バターロールの焼き時間は少し長めっと。
何度見ても、たくさんのパンが一斉にふくらむ光景はわくわくする。
今だ。
オーブンの扉を素早く開け、トレイを取り出す。
「よっしゃ、あがりっ」
いつもの時間通り、全部焼き上げた。
「朋也さん、おつかれさまでした」
早苗さんが仕上げの手を休めて、ねぎらってくれた。
「ありがとうございます。そっちはいいですか?」
パウダーシュガーを振りかけ済みのトレイを指差して聞いてみた。
「はいっ、おねがいします」
トレイをふたつ持って、店の所定の位置に並べる。
そろそろ最初のお客さんが来てくれるころだ。
早苗さんが、最後のトレイを持って来た。
それを受け取って並べると同時に、ドアの開く音が聞こえた。
「いらっしゃいませーっ」
……。
…。
「早苗さん、そろそろ…」
「あ、はいっ、どうぞっ、……520円になります」
そろそろ忙しくなってきた時間に抜けるのは申し訳ないが、遅れる訳にもいかない。
カシャッ。
寝室に入り、カーテンを開けた。
「汐ーっ、朝だぞーーっ」
グズる汐をなんとか起こして、トイレに行かせる。
ハムエッグをちゃちゃっと作り、パンと牛乳の朝食。
はむはむと一生懸命食べてくれる姿を見ていると、なんだか嬉しくなってしまう。
ずっと見ていたいとこだが、店を少しでも手伝わなければ。
レジにつき、早苗さんには袋詰めに専念してもらう。
「120円、120円、150円です」
「390円になります。…110円のお返しです」
「いってらっしゃいませー」
早苗さんの笑顔での見送りが、この繁盛の秘訣なのかもしれないな。
……。
…。
「朋也さん、時間はよろしいですか?」
ん? あちゃ。こりゃ急がないと。
「すみません」
大急ぎで台所に戻る。
「汐ー、歯磨いたかー?」
台所に、汐はいなかった。
「パパーっ」
寝室の戸が開く音が聞こえた。
汐はすでに園児服に着替えていた。
「おっ、ひとりで着替えれたか?」
「うんっ」
「どれどれ?」
おしいっ、ボタンがひとつズレていた。
「ちょっと直してやるからな、じっとしてろ」
「…うん」
残念そうな顔だ。
ひとりでできたから誉めてもらえると思ったのかな?
ボタンを外して留め直す。
「ひとりで着替えるなんて偉いぞ。次はボタンもできるよな」
「うんっ、がんばるっ」
頭をポンと撫でてやった。
「早苗さん、行ってきます」
「いってきまーす」
「はい、お気をつけて」
裏にまわり、自転車の鍵を開ける。
「よいしょっと」
汐を抱え上げ、後ろの子供席に乗せ、ベルトを締める。
「落ちるなよ」
「おー」
……。
…。
店に帰ると、忙しい時間帯は過ぎていた。
早苗さんひとりで捌けるようだったので、奥で朝の片付けと仕込みの準備をすることにした。
小一時間もたったころ、早苗さんが工房を覗いた。
「朋也さん、おつかれさまでした」
「早苗さんもおつかれでした」
「コーヒー入れますね」
「はい、ありがとうございます」
ちょっと休憩にするか。
……。
…。
「ふぅ」
心地よい疲労感が全身を包んでいるようだ。
「……」
浮かれた気分が一気にしぼむ。
仏壇に早苗さんが供えたふたつのパン。
「……かなわねーよな」
最近、ようやく六年前の売り上げに追いつけそうな状況だ。
最初の年は悲惨なものだった。
俺と渚と早苗さんで焼いたパンで、売り上げは半減した。
客は正直だった。
それでも早苗さんが立ち直ってくれたと思った矢先……。
「……」
『まだまだだ、小僧』
『お父さん、そんなことないです。朋也くんのパンも美味しいですっ』
「ふっ」
「朋也さん、何かいいことでもありました?」
早苗さんがお盆のカップをテーブルに置きながら聞いた。
「え? いえ、……オッサンに俺のパンはまだまだだって、叱られたような気が…、したんです」
「……」
「でも、渚がオッサンをたしなめてくれたような気がしました」
笑いながら言うと、早苗さんも笑顔で応えてくれた。
早苗さんは仏壇にコーヒーを供えて、写真を見つめた。
「秋生さん、バターロール苦手だったですよね。皆さん、朋也さんのバターロールは美味しいって言ってくれてますよ」
『ちっ。ふたりがかりかよ』
そんな声が聞こえた気がした。
……。
…。
早苗さんの入れたコーヒーは甘い。
『お疲れのときは、甘いものがいいんですよ』
最初は本当かなと思ったけど、なるほど飲んだ後は体が軽いような感じがする。
「……朋也さん、あの…」
早苗さんが、自分のマグカップを両手で握りながら、何かもじもじしている。
「…なんですか?」
「あの……、今までは朋也さんのお邪魔をしてはいけないと思って、……その」
なんだかすごく嫌な予感がする。
「実は、とてもいいパンのアイデアがあるんですっ」
「……」
ついに……、ついにこの日が来たかっ!
早苗さんのまぶしいくらいの笑顔。
この笑顔でお願いされて、断れる男がいるだろうか。
「……」
断れっ。断るんだ。
理性が叫ぶ。
「あの……」
声を絞り出す。
「はい?」
うっ。その笑顔は反則過ぎっす。
仏壇の方をちらっと見る。
『俺の気持ちがわかったようだな』
『朋也くん、……がんばってください。……強くあってください』
「……」
「……」
「……、どんなパンですか?」
早苗さんの満面の喜び。
この状況でなければ最高の笑顔なのにっ。
「今、梅干しの蜂蜜漬けが流行っているそうですから……」
汐、明日から古河パンは変わってしまうぞ。
常連さん、明日から懐かしの風景が見られるかもしれません。
「……」
でもようやく早苗さんの調子が戻ったと思って、いいのかな?
はぁ、やってみるか。
複雑な気分だったが、悪い気は……ほんのちょっとだけしかしなかった。
初出:「岡崎朋也と汐〜父子家庭の日々〜第2幕」スレ 115〜119