後ろの方で、汐のはしゃぐ声が聞こえる。
「汐、走ったら転びますよ」
「はーい」
カコーン。
桶の音が響く。
早苗さんに誘われ、日帰りでやってきた温泉。
受付で手続きをしているところで、早苗さんが聞いてきた。
『朋也さん、家族風呂でいいですか?』
『ん? いいです…よ。………、……、え?』
家族風呂って……。
湯舟でオッサンと向かい合う。
「……小僧」
「なんだオッサン」
「早苗に手ぇ出すんじゃねーぞ」
「出すわけねーだろっ」
「何ぃっ、早苗はもうばばぁだから、手ぇ出す気もねぇっつーのかーーーーっ?」
「そんなこと言ってねーーーっ」
「早苗はなぁ、肌も、なんつーかまだまだ張っててなぁ…」
「……」
「胸もこうでけぇわりにタレてなくてなぁ、………、って、俺は何解説してんだーーっ!」
「秋生さーん、お隣に迷惑ですから、大きな声で変な事言わないでくださいねー」
「…小僧っ、てめぇのせいで叱られたじゃねーかっ」
「オッサンが勝手に言っただけだろっ」
「まぁ、いい。……小僧」
「なんだ?」
「ここは温泉地だ」
「あぁ」
「汐は面倒見てやるからな、…遊びに行ってもいいんだぞ」
「……なっ」
温泉地で遊びといえば、あれのことだよな。
「行かねーよ」
「渚のことが忘れられねーのはわかる。が、男として、それとこれは別だろ」
「……そうかもな」
しかし、今日は汐や早苗さんと一緒に来てるんだ。なんてこと言いやがる。
ちらっと後ろを振り返る。
早苗さんは汐の頭を洗っていた。
「やっぱ行かねーよ」
「ちっ」
……。
…。
たたたたっ。
どぼーーーんっ。
汐が足から飛び込んで来た。
「ぷはーっ」
「こら、汐、危ないぞ」
「ごめんなさーい。…えへへ」
「元気でいいじゃねーかっ。なー、汐」
「すべったら大けがするだろっ」
「秋生さん、朋也さんの言うとおりですよ」
すぐ後ろから声がした。
ちらっと振り返ると……。
『うわっ』
……オッサンの言うとおりだった。
あわてて前を向く。
タオルで前を隠しているとはいえ、隠しきれないボリューム。
『渚、胸だけは早苗さんに似なかったんだな』
『って、何考えてんだっ』
ばしゃっと顔を洗う。
ちゃぽん。
早苗さんはオッサンの横に静かに座った。
「んーーーっ。いいお湯ですねっ」
「そうだな。いい湯だぜ」
「さなえさーん」
汐が湯を跳ね上げながら、早苗さんに抱きついた。
落ちつけ、落ちつけ……。
早苗さんはお義母さん、早苗さんはお義母さん……。
「…ふぅ」
ちょっと落ちついた。
早苗さんとオッサンに挟まれてはしゃぐ汐を見てると……。
まるで、幸せな親子を見ているようだ。
この場面が俺と渚と汐だったなら……。
ちょっとだけ胸が痛んだ。
汐が早苗さんに甘えている風景は、とても慈愛に満ちているように思える。
早苗さんの母性は、母を知らない汐にとって、いい情操教育になっているに違いない。
たぶんそうだよ、な?
「……」
あぁ、そうか。
俺も母親のこと、知らないんだった。
でも記憶に鮮明な、汐を身ごもってから生むまでの間の渚。
それは早苗さんに重なって見えた。
「パパぁ?」
汐が俺のところに泳いできた。
考え事をしてたので心配したのかな?
「汐、気持ちいいか?」
「うんっ」
ばしゃばしゃとバタ足する。
「こら、お風呂でばしゃばしゃしないっ」
「はーい」
「ん、いい子だ」
頭の上にぽんっと手を載せる。
「えへへ」
ふと、ふたりの方を見ると……。
早苗さんとオッサンは、こちらを向いて幸せそうな顔で笑っていた。
「……」
なんだか、とても照れくさかった。
俺が照れてるだけで、俺がよくわかってなかっただけで、幸せな家族の一員になってると思って、……いいのかな?
もう早苗さんを見ても、それほどドキドキしなかった。
家族風呂を選んでくれた早苗さんの心遣いが、とてもありがたく思えた。
「早苗さん、お誘いありがとうございました。とても気持ちいいっす」
「はいっ。そう言っていただけて、よかったです」
『ありがとう、お義母さん』
心の中でそうつぶやいた。
……。
…。
俺と汐とオッサンでお湯のかけ合いをしたり、湯舟を泳ぎ回ったりで、汐が見るからにのぼせてきた。
いい頃合いだな。
「汐、あがってアイスでも食べよっか?」
「うん、アイスたべるっ」
「早苗さん、俺たち、ひと足お先にあがりますね」
「あら、朋也さん、だったら…」
「せっかくの温泉ですから『お義母さん』と『お義父さん』はごゆっくりしてください」
「……」
「……」
オッサンは『ぞくっときたぜ』という目で抗議している。
早苗さんは……
「はいっ、では、お言葉に甘えてゆっくりさせていただきますね」
俺の心を汲んでくれた。
……。
…。
一生懸命アイスを食べる汐。
「おいしいか?」
「うん。つめたくておいしいっ」
あの照れくさいような、温かくなるような感じ。
それを最初に感じたのは…。
そう、渚に連れられて古河パンを訪れた時だ。
なんだかむず痒く感じたことを覚えている。
あれは、そのころの俺が知らなかった温かいものだった。
あのとき、俺は場違いだと感じたけど……。
そっか、あのときからずっと、最初からずっと、あの人たちは俺たちのこと、温かく包んでくれてたんだ。
そして、俺と渚が苦しんでいたときも、
俺と汐が壊れていたときも……。
『今頃気づくなんて、とんだ親不孝ものだな、俺って』
「おいしかった」
汐がにこっと笑う。
「そっか。おいしかったか」
……。
…。
休憩所のソファーに座って、のんびりふたりを待つ。
「きのうね、なべがねー……」
汐は、幼稚園のことを一生懸命報告してくれる。
「汐、実はな……」
「なぁに?」
「パパ、ボタンの子供のころ知ってるんだぞ」
「えー? ほんと?」
「俺がボタンを出会ったときな、ボタンってこーんなに小さかったんだ」
「このくらい?」
「そうそう。杏先生が軽く持ち上げてたくらいだからな」
「かわいかった?」
「そうだなー。いのししだからなー。でも杏先生はかわいがってたぞ」
「みたかったなー」
ゾクッ。
「うわっ!」
死ぬほど驚いた。
首筋に冷たいものを当てられたようだ。
「小僧、飲めっ」
投げられたビールの缶をなんとか受け止める。
「オッサンっ、びっくりするじゃねーかっ」
「そのくらいでオタオタするんじゃねーよ」
汐がクスクスを笑ってる。
「朋也さん、お待たせしました。お言葉に甘えてゆっくりさせていただきました」
「それはよかったです」
投げられた缶だからな。慎重に開けようとしたが……。
プシューーーっ!
「ぶっ」
勢いよくビールが飛び出し、顔面でかぶってしまった。
「……おい、オッサン」
「早苗の…を見たんだからな。でもこのくらいで勘弁してやる」
「……」
ま、気持ちはわかる気がする。
が、缶の向きをちょっと変えた。
結局、温泉に入り直すバカふたりだった。
[END]
初出:「岡崎朋也と汐〜父子家庭の日々〜第2幕」スレ 24〜30