モンナイ藩(Mong Nai)  


− 忘れられたかつてのシャン州の中心 −




1950年代のモンナイ盆地


 シャン州に関心のある人でもモンナイという町を知る人は少ない。 だがかつてモンナイ藩はヨンホエ藩と並ぶ南シャン州の大藩であり、モンナイは南シャン州最大の町だった。 

 しかし、それゆえにモンナイはビルマ王によるシャン州支配の拠点となり、大きな負担を強いられることになる。 駐留ビルマ軍の費用負担や兵士による略奪、そして度重なる戦火により町は荒廃した。
 コンバウン朝ビルマの滅亡とシャン州の英領化以降は平和な時代がしばらく続いたものの、再びかつての繁栄が戻ることは無かった。
 その後ビルマの独立とそれに続く内戦の際には再び紛争の舞台となり、この地域での政府軍と少数民族勢力の対立は現在も続いている。

 2007年現在、この地域は依然として外国人の入域が制限され、入域許可の取得も極めて困難な状況が続いている。


○ 地理

 モンナイ藩は南シャン州のほぼ中央部に位置していた。 南西部のモンナイ盆地、北東部のチェンタウン盆地、及び北西部の平地以外は小盆地の散在する丘陵が広がる。
 面積は2,716平方マイル、人口は支藩のチェンタウンも含め 7,891戸、23,673人(1897年調査)で、シャン族が8割以上を占めた。

 盆地では灌漑による水田耕作が中心だが、それ以外の地域ではサトウキビや煙草を中心に商品作物の栽培も盛んに行われていた。 特に煙草はシャン州ではマウマイ産のものに次いで良質と言われていた。
 農業以外では藩東部を中心に製紙が広く行われており、藩外へも輸出されていた。
 シャン紙や煙草を除けば藩外へ輸出されるものは多くなかったが、藩内では様々な農産物が栽培されており、市場も多く物価も安いため住民の生活水準も周辺の藩に比べ比較的高かった。



○ 歴史

 藩の歴史は古く、ランナーのマンライ王によって建設されたとの伝承もあり、更に古い歴史を示唆する伝承もある。 しかし度重なる戦乱によってあらゆる記録は失われており、藩の初期の歴史について、確かなことは殆ど判らない。
 ただ、かつては藩の領域はかなり広く、往事にはその領域は西シャン州全域に及び、その後もヨンホエ藩と並ぶ西シャン州の大藩であったことは間違いない。 18世紀末の段階でも、その後のモンパウン藩、マウマイ藩、チェンカム藩に相当する領域を支配していた。

 モンナイは1556年にタウングー朝ビルマのバインナウン王によってその支配下に置かれ、以後19世紀末まで恒常的にビルマの支配を受けることになる。
 ビルマはシャン州を直轄領とはせず、基本的に従来の藩主一族を柵封し、間接統治を行う形を取ったが、19世紀に入るとシャン州を管轄する総督がビルマ軍とともにモンナイに駐留するようになる。
 ボームー又はシッケジーの位を持つこの総督は、藩の内政には直接関与しなかったが、ビルマへの貢納の支払いを監督すると共にソーボワを監視する役割を持っていた。
 モンナイに駐留したビルマ軍は4〜500人程度とされているが、駐兵費用は基本的にモンナイ藩とその周辺の藩が分担して負担するものとされていたが、それ以外にも総督はしばしばソーボワから金品を私的に受け取っていた。
 駐留するビルマ軍の兵士には給料は支払われていたが、モンナイの町の住民に対する略奪は度々発生し、これを恐れる住民の流出が相次いだ。 更に疫病の流行が人口の減少に拍車を掛け、加えてビルマがマンダレーへ遷都した際は、藩から100世帯の住民を新都に移住させるよう要求された。(この時の移民はマンダレーの北辺に住み着いたが、現在は完全にビルマ化している)

 その一方で、ミンドン王の治世には、ソーボワのサオ・クン・ヌンは2人の娘を王の側室とし、ビルマの宮廷に大きな影響力を持っていた。 しかしミンドン王が死去しティーボー王が即位すると、ビルマ宮廷とモンナイ藩の関係は急速に悪化する。
 1875年にはサオ・クン・チーがソーボワに即位するが、1882年にチェンタウン支藩ミョーサの後見人の任命に関する紛争からマンダレーに召喚される。 サオ・クン・チーはこれを拒否して蜂起、ビルマの総督と兵士のほぼ全員が殺された。
 これに怒ったティーボー王は直ちに大軍を送り、サオ・クン・ヌンはチェントンに逃亡、藩の全土がビルマ軍により破壊された。
 ティーボー王はチェンタウンの還俗僧トウェッ・ガルを代官に任命し、藩を統治させるが、1886年にビルマが滅亡するとシャン州南部の諸藩はトウェッ・ガルを含むビルマ寄りの藩とそれと対立する藩の2派に分かれて抗争となり、再びモンナイは戦火に巻き込まれた。
 紛争は反ビルマ派が優位に立ち、ソーボワは藩の支配を回復するが、その後も紛争は続き、ビルマ王位の継承を狙うリンビン王子によってリンビン同盟が結成されるとモンナイを含む反ビルマ派はこれに合流する。 しかし1887年にリンビン王子はイギリスに捕らえられ、同盟もイギリスに降伏した。
 だが、トウェッ・ガルは翌年モンナイの町を再度攻撃し、ついに町を占領する。 ソーボワは一時モンナイを離れるが、間もなく少数のイギリス軍騎兵がモンナイを奇襲し、トウェッ・ガルは殆ど抵抗すること無く捕らえられた。
 サオ・クン・チーはソーボワに復帰し、ようやく紛争に終止符が打たれた。

 再びモンナイに平和が訪れたが、ビルマ兵による略奪や度重なる紛争によって町は荒廃し、1836年には1600戸を数えたと言うモンナイの町は1887年にイギリス軍が進駐した際には僅かに17戸を残すのみになっていた。
 人口はその後一旦回復し、1891年には800戸まで増加するが、その年の大火により400戸以上が失われ、藩邸も焼失した。

 サオ・クン・チーは英領化後もソーボワとして承認されてその位に留まる。 概してイギリスの利益に忠実だったとされ、1890年にはKSM勲章、1902年にはCIE勲章を叙勲された他、ビルマ立法評議会の議員も勤める等、大きな影響力を持ち続けたが、その統治は良いものとは言えず、その治世の間に藩が繁栄することは無かった。
 サオ・クン・チーは1914年に死去し、甥のクン・キャオ・サムが後を継いだ。



○ 風土 − 百年前の風景 −

 
         − 作成中 −





○ 藩邸(ホウ)


         − 作成中 −




 (参考文献)

Scott, J.George and J.P. Hardiman. (1901). Gazetteer of Upper Burma and the Shan States. Rangoon: The Superintendent. Government Printing.

Chiefs and Leading Families in the Shan States and Karenni. Rangoon: Goverment of Burma..

Collis, Maurice. (1938). Lords of the Sunset. London: Faber and Faber Limited.




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