一念三千とは、一念の心に三千の諸法を具足することをいいます。 |
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| てんだいだいし じゅうにょじっそう ま か し この法理は、天台大師が法華経『方便品第二』に示されている十如実相の文をもとにして『摩訶止 |
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| かん 観』で体系化して説いたものです。 |
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| せつな 一念三千の構成を挙げると、刹那の一念に十の法界があり、その十界各々に十界がそなわって百界 |
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| じゅうにょぜ となり、さらに十如是がそなわって千如是となり、千如是に三世間がそなわり三千世間となります。 |
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| じごく が き ちくしょう しゅら しょうもん えんかく 十界とは、十法界ともいい、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十種 |
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| きょうがい 類の境界をいいます。ここでいう境界とは、他と異なるある領域の状態をいいます。 |
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| いか く のう @地獄界―瞋りと苦悩の境界 |
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| け かち とんよく A餓鬼界―飢渇や貧欲から起こる満たされない境界。 |
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| おろ B畜生界―理性を欠き、癡かにして本能的欲求によって行動する境界。 |
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C修羅界―常に他に勝ることを思い、怒りへつらう境界。 |
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| おだ D人間界―人界ともいい、穏やかで落ち着いた境界。 |
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E天上界―天界ともいい、永続性のない快楽の境界。 |
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| ぼんのう だんじん F声聞界―仏の法を聞き、煩悩を断尽して小乗の悟りを得る境界。 |
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| どっかく G縁覚界―独覚ともいい、理を観じ自然現象を縁として小乗の悟りを得る境界。 |
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H菩薩界―自らの悟りを求めるとともに、衆生を救済しようとする境界。 |
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| つうだつ そんごくむじょう I仏界 ― 一切諸法の真実の相に通達した尊極無上の大慈悲の境界。 |
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| この十界に、それぞれ十界がそなわって百界となり、これによって今まで成仏できないとされてき |
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| た声聞・縁覚の二乗はもとより、十界すべての衆生に仏界がそなわることが明かされたのです。 |
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法華経『方便品第二』に、 |
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| ただ いま よ くじん いわゆる にょぜ そう しょう たい 「唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相、如是性、如是体、 |
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| りき さ いん えん か ほう ほんまつ くきょうとう 如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(開結89) |
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とあります。これは十界それぞれの境界における具体的な生命活動として、十の働きがあるというこ |
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とです。 |
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@如是相―外面に現れた姿。 |
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A如是性―内面の性質 |
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B如是体―事物の実体 |
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C如是力―事物に内在している力。 |
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D如是作―事物に内在する力が、他に向かって作用を及ぼすこと。 |
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E如是因―果を招く内因。 |
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F如是縁―因によって果を招くときに働く外界の助縁。 |
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G如是果―因と縁との和合により生ずる結果。 |
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H如是報―果によって受けるところの報い。 |
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| もと まつ I如是本末究竟等―はじめの「相」を本とし、終わりの「報」を末として、この九如是が常に |
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究竟し、一体となって等しい状態であること。 |
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| ごおん 世間とは差別の義をいい、これに五陰・衆生・国土の三種があります。 |
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| しき じゅ そう ぎょう しき @五陰世間―五陰とは色・受・想・行・識の五つをいい、色とは身体及び物質、受とは感受作用、 |
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| ひょうしょう 想とは心に浮かぶ表象作用、行とは意志あるいは欲求、識とは認識作用のこと。すな |
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| わち、色心の二法の差別相をいう。 |
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| しょうほう いとな A衆生世間―五陰によって形成された衆生の生命に十界の差別があること。すなわち正報(生を営 |
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む主体)の差別相をいう。 |
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| え ほう よ B国土世間―十界の衆生の住処に、それぞれの差別があること。すなわち依報(正報の依りどころと |
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なる国土・環境)の差別相をいう。 |
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| しゃくもん ほんもん もんてい これら十界・十如是・三世間によって構成される一念三千は、迹門・本門・文底の立て分けがあります。 |
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| ぼんぷ こしん 迹門の一念三千は、『方便品第二』に説かれた「諸法実相」の文により、凡夫の己心にそなわる三 |
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| ご ぐ 千の妙理を明かされたものであり、十界互具の理を観ずるので「理の一念三千」といいます。 |
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| しじょうしょうがく この理の一念三千を説く仏は始成正覚の仏であり、本門の仏に対すれば、いまだ真実の仏ではあり |
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| うみょうむじつ じゅくやく ません。したがって日蓮大聖人は、迹門に説かれる一念三千は有名無実であり、熟益の教法と判ぜら |
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れています。 |
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| くおんじつじょう ほんにん 本門の一念三千は、『如来寿量品第十六』に至って久遠実成が説かれ、釈尊の 本因・本果・本国土 |
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| さんぜじょうじゅう じ に約して事実のうえで仏の三世常住が明かされたので、「事の一念三千」といいます。 |
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| ちょうもん これによって釈尊在世の衆生は仏の常住の化導を聴聞して、仏の永遠の生命と自らの生命とが同体 |
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| かくち ごくり だっちゃく けっぱん であることを覚知することができました。これを大聖人は釈尊仏法の極理とし、脱益の教法と決判さ |
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れています。 |
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文底の一念三千とは、大聖人が、 |
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| ただ もん 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(開目抄 新編526) |
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| ひちん そくざかいご と仰せられるように、寿量品の文底に秘沈された法門であり、久遠元初の御本仏が即座開悟された南 |
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無妙法蓮華経のことをいいます。この南無妙法蓮華経は、御本仏として末法に出現された日蓮大聖人 |
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| どくいちほんもん にんぽういっか が所有されている文底独一本門・人法一箇の事の一念三千の実体です。 |
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この文底・事の一念三千を大聖人は、 |
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| 振 濯 だいまんだら くけつ 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決 新編523) |
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| ほったい かいだん と仰せのように、末法の衆生を済度するため究竟の法体として本門戒壇の大御本尊を建立されました。 |
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この大御本尊こそ日蓮大聖人の御当体であり、末法の衆生は、この大御本尊を信じ奉り南無妙法蓮華 |
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| きょうちみょうごう 経と唱えるとき、仏界即九界・九界即仏界、境智冥合して即身成仏することができるのです。 |
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| もん したがって前の本迹二門の一念三千は、日蓮大聖人の文底・事の一念三千に対すれば、ともに文 |
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| じょう 上・理の一念三千となります。 |
| くおん がんじょ 久遠とは、久しく遠い過去のことで、仏の寿命の長遠なることを意味し、元初とは、時空を超絶し |
た一切の根源をいい、本仏の悟りの境地を意味します。 |
| しゃくもん もんてい 久遠の意義については、法華経迹門・本門・文底にそれぞれの相違があります。 |
| けじょう ゆほん じんでんごう だいつうちしょうぶつ まず、迹門では『化城喩品第七』において、三千塵点劫の久遠に大通知勝仏が法華経を説き、さら |
| だいつうふっこう にその滅後に十六人の王子たちがまた法華経を説いて(大通覆講)、衆生と結縁したことが明かされ |
| おうたん ており、その十六番目の王子はインド応誕の釈尊の前身であると説かれています。この宿世の因縁を |
| げこん とおして釈尊は在世における下根の衆生を得脱させました。 |
| しゅみせん 三千塵点劫という時の長さは、三千大千世界(日月や須弥山などの広がりを一世界とし、その千倍 |
| くだ を小千世界、その千倍を中千世界、さらにその千倍の世界を大千世界とする世界観)の国土を砕いて |
| ちり いちみじん 塵とし、東方に向かって千の国土をすぎるたびに一微塵を落して行き、その塵が尽きたときにこれら |
| いっこう のすべての国土をさらに塵にし、その一塵を一劫とする無量無辺の長い時間を指しています。 |
| な ゆ た あそうぎ さらに、釈尊は本門の『如来寿量品第十六』において五百塵点劫(五百千万億那由佗阿僧祇)とい |
| あらわ じつじょう う久遠に成道したことを説き、その本地を顕しました。これを久遠実成といいます。この五百塵点劫 |
は、迹門で明かされた三千塵点劫という時でさえも、昨日に思えるほどのさらなる長遠の過去である |
と説かれています。 |
| もんじょう これらの三千塵点劫・五百塵点劫は、ともに釈尊の法華経文上において説かれた久遠です。 |
これに対して日蓮大聖人は法華経文底の法門のうえから、「久遠元初」を明かされました。この久遠 |
| はる さかのぼ 元初は、本門文上の久遠五百塵点劫を遙かに遡った当初を指すもので、大聖人は、 |
| しゃかにょらい そのかみ お わ ち すい か ふう くう そくざ 「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座 |
| そうかんもんしょう に悟りを開きたまひき」(総勘文抄 新編1419) |
と仰せられています。この「五百塵点劫の当初」こそ久遠元初のことで、このときの「釈迦如来」と |
| ほうそくにん じ じゅゆうほうしん ほんにんげ は凡夫時に即座開悟された法即人の本仏たる自受用報身如来であり、そのときの法は人即法の本因下 |
| しゅ 種の「南無妙法蓮華経」です。 |
| さらに大聖人は、 |
| け に ばか たが 「久遠の釈尊の修行と、今日蓮が修行とは芥爾計りも違はざる勝劣なり」(百六箇抄 新編1696) |
と仰せられ、仏の化導のうえから久遠元初と末法が同一であることを説かれています。 |
| にちかん さらに第二十六世日寛上人は、 |
| こんじ まった 「末法今時は全く是れ久遠元初なり」(当流行事抄 六巻抄199) |
| と示されており、文底の法門より見れば、末法の今日において弘通する法も仏も、それを受ける衆生 |
の機根も、久遠元初のときとまったく同じであることから、久遠即末法・末法即久遠といわれます。 |