「ガッ――――!!」
人を刺した感触。
震える手の中に残る感触を噛み締めながら、顔を上げて奴の姿を見る。
憑き物が落ちるように。
ひび割れた塗装が剥げ落ちるように。
言峰の身体を覆っていた黒い泥の衣は露と消えていった。
「やった――?」
「シロウ、大丈夫!?」
背後から駆け寄る遠坂とイリヤの声はまだはっきりと聞こえる。
「――終わりね、神父さん」
キャスターの無事な姿もこの目で確認できる。
どうだ、言峰綺礼。
俺達は、勝ったぞ。
「――ああ。お前たちの勝ちだ」
抑揚の無い、感情も読み取れないのっぺりとした声で、言峰は静かに言った。
最終話 〜最後の挨拶〜
「っ!? 言峰、あんたまだ生きて――」
緊迫した遠坂の声。立ち止まり、構える様子が地面を靴の裏でこする音で分かる。けど、
「警戒など無用だ凛。確かにこの短剣で私は殺せん。だが私とアンリマユの繋がりは完璧に絶たれた。ここにいるのは、もはや身体も満足に動かせぬ、ただの抜け殻と化した聖杯の器だ」
そう。キャスターの短剣は敵を殺すためのものじゃない。あくまで魔術による契約を無に返す魔術礼装。だからこの剣で言峰の命は奪えない。たとえ契約破りの短剣でも、言峰の心臓の変わりに勝手に動いているだけの泥まではこの剣では消せない。だから言峰はまだ生きている。
――生きてはいるが。
もはや言峰に戦う力も戦う理由も無いだろうことは俺も奴もよく分かっている。
言峰に抱きつくような体勢になっていた身体を引く。
――立っていられず、足元から崩れ落ちた。
寸前で誰かの暖かい腕の中に身体が包まれる。見覚えのある、遠坂の赤い服の袖。横を振り向く気力も今は無いが、倒れこむ前に遠坂が肩を支えてくれたのだと分かった。これ以上戦えないのはどうやら俺も同じらしい。
「さぁ、止めを刺せ。お前は勝利したのだ衛宮士郎。お前にはその権利がある」
泥の衣は消え去り、まったく無防備になった胸を言峰はゆっくりと右手の人差し指で指し示した。
俺がさっき短剣を突き刺した傷からは一滴の血も、そして泥も流れることなくただぽっかりと三日月形の穴が開いている。
「――俺、は」
殺すのか。
歪な自分の信念、誕生しようとしているアンリマユを殺させずに生み出そうとすることだけを目的として、この世全ての破壊、この世全ての人の命すら天秤にかけたこの男を殺せば全てが終わるのか。
この男の歪さゆえの苦しみから解放してやるには、殺してやった方がいいのか。
「心配はいらん。いくら聖杯の泥が心臓の替わりになっているとはいえ、殺すことはそう難しくない。この胸にもう少し大きな穴を開けるだけでいい。生憎と私も不死身ではない。それだけで私を殺せるぞ」
「……」
近くに三つ、暑さ寒さ混じった殺気が生じる気配を感じた。
俺以外のみんなは既に言峰を殺す気満々だ。
……そうだ。魔術師としての常識的に考えたら奴を殺さない理由は無い。
あれだけのことをしでかし、あれだけの災厄を起こそうとしたんだ。生かしておけばいつまた何をしでかすか分からないだろう。
ましてや――言峰がこのままでもどうせ長くは無いことくらい俺にだってわかる。
ならば、奴を楽にしてやるためにも殺すことが正しいのか。
それとも――殺されていい人間などいない、と殺さないことが正しいのか。
どちらが正しいともいえない命題に手が止まる。
「士郎、あんたがやるまでもないわ。そんなに死にたければわたしが殺してあげるわよ綺礼」
「待ちなさい凛。貴女の手を汚すような価値などこの男には無いわ。手を汚すのは私だけで十分よ」
遠坂が言峰へと、空いていた右腕を突き出す。その手の先にはいつの間に取り出したのか、サバイバルナイフをもう少し長くしたような、ショートソードが握られていた。一目で解析する。魔力を秘めたアゾット剣。宝具ほどのものではない普通の名剣だが、あれでも今の言峰なら殺せるだろう。
キャスターも杖の先に紫色の魔法円を描く。泥の触手さえも吹き飛ばした魔術だ。人間の身体くらい一撃で滅ぼせるだろう。だが、
「ダメだ……二人にやらせるくらいだったら、俺がやる」
最後の力を振り絞る。
遠坂やキャスターにやらせるわけにはいかない。
敗れたとはいえ、一度人間を止めたとはいえ、今の言峰は間違いなくヒトだ。それを殺すということは、人を殺すということ。たとえその行為が法律で罰せられなくても、言峰自身がそれを望んでいたとしても、それは人殺しという事実をずっと背負わせることになる。
なら、それは俺がやらないといけない。少女の手は血に濡れてはいけない。遠坂やキャスター。それにイリヤ。少女の手は、人を殺すためじゃない。生まれてくる新しい命を受け止め、抱きしめるためにある。だから最後に残された汚い役目は、俺が負わないといけない。
「遠坂、その剣、貸してくれ」
投影を試みたが、すぐに気がついた。俺にはもう魔力は欠片ほども残っていない。この身体を、この命を維持するだけで精一杯だ。たぶん気を抜いたらすぐに倒れるだろう。それ以前に剣を振れるかすら怪しい。ならば遠坂の剣を借りて……身体ごと言峰へ向けて倒れこみ、心臓に突き刺す。それしかないだろう。
「でも士郎……」
「貸してくれ。手を汚すのは俺の仕事だ」
「……分かったわ」
言っても無駄だと思ったのか、遠坂は持っていた剣を俺へとさし出し、
――待ちな。てめぇがそこまで背負う必要はねぇんだよ、坊主
その声が、遠坂の動きを止めた。
「――え?」
その声が真実であろうと確かめるように、遠坂が、キャスターが、イリヤが周囲を見渡す。
俺も動かない首をなんとか動かしてその声の主を見つけようとした。
――そいつは、本当にいつの間にいたのか。
まるで最初からそこにいたかのように、ランサーが――蒼い槍兵が俺たちの後ろに立っていた。
「ラン、サー?」
それは誰の声か。
ここにいるはずのないランサーの存在を自己に言い聞かせるように、誰かがつぶやいた。
「よぉ、やったじゃねぇかおめぇら」
ランサーが歩いてくる。足はちゃんとついていた。二本の足で、ゆっくりと、アイルランドの猛き英雄が俺たちと言峰の元へと近づいてくる。
だが、その身体は俺たち以上に満身創痍と言ってもいい。全身を守る鎧はあちこちがボロボロになり、バーサーカーにやられたのか左腕はバッサリと無くなっていた。
それでもその顔は笑っていた。腕が一本無いことなどまるで気にしてないように。宴の後のごとき陽気な顔で、俺たちとの再会を心から喜んでいるようだった。
「ちょっ――ランサー、あんた、」
「おっと、あんた死んだはずじゃ――なんて決まり文句は無しだぜ嬢ちゃん」
そんな軽口すら叩く余裕を見せ、ランサーは実に楽しそうに槍を風車のように回しながら近づく。
……ここにいる誰よりもランサーが一番魔力が残っていないと、魔力がほぼ尽きかけたこの俺でも分かるっていうのにも関わらず。
「こう見えてオレは意外と生き汚くてな。アーチャーの奴は先に逝っちまったけど、オレは見苦しく生き残っちまったよ」
「……ふん、お前の魂は取り込んでないとは分かっていたが、最後は傍観者に徹していたか、ランサー」
懐かしい顔に会ったように、言峰がランサーと対峙する。その目の焦点は既に合ってないようだが、ランサーは言峰を前にしてなんら表情を変化させずいつもどおりの人を食ったような笑みを浮かべた。
「ああ。あん時オレを探して殺さなかったのは失敗だったな。もっとも、あの時のアンタはそんなこと考える思考力も失ってたんだろうな」
「確かにな。あの時はバーサーカーとアーチャーの魂を一度に取り込んだがため、急速に言峰綺礼としての人格が壊された。あの時お前を取り込んでいたならより聖杯は完成に近づき、アンリマユはもう少し早く生まれていただろうにな」
あ、と遠坂が叫ぶ声が横から聞こえた。
そっか、とイリヤもつられて理解したような声を上げる。
言峰が取り込んだサーヴァントは、ギルガメッシュ、バーサーカー、そしてアーチャーのみ。これでは仮にギルガメッシュとバーサーカーを二体分と考えても、五体分にしかならない。ランサーを取り込めなかった分、言峰の聖杯は完璧な完成まで後一歩及ばなかったのか。
今となっては確かめるすべは無いが、もしかすると、それが俺たちと言峰の運命を決定的に変えていたのかもしれない。
「……ランサー。生きていたのならなぜもっと早く合流しなかったの」
キャスターが明らかに不満げな顔で詰め寄る。返答しだいではランサーに自害も命じかねない気配だ。もう令呪ないけど。
「ハ、そこまでオレに甘えてどうすんだよ。戦士としてのランサーはバーサーカーとの戦いで死んだんだ。ここにいるのは半死人のただの亡霊にすぎねぇんだよ。だからもしてめぇらがピンチになっても、オレは手を出すつもりはなかったぜ」
既に自分の役目は終わったのだからと。死者は生者に介入しないのだと、ランサーは自分の信念を貫くように言った。
それが確かにランサーらしくあり、それはきっと間違いじゃないと思った。だからランサーが俺たちを手伝わなかったからって不満は無い。むしろそうしてくれてよかったのだと、最後の戦いは俺たちだけで勝利してこそ本当の意味があったのだと今心から思う。
「っつーわけで小僧。そこの言峰もオレと同じでもう死んだも同然だからよ。生きてるてめぇが最後までこいつに関わって、勝手に重荷を増やす必要なんてねぇんだよ」
ランサーはそう言って、愛用の真紅の槍を言峰へと向けた。
死ぬべき命は、同じように死ぬべき者が背負ってくのだと。
俺の代わりに、自分が言峰の命を奪うという罪を背負って消えていくと。
「安心しな、こいつの分の命はオレが背負って、持ってってやるからよ」
そう言って、最後までおせっかいと言えるほどのお人よしな青年は笑った。
俺がこの先背負っていくべき命を一つ軽くするために。俺みたいな、英雄でもないただのちっぽけな男を救おうとするために。
「――先輩! 姉さん!」
「シロウ! みんな無事ですか!?」
背後から二人分の声が聞こえた。振り返るまでもなく、俺たちの背後を守ろうと戦ってくれた二人の声。二人が無事に戻ってきてくれたことに安堵しながらも、今にも眠ってしまいそうな壊れかけた身体を懸命に立て直す。
「それじゃ――その心臓、貰い受けるぜ言峰」
「ふむ、よもやお前の手にかかるとはな。これも何かの因果か」
槍を突きつけられた言峰は、既にその結末を受け入れているように微かに笑う。
二人の間にはおそらく、俺たちの知らなかった二人の記憶が再生されているのだろう。ランサーのマスターを言峰がだまし討ちで倒してランサーを奪ったという、俺たちの戦いが始まる前からの因縁が、今終わろうとしている。
「どうでもいいけどよ、死ぬ前に服くらい着たらどうだ変態神父」
「ふ――最後まで言ってくれる」
最後まで二人は、主従とも宿敵とも悪友ともとれぬ奇妙な関係のままで。
ゲ イ ボ ル ク
「刺し穿つ――死棘の槍!!」
片腕だけで振るわれた槍兵の最後の一撃は、まるで豆腐にでも突き刺すようにあっさりと言峰の心臓を貫通した。
槍が突き刺さった左胸からは血も泥も流れることはなく、それでも――そこから言峰に残されたわずかな命そのものがこぼれ出て消えていくような、そんな幻想を見た気がした。
「ふ――――」
その死に顔は、最後の言葉は、本当に最後まで神父たろうとするかのように静かで、冷静で。
神に召されるに相応しい、苦も無念も無い安らかな表情のままで言峰綺礼は死んだ。
「さて、と。それじゃあオレは先に逝かせてもらうぜ」
ランサーは言峰だったものから槍を引き抜くと、振り向いた。
顔はいつもどおり笑っているが、今ので本当に全ての魔力を使い果たしたことは、存在が薄まりつつあるその身体を見ればよく分かる。
それなのに、この男は。
まるで散歩にでもいくかのような当たり前の口調で、別れを告げた。
「……ランサー」
「おいおい、何シケたツラしてんだ坊主。オレと違って、てめぇはまだこれからやんなきゃいけねぇことがいくらでもあるんだ。オレのことなんか気にしてもしょうがねぇだろうが」
ランサーは近寄ると、俺の肩を痛いほどにバシバシと叩いてくる。
本当に、こいつは最後まで俺の兄のような存在として、俺を少し離れたところで背中を押してくれる。
「よかったのか? あんたは――この終わり方で」
最初は敵だったランサー。キャスターとセイバーの協力で捕まって、キャスターのルールブレイカーで俺たちの仲間になって、最後までこんな大所帯の中の一人として戦場を駆け抜けた。その男がなにも得られぬまま、こうして消えようとしている。聖杯の願いも叶えられず、勝利と言う栄誉もなく、ただ最後にかっての主を殺したと言う責だけを負って。
だがそう尋ねると、ランサーは何言ってんだといわんばかりにため息をついた。
「何言ってんだてめぇ。こんなに楽しいことが他にあったかよ。アーチャーや坊主はともかく、アサシンもギルガメッシュもバーサーカーも、オレは全力を出して戦えたんだぜ。バーサーカーのオッサンとの戦いは、そりゃもう死力を尽くした最高の戦いだった。あんな戦士と全力で戦えたことなんて、オレが生きてた時だってなかったっての。
それもみんな、てめぇらと一緒になったからできた戦いだ。あんな言峰の野郎の下でこき使われるより、よっぽど充実した日々だったぜ」
――ああ、そうだった。
この誇り高き戦士にとっては、戦いそのものが報酬だったのだ。
それは決して敵を傷つけることに喜びを覚えるような野蛮なことではない。
その戦いの中で自分の鍛えた力と技を存分に発揮し、剣や槍での打ち合いを通じて相手のことを理解し、誇り高き素晴らしい戦士と出会う。その上で死力を尽くし、相手の技を上回り勝利する。そんな戦いが出来たことが、戦士にとってどれだけ素晴らしい報酬だろう。
「そっか。そうだったな。ありがとうランサー。本当に感謝してる」
「そうね。私からも礼を言うわ。よくやってくれたわランサー」
「あ――、なんだよオイ、坊主はともかくキャス子にまでんなこと言われたらむず痒くてしょうがねぇじゃねぇかよ」
「だからキャス子って呼ぶなと言ったでしょ」
キャスターが杖でランサーのアゴを叩いた。ぽかり、と何の威力も無い、ほとんど戯れに近い一撃を、ランサーはあえてくらって痛そうにアゴを抑えた。
それを見て遠坂が笑い、イリヤが笑い、桜が笑った。
「んじゃ坊主。てめぇはあのアーチャーみてぇな捻くれた奴になるんじゃねぇぞ。てめぇとだったら一度組んでもいいけど、あんな奴と組むのは二度とごめんだからよ」
こいつがアーチャーと最後にどんな別れ方をしたのやら。それを想像して、つい笑みがこぼれる。
「キャスター。結局あんたの本当の姿は見られなかったけどよ、そんなナリでもあんたはいい女だったぜ」
「あら、女と見ると見境ないんだから、本当」
キャスターがくすりと可笑しそうに笑う。
「嬢ちゃん。あんたももう少ししたらきっといい女になるだろうけどよ、あんたなら恋でもすればもっといい女になれるぜ」
「う、うるさいわね! 余計なお世話よ」
遠坂がうがーと吼える。
「お嬢ちゃん。あんた少し見ないうちにずいぶんいい女になったじゃねぇか。これからもあいつらを支えてやってくれよ」
「はい。いろいろとありがとうございましたランサーさん」
桜は素直にぺこりと頭を下げ、ランサーに感謝の言葉を述べた。
「セイバー。てめぇとも一度は本気でやりたかったぜ。それだけがちょっと心残りだ」
「そうですね。貴方と本気で剣を交えてみるのも悪くは無かったでしょう」
セイバーは表情を和らげ、先に逝く戦士を同胞を見送るような柔らかな顔で見送る。
「バーサーカーのマスターの嬢ちゃん。嬢ちゃんのサーヴァント、本当に強かったぜ。誇りに思いな」
「当然よ。バーサーカーはわたしの自慢だもの」
イリヤは胸を張って、自らのサーヴァント、そしてそれと死闘を繰りひろげた戦士、両方に祝福をするように言った。
「あ――あともう一つ。もしどっかでオレのマスターに出会ったらよ。バゼットっていう、ちょっととっつきにくいけどガキみたいなところがあるいい女なんだが、よろしく頼むわ。生きてるかどうかはしらねえが、あいつならたぶんそう簡単にくたばりゃしねぇだろ」
俺たちの向こうにもう一人、そのかってマスターだった女性の幻影を追い求めるかのように、ランサーは遠くを見て笑った。
「それじゃあな――坊主、てめぇの周りにはこんなにいい女がいるんだから、一人たりとも泣かせるんじゃねぇぞ――――」
最後に、からかうようにそう言って。
ランサーは風になった。
一瞬前までランサーが立っていたところにはもう何もなく、俺はただその空間をじっと見つめて無言で立ち尽くしながら戦士を見送った。
戦いの中で奇妙な友情が芽生えた戦士の姿を、ずっと忘れないように心に刻み込みながら。
「――それでシロウ。シロウに追いついたら既にランサーがいて言峰を倒していたわけですが、こちらは終わったのですね?」
佇まいを直すセイバー。桜も状況を把握して全員の無事を確かめるように、俺たちの姿を順番に見回す。
「ああ。言峰は倒した。アンリマユはもう出てこない」
「ギリギリだったけどね――っていうか、キャスターじゃなくてあんたが言峰倒すなんてわたしは聞いてなかったわよ士郎!」
「わたしもよ! 本当にシロウがやられたと思って、本当にびっくりしたんだから!!」
思い出したように詰め寄る遠坂とイリヤ。それも無理はない。敵を騙すならまず味方からとは言うが、もし遠坂とイリヤにもあらかじめ知らせていたら、遠坂とイリヤの微妙な反応の違和感で言峰が果たして油断してくれたかどうか分からないから黙ってたんだ。だから心配させてしまったのは悪かったと思うけど、胸倉を掴んだりぽかぽか背中を叩いてくるのは、もう少し俺が元気なときにして欲しいなぁ……。
「く……申し訳ありませんシロウ。肝心なときに私はシロウの役に立てなかった」
「すみません姉さん、結局間に合わなくて」
セイバーと桜の声が小さくなる。そんなこと気にしなくてもいいと言うのに。
「いや、セイバーがあそこで俺たちを先に行かせてくれたから間に合ったんだ。セイバーは本当によくやってくれた」
「桜もよ。何があったかは後で聞くけど、その顔みればあんたも立派に戦ったことくらい分かるわ。無事でよかったわ」
「そうよ。私たちの中で役に立たなかった人間なんて誰一人いないわ。けど総括は最後。まだ私たちにはやることがあるでしょう」
そう言って、キャスターは振り向く。
言峰のいた場所の向こう、大きく窪んでいるクレーターの先にある巨大な魔法陣を。
全ての始まりと終わりを司る、聖杯戦争の根本たる大聖杯を。
そうだ。二度と聖杯戦争が起こらないよう、そして二度とアンリマユが復活しないよう、俺達はこれを破壊しなくてはならない。
「セイバー、頼める? こっちはもう全員ボロボロだけど」
「はい。桜はたいしたものです。まだ宝具を使うだけの魔力は十分に残っています」
セイバーが剣を抜く。
俺たちの先頭に立って進む。クレーターの淵、大聖杯の前に陣取ったセイバーはその手に持つ剣を前へと突き出した。
「念のため言っとくけど、ここが崩れないように手加減してよ!」
「承知しています凛」
……確かに、今この地下空洞が崩れたら上の寺の人たちが危険だ。そして俺たちがもっと危険だ。みんなで帰ると誓った以上、こんなところで生き埋めになるわけには行かない。
淀んだ地下に風が生まれる。
剣から吹き出す風は徐々に強さを増し、風は暴風となり、嵐となって渦を巻く。
もはや邪魔をする者はいない。宝具の使用を止める敵は存在しない。セイバーはゆっくりと、その剣の真の名を開放する。
エ ク ス
「約束された――――」
風の鞘は自ら吹き飛ぶようにその身を投げ捨て、
隠されていた不可視の剣は光をもって正体を現す。
カ リ バ ー
「勝利の剣――――!!」
解き放たれた光は黄金の剣となり、
その剣から放たれる星の光は究極の刃となり、
そして光の奔流が全てを飲み込んだ。
眩いばかりの一撃が闇を切り裂き、大地を抉り、そして幾重もの防御術式に守られていた魔法陣すらたやすく打ち砕く。
やがて光が治まったとき。
中央の盆地に存在していた大きな大聖杯は跡形もなく消滅していた。
「終わった――んですよね?」
「ええ……もう二度と聖杯戦争が起こることは無いわ」
「……さよなら、ご先祖様」
誰の胸の中にも、今は複雑な思いが渦巻いているのだろう。
そこには勝利の喜びだけではない、様々な感情が入り混じった表情で大聖杯があったクレーターを見下ろすそれぞれの姿があった。
そんなみんなの姿を見ながら、
俺は、電池の切れたオモチャのようにその場に倒れこんだ。
「……士郎?」
呟くような、誰かの声が聞こえて。
「シロウ――――!!」
そして幾重にも重なったみんなの悲鳴が、耳鳴りのする頭に飛び込んできた。
「士郎! しっかりしなさい!」
「先輩、先輩……!」
「お兄ちゃん、やだ、やだよ!!」
俺を囲むみんなの声が聞こえる。薄暗い視界の中に、俺の顔を覗き込むみんなの心配そうな顔が見える。
「いや……大丈夫……ちょっと、ムリしちまっただけだから」
うまく声が届けられるかは分からないが、肺の中の空気を搾り出すようにして声を出す。口から漏れた声は、自分の声とは思えないくらい乾いていた。
家に帰るまで気を抜かないようにしていたつもりだったけれど、身体はとうに限界を超えていたのだろう。エネルギーがゼロになってなおこの身体をもたせていた最後の精神力も尽き、指一本も動かせないほどの疲労と眠気が絶え間なく襲ってくる。
「う……すまん……少し、休みたい、かも」
ちょっと立ち上がれそうに無い。
こんなところからはすぐにでも出て、みんなで帰りたいというのに。
どう頑張っても、どう自分に言い聞かせても、限界を超えて働き続けてくれた身体はどこもかしこも壊れかけていて、手も足も指も目も頭も、すでに身体の一部ではないようにその機能を停止しかけていた。
「――そうですね。士郎はゆっくりお休みなさい」
上から覗いていたみんなの顔が、その声の主の方に向けられる。
やがて頭の後ろに感じる、柔らかく優しい感触。
見慣れた少女の顔が覗き込み、目と目が合う。
それで、キャスターが膝枕をしてくれたんだと分かった。
「あ――りがとう、キャスター」
礼を言うと、キャスターはにこり、と微笑んだ。
その小さな手で、頭をそっと撫でてくる。眠ろうとしている子供をあやすように、優しく触れてくる。
その姿に、昔、俺も忘れてしまった記憶の向こう、幼かった頃の俺を包み込んでくれる母親の幻想を見た気がした。
「待ちなさいシロウ。今寝たら、二度とキャスターと会えなくなるわよ」
その母の膝の上で眠りかけた意識を、イリヤの雪のような冷たい声が引き戻す。
顔に雪をかけられたような気分が意識を現実に引き戻し、ハッとなってキャスターの顔を見る。
「そう……なのか?」
キャスターは視線を逸らすことなく、小さな頷きを返した。
「元々、私の魔力はあまり多くは無かったですから……言峰との戦いで、私も、もう」
俺の進む道を切り開くための魔術の連発。
言峰を欺くための宝具の発動。
最後の布石となった空間転移の秘術。
あの戦いで一番頑張ったのはキャスターだった。だから、もうキャスターの魔力はほとんど残っていないのだろう。
ならば、先に魔力を使い果たしたランサーが消えたように。
キャスターももうすぐ消えてしまうのだろうか。
そんなのはイヤだったけど。
さよならなんてイヤだったけど。
それを心のどこかで理解しながら今まで気付かないふりをしてきた自分が、
分かっていながらもどうしようもできない無力な自分が、もっとイヤだった。
「分かってはいたことです。どちみちサーヴァントの役目は聖杯戦争の期間の間だけのものですから。
魔力が尽き、大聖杯も消えた今、こうなることは避けられない運命なのです」
運命。
キャスターと初めて出会ったときに感じたその言葉を、
こうしてまた、今度は最後の別れのときに聞くことになるなんて。
けれど、キャスターと初めて出会ったとき。
キャスターは自分の運命の運命からは逃れられないと、諦めたように自分の人生を達観していた。
それが今、キャスターは穏やかな顔でその運命と言う言葉を口にした。
それは諦めたからではなく、その運命を変えることができたから。自らの選択で、一度消えかけた運命に逆らい、ここまで来ることができたから。
きっともうキャスターにとって、運命などというものは忌み嫌うものではなくなっていたのだろう。
――残念なことに。
最後に消えてしまうと言う運命を俺が変えてやれないのが、本当に悲しかった。
「じゃあ、このまま消えてしまってもいいって言うんですか!? せっかくここまで来れたのに、先輩はキャスターさんを選んで、キャスターさんだって先輩を選んで、これからが本当に幸せになれるはずじゃないですか……!」
この声は――桜か。
俺にとっても、キャスターにとっても、桜は本当に大切な妹分になってくれた。
桜にとっても、もはやキャスターは大切な人なのだろう。消えて欲しくないのだろう。だから叫ぶ。消させたくないと。引きとめたいと。まだ逝くなと声を高らかに叫ぶ。
「……私は、サーヴァントだから。貴女の気持ちは嬉しいけど……世界は、そこまで思いどおりにはいかないのよ」
「分かってます! そんなこと、私だって! 思い通りにならないことが世の中にはたくさんあって、どんなに頑張っても逃げられないものもあって、苦しいことも多くて、それでも人は最後まで頑張れば生きていけるって、私は先輩や姉さんやキャスターさんからそう教わりました! けど――――」
桜の声に、嗚咽が混じる。
涙を拭くように一度桜の声が止まり、そして、
「けど、キャスターさんはまだ本当の気持ちを言ってないじゃないですか! 先輩を心配させないように、悲しませないように、そうやって笑顔で先輩と別れようとしてますけど、でもキャスターさん、まだ本当の気持ちを隠したまま言ってないじゃないですか! そんなの、本当のお別れじゃないです! そんなの、キャスターさんにとっても先輩にとっても悲しいだけです!」
「……どうし、て」
急所を突かれる如く、キャスターの表情に初めて変化が生まれた。
「分かります! 私がつい最近までそうでしたから、だから分かります! キャスターさんが本当はもっと言いたいことがあるって! 伝えたいことがあることを押し殺して、無理に平気を装ってるって! でもそれじゃ前には進めないんです! 先輩を信じてください。先輩にキャスターさんの本当の気持ちをぶつけてください! キャスターさんが本当にしたいことを言ってあげてください! 先輩は、そんなことで困ったりする人じゃないですから! 別れが避けられないなら、本当のことを言って欲しいって思う人ですから!」
――それは、この中で誰よりも俺との付き合いが長い桜だから言えること。そして、キャスターという少女におそらくはもっとも近い生き方をしてきた桜だから言える事。
俺とキャスター、両方を理解している桜だから繋げることができた、最後の架け橋。
母のような、穏やかなキャスターの膝の上で眠るのも悪くは無かった。
けれど、それに違和感があるのも本当だった。
なんとなくだけど、キャスターが無理をしているような気がして。優しい少女の表情の向こう側に、最後に言いたかった本音が隠されているような気がして。
それを聞いても、どうにもならないかもしれないけど。
こうして笑顔で別れるより、もしかしたらお互いがもっと傷つくことになるかもしれないけど。
でも、俺は――――
「……そうだな。俺も……聞きたい。最後の別れの挨拶なんだから……キャスターの本音……キャスターの願い……なんでもいいから、キャスターの声、聞きたい」
最後だからこそ。
もう会えなくなるからこそ。
笑顔でさよならを言うより、本音でお互いのことを分かり合いたかった。
本当の想いを。偽りの無い心を。最後に、胸に刻んでおきたかった。
「私は――私は――――」
頑なに閉じられた蛇口をこじあけるように、キャスターがぽつり、と口を開く。
「ごめんなさい――ごめんなさい――」
謝る必要なんて無い。本音を打ち明けるのに誰の許可も要らない。子供のように、言いたいことを言えばいい。だからこそ、人は分かり合える。
「我侭なんです。私は本当に我侭で――士郎を困らせて――でも、やっぱり私は、やっぱり本当は――――」
キャスターは、抑えていた感情を爆発させるように、
「生きたいっ――――!!」
そう、心からの願いを口にした。
「世界なんてどうでもいい……勝利なんて、聖杯なんて、国なんて、魔術なんてどうでもいい……!
私は生きたい! もっと! ただこのまま生きて行きたい! 士郎といっしょに……みんなといっしょに……普通の時を過ごしたい……!!」
キャスターの目から涙が溢れる。晴れた日の雨のように、暖かい水滴が俺の顔にぽつぽつと落ちた。
心まで子供に戻ったように、キャスターはただ、流れ出る涙を止めることなく叫ぶ。
「やっと信じられる人を見つけた……! 何も知らなかったあの頃のように、もういちどやり直せると思った……! メディアとしてじゃなく、キャスターとしての新しい自分を見つけられた……! 人が幸せと呼ぶものに、触れることが出来た気がした……!」
キャスターの肩を、そっとイリヤが抱き寄せる。
セイバーと遠坂は何も言わず、ただその気持ちを受け止めようとするように、叶わぬ願いを叫ぶキャスターを見守っていた。
つられるように、桜は涙を流していた。
「こんな「自分がいたということを忘れたくない……! みんなを残して消えたくない! 本当は、本当は別れるなんて絶対にイヤなの!! 私は、私は……まだここにいたいの!!」
そこにいたのは、一人の少女だった。
王女でもない。
魔術師でもない。
サーヴァントですらない。
ただ、ありふれた日常を望み、人並みの幸せを求め、当たり前のように涙を流す、普通の女の子だった。
「……ごめん、な。キャスター……その夢、かなえてやれなくて……」
キャスターの夢、キャスターの願い。
キャスターの過去を夢で見たときから、キャスター自身の口から聞いたときから、俺にもなんとなく分かっていた。
キャスターに人並みの少女の幸せを与えてやりたかった。
キャスターともっとお互いにいろんな話をしたかった。
普通の暮らしをさせてあげたかった。一緒に何気ない日常を過ごしたかった。
キャスターをいつか、故郷に連れて行ってやりたかった。
……だけど、俺の身体ももうボロボロで。
この身体にはこれ以上キャスターの存在を維持するだけの魔力なんてこれっぽっちも残ってなかった。
ごく当たり前な願いすら、俺には叶えてやる力は残されていなかった。
「謝らないでください……! 士郎は本当によくしてくれました……! 最初のマスターを殺した後、何もかもを諦めていた私を救ってくれたのが貴方だった……! 何の見返りも求めないで、ただ私のために戦うことを選んでくれた……! 最後まで約束を守ってくれた……!
だから謝るなら私のほうです……約束を守れなくてごめんなさい……全員であの家に帰ると、そう交わした約束を私が守れなくて……ごめんなさい……ごめんなさい……」
嗚咽交じりのキャスターの言葉が、心からの感謝を込めた少女の本心が雪のように染み渡っていく。耳に、胸に、心に。あふれ出る感情が降り積もってゆく。
頬の熱さと滲む視界で、俺自身もいつの間にか泣いているんだなと分かった。
「う……っく……何とか……なんとかならないんですか!? このままじゃ、あまりにもキャスターさんが! 姉さん……イリヤさん……セイバーさん……!」
救いを求めるように、桜が涙交じりの声で言う。
自分のことのように、キャスターを助けようとしてくれているのが嬉しかった。
「……無理よ。聖杯戦争が終わったら、サーヴァントを大聖杯のバックアップなしに現界させるのはそれだけで相当の魔力が要るわ。とてもじゃないけど今の士郎には……いえ、士郎が万全の状態だとしても……」
「で、でも! ほ、ほら、姉さんはアインツベルンのお城のときに宝石を使ってキャスターさんを助けたじゃないですか! で、でなきゃセイバーさんのときみたいに、姉さんかイリヤさんに契約を移して……」
「――無理なのよ! あの時使った宝石は10個しかない秘蔵の宝石だったからなんとかなった。けど、残った宝石は言峰との戦いで全部使い果たしたの……わたしが貯めてあった宝石はもう何も無いのよ!」
「……サクラ。契約の変更もたぶんムリ……。すでに大聖杯は破壊されたし、キャスターの残り魔力はあの時のセイバーよりも少ない。そんな状況で、ルールブレイカーで一瞬でもマスターを失ったら、それだけでキャスターはこの世に存在できなくなる。契約が切れた瞬間に消滅する。そもそもシロウもキャスターも、もうルールブレイカーを使う魔力さえ残ってないのよ……」
「そ――んな」
二人の声が、本当に悔しそうで。
本当にキャスターを助けたくて、心から何とかしてやりたいけれどどうにも出来ない、と。そう二人も思ってくれているだけで嬉しかった。
「桜……申し訳ありません。こんなときに私は何も出来ない。キャスター。私とて今はあなたを信頼できる仲間だと思っています。出来るならば叶えたい。あなたの願いを。それなのに私は何も――」
最初はキャスターを警戒していたセイバーも、キャスターを仲間だと認めてくれたのが嬉しかった。
「ありがとう桜。みんな。その気持ちは本当に嬉しいわ。……だけど、サーヴァントは元々聖杯戦争のためだけに呼び出された存在だから。役目が終わればまたもとの座に帰るだけ。……それが本来自然なこと。私の力では逆らえないことなのよ」
「で、でも……!」
泣きながら食い下がる桜に、キャスターは涙交じりの笑顔で答える。
その顔も、俺の涙と、猛烈に襲ってくる眠気のせいでほとんど見えなくなっていた。
「――疲れましたか、士郎」
「……そうだな。ちょっとムリしちまったかな」
「まったく士郎は最後までそうでしたね。少し休んでください。私も少し疲れましたから」
「そうだな――ごめん。ちょっと、キャスターを見送るより先に……寝てしまうかも」
せめて最後は笑顔で見送らなければとわかってはいるのに。
こんなときに強制的に意識をシャットダウンしようとする自分の身体がうらめしい。
キャスターの本音をぶつけられて、その小さな身体で叫んだ、本当にささやかな願いを聞かされてなお、それを叶えてやれない自分が悲しい。
「大丈夫ですよ。士郎にはこんなに素敵な仲間や家族もいるんですから、士郎はこれからも大丈夫です」
「ああ……でも、やっぱりキャスターもいて欲しい。いや……キャスターもいなければダメなんだだ」
「――ふふ。ごめんなさい士郎。そればかりは魔女の私にも出来ません」
「――そっ、か」
視界に影が差した。
唇に柔らかい感触が触れる。
お互いの汗と血と涙が混じった口付けの味は、ちょっとしょっぱかった。
「――最後に、一つだけお伝えしておきます」
コルキスの黄金の大地を駆け回った少女が言う。
その小さな身体いっぱいに喜びを詰め込んで。
その幼い顔いっぱいに可愛らしい笑顔を浮かべて。
「士郎。貴方に会えてよかった。貴方という、心から信じられる人がいて――私は幸せでした」
優しく暖かな、聖母のような祝詞。
その最後の挨拶を子守唄にして。
俺の意識は真っ暗な闇の中に沈んでいった。
――And a little promise is kept――――