弘安二年八月 五十八歳御作
| はわき房・さど房等の事、あつわらの者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定まりて候。殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ。周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ。一人の心なれども二つの心あれば、其の心たがいて成ずる事なし。百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず。 日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ。此の一門も又かくのごとし。 |
妙教 2007年 1月号より(抜粋)
| 今日の各法華講支部の構成員を考えると概(おおむ)ね三通り考えられる。 第一には従来からの法華講員と、学会の五十二年度逸脱路線による脱会者と、今回平成二年の謗法路線による脱会者との三種のグループからなる組織である。 第二には従来の法華講員が全く存在せず、五十二年問題、及び平成二年問題から脱会した信徒を中心に結成されている組織である。 そして第三には平成二年及びそれ以後の学会問題によって脱会した信徒を中心として結成されている組織である。もちろん三通りの組織の中には、それぞれ支部結成後に折伏されて、当初より法華講員として入信している方も含まれている。 昔からの古い講中はもちろんのこと、学会の五十二年問題、あるいは平成二年の問題を契機として脱会し、一旦寺院の直属信徒となり、その後法華講の支部を結成した講中にも、それぞれ大なり小なりに創業の生みの苦しみはあったはずである。 この時期の生みの苦しみと言えば、学会の大世帯から抜け出て、寺院直属の数少ない信徒として所属した孤独感、淋しさ、あるいは組織のないことへの頼りなさ、おぼつかなさを感じたことであろう。今まで学会の中では、赤子が離乳食を口に含まされるように、過保護なくらいに至れり尽くせりの世話を焼かれてきた中で、脱会してからは、自らを励まし常に求めていく求道の信心を貫いてこなければならなかったことも、ある意味では「生みの苦しみ」であった。「小さくても良い、皆が安心して信心していける組織を早くつくりたい」というのが皆の願いだったのである。 いざ支部組織をつくろうという段になると、講頭、副講頭等の支部の役職や、地区長、班長などの地区の役職を引き受けてくれる人が簡単に現れなかったり、反対に役員になられては先々心配だという人が、自ら進んで役につきたがったり、あるいは他の人が推薦されたことを心好く思わず、陰に回って足を引っ張るなど、人事の苦しみも創業の苦しみの一つと言えるだろう。 いよいよ御法主上人猊下より、法華講支部組織結成の御許可を賜わり、種々の艱難(かんなん)を乗り越え、手造りの支部がはじめて誕生した時の歓(よろこ)びはひとしおであった。 御法主上人猊下の御指南のもと、また地元寺院の御住職の指導のもと、総本山を根本とした正しい信心と広宣流布のために生涯を捧げられることに安心と歓びを感じ、創価学会という巨大な謗法の団体に立ち向かって折伏していこうという決意で、心はいつも燃えていたのである。 また、学会からのどんな嫌がらせや悪口も、圧力や迫害も、お互いに励まし合い、労(いたわ)り合いながら乗り越えて来ることができた。そこには皆が法華講の組織ができることを望み、実際に苦労して組織を作り、遂に組織ができあがったことを、皆で喜び合うという創業の苦しみと歓びがあった。 ところがどうだろう。支部が結成されてから五年経ち、十年経つにつれ、支部を結成した時の苦難と歓びを忘れ、支部結成の御許可を賜わった御法主上人猊下の御慈悲を忘れて、信心の根本の師匠である御法主上人猊下の御指南を聞き流し、指導教師の指導よりも自分の考えの方が正しいと思うようになってはいないであろうか。何よりも、あれほど固く決意した広布への誓い、即ち学会や邪義・謗法への折伏・派釈を忘れてしまってはいないだろうか。 そればかりか、「あの人より私の方が信心の年数は長いので私の方が偉い」「あの役員より信心のことは私の方がよく分っているので、あの役員の話は聞かない」「誰々さんは私の折伏で入信したのに私より重い役についている。気に入らない」「あの人はどうも虫が好かないので連絡はしたくない」「気に入らないのでお寺で会っても挨拶せずに無視してやろう」などなど・・・。 お互いに信心している講員同士の悪口を言い合ったり、謗(そし)り合ったり、あるいは憎しみ合ったり、お互いの欠点、短所、癖などを指摘し合ってはいないだろうか。 本来ならば外に向かって折伏し、内に向かっては人を育て、講員相互の信行学の向上を計り、本山・末寺を護り、広布を推進していくために講中組織が作られているにもかかわらず、これでは講組織結成の重大な責務と目的が忘れ去られていることになる。 凡夫の悪しき貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)などの感情に流され、人の欠点や不足や失敗のみに目を向け、粗(あら)をさがし、罵(ののし)り合うことにのみに終始しているとすれば、何のために信心しているのか、何のために講中組織があり、またそこに身を置いて信心しているのか分からない。私たちは、自分の信心を見つめ直し、よくよく考えてみる必要がある。 ここに法華講の組織はできたものの、この組織をいかに発展させ、充実させ、講員・信徒に利を与えていくことができるかという、守成(しゅせい=創業を受け継ぎ事業を守る)を考えていかなければならない理由がある。
組織は人の心と同じように生き物であるから、組織を構成する人びとによって良くも悪くもなる。否むしろ構成する人びとの心の反映でもあると言えよう。 支部を真に安定させ、その上で更なる充実と発展を期していくためには、結成されたあと、月日が経てば経つほど、関係各位によって、つまり指導教師や講頭、認証役員等がお互いの信頼関係を築くことに努力し、守成の信行の実践に勤めていくことが求められる。 このことを弁(わきま)えた上で、支部全体としていかに異体同心の信行を確立していくべきなのか、具体的に述べたい。 まず一番要(かなめ)となることは、組織の一番責任者の信心の姿勢と言動にあると言っても過言ではない。それは本抄に例えとして挙げられているように、悪逆非道の暴君・殷(いん)の紂王(ちゅうおう)が、その言動によって多くの敵を作り、味方の兵からも信頼を得られず、そっぽを向かれてしまったのに対し、周の武王が、その人柄や言動によって、敵兵からも慕われ、多くの支持を得たことからも知ることができる。 また、これに倣(なら)って、中心の責任者の元で、分々の立場にある長の信心の姿勢、言動も、常に人から見られ、問われているということが言える。故に「○○長」という役職にある人は、常に自らを反省し身を慎んでいかなければならない。 第二に、大聖人の仏法は、御本仏の随自意(ずいじい)が説かれた教えであるから、私どもの我見・計我、浅識など、自分の考えをもって計るべきではなく、正直に大聖人の教えを信受するという姿勢が大切である。具体的にはどこまでも御法主上人猊下の御指南と指導教師の指導に随順し、素直に信心していく姿勢が必要である。 第三に、大聖人、御歴代上人、御当代上人、住職(指導教師)、信徒という信心の血脈の縦の流れと、また支部組織においては、指導教師、講頭、幹事、地区長、班長という組織の縦の職務の筋道を違えてはならない。支部の中の地区、地区の中の班、班の中の組というように、全体の中の位置付けを理解し、地区長、班長はその立場を弁え、責任をもって職務を全うすると共に、またその立場を超えたり乱したりしてはならない。 第四に、指導教師は総本山並びに御法主上人猊下の御指南を正しく支部に伝え、支部は指導教師の指導を、地区・班は支部の方針を隅々まで伝達し、活動していかなければならない。 もし、支部組織が指導教師の指導に背いたり、地区や班が支部の方針に背くようなことがあっては、講中の異体同心を確立することはできない。 また時々支部員、地区員、班員を、私的に自分の部下、眷属、子分のように思って接している人を見かけるが、こういう考え方は間違っているので、大いに改めていきたい。僧俗、年齢、役職などの関係から、竹の上下の節のように礼節を重んじ、労わりと尊敬をもって接しなければならないが、基本は全て大聖人の弟子であり、日蓮正宗の信徒であり、いずれは成仏させていただく尊い仏子なのであるから、互いに敬い信頼し合う心を持たなければならない。 役員はどのような役であれ、どこまでも日蓮正宗の信徒として、日蓮正宗の教義、化儀、信心のあり方を正しく教えていく責任がある。もし役員が意図的に指導教師の指導や支部の方針に背き、それをまた自分の地区員、班員等に教唆(きょうさ)し、煽動(せんどう)していくようなことがあれば、これは日蓮正宗の信心を破る者であり、異体同心の信行を破り、和合僧団を破る城者破城の師子身中の虫となり謗法となるので十分に気をつけていかなければならない。 第六に、組織において様々なトラブルや問題、怨嫉(おんしつ)が起こるのは、決められたルールや約束事を守らず、なすべきことを怠るところから起こる場合が多い。したがって先ずルール、約束を守ると共に、面倒くさがらずに小まめに報告、連絡、相談の、いわゆるホウレンソウの徹底と励行を実践することが必要である。 またお互いの思い込みや思い違いによる行き違いを解決していくには、特に言葉による確認が必要である。これを皆が心がけ実行していくことにより、組織内でのトラブルや怨嫉も随分減らしていくことができるであろう。 第七に、もし地区員、班員が本宗の教義に背くようなことを主張し、化儀に違えるようなことを見聞した場合は、その本人にのみ再三にわたって直接注意し、改めるよう諭(さと)していく。もしそれでも改まらない時は指導教師にお話しし、指導教師より注意・指導をしていただくという形をとるのが望ましい。また時として人を陥(おとしい)れるような、ためにする噂話には慎重に対応し、疑わしいこと、確証のないことは速断せずに、必要があれば自分の目・耳・心で判断するよう、それぞれ関係者の意見を聞き、全体の事実関係を正確に把握した上で判断することが必要である。 一方的な意見による速断早合点は大きな過ちを犯す危険があり、特に人と人との間におけるトラブル解決には、感情や人の好き嫌いによるのではなく、万人が納得するよう道理による解決を計っていかなければならない。なぜなら感情や人の好悪によって解決していこうとすれば、尚一層大きな怨嫉を生んでいくことになるからである。 以上、種々申し上げたが、広布を前進させ人材を育てていくには、その土壌となる支部講中の組織のあり方を十分に考慮していかなければならない。したがって、私たちは、特に支部役員全員が広布のために我が支部をいかに運営し発展させ、充実させていくべきかという守成の苦労を互いに忍耐強くしていかなければならないのである。その守成の苦労の一つが、いかにして異体同心の信行を確立していくかということである。 講中一丸となった異体同心の信行の中にこそ折伏は進み、また異体同心の中にこそ有為(ゆうい)な地涌の人材が陸続と輩出されるとの道理を確信して、いよいよ地涌倍増と大結集の御命題成就に向かって行動していこうではないか。 |