伊勢 神戸城
Kanbe castle

神戸公園【三重県鈴鹿市神戸5丁目10】
神戸高校【三重県鈴鹿市神戸4丁目1−80】
 蓮花寺【三重県鈴鹿市東玉垣町994】
 顕正寺【三重県四日市市西日野町2970】

【立地】平城
【別称】本多城

【県指定史跡】

【歴史】1555年頃、沢城から移った神戸利盛が築いたとされる。利盛の後、弟友盛が継ぐが、15
68年信長の伊勢侵攻の際、信長の三男信孝を養子に迎え入れ、和睦した。1571年神戸城へ入った
信孝は、友盛を近江国日野城主蒲生氏郷のもとへ追放。領内から神戸氏の勢力を一掃し、1580年城
郭大改修で五重の天守が築いた。1582年信孝は美濃国岐阜城へ移るが、「本能寺の変」で信長が討
たれると、秀吉との間に不和が生じ、信孝は尾張国野間で自刃した。その後、信孝以降、小島兵部→林
与五郎→生駒親正と城主が変わり、1590年信雄の家臣滝川雄利が2万石を領して入る。1600年
「関ヶ原の戦い」の際、雄利は西軍に与して除封され、1601年代わって尾張国黒田から一柳直盛が
5万石で入封、神戸藩を立藩した。1636年直盛は伊予国西条へ転封となり、城は破却され、一時廃
藩、天領となった。1651年近江国膳所藩主忠総の次男総長が父の遺領の内伊勢国河曲、鈴鹿郡内で
1万石を分与されて再立藩した。1660年総長が大坂定番になった際、河内国石川、古市郡内におい
て1万石の加増を受け、神戸に居所を構えた。総良を経て、1732年総茂は常陸国下館2万石へ転封
となる。代わって河内国西代から本多忠統が1万石で入封し、再度、城郭整備を行ったが、天守は築か
れなかった。その後、忠永−忠興−忠ひろ−忠升−忠都と続き、忠貫で廃藩置県を迎えた。現在は神戸
公園内に天守台と付櫓の石垣、土塁、水堀の一部が残り、二の丸太鼓櫓と大手門が移築されている。

【所感】神戸公園は神戸高校の西隣りに在ります。「本丸」の北西隅に天守台・付櫓台、本丸南端に土
塁、本丸の南側〜西側に掛けて水堀の一部が残ります。往時の水堀はかなり幅が広く、公園となってい
るエリアは全て水堀でした。これに「本丸」を加えて神戸公園全体となります。神戸公園西側の5丁目
12・13番地が「鉄砲矢場・西曲輪」、本丸南側の4丁目8・9番地が「馬屋」、本丸北側の5丁目
8・9番地が「千畳藪」、神戸高校の校舎エリア〔4丁目1番地〕が「二の丸」、神戸高校のグランド
+住宅地〔4丁目1・3番地〕が「三の丸」で、東西500m、南北250mの広い城郭です。二の丸
太鼓櫓は鈴鹿市内の蓮花寺、大手門が四日市市の顕正寺に移築されている。





本丸の天守台



天守台の南面



天守台の東面



天守台の南東角



天守台の北西角

 

天守台から見た北東付櫓台〔写真:左〕天守の北東付櫓台〔写真:右〕



本丸南端の土塁



水堀側から見た本丸南端の土塁

 

神戸城跡の石碑〔写真:左〕神戸城跡の看板〔写真:右〕



天守台裏手の水堀の一部



移築 大手門・顕正寺山門