| ございせ ごほんぶつ じきじき 日蓮大聖人様御在世における登山は、御本仏であられる日蓮大聖人様のもとに参詣し、直々にお給仕 ごとうたい 申し上げ、御指南を賜わるところに、その本義がありました。それは、日蓮大聖人様の御当体がそのまま 信仰の根源の対象であり、また、一切衆生を成仏へと導いてくださる大師匠であったからです。 ごにゅうめつ まってい しかしながら、大聖人様が御入滅になられた後の末弟・信徒は、大聖人様へのお目通りは叶いません。 ごとうたい ご ず けん それではどのようにすればよいか、というと、大聖人様の御当体として弘安二年十月十二日に御図顕 あそばされた本門戒壇の大御本尊様と大聖人様の仏法の一切を継承されている御法主上人猊下に お目通りを願うことが、大聖人様にお目通りを願うことになるのです。 ゆえに、本門戒壇の大御本尊と御法主上人猊下まします総本山大石寺に参詣することが、大聖人御在世 当時と変わらぬ登山の本義にあたるのであります。 |
では、大聖人様御入滅後の御信徒の方々はどのような姿勢で、登山をされていたのかを拝してみましょう。 まず、江戸時代の北陸・金沢の法華講衆の場合です。 しじょう 江戸時代は、徳川幕府の安泰と封建秩序の確立・維持が至上の大事とされ、あらゆる分野において 旧態を守ることが重んぜられました。 きんせい とうせい じ いん はっ と あらた 宗教界においては、キリスト教禁制が取られ、仏教界にも統制を加えるために、寺院法度や宗門改めの かいしゅう 制度等がしかれて、さまざまな規制が加えられました。このような政策のもとでは、改宗したり新たな寺院を 建立することは、とても困難を極めた時代だったのです。 か が えっちゅう の と ごく ゆうはん じゃっき 加賀、越中、能登の三国を支配し、加賀百万石とうたわれた雄藩に、『金沢法難』と呼ばれる法難が惹起 りょうない まつじ ひろ したのも、「もともと領内に末寺を持たない大石寺の信仰が弘まることは、宗門改めに不都合であるので、 こっきん ないとく 国禁(藩において信仰を禁止する)にする」として、折伏弘教のみならず、内得信仰まで差し止められた ことにありました。 へいもん にゅうろう ふ ち ばな しょ 再々の取り調べにより、閉門、入牢、扶持離れなどに処される者も出てきましたが、それでも、金沢の つつ おさ 信徒達は、御本尊様をお守りするために筒の中にお納めして、土の中や壁の中、天井裏にお隠し、夜半、 つど ぞくみょう かく ほうみょう つらぬ ひそかに唱題に励んだり、信徒の集いにも俗名を秘して法名で参加したりと、信仰を貫いていったのです。 だんあつ そして、このような弾圧の中、またたくまに二十近くもの講中が結成され、信者は数千名(一説に一万二千名) にもなりました。 ごうしんじゃ はいしゅつ にっぽう にっしゅ 多くの強信者や僧侶を輩出し、のちに三十七世日@上人、四十七世日珠上人が御登座あそばされている かつごう うかが ことからも、人々がどこまでも成仏を願い正法を渇仰する、強く純真な信心を確立していたのを窺い知る ことができましょう。 ぬ まい かんこう さて、金沢の法華講衆は、有名な『抜け参り』を敢行しました。金沢の信徒・辻量義が著した『北陸信者 さんきんこうたい よしわら 伝聞記』によれば、この『抜け参り』は参勤交代の行列が東海道を往復する途中、吉原(現在の富士市) の宿に一泊したときに決行されました。 じんや 幸いその行列に加わることのできた信徒の武士達は、陣屋が寝静まるのを心待ちにし、ひそかに宿場を抜 け出し、あとは一路、御戒壇様と御法主上人猊下まします大石寺を目指して、まっしぐらに駆け抜けたのです。 吉原から大石寺までは約十五キロ・約二時間の道のりをひた走りに走って大石寺に着くと、休む間もなく ごほうぜん いしだたみ たんざ かつごう い 御宝蔵前の石畳に端座し、ひたすら大御本尊を渇仰して唱題を重ねるのです。真冬には、凍てつくような いっしんふらん しらじら 石畳の上で、寒さを忘れて一心不乱に唱題を重ねたといいます。そして、白々と夜が明け始めた頃、 はんしゅいっこう 藩主一行が目覚める前に帰えるため、吉原へと駆け戻ったのでした。 Top |
一般信徒の求道心 |
| ぶぎょうしょ せんぎ また、武士でなかった金沢法華講の一般信徒達は、奉行所の詮議をかわしては登山を計画し、 敢行しました。 ひださんみゃく 当時、金沢から大石寺に参詣するには、飛騨山脈を越えて東海道に出るという、百五十里 よう (600キロメートル)の道のりで、十三日くらいを要したようです。ましてや、大石寺の信仰に対して国禁の 触れが出ており、信徒への弾圧も強化されていった中での登山です。 はっかく げんばつ 発覚でもしたら厳罰(閉門、入牢、扶持離れ等)に処されるわけですから、まさに命がけの、たいへん危険 き き の伴った登山でありました。しかし、信徒達は、喜々としてこれに臨んだのです。 みょうごんにっそう にちいん なかでも、妙厳日宗という七十歳の女性信徒に対し、第三十一世日因上人は、 じつき も こ だいにちれんげざん 「今、妙厳日宗は本門実機なり。先年の登山は、誠に以って千里の山川を越え、此の大日蓮華山に さんけい そくざ とうたいれんげ な 参詣し、本門戒壇の大御本尊を拝見、即座に当体蓮華と申す仏に成らせ給う。さてこそ七十歳に及び、 へんくしょうだいもく きんぎょく ほうとう 五百万遍口唱題目、又金玉を宝塔に差し上げられ、今度又世間の上衣を捨て、宝塔御供養を入れ、 かたがた も かえり 旁々以って功徳増進せり」と、命の危険をも顧みずひたすら本門戒壇の大御本尊を求めて総本山に め 参詣した、その信仰をたいへん愛でられております。 |
伊那法難の中での登山 |
| いな じゃっき また、江戸時代末期、信州伊那(現在の長野県伊那市)でも折伏の手が上がり、法難が惹起しました。 ざんそ じょうくらも ざ え もん はんめい げきれつ ごうもん 他宗の讒訴により、邪宗呼ばわりされた中心者の城倉茂左衛門達は、藩命によって激烈な拷問・取り調 べを受け、厳罰に処されました。しかし、茂左衛門や他の信徒達は、そのような中でもひそかに登山を 計画し、実行したのです。 片道七十キロメートルにも及ぶ道のりを、二泊三日でほとんど歩いて大石寺まで行き、大石寺で一泊した あとは早朝出発、道中二泊して伊那まで戻る、という道程だったようです。女性や足の弱い信徒がいれば、 さらに一、二日の日数が必要となりました。 禁制下での登山であったにもかかわらず、伊那の信徒達は、できうるかぎり何度も足を運び、また家族 全員で登山する家も少なくなかった、とのことです。 Top |
総本山での修行のあり方 |
さて、このように命がけで、大聖人様や戒壇の大御本尊、そして御法主上人を求めた先達でしたが、 ものみゆさんてき 総本山にお詣りして、ただ物見遊山的に見学して帰ったのではありません。 だんのう あしせんにん つか そこには、檀王が阿私仙人に仕えたがごとくの修行があったのです。御書には、 こ き 「さどの国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎやとをもいしに、又今年来てなつみ、 あ し せんにん ひとつき 水くみ、たきぎこり、だん王の阿私仙人につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。 ふでをもちてつくしがたし」 (『是日尼御書』1220頁) と仰せられています。つまり、苦難を忍び、多くの日程を費やしての登山であっただけに、到着後は しばらく逗留したものと思われますが、その間、寸暇を惜しんで菜を摘んだり、水を汲んだり、薪を拾ったり と、大聖人様にお給仕申し上げ、自らの仏道修行としていたことがうかがえます。それは、仏様や師匠に 御給仕申し上げることが、弟子としてのあるべき姿であり、欠くことのできぬ仏道修行であるからです。 |
大聖人自ら参詣を促される |
一方、参詣が滞った信徒に対する、大聖人の厳しいお言葉もあります。 かの南条時光は、幼い時から大聖人様に帰依し、常に真心からの御供養を申し上げた信徒でありました。 熱原法難の際には、幕府要人と対立しながらも身命を賭して信徒達を守りぬき、のちに広大な大石ケ原 を寄進して日興上人をお迎えし、大石寺の開基檀那となった方です。 その南条時光が、何らかの理由でしばらく参詣が途絶えたことがありました。 その際、大聖人は、 「参詣遙かに中絶せり。急ぎ急ぎ来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし」(『南条殿御返事』1569頁) と、「参詣が遙かに途絶えています。急いで参詣しなさい。私はここであなたを待っています」と仰せられて います。 |
おわりに |
現在の私達は、近年の交通機関の発達により手軽に登山参詣ができるため、根本の登山の精神が 薄れていることに気づきます。 第二十六世日寛上人は『寿量品談義』で、 「四十里の中に説法有るに往いて之を聞かずんば意に願う事一切叶うべからざる也。若し亦来て聴聞 する功徳如何。 答う、三国傳一に云く、維摩長者と曰う人あり、歳八十有余にして始めて仏説法の砌へ 参る道の間其の家より四十里歩也。 仏に申して曰く、法を聞く為四十里歩参る其の功徳何量りぞや。 仏則ち答え給ふ、汝が歩む足の土を取って塵となし其の塵の数に従って一塵に一劫づつの罪滅し、亦 壽の長きこと此の塵の員と同じからん、又世々に仏に値い奉る事此の塵に同じく無量無辺ならん」 (歴代法主全書第四巻139頁) と仰せられています。 「四十里(160キロ)離れた遠くで仏が説法するときに、自ら歩みを運ばなければ願いが一切叶わない。 あなたが歩む一歩一歩の足の下の土を集めて塵とするとき、その塵の一つが一劫分の罪を滅すること ができ、また寿命を延ばす功徳がある」というのです。なんと有り難いことでありましょう。 私達は、こうした先達の精神を鏡とし、求道心を磨いて一度でも多く総本山へ参詣させていただこうでは ありませんか。 |