報告
「和歌山衛戍病院 在営記念写真帳 1931」を資料とした
陸軍衛戍病院に関する検討
Report
Examination of "
SUMMARY
It is a constant hospital installed in the
place where a military unit is stationed, and the
As a result, I understood that I accorded with capacity in the law and real capacity surprisingly.
要約
陸軍衛戍病院は,部隊が駐屯する場所に設置された恒常的な病院であり,駐屯部隊の将兵の健康管理や治療に専従するものである。今回著者は,1931年に制作された陸軍和歌山衛戍病院の写真帳を資料とし,当時の陸軍法規と照らし合わせて,定員・現員の実際などを検討した。
その結果,法規上の定員と実際の充員とは,驚くほど一致することが判った。
索引用語・ 陸軍病院 / 日本陸軍 / 和歌山
Key Word
1・はじめに
衛戍(えいじゅ)とは陸軍部隊が恒常的に一地に駐屯することであり,その淵源は衛戍病院条例(明治41年3月4日公布の勅令第25号)である1)。
陸軍衛戍病院は,部隊が駐屯する場所に設置された恒常的な病院であり,駐屯部隊の将兵の健康管理や治療に専従するものであった2)。
昭和11年11月2日 軍令陸第19号「衛戍病院ノ名称改正ニ関スル件」によって,衛戍病院は陸軍病院と改称されるに至たり3),さらに戦後は,陸軍病院のほとんど全てが国立病院に改組されて,現在に至っている。
今回焦点として検討を行なう和歌山衛戍病院は,第四師団が所管する三等病院であり,和歌山県海草郡湊町に存在した4)。
なお,昭和初年に第四師団が所管する,すべての衛戍病院を列記すると
1・大阪衛戍病院 一等病院
2・篠山衛戍病院 三等病院
3・和歌山衛戍病院 三等病院
4・深山衛戍病院 三等病院
5・大阪衛戍病院 高槻分院
6・大阪衛戍病院 信太山分院
7・大阪衛戍病院 岩屋分院 の七つであった5)。
関連として,同じく昭和6年当時の第四師団の編成を見ると,
第四師団司令部・大阪
歩兵第7旅団司令部・大阪 (歩兵第8聨隊・大阪, 歩兵第70聨隊・篠山)
歩兵第32旅団司令部・和歌山(歩兵第37聨隊・大阪,歩兵第61聨隊・和歌山)
騎兵第4聨隊・堺,野砲兵第4聨隊・信太山,工兵第4大隊・高槻,
輜重兵第4大隊・堺,深山重砲兵聨隊
となっており,兵員数の多い衛戍地に,衛戍病院が設置されていた事が判る6)。
さて,著者は古書店において「和歌山衛戍病院 在営記念写真帳 1931」という写真集を入手した(以下,写真集と略称する)。わずか20ページの冊子であるが,1931年(昭和六年)当時の衛戍病院の実態を示唆する史実があるのではないかと思料し検討を加えた。その結果,いくつかの興味深い事実を見出したので報告する。
2・在営記念写真帳とは
昭和6年当時,陸軍現役兵の在営期間は原則として二年であった7)。(注・ただし中学卒業者以上の学歴を有する者から選抜される,一年志願兵の在営期間は一年,青年訓練所の課程修了者は一年半であった8)。)
衛戍病院に勤務する現役兵は,全員が衛生部に属する看護卒,もしくは磨工卒であった。注・昭和6年11月7日,勅令第二七〇号 陸軍武官官等表改正,勅令第二七一号陸軍兵等級表により,看護卒は看護兵に,磨工卒は磨工兵に改称された。本写真集が昭和六年のいつごろに編纂されたものかは明らかではないが,本稿では改正された呼称を用いる9)。
昭和初頭,現役兵の入営は1月10日であった。その日入営した初年兵は,翌年の11月30日まで兵役に服する事になる。したがって,この写真集は,無事に兵役を終えて満期除隊する二年兵の記念の為に作成されたものと考えられる。
3・現役看護兵,磨工兵の採用と教育
昭和6年は戦時ではない為に,日本陸軍の全ての部隊は現役兵からのみ編成されていた。
衛生部の兵卒は,隊附看護兵と病院附看護兵,ならびに病院附磨工兵の三種類であった。
隊附看護兵は,それぞれ歩兵・砲兵・騎兵・工兵・輜重兵の現役兵として召集された初年兵から選抜される。入営から四カ月,それぞれ歩砲騎工輜の軍事教育を受けたのち,隊附看護兵として適任の者を,衛生部に転科せしめ,八カ月間,衛戍病院で看護学教育を施した。それに対して病院附看護兵や病院附磨工兵は,各兵科の兵卒と同様に,入営のはじめから衛兵部兵卒として衛戍病院で教育されたのである10)。
ちなみに磨工兵とは,病院器材,衛生物品の保守・管理・研磨を専門とする衛生部の兵であり,隊附勤務は無かった。
4・陸軍衛戍病院の目的と組織
大正11年勅令第58条・衛戍病院令第2条により
「衛戍病院ハ其ノ所在地ノ陸軍部隊ノ患者ヲ収容治療シ衛生材料ヲ保管供給シ衛生試験ヲ為シ衛生部下士以下ノ教育ヲ掌ル」と定められており,治療・衛生材料の管理・供給,部隊の公衆衛生を司り,下士官以下の教育機関でもあった11)。
また第5条・第7条により,衛戍病院には
病院長・軍医正・軍医・薬剤正・薬剤官・看護官・主計・准士官・下士・看護婦長・看護婦・看護兵・磨工兵を置く事になっていた。
この時代の衛生部は将校相当官であったので,軍医正とは衛生部の医師たる佐官,軍医とは衛生部の医師たる尉官,薬剤正は衛生部の薬剤師たる佐官,薬剤官は衛生部の薬剤師たる尉官のことである。主計は経理部の尉官の事である12)。
具体的な組織は衛戍病院服務規則によるが,それによれば衛戍病院には以下のような人員であった。
1・病院長(軍医正をもって充当する。)
病院長の下で病院業務は,庶務・診療・教育・経理・衛生材料に分かれる。
2・庶務主任(軍医正もしくは一等軍医より充当)
3・診療主任(軍医正もしくは一等軍医より充当)
4・教育主任(軍医正もしくは一等軍医より充当)
5・経理主任(主計より充当)
6・衛生材料主任(薬剤正もしくは薬剤官から充当)
主計や薬剤官の居ない病院においては,軍医が経理主任や衛生材料主任を代行する13)。
病室は,
1・内科病室 2・外科病室 3・眼科,耳鼻咽喉科病室 4・皮膚科,花柳病科病室
5・伝染病科病室 に区分され,必要に応じて将校病室を置く事もできた。
それぞれの病室には,病室附軍医正,病室附軍医,病室附看護官,病室附看護長,病室附看護兵が定められたのである14)。
5・衛戍病院の種類と編成
衛戍病院は,その規模によって一等から四等に区別された。ただし四等衛戍病院は,大正7年11月に廃止され,名称も分院と改められている15)。
以下に,昭和初年における各等衛戍病院の定員を示す。
一等衛戍病院・ 病院長 軍医監(少将相当官)
病院附 一等軍医正2名 二等軍医正1名 三等軍医正2名
一等軍医 2名 二・三等軍医3名
薬剤正 2名 薬剤官1名
主計 2名 看護官1名
看護長31名
注・看護官は少尉候補者制度の設立に伴って,大正11年3月29日勅令第59号により新設された。従来は,平時の衛生部下士の進級上限は上等看護長・上等磨工長(准士官・特務曹長相当官)までであったが,一等看護官(大尉相当官)までの進級が可能になったのである16)。
二等衛戍病院・ 病院長 一等軍医正(大佐相当官)
病院附 二等軍医正1名 三等軍医正1名
一等軍医 1名 二・三等軍医2名
薬剤正 1名 薬剤官1名
主計 1名 看護官1名
看護長17名
三等衛戍病院・ 病院長 二等軍医正(中佐相当官)
病院附 三等軍医正1名
薬剤官1名
看護長8名
以上が衛戍病院の専従人員であるが,衛戍地の部隊に勤務する隊附軍医正以下は,衛戍病院勤務を兼務する事になっていた。そのために,二等軍医正たる三等衛戍病院長は,歩兵聨隊附高級軍医の兼務であった。その場合は,歩兵聨隊には三等軍医正を置かない事になっていた17)。
6・軍人以外の勤務職員
1・嘱託歯科医
大正8年5月23日公布の陸軍省令第16号 衛戍病院歯科医採用規則により,民間の歯科医師を採用できる事になった。その身分は,「陸軍部内限り高等官待遇」の嘱託であった。,定員は一等・二等・三等衛戍病院ともに各一名であった。
採用の条件は,21歳以上40歳未満の歯科医師免許を有する者であって,男女の別は定めてはいない。採用責任者は衛戍病院長で,歯科医の定年は50歳,手当は内地においては月に50円以上70円以下であった。大正9年7月21日には,それが85円以上115円以下と増額されている18)。なお,陸軍歯科医将校制度(陸軍歯科医少将〜陸軍歯科医少尉)が制定されたのは,昭和15年3月30日(勅令第213号)である19)。
2・看護婦
大正8年7月7日公布の陸軍省令第21号により,重症者の看護の為に,看護婦長と看護婦を東京第一衛戍病院に限って採用する事になった。日本赤十字社において教育された看護婦長・看護婦は実に有能で,評判もすこぶる良好であった為,大正8年12月26日陸普5075により,一・二等衛戍病院に看護婦長・看護婦が採用される事になった。
陸軍看護婦長は「陸軍部内限り判任官待遇」の嘱託であり,伍長相当で,それ以上には昇進しないのが原則であった。陸軍看護婦も陸軍嘱託であり,身分は二等兵に準ずるとされた。左襟に職別徽章である星章を付し,星章が二個は看護婦長,一個は看護婦であった。
看護婦の採用に当たっては,大正8年7月8日の陸軍次官通牒 陸普第2643号により,当初は「日本赤十字社養成ノ者」に限られたが,大正12年10月5日の陸軍省令第28号により「看護婦長及看護婦採用規則」が公布され,看護婦免許を有する者であれば採用できることになった。
ただし看護婦長の採用は,1・日赤救護員規則による看護婦長適任証書を有し,実地経験一年以上の者で,2・看護婦の実地経験四年半以上の者の中から,試験委員会が銓衡するものとされた。
看護婦の待遇は陸軍傭人で,看護婦免許を有する者を採用する。看護婦の採用責任者は,当該衛戍病院を所轄する師団軍医部長であった。看護婦長・看護婦ともに営外居住者である。
大阪衛戍病院(一等)では看護婦長1名,看護婦8名,雑仕婦2名が定員であり,
二等衛戍病院の定員は,看護婦長1名,看護婦7名,雑仕婦2名
三等衛戍病院の定員は,看護婦長1名,看護婦2名,雑仕婦1名であった20)。
7・病院長の写真の検討

次に写真帳の検討を実施した結果を記述する。病院長のポートレートであるが,「島内病院長」としか書かれていない。階級は二等軍医正であり,胸に付けられた勲章・徽章類は,向かって左から
勲四等瑞宝章・勲六等旭日章・大正三,九年従軍記章・大正大礼記念章・戦捷記念章・昭和大礼記念章・日本赤十字特別会員章である。
このことから島内病院長は,日露戦争後に陸軍に入り,第一次世界大戦に参戦した事が分かる。シベリア出兵にも参加した可能性があるが,従軍記章は,第一次大戦もシベリア出兵も,両方に従軍しても同じ物が一個しか授与されないので,その点は不明である。
昭和10年の衛生部将校相当官実役定年名簿を確認したが,「島内」の名前は見当たらない。おそらくは,この写真長が作られた数年後には予備役に編入されたのであろう。かなりの高年齢のように見えるが,おそらくは五〇歳そこそこであったと思われる。中佐相当官で瑞四が授与されているのは,古参中佐の部類に入るのであろう。また,従五位であった可能性が高い。
前述のように,二等軍医正の三等衛戍病院長は,歩兵聨隊の高級軍医を兼任する。したがって,島内二等軍医正は,同じ衛戍地にある和歌山歩兵第61聨隊の高級軍医でも有った。
8・軍医たちの写真(以下写真1と記述する)の検討

向かって左上から,「61」の襟章を付けた一等軍医,襟に数字の無い三等軍医正,左下は「3」の襟章を付けた二等軍医,中央は「61」の襟章を付けた二等軍医,右下は襟に数字の無い二等軍医である。「61」の襟章を付けた者は,歩兵61聨隊の隊附軍医で間違いないと思われる。すなわち,写真に写っている5名の軍医のうち,2名は間違いなく兼任の軍医である。三等衛戍病院の専任軍医の定員は,三等軍医正だけなので,残りの二名もおそらくは隊附軍医の兼任であろう。「3」の襟章は第三師団の特科部隊(注・旧軍では歩兵以外の砲工騎輜などは全て特科部隊と云われた。)の隊附軍医を示すが,おそらくは写真が古く,転勤前の物を使用したのであろう。また服装の上からは,軍医と薬剤官を区別する徽章等はないので,断定は困難であるが,一番右下の人物は薬剤官と思われる。すなわち薬剤官は隊附勤務が無いので,襟に聨隊番号を付ける事は無い。写真では,前述の三等軍医正を除けば,聨隊番号の無い者は二等軍医が一人だけである。となると,この人物は軍医ではなく,薬剤官であり,二等薬剤官である可能性が極めて高い。それは写真集の中の「薬室」において,同一人物が写っているので,その点からも類推される。
9・全員の集合写真(写真2と称する)の検討

向かって左,最後列から
1・白衣の男性その1, 2・二等看護兵,3・二等看護兵, 4・白衣の男性その2
うしろから二列目
5・ 一等看護兵, 6・一等看護兵, 7・一等看護兵, 8・一等看護兵,
9・ 二等看護兵,10・二等看護兵,11・二等看護兵,12・看護婦
13・看護婦, 14・看護婦長
うしろから三列目
15・上等看護兵, 16・一等看護兵, 17・上等看護兵,18・三等看護長
19・三等看護長, 20・一等看護兵, 21・一等看護兵,22・上等看護兵,
23・一等計手(のちの主計曹長・経理部曹長相当官)
座っている列,左から
24・二等看護長,25・二等看護長,26・一等軍医,27・三等軍医正,
28・二等軍医正(病院長) 29・二等薬剤官 30・嘱託歯科医師(背広)
31・一等看護長 32・一等看護長
総員32名を数える,こじんまりとした病院であった印象である。
以上を職種ごとに分類すると,軍医3名,薬剤官1名,看護長6名,一等計手1名,
看護婦3名(うち一人は看護婦長)
看護兵(二年兵)10名,看護兵(初年兵)10名,白衣の男性2名となる。
のちに登場する写真から,白衣の男性2名は炊事場で働いている事が分かる。写真を見る限り,年齢的には明らかに30代を過ぎており,陸軍傭人の可能性が高い。
10・隊附衛生部員の集合写真(写真3と称する)の検討

次の写真は「隊附衛生部員」という説明がついている。
一見して驚くのは,軍服を着ている者が少なく,「営内服」と呼ばれる,非常に粗末な作業服を着ている者が多い。営内服とは,着古して正規な場面では使用に耐えられなくなった軍服から徽章や襟章,階級章などを外したものであり,襟布すらつけない。そして主に営内の雑用や,作業のときに着用されたものである。
上の列,左から
1・営内服を着た兵,2・二等看護兵,3〜10・営内服の兵,
中列左から,
1・精勤章を三本つけた上等看護兵,2・精勤章二本の上等看護兵,3〜9・上等看護兵
下の列,左から
1・三等看護長,2・嘱託歯科医師,3・三等軍医正,4・病院長,5・二等薬剤官,
6・三等看護長,7・二等看護長
軍服を着ている兵全員が,襟に「61」の聨隊番号をつけている。すなわち,和歌山歩兵第61聨隊の隊附衛生部員である事が判る。
おそらくは,営内服を着ている10人は全員が初年兵であろう。二年兵と思われる軍服姿の9名は,全員が上等看護兵である。極めて優秀な二年兵であろう。通常,看護兵や縫工兵,靴工兵,銃工兵などの特業兵は,特別の事がない限り,上等兵には昇任し得ない21)。 上等看護兵のほぼ全員が二本以上の精勤章を付けている事を考慮すると,満期除隊寸前の時期に撮影されたものと考えるのが妥当であろう。おそらくは,除隊寸前に上等兵に昇進した,いわゆる「営門上等兵」が多くを占めているものと推量される。
昭和初年の歩兵聨隊の編成は,三個大隊からなる。一個大隊は,平時は三個中隊,戦時には四個中隊で編成された。この時代には機関銃中隊は存在しておらず,したがって一個聨隊は九個中隊編成である。
衛生部員は一個中隊あたり,二年兵1名,初年兵1名が定員である。
各大隊本部の衛生部員は,大隊附甲軍医1名・大隊附乙軍医1名・看護長1名を定員とする。ただし,軍医は不足していたので,通常は乙軍医の配置は無い。
なお,聨隊本部の衛生部員は,高級軍医1名・次級軍医1名・看護長1名である。
三等病院長たる二等軍医正は,歩兵聨隊附を兼務して,その場合は三等軍医正を置かないことになっているので,歩兵61聨隊の衛生部員の定員を考えると,一等軍医2名・
二・三等軍医2名・看護長3名・看護兵(二年兵)10名・看護兵(初年兵)10名
となる22)。
次に実際の人員と,定員との比較を実検した。「写真1」により,一等軍医1名,二等軍医が2名である。看護長は,「写真3」により二・三等看護長を3名確認できた。おなじく「写真3」から看護兵(二年兵)は11名,看護兵(初年兵)は8名であった。これらは,定員と実数とがほとんど一致している事を示している。
なお,隊附の看護兵は教育の為,半数は部隊医務室や衛戍病院で勤務することになっていた。また,残りの半数は演習などで,部隊に同行する。すなわち看護兵は,医務室・病院勤務と,隊附勤務とを交代で行なっていた23)。
11・歯科室について

大正時代の歯科室の写真は大変貴重であるが,残念ながら,衛戍病院に装備されていた歯科用旋盤器が写っていない24)。当時のものは,足踏み式であったはずである。
歯科用椅子は一個のみ,写っている人物は,左から
1・61聨隊の上等看護兵 2・看護婦長 3・看護婦 4・嘱託歯科医師の四人である。
元来,陸軍看護婦は,重症者の看護のために設置されたので,歯科室に勤務していたとは考えにくい。可能性としては,交代で歯科治療の補助を行なっていたのかもしれない。
12・手術室について

腹部のガーゼ交換をしている様子である。左から
1・看護婦長 2・61聨隊の二等軍医 3・(病院長)二等軍医正 4・病院附看護兵
5・(術者)61聨隊の一等軍医 6・病院附看護兵 である。
手術着を着ている者は,術者のみであり,しかも素手であり,グローブをしていない。他の者は,軍服の上に白衣をまとったのみで,清潔なスタイルとは思えない。
しかし,ピンセットを使って,看護兵がガーゼを術者に手渡しているところからすると,無菌操作は意識されていたものと思える。看護婦長も,通常の看護衣の上に医師と同じ格好の白衣を着ているところからすると,あるいは,この白衣は手術用に滅菌されたものである可能性もある。陸軍看護婦の看護衣は,陸普第2643号により規定されたものであり,軍人の軍服と同じ取り扱いがなされた25)。したがって,衛戍病院で勤務中は脱ぐことは許されない。別の写真において,病院内の宴会でも,看護婦が看護衣を着て飲食している様子を窺うことができる。
13・結語
終戦からすでに60年以上を経過し,日本陸軍の実態を示す資料は次第に消滅しつつある。
実体験を語る経験者が少なくなるにつれ,残された文書や写真資料は貴重なものとなってきている。
今回,昭和6年当時の地方三等衛戍病院の写真集を検討したところ,欠員などはほとんど見られず,実際に配属されていた人員やそれに対応する階級などは,文書資料に残された定員表と驚くほど一致することが判った。
これらの事は,文書資料の正確さを二次的に補完するものであり,日本陸軍の組織の精緻さを表す資料となると思料する。