大日山を水系とする動橋川・八日市川・御橋川と大聖寺川水系の市の瀬用水が流れ込む柴山潟の水源は、農業、漁業、観光等流域住民の生活を支えると共に、市民の憩いの場所として重要な役割を果たしてきました。
昭和30年代までの柴山潟は、水が澄み、夏休みになると水遊びをする子供の歓声があがりました。
水生植物のガマ・ガガブタ・ヒシ・ヨシなどが群生しトンボやチョウが飛び交い、水中にはフナやコイなどが住み又、初冬になると多くの渡り鳥が飛来して羽を休ます姿など、柴山潟の自然は、田園風景と白山と相俟って四季折々人の心を癒してくれました。
昭和40年代に入り、日本は高度経済成長期の真っ只中で日本中が好景気に沸き返っていました。
当市の基幹産業のひとつである観光産業も好景気にあやかり、昭和40年代から5年間での宿泊客は大幅に増加しました。
年々増加する宿泊客に対応するため、柴山潟流入河川の上流である山代温泉は大規模旅館へと変身しました。
一方片山津温泉は、昭和44年の大火を契機に高層ホテルが柴山潟岸に出現しました。
山代・片山津両温泉地における、大規模旅館等の新築に伴い、昭和40年から50年までの10年間での宿泊客は2倍強と急成長を遂げました。
この間、昭和45年に片山津温泉地内の下水道整備事業が着手、昭和50年供用開始され、柴山潟汚染源のひとつであった生活排水等の対策の第一歩がなされた。
観光産業の急成長に伴う急激な転入人口の増加に対応して、木を伐採、山を切り崩し、田畑を埋め立てし、その跡地に新しい団地が誕生しました。 又、もうひとつの重要産業である農業は、日本の原風景ともいわれた棚田から、大型機械により生産コストを少なくすることと農業の後継者を育成することを目的に、大規模圃場整備事業が推進され田地は改良され美田に変わりました。
これにより、自然の小川に替わってコンクリートの小川ができました。人口小川には、水生植物が生えなくなり、カエル、ドジョウ、フナ、ゴリなどの小魚、シジミ等は姿を消し、自然浄化されない農業排水がストレートに柴山潟に流入することになりました。
自然破壊と濫用と経済活動に狂奔した結果、旅館等の企業排水及び家庭雑排水は垂れ流し、さらに、流入河川流域の一部非常識な人の中には、河川をゴミ箱代わりにして、生ゴミや不燃物を投棄する有様でした。
このようなことから、毎年飛来してきた渡り鳥が減少した、ヒシ、ガマなどの水生植物が絶滅状態になった、キンブナがいなくなった、トンボの姿を見ることがなくなった、潟の水はドス黒くなり、湖面をわたる風に悪臭が漂うようになった。
又、潟岸の高層ビル群の陰になり、柴山潟や白山を観る場所及び親水場所が極端に少なくなったことなどのより、流域住民の心から、いつしか柴山潟は遠い存在となり、経済優先の時代にあって汚濁された柴山潟は放置された状態が長く続きました。
昭和57年、自然の沈殿槽に変わり果てた柴山潟の実態を見て、片山津地区振興協議会と北国新聞社主催による「シンポジウム:甦れ、柴山潟」がこの年の10月に開催されました。
・潟のよごれの現状とその原因、浄化運動の取り組み
・潟をめぐるまちづくりと景観整備
・潟を美しくする運動の進め方
の3つのテーマに熱心な討議が行われ、延べ参加者は500人に上り、大会宣言として「柴山潟は片山津とその周辺地域の生命である。浄化運動の先頭に立って柴山潟の蘇りに取り組むことを決議する」と当時の新聞で報道されておりました。
あれから22年の歳月が経ちました。あの時の大会宣言は何処へ行ってしまったのか、柴山潟の浄化運動として現在も継続しているのは、片山津地区まちづくり推進協議会が実施している「柴山潟一斉清掃」と加賀市女性協議会が取り組んでいる「廃食油の回収」運動が主たるものとなっています。 平成8年に設立された柴山潟流域環境保全対策協議会が「柴山潟の動植物の環境保全」を中心とした運動を展開していますが、目に見える効果は上がらず柴山潟は汚濁し続けている現状です。
平成15年の、ある日ある時「壊死状態の柴山潟を再生することが何よりも肝要」との天の声に、柴山潟が汚濁されている状況を間近に見ながら、諦めと、無関心を装いいつしか自然に対する畏敬の念を失いつつあった流域住民の心に血が通い始めました。
柴山潟の水質浄化をすることにより再生し、かけがえのない自然を後世に残すための住民運動をやらないかとの声に賛同する者が現れました。
平成15年9月28日、
流域住民で柴山潟を再生する闘いの始まりであり、壮大な夢の実現に向けての始まりであります。
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