郎になったという記述のない人が多いので、
花郎の組織率がどの程度だったかは不明です。
そういうエリートの集団なので、「賢佐忠臣、従此而秀。良将勇卒、由是而生。」
という記述どおりでも不思議ではないけれど、
花郎そのものは武士でもなんでもないです。
だいたい、花郎は、国軍の一部でもなければ、独立した軍事組織でもありません。
三国史記の職官志にも出てこないから、完全な国家機関でもなかったようです。
武功をあげた花郎で、なおかつその当時花郎の地位にあったらしいのは、
三人だけなんだけど、こいつらは、
王に従軍を願い出て、武官の地位を与えられて出陣していたわけで、
花郎が軍に参加するのはむしろ例外的だったみたいです。
どうして花郎が武士だって話が出てきたかというと、
花郎になったという記述があって、なおかつ戦士らしい活躍をしている人物、
と言っても5人しかいなんだけど、
の伝記に書いてあることを勝手に拡大解釈したからです。
日本の花郎の研究は、実は戦前のままとまっているんだけど、
花郎を研究していた歴史家、池内宏、三品彰栄、鮎貝房之進の3人は、
花郎が武士だって書いて特に疑問を抱かなかったみたいです。
中でも池内宏が一番激しくて、花郎に関する考察は、
「新羅の武士道精神」という題の論文の付録になっています。
彼らは花郎は武士だという前提で議論を進めているんだけど、
その前提を疑ってみると、そう断定できる証拠は何もありません。
696 名前: マンセー名無しさん 2006/01/03(火) 22:53:47 ID:SGIAne4w
武士道的なものを賞賛する戦前の時代背景みたいな話は、
土居邦彦 『一九三〇年代日本の花郎研究にみえる戦士機能論の批判的再考』
「史苑」第54巻1号、6-24頁、1992年
が考察しています。この論文、「批判的再考」というからには
旧来の戦士機能論を否定して、新たなモデルを提示するのかと思えばそうではなく、
戦後の朝鮮史研究にありがちだけど、ただ単に戦前の研究を批判したいだけみたいです。
まあそれでも若干参考になります。
最初に書いておくべきだったかもしれないけど、花郎に関しては
Rutt, Richard. "The Flower Boys of Silla". Transactions of the Korea
Branch of the Royal Asiatic Society 37, pp. 1-66. 1961.
だけを読んでおけば十分です。
ちょっと古いけど、先行研究を踏まえつつ慎重に考察していて良い出来です。
ついでに
Tikhonov, Vladimir. "Hwarang Organization: Its Functions and
Ethics." Korea Journal 38 (2) (Summer 1998). pp. 318-338.
も読んでおいてもいいです。なにしろオンラインで読めるし。
#http://www.ekoreajournal.net/archive/detail.jsp?BACKFLAG=Y&VOLUMENO=38&BOOKNUM=2&PAPERNUM=13&SEASON=summer&YEAR=1998
話を元に戻すと、精神的な話をするのは趣味じゃないんだけど、
三国史記の列伝に載っているようなお話から推測するに、
武士道的な風潮は三国統一までの勃興期の新羅に一時的に存在したみたいです。
でもそうした風潮を花郎と結びつける史料上の根拠はありません。
なのにどうして花郎と結びつけられてしまったのかというと、
歴史にロマンを投影するにあたって、投影する対象に名前がほしいところで、
ちょうど花郎というそれっぽい集団があったからではないかと考えています。
http://web.archive.org/web/20030603212309/http://www.bekkoame.ne.jp/~wkmurata/karou.html
http://web.archive.org/web/20030605104524/http://www.bekkoame.ne.jp/~wkmurata/karou2.html
http://web.archive.org/web/20030419205600/http://www.bekkoame.ne.jp/~wkmurata/karou3.html
http://web.archive.org/web/20030605105107/http://www.bekkoame.ne.jp/~wkmurata/karou4.html
http://web.archive.org/web/20030803182811/http://www.bekkoame.ne.jp/~wkmurata/karou5.html
http://web.archive.org/web/20030605105218/http://www.bekkoame.ne.jp/~wkmurata/karou6.html