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現在シャン州はミャンマー(ビルマ)の1州となっているが、かつてこの地域にはいくつもの小さな国(藩)が存在していた。 これらはソーボワ等と呼ばれた世襲の君主によって治められ、周辺の大国に翻弄されながらも独自の歴史と文化を維持していた。 イギリスによる植民地化以後もこれらの藩は存続し、その政治体制や文化も維持された。 シャン州は戦後のビルマの独立と共にその1州となり、ソーボワ制も廃止されたが、現在でもこの地域はビルマとは異なった独自の文化とアイデンティティを持ち続けている。 しかしその歴史と文化は決して一様ではなく地域ごとに特色があり、シャン州として一括りにすることは難しい。 地域によって民族・言語は様々であり、周辺地域との係わり方も一様ではない。 一方でそうした多様性を超えたシャン州としての一体感が存在することも事実である。 こうした多様性と一体性との並存は、かつてのシャン諸藩が辿った歴史と深い関係がある。 シャン諸藩の歴史は様々だが、比較的はっきりした記録が残っているのは古い藩でも17世紀頃からである。 豊富な資料が残されるようになったのは主にイギリスによるシャン州併合前後以降であり、このサイトでも主に植民地時代の資料に基づき、当時のシャン州の姿について触れた。 このサイトで扱う範囲も原則として併合後の英領時代のシャン州の領域に限定し、北部タイや雲南省南西部のシャン系諸藩については除外している。 |
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○ 地理 植民地時代のシャン州は行政上、北シャン州、南シャン州に区分されており、その文化の面でも南北でやや異なる面を持つ。 更に南シャン州はその歴史的・文化的背景からサルウィン川を挟んで東西の地域に分けられる。 このように、シャン州は大きく北シャン州、東シャン州(南シャン州東部)、西シャン州(南シャン州西部)の3地域に分けて考えることができる。 植民地時代末期には、南シャン州東部はチェントン1藩でほぼ占められ、西部には26藩、北シャン州には6藩、の33藩が存在した。 小藩の分離・併合はしばしばあり、藩の数は一定していないが、イギリス領時代を通じて30数藩程度であり、イギリス併合直前の19世紀後半も大きな差はない。 藩の規模は様々であり、最大のチェントン(面積 12,400平方マイル 人口 225,894人)と最小のナムトク(面積 14平方マイル 人口 2,521人)では人口で約百倍、面積で約千倍の差がある。 シャン州東部を構成するチェントンの他、北部、南東部の藩は比較的規模が大きい一方、ミェラットと呼ばれる南西部には多数の小藩が存在した。 シャン州の地形は概ね低いなだらかな丘陵とその谷間の盆地で構成されている。 広い平野が無い一方で交通を阻害するような急峻な山脈も少なく、こうした地形がシャン州の歴史と文化に大きな影響を与えたことは間違いない。 ○ 言語 シャン州で使用される言語は多様である。 住民の約3/4はシャン人が占めるが、それ以外の民族も固有の民族語を持ち、自らのコミュニティーの中ではそれを使用することが多い。 しかし同時にミェラットのようなシャン人が少数派である地域も含めて、かなり以前からシャン州内ではシャン語が共通語として使用されており、シャン族以外でもシャン語は広く通用した。 このため英領化後もシャン語が英語に次ぐ第2公用語と位置づけられる一方、独立後と異なりビルマ語は公には殆ど使用されなかった。 ところが独立後は英語に代わってビルマ語が第1公用語となり、ビルマ語による初等教育が徐々に普及してゆく一方、公教育の中でシャン語は完全に無視されており、共通語としての地位は徐々にビルマ語に取って代わられつつある。 しかしビルマ語の普及度は地域によって差があり、サルウィン川以西の都市部では広く使用されているものの、チェントンでは今でもシャン語が広く用いられており、街中でもビルマ語が通じない状況はしばしばある。 尚、シャン語は地域によってやや方言差があり、北シャン州、東シャン州、西シャン州ではそれぞれ語彙や発音が異なるが、意思疎通に大きな支障がある程では無い。 ○ 政治体制 − イギリス併合以前 − シャン諸藩は独立した政治実態を持ってはいたが、純然たる独立国というわけではなかった。 藩主の選任には周辺国、特にビルマが16世紀後半以降大きな影響力を持っていたが、その影響力の強さは時代によって異なり、自力で藩主の地位を確立した例もあるが、殆どの場合はビルマとの間で柵封関係にあり、即位にあたってビルマ王の認証を得ていた。 また、チェントンのようにビルマから遠く、大規模な藩は形式的に柵封関係にあっても比較的自立性が高かったが、ミェラット諸藩のようにビルマに近く小規模な藩の場合はビルマの影響力が非常に大きかった。 一方、北部のセンウィ藩の場合は中国からの、チェントン藩の場合はランナー(タイ)からの影響も強く受けていた。 ○ 政治体制 − 英領植民地時代 − イギリスの直接統治下に入ったビルマとは異なり、シャン諸藩の政治体制はほぼそのまま維持されイギリスの間接統治下に置かれた。 従来のビルマに代わってイギリスが宗主権を持ち、藩主の地位を認証すると共にそれを保護することになった。 併合以前には藩主一族や地域の有力者による簒奪も多かったが、併合以降はこうしたことは無くなり、周辺国の影響も排除された。 シャン州は非常に安定した時代に入り、ある意味英領時代はシャン諸藩の黄金時代でもあった。 概してイギリスは藩主の地位を尊重したが、一方で失政や不正、病気等を理由として藩主が解任されることは珍しくなく、藩主の地位は絶対的なものではなかった。 更に小藩に限られたことだが、適切な後継者の不在等を理由に藩そのものが他の藩に併合され消滅することもあった。 ○ 藩主 シャン諸藩の藩主(英語呼称は"chief")達の地位は対等ではなく、ソーボワ、ミョーサ、グウェガンムーの3つの位に分かれていた。 ソーボワは大藩の藩主に与えられた位であり、最も地位が高かった。 ミョーサは中小の藩主に与えられた位だが、大藩の一部を構成する支藩の行政長官に使用されることもあった。 グウェガンムーの位はミェラットの小藩の藩主に与えられた。 英領時代にはこれらの位の中でも更に席次が定められていた他、功績に応じた叙勲も行われていた。 こうした位は基本的に宗主権を持つ国から認証されており、かつてはビルマが、併合後はイギリス植民地政府がこれを行っていた。 また、センウィのように、中国の影響力が強かった時代にはビルマから柵封されると同時に中国からも柵封されていたようなケースもある。 ○ 藩主一族 シャン諸藩の藩主の一族は、基本的に平民と区別され、独自の階級を形成していた。 諸藩の藩主一族は結婚を通じて縁戚関係にあることが多く、シャン諸藩の藩主一族は藩を超えてひとつのコミュニティを形成していたと言ってよい。 更にこうしたコミュニティは現在のシャン州の領域に留まらず、チェントンのように後に仏領インドシナとなったムアンシンや中国領となったチェンフンのシャン系首長とも縁戚関係を通じて結びついていた。 藩主となることができるのは基本的にこの階級の出身者に限定される一方、後継者が途絶えた際は縁戚関係にある他の藩の人物が後継者となることも珍しくなく、時には血縁関係の無い他藩の藩主一族の人物が後継者として招かれることもあった。 こうした関係は、ヨーロッパの貴族社会に類似しており、イギリスとの関係を考える上で興味深いが、一方で平民との通婚も多く見られ、父親が藩主一族の出身であれば母親が平民であっても藩主を継承することは可能である等、インドのカースト制度のような強い排他性を持った身分制度とは大きく異なっていた。 ○ 藩主の継承 これらの藩主は基本的に世襲であり、長子相続が多いが必ずしも厳格ではなかった。 藩主の妻は他のシャン諸藩の藩主一族から迎えられることが多かったが、正室も含め平民出身の妻を迎えることも多く、後継者の決定に当たってはシャン諸藩の藩主一族出身の母親の息子が望ましいとされていたが、必須の条件ではなかった。 後継者の有無に関わらず養子を取ることも広く行われ、養子がシャン諸藩藩主の一族出身であれば藩主を継承する権利もあったが、父親が平民である場合は後継者とはみなされなかった。 また、藩内に適切な後継者がいない場合は他藩の藩主一族が呼ばれて新たに藩主となることもあった。 (参考文献) Scott, J.George and J.P. Hardiman. (1901). Gazetteer of Upper Burma and the Shan States. Rangoon: The Superintendent. Government Printing. Chiefs and Leading Families in the Shan States and Karenni. Rangoon: Goverment of Burma.. The Shan States Manual. Rangoon: Superintendent. Government Printing. and Stationery, Burma. 1933 |