HOME小説で学ぶ世界史と中国歴史>アクバル大帝
TOP小説で学ぶ世界史と中国歴史>アクバル大帝
1556年2月14日、インド、ムガール帝国第三代皇帝にアクバルが継承すると宣布された。この時13歳。ゆえに舅父が代わって摂政をしいた。 この舅父、バイラムは、野心に満ちた人物で、大権を一手に握るばかりかその上、王位を簒奪したいと考えていた。アクバルが18歳の時、 権力を奪い返し、バイラムは聖地メッカで隠遁するよう命令される。アクバルはついに親政できるようになったのだ。
アクバルは領土拡張と、羈縻政策を実施した。習慣や文化の異なる地域、異地区においては、異地に合った政策を採用したのである。
1562年、アクバルはアンベール国の娘と結婚。そして帰順する者はそれを許し、帰順を望まない国や人々に対しては、 武力で以って制圧した。
1567年、マルワを攻撃。4ヶ月の時間を要して3万人を屠殺した。その王国の象徴であった、大銅鼓と大燭台に置かれている母神を 戦利品とした。アクバルは武力と懐柔手段によって15年の歳月の間に、北インドをことごとく手中に収めた。彼はまた16年間の 時を経て版図を北西部にも拡げた。最後に3年の時間をかけて、南方数ヶ国を平定し、強大なムガール帝国を現出させた。
自らの政権を強固なものとするため、国家内の改革を進めた。土地測量を新しく行い、厳格な等級に分けて徴税率を決めた。 彼はまたジズヤ(人頭税)や捕虜を廃止し、捕虜を奴隷として売ることを禁じ、土着のヒンドゥー教徒との融和も進めた。 アクバルはインド中の度量衡をだいたい統一したことによって商工業の発展を促進した。
インドは悠久の伝統的宗教を持っている地域である。国内の主要な民族はそれぞれ各々の宗教を信仰している。インドは世界で 最も宗教の数が多いと言われる場所で、今日、人々はインドを、“宗教博物館”と称されている。アクバルはイスラム教を 信仰していたが、インドで最も多くの人に信仰されいたのはヒンドゥー教であった。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間には、 宗教的対立がしばしばであり、武力衝突もよく見られるものであった。これは国家の安寧と団結に非常な影響を与えることになる。 このイスラム教徒とヒンドゥー教徒を協調関係にもっていくために、アクバルはある一連の政策を施した。彼は各々の宗教に対して 平等にすることを宣布し、ヒンドゥー教徒から高級官吏を輩出させた。また自らはヒンドゥー教を信仰する貴族の娘を妻子として、 その模範を示そうとした。
アクバルはまた、宮廷にヒンドゥー教の慣習を取り入れ、毎朝、夜明けに、テラスから民衆を見、ヒンドゥー教の祝祭日には 自ら参加し、ヒンドゥー教のシンボルなどをつけたりもした。また、ヒンドゥー教では牛を神聖とし、牛を殺すことは許されなかった。 よってアクバルはこのために、牛を屠殺することを禁止した。
こうして宗教融和政策がうまくいき、国家は強固なものとなっていった。また、アクバルは幼少の頃は文字を学ばなかったが、 文化事業・芸術を奨励し、盛んとなった。ペルシャとインドの文化の融合が促進されていく。
1605年10月、アクバルはこの世を去る。アクバルの死後、50余年間がムガール帝国の最盛期といえる。 だが、その50年後アウラングゼーブの即位により、帝国は崩壊していくことになる。アクバルの政策も覆され、宗教弾圧、民衆の無視など、イギリスによる植民地化を 容易く許す原因をつくっていった。そしてアウラングゼーブの死後、インドは次第に植民地化されていった。
アクバルは帝国繁栄の基礎を固めた、ムガール帝国最大の功労者であり、最も著名な人物の1人である。(終わり)