| 五時八教 | 法華経 | 仏教の流転 |
ご投稿:やんま様
| 釈尊(しゃくそん)とは、「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」の略称で、「釈迦」とは種族の名称、「牟尼」とは聖者(せいじゃ)、「世尊」とは仏のことを指します。釈迦族出身の聖者・釈尊は、一般に「仏陀(ぶっだ)」と称され、これは真理を悟(さと)った人(覚者(かくしゃ))という意味です。 この仏陀である釈尊の説かれた教えを「仏教」といいます。 |
古代インドでは紀元前(きげんぜん)3000年頃から前2000年頃に、インダス河流域を中心にインダス文明が発達しました。 この文明を築いた民族は、先住民のドラビダ人・インダス人・ムンダ人等でしたが、前1500年頃、中央アジアからアーリア人が侵入(しんにゅう)して先住民(せんじゅうみん)を征服(せいふく)したことによって、自由人(アーリア人)と隷属民(れいそくみん)(先住民)とに大別(たいべつ)されるようになっていきました。 アーリア人は、ガンジス河流域を中心とした地域に独自の社会を形成し、そのなかで次第にバラモン(司祭者(しさいしゃ))、クシャトリア(王侯(おうこう)・武士)、ヴァイシャ(庶民)の三つの階級を定め、さらにその下に先住民をシュードラ(隷属民)として置き、これを使役(しえき)するようになりました。この四姓(しせい)(ヴァルナ)制度はカースト(血統・家柄)といわれ、時代が進むにつれてさらに細分化されて現在に至(いた)っています。 また宗教的には、アーリア人は自然現象を神として崇拝(すうはい)し、その賛歌(さんか)や祭祀(さいし)・呪詩(じゅし)が四種(リグ・ヤジュル・サーマ・アタルヴァ)のヴェーダ聖典としてまとめられました。そして、これらの四ヴェーダに対してさまざまな注釈書が作られ、なかでも祭式(さいしき)の細かい規定が定められた『ブラーフマナ』には専門の知識を必要としたため、司祭者(バラモン)の力が強くなり、その結果としてバラモンがつかさどる宗教(バラモン教)は発生し、その後、さらにヴェーダに述べられている賛歌や祭祀の意義をもととして、輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)を追求したウパニシャッド哲学(奥義(おうぎ)書)が生まれました。 また、釈尊が出現される頃には、既成のバラモンを否定して自由な思想を展開する六師外道(ろくしげどう)と称される六人の思想家(沙門(しゃもん))がいました。これらの思想は、アジタの唯物論(ゆいぶつろん)、プーラナの道徳否定論、パクダの七要素説、マッカリの決定(けつじょう)論(宿命論)、サンジャヤの懐疑論(かいぎろん)、ニガンタの苦行論(くぎょうろん)等で、このうちニガンタは自らジナ(勝者)と称し、ジャイナ教の祖となっています。 これらの思想や宗教は、いずれも因果の道理を無視し現実から遊離した教えで、社会や民衆を救うものとはなりませんでした。したがって、この低級な思想や宗教の影響によって、当時のインドでは16の大国や多くの小国とが互いに争い、社会はいっそう混乱の度を増していきました。 |
釈尊は紀元前1000年頃、釈迦族の中心地・迦毘羅衛国(かびらえこく)(カピラヴァストゥ)城主である浄飯王(じょうぼんのう)を父とし、摩耶夫人(まやぶにん)を母として4月8日に誕生し、幼名を悉達多(しったるた)と名づけられました。このとき母の摩耶夫人は、当時の風習に従(したが)って出産のため生家へ帰る途中、ルンビニーの花園で太子を出産しましたが、産後の経過が思わしくなく、出産の7日後に亡くなりました。そのため太子は、母の妹の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)によって養育されました。
出家に反対する父・浄飯王(じょうぼんのう)は阿若橋陣如(あにゃきょうじんにょ)ら5人をたうかわして太子に城に帰るよう勧(すす)めましたが、太子の出家の意思が堅かったので、この5人を太子の侍者(じしゃ)としてともに修行させることにしました。
まず太子は、禅定(ぜんじょう)の大家(たいか)といわれていた二人の仙人にそれぞれ師事(しじ)し、数論学(すろんがく)等を学んで禅定の極意(ごくい)を修得しましたが、人間の苦は禅定によって解決できないと悟ってそこを去りました。 その後、太子は、尼連禅河(にれんぜんが)(ネーランジャラー河)の西岸にある森林に入り、呼吸を止める修行や、減食・絶食などの苦行を数年にわたって行ないましたが、それらは心身を極度に消耗(しょうもう)するのみで、悩みを根本的に解決するものではありませんでした。そこで太子は苦行を捨て、尼連禅河で身を洗い清め、村の牧女・難陀婆羅(なんだばら)から捧げられた乳粥(ちちがゆ)を飲み、心身ともに回復することができました。 この姿を見た5人は、太子が苦行を捨てて堕落(だらく)したものと誤解し、別の修行を求めて波羅奈国(はらないこく)(バーラーナシー)ろ鹿野苑(ろくやおん)(サルナート)へと去って行きました。 Top |
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苦行の疲労から体力を回復した釈尊は、伽耶城(がやじょう)近くの森のアシュヴァッタ樹(じゅ)の下に座し、49日間にわたって独(ひと)り沈思黙想(ちんしもくそう)を続け、心身にわき起こるさまざまな魔軍(まぐん)を降伏(ごうぶく)して12月8日の早暁(そうぎょう)、ついに悟り(正覚(しょうがく))を開き、ここに仏陀(ぶっだ)(覚者(かくしゃ))となりました。このとき釈尊は30歳でした。 これを「成道(じょうどう)」といい、このことにちなんで悟りを得た地を「仏陀伽耶(ぶっだがや)(ブッダガヤー)」と呼び、アシュヴァッタ樹は「菩提樹(ぼだいじゅ)」と名づけられました。
まず釈尊は、悟りによって得た境地を21日間にわたって、菩薩(ぼさつ)たちに説示されました。これが『華厳経(けごんきょう)』です。 釈尊は、この悟りの法を人々に対して説くべきか否(いな)かを思惟(しゆい)されましたが、梵天(ぼんてん)の願いを受けて説法することを決意し、かつて修行をともにした5人の侍者(じしゃ)を想い起こして鹿野苑(ろくやおん)に向かい、この5比丘(びく)に対し、四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)の説法を行って教化しました。このときの説法を「初転法輪(しょてんぽうりん)」といいます。
ガンジス河流域の各地を巡(めぐ)って衆生を教化していた釈尊は、王舎城(おうしゃじょう)に向かう途上、迦葉(かしょう)3兄弟とその弟子1000人の帰依(きえ)と受け、さらに王舎城にいたっては、摩竭陀(まかだ)国王である頻婆娑羅(びんばしゃら)を教化しました。 次にナーランダー村では、2大バラモンの舎利弗(しゃりほつ)・目連(もくれん)が 弟子250人をひきいて仏弟子となり、また、故郷の迦毘羅衛城に(かびらえじょう)に帰ったときには、父の浄飯王(じょうぼんのう)、養母の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)、妃の耶輸陀羅(やしゅだら)、長子の羅?羅(らごら)、従兄の阿難(あなん)等、多くの同族を教化して弟子としました。 その後も多くの者が弟子となり、特に舎利弗をはじめとする優(すぐ)れた10人の弟子は「十大弟子」と呼ばれています。 さらに頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)が竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)を供養し、国内の人々に対する教化を願い、また須達長者(すだつちょうじゃ)が深く帰依して祇園精舎を供養するなど、釈尊の尊い教えにふれた人々が次々に弟子となり、外護者となっていきました。 しかし一方、従弟の提婆達多(だいばだった)など釈尊の化導を妨害する者もおり、「九横(くおう)の大難」といわれるさまざまな迫害もありました。
釈尊は、30歳で成道してより42年間にわたり、『華厳経(けごんきょう)』をはじめとして『阿含経(あごんきょう)』、『方等経(ほうどうきょう)』、『般若経(はんにゃきょう)』と順に法を説かれましたが、これらは、衆生の機根(きこん)を調(ととの)えて真実の教えに導き入れるための方便(ほうべん)の教えでした。 そして釈尊は72歳のときから、8年間にわたり摩竭陀国(まかだこく)の霊鷲山(りょうじゅせん)において、『法華経(ほけきょう)』を説かれました。この法華経の説示こそ、釈尊がこの世に出現した一大目的であり、真実の教法だったのです。 |
8年間にわたって法華経を説かれた釈尊は、自らの入滅(にゅうめつ)が近いことを悟り、摩竭陀国(まかだこく)を旅立って拘尸那掲羅(くしながら)(クシナーラ)に向かいました。拘尸那掲羅に着くと釈尊は、一日一夜の説法といわれる『涅槃経(ねはんぎょう)』を説かれました。そして沙羅林(しゃらりん)の沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の間に頭を北に向け、右脇(みぎわき)を下にして臥(ふ)し、心安らかに入滅のときを待たれました。こうして釈尊は悲しむ弟子らを諭(さと)し、紀元前949年2月15日、安祥(あんじょう)として80歳で入滅されました。 この入滅のときには、大地は震動し、天鼓(てんく)が鳴り、沙羅双樹は白色に変じたといいます。このとき十大弟子の阿難(あなん)、阿那律(あなりつ)等の比丘(びく)たちは入滅をいたむ詩偈(しげ)を唱え、さらに阿難と阿那律の法話をもってその夜を過ごしました。 そしていよいよ荼毘(だび)に付されることになり、在家の代表者が点火しようとしましたが、火はつくことなく7日間がたち、やがて嗣法(しほう)の弟子である摩伽迦葉(まかかしょう)が到着し、その手によって、ようやく火葬することができたといわれています。 その後、弟子たちは、遺骨と灰(はい)を分配して8つの舎利(しゃり)塔と瓶(びん)塔、灰塔の十塔を建立し、釈尊を恭敬礼拝(くぎょうらいはい)し続けました。 |