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ヒトリゴトのページです。ここでは、私の日々感じたことを、私の観点なりに表現して行きたいと思います。これらのエッセイに批判共感なんでもご意見いただけたら光栄です。
ゆくゆくは、エッセイ集でも出版できるといいな、なんて考えていますので、出版社に関係のある方はどしどしお便りください。 |
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はじめに。(1999/6/30)
たくさん書きたいことはあるのですが、まずここは、一番目ということで、挨拶から始めたいと思います。 本日は、”しがない教師の〜”にお寄りいただきありがとうございます。本当に感激で胸がいっぱいです。過去に二度も出版のチャンスがありながら、一度も実現せず、とうとう、このような自費出版に近い形で、意見の場を得ることができました。どうぞ、情けないお話でいっぱいですが、これからも末永くお付き合いくださるよう、心よりお願い申し上げます。 さて、堅い挨拶から始まり、まるで本物の教師のようなふるまいをしていますが、残念ながらまだ私、しがない大学院生なのであります。 日々、研究に追われ、満足な睡眠もとれないまま、知識と知恵と勇気とがアンバランスにすれ違い会っている、悶々とした日々を過ごしているだけで、実際のところ、ただの求職中の無職予備軍なのです。それでも、教師という、かつては「聖職」とまで呼ばれた職業にあこがれ、もがいているのです。本当にしたい仕事はどこにあるのか、いまだに漠然としていて、結論を出すほど人生を謳歌してきたわけではないのですが、ただ、高校時代にいい先生にめぐり合い、そして自分が今ここにいる、そういった感情だけが自分の背中を押しています。 |
このヒトリゴトは、教師としてだけでなく、いっぱしの社会人として成長していけるように、私のヒトリゴトを開放し、共有し、さまざまな言葉を聞いていきたいと考えて作りました。
また同時に、私が将来、教師として働ける場を見つけたとき、生徒に教科指導の先生としてだけでなく、“先に生まれた”ことのメリットを最大限に生かせる、そんな「先生」を表現する場として、生徒たちと意見交換を行って行けたら、とも考えています。 そしてもっとも単純なことに、このわたしのしがない物語達を、より多くの人に見てもらえたらいいな、と考えているのです。 恥ずかしい話の始まりです。堅苦しい挨拶は終わりにして、肩の骨をやすめて、ゆっくりお茶でも飲みながら読み進めてください。 今日は”しがない教師の〜”にお寄りいただき本当にありがとうございます。 |
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お買い物考1(1999/7/10)
とうとう始まりました。何かを書かなければ更新履歴が増えませんので、がんばって知恵をふり絞ってがんばりましょう。一番目という事はすなわち、一番できのわるい作文になるはずで、以降、徐々に上達することを見越して、まず第一歩を踏み出していきたいと思います。 さて、唐突ですが先日衝動買いをしました。その品目はギター。かねてより私は、楽器のできないことに対してコンプレックスを持っていました。上手いとか下手とか、そういうことはぬきにして、私は歌うことが大好きなのです。昔、歌が人類を救うという趣旨の物語(アニメですが)もあったのですが、まあ、そこまで大げさではないにしても、歌うことによって、もしくは音楽を聴くことによって、何らか精神への影響が表れるのではないかと思いますし、また現に、そういう科学的な報告も見かけます。そんなわけで日ごろ、心の中にため込んでしまったストレスを大濁流として開放するために、ときおり、夜中の実験室で大声をはり上げて歌ったりしたのでした。学会や論文前もお構いなしで、忙しさに神経衰弱を起こしている先輩や後輩に、大きな迷惑をかけたのだろうといまさらながらに反省しているのです。ところで、そういったとき、いつも友人にギターを弾いてもらって、そしてその横で私はただ大声で怒鳴るように歌っていたのですが、その構図に、楽器が弾けないことに対する私の劣等感はむくむくと成長していたのでした。と同時に、私が歌うためだけの伴奏を快く引き受けてくれる、その優しい友人に対して、申し訳なさと、うらやましさも感じていました。 |
聞くところによると、ギターという代物は、それなりに稽古をすれば、半年ほどでうまくなるということでしたので、今から半年やれば、教師となる頃には十分な腕前になって、教え子たちに自慢できるのではないだろうかという公算が生まれたのでした。
かくして、その週末には楽器屋でギターを選ぶ私がいたわけですが、ところがはじめてみると、なかなかどうして、ちっとも上達しないのです。コードを覚えても覚えても、覚えてすぐに忘れてしまうのです。おまけに、私の指は少し短いらしく、上手な友人にも「不向きな手かもしれないなぁ」と、言われてしまいました。一人前なことに、練習をはじめて2週間にして、ギターの弦は切れてしまいました。どうにも弦の張替えがうまく行かず、いまだに弦のないまま立ちすくんでいる我が愛器ですが、近いうちに、ちゃんと弦を張り替えて、練習をまた始めないとな、と、顔を合わせるたびに考えてしまいます。 ありがちなギターにまつわるエピソードですが、「県庁所在地」ならぬ「元素記号ロックンロール」を作るためにも、ぜひとも上達したいと考える今日この頃なのです。 |
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読書考(1999/7/23)
まだまだ君の知らない世界があるから、ぜひとも学生のうちに出来るだけの本を読みなさい。当時、私がアルバイトをしていた予備校の先輩が、飲みに行った帰りに、しきりにそう勧めた。そのころの私は、まだ、大学二年生で、社会のことを知るどころか、高校生に毛が生えたような脳みそしか持ち合わせておらず、特に理系ということもあって、本などは、国語の教科書と、西村京太郎程度しか読んだことがなかった。ところが、なんの拍子か、そのとき酒を飲んでいたからか、妙にその言葉が頭に残った。親からも、散々本を読みなさいと言われていたにもかかわらず、やはり本当に心に残るのは、本当に大きく見える、つまり尊敬できる先輩からの助言なのだと思う。 かくして、私は本が好きになった。今では平然と、趣味として読書をあげられるが、とにかく、それ以前には新聞すら読むことのなかった活字嫌いの私が、本を読みあさる人間になってしまった。とはいえ、最初は何から読み始めていいのやら、全く見当もつかない。そこで、一番はじめに選んだ本は「人間失格」だった。確か、友人にひどく勧められた覚えがあった。なんでも、人生観が大きく変わるというのだ。その意味ありげなタイトルに惹かれていたのかも知れない。太宰に触れることで、文学の真骨頂まで一気に到達できることを期待したのかも知れない。ただ、単行本が薄かったからかも知れない。とにかく、私はその難解な本を手にし、一息で読みきった |
果たして私の人生観は変わったのか?いまだにその答えは用意できないが、はっきりといえることは、それまで自分の中でとぐろを巻いていた感情が、煙を上げて昇華していく情景が、はっきりと心の中でイメージできたということだ。つまり、共感し嫌悪しながら読み進めていくうちに、もやもやとした霧となっていた自分の感情が凝縮し、固体として、確固たる言葉として表現することが可能となったのである。
これは、その後、現在に至るまでのたった数年間ではあるが、人生にとって非常に重要な位置を占める青年期において、何物にも代え難い栄養となり、今の私を形作っているように思う。 読者諸君には自分の将来を、自分の信条を、そして自分の哲学を完成してもらいたい。本を読み、表現力を得、そして、自分の漠然とした感情を昇華させることによって、一本筋に貫かれた人生を歩みぬくための、手引きとしよう。かくいう私も、まだまだの若輩者であり、もちろんこれから先も試行錯誤を加えながら、自分の哲学をまるで生きているかのように進化させていかなければならない。そのための、生きているこの私の哲学の糧として、これからも本を読みつづけていくのである。 |
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たからもの(1999/8/3)
さて、ふとしたことで、「たからもの」についてディスカッションを交わす機会に恵まれましたので、そのときに思いついたことを書いてみたいと思います。そのディスカッションの趣旨は「たからもの」と聞いて考えたことを述べなさいというものでした。思考時間は2分、発表時間は1分ととても短いものでしたが、8人の参加者全員から、非常に有意義な意見を得ることができました。 あまり、即興で考えることが得意ではない私でしたので、最初は、「宝物」→「宝石」・「宝刀」→「ふたつとない」・「貴重なもの」などと、短絡的な発想に基づき、「「たからもの」は「宝石」や「宝刀」代表されるように、非常に貴重なものであり、つまり「二つと存在しないもの」という定義ができる。このことはなにも、前述のような物質面のみに限らず、「景色」「思い出」などのメンタルな部分においても適用できる」という、まったくまとまっているのか、いないのか、よくわからない発表をしました。あらためて、自分の即興性のなさを痛感したのです。 ところが、私は他の人の発表を聞いているうちに面白いことに気づきました。「子供のころにはおもちゃなどの物質的な「たからもの」があった」「大人にとっては、「人脈」や「思い出」といったメンタルなものが「たからもの」となる」・・・全員の発表者の意見は、総合することで、この2パターンに大別できたのです。なかには「今はまだ「たからもの」と呼べるものは存在しない」という意見もありました。どうでしょう。ということは、成長の過程において、その人間の「たからもの」が変遷していることがよくわかると思います。 |
なぜ、「たからもの」の変遷が起こるのでしょうか。私のとなりに座っていた女性が、わかりやすい言葉で、「たからもの」の定義について言及しました。「「たからもの」は、自分の所有物などの中から、偶発的に発生する「心のささえ」である」と。個人的には大賛成ですが、その言葉に従うと、「たからもの」の変遷は、人間の成長にしたがって、「心のささえ」が変化するということを意味していることになります。これは、上の言葉の「自分の所有物など」が成長しているために起こる現象です。小さい頃は、物質的な対象のみを所有していたのに対して、成長にしたがって、「友人」をはじめ「思い出」や「言葉」など抽象的な、感情的な対象さえも自分の所有物として認識し始めることを表してしているのです。
まとめるとつまり、成長にしたがって起きる「たからもの」の変化は、その定義の変化によるのではなく、成長による個人の価値観の成長によるものである、ということです。 したがって「たからもの」を増やしていくためにも、私達は価値観を成熟させ、そして「たからもの」の候補となりうる「所有物など」を増やしていくことが肝心であるといえるのです。そのためにも普段の何気ない風景ひとつにも感性を研ぎ澄ませ、さまざまなことを経験し、自分の成長の糧としていけるように心がけたいものです。 みなさんの「たからもの」はなんですか? |
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辞世の句(1999/10/28) 京都大学は、図書館が充実しているといわれていましたので、それを信じ切って、京都府立図書館など利用したことは、生まれてこの方、一度もなかったのですが、他大学の友人に誘われて、京都府立図書館を訪ねる機会がありました。京都の観光名所、平安神宮や琵琶湖疎水記念博物館などを近くに従えた、岡崎公園内に位置する、少しレトロな建物の図書館は趣き深く、第一印象はよかったのですが、やはり蔵書の量となると、京都大学のそれとは比べものにはならないのが現実のようです。そのなかで、友人の用事が済むまでの間ではありますが、私の目をとらえてはなさなかった本がありました。 「辞世の句」辞典です。本のタイトルは全く覚えていませんが、つまり、各界の著名人それも、太古の昔からの有名人の辞世の句とそれを発した状況の解説が並べられていたのです。 何がおもしろかったとか、誰の言葉が印象的とか、そういう観念はほとんどなく「へえ、この人こんなこと言ったんか」程度のものでしたが、なかなか小説家・俳人・歌人の「愛」、政治家・思想家たちの「思想」、軍人・将軍らの「闘」というテーマがそれぞれ「死」と融合した際に生まれてくる思考の結晶に、しばし感動してしまったひとときでした。 |
辞世の句を完璧なものとしてこの世に残していくことは、なにか、「死」を恐れず、ともすれば弄び、「生」を完結させる意味合いすら感じられます。遺言についても同じようなことがいえるわけで、この本を読みながら、私は一体どんな言葉たちを完成させてから旅立とうかなどと、とても気の早い話を考えてみたりしたわけです。 私は作家でも政治家でも、ましてや軍人でもないわけですから、前述のような主題は脳内から湧いてくるはずがないのです。どちらかと言えば、科学者肌ですから、野口英世のように、自分の発見に矛盾を知って「私にはわからない」などと残すのが似合っているのでしょうか。どこかの企業へ研究者として就職するのなら、サラリーマンらしく「仕事」を中心にしてもいいかもしれませんし、「企業戦士」らしく「忠誠」を誓う死に様もかっこいい、と思いませんか。 しかし、わたしはそれ以前に「人間」ですから、できれば「人間」らしく一生をくくってみたい気がします。それを叶える50音の配列は未だに発見できていませんが、いつか発見してやろうと、死に意欲的です。 いえいえ、死にたいという訳じゃありませんよ。むしろ、逆。それを発明するまで死ぬわけにはいかないのですから。 |