| ぶんえい |
| 文永十一年(1274)三月二十六日、鎌倉に帰られた大聖人は幕府より出頭命令を受け、四月八日、 |
| へいのさえもんのじょう |
| 平左衛門尉をはじめとする幕府の要人と対面されました。 |
| たつのくち いたけだか へいのさえもんのじょう やわ |
| 竜口法難のとき、威丈高であった平左衛門尉は以前とは違い、態度を和らげて大聖人を迎え、 |
| にぜんとくどう もうこ |
| 爾前得道の有無や蒙古来襲の時期などについて質問してきました。 |
| きとう |
| これに対して大聖人は、爾前の諸宗では成仏できないことや、今までのように真言僧たちに祈祷・ |
| ちょうぶく |
| 調伏を申し付けるならば必ず日本は破れるであろうこと、また天の怒りも少なからず、蒙古の襲来は |
| しゅうじょう かんぎょう |
| 今年中に必ずあることを断言し、早く邪法への執情を断ち帰依するよう諌暁されました。 |
| かんげん とうごうやかた どうしゃ |
| 幕府は、諫言のなかの予言的中のみを恐れて、大聖人に対し東郷館の跡地に堂舎を建立寄進 |
| あんたい きとう |
| することを条件に、他宗の僧と同じく国家の安泰を祈祷してほしいと願いましたが、大聖人はこうした |
| いっしゅう |
| 幕府のもくろみを一蹴されました。 |
| ひご |
| このことは大聖人が、世間的な名声や権力による庇護を望まれたのではなく、ただ人々の不幸の原因 |
| たいじ しょうぼう |
| である邪教を退治し、正法を信受せしめ平和な国土の建設を願われていたからにほかなりません。 |
| かんげん みたび いさ |
| 大聖人は、三度にわたる諫言を幕府がまったく用いることがなかったため、「三度国を諌めても |
| こじ なら ぶんえい |
| 受け入れられない時は山林に入る」との故事に倣い、文永十一年(1274)五月、五十三歳のとき、 |
| みのぶ |
| 身延へ入山されました。 |
| みのぶ かいのくに みなみこまごおり はぎりさねなが |
| 身延の地は、甲斐国(山梨県)南巨摩郡に属し、日興上人に教化された波木井実長が地頭を務めて |
| しおんほうしゃ |
| いました。大聖人は、高い山々に囲まれた閑静なこの身延において、四恩報謝の読経・唱題をされるとともに、 |
| りょぼうくじゅう |
| 万代にわたる令法久住・広宣流布の大計をはかり、特に『法華取要抄』に、はじめて上行菩薩の |
| かいだん |
| 出現による本門の本尊・戒壇・題目という三大秘法の名目を示されました。また法門書院等の執筆や |
| せんねん |
| 弟子の育成に専念されました。 |
| とぼ |
| この身延での大聖人の御生活は食料も乏しく、特に冬は厳しい寒さとの闘いの日々でありました。 |
| ごくよう |
| また、各地の信徒から御供養の品々も送られてきましたが、多くの弟子たちを養うには充分なものでは |
| しっそ |
| なく、質素きわまる生活を過ごされていました。 |
| だいしょうにん |
| その頃の様子を大聖人は、 |
| そ ぶ つ りりょう みの まじ このみ むな |
| 「蘇武が如く雪を食として命を継ぎ、李陵が如く蓑をきて世をすごす。山林に交はって果なき時は空しくして |
| す しか かわやぶ はだか およ |
| 両三日を過ぐ。鹿の皮破れぬれば裸にして三・四月に及べり」(単衣抄 新編904頁) |
| き |
| と記され、また、 |
| むしろ |
| 「此の身延山には石多けれども餅なし。こけは多けれどもうちしく物候はず」(筵三枚御書 新編1592) |
| おお |
| と仰せられています。 |
| どくじゅ |
| こうした厳しいなかにあっても、大聖人は昼夜にわたって法華経を読誦し、法華経の講義をされました。 |
| ちょうもん |
| その講義を聴聞する弟子や信徒たちも次第に増えていきました。 |
| Top |
| みのぶ ぶんえい |
| 身延に入山されて五ケ月後の文永十一年(1274)十月、ついに大聖人の予言どおり、約二万五千余の |
| もうこ たいぐん らいしゅう |
| 蒙古の大軍が日本に来襲(文永の役)してきました。 |
| つしま さつりく |
| 蒙古軍は、十月五日に対馬に上陸、十四日には壱岐へ攻め入って無防備の島民を殺戮し、二十日には |
| だざいふ しんこう せんらん |
| 勢いに乗って博多湾西部に上陸し、大宰府まで進攻してきました。この戦乱によって、対馬国の守護や |
| ちんぜいぶぎょう |
| 鎮西奉行をはじめとする多くの武将や勇士が討ち死にしました。 |
| ひげき |
| 大聖人は、このような悲劇の原因を、 |
| これひとえに そ や |
| 「是偏に仏法の邪見なるによる」(曾谷入道御書 新編747) |
| きえ |
| と断言され、すみやかに国中の謗法をやめ、正法に帰依しなければならないことを訴えられています。 |
| こうあん |
| なお、七年後の弘安四年(1281)五月にも蒙古が文永の役を上回る大軍で来襲(弘安の役)しています。 |
| ぶんえい みのぶ かい するが |
| 文永十一年(1274)、大聖人が身延に入山されたあと、日興上人は甲斐・駿河・伊豆方面への折伏弘教を |
| かんばら ひやくてき きょうせん |
| 展開されました。特に幼少時代に修行した富士地方の蒲原四十九院・岩本実相寺を中心に飛躍的に教線が |
| の |
| 伸びていきました。 |
| けんじ こさつ りゅうせんじ じ けそう しもつけぼうにっしゅう にちべん |
| それにともない建治元年(1275)頃には、天台宗の古刹、滝泉寺の寺家僧である下野房日秀・越後房日弁 |
| しょううぼうにちぜん きふく あつわらごう |
| ・少輔房日禅等が帰伏改宗しました。さらにこの折伏は近在の人々にまで進み、熱原郷の農民たちから |
| じんしろう やごろう き え |
| 信頼されていた神四郎・弥五郎・弥六郎の三兄弟が帰依するなど、その後も入信者はあとを絶ちませんでした。 |
| いんしゅだい ぎょうち へいのさえもんのじょう |
| この状況に危機感をおぼえた滝泉寺の院主代・行智は、幕府の要人であった平左衛門尉を後ろ盾に、政所の |
| ねら |
| 役人と結託して反法華党を組織し、熱原の法華講衆を粉砕する機会を狙っていました。 |
| こうあん |
| そして弘安二年(1279)九月二十一日、行智は、多くの法華講衆が下野房日秀の田の稲刈りを手伝って |
| てきず |
| いることを聞きつけ、すぐさま武士たちを駆り集めて押しかけ、農民たちに手傷を負わせました。神四郎以下 |
| こうりゅう |
| 二十名はその場で取り押さえられ、下方政所へ拘留されました。 |
| かいじゅう やとうじ |
| さらに行智は、前に懐柔しておいた神四郎の兄・弥藤次の名をもって、神四郎等を罪人に仕立てあげる |
| ひれつ そじょう おうそう |
| 卑劣な訴状を作り、鎌倉の問注所に告訴するとともに、農民たちをその日のうちに鎌倉へ押送しました。 |
| にっこう |
| この事件の知らせを受けた日興上人は、すぐさまその状況を身延の大聖人に報告されました。これを |
| しょうにんごなんじ したた |
| 聞かれた大聖人は熱原の信徒たちのことを深く思いやられ、さっそく『聖人御難事』を認めて門下一同の |
| ふんき |
| 団結と奮起をうながされるとともに、日興上人に『滝泉寺申状』を清書させて問注所に真相を訴えられました。 |
| へいのさえもんのじょう してい と |
| この『滝泉寺申状』が提出された十月十五日、平左衛門尉は私邸で尋問を執り行い、事件の真相には |
| なんじ すみ とな いかく |
| ふれることなく、「汝ら速やかに法華の題目を捨てて念仏を称えよ。さもなくば重罪に処す」と威嚇しました。 |
| じんしろう |
| しかし、常に法華経への信仰を教えられていた神四郎たちは、少しもひるむことなくひたすら題目を唱え |
| つづ |
| 続けました。 |
| へいのさえもんのじょう いいぬまほうがんすけむね ひきめ |
| この農民たちの唱題の声に激怒した平左衛門尉は、当年十三歳であった息子の飯沼判官資宗に蟇目の |
| い ごうもん |
| 矢を射させて拷問を加えてきました。しかし法華講衆の信念は微動だにすることなく、唱題の声はますます |
| きわ へいのさえもんのじょう |
| 高くなるばかりで、これにより狂乱した極みに達した平左衛門尉は、無惨にもついに農民の中心者であった |
| ざんしゅ |
| 神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を斬首したのです。 |
| ごじ |
| この熱原の法難は、当時の下位層であった農民たちがどのような圧力にも屈することなく、正法護持を |
| じゅんし あつわら さんれっし かがみ |
| 貫いたことによって終結しました。特に殉死した三人は後に、「熱原の三烈士」と呼ばれ、末代信徒の鏡として |
| * |
| たたえられています。 |
| へいのさえもんのじょう ざんざい |
| なお、終生にわたって大聖人を迫害し続けた平左衛門尉は、神四郎・弥五郎・弥六郎らを暫財に処した |
| えいじん |
| 十四年後の永仁元年(1293)、法華の現罰を受け、一族もろともに滅亡しています。 |
| しんみょう たいなん あ と |
| 大聖人は、入信まもない熱原の農民たちが、身命に及ぶ大難に遭いながらも命を賭して正法を守り抜こうと |
| よみ げしゅ くきょう ほったい |
| する信心を嘉せられ、いよいよ下種仏法の究竟の法体を建立する大因縁のときの到来を感じられました。 |
| しょうにんごなんじ |
| このことについて大聖人は、十月一日の『聖人御難事』に、 |
| たいさいつちのとう |
| 「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。 |
| ほんかい |
| 仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。 |
| そ よ |
| 其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(新編1396) |
| よしょう |
| と仰せられ、今こそ出世の本懐を遂げるときであることを予証されています。 |
| だんあつ |
| そして熱原法難の弾圧の吹き荒れるなか、弘安二年(1279)十月十二日に、出世の本懐として |
| かいだん あら |
| 「本門戒壇の大御本尊」を顕されたのです。 |
| おもんば くすのき ごずげん にっぽう |
| この御本尊は末法万年の流布を慮られて楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています。 |
| にちかん |
| 本門戒壇の大御本尊について、総本山第二十六世日寛上人は、 |
| すでに さんだいひほう |
| 「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の |
| いわ いちえんぶだいそうたい |
| 随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段197) |
| いちご |
| と述べられ、大聖人御一期における本懐の中の本懐であることを教示されています。 |