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1744年、若干15歳のドイツの少女がロシアの宮廷、サンクトペテルブルクにやってきた。彼女の名はゾフィー。 プロイセンの一貴族の娘である。彼女はロシア語を話すことができなかったが、よく勉強してロシア語を学び、 ロシアの習慣になじもうと努めた。名はエカチェリーナと改名。ロシア沙皇(ツァーリ)エリザベータは子ができなかったため、 養子として、ホルシュタイン公の公子であったピョートルを迎えた。このとき、エカチェリーナも連れて来られたのだった。 ピョートルはホルシュタイン公とピョートル大帝の娘との間に出来た子供であったことから迎えられたのだった。
1762年、女帝エリザベータが薨逝した。当時、ロシア帝国はプロイセンとの七年戦争における勝利目前の時であった。 既にベルリンは陥落し、ロシア帝国はオーストリアのマリアテレジアらとともに、戦後の話し合いが行われるはずだった。 ロシア沙皇(ツァーリ)として即位したピョートル三世は、直ちにプロイセンとの戦争を中止し、 滅亡寸前に追い込まれていたプロイセン王フリードリヒ2世を救ったのだった。 ロシア帝国が戦争から急に退いたため、ロシア軍内ではせっかくフリードリヒを追い詰めながら、と怨嗟の声が高まった。 ピョートル三世はロシアの慣習に馴染もうとしなかった。
ピョートル三世への怨嗟の声が急激に高まる中で、エカチェリーナ待望の声があがった。 しかし、このときエカチェリーナはオルロースの子を妊娠中であったのですぐには動けなかった。 オルロース兄弟は近衛軍の軍官だった。エカチェリーナは聞いた。
「近衛軍に何か問題が?」
オルロース兄弟は答える。
「皇后陛下、近衛軍は貴方様に忠実でござります。」
エカチェリーナは言う。
「それはよかった。お前達、何か言うことでもあるのか。」
オルロース兄弟は言った。
「このようなことは、外国が支持しないのでは?」
エカチェリーナは言った。
「イギリス人?オーストリア人?プロシア人か?私は何の問題もないと考えている。 お前達は外国の外交使節を連れてきさえすればよろしい。」
それからまもなく、エカチェリーナは周辺国家の支持を集め、即位に伴う、敵対国家の出現を封じた。
1762年6月28日、エカチェリーナはクーデターを起こして ロシアの沙皇(ツァーリ)に即位した。 エカチェリーナは即位すると、農奴制を強化し、反動勢力には弾圧でこれに応えた。
中央アジアではカザフ草原を版図に組み入れていた。 またトルグート部は 1761年にドンドクダシ汗が没すると子のウバシが汗を継いだが、ロシアのエカチェリーナはドンドクオンブ汗の孫のツェベク=ドルジを支援して トルグートの分裂を図り、ウバシ汗はこれを不満として1771年に東遷を開始し、 大清帝国へ逃れ、乾隆帝に保護を求め、保護された。。ヴォルガ河西に残留した部民はカルムィクと呼ばれて現在に至る。
エカチェリーナは、乾隆帝の統治する大清帝国を前にして、 何も出来なかったのだ。このトルグート部の東還を防げなかったことは、 ロシア軍が無能であると農民は思い、エカチェリーナの権威は失墜し、
「ロシアも大したことはない。」
と想われ、プガチョフの乱が起きたのだった。因みに、ソビエト連邦の建国者、ウラジミル・レーニンはトルグート人の血を引いているとされる。
1775年、エカチェリーナはプガチョフの乱を鎮めると、プガチョフらの体をバラバラにして処刑した。
エカチェリーナは対外戦争を重視し、領土の拡大に力を注いだ。隣国ポーランドには元愛人が王となっていが、 改革を推し進め、ポーランドを強国にする政策を施していたので、エカチェリーナはプロイセンとオーストリアをさそって、 三次に渡りポーランドを分割し、滅亡させた。ロシアはポーランドの62%の領土を保有した。
また、オスマン帝国との露土戦争にも勝利してウクライナの大部分やクリミア汗国を併合し、 バルカン半島進出の基礎を築いた。
1789年、フランス革命が生じると、エカチェリーナはこれを、「フランスの腫瘍」と呼んで、 ロシア国内の統制を強めた。
1796年8月、エカチェリーナは死の床に就くに及んで言った。
「私が200歳まで生きることができれば、ヨーロッパの全てを自分の物に出来た物を・・・。」