◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL188
江田島孔明
私が昨年より何度も力説してきたアメリカと北朝鮮、イランの関係改善への流れが強まってきた。
<参考>
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20080124AT2M2400I24012008.html
米国務長官、核開発問題で歩み寄り求める・イランと北朝鮮に
【ダボス=市村孝二巳】 ライス米国務長官は1月23日夕、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で講演し、ブッシュ政権の外交方針について「米国に永遠の敵はいない」と語り、イランや北朝鮮に核開発問題での歩み寄りを求めた。
イランに関しては前日に国連安全保障理事会の常任理事国とドイツの6カ国がイランに対する追加制裁案で合意したことに言及。「ウラン濃縮が停止されればいつでもどこでも私の相手と会い、何でも話し合う。これ以上強く招待しようがない」と述べ、同じくダボス会議に参加するイランのモッタキ外相との会談を要請した。
北朝鮮についても改めて寧辺の核施設の無能力化とあらゆる核計画の申告を迫った。(12:42)
思うに、昨年の今頃から、アメリカとイランとの間では戦争が起きるかのような情報操作が為されてきた。
私は、これは当初より、情報操作であり、関係改善は必ずなる、そして、この両国の関係改善とは、つまるところ、「イスラエル切捨て」であり、結果としてアメリカが19世紀のような、FRBすなわち国際金融資本に支配される以前の状態に復する事を意味する事を主張してきた。
これは、個々の報道や発表を分析して達した結論ではない。歴史の流れをアメリカが世界史に登場したポーツマス条約の仲裁をした頃に遡り、個々の事象ではなく歴史のフローを透徹した目で見通した結果だ。
春秋の筆法を借りるならば、20世紀をアメリカの時代と捉えるならば「アメリカが発展した理由の中にこそ衰退の原因が潜んでいる」という事であり、それがサブプライム問題に端的に現れた国際金融資本の限界だ。
ttp://www.afpbb.com/article/politics/2341492/2557751
ダボス会議でイスラエル外相、「イランの孤立化を」
2008年1月24日、スイス・ダボス(Davos)で開催中の世界経済フォーラム(WorldEconomic Forum)年次総会で演説するツィピ・リブニ(Tzipi Livni)イスラエル外相。(c)AFP/PIERRE VERDY
【1月25日 AFP】スイスのダボス(Davos
<http://www.afpbb.com/index.php?module=Linkword&action=Redirect&type=&word=%22Davos%22> )で開催中の世界経済フォーラム(World Economic Forum
<http://www.afpbb.com/index.php?module=Linkword&action=Redirect&type=&word=%22World+Economic+Forum%22> 、ダボス会議)の年次総会に出席したイスラエルのツィピ・リブニ(Tzipi Livni
<http://www.afpbb.com/index.php?module=Linkword&action=Redirect&type=&word=%22Tzipi+Livni%22> )外相は24日、世界各国の政財界要人に対し、イランでの経済活動から撤退し、同国を孤立させるよう要請した。
リブニ外相は「イランは世界的な脅威だ。イランを止められるのも、変化を起すのもあなた方だ」と強調。「富は社会生活だけでなく、政策決定にも重大な影響力をもつ」と語り、「これは個人の決断の問題でもある」と訴えた。
「ここに集まった企業や国の代表がイランからの撤退を決めればイランは阻止できる。決定権はあなた方の手中にある」
イスラエル政府は、原発建設を隠れ蓑に核兵器開発を行っているとしてイラン政府を非難しているが、イラン側はこれを否定している。一方のイスラエルは、公式には認めていないが、中東唯一の核保有国とみられている。(c)AFP
歴史を考える上で「統治のエトス」という言葉がある。現代のアメリカはそれが「資本」なのだ。資本は資本のインフレによって滅びる。
幕藩体制が土地問題を契機として成立し、土地問題を解決できず滅んだのと同じだ。
サブプライムに代表される資本の本源的問題とは、それがゼロサムゲームであり「ババ抜き」である事につきる。不断のインフレと不良債権増殖は究極的には財政赤字とその解消としての定期的戦争を不可避のものとした。これが30年戦争以来の世界史の本質だ。
問題は国際金融資本のシナリオが崩れた時に、どのような反動が起きるかだ。穿った見方をすれば、これは、コロンブスのアメリカ大陸発見以来の世界史の流れが変わる大転換点になるかもしれない。日本史においては幕府の崩壊は国家の崩壊を意味しなかった。なぜなら、朝廷を中心とする勢力がバッファーとなり、権力の委譲が平和裏に行われるという進んだシステムを保有していたからだ。この点、王朝交代が国家の崩壊と同義の中国史と比較すればいい。
国際金融資本のシナリオが機能してこなくなると、果たして何が起きるのか?まだ、正確には分からないが、「土地や自然への回帰」がキーになるのではないだろうか。
何故なら、減価する貨幣に価値を見出した結果、リアルな支配を失った反動があると考えられるからだ。その意味で、遙任国司が普通化した平安貴族や国防を丸投げしたローマ貴族に比肩できるだろう。
そして、リアルな支配を維持した層とバーチャルな支配の対立では前者が勝利するのは歴史の法則だ。その際の対立軸は、あるいは欧州のルネッサンスや明治維新の様な「復古」を模した革新ではないかと予想する。
つまり、世界規模での明治維新を提示しなければならない。そのために、鳥羽伏見の戦いがあるのか、あるいは本土決戦を回避できるのか。時間はあまりないが、私は人類の英知を信じたい。そして菅原道真・徳川家康・昭和天皇によって示された「日本モデル」こそが、人類文明の到達点であることを示したい。
そこにこそ、砂漠の神を戴く国際金融資本の限界を超える、「日本の解」、それはハーンやアインシュタインが認めた人類の英知があり、そこにこそ、日本史、日本文明の存在価値があると考える。これは、我々に課せられた文明の挑戦であり、拙コラムの根本命題だ。
<参考>
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/d31b66f59d12ff334d743549318f9cdb
<http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/d31b66f59d12ff334d743549318f9cdb> 「一神教」の問題と近代の超克
下記のろろさんのエントリーへのコメントなのですが、話が非常に大きくそれてしまうのでこちに描いておきます(素晴らしい内容のエントリーで、コメントも充実していますので、はじめての人はまずそちらをごらんください)
『日々是勉強』【情報操作】メディアリテラシーというものを教育できるのか
<http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-89.html%20>
http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-89.html
>本来のPublicというのは、共同体内のPrivateな経験の積み重ねの
>中で育まれ、言語だけに頼らない「合意」として蓄積されていくものだと思います。
転倒しているんですよね。具体的な生活なり感情なり経験があって、それに言葉をつけるというのではなく、言葉が先にあって、これに生活や感情を隷属させようとしているのです。そういう点では、右翼と左翼は全く同類です。
聖書に「初めに言葉ありき」というくだりがありますから、彼らは実は一神教信者なのではないでしょうか?
<<<<<<<<<<<<<<
いわゆる言葉で書いてある理想に隷属してしまう教条主義的な右翼・左翼は確かに「一神教的」ですね。
ただ、一神教そのものについては、少し元から考えてみる必要はあると思います。
まず、素人ながらに一神教の根本は何かということを考えるのですが、おそらくそれは「明示的な万能の理性」を権威とする父権的な共同体文化なのだと思います。
言葉というのは理性の明示化であり、宇宙の諸相は(究極的には)「全能の理性=父なる神」の言葉で言い表すことができるし、「実際に」そうなのだと。で、これは良い悪いではなくて、そういう自然条件にある共同体には自然にそういう文化・宗教が発生するのだと思います。
つまり、食糧生産に向いた土地が限定的で、広い地域に点在する共同体どうしが互いに交易等を通してなんとか生きていけるようなところでは、どうしても家族や個別共同体を越える超越的・抽象的でかつ明示的な存在にジャッジを委ねる必要がある、すなわち取引上の正当性を皆が認める「一つの神」に保証してもらうという必要があったのだと思います。
また、そのために使われる「言語」にも、嘘偽りのない厳格さと「力」が備わっていると同意形成をする必要があったでしょう。また、この延長上に普遍的な取引媒体である「貨幣」が発明されたのも自然な流れだと思います。
ここで、貨幣が単なる交換手段であるなら問題ない。父権的な一神教の教義そのものも、抽象的な概念・契約の範囲にあれば、実際の取引、すなわち共同体どうしの存続を維持するものである限り、何の問題もない、というよりも必要な文化であった。
これが問題化するのは、父権的教義が特定の人物や組織、あるいは貨幣のような形で実態化・固定化してしまったからだと思います。本来、伝統的宗教はそういう概念の固定化・実態化(仏教用語でいうところの『法執』)を抑えるために様々な制御機構を有しています。例えば特定人物・組織あるいは偶像崇拝の禁止であり、利子取得の禁止であり、万物の流転・循環を意味するメメントモリ・無常観であったはずです。
西洋の宗教に問題があるとしたら、伝統的宗教から「誰か」が巧妙にこの制御機構を無効化または「逆転」させて、大衆支配のために悪用した部分だと考えています。
私は、このアイデアを思いついたのは、ローマ時代の「被差別民」だったと推定します(あまり大きな声では言えませんが、キリスト教がローマで国教化された頃に活躍した教父たちの背後がとても怪しいと思っています)。その実際の仕掛け人が、カルタゴ後のフェニキア人か、ユダヤ人か、その特定はともかくとして、『彼ら』が積年の恨みと自己の身の安全を守るために先祖代々に渡って人間支配のノウハウを練り上げたと推定しています。これにより、かつての被差別民が、宗教闘争により「選民」となり、その後また新たな被差別民が多大な犠牲を払って次の「選民」になることを繰り返してきました。その度に宗教が本来守るべき共同体が崩壊し、滅亡した過去の民族の「怨念」が「狂った父」に注ぎ込まれたのだと思います。すでに守るべき共同体のない「狂った父」は、ただただ地球上の生命を去勢し、服従させるだけの存在になっていきます。
つまり、現在我々が、「一神教」や「科学万能・唯物思想」として否定的に見るものの根本は、本来の伝統的一神教ではなくて、以上のような過程を経て父権性があまりに肥大化した「破壊カルト」なんだと思います。
その父権的力の象徴が指数関数的に増殖する貨幣であり、国際金融資本は、共同体を失った人間が狂った父の力にとても強く惹かれることを知っており、それ利用している、ということだと思います。このような心性を持つ人が増えれば、あとはなるべく民衆が分裂するような教義・理念・法を与えて、それぞれに狂った父を掲げて(自称)「被差別民」であるという認識の下に、互いに憎しみあって殺しあい、その結果として『彼ら』に利益と安息の時を提供するという仕掛けが完成します。
以上は私の極めて大雑把な推察です。ただ、この推察が正しければ、すべての始まりに、宗教の制御機構を「逆向き」にすることで自らが得をする方法を思いついた人間嫌いの大天才がいます。
そして、なぜ彼がそういうことをしたかというと抑圧の歴史の中で、心に大きな「トラウマ」を抱えていたから、だと思っています(私が嵐の湖の底に垣間見た船は、この「トラウマ」でした。要するにカルトに染まったり、○○思想に染まって、自殺したり、仲間を殺すような人には、深い「トラウマ」があるということです)。
さらにその後、「狂った父」の象徴であり力である貨幣を増やすための様々な発明が生まれ、多くの人にトラウマが増殖し、世界規模での「うねり」となっていったのが「近代」でしょう。
だから、この流れを断ち切る最もシンプルな方法は、「狂った父」と直接戦うことではなく、そういうトラウマを持った人間をなるべく生まない社会にすることです。またはそういうトラウマのない人々がよく活躍できる社会にして、その中で自然にトラウマを持った人々がそれを消化するのを待つことだと思います。
最近、私は日本人や伝統的な共同体感覚が残っている人々に期待されている役割があるとしたら、そのような世界に広がる「トラウマ」の増殖を抑え、ゆっくり溶かしていくような「セラピスト」になることではないかと思うことがあります。
宮崎駿は、映画「千と千尋」の中に登場する「カオナシ」を、死の世界(沼地)からやってきた過去の欲望やトラウマに縛られる哀れな亡霊として書いていますが、あれは実際のそういった人間の(悲しくもどこか同情できるような)弱い心性を描いたものでしょう。
弱い心性であるからこそ、他人に対して過剰に服従を強いる態度にでてしまう。ニーチェは近代のキリスト教が抱える「ルサンチマン」に気が付いたけれども、それを昇華する方法として、やはり父性的な発想しか持てなかったのが彼の限界ではないでしょうか。
人々の心の中に広がる「カオナシ」のトラウマに、どのように対応していくのか。一つの方法としては、母性的な心性を持ちつつも、父性・母性双方の価値観を行きする勇気を持ったセラピストの育成であるように思います。
「千と千尋」を含め、最近のアニメやマンガで「戦う少女」や「普段頼りないけどやるときはやるみたいな少年」が多くでてくるようになっているのは、そうしたセラピストが現れてくることを待ち望む民衆の潜在的意識の現われだと私は思っています(ろろさんの好きな、というか私も好きだったサザンアイズのパイや八雲もその典型例であると思います)
映画「千と千尋」では、頼りない少女が人生の守・破・離を見事に成し遂げて、崩壊しかけていた世界のセラピストとなる様子が明快に描かれています。もちろん、現実の解決をはかるためには、映画とは異なった「守・破・離」のプロセスを個々人が成し遂げる必要があります。
そこでまずは『守』として、我々はなぜ日本が、明治維新という選択をしつつも、近年まで、そして現在でも、なんとか耐えてこれたのか、ままならない現実に憤るだけでなく、自らの存在と今日の気付きを支えてくれた有形無形の背景に想いを馳せる必要があると思っています。
私は単なる東洋的アニミズムの他に、我々の日本には多くの民族的な悲劇とそれを乗り越えてきた歴史があり、それに伴う深い心性の進化があったと思っています(先の大戦における犠牲というものもおそらくそうした歴史の中に位置づけてはじめて昇華できるものではないかと思っています)。
民族としての蝦夷、氏族としての物部は滅亡してもその心性は後の世に引き継がれ、広がりました。すなわち鎌倉仏教として後の世に花開き、さらに江戸文化の繁栄にもつながりました。
日本列島という風土が、様々な民族や文化の受け皿となり、東と西で大きく律動してきた歴史には、(多くの犠牲を生みながらも)縄文の心性が消えることなく、様々なものを溶かし込む「溶媒」へと進化(自己変革)してきたことが感じ取れます。
日本人の心の底には、滅びの美学があると、指摘する人もいます。確かにそういう面はあるかもしれない。ただ、もう少し正確には「たとえ身が滅ぼうとも我が精神は生きる」という気持ちが強かったのではないでしょうか。自他の「共苦」を受け止め、それを昇華する何かがそこに感じます。
私たちの先人が、狂った父である「一神教カルト」に相対しても、日本の文化が完全に崩壊しなかった理由の一つにそのような心性の深さ・柔らかさがあったと思うのです。
明治の頃から物事が見えていた人々というのは、日本が近代化するにあたって、そのような日本人の心性に、ある種の「賭け」をしたのではないでしょうか。昭和天皇が南方熊楠を愛していたのは、彼の中に日本人が近代を超克する光を感じたからではないでしょうか。
ただ、一方でその苦しみの中で亡くなっていった知識人も大勢います。先の大戦に関連してなくなった多くの将兵さんやその他の方々もある意味近代超克のための尊い犠牲のように思います。
近代超克のための作業は、アカデミズムや文壇などではなく、実際の戦場や戦前・戦後の経済において行われてきたと思います。そして、その戦いは今現在も形を変えて続いています。また、この戦いは、日本だけで展開しているわけではなく、世界各地で継続中であり、戦いに負けないためにはそれぞれの連携も大切だと思います。
今後、多くの人々が協力して、「死のみやこ」からどんなカオナシがやってきても、自然とトラウマが抜けるような社会を作ることが望ましいと思う。
そうした社会の構築に必要な材料は意外と自分の足元や心の中に転がっているように思う。
そして、以上の過程で最後まで我々が負けたと思わなければ、いずれ「必ず」近代は超克される。
<参考>
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/edajima/post_168.html
はっきり言えば、当時の日本は、革新官僚、昭和維新を目指す陸軍青年将校、知識人の主流は全て、「統制経済の共産主義者」であり、「国際共産主義ネットワーク」に牛耳られていたといっても過言ではない。これは、日本のみならず、大恐慌以降の世界的傾向だ。
例えば、アメリカでは、戦後、マッカーシー上院議員(共和党)が「205人の共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発したことを契機に、ハリウッド映画界などをも巻き込んで大規模な「赤狩り」を行った。
後にはニューディーラーまで対象となった。当時のアメリカ国内では現実にコミンテルンがマスコミや政財界、軍部まで取り込み工作活動を行っており、マッカーシーらの活動は、手法に強引さはあったものの、当時のコミンテルン人脈を断ち切ったと評価されている。
英国は周知のように、フィルビーやマクリーンのような情報組織や外務省の大幹部がソ連のスパイという有様だ。
なお、チャーチルは、後に第二次大戦回顧録で、日本の対米開戦すなわち真珠湾攻撃の知らせを聞いて「これで勝てる」と確信したという。真珠湾は、敗戦寸前だった英国を救う効果があった。
こういった世界的な背景で日本の南進を決定付けた「ゾルゲ事件」を理解すべきだ。ここまで読んでこられた賢明な読者はお気づきになられたであろう。そう、新春特別号その1、その2で述べたような17世紀のキリスト教布教と20世紀の共産主義の拡散とは、同じように、国際金融資本が当該国を精神面で支配するために使ったツールなのだということを。
そう考えると、国際金融資本の意図を正確に見抜き、キリシタンをご禁制にした17世紀の指導者と、共産主義者に国家の中枢を乗っ取られた20世紀の指導者と、どちらが優秀であったか、議論の余地は無い。
http://npslq9-web.hp.infoseek.co.jp/sls082.html
西欧で起きた産業革命以来、文明のモメンタムは、シーパワーに主導された「利益の追求」によってなされた。それを「資本主義」と呼んでありがたがってきたわけだが、弊害として、「共同体の喪失」や「自然環境の破壊」が起きた。
過去の文明の衰亡には、家族や地域の助け合いや相互扶助の欠乏というのは決定的に影響していた。日本もそのパターンにはまりつつあるのである。さらに西欧近代の自然科学を基盤とした進歩、競争するだけのベクトル、モメンタムは結局文明を衰亡させる。
かっての地中海沿岸が緑深き沃野だったのが、開発により緑(レバノン杉)を失いやがて滅びた。翻って日本の江戸期など山林開発に禁制を設け、枝一本は腕一本、一木は首一つといった重大な罪に問い、しかし260年の安定を維持したことの対比は重要である。
シーパワーは危機に際して、新たな枠組みを作ることによって先へと進み、未来を切り開いてきた。その先進性、開明性は今後「利益」、「個人」、「進歩的発展」から、「環境」、「共同体=個人ではなく他者との絆」、「持続的発展」へと向かうであろう。
その為に近代の枠組みを変える時が来たのである。提言としては、社会の最小単位である「結婚」の意味を再度見直し、具体的には、婚姻にあたり、双方が合意できる契約書を作成し、できるだけ紛争や利害を調停する枠組みを構築すべきである。ここをしっかりしていないから、容易に離婚に走るのである。
さらに、地域が今後の重要な社会集団となることは疑いなく、企業も社員の地域活動を積極的に後押しすべきである。地域の青少年と中高年の交流の場を設け、青少年の夢、未来に対して、中高年がバックアップし、積極的に投資する枠組みを設けるべきである。
華僑や金融資本がバイタリティーを失わない、真の理由はこのやり方を歴史的に維持することにより達成される世代間の連帯にある。この実現により、そのほとんどが中高年に所有されている、日本の1200兆円といわれる金融資産は有為な投資先として、次世代を担う「人」の育成に回るのである。無意味な金融商品で浪費するよりはるかにましである。
西欧のシーパワーは砂漠の神である、一神教をいただいていた。旧約聖書の十戒が「殺すなかれ」で始まっていることは、一神教徒の精神性を知る手がかりである。日本人の原点とされる十七条憲法の第一項が「和の尊さ」であることは彼らと比べて、日本人の精神性の高さを物語る。
日本人の精神性を語る上で、神道的多様性(八百万の神々)という思想は重要である。それぞれがそれぞれに貴いものを持ちながら、みんなで一緒に調和しつつ、しかもその全体が最適になる社会をつくるのだという発想が、日本人の原点にある考え方のだ。
砂漠の神を戴く一神教及び金融資本にフリーハンドを与えた結果、部分最適と個人の利益が極大化した結果、世界環境は重大な危機を迎えている。彼ら自身のパラダイムで現代の諸問題は解決できない。
新たなパラダイムは我々日本人が提案して示していかなければならない。日本こそが、ランドパワーを内部に包摂し、しかもシーパワーの論理性をも兼ね備えた文明を世界に示しうる。
多神教に依拠する縄文と弥生の頃から、日本の歴史は両者(ランドとシーの両パワー)の「対決から止揚」というパターンをとった。近代のパラダイムを相克することは、世界に唯一の「多神教シーパワー」日本にしかできない。
現代において、日本こそが人間と自然や社会の発展を高い次元で両立させているのであり、基盤である最古、最長の文明の縄文が一万年以上に渡って自然と調和を保ち持続的発展を遂げた意義を、再度見直さなければならない。
今後、日本は金融資本と直接、間接に向き合っていくだろう。そうした中で、金融資本が日本を飲み込むか、または、日本が金融資本を飲み込むかが、世界史の転換点になっていくだろう。
今こそ世界レベルでシーパワー諸国に日本の文明史的意義を訴え、理解、実践させるべき時なのである。「環太平洋連合」樹立の真の意味はここにある。
(江田島孔明、Vol.82完)
以上
(江田島孔明、Vol.188完)
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