光武大帝――――――一中国史上屈指の名君,光武中興
「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」
光武帝は中国史上で唯一,一度滅亡した王朝の復興を旗印としてこれに成功した君主である。 帝位に即いて後、光武帝が生まれ故郷を巡った時、宗族の叔母たちは酒が回って 上機嫌で共に語って「文叔は若い頃、慎み深くて、人と打ちとけて付き合う事がなかった。 ただ生真面目で柔和なだけだった。今やこのような皇帝である」と言った。 光武帝はそれを聞いて笑って「我は天下を治めるも、また柔にて行わんと思う」と言ったという。 光武帝を随一の名君として評価した人物に、諸葛亮と司馬光がいる。 三国の蜀の宰相・諸葛亮は、光武帝は神の如き知謀を持ち常に参謀と意見が一致したため 家臣が地味に見えるが、その二十八将から下は馬援に到るまでみな張良や韓信に劣らないとした。 光武帝は漢の高祖・劉邦と違いミスをしないので家臣が目立たないのだという。 資治通鑑の著者司馬光は、光武帝が教化を重んじ学問と道義を大切にしたため200年後の曹操すら恐れて 簒奪できなかったとし、神話時代というべき夏、殷、周の聖王に匹敵するとした。 その曹操もまた光武帝に憧れて光武帝の模倣を一生懸命試みている。曹操の理想の生き方,目指すものは 光武帝であったのだ。 光武帝の政治方針は一貫して庶民の立場に立ったものであった。 度々の奴隷解放令だけでなく、売人法、略人法を公布し人身売買を厳しく規制した。 建武11年には「天地之性人為貴。(この世界においては、人であることが尊い)」 で始まる詔を発し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言した。豪族の跋扈する郡には、 董宣、樊曄、李章といった酷吏と呼ばれる人物を太守に起用し、 横暴な豪族を制圧した。そのため犯罪数が前漢時代の1/5に減少することになった。 税はそれまで収穫の1/10であったのを前漢と同じく1/30とし、役所を統廃合して 冗官の削減を実現した。さらに地方常備軍である材官騎士を廃止するなど労働力の民間への 転換を行っている。混乱期の将軍も多くが解任され、小規模な常備軍を準備するに留め、 財政負担の軽減を図っている。この光武帝の生涯を小説にて紹介する。
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