◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL199
 江田島孔明


 中国で起きているオリンピックを巡る騒動の背景と、中国共産党の今後について、考えてみたい。

 まず、中国とは本質的にどのような存在であろうか。私は今まで中国を「ランドパワー」と定義してきた。この定義に誤りはない。中国はチベットやウイグル更には、最近の朝鮮半島に対しても、あくなき領土拡張というランドパワーの本能をもっており、狡猾、残忍性も十分すぎるほどだ。

 <参考VOL49より抜粋>

 さらに、私はかって、別の観点から、新たに中国を定義した。その定義とは「中国とは毛沢東という戦国大名の封土」である。少し、説明したい。
 まず、近代的意味での国家とは、「国民」のものでなければならない。これはフランス革命以来の鉄則であり、国によって官僚制や資本家の力の強弱こそあれ、「国民国家」という定義を否定できるものではない。

 言い方を変えると、「国家のオーナーが存在せず、指導者の民主的交代が有りうる」ことが近代国家の最低条件だ。
 しかし、ロシアや中国に代表される「ランドパワー」には、この定義が当てはまらず、それぞれ、スターリンや毛沢東が、内戦や外戦を勝ち抜いて建国したことをみても、いわば日本でいう、武田信玄や斉藤道三に代表される「戦国大名」とその領地に相当する「封土」と見た方が妥当であろう。

 戦国大名の本質とは、言うまでも無く「戦争に勝つ」ということで、戦争に勝ち残ったことをもって、支配の正当性としているわけだ。中国や旧ソ連の体制とは、そのように理解すれば、「近代的国家ではなく、あくまで毛沢東やスターリンといった大名の封土」という意味がわかるだろう。

 こういう「戦国大名体制」の問題点とは何であろうか。それは「戦争に勝った」大名を失えば、容易に滅びるということだ。これは、信玄を失った武田家や道三を失った斉藤家あるいは、三国時代の魏や蜀が曹操や孔明を失い、あっけなく滅んだことを見ればわかるであろう。ナポレオンやヒトラーやサダム・フセインも、この点において差は全く無い。

 要するに、旧ソ連の崩壊や現在の中国の争乱(確実に崩壊への序曲)とは、とりもなおさず「毛沢東やスターリンといった戦国大名(オーナー)を失い、その統治の正当性、能力を失ったため崩壊した」ということにほかならず、別の言い方をすると、江沢民や胡錦濤といった「戦争に勝った経験がなく、官僚でしかない人間」には、ランドパワー大国たる中国を押さえることができないのだ。

 もっとはっきり言えば、実戦の経験が無いランドパワーの指導者は、国内の反対勢力に「舐められる」のだ。これは、武田勝頼が、武田の宿老を制御できず、次々に謀反を招き、最後は天目山で自害した故事を知っていれば、容易に理解できよう。

 <参考>
http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/takeda_katsuyori.htm

 信玄が元亀4年にこの世を去った事は既に再三述べてきたが、その年は改元の年であった。元亀4年が天正元年に改められたわけである。家康はいち早く「信玄死す」の情報を掴み、武田方の支城を攻めると言う威力偵察まがいの行動を起こしている。
 そこで確かな手ごたえを掴んだのか、東三河の山岳部に割拠していた武田方の土豪・山家三方衆に調略の手を伸ばし、作手の奥平貞能を寝返らせる事に成功した。そして天正元年9月、長篠城を守っていた菅沼氏の撃退を成し遂げている。
 後には奥平氏を入れた。三河路を巡って武田との戦いの火蓋が切って落とされれば、この城は最前線になる。武田が裏切り者の奥平を再び受け入れる事はない。つまり奥平氏は、生きのびるために徳川の武将として死に物狂いで敵と戦わなければならなくなったのだ。

 高天神城を攻め落として勢いに乗る勝頼にしてみれば、これは到底看過できる状況ではなかった。長篠城は三河攻防戦の際の重要拠点となる。そしてその城には裏切り者の奥平が入っている。貞能の行為はつまり、勝頼の顔に泥を塗るようなものだった。ただでさえ老臣たちから軽んじられる傾向があったと言われる勝頼にとって、父信玄から代替わりのタイミングを見計らうようにしての裏切りは許せるものではなかったはずである。いつまでも放置しておけば、家中の士気にも障りが出る。思惑はいろいろあったのだろうが、天正3年(1575)5月に、勝頼の長篠城攻略に向けた戦いが起こされた。

 15,000の武田軍は、三河に侵入すると示威のために仁連木・吉田の両城(ともに豊橋市)を攻め、その守りが堅い事を知ると、長篠城を取り囲んだ。家康には単独でこれを退ける力は無く、岐阜の信長の出馬を待つよりなかった。武田軍に取り囲まれた長篠城の中には、守将・奥平定昌以下五百の兵が立てこもっていた。
 攻者三倍の話は既に別項で触れているが、それにしても長篠城の兵たちは自軍の30倍近い数の敵を引き受けざるを得なかったのである。小さいながらも堅城の条件を備えていた長篠城は予想外の粘りを見せたが、武田軍は少しずつ城に対する圧迫を強めていき、ついには兵糧庫までも奪う事に成功した。
 こうなると、いかに堅い城でも陥落は時間の問題である。ところが兵糧攻めの完成よりも早く、信長と家康の連合軍35,000、あるいは38,000が、城からさほど遠くない設楽原に到着した。勝頼にしてみれば城攻めどころではなくなった。

 武田の陣営では連合軍との一戦にのぞむか、それとも相手が攻撃を仕掛けてくるよりも早く撤兵してしまうかの議論が戦わされていた。連合軍は設楽原に柵を築き、その奥になりを潜めて様子をうかがっているという。歴戦の老臣たちはそれを聞き、撤退を主張した。
 数に勝る連合軍だが、その戦術が積極的攻撃策ではないと踏み、また防御態勢を整えた大軍の懐に攻めかかるのを下策であると考えたのだ。対する勝頼以下主戦派は、柵を信長・家康が臆病風を吹かせている証拠だと判断し、あくまで強気に決戦に臨もうとした。

 この議論の紛糾に信玄亡き後の武田家中の亀裂が集約されていた。長坂光堅や跡部勝資らは勝頼つきの武将だったが、信玄子飼いの老臣たちは彼らを軽んじており、勝頼におもねる「寧臣」と見ていたようだ。
 勝頼側の言い分が伝えられていないので、信玄世代の武将たちの実態までは明言しかねるが、「勝頼対老臣」と言う図式の対立ではなく、文字通り家中を二分する軋轢だったのである。
 なお、「老臣」「勝頼つき」などと表現したことが誤解を招くかもしれないので付記しておくが、光堅・勝資らと信房ら信玄子飼い達との間に年齢差はほとんど無い。そのため「この頃の武田家中の軋轢は、武功派と吏僚派の対立が勝頼を巻き込んでいたものである」とする見方も可能である。

 勝頼は軍議が平行線の袋小路に迷い込んだ時、決戦にのぞむ決断を下した。そして「御旗楯無、ご照覧あれ」の言葉を口にしたという逸話がある。御旗は平安の頃から伝えられる源氏の白旗で武田家の家宝である。楯無の鎧もまた、重代の家宝だった。
 この二つの前で誓った言葉は、決して覆せないと言うのが、武田家の不文律であった。ニュアンスで言えば、「天地神明に誓って」というのに近いのだろう。
 もともと豪族連合的な体質が強かった武田家において、当主を議長以上のものたらしめるために認められた優越権のようなものだろう。長篠の場合に関していえば要するに、「連合軍との対決はすでに決定してしまったから、どんな意見も聞き入れない」と言うのである。
 この軍議の後、武田四名臣と謳われた老臣の三人、馬場信房、山県昌景、内藤昌豊と、若年ながら信玄に見出され勇将の誉れも高かった土屋昌次は、今生の別れを告げる盃を酌み交わしたと伝えられる。
 四名臣最後の一人、高坂昌信は北信濃の押さえのためにこの戦いには参加していなかったが、信房らは信玄逝去の時に追い腹を切ろうとして、昌信から「死ぬ覚悟があるなら武田家のために戦って死ぬべきである」と諌められている。四人は、この設楽原を自らの死地と定めたのだった。

 5月21日未明、徳川軍の酒井忠次は鳶ヶ巣砦に陣を張っていた武田軍の別働隊に奇襲攻撃を仕掛けた。数で劣る武田勢は必死に交戦したが、多くの死者を出して敗北。
 武田信実(信玄弟)、三枝守友などの将が討ち死にしている。少し遅れて、設楽原で武田軍主力による一斉攻撃が開始された。各地を転戦した剽悍な甲州兵たちが、波頭のように連合軍の陣営に襲い掛かる。
 しかし、馬防柵の奥に控えた鉄砲隊による斉射を受け、将兵達は次々と倒れた。武田軍の突撃はなおも続いたが、時を追うごとに傷つき倒れる者の数が増えていった。ついには昌景や昌豊、昌次ら歴戦の勇者の討ち死にも相次ぐようになった。それとは対照的に、この戦いに参加した御親類(一門)の多くが無傷のまま戦いを終えるという、奇妙な現象も起こっている。

 いずれにせよ武田軍は壊滅的な打撃を受けていた。さしもの勝頼もついには撤退を開始したが、彼に付き従う者もわずかばかりとなっていた。
 最後まで生き残っていた信房は、しんがりとして決戦場付近に留まり、勝頼を安全圏まで逃がした事を見届けると、決然として自分の首を敵兵に差し出したと言う。一方、まさに命からがらで退却した勝頼は、途中の伊那駒場で高坂昌信の出迎えを受け、彼の計らいで武具・着物を取り替えて本国甲斐に帰着した。敗残の見苦しさを感じさせぬようにという、昌信の配慮であった。

 この戦いでは、連合軍も数千人単位の死者を出している。勝頼の遮二無二攻めかかるような采配のため、武田軍が受けた打撃と相応の損害を与えたとも言えるし、死を覚悟した大将格に率いられた兵卒たちが死兵と化していた関係もあったのかもしれない。
 しかし、両陣営に相当の痛みを残す結果になったとは言え、その意味合いはまったく違っていた。仮に、ボロボロに傷つきながら勝頼が連合軍を押し返す事に成功していたとしても、特に信長は、まだまだ余力を残しているはずである。
 戦国合戦では、相手に痛撃を与える事もさることながら、自陣営の損耗を最小限に押さえなければ別の敵に漁夫の利をさらわれる恐れがある。その意味で、勝頼の決断が匹夫の勇であったと言われ続けているのも、あながち間違いではない。
 かと言って、「信玄なら勝てていた」という見解にも同意しかねる。この戦いの指揮をとったのが信玄だったら、「負けはしなかっただろう」と言うのが率直な感想だ。信玄股肱の臣だった山県昌景は「決戦の時ではない、時節を待て」と勝頼を諌めたという話だが、信玄の判断もきっと昌景と同じものだっただろう。


■ 御館の乱
 長篠での大敗により、勝頼は積極策を打ち出すことが出来なくなった。勝利を収めた側の信長は、元亀3年にあった信玄侵攻の際、秋山信友率いる東美濃攻撃軍によって攻め落とされた諸城の奪還を果たしている。
 その時、岩村城を守っていた信友は信長に捕らえられ、信長の叔母に当る夫人とともに長良川で逆さ磔にされている。身近な脅威を取り除き、武田からちょっかいを出されることがひとまずはなくなったことで、信長の目は中央、そして西に向いていた。
 家康は東進するしかなかったので盛んに攻撃を仕掛けてきた。しかし、長篠に先立って勝頼が攻め落とした遠江東部の高天神城が家康の侵攻に対する防波堤としての役割を十二分に発揮したため、駿河までには本格的な影響力が及んでくる事は無かった。大賀弥四郎をたきつけ、家康を倒そうとしていたのもこの頃の事である。敵に当るにしても、力攻めではなく、極力謀略によらざるを得なかったと言うことだろう。多くの山々に囲まれた甲信の領土内に逼塞するような日々が続く。

 そんな中の天正5年(1577)、長らく後妻を迎えなかった勝頼は、北条氏政の妹を正室に迎えている。甲相同盟の強化のためだった。この期に両家の同盟は、不可侵同盟から攻守同盟に発展したと言ってよい。信長陣営の史料には見られない話だが、『甲陽軍鑑』は同じ年、勝頼が信長の申し出てきた和議を拒否したと伝えている。勝頼側に信長に対する徹底抗戦の意志があり、それが軍鑑の記述に反映されたものなのだろうか。

 翌天正6年(1578)3月13日。勝頼の父・信玄と長らく争い続けた上杉謙信が死んだ。上杉家では謙信の跡目を巡る争いが発生した。上杉の居館の名にちなんで「御館(おたて)の乱」と呼ばれ、これは武力衝突にまで発展した。
 相争ったのは、謙信が迎えた景勝・景虎という二人の養子である。「景勝」は謙信の姉の息子、血縁である。対する「景虎」は、小田原北条氏との同盟に際して迎えられた北条家の一門である。北条氏康七男・氏秀であるとするのが一般的だが、異説もある。ある意味では人質のような景虎だったが、自分の旧名を与えた事からも分かるように、謙信はいかにも義の人らしく、寂しい境遇の景虎を可愛がった。
 そのため景勝と景虎はおのおの、「謙信の血縁者である事」「生前の謙信から寵愛を受けた事」を根拠に、自分こそがその後継者たるに相応しいと主張したのだ。「景勝」は上中越の国人衆を味方につけ、上杉氏の居城である春日山城を掌握した。対する「景虎」は、謙信を養子とした前関東管領・上杉憲政の支持を取り付け、前述の御館に立てこもった。

 勝頼は当初、甲相同盟に則って景虎陣営に加わっていたようだ。対立する両者を調停する意志もあったといわれる。ところが、後には自陣営の不利を悟った景勝派が持ちかけた取引に応じ、最終的には景勝に味方している。
 その結果、一年に渡ったこの内乱は「景勝」派の勝利に終わった。これにより、甲越同盟が成立した。勝頼の妹・菊は景勝に輿入れしている。その返礼として景勝からは金が送られたと言う。また、上野(現在の群馬県)を武田の領地とする事も認められた。当時、上野の西半分は事実上武田家によって支配されていたので、この部分に関しては所領安堵すると言ったのと同じである。

 しかし、残りの東半分は北条氏の支配下にあった。北条との共闘態勢はすでに完全に崩壊していた。そればかりか、今度は北条・徳川間に協力関係が出来上がり、勝頼はかえって苦境に追い込まれる事になる。武田と北条の国境線は長大で、この全域に戦線を張る事は、対徳川氏戦略を考える上では大きな負担となって行った。これを挽回するために勝頼は、北条とは犬猿の中であった佐竹氏との同盟にも骨を折っているが、これはあまり目覚しい効果を上げられなかった。

 この間、天正7年(1579)には信勝の元服も済ませている。しかしこれは、信玄が定めた「成人」ではなく、一般的な通過儀礼としての元服だったようである。

■ 滅亡への道
 長篠で受けた痛手もそろそろ回復しつつあったとは言え、徳川と北条の両方を敵にまわす事になり、勝頼もひしひしと危機感をつのらせるようになっていたのだろう。
 天正8年(1580)の終わる頃から、本拠地を躑躅ヶ崎館から新府(韮崎市)へ移すべく、新城の築城計画を開始している。そして翌年の暮れ近くにはこの新府城に入城し、そこで新年を迎えている。新府城は、まだ土壁も乾ききっていない状態だったと言う。

 明けて天正10年(1582)。正月も終わらぬうちの27日、木曽谷の木曽義昌が信長に内通し、勝頼に対して反旗を翻したとの報が届く。義昌は勝頼の義弟にあたる人物だった。直ちに討伐隊が結成され、木曽谷へ向かった。対する義昌は、自領の要所に兵を配置する一方で信長に救援を要請している。
 信長はこれに応え、嫡男・信忠を総大将とする諸将を義昌救援のために派遣している。信忠以下の主力部隊は岩村口から伊那谷へ侵入した。伊那地方の武田方諸城では、戦わずしての投降、あるいは逃亡が相次いだ。また、援軍を得た義昌は討伐隊を一気に打ち破る事に成功している。そのまま、木曽口から松本平に進入しているが、ここでも武田勢の抵抗らしい抵抗はなかった。逃げた多くの武将の中には、信玄の弟・信廉もいた。

 時を同じくして、家康も駿河への侵攻を開始した。長らく彼を悩ませ続けた高天神の城も前年に攻め落としており、徳川軍の進撃を阻むものは無かった。そればかりか駿河を治めていた穴山信君もまた、本領安堵を条件に家康に降伏した。
 木曽義昌は勝頼の義弟だったが、信君は義兄である。信君の離反は、息子の勝千代と勝頼娘の婚約を一方的に破棄され、その上勝頼が娘を武田信豊(信玄弟・信繁の息子)に嫁がせた事に不満を募らせたためなどと言われる。この件に関して言えば要するに、御親類衆同士の権力闘争のもつれが信君の離反につながったということになる。しかし、それ以前から信君と勝頼が不仲であったとする見方も強い。

 その信豊であるが、木曽討伐隊に参加していたものの、逆に撃退されて新府城まで撤退していた。織田軍を相手に決死の抗戦を遂げたのは、高遠城にいた勝頼の異母弟・仁科盛信(生母油川氏)だけであった。高遠城では盛信以下の城兵のことごとくが討ち死にするまで戦い続けたと伝えられる。しかし、所詮勝敗の行方は見えていた。高遠城は3月2日に落城した。そしてその報せは、その日のうちに新府城の勝頼のもとに届けられたようである。

 高遠落城の報せを受け、新府城では今後の動きを協議する軍議が開かれた。実質的に、「どこへ落ち延びるか」の一点についてのみ、議論が交わされたようである。
 真田昌幸は、彼の城である上田城に落ち延びるよう進言したといわれる。これに対し小山田信茂は、自分の居城・岩殿城へと逃れるように提案した。先々代である信虎の妹が輿入れして以来、小山田氏は御親類衆の中でも筆頭に位置付けられていた。
 後の歴史から見れば上田城が大軍の攻撃にも耐えうる城である事は自明であるが、岩殿城は当時から天嶮として知られていた。また、信茂が家中でも強い発言力を持っていたこともあり、勝頼は信茂の進言を受け入れ、岩殿城へと撤退する事に決めた。

 この時、木曽攻めから敗走してから勝頼と行動をともにしていた信豊が、勝頼との別行動を選んでいる。表向きは自領に帰って兵をまとめ、勝頼を追撃する敵兵を奇襲するためという事にしての行動だったが、実際には勝頼を見捨てて自領に逃げたと見るべきだろう。しかしその信豊も、逃げ帰った領地で自分が部下に見限られ、自害して果てている。

 一方、岩殿城への逃避行を選んだ勝頼は、結局その先で信茂の謀反に遭っている。「人質」状態にあった自分の母親を手元に戻した直後、信茂は勝頼に向かって鉄砲を撃ちかけた。信茂の場合は、敵と内通しての謀反ではなかった。小山田氏はもともと甲斐の有力国人で、信虎が自分の妹を「差し出す」という懐柔策で従えていた事もあり、武田家中でも特別扱いの独立勢力であるような気風が養われていたといわれる。
 その結果、自分の領内の安寧をはかるために、土壇場で勝頼を裏切るような行動に走ったなどともいわれる。しかし、信君は許した信長も、信茂に対しては厳しい態度で臨んだ。最後の最後で主君を売った不忠者であり、信用するに値しない人物として処刑している。

 信茂の裏切りを知った勝頼は、「もはやこれまで」と悟り、天目山棲雲寺を最期の場所に選び、ここを目指した。新府城を出たときに六百余人いたという従者が、田野(東山梨郡大和村)に着いた時には41人になっていた。ここで勝頼は、最後の一戦に臨んだようである。相手は滝川一益隊の先兵であったとも、落武者狩りのような連中だったとも伝えられる。

 戦いの混乱が一段落した時、勝頼は息子・信勝、夫人・北条氏、そしてここまで付き従ってきた人たちを集めた。自害に先立ち、信勝は正式に武田家の家督を相続したという逸話がある。武田家の伝統では、嫡男は元服の時に家宝である楯無の鎧を身につけ、家臣たちを前に自分が世継ぎである事を宣言する事になっていた。そして、その場には公卿か、同盟関係にある大名が列席するのが慣わしになっていた。信勝は、公卿や大名の代わりに、最後まで付き従った家臣・土屋昌恒を前に、この儀式を行った。このとき信勝16歳。信玄が定めた「成人」の歳だった。信勝は、家督を相続し、そして死んだ。

 400年続いた名門武田家の最後は、見るも無残な自壊であった。勝頼は享年37で鬼籍に入った。



 胡錦濤は、以上のことをよく自覚しており、国内の不満をそらすため、手段として「オリンピック」を用いた。逆に言えば、「オリンピック」しか愛国心を喚起し、国内の不満を外に向ける手段がない。

 かの国の言葉でいえば、まさに『守成は創業より難し』を地で行くものだ。家族経営の中小企業も、世代交代とともに衰退することはよくあることで、それがおきていると見るべきだ。


△ 『創業は易く、守成は難し』 について、中国史に学びたい。

 中国史の中で理想の人物を上げると、多分春秋・戦国期の英雄、あと始皇帝、劉邦・項羽、三国志の曹操・孫権・劉備などの君やそれを補佐する臣(張良・諸葛亮)だろう。・・・この人達に共通することは、創業時の君と臣ということ。
 確かに劉邦は、漢帝国という東アジアの長期大帝国のもとを築いたが、漢の武帝も有名。武帝を除いて、大体はその国を建国する英雄だが、つまり「創業時」の名君、名臣だ。

 6世紀から8世紀にかけて、中国だけでなく周辺地域に政治・経済だけでなく文化を含めた大ランドパワー「唐」が建国される。今風に言えば、東アジアの「ガリバー帝国」と理解していただけたら良いのではないか。

 悪政(実は「大運河」建設など経済的に大貢献している)で名高い「隋の煬帝」の後中国を統一して建国された国。この国は先君を追い出し、また後継者争いもあり、建国当初は、非常に不安定な体制だった。まさに「武」によって建国した以上、「武」により滅びる可能性もあった。

 それを救ったのが第2代皇帝太宗で、「貞観の治」という安定した政治を行う。その姿勢は「至誠をもって天下を治める」というように、部下の進言をよく聞き入れたと言うことに尽きるとか。また、当然彼に使える部下は名臣という人材が溢れていたようだ。

 その中で注目すべきは「創業と守成といずれが難き」かという問答。名臣と知られる房玄齢は、「覇権の帰趨はいまだ決せぬ世にあっては、英雄達がいっせいに旗を挙げ、互いに生死を賭して争うでしょう。力ずくで相手を屈服させ、覇権を握ろうとします。ですから、創業のほうが困難であります」つまり建国の方が大変だと主張。

 一方、魏徴がこれに対して、「古来より、帝王たるものを推測するに、いずれも艱難辛苦の末に、ようやく天下を得たが、それを失うのは、きまって安逸を貪ることによってであります。ですから守成の方が困難であります」と反論した。

 太宗は暫し考えた後、このように切り出した。

「房玄齢は、余とともにして天下を取り、百死をくぐり抜けて一生を得た。だから創業の難しさを知っている。魏徴は、余とともに天下を安泰に導くことに腐心している。常々富貴に慣れるところから驕奢の心が生じ、物事を忽せにするところから禍乱の種が芽生えることを心配している。だから守成の難しさを知っている・・だが創業の困難は既に過去のものになっており、守成の困難こそ今後の問題である。諸公ともども心して取り組まねばなるまい」

 第2代唐皇帝太宗の立場であれば、創業よりも今後はむしろ守成の方が大事であるとの言葉だった。



 おもうに、毛沢東やケ小平は創業者であり、実戦経験も豊富だが、二代目、三代目の江沢民、胡錦濤は、苦労知らずのただの役人にすぎない。彼らは権力基盤が弱く、自らの延命をはかるため、「反日」をあおり、結果として、日本を敵に回した。

 毛沢東が日中国交回復を仕掛け、日本の資本と技術で中国を成長させ、真の脅威は国境を接するソ連と認識し、台湾問題を、21世紀に先送り(実質的に放棄)した戦略は「ランドパワーとシーパワーは棲み分けるべき」という地政学戦略に合致している。

 彼(毛沢東)は地政学を学んだわけではないが、戦略の本質を実戦で身に付けたのだろう。胡錦濤は毛沢東に遠く及ばない。これにつきる。

 言うまでも無いが、中国の歴代王朝にとって日本は鬼門であり、「日本を敵にしたを勢力は確実に滅んでいる」。元、清、国民党・・・ここにも、「ランドパワーとシーパワーは棲み分けるべき」という地政学戦略は当てはまる。

 そして、このような視点からみれば、毛沢東とは、韓の高祖劉邦(共に農民出身のたたき上げ)であり、蒋介石は、項羽(ともにエリートだが敗れた)だったのだ。
 今起きていることは、まさしく後漢の崩壊であり、圧倒的なカリスマ指導者がいない以上、今後は三国志(魏を支配する胡錦濤=ランドパワーと、呉を支配する江沢民以下、上海閥=シーパワーの闘争)の幕開けとなる。

 まさしく、2000年前と変わらぬ文明の本質を備える中国において、「歴史は繰り返す」わけだ。


 思うに、中国の指導者は毛沢東の右に出るものはなく、彼の採った地政戦略は参考になる。

 毛沢東の戦略は一貫しており、「日米を利用し、中国を発展させる」そのために、田中や三木を利用した。それが日中国交回復だ。
 胡錦濤の不幸は、同じように利用しようとした相手が福田康夫という、田中角栄には比べるべくもない「小物」だということで、自民党の命脈も尽きつつある。
 この時期の福田康夫と会見して、何を合意できるのか?今回の訪日は、双方に大きな汚点を残す以外の結果は考えにくい。
以上
(江田島孔明、Vol.199完)


(注) 目次の頁へ戻るには、左上の「戻る」を押して(クリックして)下さい。