トップページに戻る全国の主な神社

日本の神々と神社 由緒と御神徳 
 橿原のとほつみおやの宮柱 たてそめしより国はうごかず  ⇒この歌について・口語訳
 
  
  日本の神々と神社
   ~由来と御神徳
  全国の主な神社
   皇大神宮 内宮
   豊受大神宮 外宮
   近畿
   中国
   東海
   四国
   九州・沖縄
   関東
   甲信越
   北海道・東北

 
  神道の要領と心得
   礼拝 れいはい
   祈祷 きとう
   勤務 きんむ
   修祓 しゅばつ
   鎮魂 ちんこん 
 
日本の神社
  神社の起源
  社格の起源
  官幣社 国幣社
  社格順列
  勅祭社
  二十二社
  一宮 いちのみや
 
 
 
   日本の神々と神社
    ~由来と御神徳
  全国の主な神社
   皇大神宮 内宮
   豊受大神宮 外宮
   近畿
   中国
   東海
   四国
   九州・沖縄
   関東
   甲信越
   北海道・東北
 
 
皇室と神道
 皇室と国民
 和歌 君が代
 宮中の祭祀
 宮中三殿
  恒例祭祀
  臨時祭祀
  毎朝御代拝 同日供
  旬祭
     旧官幣大社  下の神社名をクリックすると由緒とご神徳が表示されます
賀茂別雷神社 賀茂御祖神社 石清水八幡宮  松尾大社  平野神社  伏見稻荷大社
大神神社 大和神社 石上神宮 春日大社  廣瀬大社  龍田大社 丹生川上神社上社
 丹生川上神社  丹生川上神社下社 枚岡神社 大鳥神社  住吉大社 生國魂神社 廣田神社
氷川神社 安房神社  香取神宮 鹿島神宮  三嶋大社  熱田神宮 日吉大社 
日前神宮 國懸神宮  出雲大社 宇佐神宮  霧島神宮  伊弉諾神宮 香 椎 宮 
宮崎神宮 橿原神宮  平安神宮 氣比神宮  鹿兒島神宮  鵜戸神宮 富士山本宮浅間大社
建部大社 北海道神宮  宗像大社  吉野神宮   月山神社   多賀大社   阿蘇神社 
筥 崎 宮  八坂神社   日枝神社  竃山神社   熊野本宮大社  熊野速玉大社  諏訪大社上社
 諏訪大社下社  明治神宮   丹生都比賣神社 近江神宮  水無瀬神宮 白峯神宮 赤間神宮







  賀茂別雷神社  かもわけいかづちじんじゃ
鎮 座 地 〒603-8047 京都市北区上賀茂本山339
  主 祭 神 賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
     
  神徳・由緒  賀茂別雷大神は別名を分土神(わけつちのかみ)ともいい、大山咋命(おおやまぐいのみこと)を父神、加茂建角見命(かもたけつぬみのみこと)の御子である玉依姫命(たまよりひめのみこと)を母神に持つ。ある時、玉依姫命が山城の瀬見の小川の邊で遊んでいたとき、川上から美しい丹塗りの矢が流れ来るのを見てそれを持ち帰り床の傍に挿し置いていると、不思議なことに妊娠し玉のような男児を産んだ。これがこの社の祭神、賀茂別雷大神である。この丹塗りの矢は大山咋命の御霊代であったと言い伝えられ、京都の松尾神社の御神体として崇め祀られる。
 賀茂別雷大神は、上古において山城丹波地方を開拓した神功高い神であるので、又の名を分土神といわれる。この社は既に神武天皇の御代に社殿を創建され、欽明天皇の御代には走馬、孝徳天皇の御代には神田を寄付されるように、公私の寄進が非常に多く65の荘園を有するに至った。そして桓武天皇が都を山城に定められると、王城守護の神として崇め奉られ行幸があったことがこの社に行幸があった初めである。その後14代を経て、円融天皇の御代よりこの神社への行幸の儀が歴代天皇の恒例となり、明治天皇の即位元年、3年、10年と3度行幸があったことを見ても皇室の尊崇が篤いことが分かる。嵯峨天皇は、皇女・有智子内親王を斎院に定め、これがこの社の神事に欠かせない斎王の縁起となった。葵祭には、社殿・神輿をはじめ神職一同の装束に至るまで一切に葵の葉で飾るのが慣例である。1月7日の白馬奏覧神事(はくばそうらんじんじ)とは、神前に七草粥を供えて神馬に大豆を与える儀式で、年の始めに白馬を見ると一年の邪気が祓われるという宮中の儀式「白馬節会」に由来する。1月16日武射神事(むしゃじんじ)では、鬼と書かれた的を射て邪気を祓う。
  おもな祭事  5月15日 賀茂祭(葵祭)  1月7日 白馬奏覧神事
1月16日 武射神事
 



 賀茂御祖神社  かもみおやじんじゃ
鎮 座 地 〒606-0807 京都市左京区下鴨泉川町59
  主 祭 神 加茂建角見命(かもたけつぬみのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
     
  神徳・由緒  加茂建角見命(かもたけつぬみのみこと)は神皇産霊神(かみむすびのかみ)の孫で、賀茂別雷大神の外祖父にあたる。また、玉依姫命は加茂建角見命の次女で、賀茂別雷大神の母神である。この加茂建角見命は武勇の神であり、神武天皇東征のとき熊野から大和の山路が険しく皇軍が苦しんだので、天皇は天神を祀った。すると八咫烏(やたがらす)が天降り来て皇軍を導き難なく大和に入ることができた。この八咫烏は加茂建角見命の化身であるとされ、天皇はこの大功を賞して地方平定の後に篤くこの神を祀った。これがこの神社の起源とされる。賀茂別雷神社を上社、この神社を下社と称して共に山城の一宮である。
 桓武天皇の御代に上社と下社が王城の鎮護と定められて行幸があり、歴代天皇の行幸もしばしばあった。非常に神徳の高い神である。境内には糺(ただす)の森(紀元前2~3世紀の原生林がそのまま残る国の史跡)、瀬見の小川、御手洗川(みたらしがわ)、泉川などの名所が今なおその旧跡を残す。この神社の祭事も上社と同じく葵祭りである。御所での「宮中の儀」の後、「路頭の儀」で勅使・検非違使などの行列が下社、上社の順に向い、両社で「社頭の儀」が行われる。また、7月の土用丑の日に行われる御手洗祭(足つけ神事)では、参拝者が御手洗池に素足で入ることを許され、無病息災を祈る。1月4日の蹴鞠初めは、平安時代の宮中で行われていた蹴鞠を再現したものである。3月3日の雛流しは、人形をみたらし川に流して無病息災を祈る神事である。
  おもな祭事  5月15日 賀茂祭(葵祭)  1月4日 蹴鞠初め   3月3日 雛流し


  石清水八幡宮  いわしみずはちまんぐう
鎮 座 地 〒614-8588 京都府八幡市八幡高坊30
  主 祭 神 誉田別命(ほんだわけのみこと)
比賣大神(ひめおおかみ)
息長帯姫命(いきながたらしひめのみこと)
     
  神徳・由緒  祭神誉田別命は、又の名を大鞆別尊(おおともわけのみこと)ともいう。この名は降誕の時に腕にあった鞆のような宍が母后が武装して鞆を負う様子に似ていることから名づけられた。また、母后の胎中にあって三韓を征服したことから胎中天皇ともいう。謚名は応神天皇である。祭神息長帯姫命の謚名は神功皇后(じんぐうこうごう)であり、開化天皇の5世の孫、息長宿禰王(いきながすくねおう)の娘で、24歳で仲哀天皇の皇后となり、天皇と共に熊襲を征し、次いで新羅・高麗・百済を降し、熊襲の反乱を永久に根絶した功績からもその神功が高いとされる。祭神比賣大神は、素戔嗚尊が天安河(あまのやすかわ)で天照大御神と誓約(うけい)の時に生まれた姫神で、筑前の官幣大社宗像大社に鎮まる田心姫命(たごりひめのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐都姫命(たきつひめのみこと)の三女神のことである。この三女姫は、天照大御神の勅命により筑紫の宇佐島に天降り皇孫を守護し、また後の神功皇后三韓征伐の時に、大いに力を副えた神徳高い神々である《⇒宗像大社の章参照》。 この神社は第56代清和天皇元年、宇佐神宮に準じて造営された。古より弓矢の神として武人の崇敬が非常に篤く、円融天皇の行幸をはじめとして歴代天皇・皇后の行幸啓が数多くあった。中でも後宇多天皇は文永11年11月に行幸し、蒙古軍の退去を祈願した。次に亀山上皇は弘安4年6月、蒙古軍退去祈願のために一夜参籠したところ、たちまち大風が起こり敵艦はことごとく覆没した。神徳高い神々である。石清水祭は清和天皇貞観5年(863年)に石清水放生会(いわしみずほうじょうえ)と称され始められた。生きとし生けるものの平安と幸福、国家安泰と国民の繁栄幸福を天皇が祈願する重要な祭儀とされ、現在でも勅使が差遣される。その中の放生行事では、命あるものすべての平安と幸福を祈り放生川に放魚・放鳥し、安居橋では雅楽が奏され胡蝶の舞が奉納される。

  おもな祭事  9月15日 石清水祭(放生会)


  松尾大社  まつのおたいしゃ
鎮 座 地 616-0024 京都市西京区嵐山宮町3
  主 祭 神

大山咋命(おおやまぐいのみこと)
中津島姫命(なかつしまひめのみこと)

     
  神徳・由緒

祭神大山咋命は素戔嗚尊の孫で、大歳神(おおとしのかみ)を父神にもち丹塗の鳴鏑(なりかぶら)を御霊代とする。この神の功績は、山城丹波地方を開拓し、特に京都の大堰川を治めて長く水害を除き、人々の福祉をはかった。また、造酒の神として造酒家が篤く尊崇する神である。この大神は常に比叡山に住むが、松尾でも奉祀られる神である。

 祭神中津島姫命は、本名は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)であり、筑紫の宗像大社と安芸の厳島神社の両社に鎮まる神である。皇孫瓊々杵尊に先だって天から降り国土経営のために尽力した大神である。

 この神社は上古よりこの地に奉祀され、聖武天皇の天平2年には大社に列せられた。桓武天皇延暦13年には京都の守護神と定められ、清和天皇の御代に神田を寄附され、一條天皇寛弘元年に初めて行幸があった。社域が非常に広く、松風苑三庭、霊亀の滝、霊泉・亀の井などがある。
  おもな祭事  4月2日 例祭



  平野神社  ひらのじんじゃ  
鎮 座 地 603-8322 京都市北区平野宮本町1
  主 祭 神

今木神(いまきのかみ)久度神(くどのかみ)

古開神(ふるあきのかみ)比咩神(ひめのかみ)

     
  神徳・由緒   祭神今木神は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る神で、元は大和国高市郡今木嶺に鎮座していた。祭神久度神は仲哀天皇を祀る神で、元は大和国平群郡久度村に鎮座していた。祭神古開神は仁徳天皇を祀る神で、元は大和国平群郡立野越関屋に鎮座していた。祭神比咩神は天照大御神を祀る神で、元は大和国葛下郡日に鎮座していた。この4柱の神は元は皆大和に鎮座していたが、桓武天皇の都が山城に遷ると延暦13年に勅があり4社が現在の鎮座地である山城の衣笠山の麓に遷され合祀された。この神社は円融天皇以降に行幸啓があり、古来朝廷の尊崇が篤い神である。毎年4月10日開催の桜花祭は、花山天皇寛和元年に臨時の勅祭が行われたのが始まりであり、世に言う「北山御幸」とはこの平野の臨時の勅祭のことである。
  おもな祭事  4月2日 例祭



  伏見稲荷大社  ふしみいなりたいしゃ  
鎮 座 地 612-0882 京都市伏見区深草藪之内町68番地
  主 祭 神

宇之魂大神(うかのみたまのおおかみ)
大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
佐田彦大神(さたひこのおおかみ)
四大神(しのおおかみ)  田中大神(たなかのおおかみ)

     
  神徳・由緒   祭神宇之魂大神(うかのみたまのおおかみ)は、又の名を保食神(うけもちのかみ)、大宣都姫神(おおげつひめのかみ)といい、伊邪那岐・伊邪那美の神が生んだ和久産巣日神(わくむすびのかみ)の御子であり、五穀の豊熟を護る伊勢の外宮と同じ神である。祭神大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)は、別名を天鈿女命(あめのうずめのみこと)という。常に天照大御神の側に仕えていたが、天孫降臨に際して随い降り宮中に奉仕した。君と臣との仲を取持ち、宸襟を和らげたことからその名を大宮女命(おおみやめのみこと)とも呼ばれた。祭神佐田彦大神(さたひこのおおかみ)は、又の名を猿田彦命(さるたひこのみこと)という。この神は身の丈が非常に高く、顔は赤く、鼻は高く、目は大きく、威風堂々とした神といわれる。天孫が高千穂峯に天降ったとき、この神が迎えて道案内をし、後に天照大御神の御霊に供奉して伊勢に至り功労が高い神とされ、後に五十鈴川の畔に閑居したとされる。この神は、道案内をしたことから又の名を岐神、道祖神ともされる。以上の三柱の神のほかに、摂社田中社の田中大神、摂社四大神の四大神が合祀される。 この神々は常に国家の平和と隆昌を祈願し、風雨の害を除き、五穀の成熟を司るので、朝廷の尊崇は非常に篤く、後三条天皇以降に行幸啓がしばしばあり五穀豊穣が祈願された。この神社は、元明天皇の和銅4年2月に創建され、花園天皇の永享10年1月5日に将軍足利義教によって現在の地に遷座された。その所在地が伏見街道に沿うので伏見稲荷と称された。全国約4万の稲荷神社の大宗社である。
   



  大神神社  おおみわじんじゃ  
鎮 座 地 633-8538 奈良県桜井市三輪1422
  主 祭 神

大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

   
  神徳・由緒   大物主大神とは、倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)であり、又の名は大国主命(おおくにぬしのみこと)、大穴牟遅命(おおなむちのみこと)、大国玉命(おおくにたまのみこと)、八千戈命(やちほこのみこと)などとされる神であり、父神は建速須佐之男命、母神は刺国若姫(さしくにわかひめ)である。大物主の名義は、冥名を司る意味であり、櫛甕玉は美称である。この神は、兄弟が非常に多い中で特に優れていたので兄弟に嫌われ、しばしば危害を加えられたが、勇武であったため最終的に諸兄を征して葦原中国を平定した。天照大御神の詔によって国土を天孫に奉還するが、その和魂(にぎたま)である大物主神は天孫を助けて国土経営を成功させた。その任務を終えたため八百万神(やおよろずのかみ)を率いて天上に至り、これを天津神に奏した。そのとき高皇産霊神(たかみむすびのかみ)による「汝更に八百万神を率いて中津国に降り、天孫を守護奉れ」との詔を受け、再び戻り永く天孫を守護した≪⇒この神については、出雲大社の章を参照≫。
 この神は、大国主命の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)を自らこの三輪山に斎祭ったとされる。神社には本殿がなく拝殿から三輪山を拝するといった神社の原初の形が残される。1月1日の饒道祭(にょうどうさい)は、拝殿奥でいただいた御神火を松明に移し、さらに大神神社の各摂社に御神火を分ける御神火祭である。大和国一宮である。
  おもな祭事  4月9日 例祭  1月1日 饒道祭



  大和神社   おおやまとじんじゃ    
鎮 座 地 632-0057 奈良県天理市新泉町星山306
  主 祭 神

日本大国魂大神(やまとおおくにたまのかみ) 
八千戈大神(やちほこのかみ)
御年大神(みとしのかみ)

   
  神徳・由緒   祭神日本大国魂大神は、大年神の御子であり、須佐之男命の孫神にあたり、大山咋命(おおやまぐいのみこと)の兄神である。この神は、大己貴命(おおなむちのみこと)を助けて国土を経営した功徳高い神である。古来日本の新領土には、大己貴命、少彦名命と共に必ずこの神が祀られた。祭神八千戈大神とは、大己貴命の別名で、八尋の廣矛(やひろのひろほこ)をもって御霊代とされる。大己貴命はこの廣矛によって四方の悪神達を打平らげたとされる。祭神御年大神とは、大國魂命(おおくにたまのみこと)の弟神で、人々の食用とする穀物、殊に稲を守る神である。御年の名義は稲である≪⇒大歳御祖神社参照≫。
 このように、国家に大功のある神々であるため、始めは宮中に斎き祀られていたが、崇神天皇はこの神威を穢す事を恐れ、皇女淳名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)に託してこれらの神を大和國市磯邑に遷し祀らせた。これがこの神社の起源である。その後、大神の託宣によって神武天皇に仕えて功績の高い椎根津彦命の子孫である長尾市(ながおち)という者がこの神社の神主とされた。これが、わが国における神主の始めであるといわれる。4月1日は、大和路に春を告げる例祭が行われ「ちゃんちゃん祭り」として親しまれている。
  おもな祭事  4月1日 例祭



  石上神宮   いそのかみじんぐう
鎮 座 地 632-0014 奈良県天理市布留町384
  主 祭 神

布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)

   
  神徳・由緒  初代神武天皇東征の際、紀伊から大和に入ろうと熊野山中まで進んだ皇軍が邪神の毒気に触れてことごとく倒れ伏した。高天原からこれを覧わした天照大御神が、武甕槌命(たけみかづちのみこと)に勅して、中津国を平定するため布都御魂剣を国津神高倉下命(たかくらじのみこと)に降すように命じた。高倉下命は直ちにこれを天皇に献じると、神剣の霊威が忽ち現れて皇軍は瞬く間に醒起して邪神を滅ぼし諸賊を平定した。天皇は深くこの神剣の霊威を尊びこれを殿内に奉安していたが、崇神天皇の御代に至りその霊威を穢してはならないと恐れて、物部氏の祖である伊香色雄命(いかがしこおのみこと)に命じて大和国石上村に神宮を建て、これを斎きまつらせた。
 また、素戔嗚尊が出雲の簸川(ひかわ)の川上にて、八岐の大蛇を斬った天十握剣(あめのとつかのつるぎ)は、又の名を天羽々斬(あめのはばきり)とも大蛇の麁正(おろちのあらまさ)ともされるが、備前国赤坂郡に斎き祀られるものを仁徳天皇の御宇においてこの神宮に合祀された。
 この神宮は、はじめ布留御魂神社(ふるみたまのじんじゃ)または単に布留社(ふるのやしろ)とも称し祀られ、国家鎮護の神として古来朝廷の尊崇が非常に篤い御宮である。
  おもな祭事  10月15日 例祭



  春日大社   かすがたいしゃ 
鎮 座 地 630-8212 奈良県奈良市春日野町160
  主 祭 神

武甕槌命(たけみかづちのみこと) 
経津主命(ふつぬしのみこと) 
天児屋根命(あめのこやねのみこと) 
比売神(ひめがみ)

   
  神徳・由緒  祭神武甕槌命は、稜威雄走命(いづのをはしりのみこと)の末裔である。天孫降臨に先立ち経津主命と共に出雲に降り、この国土を天孫に奉らせ、葦原中津国(あしはらのなかつくに)にはびこる悪神を征伏して、御神霊を常陸の鹿嶋に留め、天上に復命した神である≪⇒鹿島神宮の章参照≫。祭神経津主命は、別名を伊波比主神(いはひぬしのかみ)といい、磐筒男(いはつつを)磐筒女神(いはつつめのかみ)の御子であり、武甕槌命と共に葦原中津国に降り、地方平定の大功を樹て、やがて御神霊を下総の香取に留め、天上に復命した。祭神天児屋根命は、興台産霊神(こことむすびのかみ)の御子で天照大御神の侍臣として仕えていたが、後の天孫降臨の際に従い降り、常に国政に参与して治国経世の功績が高い神である。この神は中臣連(なかとみのむらじ)すなわち藤原氏の遠祖である。先に石屋戸の変において天津祝詞を奏上してから子孫代々祭祀を司り、神と君との御中を取持ち奉仕したことから中臣連と称されることとなった。祭神比売神とは、天児屋根命の妃であり天美津玉照比売命(あまみつたまてるひめのみこと)といい、よく夫の命を助けて大功を建てた神である。鹿島神宮から武甕槌命、香取神宮から経津主命、枚岡神社から天児屋根命・比売神が勧請されたのがこの神社の始まりである。称徳天皇の尊崇が篤く、また藤原氏の氏神として一族の寄進が多く、境内に約3000基の燈籠があることからもいかにこの神社が盛んであるかを知ることができる。全国には約3000の分社があり、平成10年にユネスコの世界遺産に登録された「古都奈良の文化財」には、春日大社と春日山原始林が含まれる。
  おもな祭事  3月13日 春日祭



  廣瀬大社   ひろせたいしゃ 
鎮 座 地 636-0051 奈良県北葛城郡河合町大字川合99
  主 祭 神

若宇加能売命(わかうかのめのみこと) 

   
  神徳・由緒  祭神若宇加能売命は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)でもあり、又の名を大物忌神(おおものいみのかみ)ともいう。伊勢の外宮と同じ祭神の五穀の豊穣を司る神である。大物忌神とは、天上における天照大御神の大御膳神(おおみけつかみ)として奉仕することからこの名がついた。この神社は、崇神天皇の御代にはじめてこの地に鎮座した。佐保川・初瀬川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川などの河川が、大和盆地で一地点に合流する地に祀られていることから水の守り神とされ、河川の氾濫を防ぎ、風雨を順調にして苗稼を浸潤し、五穀の豊穣を守る神とされる。天武天皇の白鳳年間には、風を司る龍田風神が鎮座する龍田大社(旧龍田神社)と共に廣瀬大社(旧廣瀬神社)においても朝廷の祭祀が行われ、国家安泰が祈願されるようになった。以降歴代天皇により国家安泰が祈願され、正徳年間には極彩色の正殿をはじめ、拝殿、勅使殿、神饌所、仮神庫、祭器庫、奏楽所、絵馬舎、社務所などが整然として建て並べられた。この神社で毎年2月11日に行われる砂かけ祭は、砂を掛け合うことからその名がついた。お田植え祭がその起源であり、五穀豊穣を祈願する祭である。
  おもな祭事  4月4日 例祭



  龍田大社   たつたたいしゃ 
鎮 座 地 636-0822 奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1
  主 祭 神

天御柱命 (あめのみはしらのみこと)
国御柱命 (くにのみはしらのみこと)

   
  神徳・由緒  祭神天御柱命・国御柱命は、別名を志那津彦命(しなつひこのみこと)・志那津比賣命(しなつひめのみこと)、また並称して級長戸邊命(しなとべのみこと)ともいう。伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)の二柱の神の御子で、風を司る神である。天御柱命、国御柱命の名義は、風は天地の間に充満してよく乾坤(けんこん)を支え、また家の柱の働きのようなことから由来する。また、戸邊の戸は所(ところ)であり、風気が常にある所をあらわし、邊は山津見(やまつみ)、海津見(わたつみ)などの見のように男神の尊称である。この神は、一に風の神といわれ廣瀬の大神と力を合わせて穀類の生育を助ける御神徳があるといわれる。この神社は、崇神天皇の御代「吾宮は朝日の日向ふ所、夕日の日隠くる所の龍田の立野の小野に、造り奉れ」との神告により宮を建てられたが、応仁の乱以降衰えた。立野の豪族物部の子孫、立野彌太郎の寄進によって再建され現在に至る。
  おもな祭事  4月4日 例祭



  丹生川上神社   にうかわかみじんじゃ 
鎮 座 地

639-3553 奈良県吉野郡川上村大字迫167 上社
632-2431 奈良県吉野郡東吉野村小968
638-0021 奈良県吉野郡下市町長谷1-1 下社

  主 祭 神

神(たかおかみのかみ) 上社
罔象女神(みづはのめのかみ)
神(くらおかみのかみ) 下社

   
  神徳・由緒  祭神罔象女神(みづはのめのかみ)は、水をつかさどる神であり、旱天には雨を、長雨の時には天を晴らし、五穀の豊穣を守る神として信仰される。古事記において、火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)を産み身を焼かれ苦しみ逝く伊弉冉尊の尿から和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれた神とされる。 祭神高神、神は、伊弉諾尊の御子であり、共に雨をつかさどる神である。高神は山上の龍神、神は谷の龍神といわれる。この二柱の神は、伊弉冉尊が火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を産み身を焼かれ崩御した様を見ていた伊弉諾尊が悲しみ、佩いていた十握の剣(とつかのつるぎ)を抜き迦具土神を斬った。その時、剣の柄に垂れた血汐の凝りから生まれた神である。この二神の御神徳は、日照りには雨を降らせ、長雨にはこれを晴らして千五百秋の瑞穂の国土(ちいほあきのみずほのこくど)を永遠に潤し五穀の豊穣を守る広大の御神徳である。祈雨には黒馬、止雨には白馬又は赤馬が献じられ、炎旱霖雨には朝廷により奉幣祈祷がなされた。その度に神験霊応が顕著であったとされる。 この神社は、天武天皇白鳳4年「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨)を止めむ」との御神告により創建せられた。古来朝廷から篤く崇敬されたが、戦国時代以降は衰微し、ついには社地さえ不明となった。その後の調査により明治4年丹生村、続いて明治29年川上村の神社が、丹生川上神社下社、上社とされた。大正12年には、現在の鎮座地が本来の社地と比定され、三社を合して一社として官幣大社となった。終戦以降には三社別々の神社となり現在に至る。
  おもな祭事 10月8日 上社 
10月16日
6月1日  下社



  枚岡神社   ひらおかじんじゃ 
鎮 座 地

579-8033 大阪府東大阪市出雲井町716

  主 祭 神

天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比売御神(ひめみかみ)
経津主命(ふつぬしのみこと) 
武甕槌命(たけみかづちのみこと)

   
  神徳・由緒  祭神は大和の春日大社、鹿島神宮、香取神宮と全くの御同神である(⇒春日大社鹿島神宮香取神宮の章参照)。枚岡神社の創祀は、初代神武天皇が大和の地で即位した3年前と伝えられる。神武東征にあたり、神武天皇の勅命により天種子命(あめのたねこのみこと)が国土平定を祈願して神津嶽に天児屋根命・比売御神の二神を祀ったことがこの神社の始まりとされる。後に平岡連(ひらおかのむらじ)らによって、その遠祖天児屋根命および比売御神が現在の地に遷宮されたとされる。後の光仁天皇の御代に至り、香取と鹿島の両神を配祀して4座となった。この神社は河内の一宮であり、神護景雲2年には、この神社の二神(天児屋根命・比売御神)が春日神社(現在の春日大社)に祀られたことから元春日ともいわれる。枚岡とは、山頂平坦の意味がある。第一正殿から第四正殿に至るまで四殿が存在し、第一正殿には天児屋根命、第二正殿には天児屋根命の妃である天美豆玉照比売命(あめのみづたまてるひめのみこと)、第三正殿には経津主命、第四正殿には武甕槌命が奉祀される。10月の秋郷祭では布団太鼓台が鳴り響き、古くから伝わる1月の粥占神事と12月の注連縄掛神事が有名である。1月11日の粥占神事は、小豆粥で作物の豊凶と一年の天候を占う特殊神事で、府民俗文化財である。
  おもな祭事 2月1日 例祭   1月11日 粥占神事 



  大鳥神社   おおとりじんじゃ 
鎮 座 地

593-8328 大阪府堺市西区鳳北町1-1-2

  主 祭 神

日本武尊 (やまとたけるのみこと)
大鳥連祖神 (おおとりのむらじのおやがみ)

   
  神徳・由緒

諸国神名帳によるとこの神社は、大鳥連祖神である天種子命(あめのたねこのみこと)を斎き祀るところと記される。新撰姓氏録には、天種子命は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の孫の天押雲命(あめのおしくものみこと)の御子であり、大中臣と大鳥連らの祖神であるとある。天種子命は、神武天皇東征に従い大功を樹て、祭政一致の事業を助けた神である。この神社は、古来和泉国の名神大社であり、朝廷の崇敬も篤い御社であるが、元和年間に兵火に罹り社殿は消失した。その後再建されたが、明治38年の夏にはまたもやその大半を焼かれた。祭神日本武尊は、景行天皇の第二子であり、仲哀天皇の父である。東夷征討が終わり、帰路近江に伊吹山の賊を討ち病を得て、伊勢能褒野にて薨去した。父景行天皇は群臣百僚を遣わせ厚く葬ると、八尋の白鳥が御陵から飛出でて、大和の方へと飛び去った。群臣はこれを怪しみ柩を開き見ると、ただ御衣のみで遺骸はなかったため、白鳥を追い大和の琴弾原に御陵を営んだ。すると白鳥はまたもや飛び去り河内国古市でとまったが、最後に大鳥の地に舞い降りると、その地は一夜にして樹木が繁茂した。この「千種の森」が大鳥神社の鎮座地との説がある。日本武尊の御陵は河内国古市に存在する。明治には祭神が大鳥連祖神とされたが、戦後は日本武尊が祭神に加えられ二柱となった。4月の花摘祭は、平安時代から伝わる祭りで、花摘女の行列と共に神輿が御旅所へ渡御する。酉の市神事は、11月酉の日に行われる。

  おもな祭事 8月13日 例祭



  住吉大社   すみよしたいしゃ 
鎮 座 地

558-0045 大阪府大阪市住吉区住吉 2丁目 9-89

  主 祭 神

底筒男命 (そこつつのおのみこと)
中筒男命 (なかつつのおのみこと)
表筒男命 (うわつつのおのみこと)
神功皇后 (じんぐうこうごう)

   
  神徳・由緒

 祭神底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の神は、伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) の御子である。火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)の出産で亡くなった妻神伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追った伊邪那岐命 (いざなぎのみこと)が黄泉国(よもつくに)に至り、やがて穢れを受けて帰った。その穢れを祓い清めるために、日向の橘の小門の阿波岐原(あわぎはら)において禊祓いした時、川の底、中、上において住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれたとされる。この三柱の神は、神功皇后三韓征伐に際して大いに力を副えた神であり、皇后凱旋の後にこの地に奉祀され、のちに皇后もここに合祀された。古来、この大神は海路を守ることで知られ航海者に尊崇され、また海外への使者は必ず幣帛を奉り、海路の恙無きことを祈願した。表参道には約700基の石灯籠があり、その先にはかつては神のみが渡ることを許されたといわれる反橋が続く。江戸時代造営の四本殿は国宝である。1月4日の踏歌神事は五穀豊穣を祈る儀式で、神前に福の餅を捧げ、白拍子舞と熊野舞が奉納された後には福の餅撒きが行われる。1月7日の白馬神事では、国家安泰が祈願され神職が白馬と共に神殿を拝礼する。1月13日御結鎮神事は、神前に捧げた矢によって除魔招福を祈願する神事である。摂津国の一宮。

  おもな祭事

7月31日 住吉祭  1月4日 踏歌神事  1月7日 白馬神事
1月13日 御結鎮神事 




  生國魂神社   いくくにたまじんじゃ
鎮 座 地

543-0071 大阪府大阪市天王寺区生玉町139

  主 祭 神

生島神(いくしまのかみ) 
足島神(たるしまのかみ)

   
  神徳・由緒

 祭神生島神は、又の名を生國魂大神(いくくにたまのおおかみ)といい、足島神は、咲國魂大神(さきくにたまのおおかみ)という。神武天皇が筑紫を出発し、安芸を経て難波津に着くと、高津丘にのぼり大八島の神霊である生國魂、咲國魂の二柱の神を親しく祀り、東夷降伏の祈願をしたとされる。応神天皇の朝に至り、勅命によって神殿を造営された。延喜式によると、「難波坐生国咲国魂(なにわにますいくくにさきくにたま)神社」と記載され、名神大社でもあった。この神社は、はじめ難波の石山玉造生玉庄にあったものを、正親町天皇の御代に豊臣秀吉が大阪城築造のため、片桐且元を奉行として現在の地に社殿を造営し、天正13年9月に遷座された。生玉夏祭は7月11日~12日、8月11日~12日は大阪薪能が有名である。

  おもな祭事

9月9日 例祭




  廣田神社  ひろたじんじゃ  
鎮 座 地 662-0867 兵庫県西宮市大社町77
  主 祭 神

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)

   
  神徳・由緒   祭神撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、伊勢の神宮の内宮に鎮座する天照坐大神の荒魂(あらみたま)を表わす名である。撞賢木の名義とは、斎き榊という意味で、伊都(いつ)の枕詞である。伊都とは清き心のことを意味する。天疎向津媛(あまさかるむかつひめ)とは、この国土より天日を仰ぎ見るという義である。この地に天照大御神の荒魂が祀られる由縁は、仲哀天皇9年3月、神功皇后は筑紫の香椎宮において三韓征伐の計議をしたとき、まず神勅を請いた。天照大御神の託宣『わが和魂(にぎたま)は玉體(ぎょくたい)を守り、わが荒魂(あらみたま)は戦艦を導きて彼の地に渡すべし』によって神功皇后は大いに喜び、神勅に畏み従い船を発した。すると波は穏やかで船は安らかに敵地に到着した。新羅王は大いに驚いて戦わずして降伏を乞い、珍宝奇什を献じた。次いで高麗、百済もまた降伏し、翌年2月皇后は凱旋の途に就いた。この艦は、筑紫を出発し難波津に向かったときに途中で動かなくなった。皇后はこれを神意であると確信し、艦を務古の水門に還して神勅を請いた。すると『わが荒魂は皇后に近づくことを欲せず、御心廣田の地に在りたし』との神勅があった。そこで皇后は、山背根子(やましろねこ)の女である葉山媛に、その神勅のままに斎き祀らせた。これが廣田神社の起源である。後世、八幡大神、住吉大神、諏訪建御名方神、高皇産霊神を合せ祀り廣田五社と称した。いずれも三韓征討の際に力を副えられた神々である。
  おもな祭事  3月16日 例祭



  氷川神社  ひかわじんじゃ  
鎮 座 地 330-0803 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1丁目407
  主 祭 神

須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)

   
  神徳・由緒  祭神須佐之男命は、伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)の二柱の神の御子で、天照大御神の弟神にあたる。須佐とは、何事にも勇み進むという意であり、男とは雄々しいという意味である。この神は、はじめ父神から海河を治めるように命じられたが、これを顧みず泣き騒いだので、父神は大いに怒り国から追放することにした。須佐之男命は姉神である天照大御神に別れの挨拶をするために天上にのぼったが、天照大御神は弟神が高天原に攻め入るのではと疑い武装して待ち構えた。後にその疑いは誓約により解けたものの、須佐之男命の荒々しい振る舞いは募り、ついに天照大御神の逆鱗に触れ天照大御神は天岩窟に隠れてしまった。それを受けて諸神は相議してこの神を罰し、高天原から遂い降させた。その後、須佐之男命は四方を周遊し、出雲に至り八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、また須佐之男命の髭などの体毛からできた杉や檜などの木種を御子である五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命(つまつひめのみこと)等が諸国に繁殖させるなどして、多くの御子神に命じて国家の経営に尽力させた。このように国利民福を計ったので、先の乱暴な振る舞いとは打って変わり神徳高大の神となった。
 祭神稲田姫命は、国津神である足名椎(あしなつち)、手名椎命(てなつちのみこと)の娘であり、須佐之男命によって命を救われ后妃となり国土を経営した貞操高き神である。祭神大己貴命は、出雲国杵築大社(きづきのおおやしろ)、現在の出雲大社に鎮まる神である。
 
この神社は、第5代孝昭天皇の御世に勅命によって出雲国簸川(ひかわ)の川上に鎮座する杵築大社を勧請した社であり、これが氷川の名の由来である。日本武尊(やまとたけるのみこと)は、東夷征討のときにこの神社に戦勝を祈願した。朱雀天皇の御代、平将門(たいらのまさかど)が乱を起こしたときに平貞盛兄弟もこの神社に戦勝を祈り、鏑矢(かぶらや)を献じて見事に将門を滅ぼした。このことからこの神社は、武運長久の守護神として歴代天皇の尊崇が篤く、また武人の崇拝も厚い。徳川幕府は御神徳を仰ぎ神地を寄進し、また社殿を造営した。神社の境内は非常に広く、元の神領を整備した県立公園である大宮公園は桜の名所である。広大な敷地には、スポーツ施設や動物園、遊園地などが設けられる。境内北の盆栽町は、日本屈指の盆栽の産地である。8月2日には、神池の橋上にて神事があり神社の起源が表わされる。12月の大湯祭では、熊手や縁起物を売る露天で境内がにぎわう。
  おもな祭事  8月1日 例祭



  安房神社  あわじんじゃ  
鎮 座 地 294-0233 千葉県館山市大神宮589番地
  主 祭 神

天太玉命 (あめのふとだまのみこと)

   
  神徳・由緒   祭神天太玉命は、天照大御神の侍臣であり、天孫降臨の際に従い降り天兒屋命(あめのこやねのみこと)と共に朝廷に参与し功績が高い神である。そのため、伊勢の神宮の内宮において相殿として奉祀される神である。天太玉命は、忌部氏の遠祖であり天兒屋命と共に祭祀を司る神である。忌部とは、その身を忌み清めて神に仕えたことからその姓を賜った。初代神武天皇の朝において、この大神の孫にあたる天富命(あめのとみのみこと)が阿波国より忌部の神族を率いて東方開拓のために安房に至り、ついにその地に定住した。ようやく土地が拓け、人々の生活が安定したところで社殿を建立し、遠祖天太玉命をその地に奉祀することとなった。これが安房神社の起源である。安房とは、忌部視の出身地である四国の阿波が元となった名である。毎年12月の神狩祭・1月の有明祭は、房総開拓における先人の労苦を偲び感謝する祭祀である。有明祭では、獣の舌を模った舌餅(したもち)という特殊神饌が奉られる。安房国一宮である。
  おもな祭事  8月10日 例祭   12月26日 神狩祭   1月4日 有明祭



  香取神宮  かとりじんぐう 
鎮 座 地 287-0017 千葉県香取市香取1697
  主 祭 神

経津主大神(ふつぬしのおおかみ)

   
  神徳・由緒   祭神経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は、又の御名を伊波比主命(いはひぬしのみこと)いい、磐裂(いわさく)・根裂(ねさく)の神の御子である磐筒男(いわつつお)・磐筒女(いわつつめ)神の御子である。非常に武男の神であるので、天照大御神は、葦原中津国(あしはらのなかつくに)の千早振荒振(ちはやふるあらぶる)邪神(まがつかみ)たちを平定するためこの神を大将軍とした。これが、この国の将軍の始めであるともいわれる。天上において、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)を天から降らせ豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみづほのくに)を統治させようとしたが、大国主命(おおくにぬしのみこと)がすでに出雲にあり、中津国を治めていた。そこで、神々が相議り天穂日命(あめのほひのみこと)を出雲に遣わせたが、天穂日命は大国主命に従ってしまい3年が経過しても帰らなかった。よって、天国玉神の子である天稚彦(あめのわかひこ)を遣わせたが、この神もまた大国主命の娘である下照姫(したてるひめ)を娶り、自らが国を支配しようと野心を持ち復命しなかった。このように、二度の使者の甲斐がなく、天照大御神は八百万神(やおよろずのかみ)を天安河原に集め議ったところ、経津主大神を使者とすべきと神々が薦めた。このとき、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が進み出て同伴を申し出たので、この二神が出雲に降った。二神は大国主命に天照大御神の勅(みことのり)を伝えると、大国主命は子である事代主神(ことしろぬしのかみ)に相談した。事代主神は、天照大御神の勅であれば速やかに従うべきだが、弟である建御名方命(たけみなかたのみこと)は、これを拒んで許さなかった。これには二神は大変怒り、建御名方命を攻め、建御名方命はこれに敗れて降伏した。ここで大国主命は、国土をすべて天孫に奉献することを約束した。さらに、数多の御子神を天津神(あまつかみ)の子孫のために末永く忠勤させることを誓った。二神は大変よろこんでこれを天照大御神に奉告した。その後、二神は共に諸国に散在する悪神や邪神をことごとく征伏し、ついに神霊をこの地に鎮めた。したがって、朝廷においては鹿島大神(⇒鹿島神宮の章参照)と共に国家鎮護の大神として尊崇が篤く、平安時代の『延喜式』において神宮号が許されたのは、香取・鹿島両神宮以外では伊勢の神宮のみである。この神は、弓矢の神として武人の尊信が篤い神である。おもな社殿である本殿、楼門、祈祷殿は、5代将軍徳川綱吉の造営である。1月16日の星鎮祭とは矢によって邪気を祓う祭事であり、星の運行を乱して世の混乱を起こす神を香取の神が弓で射落とし、星塚に鎮めたことに由来する神事である。
  おもな祭事  4月14日 例祭    1月16日 星鎮祭



  鹿島神宮  かしまじんぐう 
鎮 座 地 314-0031  茨城県鹿嶋市宮中2306-1
  主 祭 神

武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

   
  神徳・由緒   祭神武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、稜威雄走命(いつのおはしりのみこと)の御裔であり、武とは勇猛の義、甕は厳の意味であって、槌は男神の尊称とも、また剣のこととも言われる。この神は、香取大神(⇒香取神宮の章参照)と共に出雲に降り大国主命に国譲りの談判をしたときに、建御名方命(たけみなかたのみこと)は独り大変怒り、大石を軽々と持ち上げて力比べを迫った。武甕槌大神はそれに応えてその石を何の苦なく持ち上げた。建御名方命は、では手を捻やらんと叫んで武甕槌大神の手を取ると不思議なことにその手が剣の刃のようになった。建御名方命がためらう内に、武甕槌大神はすかさず建御名方命の手を取ってその神を生葦のごとく摘んた。その剛力に、さすがの武勇の建御名方命も辟易し、これは叶わぬと逃げ出した。二神はそれを追いかけて信濃国諏訪に至り、建御名方命は行き詰ってついに降伏し、以後決して二心のないことを誓った。ここにおいて、一神の異論もなく国譲りが成功した。二神は高天原の天照大御神にこれを復命すると、その後は中津国にはびこる荒振る神どもをことごとく追い払って中津国平定の大功を樹て、永く東方の鎮護として神霊をこの地に鎮めた。この神は、弓矢の神として古来上下の尊信が非常に篤く、第51代桓武天皇は帝都を山城に定めると、この大神と香取大神の分霊を洛北吉田に遷し祀り、王城の守護神とした。祭神は、藤原氏の氏神であり、現社殿のうち本殿と拝殿は2代将軍徳川秀忠、奥宮社殿は徳川家康の寄進である。また、楼門は熊本の阿蘇神社、福岡の筥崎宮(⇒筥崎宮)と共に日本三大楼門の一つである。宝物殿にある223.5cmにもなる国宝の直刀は、武甕槌大神の佩刀「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」の2代目として伝わる奈良から平安時代のもので、日本最古であり最大の剣である。この神社は常陸国一宮であり、古来鹿島香取と並称され、故事旧典などは両社とも殆ど同一である。12年ごとの午年には、式年大祭として大船団が渡御する御船祭が行われる。1月7日の白馬祭とは年のはじめに白馬を見ると一年の邪気が祓われるといわれることから行われる神事である。3月9日の祭頭祭は年間80回以上もある行事でも、最も規模の大きな春の大祭である。6月第2日曜日には、午前10時から塚原卜伝の生誕を記念した古武道演武大会にて演舞奉納される。
  おもな祭事  9月1日 例祭    1月7日 白馬祭   3月9日 祭頭祭
6月第2日曜日  奉納古武道演舞大会 



  三嶋大社  みしまたいしゃ 
鎮 座 地 411-0035 静岡県三島市大宮町2-1-5
  主 祭 神

大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)

   
  神徳・由緒   祭神大山祇命(おおやまつみのみこと)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子で、その名には大いなる山の神霊という意味がある。この神の二女である木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻となり、火照命(ほでりのみこと・海幸彦)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(ほおりのみこと・山幸彦)を生んだ。初代神武天皇は、火遠理命の孫である。祭神積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)は、大己貴命(おおなむちのみこと)の長子であり、又の御名を玉籖入彦厳之事代主神(たまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)いう。娘である媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)は、神武天皇の皇后となり、第2代綏靖天皇を生んだ神である≪⇒長田神社および美保神社の章参照≫。この大神は、父神大国主命(おおくにぬしのみこと)をたすけて田畑を拓き、漁猟の道を教え、偏に国利民福を図ったので、後人は尊び福の神・恵比寿大神(えびすおおかみ)と祀るようになった。父神大国主命が国譲り(⇒香取神宮の章参照)のことを議ると、すぐにこれを賛して杵築に退くべきことを父神に勧め、天津神の使者である武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)の二神の前で天逆手(あまのさかて)を拍ってそれに偽りのないことを証明した。これが、後世において物事を約束して定める時に、手を拍つことのはじまりであるといわれる。その後、この神は直ちに身を避けようとして海に浮かんで東海に至り、ついにこの地に到着して永く御霊を鎮めたといわれる。この神社は、源頼朝など武士の崇敬が篤く、伊豆国一宮である。三嶋とは御島の義より起こったといわれる。境内には、約200本の桜があり、国の天然記念物に指定される樹齢1200年といわれる金木犀がある。1月7日の田祭はその年の五穀豊穣を祈願する神事であり、起源は平安時代とも言われる。舞殿で行われる「お田打ち神事」は静岡県無形文化財指定される。1月17日奉射祭は、矢によって世の邪悪を祓い、人々の悪病退散を祈願する神事である。
  おもな祭事

8月16日 例祭   1月7日 田祭   1月17日 奉射祭




  熱田神宮  あつたじんぐう 
鎮 座 地 456-8585 名古屋市熱田区神宮1丁目1番1号
  主 祭 神

熱田大神(あつたのおおかみ)

   
  神徳・由緒   祭神熱田大神(あつたのおおかみ)とは、三種の神器(さんしゅのじんぎ)の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代とする。草薙神剣は、元の名を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という。神代の昔、素戔嗚尊が出雲の国簸川(ひかわ)の川上において、八岐大蛇(やまたのおろち)を斬った剣であり、この大蛇の上には常に雲気があったためにこのように名づけられた。のちに素戔嗚尊は、この剣を高天原に献じた。天照大御神は、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が天降るときに、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)にこの神剣を副えて、「汝往き手て治めよ宝祚(ほうそ)の隆えまさんこと、天壌と窮りなかるべし」と詔(みことのり)した。天孫瓊々杵尊は、この詔を拝して三種の神器を擁して中津国に天降った。その後、代々これを宮中に斎き祀ったが、垂仁天皇の御代になり、八咫鏡と共に伊勢に鎮まるに至った≪⇒皇大神宮の章参照≫。第12代景行天皇の御子、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征討の道すがら、伊勢に至り戦勝を祈願したときに叔母である倭姫命が神剣を日本武尊に授けた。日本武尊が駿河に至ったとき、賊徒らが尊を野に誘い出し、四方から火を放って尊を焼き殺そうとした。そのとき神剣がおのずから鞘から出て草を薙(な)ぎ払い賊を追い払い尊の危機を救った。このとき日本武尊は深く神剣の霊威を感じてこれを後世に伝えるために名を草薙(くさなぎ)の剣と改めた。日本武尊は、東北の賊をことごとく平定し、帰路に尾張国火上里の姉子媛(あねこひめ)の邸に宿泊していたときに、神剣は光を発してその地に留まることを示したので、姉子媛を斎宮として神剣をそこに祀らせた。姉子媛は宮簀媛命(みやすひめのみこと)ともいわれる。宮簀とは、宮主(みやぬし)の意である。この神社は、天授の神器の一つを奉祀する御宮であるため、歴代朝廷の尊崇は非常に篤く、その祭祀も伊勢の神宮に次いで厳かである≪⇒金鑚神社の章参照≫。相殿神には、天照大御神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命(たけいなたねのみこと:宮簀媛命の兄で尾張連の祖)を祀る。
  おもな祭事

6月5日 例祭(熱田祭)




  日吉大社  ひよしたいしゃ 
鎮 座 地 520-0113 滋賀県大津市坂本5-1-1
  主 祭 神

大己貴神(おおなむちのかみ) 西本宮

大山咋神(おおやまくいのかみ) 東本宮

   
  神徳・由緒   祭神大己貴神(おおなむちのかみ)は、又の名を大国主命(おおくにぬしのみこと)という。また、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子であり、出雲大社の祭神と同神である≪⇒出雲大社の章を参照≫。祭神大山咋神(おおやまくいのかみ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の孫神であり、父神は大歳神(おおとしのかみ)である。この大神は、京都の官幣大社松尾神社と同神であるが≪⇒松尾神社の章を参照≫、常にこの山に住むので地主の神ともされる。中世、両部神道などが起こり、この神社の祭神は山王権現と称され、素戔嗚尊を牛頭天王(ごずてんのう)、八幡大神を八幡大菩薩、春日大神を春日大明神とされた。この神社には約40の社があり、そのすべての神をあわせて日吉大神とされる。摂社には、宇佐宮 田心姫神(たごりひめのかみ)、牛尾宮 大山咋神荒魂(おおやまくいのかみのあらみたま)、白山宮 菊理姫神(くくりひめのかみ)、樹下宮 鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)、三宮宮 鴨玉依姫神荒魂(かもたまよりひめのかみのあらみたま)がある。4月14日に行われる山王祭は、県内屈指の大祭で、起源は約1300年前である。1ヵ月半にわたり神輿上げ・大榊の神事・午の神事・献茶祭・花渡り・宵宮落とし・粟津の御供・神輿の還御・酉の神事・船路の御供などの祭礼が続く。
  おもな祭事

4月14日 例祭(山王祭)




  日前神宮 國懸神宮  ひのくまじんぐう くにかかすじんぐう 
鎮 座 地 640-8322 和歌山県和歌山市秋月365
  主 祭 神

日前大神(ひのくまのおおかみ)
國懸大神(くにかかすのおおかみ)

   
  神徳・由緒   日前神宮・國懸神宮は、同じ境内に鎮座する二社であり、日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し、國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀する。神代の昔、天照大御神が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の横行に憤り、天石窟(あめのいわや)に隠れると天地は常闇となった。ここに高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は八百万神(やおよろずのかみ)を天の安河原に集めて神議ったところ、このとき高皇産霊神の御子である知恵衆に優れた思兼神(おもいかねのかみ)の神策によって天照大御神を招き出した。その神策とは、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が天香山の真鉄を採り、真名鹿の皮を丸剝にして天羽鞴(あめのはぶき)を造り、天日矛(あめのひほこ)と日像(ひのみかた)の鏡を造った。しかしこの鏡は諸神の心に叶わなかったので、さらに第二の鏡を鋳ることになった。見事に出来上がった第二の鏡は、五百枝(いほえ)の真榊(まさかき)にかけられ、天太玉命(あめのふとたまのみこと)がそれを捧げ持ち、天照大御神を招き出すことができた。この最初に出来た神鏡が日前大神の御霊代であり、第二に出来た鏡が伊勢の皇大神宮の御霊代である。また、このとき造られた天日矛が國懸の大神の御霊代となった。天孫降臨のとき、天日矛と最初に作られた神鏡は共に天降り、代々宮中において斎き祀られたが、神武天皇51年に紀伊国海草郡奈久佐の濱宮に鎮座され、さらに垂仁天皇16年に至り、今の地に遷座された。これがこの社の起源である。日前神宮には、思兼命(おもいかねのみこと)、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が、國懸神宮には、玉祖命(たまおやのみこと)、明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)、鈿女命(うづめのみこと)が相殿として配祀される。この社の宮司は、紀の国造であり、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の5世の裔、天道根命(あめのみちねのみこと)より連綿として、出雲の国造千家氏と同じく日本最古の旧家である。この両宮は、古くから朝廷の崇敬が篤く、伊勢神宮同様、皇祖神として崇められた。紀伊国一宮である。
  おもな祭事

9月26日 例祭




  出雲大社  いずもたいしゃ 
鎮 座 地 699-0701 島根県出雲市大社町杵築東195
  主 祭 神

大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)

   
  神徳・由緒   祭神大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)は、又の名として大己貴神(おおなむちのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、大地主神(おおぢぬしのかみ)、葦原醜男神(あしはらのしこおのかみ)、八千戈神(やちほこのかみ)、顕国魂神(うつしくにたまのかみ)、奇甕魂神(くしかみたまのかみ)、伊和の大神などがある。これらは皆、大神の種々の御神徳によって名付けられたものである。この大神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子であり(一説に素戔嗚尊5世の孫天葺根命の御子とも言われる)、幼年時には諸兄弟に苦しめられ難を逃れて素戔嗚尊のいる根国(ねのくに)に至った。そこでもまた危難に遭ったが剛健不屈にして難に耐えたので、父である素戔嗚尊はさすがに感心し、宝の弓矢と剣を与えて国土経営を命じた。その後、大物主神は草叢を刈り払い土地を拓き、雑木を切り倒して畑とし、耕作の道を人々に教え、医薬、禁厭の法を授けて病を治し、災いを祓う道を示し、また各地に温泉を開いて人々の病苦を救い天寿を全うさせた。また諸国を巡行し、千早振る荒ぶる神共を征服し、慈愛の深い心は禽獣にも及んだ。この国土経営がようやく成ったとき、天照大御神の勅命によってこの国土は天孫に奉献された。この時、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)より神勅があり、皇孫尊は顕世(うつしよ:この世)を治め、汝は幽冥(かくりよ:あの世、黄泉)を司れ、と命ざれた。それ以来、大神は八百万神(やおよろずのかみ)を率いて皇位国家を守護することになった。このような事から、諸国の神々が出雲大社に集い神議ると言い伝えられ、一般的に10月を神無月というが、出雲国のみはこの月を逆に神在月(かみありづき)という。この大神は、前述のように功徳が実に偉大であり神威も非常に顕著である神であるため、過去において日本の新領土には、国家経営の主神として必ずこの大神が奉斎された≪⇒大神神社の章を参照≫。この社は、天照大御神がこの大神の功労を深く嘉賞し、宮殿の構造は皇居と同じくせよとの神勅により造営された。そのため他社とは異なり規模が非常に大きく、大社と称される。ちなみに、高天原より第一の勅使として天降った天穂日命(あめのほひのみこと)は、天照大御神の第二の皇子であり、太子忍穂耳尊(おしほみみのみこと)の弟で、非常に優秀であったため勅使を命ざれたが、出雲に降りその情態を窺うと大国主命の勢力は強大であった。そのため、天穂日命は平和に事を遂げようと思うあまり歳月が過ぎ、その間に大国主命も深く命を信頼するようになった。天照大御神はこれを察して、天穂日命の子孫にこの大神を永く奉斎させるように命じた。その後、天穂日命の御子である武比良鳥命(たけひらとりのみこと)より代々当社に奉仕し、そして出雲の国造となり連綿として今日まで栄える千家、北島の両氏は、日前國懸神宮の宮司である紀氏と共に日本最古の旧家である。出雲国一宮である当社の境内には、重さ1トン以上もの大注連縄が拝殿にかけられ、国宝である高さ24mの本殿が鎮まる。一説には、かつての本殿の高さは48mであったとも言われる。旧暦10月には、全国の神々が出雲に参集するといわれる稲佐の浜において神迎神事が行われる。12月27日に行われる御饌井祭では、宮司は神楽歌にあわせ榊で舞を行う。この井戸の水は11月23日の古伝新嘗祭で用いられる一夜酒・醴酒にも用いられる。6月1日に齋行される凉殿祭では、盛られた砂の上に敷かれた真菰を宮司が踏んで進むのでこの祭祀は真菰神事(まこものしんじ)とも呼ばれる。
  おもな祭事

14日 例祭  旧暦10月10日 神迎神事
12月27日 御饌井祭    1月1日 大御饌祭   1月3日 福迎祭
6月1日 凉殿祭 (真菰神事)




  宇佐神宮  うさじんぐう 
鎮 座 地 872-0102 大分県宇佐市南宇佐2859
  主 祭 神

八幡大神(はちまんおおかみ)
比売大神(ひめおおかみ)
神功皇后(じんぐうこうごう)

   
  神徳・由緒   祭神八幡大神とは、誉田別命(ほんだわけのみこと)であり、諡号(しごう)は応神天皇である。応神天皇は母后の胎中にいながら三韓を征した。後に半島の文学工芸を採用して、日本の文化の基を開いたため、文武両道の神として古来朝廷の尊信が非常に篤い神である。祭神比売大神は、天照大御神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約のときに生まれた神である。皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)を守護する勅命によってこの宇佐島に天降った神であり、宗像大社と同神である≪⇒宗像大社の章参照≫》。祭神神功皇后は、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)のことである。この三神の奉祀の由来は、欽明天皇32年、宇佐郡小椋山の麓の菱形池のほとりに、八幡大神の出現によって奉祀されたといわれる。また、比売大神は聖武天皇の天平3年、神功皇后は嵯峨天皇の弘仁11年に、神勅によりこの地に鎮座されたとされる。朝廷の崇敬も非常に篤く、国家に大事があれば必ず奉告される。全国4万余りの八幡社の総本宮であり、豊前国一宮である。境内には上宮と下宮があり、それぞれ一之御殿から三之御殿の3つの本殿が鎮座し、上宮の本殿は江戸時代の造営で国宝に指定される。この社では、二拝四拍手一拝の作法で参拝する。毎年10月には仲秋祭とよばれる放生会が行われ、全国の放生会の起源とされる。
  おもな祭事

3月18日 例祭(宇佐祭)




  霧島神宮  きりしまじんぐう 
鎮 座 地 8994201 鹿児島県霧島市霧島田口2608-5
  主 祭 神

天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひたかひこほのににぎのみこと)

   
  神徳・由緒   祭神天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひたかひこほのににぎのみこと)は、正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさやあかつかつはやひあめのおしほみのみこと)の御子であり、天照大御神の孫神にあたる。天饒石(あめにぎし)とは尊称であり、天津日高(あまつひたか)とは、天津日嗣(あまつひつぎ:皇位のこと)を継承されるという意味で大御位(おおみくらい)を称える語である。彦は男神の尊称、火瓊瓊杵は穂之丹饒(ほのににぎ)のことで、瑞穂の穂に由来し、丹とは稲穂の赤熟めることをいう。瑞穂国の万千秋の長秋と御代が愈々栄えるようにという義そのものである。天照大御神は、はじめに太子天忍穂耳尊を天より降らせ豊葦原中津国を治める御神慮であったが、瓊瓊杵尊が誕生したので父神天忍穂耳尊の代わりに瓊瓊杵尊が三種の神器を奉じて天降ることとなった。その時、中臣の祖先である天兒屋命(あめのこやねのみこと)、忌部の祖先である天太玉命(あめのふとたまのみこと)、猿女の祖先である天鈿女命(あめのうずめのみこと)、鏡作の祖先である石凝姥命(いしこりとめのみこと)、玉作の祖先である玉祖命(たまのおやのみこと)、五伴緒の神およびその他の諸神を率いて筑紫の日向の高千穂のくしふるの峰に天降った。このようにして、万世一系の皇室はここから始まったとされる。この社は鉄明天皇の御代、慶胤仙人(けいいんせんにん)がはじめてこの山を開いて奉祀されたといわれるが、その後山上にしばしば噴火があり数回遷座があった。現在の社殿は正徳5年に造営され、国の重要文化財に指定されている。明治7に現在の社号に改められ官幣大社に列された。
  おもな祭事

9月19日 例祭




  伊弉諾神宮  いざなぎじんぐう 
鎮 座 地 656-1521 兵庫県淡路市多賀740
  主 祭 神

伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)

   
  神徳・由緒   祭神伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)は、国土開闢の第一の祖神であり、この大八洲国(おおやしまくに)を生んだだけでなく、綿津見神(わたつみのかみ:海神)、級長戸神(しなどのかみ:風神)、山祇神(やまづみのかみ:山神)、句句廼馳神(くくのちのかみ:木神)、草野姫神(かやぬひめのかみ:草神)、神(おかみのかみ:雨神)その他数多の神々をはじめ、天照大御神、 月讀尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の三柱の神をうんで、世の為に尽くした神功は絶大である。神功をすでに終え、御子神である天照大御神に国土統治を託し、幽宮(かくりのみや)を淡路につくり御神霊を永くここにとどめている≪⇒多賀神社の章参照≫。『日本書紀』には、この社がその宮跡を神陵として創祀されたと記載があり、非常に古い由緒を有する。淡路国一宮である。皇室の先祖である神を祀るためその崇敬は殊に深い。1月15日の粥占神事とは、竹筒から流れ出る粥の形状によってこの年の作物の豊凶を占う太古より伝わる神事である。
  おもな祭事

4月22日 例祭    1月15日 粥占神事 




  香椎宮  かしいぐう 
鎮 座 地 811-1100 福岡県福岡市東区香椎4-16-1
  主 祭 神

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)

   
  神徳・由緒   祭神神功皇后は、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)のことであり、第14代仲哀天皇の皇后となった神である≪⇒宇佐神宮の章参照≫。開化天皇5世の孫息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の娘であり、母は新羅国王の子である天日矛から6世の孫、葛城之高額比売命(かつらぎのたかぬかひめのみこと)という≪⇒出石神社の章参照≫。皇后は諡号にあるように神功が極めて高い神であるため各地に奉祀される。この社は仲哀天皇と神功皇后の行宮(あんぐう:行幸啓の際の御泊所)であった土地に鎮座する。皇后御崩御後、450余年を経て第44代元正天皇の養老7年の託宣「我神霊を香椎の行宮の跡に祀れ、天地のあらん限り敵国を降伏させ国家を護らん」により、朝廷は西海道9ヶ国に勅命を下し宮殿が造営され、聖武天皇の神亀元年に竣工した。境内には、皇后自らが仲哀天皇を祀った古宮があり、元は香椎廟と称された。社の名である香椎は、仲哀天皇崩御の時しばらくこれを秘して喪を発せず、御尊骸を納めた棺を椎の木に懸け置くと、霊香が四方に薫じたとの言い伝えに由来するとされる。この椎木は次第に植継がれ、今なお境内の一部に神木として人々に深く崇敬される。
  おもな祭事

10月29日 例祭




  宮崎神宮  みやざきじんぐう 
鎮 座 地 880-0053  宮崎市神宮2丁目4-1
  主 祭 神

神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)

   
  神徳・由緒   祭神神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)は、第1代神武天皇の諱(いみな)である。神武天皇の幼名は、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)ともいい、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の第4子であり、母神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)である。天照大御神の5代目の天孫にあたる。神武天皇は15歳のとき宮崎で皇太子となったが、45歳のときに兄彦五瀬命をはじめ群臣を集め「西陲すでに治まりたれとも中州未だ平らかならず依って帝都を中州に遷さん」といい、船で日向を出発した。その後、天皇は難波を経て紀伊に進み、土賊を誅し、大和に入ると長髄彦(ながすねひこ)、弟猾、弟磯城を降し、橿原宮にて天皇の御位についた≪⇒橿原神宮の章参照≫。この社は、神武天皇が宮居した遺跡であり、天皇崩御の後に皇子神八井耳命の御子である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が筑紫の鎮守をしていた時この地に社殿を建て、御神霊を鎮め祀った。これが宮崎神宮の起源といわれる。当社は明治31年、有志の発起により神武天皇降誕大祭会が組織され、政府の補助と皇室の御下賜金を基礎として広く奉賛金を募った。それにより、宮殿をはじめ拝殿、神庫各種の建物を改築し、神苑を広め、規模を拡大し一段の神威を加えた。
  おもな祭事

10月26日 例祭




  橿原神宮  かしはらじんぐう 
鎮 座 地 634-0063 奈良県橿原市久米町934
  主 祭 神

神武天皇(じんむてんのう)
媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后

   
  神徳・由緒   祭神神武天皇は、宮崎神宮の章に述べたように日向を発し、安芸・難波を経て大和に入り、土豪長髄彦(ながすねひこ)を誅し天下を平定した≪⇒宮崎神宮の章参照≫。天皇は畝傍山(うねびやま)の東南、橿原に皇居を定め、事代主命(ことしろぬしのみこと)の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后にして、即位の大典を挙げた。この年が日本の紀元元年であり、天皇が即位された2月11日は建国記念日とされている。天皇は、この国家平定を、すべては天祖の威霊によることろとして鳥見山(とみのやま)に皇祖天神を祀った。天皇は崩御の後、畝傍山の東北の山陵(みささぎ)に葬られた。この皇居は何時となく荒廃して尋ねるすべもなくなったが、明治に至り当時の政治家である西内成郷(にしうちなりさと)が、神武天皇橿原宮跡の長年にわたる調査の結果、ようやくその地を確定して橿原神宮の創建に尽力した。その後明治22年に造営された社は、翌年橿原神宮と命名され官幣大社に列せられた。
  おもな祭事

2月11日 例祭(紀元祭)



  平安神宮  へいあんじんぐう 
鎮 座 地 606-8341 京都市左京区岡崎西天王町
  主 祭 神

桓武天皇(かんむてんのう)

   
  神徳・由緒   桓武天皇は、光仁天皇の御子で第50代天皇である。奈良平城の地が狭く帝都に適していないとして遷都を決めた。はじめ山城国長岡に新都を築いたが、延暦12年に至りさらに葛野愛宕の二郡に帝都を築くが、「山背(やましろ)の地は山河襟帯、自然に城をなす、その形勝の地に因り、新號を制すべし、宜しく山背を改めて、山城となすべし、子来の民、謳歌の輩、異口同辞に平安京といふ、宜しく之に従ふべし」との詔(みことのり)によって、宮殿、官省、市街が備わった。翌年10月に車駕遷幸し、神武天皇が延暦15年正月にはじめて大極殿に御して以来、明治28年まで1800年続いた。この神宮は、平安遷都1100年を記念し明治28年に創建された。京都市民は往時を追慕し、復興のために多くの同志をつのり、人々の遺志を後世に伝えるため社殿を建造した。その社殿は、桓武天皇が最も御心を留められた大極殿を模造し建築されたものである。10月22日には、平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事である時代祭が執り行われる。また、明治時代、江戸時代、安土桃山時代、室町時代、吉野時代、鎌倉時代、藤原時代など延暦以降の装束などを身につけた市民の有志者が行列をなす。
  おもな祭事

4月15日 例祭




  氣比神宮  けひじんぐう 
鎮 座 地 914-0075 福井県敦賀市曙町11-68
  主 祭 神

伊奢沙別命 (いざさわけのみこと)

   
  神徳・由緒   祭神伊奢沙別命 (いざさわけのみこと)とは、御食津大神(みけつのおおかみ)であり、氣比とは食飯の義である。この神は太古よりこの地に鎮座する。文武天皇2年8月、仲哀天皇・神功皇后を配祀し、その後日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、玉妃命(たまひめのみこと)、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)をも合祀して7柱の大神となった。仲哀天皇2年2月、天皇は皇后と共にこの地に行幸啓があり行宮(あんぐう:仮の宮)を造り、親しく氣比大神(けひのおおかみ)を祀り、三韓征伐の祈願がされた。天皇は熊襲(くまそ)の反乱を鎮めるために筑紫に自ら軍を率いて遠征したとき、行宮にて皇后および武内宿禰、阿曇連(あつみのむらじ)らの重臣を集めて「敦賀へ行き笥飯(けひ)の大神を祀れ」と命じた。そこで皇后は、妹である玉妃命、大臣、大連らを従えて敦賀に向かい大神を祀ったところ、大神は玉妃命に「天皇決して憂ふることなかれ、新羅を征せば賊は自ら帰順せん」と託宣した。皇后は畏んで筑紫に戻りこれを天皇に奉告したが、天皇は決心できずにまもなく崩御された。皇后は喪を秘して神勅のままに三韓を征討した。応神天皇は深く母の神勅を感じ、武内宿禰を従えて仮の宮を営んでしばらく滞在し、親しく参拝した。御食津大神とは、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)であり五穀を守り飢餓の憂いを除き、また機織、養蚕などの業までも幸う神であるがゆえに、朝廷の尊崇も一層深い。正保2年(1645年)に造営された大鳥居は、春日大社・厳島神社と共に日本三代鳥居の一つである。9月2日~15日の例祭「氣比の長祭」では、屋形の上に鳳凰(ほうおう)を飾った鳳輦(ほうれん)や、神輿、山車で市内がにぎわう。越前国の一宮である。
  おもな祭事

9月4日 例祭




  鹿兒島神宮  かごしまじんぐう 
鎮 座 地 899-5116 鹿児島県霧島市隼人町内2496-1
  主 祭 神

天津日高彦穂々出見尊 (あまつひたかひこほほでみのみこと)

   
  神徳・由緒   祭神天津日高彦穂々出見尊 (あまつひたかひこほほでみのみこと) は、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の第二の皇子であって、山の幸を得る故に山幸彦(やまさちひこ)ともいいう。兄神である火照命(ほてりのみこと)は、海の幸を得る故に海幸彦(うみさちひこ)という。ある時、兄弟で弓矢と釣りを交換したが共に収獲なく、兄は弓矢を弟に返したが、弟は兄の釣りを海中で失くしてしまった。兄はその釣り鉤を厳しく督促したので、弟の尊は佩いていた十握剣を毀して数多くの釣りを作ったが、兄はそれを受け取らず更に返却を迫った。弟の尊は深く憂い、悄然として海辺をさまよっていると、塩椎の翁(しおづちのおきな:塩椎神)が現れ来て、悲しむ理由を聞いた。すると事の経緯を聞いた翁は、尊を導き海神(わたつみのかみ)の宮に至った。海神は大変喜び尊を厚くもてなし、尊はそこで海神の娘である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と結婚することとなり三年の月日が過ぎた。しかし尊はこのままではいけないと、海神に釣りのありかを尋ねると、海神は多くの魚族を集めた。そして、釣りを呑み込んだ魚からそのを取り、尊に渡した。その魚が鯔(なよし)であったことから、後に神饌に上る光栄を失い、一切供えられないこととなったといわれる。ところで尊は、海神の宮から帰って釣りを兄に返し、その後に天津日嗣(あまつひつぎ:天皇の位)を継ぐこととなった。この宮は、神武天皇が創建したものであるが、欽明天皇の朝に仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇の四柱が合祀された。中世には八幡大菩薩と称された時期があったが、明治維新の際に旧記に復された。薩摩藩島津家から崇敬をうけたこの宮は、霧島市隼人町に鎮座する。その町名は大和朝廷に服従せずに反乱した隼人族に由来し、その一族は日本武尊(やまとたけるのみこと)に平定された熊襲(くまそ)族と同一部族と考えられている。旧暦8月15日の例祭で奉納される隼人舞は、大和朝廷に服従した隼人族が宮廷警護の任につくために都に向う様子を表わしたものである。大隅国の一宮である。
  おもな祭事

旧暦8月15日 例祭




  鵜戸神宮  うどじんぐう 
鎮 座 地 887-0101 宮崎県日南市大字宮浦3232
  主 祭 神

日子波瀲武鵜葦草葦不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

   
  神徳・由緒   祭神日子波瀲武鵜葦草葦不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、彦穂々出見尊 (ひこほほでみのみこと)の御子神であり、神武天皇の父である。父神彦穂々出見尊は、海神宮(わたつみのみや)に至り、そこで豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と結婚した≪⇒鹿兒島神宮の章参照≫。程なく尊が筑紫に帰ったが、そのときすでに皇位を継ぐ御子を妊んでいた姫は、異郷で産むことは恐れ多いと尊の後を追って来た。尊は産屋(うぶや)を作らせ鵜羽(うのはね)で屋根を葺いたが、未だに葺き終わらないうちに姫は産気づき産屋に入った。姫は、産屋を出るまで決して覗き見ないようにと尊に伝えたが、尊はこれを怪しんで密かに見てしまうと、それに気がついた姫は大変恥じて、ついに御子のみを残して海神宮に帰ってしまった。その遺跡と伝えられるところが、鵜戸山の海岸、奇岩、怪石の峙つ(そばだつ)ところ、東南に向い開く天然の一大岩窟(いわや)である。その内部は約40メートル弱、南北約30メートル、高さ約9メートル弱の広さで、まさにここが葦不合尊降誕の霊地であるとされる。この宮は第10代崇神天皇の朝に創建され、第34代推古天皇の御代に社殿が造営されたとされる。その後第50代桓武天皇延暦元年には、天台宗の僧が社殿寺院を建立し「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」となり神仏混合の時代を経て、明治維新と共に社号が改められ鵜戸神社となり、明治28年には官幣大社に列され鵜戸神宮となった。
  おもな祭事

2月1日 例祭




  富士山本宮浅間大社  ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ 
鎮 座 地 418-0067 静岡県富士宮市宮町1-1
  主 祭 神

木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)

   
  神徳・由緒   祭神木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)は、又の名を神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、櫻大刀自神(さくらおおとじのかみ)ともいい、大山祇命(おおやまづみのみこと)の次女である。また、天孫瓊々杵尊の后妃となり彦穂々出見尊 (ひこほほでみのみこと・山幸彦:やまさちひこ)、火照命(ほてりのみこと・海幸彦:うみさちひこ)の二皇子を産んだ神としても知られる≪⇒鹿兒島神宮の章参照≫。瓊々杵尊がこの姫を娶ろうと父神である大山祇命に問いた時、大山祇命は結婚を許可する条件としてその姫の姉も共に娶るように言った。その姉とは磐長姫命(いわながひめのみこと)であり、無類の醜貌であったため瓊々杵尊はこの姉を嫌って近づけなかった。すると磐長姫命はこれを恥じて怨み、ついに宮を去った。怒った父神は「吾の皇孫に二女を奉りしは、兄姫の磐は、磐石の如く、常磐(ときは)堅磐(かきは)に栄えまし、長は御壽の長久を祈らん為の意なりしに、今弟姫のみを留めたまふは、木花の一時に咲き出でて美を誇るも、しばしにて色衰え、命長からざるを如何せん」と言い、それ以後人の命がこのために非常に短くなったと言い伝えられる。この父神大山祇命は、山を司る神であるが故に高峰富士山を殊に愛でていたが、後に木花之佐久夜毘売命がこの山を譲り受けた。そしてこの山に幽宮(かくりのみや)を営み、そこに鎮まり東海を見下ろし、毅然として萬山を圧倒する威容は、まさに東方の鎮護神である。多くの人々が、その崇高雄大なる威霊を仰ぎ尊ぶ。この神社は、全山をもって御神体とされ山麓の富士宮市に鎮座する。全国1300の浅間神社の起源とされる。富士山8合目より上が境内地で、山頂には奥飲宮、噴火口には内院がある。平城天皇の大同元年、坂上田村麻呂が勅を奉じて社殿を今の地に造営し、現在の本殿は徳川家康の造営である。5月に行われる流鏑馬(やぶさめ)祭は、源頼朝が富士の裾野で巻狩(まきがり:多人数で獲物を取り囲んでおこなう狩猟で、中世に将軍・大名などの権力者がおこなった)を奉納したことが起源といわれる。
  おもな祭事

11月3日~5日 例祭




  建部大社  たけべたいしゃ 
鎮 座 地 520-2132 滋賀県大津市神領1-16-1
  主 祭 神

日本武尊(やまとたけるのみこと)

   
  神徳・由緒   祭神日本武尊は、人皇第十二代景行天皇の第二子であり、第十四代仲哀天皇の父にあたる。日本武尊は、東夷征討の帰路、伊勢の能褒野において薨去した。父である景行天皇はこのことを歎き、臣下を遣わし、厚く之を葬ったところ、その御陵から白鳥が飛び出て倭の方に飛び去った。これを怪しんだ臣下は、柩を開けて見たところ衣のみが残っており御遺骸はなかった。そのため白鳥の跡を追い、倭の琴弾原に御陵を作った。しかし、またしても白鳥が飛び去り、河内國古市に止まった。そのためこの場所にもまた御陵を作って奉った。建部大社の草創は、日本武尊の父である景行天皇が、尊の功績を讃え、神霊を祀るために、近江國神崎郡建部に創建したのが始まりである。その後天武天皇白鳳4年、近江国の瀬田の大野山頂に一度遷座したが、考謙天皇の天平勝寶7年に大野山の麓に遷して祀った。また、近江の国の一宮として、歴代の朝廷や一般の人々の尊信篤く、武功の御神として広く、その神徳が知られ現在にいたる。日本武尊の海路東征に由来する8月の納涼船幸祭は、約20隻の船団を従えた大神輿が瀬田川を渡御し、還御するときには出迎えの花火が打ち上げられる盛大な祭りで、大津三大祭の一つである。
  おもな祭事

4月15日 例祭




  北海道神宮  ほっかいどうじんぐう 
鎮 座 地

064-8505 北海道札幌市中央区宮ヶ丘474

  主 祭 神

大国魂神 (おおくにたまのかみ)
大那牟遅神(おおなむちのかみ) 
少彦名神 (すくなひこなのかみ)
明治天皇 (めいじてんのう) 

   
  神徳・由緒   祭神大国魂神 (おおくにたまのかみ)は大和神社に、大那牟遅神(おおなむちのかみ)は出雲大社に、少彦名神 (すくなひこなのかみ)は酒列磯前神社に鎮座する神々である≪⇒大和神社出雲大社、酒列磯前神社の章参照≫。いずれも国土経営と万民保護の御神徳の高い神々であるため、明治維新の際、この三柱の大神を北海道に遷座して全道開拓の守護と日本の北門の鎮護として仰ぎ祀られるようになった。この宮は、明治2年に開拓使仮庁内に鎮座され、明治4年に現在の円山の地に遷された。社格は国幣小社であったが、明治32年には累進して官幣大社に列せられた。昭和39年には、西洋の文明を取り入れて現在に至る日本の礎を築いた明治天皇が祭神に加えられ、社号が札幌神社から現在の北海道神宮に改められた。
  おもな祭事

6月15日 例祭(札幌まつり)




  宗像大社  むなかたたいしゃ
鎮 座 地

811-3505 福岡県宗像市田島2331

  主 祭 神

田心姫神(たごりひめのかみ)
湍津姫神(たぎつひめのかみ)
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)

   
  神徳・由緒   祭神田心姫神(たごりひめのかみ)湍津姫神(たぎつひめのかみ)市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)は、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の娘である。素戔嗚尊が父神によって国から追放されるとき、姉神である天照大御神に別れの挨拶をするために天上にのぼったが、天照大御神は弟神が高天原に攻め入るのではと疑い武装して待ち構えた。これを見た素戔嗚尊は、この疑いを晴らすべく誓約(うけい)を行った。誓約によって子を産み、もし女ならば天照大御神が正しく、男であれば素戔嗚尊の潔白が証明されるとした。そこで二神は天安河において、まず天照大御神が素戔嗚尊の佩く十握の剣(とつかのつるぎ)を取り三段に打ち折り、天真名井(あまのまない)にふりすすぎ、これを口に含んで吹き出したときに生まれた神が、この田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神の三女神であった。次に素戔嗚尊が、天照大御神の頭に飾られていた曲玉を受けて口に含み、吐き出した息から五男神、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野久須毘命(くまののくすびこのみこと)が生まれた≪⇒八坂神社の章参照≫。このようにして、素戔嗚尊の潔白が証明された。この五男神は天照大御神が持っていた曲玉から生まれたので天照大御神の子となり、三女神は素戔嗚尊の持っていた剣から生まれたので素戔嗚尊が授かることとなった。その後、三女神は天照大御神の勅命により葦原中国に天降り、国土の経営に尽力した。天孫降臨後は皇位を守護し、神功皇后征韓の際には特に神助を副えられた神であり、神徳が非常に高いため歴代天皇の御尊崇が深い。この社では、三女神が各身形のしるしとして、田心姫神は沖ノ島の沖津宮に青の玉、湍津姫神は大島の中津宮に八尺絮、市杵島姫神は田島の辺津宮に八咫鏡を留めおいて身を隠したので、当初は身形郡身形社(むなかたこおりむなかたやしろ)と呼ばれていた≪⇒田島神社の章参照≫。その後、宗像郡宗像社と改められた。
  おもな祭事

10月1日~3日 秋季大祭




  吉野神宮  よしのじんぐう
鎮 座 地

639-3115 吉野郡吉野町吉野山3226

  主 祭 神

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

   
  神徳・由緒   後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、後宇多天皇(ごうたてんのう)の第二の皇子であり、御諱(いみな)を尊治(たかはる)という。30歳で第95代の帝位に即位した。王権の衰微を憂いた天皇は北条氏の専横に憤り、意を決して兵を挙げたが利を失い捕らえられ隠岐に遷された。その後、天皇は隠岐を逃れて船上山にて挙兵し、幕府を倒して王政を復していわゆる建武の新政をおこした。間もなく、味方についていた足利尊氏が反して天下は大いに乱れ、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。足利軍が入京して幕府を再興する中、天皇は抵抗するものの天運は遂に至らず、吉野にて後村上天皇に譲位したのち崩御した。この吉野は日本一の桜の名所で、「吉野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり」、「来て見れば聞きしにまさる吉野山」、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」などと謳われた。この宮は、後村上天皇が父帝のご冥福を祈り、勅して御尊像を奉り、当地の吉水院に安置されたものを、明治維新の神仏習合の禁令により御尊像が遷され吉水神社と称されたが、社格が村社とわずかであったことを吉野郡民が嘆いて政府当局に昇格を請願した。明治22年6月28日をもって官幣中社に、更に明治34年8月8日に昇格して官幣大社に列された。また、大正7年には、神宮の号が吉野神宮と改称された。
  おもな祭事

9月27日 例祭



  月山神社  がっさんじんじゃ
鎮 座 地

999-6609 山形県東田川郡庄内町立谷沢本沢31

  主 祭 神

月読命(つくよみのみこと)

   
  神徳・由緒   月読命(つくよみのみこと)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子であり、天照大御神の弟神である素戔嗚尊(すさのをのみこと)の兄神である。伊弉諾尊と伊弉冉尊が大八洲国(おおやしまくに:日本のこと)、山、川、草、木などの主神を産んだ後、日の神・大日貴尊(おおひみこむちのみこと:天照大御神)を産み、次に日と並んで天上を治める月の神・月読命を産んだ。この神社は、海抜1984mの月山頂上にある岩石の間に奉祀される。月山は湯殿山・羽黒山と並称して出羽三山(でわさんざん)と呼ばれ、それぞれの山頂に神社がある。崇峻天皇の第3皇子である蜂子皇子が推古天皇元年に羽黒山を開山し、そこに神社を創建したとされ、皇子は羽黒山頂に月山、湯殿山の両神を勧進して羽黒三所大権現と称した。延喜式によると名神大社であったこの神社は、真言宗、天台宗と神仏習合の時代を経て本来の姿である神霊が鎮まる神社に復された。明治維新の際には国幣中社となり、後に官幣中社に進んで大正3年1月4日に更に昇格して官幣大社に列せられた。現在ではそれぞれの山頂に鎮座する神社を総称して出羽三山神社とされ、夏時には白衣の道者が登山する山岳信仰の場で全国に知られる東北第一の鎮護神である。
  おもな祭事

7月15日 例祭




  多賀大社  たがたいしゃ
鎮 座 地

522-0341 滋賀県犬上郡多賀町604

  主 祭 神

伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)

   
  神徳・由緒   伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)は、大八洲国(おおやしまくに:日本の国土)を産んだのち、天照大御神、月読尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の三柱の神を産んだ。伊邪那美大神が黄泉国(よもつくに:死の国)に行き、伊邪那岐大神は淡海(近江国のこと)の多賀に幽宮(かくりのみや)を造営し、そこに御神霊を鎮めた。この社は、天照大御神の親神が鎮まるため歴代朝廷の尊崇が非常に篤い。過去には毎年伊勢の神宮と等しく御代拝(ごだいはい:天皇の代理として祭祀をすること)を参向させるのが恒例であったため、その通路を御代拝街道または御代参街道(江戸時代の多賀大社-伊勢間の街道 多賀大社から東海道土山宿まで)と呼ぶようになった。「伊勢に七度、熊野に三度、御多賀様へは月参り」、「伊勢へ参らば御多賀へ参れ御多賀の子ぢや孫ぢや」とある程に、この社は古来老若男女が参拝する御神徳が高い宮である。元は官幣中社であったが、大正3年1月4日に昇格して官幣大社に列せられた。毎年8月3日~5日の万灯祭(まんとうさい)は、黄泉国の大神となって人々の祖先の御霊を守護する伊邪那美大神に感謝を捧げる祭祀である。献灯数は1万2千にも及び、湖国の夏の風物詩として知られる。
  おもな祭事

4月22日 例祭(多賀まつり)




  阿蘇神社  あそじんじゃ
鎮 座 地

869-2612 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083

  主 祭 神

健磐龍命(たけいわたつのみこと)
阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)

   
  神徳・由緒   この神社には、阿蘇十二神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)、阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)、国龍神(くにたつのかみ)、比咩御子神(ひめみこのかみ)、彦御子神(ひこみこのかみ)、若比咩神(わかひめのかみ)、新彦神(にいひこのかみ)、新比咩神(にいひめのかみ)、若彦神(わかひこのかみ)、弥比咩神(やひめのかみ)、速瓶玉命(はやみかたまのみこと)、金凝神(かなこりのかみ)が祀られる。一宮に鎮まる健磐龍命は、神武天皇第二の皇子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)の御子、阿蘇都比咩命はその妃であり、その他の10柱の神はみなその血縁にあたる。健磐龍命は、神武天皇の勅命を受けて九州鎮護のため筑紫に下った。阿蘇火口湖を開拓して田をつくり、住民に農耕畜産の法を教え、やがて御神霊をこの地に鎮めた。人々はみな国土開闢の祖神として尊び、篤く尊信する大神である。その御子である速瓶玉命によって社が建てられ、王妃である阿蘇都比咩命と合わせて祀ったのがこの神社の起源とさる。創建は孝霊天皇9月とも、また一説には綏靖天皇9月とも言われる。古来朝廷の崇敬が厚く、延喜式では名神大社とされ、肥後国の一宮である。広大な社領を有し中世には武将にも崇敬されたが、豊臣秀吉により社領を没収されその勢いは衰退した。明治維新の際は官幣中社に列せられたが、大正3年1月4日をもって官幣大社へと昇格した。境内には高さ21mの大楼門があり、神社ではめずらしい二層屋根で日本三大楼門のひとつとされる。南北に走る130mほどの参道は、毎年9月の田の実神事の流鏑馬の場となる。6月5日の雷除祭は、黄泉国(よもつくに:死後の世界)で雷神に追われた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、桃の実を投げつけて撃退したという古事記の神話に由来する雷を避ける神事である。7月の御田植神幸式(おんだ祭)は国の重要無形民俗文化財に指定される。7月28日には、神饌を入れた飯櫃(いいびつ)を頭上にのせて運ぶ白装束の女性(宇奈利:うなり)が水田の間を進む姿がみられる。
  おもな祭事  7月28日 例祭(御田植神幸式:おんだ祭)
 6月5日  雷除祭



  筥崎宮  はこざきぐう
鎮 座 地

812-8655 福岡市東区箱崎1-22-1

  主 祭 神 応神天皇(おうじんてんのう)
   
  神徳・由緒   応神天皇(おうじんてんのう)は、母后である神功皇后の胎内にいながら三韓を征したことから、武神として朝廷の尊信の篤い神である。また、百済から文学を輸入して日本学問の基を開き、次いで大陸から呉織綾織を取りいれて日本の殖産興業の道を開いたことから、文化の御功徳が一段に高い神である≪⇒石清水八幡宮の章参照≫。神功皇后が三韓から凱旋し、御座所を営んだ筑紫の蚊田村において応神天皇が誕生した。御胞衣(おえな:胎盤とへその緒)を筥(はこ)に納めて埋め、その標しとして松を植えた。その松は、現在では神木の筥松として知られる。この地は元葦津浦と称されたが筥崎と改められ、天平宝字年間に社殿が創建された。その後延喜21年、太宰少弐真材朝臣に御神託「外冦(がいこう)のことあらば神威をもって降伏せしむべし。依って敵国降伏の四文字を床下に蔵(おさ)むべし」があり、醍醐天皇(だいごてんのう)はこの御神託を聞き入れ、「敵国降伏」の4文字の御親書をこの神殿に納めた。その後外交の事あるごとに朝廷は勅使を遣わせて奉幣、祈祷をさせたといわれる。新羅船の来冦(らいこう)や蒙古軍の来襲などの歴史からも、朝鮮半島からほど近い地理的側面からも、古くから博多は国家防衛の最前線であった。そのためこの御祭神はまさに西国鎮守の神といえる。また、筥崎宮は筥崎八幡宮ともいわれ、宇佐神宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮とされる。筑前国の一宮。1月3日の玉取祭は、玉に触れると悪事災難をのがれ幸運を授かると伝わることから、裸の競り子たちが水を浴びながら陽玉を激しく奪い合う神事である。
  おもな祭事 9月12日~18日 放生会大祭(仲秋大祭)
1月3日 玉取祭



  八坂神社  やさかじんじゃ
鎮 座 地

605-0073 京都市東山区祇園町北側625番地

  主 祭 神 素戔嗚尊 (すさのをのみこと)
櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
八柱御子神(やはしらのみこがみ)
   
  神徳・由緒  祭神素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、国造(くにつくり)の大神である大国主神をはじめこの国土を経営してきた多くの神々の父神であり、また自ら八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した武勇絶倫の神である。祭神櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)は、素戔嗚尊の皇妃であり、国津神である足名椎命・手名椎命(あしなづち・てなづちのみこと)娘である。八柱御子神(やはしらのみこがみ)とは、天照大御神と素戔嗚尊が天の安河において誓約:うけい≪⇒宗像大社の由緒を参照≫されたときに生まれた神々であり、5男神、3女神を合わせた名である。この5男神の第一は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)で天日嗣(あまつひつぎ:皇位後継者)となった。つぎの天穂日命(あめのほひのみこと)は、出雲国造、武蔵国造、遠江国造などの祖神である。天津彦根命(あまつひこねのみこと)は、河内国造、山背国造、周防国造、蒲生稲置などの祖神である。つぎに活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)は、各地の国造、縣主などの祖神である。3女神については、田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と呼ばれる筑紫の宗像大社、田島神社、安芸の厳島神社などに祀られる神々である≪⇒宗像大社の章参照≫。中世の神仏習合の際、素戔嗚尊が武勇の大神であることから祇園精舎の守護神として牛頭天王と称され、また他の神々をもそれぞれ仏法の守護神とされたが、明治維新と共にそれらの説は廃され、元の正祀に復された。この社は、社伝によると斉明天皇2年の創祀とされ、また一説には貞観18年播磨国廣蜂からの奉遷されたといわれる。この神社は延喜式外の神社≪⇒社格の起源の章参照≫であったが、歴代朝廷の尊崇が非常に篤く、後三條天皇以降にはしばしば行幸があり、天災地変があれば奉幣があった。全国に約3千の分社が存在し、広く崇敬される神である。
  おもな祭事  6月15日 例祭
 7月1日~31日 祇園祭



  日枝神社  ひえじんじゃ
鎮 座 地

100-0014 東京都千代田区永田町2丁目105

  主 祭 神

大山咋神(おほやまくひのかみ)

   
  神徳・由緒

 祭神大山咋神(おおやまくひのかみ)は、又の名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)といい、大年神(おおとしのかみ)の御子であり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の孫神にあたる。京都の官幣大社松尾大社、近江の官幣大社日吉大社と全くの御同神である≪⇒松尾大社日吉大社の章参照≫。相殿には国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと:仲哀天皇)の3柱の神が配祀される。この神社は、長禄年中太田持資道道灌(おおたもちすけにゅうどうどうかん)が江戸城を築き、近江の日吉神社(現在の日吉大社)の御分霊を場内紅葉山に奉遷し(川越に鎮座する山王宮から再勧請)、江戸城の守護神として崇め祀ったことが起源とされる。慶長年中には、徳川秀忠が江戸城の西の山王台に奉遷し、神領百石を献じた。これにより三代将軍徳川家光は、日本橋より西を当神社の氏子と定め、神田より東を神田明神の氏子と定めた。両社が隔年で大祭を行うこの祭礼は、実に江戸時代の名物の一つとなった。

  おもな祭事  6月15日 例祭 



  竈山神社  かまやまじんじゃ
鎮 座 地

641-0004 和歌山県和歌山市和田438番地

  主 祭 神

彦五瀬命(ひこいつせのみこと)

   
  神徳・由緒

 祭神彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は、鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の御子であり、第一代神武天皇の皇兄にあたる。彦五瀬命は、神武天皇と共に船を率いて筑紫を出発し、安芸を経て難波に至り、まさに大和に入ろうとしたとき、長髄彦(ながすねひこ)が孔舎衙(くさか)坂において皇軍を遮った。彦五瀬命は、流れ矢にあたり負傷したので退き、血沼の海(ちぬまのうみ:現在の大阪湾といわれる)に至り痛手の血を洗った。これが血沼の海の語源とされ、血沼は大阪府の茅渟とも書く。さて、皇軍は進路を変え、紀伊から大和に入ろうとし、紀国雄水門(きのくにおのみなと)から竈山へ向かったが、この地で薨去された。この神社は、彦五瀬命を葬った御陵といわれる場所の前方に鎮座する。明治18年に官幣中社に列せられ、大正4年には官幣大社に昇格した。

  おもな祭事  10月15日 例祭 



  熊野本宮大社  くまのほんぐうたいしゃ
鎮 座 地

641-1731 和歌山県田辺市本宮町本宮1100

  主 祭 神

家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)

   
  神徳・由緒

 祭神は、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)、熊野牟須美大神(くまのふすみのおおかみ)、速玉之男神(はやたまおのかみ)である。家都美御子大神とは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名であり、家都という字は木津に相当する(津は、「の」と同じく助詞である)。この大神の植林の御功績によってついた名である。素戔嗚尊が天上から数多くの木種を持ってきて、御子である五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命(つまつひめのみこと)にその木種を植えさせたところよく繁殖したので、この国の古名は「木の国」となった。後の制令によって国名を二字の漢字で表わすようになると、伊の字を加えて紀伊というようになった。祭神熊野牟須美大神は、天照大御神が素戔嗚尊と天安河において誓約≪うけい⇒宗像大社の章・神徳・由来を参照≫のときに生まれた大神の第5子である。祭神速玉之男神は、伊弉諾尊が妻の伊弉冉尊を追って黄泉国(よもつくに:死の国)に至り、その後帰ろうと絶妻の誓い(ことどのちかい:絶縁)をしたときに生まれた神であり、官幣小社波上宮に奉斎される神である。この社は、第10代崇神天皇の御代に創建され出雲の熊野大社を遷し祀るもので、景行天皇の御代に修築が加えられた。中世以来、祭祀は僧侶が行い当社を熊野権現と称して、本宮を証誠殿(しょうじょうでん)とよび、那智・新宮を両権現と称して、本宮をあわせて熊野三所権現、または熊野三山とも呼ばれた。さらに、末社の神である若王子以下9社を加えて十二社権現とよび、神威霊光は荘厳なる社殿は全国に知られ、朝廷の尊崇も極めて篤く、古来天皇皇后の行幸啓(ぎょうこうけい:天皇皇后両陛下が一緒に外出されること)が数多くあった(熊野御幸)。一般の崇敬も非常に篤く、伊勢の神宮に参拝する者は大抵この社に参拝したとされ、その様子は「蟻の熊野詣」とよばれたほどであった。この神社は、はじめ浮島ヶ原に鎮座していたが、明治22年熊野川大洪水で上四社以外はことごとく流失したので、明治24年3月に上四社を現在の地に遷座して摂社末社が合祀された。1月7日に行われる八咫烏神事(やたがらすしんじ)は、神門前に飾った門松で作った熊野牛王宝印を火と水とで祓い清める特殊神事である。

  おもな祭事

4月15日 本殿祭




  熊野速玉大社  くまのはやたまたいしゃ
鎮 座 地

647-0003 和歌山県新宮市新宮1番地

  主 祭 神

熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)

   
  神徳・由緒

 祭神熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)は、当社において伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)とされる。一説によると熊野速玉大神は、黄泉比良坂(よもつひらさか:生と死の境の地)にて、伊邪那岐伊邪那美の二柱の神が絶妻の誓(ことどのちかい:絶縁)をしたときに生まれた神であるともいわれる。また熊野夫須美大神は、天照大御神が素戔嗚尊と天安河において誓約≪うけい⇒宗像大社の章・神徳・由来を参照≫のときに生まれた大神であるともいわれる。この神社の創建は不詳であるが、社伝には景行天皇58年に社殿を造営された延喜式内≪⇒社格の起源の章参照≫》の名神大社である。熊野新宮ともいわれ十二社権現≪⇒熊野本宮大社の章参照≫の一つに数えられ、朝廷の尊崇も非常に篤く霊験顕著な御社であるといわれた。歴代天皇では、仁徳天皇をはじめ天武、平城、清和、宇多、華山、堀河、白河、鳥羽、後鳥羽、土御門、後嵯峨、亀山天皇の行幸が相次いだ。社殿の造営は、源頼朝、豊臣秀吉、徳川吉宗、徳川家定らがしばしば修築を施し壮麗を極めたが、明治16年に社殿が火災に遭い規模が縮小した。幸い神宝を納めた宝蔵および神輿殿は火災を逃れたため、国宝として保存される古神宝類が現存する。秦の始皇帝の命により、不老不死の薬を求め東海に至った秦人がこの地へ漂着した際に奉納したと伝えられる唐鞍、轡(くつわ)、壺鐙(つぼあぶみ)や、嵯峨天皇により奉納された剣が2腰、後土御門天皇により進献された和歌3巻は金蒔絵三重之箱に納められる。その他代々朝廷より奉納された梨子地金蒔絵の箱に納められた鏡35面など多数ある。例大祭は10月15~16日に行われ、神輿を船に乗せ海上を渡御し御船島という磯辺の小島に渡った後、還御する。この神社は延喜式内の名神大社であったが、明治4年社格制定の際に県社に列せられた。大正に至って霊社(霊験のあらたかな神社)であることがみとめられ一躍して官幣大社に昇格した。

  おもな祭事

 10月15~16日 例大祭




  諏訪大社  すわたいしゃ
鎮 座 地

上社本宮:〒392-0015 長野県諏訪市中洲宮山 1
上社前宮〒
391-0013 長野県茅野市宮川2030

下社秋宮:〒393-0052 長野県下諏訪郡下諏訪町5828
下社春宮 〒
393-0092 長野県諏訪郡下諏訪町193

  主 祭 神

建御名方神(たけみなかたのかみ)
八坂刀売神(やさかとめのかみ)

   
  神徳・由緒

 祭神建御名方神(たけみなかたのかみ)は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の御子であり、事代主神(ことしろぬしのかみ)の弟神にあたる。八坂刀売神(やさかとめのかみ)は、この神の正妃である。天孫降臨に先立って香取、鹿島の二神が出雲に降ったとき、父神である大国主神に対してこの国土を天孫に奉献するべしとの天照大御神の勅命を伝えた。兄神である事代主神は、直ちにこれを承諾するが、この神は意義を唱えながらも後に諏訪に退いて天照大御神の勅命に従うことを約束した≪⇒香取神宮鹿島神宮の章参照≫。その後この神は、この地方の開拓に着手し、猛獣・毒蛇を征伐して民に農耕の業を教え、養蚕の法をも伝えた。この神徳から耕作の神として信仰され、人々はこの神に五穀の豊穣を祈願するようになった。この神社創建についての詳細は不明であるが、神功皇后三韓征討のときには、この神社の大神と住吉大神を船中に祀ったことからそれより以前のことであることがわかる。また坂上田村麻呂東夷征討の際、この神社に祈願して功を奏したとされ、その神徳を朝廷に奏上したところ多数の社地が寄附された。歴代朝廷の尊崇が篤い御社である。上社と下社の間に位置する諏訪湖では、冬季に湖水が結氷して山脈のように盛り上がる「御神渡り」が有名である。7年ごとの寅と申の年に行われる「御柱際」は、平安初期より以前から行われていたと伝えられる。正式には「式年造営御柱大祭」と呼ばれ、7年ごとに宝殿を新築し、社殿の四隅にある大木を建て替える。12月27日には神職が1年間のすすを払う煤払神事が行われ正月を迎える準備を整える。同日上社本宮にて引き続き行われる石送神事では、1年間の災いを石に託して伊勢神宮遥拝所前の玉垣の中に投げ入れる。1月1日に上社で行われる蛙狩神事では、本宮前の御手洗川の氷を砕き捕らえた蛙を神前に供える。引き続き行われる御頭御占神事では、その年に行われる諸祭儀に奉仕する地区、御頭郷を選定される。1月15日に下社春宮で行われる筒粥神事は、筒粥殿で米、小豆、葦の筒を一晩炊き、十五日未明に筒を割り中の粥の状態で豊凶を占う。信濃国の一宮。

  おもな祭事

4月15日 例大祭(上社) 8月1日 例大祭(下社)
12月27日 石送神事(上社)
1月1日 蛙狩神事  1月15日 筒粥神事




  明治神宮  めいじじんぐう
鎮 座 地

1518557 東京都渋谷区代々木神園町1-1

  主 祭 神

明治天皇(めいじてんのう)
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)

   
  神徳・由緒

 祭神明治天皇(めいじてんのう)は、孝明天皇第2子の皇子であり、諱(いみな)は睦仁(むつひと)である。17歳で第121代の帝位に即位した。明治天皇は、幕府の政権奉還を受けて約700年間の武人による政権を皇室に復した、いわゆる王政復古の大業を成した。次いで、西洋の文明を採択して庶政を更新し、教育を振作し、産業を奨励して国富の増進をはかった。明治22年には帝国憲法を発布して立憲国の礎を定めた。日清、日露の両大戦に勝利して国の地位を進めた。明治天皇の御代には、学術、工芸、殖産等の事業が驚くべき進歩をとげ、各制度はますます整い、まさに東洋第一の神祇を尊崇し、国運の隆昌を祈願した。勅詠に

神代よりうけしたからをまもりにて 治めきにけり日の本の国

古へのふみ見るたびにおもふかな おのが治むる国はいかにと

目に見えぬ神の心にかよふこそ 人のこころの誠なりけり

明治45年7月30日、病のため崩御され、伏見桃山の山陵に葬られた。祭神昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は、明治天皇崩御された翌々年大正3年4月10日に病のため崩御された。この宮は、明治天皇の御聖徳を永遠に奉るために創建された。この社域は、元御料地であった代々木原を内苑として流れ造り神殿をはじめ、拝殿、勅使殿、神門、直会殿等を造営した。また元青山練兵場を外苑とし、各種記念建築物を造営した。大正4年度より着工、大正9年に竣工した。この宮は官幣大社に列される。また勅祭社≪⇒勅祭社の章参照≫でもある。

  おもな祭事

 11月3日 例祭(明治天皇御生誕日)




  丹生都比賣神社  にうつひめじんじゃ
鎮 座 地

649-7141 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野 230

  主 祭 神

丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)

   
  神徳・由緒

 祭神丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)は天照大御神の妹神であり、亦の名を稚日女尊(わかひるめのみこと)ともいう。丹の語義は朱砂の朱を意味しており、水銀の神、水源の神ともされる。この土地から出た全国の朱砂を支配する一族がこの神を祀ったといわれる。御子の高野御子大神(たかののみこのおおかみ)とともに降臨し、巡歴の後この天野原に鎮座した。高野御子大神は密教の道場の地を求めていた空海(弘法大師)の前に化身(黒白二頭の犬を連れた狩人)として現れて高野山へと導いた。空海はこの社を高野山の鎮守として篤く崇敬したといわれる。第1殿に丹生都比売大神、第2殿には高野御子大神、第3殿に大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ)、第4殿に市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)が祀られる。4棟の本殿は春日造りで室町時代に再建されたものである。同じく室町時代(明応8年)の作である檜皮葺きで入母屋造りの楼門は、本殿と共に重要文化財に指定されている。紀伊国の一宮である。

  おもな祭事

 10月16日 例祭




  近江神宮  おうみじんぐう
鎮 座 地

520-0015 滋賀県大津市神宮町11

  主 祭 神

天智天皇(てんじてんのう)

   
  神徳・由緒

 この宮の祭神は第38代天智天皇(てんじてんのう)であり、亦の名を天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)という。第34代舒明天皇(じょめいてんのう)の御子で、中大兄皇子としても知られる。その当時、政権を専横していた蘇我氏を藤原鎌足とともに倒して大化改新(645年)を行った。奈良の飛鳥から都を大津宮へ遷し、戸籍や土地などの各制度を整え、日本における憲法の礎である近江令を制定した。また教育、産業の発展・振興のための政策を実施し、大陸からの圧力に対抗するための国政改革を推し進めた。このような数々の御事績によって天智天皇は歴代天皇のなかでも別格の位置におかれ非常に崇敬が深い。この宮の創建は、明治28年大津市錦織の地に有志による「志賀宮址碑」の建設されたことから始まり、明治41年には大津宮跡に天智天皇奉祀神社の創立の請願運動が起こった。昭和13年5月1日、昭和天皇により聴許され近江神宮創立が決定、昭和15年11月7日に竣工した。勅祭社十六社のうちの一社であり、例祭には天皇陛下の御名代として毎年宮中より勅使参向がある≪⇒勅祭社の章参照≫。

  おもな祭事

 4月20日 例祭




  水無瀬神宮  みなせじんぐう
鎮 座 地

618-0011 大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10-24

  主 祭 神

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)
土御門天皇(つちみかどてんのう)
順徳天皇(じゅんとくてんのう)

   
  神徳・由緒  寿永2年7月、源義仲(みなもとのよしなか)が挙兵し京に攻め入ると、平氏はこれを防ぐことができず安徳天皇と三種の神器を奉じて西に逃げた。すると京に天皇が不在となったことから、後白河天皇が議して高倉天皇の第二の皇子尊成親王(たかひらしんのう)を帝位に即位させた。これが第82代後鳥羽天皇である。建久3年後白河天皇が崩御すると後鳥羽天皇の親政となるが、政権はすでに武家にあった。建久9年後鳥羽天皇は皇子土御門天皇に譲位し院政を始め、水無瀬の離宮に移り住んだ。鎌倉においては将軍実朝が暗殺され源氏の正統が途絶えると、後鳥羽上皇はこの機会に政権を回復しようと兵を挙げた。しかし皇軍は脆くも破れ上皇は隠岐に遷された。後鳥羽上皇の第1皇子である土御門上皇は土佐に、後鳥羽上皇の第3皇子である順徳天皇は佐渡に遷された。世にこれを承久の乱という。後鳥羽上皇は、山水の勝に富む水無瀬の地を深く愛し、隠岐に遷された後も思い偲んだという。暦仁2年2月、御親筆の御影と御朱印の御書を遥か宰相水無瀬信成卿に送り、崩御の後はこの地に奉斎するように命じた。これによって仁治元年2月、御影堂をこの地に建て、御影を安置し祭祀を営むこととなった。明治6年には官幣中社に列され、更に隠岐より神霊を迎え奉り、同時に土御門、順徳両天皇の神霊をも迎え奉り合祀された。昭和14年後鳥羽天皇700年祭に官幣大社に昇格した。
  おもな祭事

 12月7日 例祭




  白峯神宮  しらみねじんぐう
鎮 座 地

602-0054 京都市上京区今出川通り堀川東入飛鳥井町261番地

  主 祭 神

崇徳天皇(すとくてんのう)
淳仁天皇(じゅんにんてんのう)

   
  神徳・由緒  崇徳天皇(すとくてんのう)は鳥羽天皇の皇子で諱を顕仁(あきひと)という。保安4年に第75代天皇に即位したが、実権は常に父帝にあった。異母弟体仁親王(なりひとしんのう)が生まれると、父帝の命によりやむなく崇徳天皇は皇位を親王に譲り新院と称するようになった。その後新帝(近衛天皇)が在位わずかにして17歳で崩御すると、新院は皇子重仁(しげひと)親王の即位を欲するが父帝がこれを許さず、新院の同母弟雅仁親王(まさひとしんのう)を立てて帝位に即位させた。これが後白河天皇である。この出来事が後に起こる保元の乱の原因となり、また王権の衰微、武家の専横がここにその萌芽を発したといわれる。後鳥羽法皇が崩御すると、新院は法皇の宮に向うが対面することを拒まれた。新院は怒り遂に挙兵したが勝たずして捕らえられ、讃岐に遷された。新院はその地で一日として宮城を思わないことはなかった。長寛2年8月45歳を以って崩御した後、その地の白峯山陵に奉葬された。淳仁天皇は、天武天皇の孫、舎人親王第7皇子であり孝謙天皇の太子となって帝位に即位したが、恵美押勝の乱(えみおしかつのらん)によって廃位され、淡路に遷されその地で崩御した。御寿わずかに33、世に淡路の廃帝という。明治3年7月に淳仁と諡(おおくりな)され、同6年に神霊が白峯神宮に合祀され官幣中社となった。昭和15年に官幣大社に昇格している。
  おもな祭事

 4月14日 例祭(淳仁天皇祭)
 9月21日 例祭(崇徳天皇祭)




  赤間神宮  あかまじんぐう
鎮 座 地

750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4-

  主 祭 神 安徳天皇(あんとくてんのう)
   
  神徳・由緒  安徳天皇(あんとくてんのう)は高倉天皇の第一の皇子で、諱は言仁(ときひと)といい、母は平清盛の娘の徳子である。天皇は、4歳にして第81代の帝位に即位したが、外祖父平清盛(たいらのきよもり)が権力をほしいままにした。諸国の源氏は大いに怒り、源平2氏の大戦に発展した。平氏は天皇と共に西に走ったが源義経によって激しく追撃され、遂に平氏はことごとく長門国壇ノ浦に戦没した。寿永4年3月24日、天皇はわずか8歳にして外祖母の二位尼平時子(にいのあまたいらのときこ)に抱かれて壇ノ浦の海に沈み崩御した。長門国赤間関阿弥陀寺境内に御影堂を建て、天皇の御尊像を安置し冥福を祈り祀った。またこの宮は、琵琶法師の物語「耳なし芳一」の舞台としても世に知られる。この宮は、明治維新の後にこの御影堂を改修して一時「天皇社」となったが、参議院木戸孝允(きどたかよし)が当社に参拝したときその粗な様に驚いて改築に尽力した。その結果、名は赤間宮と改められ明治8年には官幣中社に列せられた。のち昭和15年官幣大社に昇格し、赤間神宮に改称された。
  おもな祭事

 10月7日 例大祭 
 5月2日~4日(先帝祭)

  



   もどる
   神道の日本