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チムールの血を引く父とチンギス・ハーンの血を引く母を持つバーブルは、11歳で父の後を継いで以来各地を転戦しながらも チムール帝国再興を目指し、ウズベク族のシャイバーン朝に支配された中央アジア進出を目指していた。
父はチムールの三男ミーラーン・シャーの曾孫の一人でフェルガーナを領有していた バーブル自身はチムールから5代目の直系子孫に当たる。 1494年に父ウマル・シャイフの急死によってフェルガーナの領主を継いだ。以後、サマルカンドの領有をめぐるチムール家内部の 争奪戦に加わり、数度サマルカンドを領有した。また、ヘラートのスルターン・フサイン・ミールザーの宮廷やその子息たちに 庇護を求め、また共闘を行うなど、チムール朝内部でも目紛しい活躍を見せる。 しかし1504年、ウズベク族率いるジョチ家の後裔シャイバーニー・ハーンの侵入によってスルターン・フサイン家の ヘラート政権が瓦解すると、彼もまたその地を追われる。そのため、その代替地を求めてアフガニスタンのカブールを支配する。 1508年、それまで他のチムール家の王子たちと同様に「バーブル・ミールザー」と呼ばれていたが、 長男フマーユーンが誕生した同じ年に、自ら「バーブル・パーディシャー」を名乗った。
1510年―――――――――――――――
メルヴ近郊でシャイバ二軍がサファヴィー朝軍に大敗を喫しムハンマド・シャイバーニー が戦死すると、バーブルはサファヴィー朝のイスマイル1世からの援軍を受けて、翌年、サマルカンドを 占領した。
しかし、バーブル軍4万〜5万はサファヴィー朝から派遣されたキジルバシ軍団が主力でバーブル自身の直属部隊が 少数であったため脆弱で、1512年のグジュドゥヴァーンの戦いで態勢を立て直した シャイバニ軍3000に敗れ、サマルカンドを奪い返された。
1514年のチャルディラーンの戦いでサファヴィー朝がオスマン帝国に大敗を喫したため、 イスマイル1世からの支援を期待出来なくなったバーブルはこれ以後、 中央アジア進出を諦めてインド征服を目指すことになったのだった。
この頃インドでは、デリーを支配するアフガン人のロディ朝を筆頭に、クジャラート、ハルジ、バフマニー、 フセインの5つのイスラム王朝と、メワール王国とヴィジャヤナガル王国の2つのヒンドゥー王朝が乱立していた。 ロディ朝のスルタン・イブラヒムは権力の専制化を推進するために貴族に対する過酷な弾圧を行ったため、 パンジャーブ総督のダウラトとイブラヒムの叔父のアーラムは反乱を起こし、 カーブルにいたバーブルのもとに使者を送って援軍を求めてきた。バーブルはこの好機を捉えたのだった。
1524年―――――――――――――――
バーブルはインド遠征を行い、ラホールとディーパールプルを占領した。 しかし、バーブルの目的が インド征服であることに気付いたダウラトは、バーブル軍がカーブルに帰還するとイブラヒムのもとへ寝返ってしまった。
1525年―――――――――――――――
11月、バーブルは再びカーブルを出発し、長男のフマーユーンがバダフシャーンから率いて来た 軍勢と合流して前回の遠征よりも増強された1万2000の軍勢を率いてインダス川を渡った。
1526年―――――――――――――――
4月12日、デリー北方約100キロのパーニパットの平原に進軍したバーブル軍は、イブラヒム率いる ロディ軍と対峙した。ロディ朝から寝返った兵を加え2万5000強となったバーブル軍と、戦象1000頭を含む 10万のロディ軍は約1週間にわたって睨み合いを続けたが、4月21日早朝、バーブルの挑発にのったイブラヒムが 攻勢をかけた。これに対してバーブルは、2台づつを皮紐で繋いだ約700台の荷車の背後に配備された砲兵と小銃隊によって ロディ軍の隊列を崩すと、両翼から騎兵部隊を繰り出して敵を包囲させた。正午頃まで続いた戦闘によってロディ軍は イブラヒムを含む1万5000の死者を残して潰走し、勝利したバーブル軍はデリーとアーグラを占領して莫大なロディ朝 の財宝を手に入れた。
残されたイブラヒムの弟マフムードを中心とするアフガン貴族達は、 ラージプート族のメワール国王 ラーナーと手を組んで、西方からバーブルの支配地域を脅かした。 しかし、バーブルは2万〜2万5000の軍勢を率いて、 翌年3月16日にハヌアーの戦いで騎兵8万、戦象500頭からなるラーナー軍10万をパーニーパットの戦いと 同様の戦術を用いて撃破し、翌年にはラーナー臣下のメディニーの守るチャンデリーの城砦を攻略した。救援に向 かったラーナー・サンガは家臣によって暗殺され、隙を突いてデリーとアグラを襲撃しようとした アフガン軍も撃退した。
1529年―――――――――――――――
バーブルはビハールとベンガルでマフムード率いるアフガン軍に勝利した。 バーブルの築いた帝国はモンゴルのアラビア語訛りであるムガールの名称で呼ばれ、ここにムガール帝国が創られたのである。
1530年12月26日、アグラでバーブルは48歳の生涯を終えた。