皇室と神道
    

 
   皇室と神道

   皇室と国民

   和歌 君が代

   宮中の祭祀

    宮中三殿

    恒例祭祀

    臨時祭祀

    毎朝御代拝 同日供

    旬祭
 日本の神社では、天照大御神を頂点とする天津神、国津神を慎んで敬い祀る。天皇家はその全ての神々を統べる天照大御神を祖先にもち、現在まで125代続いている。そのため、皇室祭祀の中心を担い皇祖天照大御神の御霊代を奉斎する宮中三殿、ならびに伊勢の神宮が、全国の神社によって厚く崇め敬われている。

 古代より天皇は神事の中心である。いつの世においても天皇が国の平安と繁栄、国民の幸福を祈り続けてきた。国の繁栄と国民の幸福は、国民の生活の基盤である稲の豊作、五穀豊穣に象徴され、現在でも毎年宮中において五穀豊穣を祈り感謝する祈年祭、神嘗祭、新嘗祭などの行事が行われている。また、それに合わせて日本各地の神社においても、同様に祈年祭や新嘗祭などの祭儀が行われる。 

 天皇が国民の幸福を祈る形は、五穀の豊穣だけではない。
 例えば、仏教伝来後、大陸より伝染病が伝わり多くの国民が疫病で命を落とした。それ  を憐れんだ天皇は、疫病で苦しむ各地に医師を派遣し、薬師寺を建立して厄病退散を   祈るなど、国民と国のために出した勅詔が数多く史実として記録されている。
 このように、国に災害が起これば国民の心に寄り添い、その心の痛みを分かち合う天皇の姿が史実に多くみられる。それは史実だけにとどまらないことは、被災地への行幸啓からも伺える。

 

  
 
  神道の要領と心得
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    宮中三殿
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    臨時祭祀
    毎朝御代拝 同日供
    旬祭
 
 このように、時代を問わず国民の幸福を願う天皇の大御心は尽きることがない。そして太古から日本の国民ないし神社は皇室を敬ってきた。現在でも全国の旧官国幣社からは、新年の御挨拶や御機嫌伺い、幣帛御礼、勅使差遣御礼などのために参内し、常に皇室に対して敬意が表されている。

 皇室に縁のあるご祭神を祀る勅祭社には、天皇より幣帛が奉じられる。戦後神道が法律上では多くの他宗教の一つとして扱われるようになり政教分離が行われて以来、皇室における祭祀や勅使の差遣、幣帛の奉献などといった行為は、国事行為ではなく、天皇の私事として「内廷費」によって営まれる。内廷費とは、戦後に皇室の財産が吸収された国庫から出されるものであって、公費ではない。

 天皇が古代から主宰してきた宮中祭祀は、神社を中心とした地域社会を統合する氏子崇敬者による組織を有するいわゆる「神社神道」と区別される。しかしながら、皇室における祭祀と神社神道は、現在も密接に関係している。

 
 


  和歌 君が代
 延喜5年(905年)に編纂された古今和歌集巻7に、君が代の元となる和歌がある。これは、題しらず読人しらずの長寿を祝う古歌である。



     「わが君は千世に八千世にさざれ石のいわほとなりて苔のむすまで」



 さざれ石とは「小さな石」の意味をもつ。石灰石が雨水等に溶解してその成分が空気中の成分と反応して凝固し、そのとき周囲の小石を凝結し長い年月をかけて巖(いわお)となると認識する人が現在では存在する。しかし、昔は岩が砕けて石となり砂となるという考え方が世界で一般的であった。



 一方、この国の古代の考え方はその反対で、さざれ石が結んで巖となると信じた。たくさんの物が集まり結んで一つのものになるというこの美しい信念が、この和歌に表現されている。



 つまり、さざれ石が集まってできた巌は協調団結の精神の象徴である。それは、一家一町村一県市がやがて国家となり、日本の団結と平和な民主国家の発展を表し、そして一つの平和な世界の実現への希望をも思わせる。


 「君が代」成り立ちの経緯は、明治2年ころ薩摩藩に軍楽を指導していた英国公使館軍楽長フェントンが、大山巌が薩摩琵琶歌「蓬莱山」から選んだ「君が代」に曲をつけた。しかし、曲と歌詞が合わずに不評であった。そこで明治13年、宮内省式部寮の雅楽師である林広守の名で作曲された。その曲に、海軍省の軍楽教師エッケルトによって和声が付けられ、明治10年11月3日の天長節宴会で演奏された。これが現在の「君が代」である。

 平成11年8月13日公布の「国旗および国歌に関する法律」の中で、国歌を「君が代」と定めている。

 



  宮中の祭祀 
  大和時代の王宮における祭祀は、6世紀中ごろの仏教伝来まで古来の神祇信仰により行われていた。その後、隋唐を手本として作られた律令制度においても、その厚い信仰を基盤として神祇信仰を中心とした祭事が行われた。前近代の宮廷における祭祀は、神事を優先としながら仏事やその他の行事も併せて行われた。しかし、明治元年3月新政府により神事と仏事は分離され、皇室では祭事が神式のみとされた。 
 皇室祭祀は、大祭と小祭に分けられる。大祭は、天皇が親(みずか)ら祭主として祭礼を行う。小祭は、天皇が親ら拝礼し、掌典長が祭主として祭典を行う。また、皇居内に鎮座する宮中三殿、神嘉殿、各地の山陵にて齋行される。
 



  宮中三殿  きゅうちゅうさんでん 
 宮中三殿とは皇居内の賢所、皇霊殿、神殿の総称であり、そこで宮中祭祀が行われる。


 賢所 かしこどころ けんしょ

 宮中三殿のうち中央に位置し、皇祖天照大御神を祀る。宮中に賢所が鎮座する由来は『日本書紀』の中のいわゆる同床共殿の神勅である。

「天照大神、宝鏡を手に持ち、天忍穂耳尊に授けて祝ぎて曰く、我が御子よ、宝鏡を視ること、まさに猶(なお)我を視るが如くすべし。與(とも)に床を同じくし御殿を共にし、以ちて祭祀の鏡とされよ。」との神勅により、神武天皇が橿原神宮に遷都して以降も同床共殿で宝鏡が祭られてきた。しかし『日本書紀』崇神天皇6年の条には、世の乱れと共に神威を畏れて同床共殿ではなく、その宝鏡を豊鍬入姫命に託けて笠縫邑にて祭らせた。そのとき斎部氏に命じて鏡を鋳造させ宮中で奉斎した。それが賢所に鎮座している御霊代である。

 笠縫邑にて祭られた宝鏡はその後、豊鍬入姫命に替わり倭姫命が奉斎し、さらによい鎮座地を求めて現在の三重県伊勢市の五十鈴川の川上に御鎮座することとなった。現在の伊勢の神宮である。
 



 皇霊殿  こうれいでん

 宮中三殿のうち西側に位置する皇霊殿には、神武天皇をはじめ天皇、皇后、皇妃、皇親の歴代の御霊が奉斎される。皇霊殿の神体は、歴代天皇と皇家のものが2座ある。
 神武天皇と先帝および先帝3代以外の天皇については、それぞれの式年祭(100年ごと)が小祭にて行われ、各山稜に奉幣の勅使が遣わされる。これらの式年祭には、皇霊殿で掌典長が祝詞を奏上すると、天皇、皇后、皇太子、皇太子妃が参入して、内陣に着座する。そこで、天皇が拝礼して御告文を奏上し、つぎに皇后、皇太子、皇太子妃の順に拝礼する。さらに他の皇族および宮内庁職員が庭上から拝礼する。




 神殿  しんでん

 宮中三殿のうち東側に位置する神殿には、天神地祇の八百万神が祭られる。明治2年鎮座式を行い、東座に天神地祇、中央に神産日神(かみむすびのかみ)、高御産日神(たかみむすびのかみ)、玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)、足産日神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、御食津神(みけつかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)の八神、西座に歴代皇霊を鎮座した。
 当初は八神殿とよばれていたが、明治5年に八神と天神地祇を合祀して神殿と改称した。

 
 



  恒例祭祀  こうれいさいし 

四方拝  しほうはい  (正月元日)

 歳旦祭に先立って夜明け前に行われる。天皇が伊勢の神宮および四方の神々を遥拝する年中最初の儀式である。

 1月1日の夜明け前5時半ごろ、賢所の前庭に荒薦(あらこも)、白布、眞薦(まこも)、蘭薦(らんこも)を敷いた上に畳の御座を設け、二基の燈台を置き、周りを屏風2双で囲む。掌典長の前行によりその御座に着座すると、天皇はまず伊勢の神宮、次に豊受大神宮を遥拝し、続いて四方(東、南、西、北の順)の神々を拝する。神饌、御告文は無い儀式である。これは平安時代から行われてきた。当時は三座を設けて、屬星(北斗七星のこと)、天地四方、2稜を遥拝していたことから、陰陽道の影響がみられる。しかし、明治5年にはそれまでの陰陽道の影響を排除した新儀となった。




歳旦祭  さいたんさい  小祭  (正月元日)

 四方拝に引き続いて、賢所、皇霊殿、神殿で行われる年始の祭典が歳旦祭である。天皇は神嘉殿から賢所に移り内陣の御座に着座すると、掌典長から玉串を受け取り拝礼を行う。その後、内々陣で内掌典が御鈴を鳴らす10分近くの間、平伏をする。次に皇霊殿に移り拝礼し、神殿においても同様に拝礼する。引き続き皇太子も賢所、皇霊殿、神殿に拝礼する。



元始祭  げんしさい  大祭  (1月3日)

 年始にあたり「天日嗣(あまつひつぎ)の本始(ほんし))」(皇位の元祖と由来)を祝い、国家国民の繁栄を祈念する祭典である。この大祭は、賢所、皇霊殿、神殿にて行われる。天皇が賢所内陣に着座し、拝礼の後に御告文を奏上し、御鈴の儀がある。続いて皇霊殿、神殿においても御告文が奏される。次に皇后、皇太子、皇太子妃が内陣に進み、揃って拝礼をする。「元始」とは、『古事記』序文の「元始は綿ばくたれども、先聖に頼りて神を生み人を立つるの世を察れり」による。賢所、皇霊殿、神殿の三殿親祭であるこの祭典は、宮中祭祀の中でも重要であることを意味する。




奏事始  そうじはじめ  (1月4日)

 奏事始は祭祀ではないが、宮中祭祀と関わりがある。掌典長が天皇に対して、伊勢の神宮と皇室祭祀についての前年の経過を奏上する式である。元は政始(まつりごとはじめ)の儀の名称であった。戦後の新しい憲法になる前までは祭事・政務や儀式・行事についての前年末までの報告がされていた。




昭和天皇祭  しょうわてんのうさい  大祭  (1月7日)

 昭和天皇崩御の日に皇霊殿にて営まれる先帝祭である。山陵(武蔵野陵)においても祭典が行われる。




孝明天皇例祭  こうめいてんのうれいさい  小祭  (1月30日)

 孝明天皇崩御の日に皇霊殿にて営まれる祭典である。山陵(後月輪東山陵)においても祭典が行われる。明治四年に制定された四時祭典定規では先帝以前3代の天皇祭を大祭とされたが、明治41年公布の皇室祭祀令では、小祭の中に「先帝以前三代ノ例祭 毎年崩御日ニ相当スル日」と記される。




祈年祭  きねんさい としごいのまつり  小祭  (2月17日)

 祈年祭とは、賢所、皇霊殿、神殿で行われる。風雨、旱魃(かんばつ)、害虫などのことなく年穀の豊穣を天皇が祈願する祭典である。古来日本は農耕国家であり、農耕が国民国家の基盤を支えてきたことから、春には年穀豊穣を祈願し、秋にその収穫を感謝して祭典をする。『古語拾遣』には、大地主神が御歳神の祟りを恐れ、穀物の豊穣を祈願したとが記される。延喜四時祭式によると、当初は神名帳記載の全ての神社が祈願の対象であったが、世が乱れた応仁の乱以後には廃絶していた。しかし、明治2年に再興されることとなり、明治4年には伊勢の神宮に奉幣勅使が差遣され、天皇は賢所に拝礼し、皇霊殿、神殿には幣帛が奉献された。そして、大正5年に宮中三殿それぞれに神饌、幣帛を奉ることとされ、現在に至る。




春季皇霊祭  しゅんきこうれいさい  大祭  (春分の日)

春分の日に皇霊殿にて営まれる先祖を祭る儀式である。『日本書紀』には天武天皇10年の条に皇祖の御霊を祭った記録があるが、中世にはいつの頃からか宮中でも仏式にて祖先をまつるようになった。しかし明治2年には、歴代皇霊が神式で奉斎された。明治11年には、この祭式は神武天皇祭に準じて行うこととし、その幣物と神饌を多くすることとされ、それが現在に継承される。この祭典と秋季皇霊祭には、内閣総理大臣、衆議院・参議院議長、最高裁判所長官、各国務大臣等に参列の案内状が送られる。




春季神殿祭  しゅんきしんでんさい  大祭  (春分の日)

 春分の日に行われる天神地祇を祀る神恩感謝の祭典であり、神殿にて行われる。その起源は延喜時代からの古いものであるが、戦国の争乱の頃に乱れ衰えた。明治天皇の時代に再興され、明治2年竣工の假神殿中央に神産日神(かみむすびのかみ)、高御産日神(たかみむすびのかみ)、玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)、足産日神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、御食津神(みけつかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)の八神、東座に天神地祇、西座に歴代皇霊を鎮祭し、明治4年2月28日には春季御祈祭が行われた。明治5年に八神と天神地祇は賢所に遷座され、明治11年には祈年祭の名称が神殿祭となった。皇室祭祀令において春秋両季のこの祭典は大祭と定められる。




神武天皇祭  じんむてんのうさい  大祭  (4月3日)

 神武天皇の崩御を追悼する祭典である。皇霊殿で行われ、東游が行われ夜には御神楽を奉奏する。畝傍(うねび)山東北陵には勅使が差遣され幣帛を奉献される。戦後、「祝日法」に紀元節が入らなかったため、その夜に行われていた皇霊殿御神楽が中止された。そこで、以後御神楽は神武天皇祭の夜に奏されることとなり今に至る。




香淳皇后例祭  こうじゅんこうごうれいさい  小祭  (6月16日)

 昭和天皇の皇后、香淳皇后の崩御の日に皇霊殿にて行われる祭典である。武蔵野東陵でも祭典がある。良子(ながこ)皇后は満97歳で平成12年6月16日に崩御された。香淳皇后の諡号(しごう)を受け、平成13年6月18日皇霊殿において霊代奉遷の儀が行われた。平成14年6月16日以降この祭典が営まれる。




節折  よおり    (6月30日 12月31日)

 古代から存在する、天皇の祓いの行事である《⇒祓い(修祓)について》。
 小直衣(このうし)を着けた天皇がまず絹の御服地に御息を3度吹きかけ、続いて御麻(みぬさ)で自らの体を祓い清める。さらに細長い御竹で侍従が天皇の背後に立ち背丈に合わせて竹に筆でしるしをつける。次に2本を左右の肩から足まで、次に2本を左右の胸から指先まで、次に2本を左右の腰から足まで、次に2本を左右の膝から足まで順次計る。その都度、掌典補はその墨しるしのところで折り、櫃に入れる。その後、侍従は土製の壺もちその中に天皇の息を3度吹き込む。以上を2回繰り返し、それを荒世(あらよ)の祓いと和世(にごよ)の祓いと呼ぶ。その御竹などは大祓の祓物とともに川へ流す。それらは長らく浜離宮から船に乗せ海に放たれてきたが、現在では他の場所で流される。




大祓  おおはらえ    (6月30日 12月31日)

 国民のために行われる祓いの行事である《⇒祓い(修祓)について》。国家全体を祓うこの儀式は古代からの行事であり、天武天皇の頃から整えられた。『延喜式』巻第8祝詞においてその祭の祝詞が記される。当時は男女官人が平安京の南正門(朱雀門)の前に集まり、卜部が天皇の御贖に奉られた御祓麻(おはらえぬさ)を祓所に供え、中臣が大祓の祝詞を奏上した後、卜部が祓物を大川に流された。戦国の世に廃絶されていたが、明治4年に再興され、今も行われている。一方、伊勢の神宮においては絶えることなく厳修された。全国の神社においては夏越祓(なごしのはらえ)として行われてきた。
 宮中における現行の大祓は、神嘉殿の前庭で営まれる。参列する皇族と宮内官の代表者等を、掌典が稲穂をつけた御麻(榊)で祓い清める。このようにして穢れを移した祓物は、節折の節竹などの贖物(あがもの)と共に川へ流す。それらは長らく浜離宮から船に乗せ海に放たれてきたが、現在では他の場所で流される。




明治天皇例祭  めいじてんのうれいさい  小祭   (7月30日)

 明治天皇崩御の日に皇霊殿にて行われる祭典である。伏見桃山陵においても祭典があり、勅使によって奉幣が遣わされる。この祭典の神饌には、明治天皇の好んだ季節の果物を加えることが通例とされる。先帝以前3代の式年祭であり、今生天皇の曽祖父にあたる天皇なので、毎年の例祭が小祭で営まれる。また、百年祭は平成24年7月30日に行われる。




秋季皇霊祭  しゅうきこうれいさい  大祭   (秋分の日)

 秋分の日に天皇の先祖を祀る祭典である。皇霊殿にて行われる。《⇒春季皇霊祭




秋季神殿祭  しゅうきしんでんさい  大祭   (秋分の日)

 秋分の日に天神地祇を祀る神恩感謝の祭典であり、神殿にて行われる。《⇒春季神殿祭




神嘗祭賢所の儀  かんなめさいけんしょのぎ  大祭   (10月17日)

 伊勢の神宮の神嘗祭にあわせ、宮中賢所に新穀を供え神恩に感謝をする古代からの祭典である。伊勢の内宮に勅使奉幣が17日午前に行われ、宮中でも天皇が神嘉殿の南庭から伊勢の神宮を遥拝する。この国土に稔ったお初穂をまず伊勢の神宮に奉り、その年の秋の迎えた悦びの御礼を申し上げ、さらなる恩頼(みたまのふゆ)を祈願する。




鎮魂の儀  ちんこんのぎ     (11月22日)

 新嘗祭の前夜、天皇の御魂を沈める祭儀である。綾綺殿において行われるみたましずめの儀であり、身体から離遊する魂を身体の中府に鎮めるために行われる《⇒鎮魂について》。また、この儀式にはみたまふりの意味合いもある。活力を失った魂をゆらゆらと振り動かすことで、活力を取り戻す儀である。
 御巫が宇気槽(うけふね:椀形の大きい容器)を桙で撞く間に、女蔵人が天皇の御服の入った箱を開けて振り動かす。




新嘗祭  にいなめさい   大祭   (11月23日)

 その年の新穀を天皇が皇祖天照大御神と天神地祇に供え、神恩に感謝をした後に天皇が自らも食する祭典である。宮中恒例祭祀の中で最も重要とされる。日本の稲作は弥生時代から列島に普及し、その収穫後に新穀を神々に奉げる祭りが大和朝廷でも全国各地で行われていた。天武天皇・持統天皇のころには、御代始の11月に行われる特別な践祚大嘗祭と、毎年11月恒例の新嘗祭に分けられていた。
 
 この祭典は日本の神話「斎庭の神勅」に由来する。稲の起源が天照大御神によって授けられた高天原の稲穂と伝えられ、稲の稔りは天照大御神の恵みであるとされる。ゆえに、祭典では新穀をもたらした神に感謝を奉げる。

 春に収穫を祈願する祈年祭を行い、秋にはその収穫を感謝して新穀を神に奉げ祭りをすることは、『万葉集』にも見られるように全国各地で行われてきた。また『日本書紀』神代巻に記されることから、宮中においても古くから営まれ重視されてきた祭典である。
 春秋の皇霊祭と同様に、内閣総理大臣、衆議院・参議院議長、最高裁判所長官、各国務大臣等に参列の案内状が送られる。




賢所御神楽  けんしょみかぐら   小祭   (12月中旬)

 賢所前庭の神楽舎において、夕方6時から翌早朝まで御神楽を奏し、御神霊を和め祀る祭典である。日にちは12月中旬とされるが、ほとんどが15日に行われる。御神楽に先立ち、午後5時から天皇・皇后の拝礼があり、皇太子・同妃・親王・同妃・内親王・王・同妃・女王もつぎつぎに拝礼する。約30名の楽師による御神楽にあわせて人長が榊の枝をかざして舞う。その榊は後に掌典が御所の天皇に献ずる。




天長祭   てんちょうさい   小祭   (12月23日)

 今上天皇の誕生日を祝う祭典。賢所・皇霊殿・神殿にて行われる。午前9時より宮中三殿で天皇が拝礼し、10時より長官以下の祝賀、10時15分には一般参賀をうける。その後、終日祝賀行事が行われる。




大正天皇例祭   たいしょうてんのうれいさい   小祭   (12月25日)

 大正天皇崩御の日に皇霊殿にて営まれる祭典である。多摩陵においても祭典があり、勅使によって奉幣が遣わされる。先帝以前3代の式年祭であり、今生天皇の祖父にあたる天皇なので、毎年の例祭が小祭で営まれる。また、百年祭は平成38年12月25日に大祭にて行われる。




節折  よおり    (12月31日)

 古代から存在する、天皇の祓いの行事である《⇒祓い(修祓)について》。
 《⇒6月30日節折




大祓  おおはらえ    (12月31日)

 国民のために行われる祓いの行事である《⇒祓い(修祓)について
 《⇒6月30日大祓




除夜祭  じょやさい    (12月31日)

 12月31日大祓のあとに賢所、皇霊殿、神殿で行われる祭典。歳末に大年超の御祈祷が行われる。天皇は参加せず、掌典職のみで奉仕される。

 


  臨時祭祀  りんじさいし
  皇室祭祀には、恒例祭祀のほかにさまざまな臨時の祭祀がある。


皇室・国家の大事

宮中三殿と伊勢の神宮、神武天皇陵・先帝陵に皇室・国家の大事を奉告する祭典。過去には、皇室典範と大日本帝国憲法制定の御告文を奏された。震害・復興に関する奉告祭祀もある。また、天皇・皇后、皇太子・皇太子妃が外国を訪問する出発前と帰国後に奉告の儀が行われる。




大婚(天皇・皇后の結婚満五十年祭典)

天皇・皇后の結婚満25年、満50年には、宮中三殿で小祭に準ずる祭典が行われる。平成の場合、昭和34年の成婚から50年となった平成21年4月10日が大婚50年となった。




式年遷宮

伊勢の神宮で20年に一度に祭神を古殿から新宮へ遷座する式年遷宮の際、あるいは宮中三殿を臨時に修造するために祭神を本殿から仮殿へ(仮殿から本殿へ)奉遷する際、大祭に準じて祭典が行われる。




大礼(即位礼・大嘗祭)

先帝が崩御し皇太子がただちに皇位を継承してから1年間の喪が明けると、宮中三殿や宮殿、竹の間、神宮、所定の山陵に勅使が遣わされ、大嘗祭の期日を奉告する勅使発遣の儀が行われる。大礼では数多くの祭儀が行われ、平成の大礼では16の祭儀がおこなわれた。おもな儀式には、「即位礼当日賢所大前の儀及び皇霊殿神殿に奉告の儀」「即位礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」「園遊会」「大嘗祭」「斉田点定の儀」「悠紀殿供饌の儀」「主基殿供饌の儀」などがある。




誕生・就学・成年式

天皇、皇族が誕生の際には、宮中三殿で著帯・誕生命名を奉告する儀や、初宮参りに相当する三殿に参拝する儀などがある。皇子、皇女の就学時には、本人が宮中三殿に参拝する。天皇、皇太子、皇太孫の満18歳になると行う成年式および他の皇族が満20歳になったときの成年式には、宮中三殿に参拝する。

 


  毎朝御代拝 同日供 
 
 毎朝午前8時に賢所と皇霊殿に内掌典、神殿に掌典がそれぞれ神饌供進すると、当直の侍従が参進し参拝する。その間、天皇・皇后は御所で慎む。これは平安時代前期に宇多天皇が始めた毎朝四方拝に由来する。明治4年には日々御代拝となり、現在では毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)とよばれる。
 
 毎朝午前6時開扉し、神殿内陣・外陣の清掃してから御格子(みこし)をあげ、神饌を調理する。午前8時に賢所・皇霊殿には内掌典が、神殿には掌典が神饌(供米など)を供進し、午前8時30分に侍従が参進、御代拝(天皇に代わり拝礼)をする。

 


  旬祭 しゅんさい 
  毎月3回、1日・11日・21日に宮中三殿で行われる祭典を旬祭という。毎月1日の旬祭は直衣(のうし)を着けた天皇が午前8時30分から宮中三殿を順に拝礼する。11日、21日の旬祭は、侍従が御代拝(天皇に代わり拝礼)をする。その間、天皇・皇后は御所で慎む。昭和天皇の晩年および今上天皇も平成21年から1日の旬祭にて拝礼する月が、5月と10月のみとなった。




   


  教育勅語 きょういくちょくご 
   明治天皇の命により、明治 23 年(1890年)10 月30 日に「教育ニ関スル勅語」が発布、日本人の修身・道徳教育の根本規範とされた。明治40年(1907年)になると、英語やその他の言語に翻訳され、イギリスをはじめヨーロッパ各国から高く評価されたが、 戦後の政治改革によって昭和21(1946年)に廃止された。

昨今、教育についての社会的関心が高まる中、忘れられている日本人の心と過去の道徳を今一度見つめなおし、次世代に語り継ぐべき精神として教育勅語が再評価されている。
   


  教育勅語の12徳
   
  1、孝 行    子は親に孝養をつくしましょう
2、友 愛    兄弟、姉妹は仲良くしましょう
3、夫婦の和  夫婦はいつも仲睦まじくしましょう
4、朋友の信  友達はお互いに信じあって付き合いましょう
5、謙 遜    自分の言動を慎みましょう
6、博 愛    広く全ての人に愛の手を差し伸べましょう
7、修学習業  勉学に励み職業を身につけましょう
8、智能啓発  智徳を養い才能を伸ばしましょう
9、徳器成就  人格の向上につとめましょう
10、公益世務 広く世の人々や社会の為になる仕事に励みましょう
11、遵 法   法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう
12、義 勇   正しい勇気をもって国のために真心をつくしましょう
   
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   神道の日本