出羽 鶴ヶ岡城
Tsurugaoka castle
鶴ヶ岡城跡【山形県鶴岡市馬場町】
荘内神社【山形県鶴岡市馬場町4-1】
藤沢周平記念館【山形県鶴岡市馬場町4-6】
大賓館【山形県鶴岡市馬場町4-7】
旧致道館【山形県鶴岡市馬場町11-45】
酒井氏庭園【山形県鶴岡市家中新町10-18】
【立地】平城
【別称】大宝寺城・大梵寺城
【国指定史跡】旧致道館
【国名勝】酒井氏庭園
【歴史】築城年は定かではない。「鶴岡」は初め「大宝寺」「大梵寺」と云い、鎌倉時代(
1185~1333年)、鶴岡に「大泉荘」が置かれ、地頭職に関東の武藤資頼が就いた。
源平合戦(1180~1185年)の際、資頼は平家軍にあって捕虜となったが、弓矢に長
けていたこともあり、源頼朝に許されて大泉荘を与えられた。弟の大泉(武藤)次郎氏平は
羽黒山の領地を我が物にしようとして、羽黒山の山伏より訴えられた。長盛の時、武藤氏は
鎌倉から大宝寺へ移り、城を築いたとされる。大泉氏から大宝寺氏を称するようになり、2
00年に亘って大宝寺城を本拠としたが、天文年間(1532~1555年)、大浦城(尾
浦城)へ移り、大宝寺城は尾浦城の支城となった。この頃、庄内地方北部では藤島城の土佐
林氏、砂越城の砂越氏、余目城の安保氏、観音寺城の来次氏間で勢力争いが盛んになり、武
藤義氏はこうした領主を抑え、新庄・秋田県まで領地を拡大。庄内平野全域を治めるように
なり、大泉荘の内→荘内→庄内地方と呼ばれるようになった。義氏を勇将にあって良将にあ
らず、1583年家臣の前森蔵人が最上義光と結んで謀反を起こし、義氏は自害した。その
後、山形城主最上義光×越後の上杉景勝間で庄内争奪戦が始まり、1588年「十五里ヶ原
の戦い」で越後の本庄繁長軍が最上軍を倒し、庄内を入手した。12年間上杉景勝の領地と
なったが、1600年「関ヶ原の戦い」で東軍に付いた最上義光は、1601年山形城を本
拠に置賜郡を除く山形県全域+秋田県由利郡を治めた。最上義光は隠居の城として大宝寺城
を修復。酒田の海岸で大きな亀が捕まり、珍しくめでたいことから、酒田の東禅寺城を「亀
ヶ崎城」と改め、大宝寺城を「鶴ヶ岡城」に改称したと伝わる。1614年最上義光が没す
ると、次第に家督争いが起こり、1617年家親が変死、嫡男義俊は13歳の若さで内紛を
止められず、1622年近江国大森1万石へ転封、信濃国松代より酒井忠勝が13万800
0石で入封し、庄内藩を立藩した。1632年14万石、1647年忠勝が没し、嫡男忠当
が2代藩主となる。この時、忠勝の次男忠恒に出羽国松山2万石、七男忠解に大山1万石を
分与される。その後、1660年3代忠義-1682年4代忠真-1731年5代忠寄〔松
山藩主酒井忠予の次男・1749年老中に就任〕-1766年6代忠温-1767年7代忠
徳〔1805年藩校致道館を設立〕-1805年8代忠器-1842年9代忠発-1861
年10代忠寛-1862年11代忠篤-1868年12代忠宝〔大泉藩に改称〕と続き、1
871年廃藩置県を迎える。1873年「城郭存廃決定」の際に廃城が決まり、1876年
建物は破却、鶴岡公園となった。1951年藩校致道館が国指定史跡、1976年酒井氏庭
園が国名勝、2017年続100名城に選定される。現在は水堀、土塁が残る。
【所感】東の内川、西の青龍寺川に挟まれた地に築かれた輪郭式の城で、三の丸は市街地に
なっています。本丸内は荘内神社・鶴岡護国神社・大賓館・藤沢周平記念館が建ち、本丸堀
は8割程残っています。二の丸は稲荷神社・バス専用駐車場・公園となり、二の丸堀は4割
程残り、百閒堀も3割程でしょうか。建物や石垣は無くとも、水堀が在るだけで十分に城を
感じることが出来ます。あいにくの曇天で大変残念でしたが、次回は他の庄内の城跡を合わ
せて再訪したいと思います。愛知をルーツを持つ酒井氏の城ですから。
贈従三位酒井忠徳公頌徳碑・本丸
本丸北堀
本丸御殿玄関跡
二の丸大手門跡
二の丸外北門跡
二の丸西門跡
百間堀
酒井氏庭園【国名勝】