しがない書評たちのページ
ここでは、しがない教師の読んできた数少ない本たちを紹介していきます。ずいぶんかたよった選択だとは思いますが、よかったら、参考にしてください。わざわざ読まなくても読んだ気分になれる書評を目指していきますので、ぜひ、本代の節約にご利用ください。




病める心の記録<西丸四方著>(中公新書)
 最強の本がでた!!人間失格より読み始めた私の読書人生の最大傑作!!「やさしさの精神病理」「自殺の心理学」「鬱病の時代」など、精神病理に興味を持ちながら読み進めてきた数々の新書において得てきた、具体的な症状や、その世界。基本的な精神病に関する知識は十分に得てきた中で、さらに求めていた世界観がそこにあった!
さえて、精神分裂症について少々の付記が必要であろうか。精神分裂はその原因さえよくわかっていない難解な病気であるが、その症状としては、極度の被害妄想、とりわけ幻覚や幻聴を伴った脅迫意識が増長されるため、いわゆる健常人にとって理解しがたい行動がしばしば見られる。たとえば、自分の考えが人にばれているような錯覚、他人が自分の悪口を言っているような幻聴(実際に聞こえる、と表現するのである)、自分の行動を操作する神の声やその影という幻覚や幻聴が現れる。これが、いかにもキチガイじみていることから、精神異常の代名詞のように言われているが、その原理は以外にも簡単であると、私も思う。「精神分裂では心は夢と現実の中間にあり」とあるように、普段、我々が外界にの刺激を受けるとき、「過去の経験、希望、恐れ、期待、欲望」といった「バックグラウンドから出てくるものによって規定」することでたとえば雀を見たとき「雀を雀として認識し、害鳥と判断し、愛すべき鳥として評価し、それを捕らえようとするか、それに餌をやろうとするか」を決定するのである。これが精神分裂の世界では、現実認識の判断思考力が低下することにより、夢の世界、つまりバックグラウンドの比率が大きくなることにより、混沌としたバックグラウンドの情報を、恐れや希望、欲望に基づいた心理活動によって判断してしまうため、現実的な判断を欠いた世界が生まれる。
これはいわば夢や酒でうなされている状態などの、判断力の低下に似ている。夢では現実的な判断から大きく逸脱した世界が形成しているにもかかわらず、その世界に自分が含まれている限り、その世界を疑うことはないのと同じように、精神分裂の世界は、現実的な判断からは矛盾していようとも、その本人には現実世界なのである。
前置きが多くなってしまったが、そういった夢うつつの世界を、精神病医が表すとき、その典型的な症状を一般論に「被害妄想あり」とか「幻覚・妄想」など記すにとどまる。これを、患者の見た世界として表現した、数少ない作品である。
ありありと描かれた分裂病の世界を是非とも堪能してもらいたいところである。
そして、一見「キチガイ」じみた分裂病の世界にあふれるリアリティーと感じ取って身近なものとしてもらえれば、実は分裂病の世界は、我々の世界から激しく飛躍した世界ではなく、我々の一般的に有している不安や恐怖が少し増長されたことによって現れる、我々のいる世界のあくまでほんの少しの延長線上であることがわかるだろう。





新編 銀河鉄道の夜<宮沢賢治著>(講談社)
私は宮沢賢治を知らない。宮沢賢治を読み終えた今も、よくわからない。中学生時代、現代文の教科書に「注文の多い料理店」を読み、その描写の繊細さ深い感銘を受けたのであるが、今となってはその詳細な内容は思い出すことはできない。
ただ、いろいろな本を、自分の好奇心にあったタイトルに限って読みあさってきた、ここ数年の乱読の結果、この時期になって、ようやく「名著」とよばれるもの、そして偉人と呼ばれる者の本を読んでいく、その必要性に気がついた。というよりは、その衝動に煽られた。そのなかで私と同じ農学に思いをよせた(ただし彼は農芸化学者であったが)彼が宮城において理想郷を建設した、その事実の背景となる思想だけでもうかがい知ることができたら、と思いこの書をとった。
読み終えた今、この感想を述べなければならないのだが、本文、感想ともに非常に難解な言葉で並べ飾られている。思想深き、賢治の小説集だけあって、童話と称されるこれらの小説には、奥深い概念が随所にちりばめられている。
その代表作とされる「銀河鉄道の夜」は、内容は、孤独な少年のたった一人の友人の死出の旅が主題とはなっているが、あくまで、それは臨死体験などとよばれる、安っぽい死生観ではなく、賢治自身の人生を通じて得られた哲学としての「生き方」を提案している。その意味で、この物語たちは十分に童話であるといえる。
中に登場する人物たちは、みな、それぞれの人生を、精一杯に生きている人たちであり、それぞれが、その使命を背負っているわけではないけれど、それぞれの精一杯の人生が宇宙意志に導かれて幸福の世界を目指している。「みんなむかしからのきゃうだい」と考えるあたりなども、非常に仏教的であり、東洋的、日本人的ではある中で、そこに化学の合理性を織り交ぜた、完成された人生観がみられる。
言葉自身は平易であるが、文体が現代の文体と離れており、読みにくいため、敬遠していた方もあろうが、是非接してほしい一冊である。





親とは何か<伊藤友宣著>(講談社新書)
神戸を拠点に里親斡旋活動を展開する著者による、里親を通じた「親論」が繰り広げられる。里親は養子と異なり、実母の経済状況、生活環境などの事情により一次的に他人に預ける制度であり、より「親」としての認識が重要な役割をもってくる。だからこそ、この著者は「親とは何か」という問いに対して、真っ向から立ち向かうことができたのであろう。薄っぺらい教育論、心理学、哲学のような理論に左右されることない、自らの体験を、そして現場の声を忠実に吸収し、かつ消化することにより「個人と社会との仲立ちとしての「家族」」(本文引用)について説くことを可能とした。
1972年初版とは思えない、現代にも通ずる社会観をかいま見るに、今も昔も変わらぬ家庭の問題と、そして親という立場に対して、改めて自問せずにいられなくなる。その自問に、自他の体験談を交えながら、親のあるべき姿を映し出すその説得力には、ただただ感心するばかりである。この説得力は、人の人生に深く関わった者に特有な能力ではないかと思う。今後、仕事を通じて様々な若者の人生に影響を及ぼしていくべき自分の姿に、この能力が備わるのかどうかと考えると不安をかくし得ない。さて、本書の中で数多くふれられている、それぞれ里親活動の実例であるが、なかでも最終章を一つ占めている「さとる」とその里親の体験談は、引き取られてから六年もの間に渡った記録であるため、引き取られた「さとる」にとどまらず、彼を取り巻く環境である、すなわち引き取った「完成された家」であったF家の変化をもみることができる。「完成された家」にひとたび子供が入り込むことで、「それまで均衡のとれていた家族相互間の力学的な関係が崩れ、含みこんだ子どもと共に、家族全体が何らかの変容を余儀なくされ」ていく過程が、手に取るようにわかる。そこにみられるのはもはや、里親のあるべき姿だとか、里子への接し方といった表面的な問題ではなく、「親とは何か、あるいは、親が子どもを育てるということはどんな意味をもつか」という根本的な命題について、我々、つまり読者共々が考え直すきっかけを与えてくれる。
これから親になる人間、すでに親となって子育てに辟易している人間、そして、子育てを経験した人間が、それぞれの子育て観をもやもやしたものから脱却した、それでいて柔軟かつ普遍的なものへと進化させようと考えるとき、この本は大いに役立つと考えられる。また逆に、親となることを放棄するつもりの人間や、すでに親となることを放棄してしまった人間が、やはり真に人間らしく、人間が人間として生きるために、この書をそれぞれの心にくぐらせてほしいのである。少なくともこの本を読み終えた私は、よき親として、そしてよき教育者として一歩前進したつもりである。





「行動学入門」<三島由紀夫著>
「この本は私の著書の中でも、軽くかかれたものに属する(同書「あとがき」より)」とあるわりには、驚くほど読破に時間がかかった一冊である。かつて、私がトルコを旅した際、その途中で出逢ったペルー人(これも因果なことだが)に「ミシマユキオを知ってるか」、ときかれた。彼はそれほど、世界中にまで知れ渡るほどの大人物だったのである。と、同時に日本人である私にとって、これは初めて三島由紀夫に触れた瞬間でもあった。本書を選んだのも、それまで三島由紀夫にすら触れたことのなかった自分への羞恥心に対する反省からであった。
「割腹自殺」という異様なキーワードでのみ理解されていた三島由紀夫を、その彼の行動を理論的に解説してくれる本書は、彼自身を理解するだけでなく、陽明学(日本史でやりましたよね。つまり、形式ではなく、思ったことを行動に移すことを最良と考える哲学)を通じ、江戸時代以来の日本人像を示す本として位置づけることができる。三部に別れる本書では、第一部として「行動学入門」、第二部として「おわりの美学」、第三部として「革命哲学としての陽明学」から構成されており、それぞれ、「PocketパンチOh!」「女性自身」「諸君!」と一見無関係にも思える三誌に連載されたものではあるが、それぞれの読者層を意識した語り口調で、丁寧に論じている。そして、この語り口調こそが、劇作家の顔を持つ三島の「らしさ」であるといえるのである。彼の作品は往々にして語り口調であり、わかりやすく、そして、彼の行動の美学をやんわりと読者に刷り込むのである。
初めて読んだ三島の作品であるにもかかわらず、ここまでストレートに訴えることで、彼の主張を知ることができたのは、その文体の説得力と丁寧さによるものであると賞賛するとともに、その才能に驚嘆せざるを得ない。それにしても、ここまでの美学へのこだわりには、陽明学の他に何らかのコンプレックスへの反動さえも垣間見られるのは、私だけではないだろう。





「<子ども>のための哲学」<永井均著>
この本は、<子ども>(子どもの心を持った人)のための哲学入門書である。著者のとらえる哲学入門書とは、将棋の入門書が将棋の鑑賞を目的としているのではなく、将棋の実践(実戦)を目的としているのと同様に、「自分で哲学をするための」参考書なのである。これを大前提として、大きく2つの問題について考えを進めるのであるが、ここで必要なことは、「哲学」とは何であるかということである。そこで著者は、ニーチェやソクラテスなどがほんとうの意味の「哲学」ではない、と言及する。つまり、哲学とは世の中では常識と考えられていること、たとえば「生きていること」だとか「善いこと、悪いこと」だとか、そういったことに「上げ底」感を抱いてしまった人が、「自分自身を納得させるためにそれを埋めていこうとする努力」なのだ。つまり、「哲学」は思考過程こそが「哲学」なのである。「思考の成果はつねに残骸であり、さらに思考されるべき課題にすぎないからだ。プラトンはけっしてプラトン主義者であることはできず、ニーチェはけっしてニーチェ主義者であることはできない。哲学する者にとって、自分の思想はどの時点でもつねに新たな問題にすぎないからだ。生きている間、彼らはただ哲学者であったにすぎない。そして、たとえ哲学が終結したとしても、それによって哲学する当人の人生に何かがプラスされるのではない。ただマイナスが埋まるだけだ。何かがプラスされたように見えるのは、それを逆方向から、つまりそのマイナスの存在を感知しない人たちの方向から、見たときだけなのだ。哲学の成果を思想として受け入れ、それを信じて生きていくのは、だから、いつも他人なのである。」
長い引用で申し訳ないが、そういうことなのである。私は、ほんとうに哲学の定義がこうであるのかは残念ながら知らない。ただ、こういった意味での「哲学」に楽しさを感じる一人であることは疑う余地もない。少し高飛車かもしれないが、要するに、上げ底を感じない人は「哲学」をする必要はない。本書はただ、日々、日常に疑問を持ちながら生きている<子ども>たちのために、自信を持って「哲学」してもらうための入門書なのである。
「この<呼びかけ>が<哲学>を必要とするすべての<子ども>たちの<魂>にとどきますように」





「砂の女」<安部公房著>
いつだったか大学の研究室での飲み会で、酔っぱらった後輩がおもむろにそばにあったダンボール箱をかぶったのです。解りますか?「箱男」と彼は言いました。続けて彼は「彼の作品はすごいですよ。なんだか精神世界を感じます」。折りしも、とある出版社において、二冊以上買うと携帯電話のストラップがあたるというキャンペーンもありましたので、さっそく本屋さんへ向かいました。残念ながら、「箱男」は売り切れていましたので、この「砂の女」を購入しました。
後に「箱男」も購入したのですが、とにかく、この安部公房という人の作品は、ふんだんな語彙で情景描写されているため、小説ならではのリアリティを感じることができます。どうやら、この「砂の女」は、映画化されたそうなのですが、残念ながら私はまだ見ていません。しかし、この砂の女の描写をはじめとして、崩れる砂、腐った家、村人から物見櫓まで、目で見るよりもはっきりと描写された登場物のすべてをこの本よりもリアリティに満たすことはほとんど無理ではないかと思うのです。もしこの映画を見た人がいたら、ぜひ感想を教えてください。
さて、この安部公房ブシ満開の「砂の女」ですが、一般的な書評を見ますと、「追い詰められる男の心理を描いた小説」と書かれていることが多いのですが、私個人の感想では、この言葉ではぜんぜん足りない気がします。上の言葉を借りるなら「追い詰められる男の心理を描いた官能小説」、これが一番しっくりしてきます。
読む前までは、少なくとも本屋でこの本を選んだ時点では予想だにしなかったのですが、この本は史上最強の官能小説です。「写実的」という言葉を超えて、読者の脳裏に映像的に訴える、この安部公房の文章は、脳の本能を刺激する官能小説に違いないといえます。
この最強のシュールリアリズムをぜひみなさんも堪能してみてください。



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