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アショーカ王はインドに興ったマウリヤ朝の王である。
アショーカは父ビンドゥサーラと不和であり、 タクシラで反乱が発生した際ビンドゥサーラは軍も武器も与えずに反乱鎮圧に向かうようアショーカに命じた。 この状況を心配した家臣が言った。
「王子よ、軍も武器もなしに我々は何を用いて誰と戦うのでありましょうか?」
アショーカは答えた。
「もしも私が王者に相応しいほどのものを持つならば軍と武器が現れるであろう。」
ビンドゥサーラが病に倒れると、彼は長男スマナを後継者とするよう遺言したが、 アショーカは急遽パータリプトラを目指して進軍し、スマナと争ってこれを殺し他の異母兄弟の多くも殺して 王座を手に入れた。 仏教の伝説では、アショーカは99人の兄弟?を殺した。即位した後には、彼の通った所はすべて焼き払われ草木が一本も生えていない、 といわれるほどだったが、後にあまりにも無残な戦争(カリンガ王国征服)によって仏教に深く帰依することになる。 しかしアショーカ王時代の記録には彼の兄弟が 何人も地方の総督の地位にあったことが記されている。そして広くさまざまな宗教を保護した。
当時カリンガ国はインド亜大陸の東岸で勢力を振るった大国であり、この時代にもマウリヤ朝の支配には服していなかった。 遠征の理由は不明瞭であるが、マウリヤ朝の軍が時に敗走するなどの激戦の末カリンガ国を征服した。
この時B.C.262年、15万人もの捕虜を得たがこのうち10万人が殺され、戦禍によってその数倍の人々が死に、 多くの人が住処を失った。アショーカ王はこれを深く後悔し、この地方の住民に対し特別の温情を持って統治に当たるよう勅令を 発した。以後、対外遠征には消極的になり、
「法(ダルマ)の政治」
の実現を目指すようになった。
釈迦縁の地を回り、また自らの命じた「法の政治」を宣伝し、またそれが実行されているのかどうかを確認してまわる 「法の巡幸」を開始した。インドの仏塔の中にアショーカ時代に起源を 持つものが数多く存在する。
アショーカ王は、第三回仏典結集を行なった。また法の宣布を目的とした新たな役職として法大官を設定し、 仏教の教えを広めるために、セレウコス朝シリア(アレクサンダーの後継国家)などのヘレニズム諸国やスリランカに使節を派遣した。
アショーカ王の碑文などでダルマの内容として繰り返し伝えられるのは不殺生と正しい人間関係であり、父母に従順である こと、礼儀正しくあること、バラモンやシャモンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、 常に他者の立場を配慮することなどである。
ただし、統治上の理由から辺境の諸住民に対しては「ダルマ」の仏教色を前面に押し出さないように配慮された。 しかしアショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉された。
幽閉の背景として、宗教政策重視のために財政が悪化したという説や、軍事の軽視のために外敵の侵入に 対応できなくなったなどの説が唱えられている。