チェントン(Kengtung)  


− 独自の歴史を持つシャン州最大の藩 −





チェントンに残るソーボワ一族の墓所


 おそらくシャン諸藩の中で最も大きな影響力を持った藩の1つであり、また、他の藩とは異なる独自の歴史と文化を持っていた藩でもある。
 かつてチェントンの町に存在した藩邸(ホウ)はシャン州の多くの藩邸の中でも最大のものであり、藩の象徴でもあったが、1991年に取り壊され、今は無い。

 かつてのソーボワ時代を偲ぶものは少なくなり、僅かに歴代ソーボワの墓所が今も残るくらいである。


○ 地理

 チェントンはシャン州最大の藩であり、南シャン州のメコン川とサルウィン川に挟まれた地域のほぼ全域を占め、3万km2以上の面積を有する。
 国土は南北に走る山脈とその谷間に点々と散在する狭い盆地から成り、山脈とそれに挟まれた高原から成るシャン州西部とは異なった風景が広がる。
 藩のほぼ中央にあるチェントン盆地が最大の盆地であり、藩都もここに置かれているが、他にもモンヤン、モンヤウン、モンピャッ、モンサット等の小盆地を有し、かつてはこれらも独立した国(ムアン)であった。

 人口は1897-98年の調査時に約17万人、1930年頃には20万人程度と推定される。 民族構成は極めて複雑で、約2/3を主に盆地に居住するシャン族が占め、その他が主に山地に住む様々な少数民族である。
 更にシャン族も一様ではなく、クン族(主にチェントン盆地とその周辺に居住)、ルー族(藩東部を中心に居住)、狭義のシャン族(サルウィン川周辺の藩西部に居住)の3つのグループに分けることができる。 
 しかし、いずれも言語等にやや差はあるものの大きな差は無く通婚も多い。 西シャン州のシャン族とやや差異はあるもののほぼ同じ民族であり、北タイ(ランナー)のタイ族とも近い関係にある。

 藩内の産業は、他のシャン諸藩と同様にその殆どは農業であり、稲作が最も大きな比重を占めることも同じである。 その他に藩都や大規模な村の周辺では野菜類が盛んに栽培されている。 これらはいずれも主に藩内で消費されている。
 丘陵地域では綿花栽培が盛んで、主に中国に向けて輸出されている他、高度の高い山地ではケシが栽培され、阿片として主に北部シャムと仏領ラオスに輸出されている。



○ 歴史

 この地域の先住民は北タイ等と同様、モン・クメール系のワ族であったと考えられており、年代記もそう伝えている。 しかし、北タイを支配し、ランナー王国の開祖となったマンライ王が13世紀半ば(1243年頃?)にこの地を占領して植民を行い、チェントンを建設し、以後マンライ王の子孫が20世紀半ばまで代々チェントンを継承してゆくことになる。

 これ以後モンヤウン等の他の盆地へもシーサンパンナー等からタイ系民族の植民が行われ、先住民であったワ族を駆逐或いは同化しながら徐々に居住地域を広げてゆく。
 チェントンの勢力範囲も当初はチェントン盆地とその周辺に限られていたが、周囲の山地や周辺の小盆地のムアンを支配下に入れ、次第にその領域を拡大してゆく。

 建国の経緯からチェントンはランナーと深い繋がりを持ち、チェンフン、モンレム(何れも現在中国領)とも同様な関係にあった。 こうした関係は20世紀に至るまで続いた。
 しかしこれは必ずしも友好関係にあったことを意味せず、15世紀には最盛期にあったランナー王国から攻撃を受けた他、モンレムとの間にも度々紛争が発生している。 また、1558年にタウングー朝ビルマがチェンマイを攻略しランナー王国を併合した際には、チェントンはビルマ側に立って兵を送っている。

 チェントンはビルマ・中国・タイの勢力の交錯する場所に位置するため、これらの国の抗争に常に巻き込まれる宿命にあったが、チェントンは概ねビルマから柵封を受け、その支援を得ることが多かった。

 チェントンを巻き込む紛争はその後も続き、18世紀後半にはコンバウン朝ビルマと清が衝突するが、チェントンはビルマ側に立ち、チェンフン等へ遠征を行っている。
 その後19世紀に入ると、ランナーを併合したラタナコーシン朝シャムは旧ランナー王国の影響下にあった地域の回復を目指し、3度に渡ってチェントンを攻撃する。 特に1802年の最初の侵入の際にはチェントンは大きな被害を受け、ソーボワ一族の多くが住民と共に連れ去られたが、唯一逃れたサオ・マハー・カナンはビルマの支持を得てソーボワを継承し、チェントンの奪回に成功した。

 サオ・マハー・カナンはチェントンの中興の祖とも呼べる人物であり、戦禍で荒廃したチェントンの再建に着手し、その後英領時代にまで続く諸制度を整備した他、現在のチェントンの町もサオ・マハー・カナンによって建設されたものである。 今も一部が残る城壁もこの時期に建設された(1833年の完成と伝えられる)。
 1852年と1854年にもシャムとラオ諸国の連合軍の侵攻を受けたが、ビルマと西部シャン諸藩の援軍を得て撃退に成功した。

 しかし、1881年のモンナイ藩とロックソック藩のビルマに対する反乱の際は、チェントンは両藩を支持、ビルマと対立するが、1885年の第3次英緬戦争の結果ビルマはイギリスの支配下に入る。
 イギリスの影響力は間もなくチェントンにも及び、当時のソーボワであったサオ・カム・プーは1890年にイギリスの宗主権を承認、チェントンはイギリスの支配下に入った。
 英領となった後も他のシャン諸藩と同様に藩自体は存続し、ソーボワの地位も維持された。 イギリスは更にメコン川まで進出して仏・タイとの間で国境を画定、この際にチェントン南方及び西方の国境付近にあったいくつかの小藩がチェントンに併合されたため、チェントンの領域は大きく拡大した。

 イギリスによるシャン諸藩併合後、チェントンも安定した時代に入る。 1897年にソーボワを継承したサオ・コン・キャオ・インタレンは開明的な人物で、1937年に死去するまで藩の近代化を推進した。 その後1937年に長男のサオ・カウン・タイがソーボワを継承するが即位の5ヶ月後に義兄により暗殺される。
 後継者の息子が幼少であったため、藩は一時イギリスの管理下に置かれるが、その後第2次大戦を挟み、1947年に成人に伴い息子のサオ・サイ・ロンが即位、1962年のソーボワ制廃止により退位するまでその位に留まった。




○ 風土 − 百年前の風景 −


                       − 作成中 −






○ 藩邸


 チェントンの藩邸はシャン諸藩の藩邸の中でも最大のものであり、その英・印・シャン折衷様式も独特のもので、まさにチェントン藩の象徴に相応しいものであった。 しかし1991年に政府によって取り壊され、跡地は長く空地のままであったが現在ホテルになっている。
 藩邸がかつての藩とソーボワの象徴であったことや、跡地が長く利用されること無く放置されていたことから政治的な意図による取壊しとする見方が根強い。


            かつてのチェントン藩藩邸




 (参考文献)

Scott, J.George and J.P. Hardiman. (1901). Gazetteer of Upper Burma and the Shan States. Rangoon: The Superintendent. Government Printing.

Chiefs and Leading Families in the Shan States and Karenni. Rangoon: Goverment of Burma.

Younghusband, G.J. (1888). The Trans-Salwin Shan state of Kiangtung. Calcutta: The Superintendent of Government Printing.

Penth, Hans. (2000). A Brief History of Lanna. Chiang Mai: Silkworm Books.

新谷忠彦他(1998年) 『黄金の四角地帯 − シャン文化圏の歴史・言語・民族』 慶友社


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