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日本の神々と神社 由緒と御神徳 
 やすからむ世をこそいのれ天つ神 くにつ社に幣をたむけて  ⇒この歌について・口語訳
 
  
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  鎌倉宮  かまくらぐう
鎮 座 地

248-0002 神奈川県鎌倉市二階堂154番地

  主 祭 神

護良親王(もりながしんのう)

   
  神徳・由緒 護良親王(もりながしんのう)は、第95代後醍醐天皇の第3の皇子であり、11歳で比叡山延暦寺に入室し大塔宮尊雲法親王とも呼ばれるようになるが、後に護良と改められた。護良親王は天資英明であり父帝の鍾愛も厚かった。太子邦良親王(くにながしんのう)が薨去すると、帝は後嵯峨天皇の遺詔に基き護良親王を立てて太子としようとしたが、北条高時は親王が英明であることを恐れて承諾せず、代わりに後伏見天皇の皇子量仁親王(かずひとしんのう)を太子に立てた。ここにおいて父帝はますます北条氏の専横に憤り、これを滅ぼそうと先ず護良親王を天台の座主にした。天資英明であった親王は、たちまち僧徒の心を収めた。そしてまさに事を挙げようとしたときに謀が洩れてしまい、親王は吉野に逃れた。そののち十津川に、高野に、あるいは熊野に隠れながら興復の計画を廻らせた。この間に親王は、諸国に密使を遣わせ令旨を伝えて王事に勤めた。赤松則村、新田義貞がそれに応じて鎌倉を攻めて北条高時を誅し、赤松則村は足利尊氏と共に攻めて六波羅を陥れて帝都を回復した。この親王の功績により征夷大将軍に任じられるが、足利尊氏はこれを嫉むようになると専横の振る舞いも多くなった。尊氏は親王を陥れるため讒言すると、父帝は軽々しくその讒言を信じて親王を常磐井宮に幽閉し、のちに鎌倉に遷され足利直義により二階堂谷の土牢に幽閉された。間もなく北条氏は乱を起こして鎌倉に入ると、直義は逃れるに臨んで後患を慮って無道にも親王を殺害した。親王の遺骸は智光寺山頂に葬られたといわれる。この宮は明治2年の勅旨により創建された。同6年には官幣中社に列せられ明治天皇御宸筆の勅額を賜り、永く神霊を慰め奉られることとなった。
  おもな祭事

 月20日 例祭





  井伊谷宮  いいのやぐう
鎮 座 地

431-2212 静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991-1

  主 祭 神

宗良親王(むねながしんのう)

   
  神徳・由緒

宗良親王(むねながしんのう)は後醍醐天皇の第4皇子で、護良親王(もりながしんのう)≪⇒鎌倉宮の章参照≫の弟にあたる。はじめは尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)と称され天台の座主となった。北条氏を滅ぼすため父帝が挙兵すると、兄である尊雲法親王(そんうんほうしんのう)と共に興復のため尽力した。足利尊氏が後醍醐天皇に反すると、天皇は吉野に遷った。まず親王を起こして征東将軍に任命して回復を計った。ここにおいて親王は遠江の国に至り、井伊道政(いいみちまさ)を従えて井伊城にてひろく勤皇の士を募って各地へ転戦したが、遂に元中2年8月に井伊城において74歳の生涯を終えた。この宮は明治2年天皇の思し召しにより社殿が創建され、同6年には官幣中社に列せられた。親王の御陵は当社境内にある。親王は和歌の名手として知られたことから「学徳成就・合格」の神として崇められる。また、74歳と長命であったことから長寿の守護神としても信仰される。

  おもな祭事

 月22日 例祭



  八代宮    やつしろぐう
鎮 座 地

866-0862 熊本県八代市松江城町7-34

  主 祭 神

懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう)

   
  神徳・由緒

懐良親王は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の第9の皇子である。当時足利尊氏が背き九州に降ると、その地では阿蘇と菊池以外はみな賊軍に対抗しようとしなかった。そこで天皇は親王を征西将軍に任じたのであった。親王は吉野を出発して海路讃岐に至り、伊予を経て薩摩に上陸すると島津道鑑を破った。進んで肥後に入り菊池に到着し、菊池と阿蘇の勤皇の士を率いてしばしば大友らと戦い一時は大きな勢力を有したが、弘和3年8月に八代高田の御所において薨去された。明治時代に至り建武中興に功績のあった人々を祀る機運の高まるなか、当社は明治17年懐良親王居城跡に奉祀された。旧社格は官幣中社である。

  おもな祭事

8月3日 例祭



  梅宮大社   うめのみやたいしゃ
鎮 座 地

〒615-0921 京都市右京区梅津フケノ川町30

  主 祭 神

酒解神(さかとけのかみ)
酒解子神(さかとけごのかみ)
大若子神 (おおわくごのかみ)
小若子神(こわくごのかみ)

   
  神徳・由緒

祭神酒解神(さかとけのかみ)は大山祇神(おおやまつみのかみ)であり、初めて酒を作り神々に献じたといわれる酒造の祖神とされる。祭神酒解子神(さかとけごのかみ)は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)であり、酒解神の御子神である。祭神大若子神 (おおわくごのかみ)は瓊々杵尊(ににぎのみこと)であり、皇祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫神にあたる。また、酒解子神の夫である。祭神小若子神(こわくごのかみ)は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)であり、酒解神の孫にあたる。当社は藤原不比等の妻であり橘諸兄の母でもある橘三千代(たちばなみちよ)が、橘氏の氏神として奉斎したのがはじまりとされる。その後の天平宝字年間に聖武天皇の皇后藤原安宿媛(やすかひめ)および藤原武智麿(むちまろ)の妻牟漏(むろ)女王が奉斎した。のちに嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)が久しく御子にめぐまれず、当社に祈願すると間もなく応験があり懐妊し、皇子が誕生した。この皇子はのちに仁明天皇となった。それ以来皇后は当社を産土の神として深く尊信したといわれる。世の子なき者や安産を願う者は当社に祈願し、社殿の下の砂を乞い受けて産屋に敷けば安産疑いなしと信じられてきた。仁明天皇の御代の託宣によって天皇の母橘嘉智子により現在の地に遷座され,皇后みずからまつったのが梅宮祭の起源とされる。 延喜式内の名神大社である。4月第3日曜日に行われる桜祭(雅楽祭)は、平成8年に平安雅楽会の協力を得て復活した大祭である。祭礼後には雅楽と舞楽が奉納され、神酒がふるまわれる。

  おもな祭事

4月中酉日 献酒報告祭  4月第3日曜日 桜祭(雅楽祭)



  貴船神社   きふねじんじゃ
鎮 座 地

〒601-1112 京都府京都市左京区鞍馬貴船町180

  主 祭 神

高龗神(たかおかみのかみ)

   
  神徳・由緒

祭神高龗神(たかおかみのかみ)は、大和国官幣大社丹生川上神社の祭神と同神であり、伊弉諾伊弉冉尊の御子である火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)の体より化(な)りませる神である≪⇒丹生川上神社の章参照≫。山上の龍神とも言われ、雨をつかさどり国土を永遠に潤して草木の生育を助け、民の食を豊かにする御神徳で広く知られている。社名の貴布禰(きふね)は、木生峯(きぶね)という意味で加茂川(鴨川)の水源地をさす。丹生(にぶ)は苗生(なへふ)という意味で、吉野の水源地である。したがって、当社は加茂川上神社と呼ばれたこともあった。古来朝廷より祈雨(あまごい)、止雨(あまやみ)の奉幣が数多くあり、その度に霊験があった。中でも文徳天皇の仁寿2年に勅使参向《⇒勅祭社の章参照》して雨を祈ると、即日大雨が降ったとして多くの人々の崇敬が厚い神である。当社の創建は明らかではないが、一説には桓武天皇遷都のために大和からこの地に分祀されたとも言われる。

  おもな祭事

6月1日 例祭  



  大原野神社   おおはらのじんじゃ
鎮 座 地

〒610-1153 京都府京都市西京区大原野南春日町1152

  主 祭 神

建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)
伊波比主命(いわいぬしのみこと)
天之子八根命(あめのこやねのみこと)
比賣大神(ひめおおかみ)

   
  神徳・由緒

祭神は大和国官幣大社春日大社と全くの同神であり、藤原氏の氏神として尊崇された≪⇒春日大社の章参照≫。当社は桓武天皇遷都によって大和春日大社が遠くなったことからこの地に奉遷され、そののち嘉祥3年に左大臣藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇により社殿が造営された。歌人在原業平の和歌「大原や小塩の山もけふこそは 神代のことも思い出づらめ」は、当社で詠まれたものである。9月の御田刈祭(みたかりさい)は、五穀豊穣を祈願する古くより伝わる特殊神事であり、毎年神相撲の神事が行われる。

  おもな祭事

4月8日 例祭  9月第2日曜日 御田刈祭 



  吉田神社   よしだじんじゃ
鎮 座 地

〒606-8311 京都市左京区吉田神楽岡町30

  主 祭 神

建御賀豆知命(たけみかづちのみこと)
伊波比主命(いはいぬしのみこと)
天之子八根命(あめのこやねのみこと)
比売神(ひめがみ)

   
  神徳・由緒

祭神は大和国官幣大社春日大社、大原野神社と全くの同神、御神徳である。≪⇒春日大社大原野神社の章参照≫。清和天皇の貞観元年、中納言藤原山蔭が吉田山の西に社殿を建立し、大和春日の四柱の神をこの地に遷し祀ったことが当社の起源とされる。当社は歴代皇室の外戚である藤原氏の祖神を祀るため、奈良朝には春日山に社殿を建立し、長岡京の時代には大原野に社殿を建て、平安京に至り当社を建立したと考えられる。境内には文明16年に神主吉田兼倶が建てたとされる大元宮(だいげんきゅう)と呼ばれる斎場所があり、伊勢の内宮、外宮の両宮をはじめ、天神地祇、八百萬神が奉祀される。その神殿は比類なき構造を有し国の重要文化財に指定される。2月2日から4日の3日間行われる節分祭は、室町時代から伝わる特殊神事である。境内は多くの厄除祈願に訪れる参拝者と露天で埋め尽くされる。

  おもな祭事

4月18日 例祭  2月2~4日 節分祭



  北野天満宮   きたのてんまんぐう
鎮 座 地

〒602-8386 京都市上京区馬喰町

  主 祭 神

菅原道真公(すがわらのみちざねこう)

   
  神徳・由緒

祭神は贈正一位太政大臣菅原道真公である。公の祖先は出雲において大国主大神を祀ることを天照大御神から命じられた天穂日命(あめのほひのみこと)であり、公は命の子孫である野見宿禰(のみのすくね)の後裔にあたる。宿禰より数十世の孫を古人(ひさひと)といい、初めて菅原の姓を賜った。博学であり徳行があり、その子である清公(きよきみ)もまた学に長じ博士となった。清公の子、是善(これよし)は祖父の業を受けて文章博士兼東宮博士となり、のちに累進して刑部卿参議となった。道真公は実に是善公の第三子である。公は幼少より詩歌に才を備え、11歳にして詩を作り神童といわれた。のちに文章博士となり式部少輔に任じられた。宇多天皇は深く公の才気を認め抜擢して参議に任じ式部大輔を兼任させた。その後累進して権大納言権右近衛大将となり、次いで右大臣に進み、政務に熟練し君の寵はますます厚いものとなった。宇多上皇は公に関白に任じることを密かに伝えたが、公はこれを固辞した。左大臣藤原時平は密かにこれを聞き嫉妬の情に堪えず、藤原菅根と共に上皇に讒言すると公は大宰権帥に左遷された。配所において公は門を閉じ、重陽の日に詩を詠んだ。「去年今夜侍清涼秋思詩篇独断腸恩賜御衣今尚在此捧持毎日拝余香」 左遷され約2年後、公は延喜3年2月25日ついに配所において薨去した。薨去の後、都ではしばしば天災があり時平と菅根は相次いで横死した。当時の人々がこの天災は公の霊によるものだと伝えるようになると、延喜23年4月には贈位贈官があり、次いで天満天神と諡号(おくりな)を賜った。そして公の遺書12巻、菅原後集数巻、および勅により諸儒と共に3代実録50巻と旧史を分類して類聚国史200巻が編じられた。当社は天暦元年9月に託宣により、公が在世中に最も愛好された右近の馬場にはじめて社殿を造営されたものであるが、のち朝廷は毎年8月4日に祭祀をおこない、二十二社内≪⇒日本の神社・二十二社の章参照≫に加えた。歴代朝廷の奉幣絶えず、貴賎ともに厚く尊信され聖廟とも称された。現在の本殿は慶長12年の造営で国宝の指定を受けている。現在では学問の神様として日本各地に祠が建てられ奉祀される。10月のずいき祭では、北野の神を10月1日~4日まで西ノ京の御旅所へ迎え「ずいき御輿」を奉り、その年の収穫に感謝する。この祭は、道真公が大宰府で彫った木像を西ノ京の神人が持ち帰り祀り、収獲された作物を供えたのが始まりであると伝えられる。毎月25日は当社縁日であるが、特に12月25日は終い天神(しまいてんじん)と呼ばれ、京都における一年の行事を締めくくる恒例神事とされ全国からの多くの参拝者で賑わう。

  おもな祭事

8月4日 例祭   10月1日~5日 ずいき祭
12月25日 終い天神



  金鑚神社   かなさなじんじゃ
鎮 座 地

367-0233 埼玉県児玉郡神川町大字 二ノ宮750

  主 祭 神

天照大御神(あまてらすおおみかみ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)

   
  神徳・由緒  この2柱の祭神がここに奉斎されるのは、景行天皇第2皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)による東夷征討の時、伊勢神宮に詣り天照大御神を拝した折に叔母である倭姫命(やまとひめのみこと)から「もし急事あらばこの嚢の口を解け」と神剣を授かった。この後、日本武尊が駿河に至ると夷賊らが尊を野に誘い火を四方より放って焼き殺そうとした。尊はそこで神剣を抜いて辺りの草を薙ぎはらい、その嚢を開くと火打ちがあった。その火打ちで向火をつけ、賊の火を退け危機を逃れることができた。この火打ちは天照大御神が天岩屋に隠れたときに、天太玉命が太玉串に掛けた八咫鏡(やたのみかがみ)を岩戸の中に入れようと戸をこじ開けようとした時の破片を嚢に納め、神剣に副えたものであった。当社は、この火打金を御神霊として御室ヶ嶽に斎きおさめ、2柱の大神を奉祀したものである。したがって御神霊を祀る本殿はなく、御室ヶ嶽の中腹には、国の天然記念物に指定された鏡岩がある。のち欽明天皇の御代に日本武尊が配祀された。また当社は歴代朝廷の尊崇が非常に厚く、武運長久国家守護の大神として知られる。東国鎮定のため坂上田村麻呂や源義家らが当社に詣で祈願し、義家が奥州を平定した後には当社に琵琶、弓、剣などが献納され、宝物として保存されている。
  おもな祭事  4月15日 例祭  


  金崎宮  かねがさきぐう
鎮 座 地

914-0072 福井県敦賀市金ヶ崎町1-1

  主 祭 神

尊良親王(たかながしんのう)
恒良親王(つねながしんのう)

   
  神徳・由緒  尊良親王(たかながしんのう)は、後醍醐天皇第1の皇子であり、護良親王(もりながしんのう)の兄である。元弘の乱で六波羅に捕らえられ、土佐に遷されたがまもなく北条氏が滅びると天皇は京都に戻り、親王もまた京に帰った。足利尊氏、直義らが反して鎌倉に寄ると、帝は尊良親王を関東管領に任じ、新田義貞をその副として尊氏を討つことを命じたが、親王の軍利なく退き京都に帰った。そのまま尊氏は京都に迫ると天皇は比叡山に幸することとなり、帝は尊良親王と恒良親王に北国を支配させた。延元元年10月、尊良親王は諸将を率いて越前に入ると、氣比神宮の大宮司氣比彌三郎は300騎余りを従えて親王を迎え金崎城に入った。それを知った賊軍は斯波高経を将として若狭越前の大群を率いて城を攻めたが、城は固く落ちなかった。そこで高師泰を6万余騎の大軍をもって攻めさせた。城内の食糧は次第に乏しくなり、新田義貞は助けを求め密かに城を出た。それを知った賊兵は城を攻めた。如何とも為しがたく窮地に追い込まれた義貞の息子義顕が、武士として自害する旨と親王は皇室の胄(ちゅう:跡継ぎ)っであり、たとえ敵の中でも害を加えられることはないことからこのまま座すようにと親王に啓して申し上げた。すると親王は笑って曰く、「父帝は余をもって元首の将となし、卿らは股肱(ここう:腹心の臣)とした。いま股肱死して元首独り保つことは得ない。されば命を白刃に損して怨みを黄泉(よみ:死後の世界)に酬ゆべし。ただ余は宮闕に人となり自裁の法を知らず。いかにすべきや」と問われた。義顕は嗚咽し言葉が出なかったが、暫くして「そのように思召さば、かようにこそ」と刀を抜き腹を割いて、その刀を親王に進め、倒れた。親王は刀を執ると胸を刺し薨じた。続いて藤原行房、里見義氏も殉じ800余人が死して3月6日遂に落城した。恒良親王は、後醍醐天皇の第6の皇子である。建武元年皇太子になり、延元元年に兄尊良親王と共に金崎城にあがった。その後まさに落城するという時に兵は太子を城外に連れ出したが、太子は途中で賊兵に捕らえられた。斯波高経は城へ入り義貞義助の首を見つけることができず、これを問われると太子は義貞、義助の身を案じ、2人がすでに死して火葬に附したと偽りを告げた。その後太子は京都に護送、幽閉された。その間に義貞、義助は兵を貯えて北陸の数城を落すと、尊氏は太子の偽言を憎み毒殺した。この時御年わずかに15であった。明治23年9月金崎宮建立の明治天皇の宣下があり、金崎城跡に社殿を創建し尊良親王の神霊を鎮めた。のちに恒良親王も合祀され永くその英霊を鎮め祀られることとなった。花換祭は境内の桜が咲く盛りの約10日間行われる祭である。期間中には桜の小枝が授与され、人々がそれを交換する事により幸福を願う神事とされる。
  おもな祭事  5月6日 例祭     3月下旬~4月上旬  花換祭


  太宰府天満宮  だざいふてんまんぐう
鎮 座 地

818-0117 福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号

  主 祭 神

菅原道真朝臣(すがわらのみちざねあそん)

   
  神徳・由緒  祭神菅原道真朝臣(すがわらのみちざねあそん)の伝記は北野天満宮の章にあるように、古来文学の神として全国に奉祀される≪⇒北野天満宮の章参照≫。道真公が薨去した2年後の延喜23年4月贈位贈官(死後に位階官位を贈ること)があり、さらに大宰府に命じて道真公墓所の上に社殿を造営し御霊を斎き祀らせたことが当社の起源とされる。1月7日には鷽替え神事と鬼すべ神事が行われる。鷽替え神事(うそかえしんじ)は、参加者が木製の鷽を交換しその一年の福を祈願する特殊神事で、鬼すべ神事は、その年の無事と幸福を祈願する勇壮な火祭りで知られる。道真公の薨去した日である2月25日には梅花祭が斎行され、神前には梅花や古くから伝わる特殊神饌が捧げられる。3月には曲水の宴が行われる。平安装束の参宴者が、上流より流される酒盃が前を通過する前に和歌を詠み盃を傾ける雅な神事で知られる。6月に行われる飛梅ちぎりは、道真公を慕って京より一夜にして飛んできたと伝わる神木・飛梅の実を神前に奉納する神事である。9月20日~25日には平安時代から続く神幸式大祭が斎行われる。祭神の御神霊を慰め、皇室と国家の安泰と平安を祈願し、五穀豊穣に感謝を捧げる祭祀であり、福岡県の無形民俗文化財に指定される。
  おもな祭事 9月25日 例祭  9月20日~25日  神幸式大祭
1月7日 鷽替え神事・鬼すべ神事   2月25日  梅花祭 
3月第一日曜日  曲水の宴   6月1日  飛梅ちぎり


  生田神社  いくたじんじゃ
鎮 座 地

650-0011 神戸市中央区下山手通1丁目2-1

  主 祭 神

稚日女尊(わかひるめのみこと)

   
  神徳・由緒  祭神稚日女尊(わかひるめのみこと)は、日本書紀によると斎服殿において神の御服を織る神とされ、天照大御神の妹神であるとも伝えられる。神功皇后が新羅より凱旋した際、海路難波に向けて航海すると御船が海中に廻り進むことができなくなった。そこで務古の水門に還りこれを卜う(占う)と、「吾は生田の長峡の国(いくたのながをのくに)に居らむと欲す」と出た。この神勅を受けて皇后が摂政元年春2月に斎しく祀ったこの古宮が、生田神社の起源である。一ノ谷の戦いにおいて梶原景季が箙(えびら:腰にかける矢入れ具)に挿した梅、神功皇后の釣竿竹、敦盛の萩、弁慶の竹などが境内に現存する。1月2日の午前10時からの翁面掛け神事(おきなめんかけしんじ)では、観世流藤井定期能楽会による能舞を見学することができる。7月15日午後5時から夏越大祓式と道饗祭(どうきょうさい)が行われ、続いて本殿にて健康長寿を祈願する千燈祭(せんとうさい)が執り行われる。8月3~5日の大海神社祭(だいかいじんじゃさい)は、海運守護、道開き、交通安全の神である猿田彦命を祀る大海神社の祭典で、世界各国の音楽やダンスライブ、カラオケ大会で連日境内が賑わう。9月20日の大祭は、春の例大祭とならび最も重要な祭典で、氏子地域神戸の安全と繁栄を願う祭典で、9月19~23日の期間には薪能や雅楽などが開催される。
  おもな祭事 4月15日 例大祭    1月2日  翁面掛け神事   
7月15日 夏越大祓式・茅の輪くぐり・千燈祭
8月3~5日 大海神社祭   9月20日 秋季大祭並びに氏子奉幣祭
9月19~23日 秋祭神賑行事


  長田神社  ながたじんじゃ
鎮 座 地

653-0812 神戸市長田区長田町3丁目1-1

  主 祭 神

事代主神(ことしろぬしのかみ)

   
  神徳・由緒  祭神事代主神(ことしろぬしのかみ)は、伊豆の官幣大社三嶋大社と同神であり、福の神・運の神として人々に尊崇される。≪⇒三嶋大社の章参照≫。当社は神功皇后の摂政元年に創建された古社であり、皇后が新羅から凱旋する途中に武庫の水門において「吾を御心長田の国 に祠れ」との神託を受けて創祀された。村上天皇が雨を祈って応験があったことから朝廷より献じられた燈籠が境内に現存する。また当社には、源頼朝が奉納したとされる黒漆金銅装神輿、太刀拵などの重要文化財が伝わる。1月10日の翁御面掛式・年頭献饌者繁栄祈願祭では、その年の家内安全・事業繁栄を祈願し、能舞が奉納される。2月3日には節分祭と古式追儺式神事が斎行され、室町期より伝わる追儺式神事は県指定の重要無形民俗文化財に指定される歴史ある神事で、潔斎した鬼が松明により災いを焼き尽くし、太刀で不吉を祓い一年の無病息災を祈願する。8月1日午後6時から行われる神戸薪能は、神戸薪能協会により奉納される能楽・狂言である。10月1日の眼鏡感謝祭(めがねまつり)では、祭神の森羅万象を見通す御神徳が眼鏡の働きに通じることから、眼鏡への感謝と近畿眼鏡業界の発展が祈願される。

  おもな祭事 10月18日  例大祭  10月17日~19日 長田まつり
1月10日 翁御面掛式 年頭献饌者繁栄祈願祭
2月3日 節分祭・古式追儺式神事   8月1日 神戸薪能
10月1日 眼鏡感謝祭


  海神社  わたつみじんじゃ
鎮 座 地

655-0028 兵庫県神戸市垂水区宮本町5-1

  主 祭 神

底津海津見神(そこつわたつみのかみ)
中津海津見神(なかつわたつみのかみ)
上津海津見神(うわつわたつみのかみ)

   
  神徳・由緒  祭神底津海津見神、中津海津見神、上津海津見神の三柱の神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子であり、海津見神(わたつみのかみ)とも、豊玉彦命(とよたまひこのみこと)ともされる。父神伊弉諾尊が黄泉国(よもつくに、よみのくに:死後の世界)から戻り、日向の橘の小戸の檍原(あはぎはら)にて禊ぎ祓ったときにうまれた神である≪⇒住吉大社の章参照≫。娘である豊玉姫命は、彦穂々出見尊 (ひこほほでみのみこと=山幸彦:やまさちひこ)の后妃となり鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を産んだ。また妹の玉依姫命は鸕鶿草葺不合尊の后妃となり神武天皇を産んだことから、この大神は神武天皇の外祖父にあたる。この大神は海を支配する神であるためにわたつみの神と言われる。「わた」とは海のことであり、「つみ」とは大山祇(おおやまづみ)のつみと同じである。神功皇后が三韓から戻る際、にわかに暴風が起こり航海が危うくなったところ、皇后は三柱の海津見神を親しく祀ると霊験がたちまち現れ風が凪ぎ、波が収まったと伝わる。当社は神功皇后の摂政元年に勅願によって創建され、以来朝廷の尊崇が深い社である。

  おもな祭事 10月11日  例大祭   10月10~12日 秋祭り  
7月の海の日を含む土・日・月  夏祭り・海の記念日祭  


  英彦山神宮  ひこさんじんぐう
鎮 座 地

824-0721 福岡県添田町英彦山1

  主 祭 神

天忍穂耳命(あまのおしほみのみこと)

   
  神徳・由緒  祭神天忍穂耳命(あまのおしほみのみこと)は天照大御神の太子であり、古くは忍骨尊(おこほねのみこと)とも呼ばれた。当社が鎮座する英彦山は、祭神が天照大御神の御子であることから、日の子の山の意を表わす「日子山」と称された。高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の娘である栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと)を娶り、皇子である瓊々杵尊(ににぎのみこと)が生まれた。したがって、祭神は天孫の父神にあたる。神代の昔、祭神がこの日子峯に天上より降り霊地とされ、後に彦山と呼ばれるようになったが霊元天皇の御代に院宣によって英彦山と改めれた。当社は、元は彦山大権現と称して中世の佛法隆盛の時には多くの僧坊が奉斎したが、明治4年神仏混合の禁止令で今の名に改められた。この山は、筑豊第一の高山で福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町とにまたがる標高 1200メートルの山で、古くは山水の美、九州日光と称された。昔は僧坊360人を抱える一時盛大を極めた山で、役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)の拓いた土地であるといわれる。当社の奉幣殿と銅鳥居は国指定重要文化財に指定されており、3月15日には五穀豊穣を祈願する祈年御田祭が執り行われる。


  おもな祭事 9月28日  例祭    3月15日  祈年御田祭 


  嚴島神社  いつくしまじんじゃ
鎮 座 地

739-0588 広島県廿日市市宮島町1-1

  主 祭 神

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

   
  神徳・由緒  祭神市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は、官幣大社筑前国宗像大社と同神であり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の娘神にあたる≪⇒宗像大社の参照≫。市杵島姫命を主祭神として、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)を合せ祀る。当社は、日本三景の一つとされ風光明媚の地で知られる。推古天皇32年に神託により社殿が造営され、清和天皇の貞観元年に従4位下を授けられた。後に累進して正一位の安芸国の一宮となった。近衛天皇の朝廷が平清盛を安芸守に任じると、深く当社を尊信して社殿を修理し、さらに廻廊を造り偉観をそえた。後白河法皇、高倉上皇の行幸があると、その後朝臣も多く参拝するようになった。当社の社殿と廻廊は浅瀬の海に造営されるため干潮のときは徒歩にて参拝も可能であるが、一度潮水が満ちれば社殿と廻廊が海に浮いて、さながら龍宮城のようである。寝殿造りの本殿は国宝に指定され、現在の本殿は元亀2年毛利元就により改築された。海中にたつ重要文化財の四脚大鳥居は平安時代の創建から8代目で、主柱は樹齢約500のクスノキから造られる。海上の平舞台は寝殿造りの庭にあたる部分で、中央にある高舞台とともに国宝に指定される。厳島(いつくしま)の名称は、市杵島姫の市杵(いちき)が起源であると伝わる。また、一名を宮島ともいう。平成8年には、当社が日本独自の文化を伝える優れた建築であることから世界文化遺産に登録された。4月15日の桃花祭は午後5時から行われ、桃の花を御祭神に供え舞楽が高舞台にて奉納される。旧暦の6月17日の管絃祭(かんげんさい)は、平清盛が都の「管絃の遊び」を倣い祭神を慰める神事として斎行したことが起源とされる。午後4時から深夜まで続くこの神事は航海の安全を祈願して祭神を御霊を乗せた御座船が対岸の地御前神社を行き来する。8月の玉取祭は約400年の歴史のある祭で、高さ8メートルのやぐらに吊された宝珠をめがけて若者たちが飛びかかる勇壮な夏祭として知られる。12月31日の鎮火祭は、江戸時代から続く大晦日の神事で晦日山伏(つごもりやまぶし)」とも呼ばれる。大松明に移された斎火(いみび)を若者たちがかつぎ練り歩く。
  おもな祭事 6月17日  例祭    旧暦6月17日 管絃祭(かんげんさい)
4月15日  桃花祭   8月中旬の日曜日 玉取祭(たまとりさい)
12月31日 鎮火祭


  住吉神社  すみよしじんじゃ
鎮 座 地

751-0805 山口県下関市一の宮住吉1-11-1

  主 祭 神

住吉大神(すみよしのおおかみ)
応神天皇(おうじんてんのう)
武内宿彌命(たけのうちすくねのみこと)
神功皇后(じんぐうこうごう)
建御名方命(たけみなかたのみこと)

   
  神徳・由緒  この神社には、摂津の官幣大社住吉大神の荒魂(あらみたま)が祭神住吉大神(すみよしのおおかみ)として奉祀される≪⇒住吉大社の章参照≫。伊邪那岐命が禊をしたときに生まれた神である。神功皇后征韓の時、神教によりこの住吉大神の荒魂を皇軍の先鋒とし、その和魂を船の鎮護として出発した。その後皇軍凱旋の途中、「我荒魂を穴門の山田里に鎮めて国の守りとせよ」という住吉大神の神教があった。皇后はこの神教を奉じて大神の荒魂をこの地に斎き祀った。これが当社の起源とされる。後に長門国の一宮となった。本殿は室町時代の長門国守護大内弘世が造営したもので、国宝に指定される。5つの社が連結された九間社流造である。本殿の第一から第五殿には住吉大神、応神天皇、武内宿彌命、神功皇后、建御名方命が祀られる。第二殿に祀られる応神天皇は神功皇后の御子であり、第三殿の祭神武内宿彌命は三韓出兵において功の高い国政を補佐した大臣である。第五殿の祭神建御名方命は軍神として知られる大国主命の御子神である。室町時代の作で毛利元就が寄進した本殿前の拝殿は重要文化財となっている。旧暦1月1日に行われる和布刈祭(めかりさい)は、神功皇后の命により元旦の未明に壇の浦の和布を刈り神前に供えたことからはじまったとされる。深夜に奉仕される秘祭厳かな神事で、住吉神社の秘祭の一つとされる特殊神事とされる。5月第3日曜日に行われる御田植祭は、神功皇后が住吉大神に奉る日々の米のためにはじめたといわれる行事である。1月15日の大粥小粥祭(おおがゆこがゆさい)では大の粥と小の粥によりその年の吉凶を占う祭祀であり、1月16日の歩射祭(ぶしゃさい)では宮司が的に向かい2本の矢を射る古来の占い神事である。
  おもな祭事  旧暦元旦(2月) 和布刈祭   1月15日 大粥小粥祭 
 1月16日 歩射祭
    9月23日 秋季大祭 
 12月8~15日 御斎祭 非公開



  吉備津神社  きびつじんじゃ
鎮 座 地

701-1341 岡山県岡山市北区吉備津931

  主 祭 神

大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)

   
  神徳・由緒  祭神大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)は、またの名を五十狭芹彦命(いそさせりひこのみこと)といい第7代孝霊天皇の皇子である。母は意富夜麻登久迩阿禮比賣命(おおやまとくにあれのひめのみこと)。この大神は第10代崇神天皇の御代に四道(現在の山陽道)の将軍の一員となり、異母弟若日子建吉備津彦命(わかひこたけきびつひこのみこと)と共に播磨国より入り進んで現在の中国地方を鎮定した功労高い大神である。また、この神は鬼神を退治し当地を平定したお伽話の主人公「桃太郎」であるとも伝えられる。本殿西より南への廻廊は重要文化財に指定される御竈殿と続き、そこには大神が退治した鬼神の首が埋められるといわれている。御竈殿では、巫女が鉄釜で湯を沸かしたときの釜の鳴り方で吉凶を占う「鳴釜の神事」が行われる。春秋2回の大祭である七十五膳据神事では、75の膳が神饌として用意される。国宝の本殿は室町時代のもので、桧皮葺の屋根はつがいの鳳が翼を広げたような比翼入母屋造が特徴。この神社は仁徳天皇の御代に創建された備中国の一宮である。大正3年1月4日をもって昇格して官幣中社に列せられた。
  おもな祭事  5月第2日曜日 春季大祭 七十五膳据神事 
 10月第2日曜日 秋季大祭 七十五膳据神事


  伊太祁曾神社  いたきそじんじゃ
鎮 座 地

640-0361 和歌山県和歌山市伊太祈曽558

  主 祭 神

五十猛命(いたけるのみこと)

   
  神徳・由緒  祭神五十猛命(いたけるのみこと)は、またの名を大屋毘古神(おおやびこのかみ)といい素戔嗚尊の御子である。この神が天から降るとき、天上から多くの木種を持ち来て父神に従い一度韓国に渡った。曽尸茂梨(そしもり:江原道春川にある元新羅の牛頭山といわれる)の地にいたが、やがて帰国して西は筑紫から日本全土にわたり木種を植え広めた有功の神である。この神社は当初、日前・國懸の濱の宮に鎮座していたが、和銅年間において現在の地に社殿を造営し遷座した。当社の北西には「紀伊風土記の丘」と呼ばれる史跡公園があり、境内地には伊太祁曽神社古墳群とよばれる奈良時代初期のものとされる円墳が存在する。1月に行われる卯杖祭(うづえさい)は、小豆粥・管粥・卯杖の行事で構成され、魔よけとその年の稲の豊凶を占う新年の神事で知られる。紀伊国の一宮である。
  おもな祭事

 10月15日 例祭 
 1月14日 管粥神事 1月15日 卯杖祭



  熊野那智大社  くまのなちたいしゃ
鎮 座 地

649-5301 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1

  主 祭 神

熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)

   
  神徳・由緒  主祭神を熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)とする当社の起源は、一説には神武天皇東征の時代にあるとされ、社伝によると神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸した際、那智山に輝く光を見て那智の大滝をさぐりあて神として祀り、八咫烏の導きにより山々を越え大和に入ったと伝わる。また、この神武天皇東征より前から人々はこの那智大瀧を神として奉祀したという説もある。仁徳天皇5年現在の地に社殿が建てられ大瀧を別宮飛瀧大神とし、社殿には夫須美大神とその他十二柱の神々を祀るようになったとされる。 皇室の尊崇も篤く、延喜時代には宇多上皇の行幸があり、後白河法皇、後鳥羽上皇の参詣も数多く記録される。また花山法皇は千日の瀧籠りの修行をしたことも知られる。当時全国から多くの人々が熊野を目指し参拝したことから、その様子は「蟻の熊野詣」とも称された。その後11世紀末には熊野本宮大社・熊野速玉大社とともに熊野三山とよばれるようになった≪⇒熊野本宮大社熊野速玉大社の章参照≫。戦国時代には織田氏の焼打ちに遭ったが、豊臣氏、徳川氏によって保護された。当社は明治以後、当社は熊野夫須美神社と称したが、大正10年には官幣中社に昇進して熊野那智神社と改称した。当社宝物館には神剣、7世紀の古印など国指定重要文化財を所蔵する。 7月14日の例祭には田楽舞、田植舞、扇神輿、御滝本行事のほか那智の火祭が執り行われる。
  おもな祭事

 7月14日 例祭



  御上神社   みかみじんじゃ
鎮 座 地

520-2323 滋賀県野洲市三上838

  主 祭 神

天之御影命 (あめのみかげのみこと)

   
  神徳・由緒  祭神天之御影命(あめのみかげのみこと)は、天津彦根命(天照大御神と素戔嗚尊が天の安河において誓約:うけい≪⇒宗像大社の由緒を参照≫されたときに生まれた神)の子であり、天照大御神の孫神にあたる。また古来鍛冶の神とされる天目一箇神と同神とされることから、火の神としても信仰される。当社は古くから御上神社とも三上神社とも称され、当社の起源は孝霊天皇の御代に三上山の頂に降臨した祭神を御上祝(はふり)の祖先が奉祀したことに始まると伝わる。のちに現在の地に遷座し社殿を造営したとされる。延喜式内の名神大社であり、月次祭や新嘗祭には朝廷より幣帛が奉献された≪⇒社格の起源の章を参照≫。また当社の神体山である三上山は、近江富士ともよばれ、その頂上には奥宮が祀られる。当社は神仏習合や中世の戦乱の時代を経て一時衰退したが多くの人々の努力により修復され、明治31年には、当社の本殿、拝殿、楼門が特別保護建造物に指定された。大正2年には県社、大正13年に累進して官幣中社となった。本殿は鎌倉時代の入母屋(いりもや)造神社建築でで国宝に指定される。拝殿、楼門、摂社若宮神社、宝物の狛犬は国の重要文化財である。 毎年旧暦6月18日には、奥宮にて山上祭が斎行される。体育の日の秋季古例祭では相撲神事があり、またこの祭祀は随喜祭(ずいきまつり)とも言われ、芋の茎や果実で作られた神輿が渡御する。

  おもな祭事

5月第3日曜日 例祭    旧暦6月18日 山上祭
体育の日 秋季古例祭



  坐摩神社   いかすりじんじゃ
鎮 座 地

541-0056 大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号

  主 祭 神

生井神(いくいのかみ) 福井神(さくいのかみ) 綱長井神(つながいのかみ)阿須波神(あすはのかみ) 波比岐神(はひきのかみ)

   
  神徳・由緒  祭神生井神(いくいのかみ)福井神(さくいのかみ)綱長井神(つながいのかみ)は井泉の神であり、阿須波神(あすはのかみ)波比岐神(はひきのかみ)は大年神と天知迦流美豆比売(めのちかるみづひめ)との間に生まれた神で5柱をあわせて坐摩大神(いかすりのおおかみ)とされる。坐摩大神は神武天皇即位のとき神勅によって宮中に奉斎されたのが起源とされる。宮域を守る神であることから居住地の守護神として崇められ、また祭神の名義から井の神、竈神として祀られる。坐摩の語源は諸説あるが、一説には井の神が居り坐す(すわります)が転じて坐摩(いかすり)となったと伝わる。当社の創祀は神功皇后が新羅より帰還した際、現在の地に奉祀されたのが始まりとされる。延喜式内大社《⇒社格の起源の章参照》であり攝津國の一宮である。昭和11年、官幣中社に列せられた。4月22日の献花祭では、神前に献花が行われる例大祭であり、神功皇后が筑紫において応神天皇を産んだときに花を懸け坐摩大神を奉祀したことに由来する。2月節分の日に行われる鎮魂祭は、人々の魂が離れることで病苦災禍が起きないように魂を鎮め安定させることを祈願する特殊神事である。玉の入った鎮魂筥を振り動かす事により、魂をふるい起こして甦らせる。12月2日の懸鳥祭は、神前に諸鳥を供える特殊神事である。仁徳天皇が鷹狩の帰路、当社に鷹を献進されたのが起源といわれる。
  おもな祭事

4月22日 例大祭(献花祭) 
2月節分の日 鎮魂祭 12月2日 懸鳥祭 







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