| インレー湖観光の拠点として知られるニャウンシェは、シャン語名ではヨンホエと呼ばれ、ヨンホエ藩の藩都だった。 ヨンホエ藩はシャン諸藩を代表する藩の1つであり、その藩都は南シャン州の中心の1つでもあった。 今も町には藩邸(ホウ)が博物館として残されており、旅行者も内部を見学することが出来る。 現存する数少ない藩邸の中でも最も大規模なものであり、伝統的なシャン様式を残したその建物は貴重な文化遺産である。 |
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○ 地理 シャン州中部に位置し、西部のインレー湖を中心とする南北に広い盆地と、東部のシンタウン山脈とその裾野の高原からなる起伏の多い地域から成る。 88地区の972ヶ村から成り、人口は1893年の時点で81,318人とされ、20世紀初には約9万6千人、1930年代には13万人程度と推定される。 面積は1,393平方マイル。 住民はインダー族が約40%を占め、その名("湖の人"を意味する)の通り主にインレー湖の周辺に住む。 次いでタウントゥ族が多く、主に高地に居住する。 シャン族は藩都とその北方の平原、及びナムタムパック川流域に多く、湖南部とシキップにもシャン族が目立つ。 タウンヨー族は北部と藩都周辺、ダヌ族は主に北部で見られる。 鉱産物は殆ど無く、チーク林が無いことから林業も行われていない。 農業がほぼ唯一の藩の産業である。 藩西部の湖周辺の盆地では稲作が農業の中心である。 一部で二毛作も行われているが、裏作物の収穫は乏しい。 インレー湖北岸の藩都周辺や湖からザムカに向かって流れるバルチャウン川流域では水田のかなりの部分が水面より低い位置にあるため、水路の整備や排水には多大な労力が費やされる。 米以外では、湖周辺ではサトウキビが栽培されているほか、水路の縁を利用した檳榔の栽培も行われている。 やや標高の高い両岸の山脈の麓に当たる地域では落花生が主に栽培されている。 更に標高の高い地域ではプランタン、玉葱、エンドウ豆等の果樹園がある。 一方藩東部は丘陵性の地形で、混合農業も広く行われているが、殆どの農家は稲作のみで生計を立てており、タムパック盆地のシャン人は特にそうである。 綿花と落花生の多くはタウントゥ族によって栽培されている。 藩東部の農業の特徴としては、他にニンニクの栽培がある。 これらに加え、ヨンホエ盆地ではイギリスによって導入された小麦栽培も成功を収めている。 農業以外では、インレー湖周辺で絹織物及び綿織物が生産されている。 原料の綿は藩内で生産されているが、絹はビルマやシャム、又は中国から輸入されたものである。 ○ 歴史 藩の歴史は古く、かつての藩の領域は現在よりもかなり広かったと言われ、西シャン州はヨンホエ藩とモンナイ藩にほぼ2分されていたと伝えられる。 ヨンホエのソーボワは自らをタガウンのバインナチャイ王の子孫であるとしており、かつてタガウンが破壊された際に住民がシャン州に移住したのがその起源という。 当初の藩都はカウタンビと呼ばれ現在のヨンホエの北方5マイルの位置にあったとされる。 現在のヨンホエの町は1359年、シー・セン・ファによって建設された。 シー・セン・ファの治世にタボイからやって来た2人の兄弟がソーボワに仕えていたが、この兄弟がソーボワの支援の下にタボイから36家族を呼び寄せ、藩に移住させた。 これらの人々は藩都の南のナンテに住み着いたが、次第に南に居住地を広げ、やがて湖の一帯に住むようになった。 彼らの子孫は"湖(イン)の人(ダー)"と呼ばれ、現在では藩の人口の4割を占めている。 その後1615年にソーボワのサオ・トイが死去し、跡を継いだ息子のサオ・カムも同年に息子の無いまま死去した。 後継者の途絶えた藩はサオ・トイの祖母で、その未成年時代に摂政を務めた祖母のサオ・ナウン・ペに委ねられるが、サオ・ナウン・ペも1618年に死去する。 以後ソーボワの空位が続くが、1630年に、サオ・トイの娘を母に持ち、当時モンミットに住んでいた少年 − サオ・アウン・カム − が呼ばれ、ソーボワを継承した。 これ以後、1962年のソーボワ制廃止までサオ・アウン・カムの子孫が藩を継承することになる。 サオ・アウン・カム以後、長くソーボワの継承に伴う混乱は生じなかったが、1852年に即位したサオ・セ・ホムは自らの地位を確実なものとするため、ビルマのパガン王の妃であった妹の力を借り、ケンモン(皇太子)であった従兄弟のサオ・スー・デワをビルマ滞在中に暗殺した。 サオ・スー・デワの未亡人と幼い息子のサオ・マウンは、当時パガン王と対立してシュエボーに亡命していたミンドン王子と手を結び、王子を支援した。 王子はその後ビルマ王として即位、暫くの間、サオ・マウンはミンドン王の養子となっていたが、サオ・セ・ホムの跡を継いでいたサオ・ナウ・ファがビルマ宮廷の陰謀に巻き込まれ、ビルマの攻撃を受けて藩を追われると、1864年10月23日に17歳でヨンホエ藩ソーボワの位に就いた。 しかし、1885年、サオ・マウンがマンダレーを訪れている間、従兄弟のサオ・チッ・スーが挙兵、藩に戻ったサオ・マウンはサオ・チッ・スーと戦うが敗れ、当時アンテン(インデイン)のミョーサだった異母兄のサオ・オンに支援を求め、自身は負傷の治療のためビルマに向かった。 サオ・オンは難無くサオ・チッ・スーを放逐し藩を占領するが、サオ・マウンに藩を返還せず、自らソーボワの位に就いた。 しかしサオ・チッ・スーがビルマ王の地位を狙うリンビン王子の支持者であったためサオ・オンはリンビン王子とその支持者であるリンビン同盟と敵対することになった。 このため、サオ・オンは当時マンダレーを占領していたイギリスに支援を要請、イギリス軍は1887年2月10日、さしたる抵抗も無いままヨンホエに入った。 サオ・オンはイギリスによってヨンホエのソーボワとして承認された。 ソーボワの地位を追われたサオ・マウンには年金が与えられたが、1897年にサオ・オンが死去すると、再びソーボワの地位に就いた。 サオ・マウンは開明的な統治を行い、藩はかつて無く繁栄した。 1901年にKSM勲章、1908年にはCIE勲章を授章し、1916年にはナイト爵位を授与された。 更に1906年には9発の礼砲を許されている。 また、1909年にはビルマ立法評議会の委員に任命されている。 1926年にサオ・マウンが後継者を指名しないまま死去すると、藩は一時イギリスの管理下に置かれるが、1927年にサオ・マウンの甥のサオ・シュエ・タイが後継者に選ばれ、1929年5月8日に正式にソーボワとして即位した。 サオ・シュエ・タイは一族の中では目立った存在ではなく予想外の決定と受け止められたが、植民地軍に参加し第1次大戦にも従軍する等、イギリス側にはよく知られていた。 ○ 風土 − 百年前の風景 − 藩都のヨンホエは恐らくシャン諸藩の大規模な藩都の中では最も質素な町である。 周囲は湿地の中に開墾された農地に囲まれており、湖とは水路で、北方の平原とは水田の中を走る土手道で結ばれている。 かつては城壁に囲まれた町であったが、現在では城壁は殆ど残っていない。 ヨンホエにはヨンホエ藩自身の藩邸(ホウ)の他に、マウマイ藩の藩邸が存在した。 マウマイ藩のソーボワがヨンホエを訪れた際に利用したものとされるが、シャン州の首府として各藩の藩邸が置かれていたタウンジーを除き、他藩に藩邸を置いていた例は珍しい。 シャン人はかつて湖が現在よりも遥かに小さかったと信じており、実際に水没した遺構も見られる。 しかし実際にはかつて湖は現在よりもかなり大きかったと考えられ、藩都北方のマウリサット付近まで広がっていたとする古い伝説もある。 この付近には城塞化された大きな町の跡が残り、多数の遺物が出土する。 ○ 藩邸(ホウ) ヨンホエ藩の藩邸は現存する数少ない藩邸の中でもシーポー藩のものと並び最もよく知られている。 シーポー藩の藩邸が英国風の洋館であるのに対し、ヨンホエ藩のものはイギリスの様式を一部に取り入れつつも伝統的なシャン様式を残しており、その規模と共にシャンの藩邸の代表と言って良いものである。 現在のヨンホエ藩藩邸 (参考文献) Scott, J.George and J.P. Hardiman. (1901). Gazetteer of Upper Burma and the Shan States. Rangoon: The Superintendent. Government Printing. Chiefs and Leading Families in the Shan States and Karenni. Rangoon: Goverment of Burma.. Elliott, Patricia. (1999). The White Umbrella. Bangkok: Post Books. |