| こうあん | |
| 弘安五年(1282)九月、大聖人は弟子の中から日興上人を選ばれて、本門戒壇の大御本尊を付嘱されると | |
| しょうぼうしょうぎ | |
| ともに、御自身亡きあとの門下を統率し、正法正義を後世に伝えていくよう後事を託されました。 | |
| あかし | |
| その証として日興上人に対し、 |
|
| いちご ぐほう びゃくれんじゃり にっこう | |
| 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を | |
| かいだん い | |
| 立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは | |
| なかんづく | |
| 是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。 | |
| みずのえうま か お う | |
| 弘安五年壬午九月 日 日 蓮 花 押 | |
| しだい | |
| 血脈の次第 日蓮日興 (新編1675) |
|
| そうじょう | |
| との『日蓮一期弘法付嘱書』を授与され、大聖人の仏法の一切を血脈相承されました。 |
|
| りょうぜんじょうど | |
| そして本門戒壇の建立地については、これまで「霊山浄土に似たらん最勝の地」としか明かされて | |
| ふぞくしょ | |
| いませんでしたが、この付嘱書においては具体的に「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべき」と | |
| ごゆいめい | |
| 御遺命されたのです。 | |
| あまた | |
| このように大聖人が日興上人に相承されたのは、日興上人が数多の弟子の中でも、大聖人に対する | |
| きえ していそうたい じょうずいきゅうじ がくげ こうけつ | |
| 絶対の帰依と師弟相対の振舞いをもって常随給仕されたこと、さらには学解の深さや人格の高潔さなど、 | |
| こうせ | |
| あらゆる点で群を抜いておられたからにほかなりません。そしてまた、教えを誤りなく後世に伝えるために | |
| ほうき | |
| 仏法の方規に基づき、ただ一人の弟子を選んで相承されたのです。 |
| そこ すす ひたち | |
| 晩年、健康を損なわれていた大聖人は、弟子たちの熱心な勧めによって、常陸の湯(福島県いわき市)へ | |
| とうじ | |
| 湯治に向かわれることになり、弘安五年(1282)九月八日、日興上人をはじめとする門弟たちに護られて | |
| ぶしゅう じとう うえもんたいふ むねなか | |
| 身延の沢を出発されました。その途次、同月十八日に武州池上(東京都大田区)の地頭・右衛門大夫宗仲の | |
| やかた | |
| 館に到着されました。 | |
| だんのつ | |
| 大聖人はこの池上邸において、弟子檀越に対して同月二十五日より、『立正安国論』の講義をされました。 | |
| しんきょうほうじゅう ししんぐほう こうせんるふ | |
| この御講義は門下一同に対し、身軽法重・死身弘法の精神をもって、広宣流布の実現に向かって精進 | |
| い | |
| せよとの意を込めて行われたものでした。 | |
| こらい | |
| このことによって古来、「大聖人の御生涯は立正安国論にはじまって立正安国論に終わる」といい伝え | |
| * | |
| られています。 | |
| ほんでし にっしょう・にちろう ・にっこう ・にこう・にっちょう ・にちじ | |
| 大聖人は弘安五年(1282)十月八日、本弟子六人(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)を定められた後、 | |
| ほうし ごほんぞんしちかのそうじょう けちみゃく ほんにんみょうしょう | |
| 前に法嗣に選定されていた日興上人に、『御本尊七箇之相承』と『法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)』を | |
| いんか ふよ | |
| 允可・付与されました。 | |
| そうしん まじか | |
| さらに十月十三日の早晨、大聖人は御入滅を間近に感じられて、日興上人に対し、 |
|
| びゃれんあじゃり べっとう そむく | |
| 「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家 | |
| やから ひほう しゅう | |
| 共の輩は非法の衆たるべきなり。 | |
| こうあん みずのえうま ぶしゅう | |
| 弘安五年壬午十月十三日 武州池上 | |
| か お う | |
| 日 蓮 花 押 (身延山付嘱書 新編1675) |
|
| かんず | |
| と、身延山久遠寺の別当(貫首)を付嘱されました。 |
|
| ゆいじゅいちにん したが だんのつ | |
| この『身延山付嘱書』では、唯授一人の血脈相承を受けられた日興上人に随わない門弟・檀越は、 | |
| いまし | |
| 大聖人の仏法に背く非法の衆・謗法の輩であると、厳しく誡められています。 | |
| ほったい | |
| このように日興上人は、前の『日蓮一期弘法付嘱書』において法体の付嘱を受けられ、また『身延山付嘱書』 | |
| にか | |
| においては一門の統率者としての付嘱を受けられました。これら二箇の相承は、ともに日興上人を | |
| ふほう ぐつう だいどうし | |
| 唯授一人・血脈付法の本門弘通の大導師として明確に示しおかれたものでした。 | |
| たつ けどう そうじょう | |
| 弘安五年(1282)十月十三日、辰の刻(午前八時頃)、すべての化導と相承を終えられた大聖人は、 | |
| あんじょう | |
| 弟子・檀越が唱題するなか、御年六十一歳をもって安祥として御入滅されました。そのとき、突如大地が | |
| しょとう | |
| 振動し、初冬にもかかわらず桜の花がいっせいに咲いたと伝えられています。御本仏である大聖人の | |
| めつ あら じょうじゅ みょうそう じんじん | |
| 御入滅は、滅に非ざる滅であり、滅に即して常住の妙相を示されるという甚深の意義をもっています。 | |
| いぬ ね だび | |
| 明けて十四日、戌の刻(午後八時頃)に入棺され、子の刻(午前零時頃)に御葬送、荼毘に付され、 | |
| ごはいこつ ほうびょう とどこお | |
| 御灰骨は宝瓶に納めれて、御葬儀は滞りなく厳修されました。 | |
| ちゃくちゃく と | |
| この御葬儀の一切は、御遺命のとおり、日興上人が嫡々付法の大導師として総指揮を執られ、その様子を | |
| ごせんげ | |
| 日興上人自ら『宗祖御遷化記録』として記されています。 | |
| ほうしゅう ほうじ た | |
| その後、日興上人は初七日忌の御法要を奉修され、同月二十一日早朝、御灰骨を捧持して池上を発ち、 | |
| きざん | |
| 同月二十五日に身延へ帰山されました。 | |
| くおんじ べっとう | |
| 身延山久遠寺の別当(貫首)として入山された日興上人は、本門弘通の大導師として本門戒壇の | |
| しゅご びょうしょ | |
| 大御本尊を守護されるとともに御灰骨の廟所を定められるなど、一切の指揮を執られました。 | |
| へ しょほっしん はぎりさねなが | |
| しかしその後、数年を経ると、日興上人の初発心の弟子である地頭の波木井実長は、六老僧の一人で | |
| みんぶにこう おうわく たびかさ くんかい | |
| ある民部日向に誑惑されて数々の謗法を犯すに至り、日興上人の度重なる訓戒も聞き入れず、敵対 | |
| * | |
| するほどになってしまいました。 | |
| とど | |
| そこで日興上人は、これ以上、身延に留まっていては大聖人の教えが謗法にまみれてしまうと | |
| りょうぼうくじゅうう しょうおう | |
| 考えられ、さらには令法久住と広宣流布のために、正応二年(1289)春、本門戒壇の大御本尊をはじめ、 | |
| ごゆいもつ ほうじ にちもく にっけ にちぞん | |
| 大聖人の御灰骨、御書、御遺物の一切を捧持して、日目上人や日華・日秀・日尊各師らの弟子とともに | |
| りざん | |
| 身延を離山されました。 | |
| なんじょうときみつ さんろく | |
| そして正応三年(1290)十月十二日、日興上人は富士上野の地頭・南条時光より寄進された富士山麓の | |
| おおいし はら たいせきじ きばん | |
| 大石が原に「大石寺」を創建し、大聖人の仏法流布の基盤を築かれました。 |
|