◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL201
江田島孔明
前回は、ランドパワーにとって、最大の問題が「後継問題」である事を論じた。今回は、自民党の最大の問題が、同じような後継問題であることを論じたい。
自民党を理解する上で、その歴史を見ていくと、「政局」を築いたのは、田中角栄を除いては、岸信介、三木武吉、後藤田正晴の三氏しかいない。まず、岸と三木については、結党すなわち「保守合同」がそもそも、両者の談合によってなされた。
1955年4月13日、三木は保守政党の結集を呼びかけ、そのために鳩山内閣が障害となるなら鳩山内閣総辞職も辞さないと発表する。三木は、日本社会党統一に危機を抱いていた。また、この時期、医者から癌のため余命もって3年を宣告されていた。三木は党内合意を取り付けに動くと同時、に自由党に工作を開始する。
同年5月15日、三木は自由党総務会長の大野伴睦と会談を持つ。大野は戦前以来の鳩山側近であったが、嘗ては鳩山とは敵対関係であった三木が鳩山の一番の側近に納まったことで、居場所を失い、鳩山の許を去ったと言う事情があり、三木が最も恨まれていた相手の一人であった。だが、三木は浪花節と愛国の情をもって、巧みに大野をかき口説き、大野の賛成を得る。
岸・三木・石井・大野四者会談が持たれ公式に自由・民主両党間で保守合同に向けて動き出す。これに対して民主党内では三木武夫、松村謙三らが保守二党論をもって反撃する。議論がまとまらない中、鳩山首相は涙ながらに内閣総辞職を口走り、これに慌てた一同は保守合同に賛成することになる。
しかし、最後に総裁に誰がつくかをめぐり自由・民主両党は議論が平行線をたどった。結果、総裁を棚上げし、総裁代行委員を設置、結党後、公選により総裁を選出することが決定された。
こうして、困難と思われた保守合同が成し遂げられ、日本初の統一保守党・自由民主党が結成された。三木は、鳩山、緒方、大野と共に総裁代行委員に就任した(5ヵ月後、鳩山が自民党総裁に就任)。
この際、三木は「(総理は)鳩山の後は緒方、岸、池田とここまでは予想できる」と論評した一方、保守合同した自民党については、党内に複雑な対立関係が存在したために「10年持てば」とも評していた(総理の流れは、急死した緒方の代わりに石橋湛山になったこと以外は的中させている。また自民党崩壊論については、衆議院第一党としての位置は50年後の現在も崩されていない)。
そして、後藤田を私が政局のキーパーソンに挙げるのは、言う前も無い「金丸逮捕」に踏み切ったからだ。ここから、経世会分裂、自民党の「野党転落」という、現在に連なる、大きな政局が生まれた。
<参考>
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage138.htm
平成5年3月6日、東京地検は、自民党元副総裁の金丸信と秘書の生原正久を、所得税法違反(脱税)の容疑で逮捕した。金丸は、前年の「<http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage119.htm> 佐川急便事件」で、巨額の金を受け取っていながら申告していなかったことで略式起訴されていた。しかし世論は、略式起訴で片付けてしまった検察に強い不満をもっていた。
そのような状況の中、金丸が、日本債券信用銀行の割引金融債「ワリシン」を大量に購入しているとの情報を得た。
そこで、東京地検が、金丸の事務所・自宅を家宅捜索した。この結果、金丸の金庫から何とワリシンなど70億円の有価証券類がでてきた。このワリシンは3000万円以下であれば無記名で購入が可能で、脱税する側は都合が良かった。更に、金丸は名義を分散して複数の銀行口座を使うなど悪質であった。
−ゼネコンとの癒着−
政界のドン金丸は、ゼネコンからの資金がベースになっていた。正規の政治献金以外に、巨額の盆暮れの付け届けや闇献金でワリシンを購入して、所得申告をせず金庫に貯め込んでいた。
捜査は、このゼネコンも対象となった。東京地検・特捜部は、金丸の献金元であるゼネコン20社の家宅捜索を実施。そこで押収した各社の帳簿から賄賂授受の実体が明らかにされる。
平成5年6月末、宮城県・仙台市の石井亨市長が、市の公共工事の発注に伴う賄賂1億円をハザマ、西松建設、三井建設、清水建設の4社から受け取っていた。更に茨城県、埼玉県などの市長、知事なとが逮捕される。
ゼネコンも上記4社以外に大成建設や鹿島などの会長・社長等も逮捕され、24人が贈賄容疑で逮捕、起訴された。
金丸の追徴税額は、43億円を超えると見られていたが、平成8年3月26日、山梨県の自宅で脳梗塞によって死去した為、公訴棄却となった。
このように考えると、現在のの政治家には、このような意味で「政局」を作りうる、「大物」が不在で、それが自民党の限界を生んでいる点、が理解されるであろう。
何故なら、自民党の最大の問題とは、「世代交代により二世が増え、優秀な政治家がいなくなった」事につきる。そして、優秀な政治家とは「政局をつくり、政局に勝利し、国会での多数派を押さえる」事ができる人間をいう。
与野党を見渡しても、このような政治家は小沢一郎しかいないのが現状だ。
国会での多数派をとるためには、保守改憲路線や構造改革路線だけでは、決して不可能であり、「左派との連携」や「地方の支持」も絶対に必要である。そして、自民党の結党とは、そのような諸々の勢力の統合がなったということであり、そのバランスの上に、日本を支配していた。
これは、実は、戦前から続く「満州ランドパワー人脈」を抜きにしては語れない。
前提として、自民党がシーパワーであったのは、終戦直後から、占領を回復する、いわゆる「吉田時代」でしかない。
その後、児玉や笹川といった「巣鴨大学同窓生」を岸が使いこなした事をみてもわかるが、自民党とは、「米ソ冷戦を背景として、対米協力を条件に釈放された満州ランドパワーによる連立政権」という本質を備えていた。追放解除や逆コースの意味はそこにある。アメリカはランドパワーをパートナー認定したのだ。
自民党結党の資金の出ところがそれを如実に証明している。
児玉が上海から持ち帰った資金(現在の時価にして3750億円)を海軍に返還しようとしたというが、この資金は、調べられれば、汚れた金であることがわかってしまう。
それで、戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は、児玉に処分を依頼。旧海軍の資産のため、アメリカも没収せずに宙に浮いた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた有力右翼でヤクザの親分辻嘉六に勧められて、この資金の一部を鳩山ブランドの自由党の結党資金として提供した。
<参考>
------------引用開始--------------
http://stocksaurus.hp.infoseek.co.jp/kodamayosio.html
児玉は、その後、津久井龍雄主宰の「急進愛国党」に移籍。天皇直訴事件、井上準之助蔵相脅迫事件、内大臣・宮内大臣暗殺未遂事件等で起訴され、各実刑で懲役に服し、昭和12年に出所。
外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察。昭和14年、河相の斡旋で外務省情報部嘱託となり、上海を拠点に情報活動に従事する。
開戦直前の昭和16年11月、国粋党総裁笹川良一の仲介で海軍航空本部嘱託となり、上海に軍需物資調達のための組織「児玉機関」を作る。後に児玉の片腕となる岡村吾一も児玉機関の幹部の一人であった。
終戦後、東久迩内閣の参与となったが、内閣総辞職で解任。昭和21年1月、戦争協力容疑で巣鴨プリズンに収容される。
この巣鴨には、 笹川良一、岸信介もいた。昭和23年12月、釈放となる。
児玉機関は物資の調達だけを請け負い、軍事行動には関与しなかったというのが釈放の理由だったようだ。この収容期間中に通訳として知り合ったのが、後にロッキード社の日本向け広報業務を請け負い、児玉とロッキード社との仲介役を果たすことになるジャパン・パブリック・リレーションズ社の社長で、日系二世の福田太郎だ。
児玉は日本へ引き上げてくる際に、膨大な額の宝石類を横領したのではないかと言われているが、真偽は決着がついていない。
ロッキード事件で、同社から巨額の対日工作資金を受け取ったとして、脱税と外国為替管理法違反で起訴された。
------------引用終了--------------
そうであれば、自民党政権とは、煎じ詰めて言えば、「アメリカとランドパワーの談合」によって成立した組織といえる。これが、満州国で実験された、「国家社会主義の焼き直し」としての、高度成長期の日本の本質だ。このランドパワー人脈は、朴正煕の韓国とも結び、朝鮮半島へも続いていた。
自民党の本質をこのように理解すると、色々なことがわかる。つまり、自民党とは、その本質は「ランドパワー」であるということ。
そして、ランドパワーの宿命として、内部統制の難しさを常に抱え、それは、戦前の「満州人脈」が機能することで、初めて達成できるものであるということ。
最後には、そのような人脈の相続が岸信介以降の世代において、結局はできなかったため、崩壊するという、まさに、勝頼が武田を滅ぼしたのと同じ運命を辿ると言うことがわかる。
この事を、自民党の歴史を見ることで、検証したい。まず、佐藤栄作は岸信介のバージョンダウンであり、岸のグリップも効いていた。つまり、この頃までは、上述のランドパワー人脈が機能していたといえる。
佐藤内閣は、1972年5月15日の沖縄返還を実現すると退陣した。その後を受け継いだのが、田中内閣である。首相となった「田中角栄」は、小学校しかでていないのに首相にまで上り詰めた人間として、学歴社会である日本の庶民から「今太閤」(現代の豊臣秀吉)とよばれて人気があった。
田中内閣の進めた政策は、「日中国交回復」と「日本列島改造」であった。佐藤内閣の末、1972年2月、アメリカのニクソン大統領は突然、訪中すると、「米中共同声明」を発表し、米中国交回復を行った。
この突然のアメリカの行いに世界は仰天した。それまで、中国(中華人民共和国)をソ連とならんで敵視してきたアメリカの世界政策の大きな転換であったからである。
世界中の国がびっくりした中で、もっともショックを受けたのが日本であった。日本はアメリカの世界戦略の中で、安保条約のもとに、ソ連、中国に対する軍事的な防波堤の役割を担わされてきたからである。
また、中国敵視政策の中で、台湾(中華民国)政府を中国の正式政権として付き合ってきたのである。ニクソン訪中は、最大の同盟国であったはずの日本にはまったくの相談も連絡もなく行われたことに、当時の佐藤首相は「裏切られた」と語った。
アメリカにとっては、所詮、日本は「大国」ではなく、従属国でしかなかったのである。アメリカ政府のこの歴史的転換は、中国とソ連との対立が激しくなったことが原因である。
社会主義の路線対立から、中国はソ連批判を強め、国境に於いては武力衝突にまで発展していた。アメリカは、この機会を利用して東側陣営の分裂を図るとともに、泥沼化していたベトナム戦争解決のために、ベトナムの後方にいた中国の力を借りようとしたのである。
まさに、アジアの地政学的パワーバランスが一夜に変化し、自民党政権は、それを読みきれなかった。これは、例えば、戦前の独ソ不可侵条約締結時の平沼内閣の対応を見ても分かるが、日本の伝統的な、「オオボケぶり」を発揮したといえようか。
この時点で、アメリカはアジアのパートナーを北京にし、日本に対しては、経済的なライバルとみなして、攻勢に出たのだ。これが、ニクソンショックから、プラザ合意さらには、内需拡大から土地バブル、そして80年代末のバブル崩壊へと繋がる。
つまり、ベトナム戦争による疲弊から、冷戦時の対日保護育成政策、すなわち、日本をジュニアパートナーとする戦略を放棄し、北京をパートナーとしたわけだ。自民党政権存立の基盤がここに、失われたといっていい。
むしろ、冷戦状態を背景に、妥協してきた日本のランドパワー人脈を、この機会に整理しようとした。これがロッキード事件の本質だ。
ここから、自民党は、田中政権の成立と退陣以降、「戦国時代」に入る。つまり、満州人脈に属さない層の台頭すなわち下克上と、内部抗争の時代だ。
福田と田中の総裁選から40日抗争にいたる闘争の本質は、岸信介が築き上げた国家社会主義ランドパワー政党自民党の、「満州人脈の跡目争い」だ。
結果として、満州人脈の相続は「誰もできなかった」。福田は所詮官僚であり、田中は満州人脈を動かせるほどの見識もキャリアもなかった。結果として、日中国交回復という形で、ランドパワーに絡めとられてしまった。統一教会や勝共連合等も同様に。
言い換えれば、天才岸信介個人の芸術作品である「自民党」を、第三者が相続する事など、所詮は不可能だったのだ。
武田信玄と山本勘介が作り上げた「武田家」の相続が、結局はできなかったように。
これは、戦前の満州で、陸軍や官界を押さえ、国家社会主義を実践し、その後、敗戦や巣鴨プリズンでの生死の境をさまようとい、極限の経験をした人間でないと、到達できない高みがあり、二世や三世では、そもそも、不可能ということだ。
戦略家は一代限り。芸術家の相続が不可能なのと同じように、戦略家の相続も不可能だ。
アメリカは、かって、ベトナムから手を引くため北京と手を組んだように、イラク戦争の泥沼から抜け出すため、平壌とも手を組もうとしている。
地政学的パワーバランスの変化は、株や為替が大きく動く、つまり国際金融資本にとって、「勝負どころ」だ。これは、欧州の三十年戦争やナポレオン戦争、二度の世界大戦、ベトナム戦争を通じて見られる近代の特徴だ。日本は、またもや、国際金融資本の餌食になるのか?
同じような国家の転換期、混乱期は、かっては、戦国時代や幕末において、みられた。その際、日本を救ったのは正統政府である室町幕府や江戸幕府ではなかった。織田徳川や薩長といった、新興勢力が、旧勢力を打倒し、新政権を立ち上げたのだ。自民党も同じ運命を辿るであろう。そして、現在の織田徳川や薩長はネットに集う、我々だ。
以上
(江田島孔明、Vol.201完)
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