|
|
| 旧別格官幣社 |
下の神社名をクリックすると由緒とご神徳が表示されます |
| |
|
| |
|
| |
|
| 談山神社 たんざんじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒633-0032 奈良県桜井市多武峰319
|
| |
主 祭 神 |
藤原鎌足公 (ふじわらのかまたりこう)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神藤原鎌足公(ふじわらのかまたりこう)は、天児屋命(あめのこやねのみこと)の21代の後裔である。天児屋命の孫である天種子命(あめのたねこのみこと)は、神武天皇に仕え朝廷を補佐し祭祀を司ったことから子孫は代々その職を継いだ。種子命より17世の孫である常磐大連(ときわいおおむらじ)は欽明天皇の朝にはじめて中臣の姓を賜った。この常磐大連の子は小徳冠御家子(しょうとくかんみけこ)であり、実に鎌足公の父である。鎌足公は名を鎌子といい、幼いころより常に蘇我氏の専横に憤っていたが、中大兄皇子(天智天皇)と結んで入鹿(いるか)父子を倒した。これは多くの人が知るところであるが、ここで記すべきことは鎌足公の謙徳である。鎌足公は功績を立てながら自ら卑くして敢えて重職には上がらず、阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)らを推して左右の大臣としたところは、実に公の徳である。天智天皇2年に公は病に伏た時、その死に臨み天皇が親しく公に言いたいことを問わせると、「臣生きて軍国に益なし死して百姓を煩わすを欲せず」と答え、天皇はこれを嘉納したといわれる。続いて天皇は皇弟大海人皇子(天武天皇)を遣わせて、藤原の姓と大織冠(だいしょくかん)を授けたが翌日公は薨じた。公には子が2人あり、唐にて学を受けた長男を定慧(じょうえい)、次男を不比等(ふびと)という。不比等は鎌足公の遺骸を摂津の阿威山に葬ったが、定慧は帰国すると大和の多武峰に改葬してその肖像を画い、十三重塔を建て祀ったといわれる。その後朝廷よりたびたび奉幣があり、明治維新の後に別格官幣社に列せられた。社号の由来は、中大兄皇子(天智天皇)と鎌足公が多武峰に登り、大化改新の談合を行ったことに由来するとされる。毎年4月29日と11月3日のけまり祭は、鎌足公が中大兄皇子と初めてまみえた飛鳥法興寺の蹴鞠会に由来する。
|
| |
おもな祭事 |
11月17日 例祭
4月29日 11月3日 けまり祭
|
| 護王神社 ごおうじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒602-8011 京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385
|
| |
主 祭 神 |
和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)
和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)は備前国藤野郡に生まれ、祖先は第12代景行天皇の皇子鐸石別命(ぬてしわけのみこと)である。命の曾孫にあたる彦王は応神天皇の朝において軍功を立て、吉備の磐梨縣を賜り代々その地に住んだ。したがって公の旧姓は磐梨公であったが、後に藤野別真人と改めて朝廷に仕えて右兵衛少尉となり、後にまた吉備別真人の姓を賜った。その時代、孝謙天皇は弓削道鏡を寵幸して法王の位を授けたが、宇佐八幡の神主である習宜阿曾麻呂が道鏡に媚びて八幡の神託として「道鏡を帝位に即位させれば天下泰平とならん」と偽り、道鏡はこれを喜んで天皇に申し出た。そこで天皇は清麻呂公に命じて宇佐に赴き真偽を確かめさせたところ、神託が偽りであったことが判明した。しかし、道鏡を恐れ誰一人これに異議をとなえる者はなく皇統は危機に瀕した。そこで清麻呂公はただ一人、宇佐八幡の大神による真の神託「天津日嗣(あまつひつぎ:皇位の継承)は必ず皇緒を立てよ無道の者は早く之を除くべし」と奏して、道鏡の野望を根底から砕いた。このため公は道鏡の怒りに触れ、官位を奪われ、手足の筋を絶たれ、名を別部穢麿(わけべのけがれまろ)と改められて姉の広虫姫(ひろむしひめ)と共に大隅国に流された。それでも道鏡の怒りは止まずに公を道中殺害しようと企んだが、たまたま雷雨となりそれは果たされなかった。程なく孝謙天皇が崩御し、光仁天皇は公を召還し官位を復した。その後公は美作備前の国司に任じられ姓を和気(わけ)の朝臣(あそん)と賜った。桓武天皇の朝廷に至り都は平城京から長岡京へ遷されたが、10年が経過しても都造りがはかどらず天皇はこれを憂いていた。そこで清麻呂公は、形勝の地であり山河自然に城をなす葛野の地に遷都することを天皇に進言した。すると天皇はこれを喜んで聞き入れ遷都し、現在の京都である平安京を築くこととなった。延暦13年、公は累進して従3位となり、田20町を賜りこれを子孫に伝えた。延暦18年清麻呂公は67歳にて他界した。当社の創建は不詳であるが、もとは高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として小さな祠が祀られたことが起源と伝わる。孝明天皇の嘉永4年3月に正1位護王大明神の神号を賜り、明治7年2月に別格官幣社に列せられた。明治19年、明治天皇の勅命により京都御所蛤御門前の現在の地に遷座し、後に公の姉和気広虫姫も主祭神として合祀された。11月1日の亥子祭(いのこさい)は、平安時代の宮中の年中行事であった亥子餅の儀式を再現した特殊神事である。狛犬の代わりに雌雄一対の狛いのししが建てられる当社には、清麻呂公が道鏡から送り込まれた刺客に襲われたところをどこからか現われた300頭あまりの猪の群によって救われたとの故事が伝わる。
|
| |
おもな祭事 |
4月4日 例祭 11月1日 亥子祭(いのこさい)
|
| 小御門神社 こみかどじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒289-0116 千葉県香取郡下総町名古屋898
|
| |
主 祭 神 |
贈太政大臣藤原師賢公(ぞうだいじょうだいじん ふじわらのもろかたこう)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神贈太政大臣藤原師賢公(ぞうだいじょうだいじん ふじわらのもろかたこう)は内大臣師信公の息子であり、家を花山院と号した。後醍醐天皇に仕えて弾正尹(だんじょうのい)となったため、尹大納言(いんのだいなごん)とも呼ばれた。後醍醐天皇は、鎌倉幕府北條高時の暴逆を憎みこれを誅そうとして、公もまたその謀にあずかった。しかしその謀は洩れて高時は兵を出して後醍醐天皇を倒そうとした。逃れた天皇は師賢公に天皇の衣を着けさせると延暦寺に赴かせた。すると僧徒らが喜んで迎え入れて公をまず西塔に奉じると、直ちに高時兵を撃退したのだった。しかし、公が天皇の衣を着け行幸を偽装したことが知れると僧徒らは憤りみな散じ去ってしまった。師賢公はなすすべもなく、笠置、京師に逃れるが遂に捕らえられ元弘2年5月下総に流された。その後公は剃髪し素貞(そてい)と号したが、病を発し元弘10年にわずか31歳で薨去した。天皇は流配地で他界した師賢公を深く悼んで公に太政大臣を贈り、文貞公の諡号を与えた。明治10年地方民により神社創建の要望があがり、明治12年1月に許されて小御門神社の社号を賜った。明治15年6月には別格官幣社に列せられた。当社の南方には師賢居館跡がある。
|
| |
おもな祭事 |
4月29日 例祭
|
| 菊池神社 きくちじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒861-1331 熊本県菊池市隈府1257
|
| |
主 祭 神 |
菊池武時(きくちたけとき)
菊池武重(きくちたけしげ) 菊池武光(きくちたけみつ)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神菊池武時朝臣(きくちたけときあそん)は通称を二郎と称し、後に剃髪して寂阿(じゃくあ)と号した。その祖先は中納言藤原隆家卿(ちゅうなごんふじわらたかいえきょう:関白道隆の子であり、太宰権師となり刀伊の入寇を撃退した。また小野好古と共に純友の乱を平定した人)である。父を時隆という。後醍醐天皇が隠岐を逃れ出で、船上山に行宮(あんぐう)を築くと、武時公は少弐貞経(しょうにさだつね)、大友貞宗(おおともさだむね)らと勤王の師を興すことを計画した。天皇はこれを嘉奨して錦旗を与えた。しかし鎮西探題(ちんぜいたんだい)の北条英時はこれを知り武時公を呼び出した。公はこの謀が洩れたことを悟って少弐と大友に使者を遣わせ、速やかに兵を挙げた。しかし2人は京師の官軍が劣勢であることを聞くと、たちまち豹変して武時公の使者の首を斬り北条英時に送り公を裏切った。公は大いに悔いて憤慨し、残りわずか150あまりの兵を従え進み英時を攻めた。英時はそれを防ぐことができずまさに自刃しようとしたとき、少弐と大友の2人が6千あまりの兵を率いて英時を助けた。公は敗戦を覚悟して、長男武重を諭し「吾いま義に赴きて命を授く元よりその処なり汝(なんじ)国に帰り居城を完うし兵を蓄えて君と国とに尽くせ」と告げた。言い終わると衣の袖を裂いて「古さとやこよひばかりの命ぞと知らでや人の我を待らん」と一首の和歌を血で書して与えた。武重は共に死のうとするが公はそれを許さず武重の涙をぬぐい去った。そして公は群がる敵中に割って入り縦横に奮撃して戦死した。時に42歳であった。まもなく後醍醐天皇は京師に戻ると、楠正成が「武時功を奏して命を致す 宜しく功第一とすべし」と進言し、天皇はこれを嘉納した。武時公には15の子がありみな王事に尽くし、とりわけ長男の武重、第8子の武光も顕れた。明治天皇は公と一族の忠誠を深く賞され、明治16年8月6日従三位を贈った。同25年12月12日には更に従一位に追贈、長男武重と第8子武光には同従三位が追贈された。当社は明治に至り武時公を主祭神として菊池一族の26柱が配祀されたが、大正年間には配祀されていた武重と武光が主祭神に加えられた。境内にある菊池歴史館蔵の菊池家憲、菊池神社文書、菊池能運(よしゆき)画像などは国の重要文化財に指定される。
|
| |
おもな祭事 |
4月5日 例祭
|
| 湊川神社 みなとがわじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒650-0015 兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1
|
| |
主 祭 神 |
楠正成朝臣(くすのきまさしげあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神楠正成公は、左大臣橘諸兄公(たちばなもろえこう)の末裔で、代々金剛山の西に住んでいた。父を正康といい、幼名を多聞(たもん)、長じて兵衛尉(ひょうえのじょう)となる。後醍醐天皇は敵軍から笠置山に逃れると正成公を呼んで大事を任せた。公は直ちに天皇を赤坂に迎えた。すると笠置山が攻めら陥落した。それに乗じた敵将大仏貞直(おさらぎさだなお)は、城兵わずか500を見ると侮り30万の兵で更に急ぎ攻め込んだ。そこで公は神出鬼没の妙算をもって敵の大軍を何度となく破った。ついに敵は恐れて攻めること止め、柵を築いて長時間居座った。すると公は兵に「我々は優勢だが敵は大軍なために挫けない。城中は食糧も乏しくなり外に援兵もない。天下に率先して勤皇に尽くす我々はもとから死を覚悟しているが、いたずらに死ぬよりは功を立てるべきだ。今私が偽り死ねば、必ず敵は去る。去った後、また兵を集めて戦おう。彼は奔命に労し吾は逸して敵に当たらず、これが勝ちを制する道である」と言うと、みなこれに従った。公が密かに城を去った後、屍に薪を積んで火をつけると敵兵は公が死んだと思い込み関東に帰っていった。公はその後、河内和泉を従えて渡辺橋に至ると、北条時益は数千兵を遣わせて公を討たせようとした。しかし、公は伏兵を設けるとこれを破った。時益は更に宇都宮公綱を遣わせるとその精兵500を率いて公に挑んだ。和田孫二郎はこれを迎え撃つことを申し出たが、公は「公綱は関東の驍将であり、いま数少ない兵で向ってもそれは死を意味する。吾がこれを破るも失うところは甚大だ。天下の事は今日のみにあるわけではない。士力をおしんで後事を図るべきである。吾は今退き戦わずして彼を倒そうと、兵を引いて去る」と言って戒めた。そして300の民兵と数千の兵を、夜松明を燃やして山道を歩かせた。これを連夜繰り返すと、この様子を望見していた公綱は「敵勢が日に日に増す」と恐れるようになり、ついには陣を棄て逃げ帰っていった。また高時は大兵を発して大仏貞直を将として攻め込んだ。しかし公は千変万化の秘術を尽くして敵を撃退したのだった。まもなく後醍醐天皇は船上山に軍を構えた。次いで京師が陥り高時はまた誅に伏した。天皇は京師に還幸すると、正成公も兵7000を率いて迎謁した。天皇は親しく公の功績をねぎらい、公を検非違使左衛門尉として河内、和泉、摂津の3州の守護に任命した。ほどなく足利尊氏が反して京師を侵すと、公は「敵は非常に鋭く、しばらくその鋭を避けて帝は延暦寺に幸(みゆき)し、敵を京師に入れて機をみて一挙に撃退するべし」と進言した。これに天皇は従うとその通りに公は敵を破った。尊氏は西に逃げ九州で兵を募り率い、大挙してふたたび京師に迫った。正成公は「敵は甚だ勢いを増している。帝は再び叡山に幸し、臣は河内に戻り敵の食糧を断ちましょう。その疲散を待ち、四方より撃退すれば一挙に敵を倒せましょう」と進言すると、藤原清忠はこれを妨げて「一年に2回も敵を京師に入れるのは、策を持った者とはいえない」と、兵庫にて敵を迎え撃つべきだと言った。天皇はこれに従うと、公は今となっては諫める道はなく、ただこの命令に従うのみとして500騎を率い、桜井の駅(大阪府三島郡島本町桜井)で子の正行に別れを告げて道を進んだ。敵兵は2万あり、正成公はすでに生きて帰れないことを悟った。縦横突撃して敵を退きながら、顧みて義貞の軍をみれば既に敵は背後に迫っていた。最後に敵を退けると、公は残兵を集めて湊川の民舎に入り、一族13人残兵60余人と割腹して死んだ。当社は、明治元年4月21日勅命によって社殿が造営され、公の神霊が祀られた。明治5年5月7日社号を湊川神社と賜り、同日別格官幣社に列せられた。ついで子の正行、弟の和田正季ほか殉難将士が配祀された。明治13年7月21日には正一位を追贈された。また明治天皇によって明治5年7月8日、10年1月28日、13年7月21日の3度の行幸があった。公の廟所は、境内東南隅にあり国の指定文化財とされる。元禄8年11月、三戸黄門光圀公はここに碑石を建てさせてみずから「嗚呼忠臣楠子之墓」の8文字を記し、その裏面には明の朱舜水(しゅしゅんすい)の賛文を刻ませた。
|
| |
おもな祭事 |
7月12日 例祭
|
| 名和神社 なわじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒689-3212 鳥取県西伯郡大山町名和556
|
| |
主 祭 神 |
名和長年朝臣(なわながとしあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神源朝臣名和長年公(みなもとのあそんなわながとしこう)は、初の名は長高(ながたか)、通称を又太郎(またたろう)といい、村上天皇の皇子具平親王(ともひらしんのう)の後裔であることから又の名を村上氏と称した。父を行高(ゆきたか)といい、代々名和の地頭であった。人柄は勇健であり弓の名手で、家は豊かで宗族広い一族であった。元弘3年2月、後醍醐天皇が隠岐を逃れて伯耆に上陸した。天皇は侍臣を長年公の邸に遣わして勅した「朕いま此処に来たりて卿に大事を托せんとす、然れども卿若し勅を奉ずるを欲せざれば速やかにこれを鎌倉に報ぜよ」すると長年公は涙を流して「今天子来たり微臣に託するに大事を以ってせらる何ぞこれを辞せん、臣必ず死を以って報い奉らん」と言った。すると直ちに子弟宗族150人を率いて天皇を迎え船上山に錦旗を立てた。敵将佐々木清高、昌綱は兵3000を率いて攻め来ると、長年公は擬兵によってこれを撃退した。天皇はこれを嘉奨して「長くして高きは危からん(公の旧名は長高)、今より長年と改むべし」として従4位下に叙し、左衛門尉兼伯耆守(さえもんのじょうけんほうきのかみ)に任命した。ほどなく京師は陥落して北条高時(ほうじょうたかとき)が誅に伏すると、公は京師に戻った。その後、足利尊氏が反して京師を攻めると、長年公は楠正成、新田義貞らとこれを防いで功を立てた。しかし、延元元年6月戦利なく族200人と奮戦力闘してついに討死した。明治天皇は深くこの忠誠を追賞し、明治16年8月6日に従3位が贈られた。当社は承応明暦の頃、村民が小祠を立て長年公の御霊を鎮め祀ったことが起源とされる。延宝5年10月国守池田伯耆守光政(こくしゅいけだほうきのかみみつまさ)が長年公の忠誠を追慕し、日吉阪の丘陵に壮麗な社殿を造営して遷し祀った。明治10年には別格官幣社に列せられ、名和長重、義高以下殉難将士42人を配祀した。明治16年、長年公の邸跡であった地に更に遷座して現在に至る。
|
| |
おもな祭事 |
5月7日 例祭
|
| 阿部野神社 あべのじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒545-0035 大阪府大阪市阿倍野区北畠3-7-20
|
| |
主 祭 神 |
北畠親房卿(きたばたけちかふさきょう)
北畠顕家卿(きたばたけあきいえきょう)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神准后従一位源朝臣親房卿(じゅんこうじゅういちいみなもとあそんちかふさきょう)は、村上天皇の皇子具平親王(ともひらしんのう)第12世の孫であり、卿の3世の祖である雅家卿(まさいえきょう)が初めて北畠を称した。父を権大納言師重公(もろしげこう)という。親房卿は博学にして深く典故に通じ、伏見天皇以後5朝に仕え勤皇の志が厚かった。累進して中納言、更に従一位に叙し三后に准ぜられた。これによって准后と称した。長男顕家卿(あきいえきょう)は陸奥守(むつのかみ)となり、皇子義良親王(のりながしんのう)を奉じて奥羽に下ると、補佐となって従い後に京に帰るが、足利尊氏が反して顕家卿は阿部野に戦死した。すると次男顕信卿が陸奥守となり又義良親王を奉じて任に赴くと又補佐となり兵船500艘で伊勢を発した。ところが海上で暴風に遭い親王は伊勢に、卿は常陸に漂着した。親房卿は軍中にあって深く王業の衰えを嘆き、神皇正統紀を著した。また、職原抄を著して百官の位職を審らかにして、これを吉野の行宮に奉った。興国元年11月、城将小田治久が敵に降ると、卿は援軍を結城親朝(ゆうきちかとも)に要請したが、親朝もまた敵に通じていた。卿は吉野に帰り後に紀伊国北山に隠れ、その地に薨去した。享年68歳。3子があり顕家、顕信、顕能はみな王事に勤めた。顕能の子孫は代々伊勢を領有し名族となった。祭神源朝臣顕家卿(みなもとあそんあきいえきょう)は親房卿の長男である。元弘3年11月に年わずかに16にして陸奥守兼鎮守府将軍となり、義良親王(のりながしんのう:後村上天皇)を奉じて奥羽を鎮めた。延元元年足利尊氏が反して鎌倉に寄ると、天皇は勅して新田義貞と共に敵を打たせた。卿は奥羽の大兵を発して鎌倉に至ると、尊氏はすでに西に向っていた。卿はこれを追って京師に入ると新田、楠らと見事に敵を破った。この功績によって右衛門督(うえもんのかみ)、検非違使別当に補され、さらに権中納言に進み、また義良親王を奉じて陸奥に向った。この年5月、西に逃れていた尊氏が九州の大軍を率いて再び京師を陥れようとすると、卿は再び奥羽の兵を発して官軍を助け各地に転戦したが、敵将高師冬と阿部野において戦い遂に陣没した。享年わずかに21歳であった。朝廷は深く卿の死を追悼し、従一位右大臣を贈った≪⇒霊山神社の章参照≫。明治に至り卿が戦死した地に当社の社殿が創建された。父親房卿の神霊と共に合祀される。明治15年1月に別格官幣社に列せられた。第二次世界大戦で社殿を焼失したが再建された。現社殿は昭和四十三年のものである。
|
| |
おもな祭事 |
1月24日 例祭
|
| 藤島神社 ふじしまじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒918-8003 福井県福井市毛矢3-8-21
|
| |
主 祭 神 |
新田義貞公(にったよしさだこう)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神新田義貞公(正一位源朝臣義貞公)は八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ:源義家)から10代目の子孫に当たる。幼名を小太郎(こたろう)と称し、父を朝氏(ともうじ)という。代々上野国新田郡世良田村に住んだ。元弘3年3月、義貞公は北条高時の命に応じて軍中にあったが、「吾は源氏の正統でありながら、今は陪臣北条高時の為に戦っている。これは大いに恥じることである」と思い直し、願わくば護良(もりなが)親王のため挙兵する旨を親王に申し上げた。すると親王は大いに喜び、公は令旨(りょうじ)を受けることとなった。それを知った高時は大いに怒り兵10万の将を弟泰家として義貞公を討つよう命じた。公はこれを見事に破って鎌倉に迫った。まず軍を3手に分け、大舘宗氏(おおだてむねうじ)江田行義(えだゆきよし)の一隊は極楽寺坂より、堀口貞行、大島守之の一隊は巨福呂坂より、公は弟義助と化粧坂より進んだ。一昼夜にして65回接戦し、大舘宗氏は戦死した。公はこれを聞き急いで援けに向うが、敵軍は数万あり陸には柵を列ねて経路を絶ち、海には戦艦を浮かべて堅く守り入ることができなかった。公は稲村ヶ崎の岸頭に立ち、海神に祈り「今天子は逆賊のために西海に漂い給ふ。吾今君と国との為に兵を起こして此処に至る。海神願わくば臣の赤誠を聞き入れ海潮を引かしめ給え」と、黄金作りの太刀を海に投じて海神に献上した。翌朝になると潮は水陸を離れ、賊艦は悉く漂い去った。公の軍は鎌倉に入り火を放ち勢いに乗じて進撃した。北条高時はこれを防ぐことができず、葛西谷に逃れて一族と共に自殺した。こうして元弘3月5月22日、ついに鎌倉幕府を滅ぼした。建武元年、公は入朝し従四位に叙され、左兵衛督兼播磨守に任ぜられた。鎌倉幕府が滅亡した後、足利利尊氏が天皇に反して南北朝の時代となった。義貞公は後醍醐天皇のために戦い、尊氏が再度西より京師に迫ると、形勢不利となり楠木正成公は湊川で戦死した。延暦寺に逃れていた後醍醐天皇は密かに尊氏の和睦の要請に応じようとしていると、義貞公はこれを聞き驚いて天皇の前に伏した。すると天皇は「元弘以来朕は一族の忠誠を忘れない。ただ今は逆賊は滔天の勢いがある。よって、和を講じて形勢が変わるのを待とうではないか。皇太子を奉じて北陸に向かい回復を計れ」と公に命じた。翌日、公は尊良親王を奉じて越前に向うと、足利高経、高師泰らが兵を率いて攻め来た。義貞公は各地に転戦し進んで高経を足羽へと攻めた。高経は7陣営を築いてこれを守った。兵は藤島を攻めても利がなく、義貞公はこれを聞いて藤島へ急いだ。敵は盾に隠れて矢を乱射すると、公は盾を持たなかったので従者が身をもって公を守った。それでも公は突き進もうとすると中野宗政は「千鈞の弩は鼷鼠の為に機を発せず(ねずみを捕るために強い石弓で射るようなことはしない)、軽んずるなかれ」と諫めた。すると公は「皆を見捨てて吾ひとり逃るに忍びんや」と馬に鞭を打ち進んだ。馬は矢を受けて覆り、流矢は公の額を射った。すると公はこれまでと悟り自ら首をはねて死んだ。公38歳、延元2年閏(うるう)7月であった。公には義顕、義興、義宗の3子があり、みな王事に殉じた。明治天皇は深く公の忠誠を追念し、正一位を追贈した。公が戦死した跡に社殿を造営して長く神霊を祀らせ、社号を藤島神社とした。明治9年11月別格官幣社に列せられた。その後、明治14年牧ノ島に社殿が遷されたが、水害のため明治34年5月、現在地へ遷座された。
|
| |
おもな祭事 |
8月25日 例祭
|
| 結城神社 ゆうきじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒514-0815 三重県津市藤方2341
|
| |
主 祭 神 |
結城宗広朝臣(ゆうきむねひろあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神結城宗広朝臣(ゆうきむねひろあそん)は奥州白河の人であり、その祖先は藤原鎌足公の裔、田原藤太秀卿である。祖父を六郎朝光といい、父を祐廣という。元弘3年、勤王の志を抱いていた結城宗広公は護良親王(もりながしんのう)の令旨を受け、弟片見祐義ら一族を率いて東国に帰り、新田義貞公と共に兵を挙げて鎌倉に入り高時を亡ぼした。次に北畠顕家卿(きたばたけあきいえきょう)が皇子義良親王(よしながしんのう)を奉じて奥羽に下ると、公はその謀将となった。延元元年足利尊氏が反すると顕家卿と共に奥羽の兵を率いて京師に向かい、諸将と尊氏を攻め破った。その後奥羽に帰るが、再び尊氏が大兵を挙げて京師を陥れると聞き、直ちに兵を発したが、奥羽にも尊氏に応じる者があり出発することができず、ようやく平定して京に至り各地に転戦した。しかし、常に戦いに利がなく、顕家卿は阿部野に戦死した。時に南朝においては楠木、新田、名和、菊池の諸将が戦没し、勢いは日に薄まり廷臣はみな生色を失った。公は進み奏して曰く「臣老いたりといえどもなお余勇あり再び奥羽に下り、兵を募りて回復を計らん」と。そうして顕家卿の弟顕信卿を陸奥守とし、義良親王を奉じて陸奥に至った。公は親房卿と議して伊勢より海路奥羽に向おうと兵船500艘に乗じて延元3年8月17日伊勢の大湊を発した。しかし不幸にして途中暴風に遭い、公の船は7日7夜のあいだ海洋を漂いようやく安濃津に漂着するとほどなく公は病に罹った。「われ年すでに老いたりまた遺憾なし、ただ敵を亡ぼすを見ざるを恨みとす、わが子孫たるものは仏に供養するを止め、敵の首を斬りてわが墓前に手向けよ」と言い終わり、刀を抜きこれを逆手に持ち死す時に年73であった。いつのころからかその墓の横に小詞が建てられ宗広公の霊が祀られたが、後に津藩主である藤堂家が社殿を修造した。明治天皇は深く公の忠誠を賞され、正4位を贈り社号を結城神社と賜った。明治15年1月別格官幣社に列せられた。当社には県指定文化財である紙本墨書「結城神社文書」や刀剣類がある。
|
| |
おもな祭事 |
5月1日 例祭
|
| 豐榮神社 とよさかじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒753-0091 山口県山口市天花1-1-2
|
| |
主 祭 神 |
毛利元就朝臣(もうりもとなりあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神毛利元就朝臣(もうりもとなりあそん)の祖先は大江広元(おおえひろもと)である。代々周防の大内氏に属し、安芸の吉田に住んだ。父を弘元といい、元就公は第2子である。公は幼いころから大器であった。かつて従者が公を抱いて河を渡る最中に誤ってつまずき水中に堕ちて溺れたことがあった。従者は恐懼して謝罪すると、公は「道を行きてつまずくはこれあやまちなり、なんぞ咎めんや」と言った。さらに成長して従者と厳島に詣でたある日、帰路公は「汝、何を祈るか」とたずねた。従者は「公の安芸に主たるを祈る」と答えると、公は笑い「なんと祈ることの小なるや、今天下に主たるを願ってようやく一地方の主となろう。一地方の主たらんと願う者はようやく一国に主たり。一国に主たらんことを願う者はその得るところを知るのみなり。何ぞ我天下に主たるを願わざる」と答えた。当初公は多治比氏を襲いで猿掛城にいたが、兄興元が死んだため家を継いだ。天文20年8月、大内義隆がその家臣陶晴賢(すえはるかた)によって殺害されその国が奪われた。義隆は死に臨んで公に書を送り仇討ちを託した。公は「義仇を報ぜざるべからず」と、その委託を受けた。まず公は、一族であり晴賢と通じている井上元兼を倒した。そして帝に上書して「太宰大弐大内義隆、父祖の業を受けて心を皇室に存す、今賊臣陶晴賢に害せらる、臣元就微力を奮ふて誅伐を行わん」として勅許を賜り大義を得た。すると公は直ぐに諸将が諫めたにも関わらず厳島に城を築き始めた。そして公は「悔いていることには我は老臣の言を聞かなかったことだ。今敵に攻められればまさに袋の鼠である」と周囲にもらすと、それを晴賢が聞き大挙して厳島を攻めた。すると公は術中に陥った敵を絶島に誘い、一気にこれを攻め滅ぼすことに成功した。公は大内氏の故地を得て勢いを増し、ついで尼子氏をも滅ぼして山陰、山陽両道の大半を占有することとなった。公は常に皇室の式微を嘆き、永禄3年正月、穀1千石を献上して正親町天皇御即位の資に充てた。帝は深くこれを嘉賞して菊桐の御紋章を賜り同年2月大膳大夫に任じられた。当時天下の武人はただ自己ばかりを考え天子将軍を知らずに程があった中で、公はただ一人、先に勅許を得て晴賢を誅し後には即位の資を献じた。これが後に数多の勤王家を輩出した根源となったとされる。当社は、元は長門国萩城中に鎮座したが毛利氏が山口に移ると共にこの地に奉遷され、明治維新の後に別格官幣社に列せられた。
|
| |
おもな祭事 |
10月1日 例祭
|
| 建勲神社 たけいさおじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒603-8227 京都市北区紫野北舟岡町49
|
| |
主 祭 神 |
平信長朝臣(たいらののぶながあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神贈従一位太政大臣平朝臣織田信長公は、小松内大臣平重盛公の後裔である。代々足利の管領家斯波氏の宰臣であった。尾張国清洲の父を信秀といい、信長公はその長男であった。公の幼名は吉法師といい、武を好み、自ら2丈の長槍を作り用いていた。永禄3年5月、駿河の今川義元が大挙して尾張を攻め大高、沓掛の2城を屠ると、信長公はこれを迎え撃とうとした。すると林通勝が「彼いま大兵を率いて来る、我少ない兵をもってこれを迎えるは甚だ危うい、城に留まり守るべし」と公を諫めると、公は「我父は、隣国がもし攻め来れば速やかに攻撃して戦えと余に教えた、いたずらに躊躇して日を費やせば内必ず変あらんと、吾は固くこの教えを信ず」と言い、馬に鞭を打ち城を出た。従う者はわずかに近臣145輩に過ぎなかった。まず熱田の神に勝利を祈り、行く先々で城の兵を集め3000を得た。進んで東方を望めば火焔が天を焦がしていた。これを見て二城がおちたことを悟ると、みな逡巡して進まなかった。林通勝、柴田勝家、池田信輝、毛利秀高らが公の馬を控えて「敵は勝つ勢いであり、避けた方がよい」と公を諫めた。すると公は「敵は今城を陥れて疲労す、かつ義元は我を侮りて備えず、よろしくこの機に乗じて敵軍を破るべし」と言い、梁田出羽はこれに賛同して馬を飛ばし桶狭間に至った。義元の牙営を攻めると、油断していた義元と敵軍は大いに狼狽した。毛利秀高、服部小平太が幕中に踊り入り義元を斬った。これによって信長公の威名は天下に著れたのだった。正親町天皇ははるかにこれを聞き召され、密勅を賜いて天下を清平することを命じられた。公は斎戒沐浴して勅使を迎え奉りて「吾聞く天子は天下の君なり宜しく吾より臣職を尽すべきに、今却って勅使をかたじけなふべし恐懼に堪へず、まさに天威に藉り兇徒を平げ以って報效を計るべし」と、これより天下を清平し、宸襟を安んずることを自分の任務とし、日夜西に上り元亀元年2月に始めて京に入った。まず皇居を修理し、御料を献上し、また久しく廃止されていた伊勢内宮の式年造営を復した。ついで四方いまだに王命に従わない者を従わせ、東伐西征鴻業ようやく半ばにして、天正10年6月2日、逆臣明智光秀が反して公を京都本能寺で襲った。公は侍臣森蘭丸に「反する者は誰ぞ」と問うと、蘭丸は答えて「明智光秀なり」と答えた。公は光秀に先をこされまいと自ら射て数人を倒し、されに長槍を奮い戦い股を傷つけられた。公は遂に退いて火を放ち自殺した。時に年49歳、長男信忠もまた戦死した。当社は、明治8年公の忠誠を追賞され、建勲神社の社号を賜り別格官幣社に列し、永く公の英霊を鎮め祀る。
|
| |
おもな祭事 |
7月1日 例祭
|
| 豐國神社 とよくにじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒605-0931 京都市東山区大和大路正面茶屋町530
|
| |
主 祭 神 |
豊臣秀吉朝臣(とよとみひでよしあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神関白太政大臣豊臣秀吉朝臣は、尾張出身で幼名を日吉といった。幼くして父をなくし、母は日吉を僧とした。日吉は「僧は乞丐の徒のみである、男子が乱世に生まれたならば、なぜこれを学ばないことがあるだろうか」と不世出の大英雄はまずここにその萌芽を表した。それ以後日吉の遊戯が多くなり、困った僧たちは日吉を家に帰らせた。日吉はこれを喜んで各所に転々とし、遂に松下之綱に仕えた。後に信長に仕え、しばしば奇功を奏して主人の信頼を得たのであった。そして遂に中国地方平定の大仕事を任された。出発に臨んで信長公が秀吉公に「中国地方平定の後にはその地を汝に与える」と言った。すると秀吉公は「願わくばこれを近臣に与えよ、臣は更に進んで九州を平定せん、九州すでに定まれば、臣にその一切の糧を給え、臣は海を渡り朝鮮を討ち、その兵食をもって更に進んで明国を席巻し、三国を合わせて主公に献ぜん」と答えた。信長公はこれを立派であると認めた。秀吉公は中国地方を制したが、明智光秀は反して主人である信長公を殺害した。秀吉公は兵を率いて帰り、光秀と山崎で戦いこれを殺害した。次に、信長公の遺業を継いで各地の王命に従わない者を討伐し全国統一の大業を成した。公はまた皇室を尊び、皇居を修理し、御料を豊かにして奉り、応仁の乱の後には衰えた京都の市街を修復した。秀吉公はまた聚楽第(じゅらくのてい)を造り、正親町上皇、後奈良天皇の臨幸があると、秀吉公は自ら群臣百僚を率いた。路傍の人びとは「久しくこの盛儀を拝する」と涙を流したといわれる。行幸の車駕は5日間そこに留まり、その間に公は従一位関白に進み、次いで太政大臣に任じられ豊臣の姓を賜った。文禄元年3月秀吉公は征韓の師を起こし、自ら肥前名護屋に出向いて諸軍を監督した。諸軍は善戦したが志未だ成らず道半ばにして薨去した。時に年63歳、朝廷は公の功績を追賞して豊国大明神の神号を賜り正一位が贈られた。当社は、元は方広寺境内に公の息子である秀頼が造営したものだが、寛政の火災に遭い英魂は永く草莽に埋もれていた。明治10年に社殿が再建され、次いで別格官幣社に列せられた。
|
| |
おもな祭事 |
9月18日 例祭
|
| 日光東照宮 にっこうとうしょうぐう |
|
鎮 座 地 |
〒321-1431 栃木県日光市山内2301
|
| |
主 祭 神 |
徳川家康朝臣(とくがわいえやすあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神贈正一位徳川家康朝臣は、慶長10年将軍職を息子秀忠に譲り静岡に老していたが、戦国以来荒れに荒れた天下の人心を和らげて国家を昌平とするために文教を興し大いに文学を奨励した。これより各種の学術が盛んに起こり、斯道の学者が相次いで輩出され、遂に日本の文明の礎をなした。また、美術工芸をも奨励したことで戦国以来の殺伐の気がすっかりと払われた。こうしてここに260余年間の天下泰平の基を開いた。元和2年4月、静岡にて薨去した。時に年75歳、近臣は遺命により遺骸を久能山に葬り、後に国家鎮護の神として日光に改葬、奉斎された。壮麗な社殿が造営され、朝廷から東照大権現の社号を賜り、次いで正一が贈られた。明治維新の後には別格官幣社に列せられた。現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって寛永13年に建替えられたものであり、平成11年には世界文化遺産に登録された。毎年5月17日には例祭が斎行される。その後には小笠原流神事流鏑馬(やぶさめ)が奉納され、夕刻には宵成祭(よいなりさい)が行われる。翌日18日11時からの神輿渡御祭では百物揃千人武者行列(ひゃくものぞろいせんにんむしゃぎょうれつ)で大いに賑わう。
|
| |
おもな祭事 |
5月17日 例祭
|
| 常磐神社 ときわじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒310-0033 茨城県水戸市常磐町1-3-1
|
| |
主 祭 神 |
徳川光圀朝臣(とくがわみつくにあそん)
徳川斉昭朝臣(とくがわなりあきあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神贈正一位源朝臣徳川光圀卿は、諡名を義公(ぎこう)と称した。高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと)として祀られる。徳川第一世の将軍家康公の孫にあたり、権中納言頼房(よりふさ)卿の第3子である。幼名は長丸という。幼少期には父頼房に侍した。父は試しに「父子が共に戦地に赴いて父が傷ついたとしたら、子はどうするべきであるか」と問うと、公は即時に「父の屍を越えて敵を殺し父の仇を報ぜん」と答えた。その後成長し家を継ぐに及んで益々学を修めて治をはかり、また領国内の淫祠(いんし)を解体し、地の利をつくす術に心を砕き、山には楮や漆を植え、野には馬を放ち牧場を作り、海には白魚を撒き、昆布や蛤を放ち海産を増やすことに努めた。これによってその地域の人びとは今尚その恩恵を受けている。また公は皇室を尊び、毎年正月元年には必ず衣冠を着けて遥かに京師を拝し、常に「天子は我君主なり、将軍は我宗家なり、秩序を乱してはならない」と言っていた。大日本史を編纂し、この国の歴史の大義名分を明らかにし、やがて維新の大業を胚胎させ、また礼儀類典5巻を著した。これは実に日本古来の大宝典である。公は、かつて湊川に「嗚呼忠臣楠氏之墓」の8字を書して碑石を建て、楠公の忠誠を世に表彰した。その忠孝の志の篤さは、後世への基をなすものであった。公は、官位従三位権中納言に進んだことで、世の人びとに黄門公と呼ばれた。黄門とは中納言の唐名である。その後家を甥の綱條に譲り西山に隠居した。公は兄頼重より先に家を継いだことで心が安らかではなかったが、これによってその意を果たすことができた。天下の人びとは益々その徳に感嘆したのであった。元禄13年西山にて没する。遺命して仏式ではなく祭祀の法によって葬儀が行われた。年73歳であった。祭神贈正一位徳川斉昭公は、諡名を烈公と称した。押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)として光圀公と共に祀られる。黄門光圀卿8世の孫である。父を従四位左近衛中将治紀(さこんえのちゅうじょうはるのり)という。文政12年、兄斉脩(なりのぶ)の後継者となり、天保8年累進して権中納言となった。時に外国の艦が渡来して通商貿易を求められ世は騒然となった。公は尊皇攘夷の大義を唱え、内には紀綱を張り、外には防備を強化して世の為に尽くしたことを孝明天皇は大いに喜び勅書によってこれを奨励された。しかし、幕府の井伊直弼によって水戸に幽閉された。明治天皇は黄門光圀および斉昭公が皇室と国家に対する功労を追賞し、正一位を贈られ、神号を賜い当社は別格官幣社に列せられた。
|
| |
おもな祭事 |
5月12日 例祭
|
| 照國神社 てるくにじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒892-0841 鹿児島県鹿児島市照国町19-35
|
| |
主 祭 神 |
島津齊彬公(しまづなりあきらこう)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神贈正一位薩摩守源朝臣齊彬公は、大隅守従三位宰相齊興の長男で、島津家28世の主である。幼名を邦丸といい、後に三郎忠方と改めた。文政7年10月年16にして初めて将軍家斉に謁し、従四位下に叙され兵庫頭となり、将軍の諱(いみな)の一字を賜り齊彬と改めた。国政を整え、専ら武技を練り、銃砲や火薬を改良して警備を厳にした。また藩士に蘭学を修めさせ泰西文明の利点を応用しようと努めたように稀代の英主であった。また深く心を皇室に傾けた。かつて従者と増上寺の2代将軍秀忠の廟において、従者がしきりにその壮麗さを賞賛すると、公は「吾かつて京都泉涌寺に至り一天萬乗の君たる先帝の御廟を拝し奉りて、その簡素質朴なるに比べて、徳川の栄華も極まれり」と言い、益々心を尊王開国に傾けた。嘉永6年4月皇居炎上の報を聞くや関白近衛忠煕(このえただひろ)に天機を伺い奉り、金5000両を献じて供御に当てた。また古笙および名刀二口を献じた。安政2年正月には孝明天皇宸翰(しんかん)の御製を賜った。
武士の心あはせて秋津洲の 國は動(ゆる)かず共に治めん
鎖国の時代、公は他国船と日本船とを区別することを目的として「日の丸」の総船印を幕府に提案し、初めて「日の丸」が掲げられた日本初の西洋式軍艦である昇平丸を幕府に献上した。日の丸の旗は、日出づる国と唱えるに相応しく、またこの国は天照大御神が岩戸から出られたことから開き始まったので、これらの故事より発案されたとされる。天下が鎖国攘夷派と尊王開国派と相争いのため混乱し、公は時勢は黙さないと察した。琉球藩王の参府を機として大兵を率いて江戸に至り、天下の大勢を定めようと公は自ら兵備を引き締めた。炎天下の中、公は努めて兵をみていたがついに病を発し幾許ならずして薨去した。文久3年12月、朝廷公の勲功を追賞して従一位権中納言が贈られた。明治維新の西郷、大久保などはみな公が養成した人物であった。明治天皇陛下は更に公の忠誠を追賞され、正一位を贈られ照國の神号を賜り当社は別格官幣社に列せられた。
|
| |
おもな祭事 |
10月28日 例祭
|
| 靖国神社 やすくにじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒102-8246 東京都千代田区九段北3-1-1
|
| |
主 祭 神 |
明治維新前後之殉難者並其以後之陸海軍殉国将士
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
この神社の祭神は、嘉永6年の幕末以降の殉国者約246万6千柱である。明治維新、戊辰の役、西南の役、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などに従軍して祖国のために高潔な精神をつらぬき殉じた尊い神霊を靖国の大神として、身分の高下や男女の差別なく奉祀される。この神社は殉国将士の神霊を鎮め祀り、永く国家の鎮護となさんとの明治天皇の思し召しにより明治2年に創建された東京招魂社が起源である。後の明治12年に靖国神社と改称され、別格官幣社に列せられた。「やすくに」とは国家を安するという意味であり、明治天皇によって命名された。明治5年2月には本殿が神明造に改築され、明治33年には拝殿その他の建物が建築された。社頭に天高くそびえる青銅の大鳥居は、旧藩主等の還納した砲礟によって鋳造されたものである。御祭神の遺徳を尊び、古来の武具などを展示する施設として明治15年に開館した遊就館は、祭神の遺品や肖像などを収蔵展示する施設である。社前の中央広場にある銅像は、故兵部卿の大村益次郎氏のもので、明治2年当社地選定の際、上野公園の案を断然と排し、国家擁護の神霊を鎮めるべき社域は宮城の近くであるべきだと現在の地に定めた功労が知られる。この神社は勅祭社十六社のうちの一社であり、春季例大祭と秋季例大祭の当日祭には天皇陛下の御名代である勅使が参向し、天皇陛下よりの御幣物が献じられ御祭文が奏上される。≪⇒勅祭社の章参照≫。
|
| |
おもな祭事 |
4月21~23日(春季例大祭)
10月17~20日(秋季例大祭)
|
| 霊山神社 りょうぜんじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒960-0804 福島県伊達郡霊山町大石字古屋館1番地
|
| |
主 祭 神 |
北畠親房卿(きたばたけちかふさきょう)
北畠顕家卿(きたばたけあきいえきょう)
北畠顕信卿(きたばたけあきのぶきょう)
北畠守親卿(きたばたけもりちかきょう)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神北畠親房卿(きたばたけちかふさきょう)は権中納言師重卿(もろしげきょう)の子である。永仁、延慶年間に累進して従四位下に叙され、右近衛中将となり、次いで参議に進んだ。さらに中納言に任ぜられ、元享3年皇子成良親王(なりながしんのう)の傳となる。したがって、天徳年中に親王が薨去されると痛惜のあまり剃髪して世を遁れると、世間は大いにこれを惜しんだ。元弘2年後醍醐天皇が隠岐から還幸すると、再び出て奉仕した。天皇は大いにこれを喜び従一位に叙した。これより親房卿はもっぱら心を王事に尽くし、神皇正統紀、職原抄などの書を著した≪⇒阿部野神社の章参照≫。
祭神北畠顕家卿(きたばたけあきいえきょう)は、親房卿の長男でる。元弘3年10月後醍醐天皇の下で陸奥守兼鎮守府将軍となり、皇子義良親王(後村上天皇)を奉じて陸前の多賀城に鎮したが、その後この霊山に移った。延元2年足利尊氏が朝廷に反すると、顕家卿は奥羽の大軍を率いて京師に至り、諸将と大いに敵を破った。すると尊氏は西で兵を挙げて再び京師を陥れようとすると、卿はまた兵を挙げて西におもむき、各地に転戦したが武運尽きて遂に阿部野の露と消えた≪⇒阿部野神社の章参照≫。北畠顕信卿(きたばたけあきのぶきょう)は親房卿の次男であり顕家卿の弟である。顕家卿が阿部野に戦死すると、顕信卿は兄の職を継いで従三位左近衛中将に任ぜられ陸奥守となり霊山に鎮した。後村上天皇が勅して回復を計らせるが、敵は日に日に勢いを増して興国4年に霊山は陥った。退いて宇治峰城を保ったが、敵の勢いはさらに盛んとなり吉野に帰ることとなった。後に鎮西におもむき征西将軍懐良親王に従うが、敵将小貳と筑前大原にて戦い遂に討死した。北畠守親卿(きたばたけもりちかきょう)は、陸奥守顕信卿の子である。父の職を継いで陸奥守となり、奥羽を鎮撫した。父子4人が皆王事に勤め、民を撫し衆を率いたことで、人びとは永く父子の徳を慕い、小さな祠を建てその神霊を鎮め祀ったが、明治維新の後に朝廷は父子の功績を録し、社号を霊山と賜り当社は別格官幣社に列せられた。
|
| |
おもな祭事 |
4月29日 10月第2月曜日 例祭
|
| 梨木神社 なしのきじんじゃ |
|
鎮 座 地 |
〒602-0848 京都府京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680番地
|
| |
主 祭 神 |
三條実萬公(さんじょうさねつむこう)
三條実美公(さんじょうさねとみこう)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神贈正一位右大臣藤原実萬朝臣は通称を三條と称し、内大臣公脩公(ないだいじんきみのぶこう)の子である。公は幼少から学問を好み令名が高かった。文政7年累進して権大納言となり、嘉永5年武家伝奏に就任した。清華の家が多い中これを卑職として受けるものがなかったが、公はこの職は公武の間にあって果たすべき事がある地位であり、職に貴賎あらずとしてこの職に就いたのだった。当時は朝廷は衰退し供御が乏しかったことから、公はこれを幕府に説いて御料を増やした。また、外国の船が渡来し天下が騒然となると、水戸斉昭、松平慶永、島津斉彬、山内豊信、伊達宗城らと意を通じて海の警備を厳しくすべきとして、太政官符を下して鐘をつぶし大砲を鋳造させた。安政4年右近衛大将に進み、次いで内大臣に任じられた。当時、その才徳器識は公の右に出るものはいないとして朝廷はすべての望みを公に託していた。この年、幕府は恣に米国と通商条約を締結すると、世間は更に騒然となった。公武が乖離し国内において乱が生じることを恐れ、公は幕府に諸藩が集まり国論を定めて天皇の決断を仰ぐべしと提案したが、幕府は聞き入れずに更に露、仏、英と条約を結んだ。震怒する天皇に公は、幕府は勅に従わずに諸藩の心が離れている今となっては憂いは外にあらず国内にあるため更に戒飭すべし、と奏してまず水戸斉昭に諸藩を集め幕府を匡輔するよう勅した。幕府はこれを聞き大いに驚き、斉昭に迫って勅書を奉還させ、斉昭を水戸に幽閉した。さらに老中阿部詮勝を入京させて公らを罰した。公はやむを得ず官を辞して閉居した。同6年5月剃髪し、間もなく病んで薨去した。天皇は訃を聞き震悼し、特旨により従一位に叙し右大臣を贈られた。嗣子である実美は公の意志を継いで王政復古の大業を成し遂げ、明治の初代太政大臣となった。明治天皇は深く公の忠誠を追賞され、同3年に忠誠の謚(おくりな)を賜った。当社は同18年10月梨木神社の社号を賜り、別格官幣社に列せられ、同32年にさらに正一位を贈られた。
|
| |
おもな祭事 |
10月10日 例祭
|
| 久能山東照宮 くのうざんとうしょうぐう |
|
鎮 座 地 |
〒422-8011 静岡県静岡市駿河区根古屋390
|
| |
主 祭 神 |
徳川家康朝臣(とくがわいえやすあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神贈正一位徳川家康朝臣は慶長10年将軍職を子の秀忠に譲り、駿府(今の静岡市)に隠居していたが、戦国以来荒れ果てた天下の人心を和らげ国家の昌平を実現するには文教を興す他ないとして、大いに学問を奨励した。これによって各種の学術が盛んに興り、斯道の学者が相次いで輩出され日本文明の礎をなした。また美術工芸をも奨励して戦国以来の殺伐とした気を払い、遂に260余年の天下泰平を開いたのだった。元和2年4月駿府において薨去した。時に75歳、近臣は遺命により遺骸をこの久能山に葬り、壮麗なる社殿を造営し、朝廷に請うて東照大権現の神号を賜り、正一位を贈られた。遺骸は後に日光に改装された≪⇒日光東照宮の章参照≫。明治維新の後には日光の東照宮と同じく別格官幣社に列せられた。
|
| |
おもな祭事 |
4月17日 例祭
|
四條畷神社 しじょうなわてじんじゃ
|
|
鎮 座 地 |
〒575-0021 大阪府四條畷市南野2丁目18-1
|
| |
主 祭 神 |
楠正行朝臣 (くすのきまさつらあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神贈従二位検非使左衛門尉河内介橘朝臣楠正行公は、年わずかに11歳のとき西国街道桜井の驛において父の遺訓を受け河内へ帰り、日夜報復をはかることを己の任として吉野の行宮を護っていた≪⇒湊川神社の章参照≫。しばしば敵と戦う中、ある時賊将高師直(こうのもろなお)が行宮に奉仕する弁内侍を愛し、密かに人を遣わせてさらった。たまたまその途中で遭遇した公は、賊徒を斬殺して内侍を救い行宮に送還した。天皇はこれを聞きその内侍を公に賜うが、公は和歌を奉ってこれを辞退したのだった。
「とても世に長らふべくもあらぬ身のかりのちぎりをいかで結ばん」
公の心中にはただ奉公の誠があるだけであり他に余念はなかった。
その後、賊将高師直が6万余騎を率いて行宮を攻めた。公は行宮において天皇に奏上し「臣はつねに多病にして父の志をなすあたわざるを恨みとす。万一病に倒るる如きあれば遺憾この上なし。いま賊将来り迫り臣はまさに死すべきの秋なり。」と言い、今回の戦いにおいて賊将高師直の首をとれなければ、自分が頭を敵に差し出す覚悟を述べた。天皇は深く公の忠誠を嘉せられ、高く御簾を掲げ「勝敗は兵家の常なり、朕今卿を股肱と頼む、一敗を以って決して身を軽んずるなかれ」と公を労した。公は厚く天恩を拝謝して宮を後にした。つぎに先帝の廟に謁し、如意輪堂の扉に一族140余人の姓名を書して一首の和歌を添えた。「かへらじと兼て思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」
正平3年正月500余人を率いて四條畷に会戦した。公はすぐに馳せて師直の陣を攻撃した。師直はこれを防ぐことが出来ずに逃れ走ると公はこれを追ったが、師直の兵が偽り師直と称して首を差し出した。公はこれを斬り喜んで持ち帰ったが、偽りであることを知ると大いに怒り頭を蹴って再び敵中に入り師直を探した。
しかし敵は矢を雨のように飛ばし、矢は公の身にささった。公はこれまでと再び戻り、一族と共に自刃して死んだ。年僅かに23であった。当社は明治の御代に至り世人が深く公の至忠至誠に感奮し、社殿造営を出願したことから明治天皇はまた深く公の忠誠を思し召し、社号を四條畷神社と命じられた。明治22年別格官幣社に列せられた。
|
| |
おもな祭事 |
2月12日 例祭
|
唐澤山神社 からさわやまじんじゃ
|
|
鎮 座 地 |
〒327-0801 栃木県佐野市富士町1409
|
| |
主 祭 神 |
藤原秀郷朝臣 (ふじわらひでさとあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神藤原秀郷朝臣(ふじわらひでさとあそん)は通称を田原藤太秀郷(たはらとうだひでさと)と称し、左大臣魚名(さだいじんうおな)の後裔である。代々下野押領使であり、人柄が良く勇敢であった。天慶4年平将門が反して下総の猿島に偽宮を建てて自らを王と称した。当時関東八州にはあえてこれに抵抗するものがなかったが、秀郷公はこれに憤慨して密かに討伐をはかっていた。ちょうどその時、平貞盛が将門を討つために攻め来たところで、公は兵4千を発して共に将門を討ち誅した。これによって万世一系の天皇家皇位は恙無きを得て、後世において再び反逆をはかるものを絶った。その影響は非常に大きく、公の功績は偉大であったといえる。朝廷は公の功績を録して従四位下に叙し功田を与えた。後に下野、武蔵両国の国守に任ぜられ、次いで鎮守府将軍に兼補された。東国を鎮守すること50余年、正暦2年101歳にして薨去した。公は不幸にして史家の筆の誤りにより久しくその忠誠を疑われたが、数々の検証結果からその功績が明白となり、明治16年8月特別に正三位を追贈された。当社は公の遠裔と称する故伯爵佐野常民ほか地方の有志が公の旧城跡であった唐澤山に社殿を造営して公の神霊を鎮め祀ったところ、明治23年11月に別格官幣社に列せられた。
|
| |
おもな祭事 |
10月25日 例祭
|
上杉神社 うえすぎじんじゃ
|
|
鎮 座 地 |
〒992-0052 山形県米沢市丸の内1丁目4-13
|
| |
主 祭 神 |
上杉謙信朝臣 (うえすぎけんしんあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神上杉謙信公は初の名を景虎(かげとら)といい、長尾為景の第三子である。天文20年9月関東管領上杉憲政から家督を譲られ、姓上杉と関東管領の職を譲り受けた。公は後に足利将軍義輝から諱(いみな)の一字を賜り輝虎と改めた。後更に入道して謙信と号した。公はまさに戦国時代の英雄であり、機才縦横千変万化の兵法を用いて向かうところ敵なく、疾風が勁草を巻くが如きであった。当時公の敵は武田信玄あるのみで、北条でさえ公を恐れること虎のごとく、織田信長であっても公の鋭鋒を避けることに努めるほどであった。また公は勤王の志が篤く、2回入朝して御料を献上してまた衛士を留めて皇居の門を守らせた。この功績によって弾正大弼(だんじょうたいひつ)に任じられた。天正6年3月15日に8州の兵を率いまさに大挙上京しようとしたが、出発の2日前に俄かに病んで逝去した。ときに49歳であった。当社は明治維新の後、旧藩士らが公の英風を追慕して社殿を創建し県社に列せられたところ、明治35年4月に至り朝廷より時に公の勲功を追賞されて別格官幣社に列せられた。摂社に松岬神社があり、上杉家中興の名君と称された鷹山治憲公が祀られる。
|
| |
おもな祭事 |
4月29日 例祭
|
尾山神社 おやまじんじゃ
|
|
鎮 座 地 |
〒920-0918 金沢市尾山町11-1
|
| |
主 祭 神 |
前田利家朝臣 (まえだとしいえあそん)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神贈従一位権大納言菅原朝臣前田利家公は、加能越三国の大守で百万石日本一の大名としてその名も高い前田家の祖先であり、幼名を犬千代(いぬちよ)という。その後尾張国海東郡荒子の城主利昌の子となり、はじめ織田氏に仕えていたが後に豊臣氏に属して最も信任された。慶長3年豊臣秀吉公が病に倒れると、秀吉公は利家公を呼び遺孤を託した。利家公はこれを受け秀吉公の死後も大阪城で嗣子秀頼を補導した。公はまた深く皇室を尊びしばしば金品を奉り、領地を割いて伊勢神宮に奉献した。利家公の子孫は公の偉業を守り300年間尺寸の領土も失わずに守ったといわれる。当社は、利家公の子孫が公の神霊を鎮め祀るために社殿を創建したが、徳川幕府がこれを阻止したため仮に八幡社と称した。徳川幕府が倒れると明治5年に当局の許可を得て尾山神社と改称した。明治24年には金沢市300年祭を当社にて行い明治35年4月に別格官幣社に昇格した。摂社金谷神社は、公の長男利長、次男利常の2公を祀る。
|
| |
おもな祭事 |
4月27日 例祭
|
野田神社 のだじんじゃ
|
|
鎮 座 地 |
〒753-0091 山口県山口市 天花1丁目1-2
|
| |
主 祭 神 |
毛利敬親公 (もうりよしちかこう)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神毛利敬親公(もうりよしちかこう)は、文政2年前藩主斉元の長子に生まれ、藩主斉広の養子となり天保8年19歳で13代藩主となった。村田清風などの有能な家臣を登用して天保の改革を推進し藩財政を建て直し、ペリー来航があった当時において外圧の危機に備えるための軍制改革を行った。
また、学問を奨励し藩士教育にも力を注ぎ、幕末維新の動乱期において長州藩の藩勢を飛躍させ下関戦争、禁門の変、四境戦争などの幕末の難局を乗り切った。明治34年には特旨をもって正一位を贈られ諡号を忠正と賜った。当社ははじめ豐榮神社≪⇒豐榮神社の章参照≫の境内に創建され敬親公の神霊を斎祀り忠正神社と称したが、明治9年10月21日に野田神社と改称し県社に列せられた。同19年3月16日豐榮神社境内より現在の地に遷座された。大正天皇は深く公の勲功を追賞し、大正4年11月10日御即位の佳辰をもって当社は別格官幣社となった。
|
| |
おもな祭事 |
3月3日 例祭
|
北畠神社 きたばたけじんじゃ
|
|
鎮 座 地 |
〒515-3312 三重県津市美杉町上多気1148
|
| |
主 祭 神 |
北畠顕能卿 (きたばたけあきよしきょう)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
北畠顕能卿を主祭神に、親房卿、顕家卿を祀る。祭神北畠顕能卿は、吉野朝の忠臣北畠親房卿の息子である。父とともに吉野朝に尽くした《⇒阿部野神社の参照》。当社は顕能卿以来、伊勢の国司となった北畠氏の館跡に営まれたもので、境内には当時の庭園の一部である史跡
が存在する。霧山山頂には当代の城跡がある。昭和3年に村社から旧別格官幣社に列せられた。
|
| |
おもな祭事 |
10月13日 例祭
|
佐嘉神社 さがじんじゃ
|
|
鎮 座 地 |
〒840-0831 佐賀県佐賀市松原2-10-43
|
| |
主 祭 神 |
鍋島直正命 (なべしまなおまさのみこと)
鍋島直大命 (なべしまなおひろのみこと)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神鍋島直正命(なべしまなおまさのみこと)は、文化11年江戸藩邸に生まれ、天保元年襲封以来、藩政を改革して救世済民に尽くした。海辺警備の新策を幕府に建言し、大砲・鉄砲の鋳造、火薬の製造、蘭学寮、海軍の設置、文運の開発、北海道の開発、有明海の干拓、殖産業の原動力に力を効した。版籍奉還に際しては、薩長士の3藩と共に連携し、率先してこれを遂行した。次いで議定に任じ、廟堂の枢機に参画した。維新の翌年、明治政府に金70万両・軍艦12隻を献納し、日本近代国家の基礎を作った。明治4年薨去し、その30年祭にあたり従一位を追贈された。明治6年その徳を慕って神祠を建立し、松原神社と称した。明治8年県社に列せられ、昭和8年現在の地に遷座し別格官幣社に列せられた。のち祭神鍋島直大命(なべしまなおひろのみこと)が合祀された。直大命は、父の意志を継ぎ科学の研究、我が国最初の石炭採掘をなし今日の工業・産業の基礎を作った。
|
| |
おもな祭事 |
10月12日 例祭 1月1日 カノン砲祝砲神事
|
山内神社 やまうちじんじゃ
|
|
鎮 座 地 |
〒780-0826 高知県高知市鷹匠町2-4-65
|
| |
主 祭 神 |
土佐藩歴代藩主
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
当社は明治4年歴代藩主を奉祀するために創建されたが、豊信公(とよしげこう)、豊範公(とよのりこう)の幕末維新の際の鴻業を追慕する念には切なるものがある。祭神山内豊信公(やまうちとよしげこう)は15代藩主である。文政10年分家南屋敷豊著の嫡子に生まれ、嘉永元年藩主となった。嘉永6年の黒船来航を機に藩政改革をはじめ海防の強化を行った。幕末には徳川家への恩顧から「公武合体」を目指し幕府の政治改革、朝廷と幕府の融和に尽力した。祭神山内豊範公(やまうちとよのりこう)は16代藩主であり最後の土佐藩主である。弘化3年12代豊資公の末男に生まれた。文久2年朝廷より国事周旋・京都御所の警衛の大命を受け、勅使大原重徳の江戸下向を護衛するなど朝廷に忠義を尽くした。慶応4年の戊辰戦争では土佐藩は官軍として戦い維新を推し進め、明治新国家に貢献した。明治17年侯爵の位を賜った。昭和7年昭和天皇登極の大礼を期し、境内地を拡張整備し壮麗な社殿を造営、2年を経て竣工し昭和9年遷宮、同年別格官幣社に列せられた。同20年大空襲により社殿炎上し仮宮に奉祀した。同44年再建の工を起こし、宝物館・会館を併設した。また、藤並神社と合併し藩祖一豊公同夫人以下歴代藩主を合祀し同45年竣工遷座した。平成2年7月には高知城内に祀られていた熊野・春日・住吉の三社を境内に遷した。
|
| |
おもな祭事 |
11月10日 例祭
|
福井神社 ふくいじんじゃ
|
|
鎮 座 地 |
〒910-0005 福井県福井市大手3-16-1
|
| |
主 祭 神 |
松平慶永命(まつだいらよしながのみこと)
|
| |
|
|
| |
神徳・由緒 |
祭神松平慶永命(まつだいらよしながのみこと)は幕末の福井藩主であり、隠居後は春嶽として知られる。父は徳川三卿田安家3代目の田安斉匡であり、慶永公は福井藩主松平斉善の嗣子となった。藩主となったのちは窮迫していた藩財政再建を推進し天保改革を断行した。また藩校明道館を創り人材の育成にも力を入れ、人徳高い名君として敬仰された。日米修好通商条約の無断調印に抗し、また将軍継嗣問題では井伊直弼と対立すると安政の大獄で謹慎を命ぜられた。その後松平茂昭に家督を譲り隠居をしたが、文久2年政事総裁職として復帰し幕政の枢機に参画し、幕政改革を推進し公武合体のために朝廷と幕府のために尽力した。当社は昭和18年創建された最後の別格官幣社である。昭和20年7月福井空襲により社殿を焼失したが、同29年奉賛会会長熊谷太三郎氏を中心に社殿再建がすすめられ、昭和32年に神殿、拝殿、摂社が造営された。平成2年6月2日慶永公薨去後百年にあたりその遺徳を偲んで松平春岳公百年祭が斎行された。摂社恒道神社には、側近として維新の大業に参画した中根師質命、鈴木重栄命、橋本綱紀命の祭神3柱が奉祀される。
|
| |
おもな祭事 |
5月10日 例祭
|
もどる
|
|